富樫稙泰は加賀守護。一向一揆に擁立された傀儡君主で、実権はなかった。享禄の錯乱で小一揆に与するも敗北し、越前へ亡命。その生涯は傀儡化された権威の悲劇を体現した。
富樫稙泰(とがし たねやす)の生涯を理解するためには、まず彼が家督を継承する以前に、加賀国(現在の石川県南部)の政治情勢が決定的に変化していた事実を把握する必要がある。その端緒となったのが、長享2年(1488年)に勃発した「長享の一揆(加賀一向一揆)」である。この一揆において、時の加賀守護であった富樫政親は、浄土真宗本願寺派の門徒(一向宗徒)によって高尾城に攻め滅ぼされた 1 。この事件は、単に一個人の守護大名が敗死したというだけにとどまらず、加賀国における守護領国制の事実上の崩壊を意味した。政親の死をもって、鎌倉時代以来の名門であった富樫氏は、加賀国における実権を完全に喪失したのである 4 。
政親の没後、加賀国は「百姓の持ちたる国」と称される、特異な統治体制へと移行する 2 。これは、本願寺から派遣された坊官や現地の有力寺院、そして国人層が一体となり、約100年間にわたって自治を行った、いわば宗教勢力による共和国であった 4 。しかし、この一向一揆勢力は、富樫氏を完全に排除したわけではなかった。彼らは、政親と敵対していた同族の富樫泰高(稙泰の祖父)を新たな守護として擁立したのである 11 。これにより、以降の富樫氏当主は、実権を持たない名目上の君主、すなわち一向一揆の「傀儡」として存続することになった 13 。
なぜ一向一揆は、武力で国を支配下に置きながら、旧来の権威である富樫氏を名目上の守護として存続させたのか。その背景には、深い政治的計算が存在した。一向一揆は加賀国を武力で制圧したものの、彼らは室町幕府から公認された統治者ではなかった 15 。一方で「守護」という職は、室町将軍によって任命される公的な権威の象徴であった 16 。一向一揆は、富樫氏を名目上の守護として擁立することで、幕府や周辺の守護大名といった外部勢力に対して、自らの統治の「公的な正統性」を擬態する必要があったのである。富樫氏は、一揆支配を外部に正当化するための、不可欠な政治的装置として機能した 14 。
富樫稙泰は、まさにこのような「権威はあるが権力はない」という極めて矛盾した状況下で、守護家の家督を継承した人物である。彼が生きた16世紀前半は、応仁の乱以降の混乱が続き、室町幕府の権威が地に堕ち、各地で守護代や国人が主君を凌駕する下克上が頻発した時代であった 16 。富樫氏の運命、そして稙泰の生涯は、旧来の守護大名体制が崩壊し、宗教勢力という新たな権力構造が台頭する戦国時代の大きな潮流を、最も象徴的に体現する事例と言える。本報告書は、富樫稙泰の生涯を徹底的に追跡し、彼が直面した政治的選択とその結末を分析することで、傀儡化された権威の悲劇と、戦国時代という時代の転換点の本質を明らかにすることを目的とする。
富樫稙泰は、文明6年(1474年)頃に生まれたとされる戦国時代の武将である 19 。その生涯は、天文4年(1535年)5月11日に終焉を迎えた 19 。通称は仮名次郎(とのつぐ)と称し、官位としては代々富樫氏の当主が名乗った加賀介(富樫介)を称した 19 。
家督相続の経緯については、いくつかの史料的訂正が必要である。稙泰の父は、長享の一揆で一向一揆に擁立された富樫泰高ではなく、その子である富樫泰成(やすなり)であった 19 。しかし、父・泰成が早世したため、稙泰は祖父である泰高の後継者として指名されるという、やや変則的な形で家督相続の道を歩むこととなった 19 。すなわち、稙泰が継承したのは、かつて加賀一国を支配した守護大名の権力ではなく、一向一揆によって名目上存続を許された傀儡政権であった 11 。
