最終更新日 2025-07-01

富田景政

剣と禄―富田景政の生涯と富田流の興亡

序章:戦国を生き抜いた武将剣士、富田景政

戦国時代から安土桃山時代という、日本の歴史上最も激しい変革期に、一人の武将がいた。その名を富田治部左衛門景政(とだ じぶざえもん かげまさ)という。彼は、兄である天才剣士・富田勢源(せいげん)や、後に「名人越後」と謳われる婿養子・富田重政(しげまさ)といった、剣豪としての名声が轟く人物たちの間にあって、その存在はややもすれば影が薄くなりがちである。しかし、彼の生涯を丹念に追うとき、そこには単なる剣術家にとどまらない、激動の時代を生き抜くための卓越した知略と現実的な手腕、そして家と流派の未来を切り拓いた偉大な経営者としての姿が浮かび上がってくる。

富田景政の生涯は、主家の滅亡、後継者の喪失という度重なる危機に見舞われながらも、その都度、的確な判断力でこれを乗り越え、自らの家門と、中条流を源流とする一大剣術流派「富田流」を次代へと繋いだ軌跡そのものである。彼の人生は、剣の技を磨くことと、武士として禄を得て家を存続させること、この二つが不可分であった戦国武士のリアルな姿を映し出している。

本報告書は、この富田景政という人物そのものに焦点を当て、彼の生涯を年代記的に詳述するとともに、武将としての側面、剣術家としての側面、そして富田家の家長としての側面から多角的にその実像を分析する。特に、兄・勢源との関係、前田利家への仕官、婿養子・重政の育成といった彼の人生の重要な転機を深く掘り下げ、伝承や逸話については、その背景にある歴史的文脈を読み解きながら、批判的な検討を加える。これにより、これまで十分に光が当てられてこなかった富田景政の独自の役割と歴史的功績を明らかにすることを目的とする。

第一部:富田家の出自と中条流の継承 ― 運命の家督

一、越前富田家の系譜と中条流

富田家は、越前の戦国大名・朝倉氏に仕える武家であった。その系譜は、大橋勘解由左衛門高能(おおはし かげゆざえもん たかよし)より中条流(ちゅうじょうりゅう)を学んだ冨田九郎左衛門長家(くろうざえもん ながいえ)に遡る 1 。その子である富田治部左衛門景家(かげいえ)が景政の父にあたり、この時点で富田家が武芸、とりわけ中条流剣術を家伝としていたことがわかる 1

中条流は、剣術の古流である念流(ねんりゅう)を源流とし、特に小太刀(こだち)の技法に優れた実戦的な剣術であった 3 。戦国時代の流派らしく、定寸の打刀や三尺を超える大太刀の操法はもとより、薙刀、槍、棒術、さらには組討術としての柔術まで含む総合武術としての側面も持っていた 4 。その極意は、敵と対峙した際に心と動作に一切の滞りなく、流水のごとく自然に間合いを詰め、一撃で敵を倒すことにあったと伝えられる 6 。この実戦性と合理性を兼ね備えた中条流の特性が、後の富田流の性格を決定づけることになる。

二、兄・富田勢源 ― 天才剣士の光と影

富田景政には、富田五郎左衛門勢源(本名は隆家ともされる)という兄がいた 9 。勢源は、若くして父・景家から中条流の道統を継いだ天才剣士であり、その名は広く知れ渡っていた 1 。兄・郷家(さといえ)が早世したため、次男でありながら富田家の剣技を代表する存在となったのである 2

しかし、その輝かしい才能は悲運に見舞われる。勢源は眼病を患い、武士としては致命的ともいえる視力を徐々に失っていった 1 。失明という逆境にありながら、彼の剣技は些かも衰えることがなかった。むしろ、その技は常人の理解を超えた領域へと昇華されていく。美濃国(現在の岐阜県)の朝倉成就坊のもとに寄寓していた際、神道流の達人である梅津某から試合を挑まれた逸話は特に有名である。勢源は、その場にあった一尺二、三寸(約40センチメートル)の皮を巻いた薪を手に取り、一撃のもとに梅津某を打ち倒したという 1 。この逸話は、勢源の超人的な技量を示すと同時に、富田流の剣が、刀という特定の武器に依存するのではなく、あらゆる状況下で身を守り敵を制する、究極の実戦性を有していたことを物語っている。

また、朝倉家臣団の中でも、五尺三寸(約160センチメートル)の野太刀「太郎太刀」で知られる真柄直隆(まがら なおたか)の一族、真柄景忠(かげただ)との対決譚も伝わっており、勢源の名声が朝倉家中においても際立ったものであったことが窺える 11

三、家督相続の経緯と景政の役割

天才剣士として名を馳せた勢源であったが、眼病の悪化により武士として