稙泰の若き日の動向として、明応2年(1493年)の記録が注目される。この年、室町幕府が加賀国の北半国を播磨守護の赤松政則に安堵した。これは、加賀における一向一揆の勢力拡大を牽制する幕府の意図があったとされるが、同時に名目上の守護である祖父・泰高の権威が一層低下することを意味した。この事態を憂慮した稙泰は、当時滞在していた京から加賀へ帰国したと伝えられており、若年から自らが置かれた不安定な政治的状況を敏感に察知していたことが窺える 19 。
稙泰は当初、恒泰(つねやす)と名乗っていたが、後に室町幕府10代将軍・足利義稙(よしたね、初名:義材)から偏諱(へんき)を受け、「稙泰」と改名した 19 。この改名は、単なる慣習に則ったものではなく、実権を失った富樫氏が自らの存在価値を必死に示そうとした、重要な政治的行為であったと解釈できる。
偏諱とは、主君が家臣に自身の名前の一字を与えることで、両者の間に特別な主従関係を構築し、それを内外に示す儀礼である。稙泰が将軍・足利義稙から直接一字を拝領したという事実は、富樫氏が依然として幕府、すなわち当時の日本における最高の公的権威と直接的な繋がりを持つ由緒ある家柄であることを誇示するものであった 19 。これは、国内で実権を握る一向一揆に対して「我々は単なるお飾りではなく、幕府と繋がる公的な存在である」と牽制すると同時に、周辺の武家勢力に対して「我々こそが加賀における正統な守護である」と主張するための、数少ない象徴的な武器であった。この「稙泰」という名前は、実力を失った者がわずかに残された権威にすがるしかない、当時の富樫氏の苦しく、そして絶望的な立場を如実に物語っている。
富樫氏内部の複雑な関係性を理解するため、以下に略系図を示す。特に、長享の一揆で対立した政親流と泰高流の位置関係、そして稙泰の家督相続の背景を明確にすることが目的である。
人物名 |
生没年 |
続柄・概要 |
富樫成春 |
不明 |
富樫氏20代当主。政親の父。 |
富樫政親 |
? - 1488年 |
成春の子。富樫氏21・23代当主。長享の一揆で一向一揆に敗れ自害。 政親流 。 3 |
富樫泰高 |
1418年? - 不明 |
政親の大叔父。長享の一揆で一向一揆に擁立され、政親に代わり守護となる。 泰高流 。 11 |
富樫泰成 |
不明 |
泰高の子。早世。 19 |
富樫稙泰 |
1474年? - 1535年 |
泰成の子、泰高の孫 。本報告書の主題。祖父・泰高の後継者として家督を継承。 19 |
富樫泰俊 |
1511年? - 1574年 |
稙泰の長男。大小一揆で父と共に敗走。後に家督を継ぐも、越前で一向一揆に攻められ自害。 25 |
富樫晴貞 |
? - 1570年 |
稙泰の次男。父と兄の亡命後、家督を継承。織田信長に与したため、一向一揆に討たれる。 26 |
この系図から、稙泰が、一向一揆と対立して滅んだ政親の系統ではなく、一向一揆に擁立された泰高の系統に属し、父の早世により祖父から直接後継者とされたことが明確にわかる。この出自こそが、彼の生涯を規定する出発点となったのである。
享禄4年(1531年)、富樫稙泰の運命を決定づける大事件が勃発する。「享禄の錯乱」、またの名を「大小一揆」と呼ばれるこの内乱は、加賀一向一揆の内部対立に端を発し、中央政局の動乱とも密接に連動した、極めて複雑な権力闘争であった 28 。
大小一揆の背景には、三つの異なるレベルの対立が複雑に絡み合っていた。
第一に、 中央政局における細川氏の抗争 である。当時、畿内では室町幕府の管領家である細川京兆家が、細川高国と細川晴元の二派に分裂して激しい権力闘争を繰り広げていた 28 。本願寺教団は、この争いにおいて細川晴元を支援する姿勢を見せた。その見返りとして、晴元は本願寺に対し、敵対する高国派の武士が北陸地方に有していた荘園の支配権を認め、その占拠を要請した 29 。この中央政局との連携が、加賀国内の対立の直接的な引き金となった。
第二に、 本願寺教団内部における中央集権派と在地分権派の対立 である。当時の本願寺は、10世法主・証如が幼少であったため、その後見人であり証如の外祖父でもある蓮淳(れんじゅん、本願寺8世蓮如の六男)が実権を握っていた 29 。蓮淳は、法主を頂点とする中央集権的な教団支配体制の確立を目指しており、各地の末寺や門徒組織に対する統制を強化しようとしていた 29 。
これに対し、加賀国では、蓮如の時代からその子ら(蓮綱、蓮誓、蓮悟)が住持を務める松岡寺、光教寺、本泉寺の「賀州三ヶ寺」が、現地の門徒を統率する絶大な権力を持っていた 32 。彼らは事実上の加賀の国主として振る舞っており、蓮淳ら本願寺中央からの直接的な介入を、自らの既得権益を脅かすものとして強く警戒し、反発した 29 。
第三に、この二つの対立が結合し、 加賀国内での武力衝突 へと発展した。細川晴元の要請を受けた蓮淳は、自身の婿である超勝寺の実顕と、側近の下間頼秀・頼盛兄弟に、法主・証如の名で高国派荘園の占拠を命じた 29 。彼らが賀州三ヶ寺に何の相談もなく、法主の権威を盾に加賀国内で行動を開始したことが、ついに両派の対立を決定的なものにした。賀州三ヶ寺側はこれを「一門一家制」に反する越権行為であると非難し、超勝寺の討伐を主張。対する蓮淳・超勝寺側は、賀州三ヶ寺の抵抗を法主への反逆とみなし、その討伐を決定。こうして、本願寺中央派の「大一揆」と、賀州三ヶ寺を中心とする在地派の「小一揆」による、加賀一向一揆を二分する大規模な内乱が勃発したのである 29 。
この未曾有の内乱に際し、名目上の加賀守護であった富樫稙泰は、極めて重大な政治的決断を迫られた。そして彼が選んだ道は、賀州三ヶ寺を中心とする**「小一揆」への味方**であった 29 。これは、一部で伝えられる「大一揆方に属して敗れた」という情報とは正反対の、史実に基づく重要な事実である。稙泰は嫡男の泰俊と共に、小一揆方としてこの戦いに参陣した 19 。
稙泰が小一揆に与したことは、単なる成り行きではなく、彼の置かれた状況下での最も合理的な、しかし極めて勝ち目の薄い政治的賭けであった。彼の「加賀守護」という権威は、長享の一揆以降、彼を擁立し、加賀を現地で実質的に支配してきた賀州三ヶ寺という後援者によってかろうじて支えられていた。一方、大一揆を率いる本願寺中央(蓮淳)は、守護を介さず直接加賀の門徒を支配しようとしており、彼らにとって富樫守護は不要、あるいは邪魔な存在でさえあった。稙泰にとって、大一揆が勝利すれば、自らの存在意義は完全に消滅する。逆に、小一揆が勝利すれば、これまで通りの名目上の守護としての地位を維持し、わずかながらも影響力を保持できる可能性があった。したがって、彼の選択は、自らの存在基盤である在地勢力と運命を共にするという、生き残りをかけた必然的な決断だったのである。
小一揆方は、越前国の朝倉孝景や能登国の畠山義総といった周辺大名の支援を取り付け、大一揆方に対抗した 29 。両軍は手取川の川原などで激戦を繰り広げた(川原の合戦)が、大一揆側は畿内や東海地方からも門徒を動員するなど、その物量で小一揆方を圧倒した 35 。北方戦線で能登・越中からの援軍が敗れると、朝倉勢も戦線を維持できずに撤退し、最終的に小一揆方の敗北が決定的となった 35 。
この敗北により、加賀の支配者であった賀州三ヶ寺は壊滅・没落し、加賀は本願寺中央による直接統治下に置かれることとなった 32 。そして、彼らに味方した富樫稙泰もまた、加賀守護という名目上の地位さえも追われ、故国からの逃亡を余儀なくされたのである。
この複雑な内乱の構造を理解するため、以下に対立構造図を示す。
項目 |
大一揆(本願寺中央派) |
小一揆(加賀在地派) |
主要人物 |
蓮淳(法主後見人)、証如(10世法主)、下間頼秀・頼盛 |
蓮悟(本泉寺)、蓮誓(光教寺)、蓮綱(松岡寺) |
主要拠点 |
超勝寺、本覚寺 |
賀州三ヶ寺(本泉寺、光教寺、松岡寺) |
支援勢力 |
細川晴元、畿内・東海門徒、飛騨・内ヶ島氏 |
越前・朝倉孝景、能登・畠山義総 |
富樫氏の立場 |
(敵対) |
富樫稙泰・泰俊父子が参陣 |
主張・目的 |
法主を頂点とする本願寺教団の中央集権化、加賀の直接支配 |
賀州三ヶ寺による加賀の自治体制の維持、既得権益の防衛 |
この表は、稙泰がなぜ小一揆に与したのか、その背景にある力学と、彼の決断が自らの存続をかけた必然的な選択であったことを明確に示している。しかし、その選択は結果的に、地方の旧来の権力構造が、中央から押し寄せる新たな権力に飲み込まれていくという、時代の不可逆的な流れに抗うことができず、彼の没落を決定づけるものとなった。
大小一揆に敗北した富樫稙泰は、加賀国を追われる身となった。彼の亡命先は、一部で伝えられる能登国ではなく、南に隣接する 越前国 (現在の福井県)であったことが、複数の史料によって確認されている 19 。
稙泰が身を寄せたのは、越前の戦国大名・朝倉氏の家臣で、加賀との国境地帯に位置する金津城の城主、**溝江長逸(みぞえ ながやす)**のもとであった 19 。溝江氏は、加賀国境に近い溝江郷を本拠とする土着の豪族であったが、朝倉氏の越前支配が確立するとその家臣となり、代々、加賀一向一揆の侵攻に備える国境防衛の重責を担っていた一族である 37 。大小一揆において、朝倉氏が小一揆方を支援していた関係から、敗走した稙泰を受け入れることは自然な成り行きであったと考えられる。稙泰は、嫡男の泰俊らを伴い、この金津城で亡命生活を送ることになった 19 。
亡命からわずか1年後の天文元年(1532年)、稙泰にとって千載一遇の好機が訪れる。大小一揆で勝利した大一揆方の最大の後ろ盾であった山科本願寺が、政敵となった細川晴元、近江の六角定頼、そして京都の法華宗徒による連合軍の猛攻撃を受け、灰燼に帰したのである(山科本願寺の戦い) 28 。
この事件は、加賀の一向一揆勢力に大混乱をもたらした。法主・証如は命からがら大坂御坊へと逃れ、加賀にいた大一揆方の指導者たちも、法主を救援すべく畿内へと向かった。これにより、加賀国内には一時的な権力の空白が生じた。史料には、この状況を指して、稙泰は「戦わずして旧領確保に成功した」と記されている 19 。常識的に考えれば、これは故国に復帰し、守護としての地位を回復する絶好の機会であった。
しかし、稙泰の行動は不可解なものであった。彼はこの好機に自ら加賀へ帰還することなく、越前の亡命先に留まり続けたのである。ただ、嫡男の泰俊を名代として野々市の本拠地へ派遣するに留めている 19 。この決断は、単なる慎重さや臆病さからでは説明がつかない。むしろ、稙泰が自らの権力基盤が再起不能なまでに破壊されたことを、冷徹に認識していたからこその行動であったと推察される。
山科本願寺の焼失は、あくまで大一揆方の「中央指導部」が打撃を受けたに過ぎず、加賀国に根を張る強大な門徒勢力そのものが消滅したわけではなかった。そして、稙泰がかつて頼みとした小一揆(賀州三ヶ寺)の勢力は、大小一揆の敗北によって既に壊滅状態にあった。彼には、加賀国内に帰還を歓迎し、その支配を支えてくれる有力な在地勢力はもはや存在しなかったのである。たとえ一時的に帰還できたとしても、軍事力も支持基盤も持たない名ばかりの守護が、依然として強大な門徒勢力を抑え、実効支配を回復することは不可能であると、彼は判断したのだろう。彼の「越前滞在」という選択は、もはや「守護」という役割を演じ続けることが不可能であるという、厳しい現実認識の表れであった。息子を派遣したのは、富樫家としての加賀に対する権利主張をかろうじて繋ぎ止めようとする、最後の象徴的な行為に過ぎなかったのかもしれない。
再起の機会を活かすことなく越前で日々を過ごした稙泰は、天文4年(1535年)5月11日、亡命先でその生涯を終えた 19 。その死については、『富樫記』という史料に「自害した」との記述が見られる。興味深いことに、この史料では彼の名前が祖父である「泰高」と誤って記されている。しかし、同時に記されている戒名「泰雲寺殿通安(たいおんじでんつうあん)」は、他の史料で確認される稙泰自身のものである 19 。このことから、名前の誤記は後世の書写の過程で生じた誤植である可能性が極めて高く、この記述は稙泰の最期を伝えたものと解釈するのが妥当である。亡命生活の末に自ら命を絶ったとすれば、その胸中には故国に帰れぬ無念と、一族の行く末を案じる絶望があったに違いない。
稙泰の死後、富樫家の家督は、共に亡命していた嫡男・泰俊ではなく、加賀国内に残っていた次男の晴貞が継承するという、さらなる混乱の種を残すことになった 26 。
富樫稙泰の死は、すでに形骸化していた加賀守護・富樫氏の最終的な没落過程を加速させた。一族はその後もしばらく存続するが、それは滅亡への道をたどるに過ぎなかった。
稙泰の死後、富樫家の家督は、本来の継承者である長男・泰俊が越前に亡命していたため、加賀国内にいた次男の晴貞(はるさだ、初名は泰縄)が継承した 26 。これにより、富樫家は亡命先の兄と国内の弟という、事実上の分裂状態に陥った可能性が指摘される。この後の富樫氏の歴史は、この兄弟二人の悲劇的な末路に集約される。
富樫晴貞の末路
家督を継いだ晴貞は、一向一揆の支配下にあって、父・稙泰と同様に傀儡の守護として振る舞った 40。しかし、時代は大きく動いていた。元亀元年(1570年)、尾張から台頭した織田信長が天下統一事業を本格化させると、その最大の障壁となったのが石山本願寺を中心とする一向一揆勢力であった。信長と本願寺が全面戦争に突入する中、晴貞は時の将軍・足利義昭の命を受け、信長に味方するという重大な決断を下す。これは、傀儡の立場から脱却し、新たな覇者である信長と結ぶことで富樫家を再興しようとした起死回生の一手であったのかもしれない。しかし、この行動は支配者である加賀一向一揆の逆鱗に触れた。結果、晴貞は一揆勢の攻撃を受け、金沢の伝燈寺において討ち死にした 27。
富樫泰俊の末路
弟・晴貞の死後、亡命していた泰俊が富樫家の家督を継いだとされる 25。彼は一度、加賀の本拠地である野々市城に戻ったが、やはり本願寺方の圧迫に耐えきれず、再び父・稙泰が身を寄せた越前の金津城主・溝江氏のもとへと逃れた 25。しかし、彼の亡命生活も安穏ではなかった。天正2年(1574年)、織田信長の越前侵攻に反発した一向一揆が越前国内で蜂起し、信長方に与した溝江氏の金津城を数万の軍勢で包囲した。泰俊は客将として溝江長逸・景逸父子と共に籠城し、奮戦するも衆寡敵せず、城は落城。泰俊は、恩人である溝江一族と共に城中で自害し、その波乱の生涯を閉じた 25。
泰俊の死をもって、平安時代の藤原利仁を祖とし、鎌倉・室町時代を通じて加賀国に君臨した守護大名・富樫氏は、名実ともに滅亡した 12 。その歴史は、実に600年以上に及ぶものであった。一族の一部はその後も各地で生き延び、後藤氏と改姓して加賀藩の十村役(大庄屋)を務めた家系などが伝えられているが 41 、大名としての富樫氏は歴史の舞台から完全に姿を消したのである。
富樫氏の滅亡の過程は、歴史の皮肉に満ちている。1488年、富樫政親は一向一揆に「抵抗した」ために滅ぼされた。その後、泰高や稙泰は一向一揆の「傀儡となる」ことで家名をかろうじて存続させた。そして1570年、富樫晴貞は、その傀儡状態から脱し、新たな覇者と結ぶことで「自立しようとした」ために、一向一揆に滅ぼされた。つまり、富樫氏は一向一揆に逆らっても、従っても、そして裏切っても、いずれ滅びる運命にあった。彼らの存在そのものが、一向一揆という巨大な勢力との関係性によって完全に規定されており、その枠組みから逃れることはもはや不可能だったのである。父・稙泰の敗北から始まったこの最終的な没落過程は、この逃れられない運命の最終章であったと言えよう。
富樫稙泰の生涯は、一見すると敗北と亡命に彩られた、成功とは程遠いものであった。しかし、彼の人生を歴史の大きな文脈の中に位置づけることで、その存在はより深い意味を帯びてくる。
第一に、稙泰は 時代の転換点を生きた悲劇の人物 として評価できる。彼の生涯は、室町幕府が構築した守護領国制という旧来の権威構造が、一向一揆という宗教的・地域的な結合を基盤とする新たな勢力によって、不可逆的に解体されていく過程を象徴している 14 。彼は、守護という肩書がもはや何の効力も持たなくなった時代の最終局面を、その身をもって体験した人物であった。彼が直面した困難は、個人の資質の問題というよりも、歴史の構造的変動そのものであった。
第二に、彼の政治的決断は、 限定された状況下での合理的な選択 であったと評価すべきである。特に、彼の運命を決定づけた大小一揆において、敗北する側に回った小一揆に与したことは、後世から見れば明白な「敗者の選択」であった。しかし、本報告書で分析したように、彼自身の立場、すなわち賀州三ヶ寺によって支えられていた傀儡守護という現実を考慮すれば、その選択は自らの存在基盤を守るための、唯一にして最も合理的な判断であった。彼の悲劇は、判断の誤りというよりは、彼が打てる手が極めて限られており、いかなる選択をしても破滅的な結果しか待っていなかったという、歴史の巨大な潮流の前に無力であった点にある。
最後に、富樫稙泰のような 歴史における「脇役」の生涯を詳細に追うことの重要性 が挙げられる。彼は、織田信長や武田信玄のような、時代を動かした英雄ではない。しかし、彼の如き人物の生涯を丹念に追跡することによって、戦国時代という時代の本質が、より鮮明に、そして立体的に浮かび上がってくる。すなわち、旧秩序の崩壊と新秩序の模索、中央政局と地方の動乱の連動、そして武力だけではない多様な権力(宗教、在地結合)の興隆といった、複雑で多層的な歴史像である。富樫稙泰の生涯の徹底的な調査は、単なる一武将の伝記にとどまらず、戦国史研究の解像度を一段と引き上げる上で、重要な意味を持つと結論づけることができる。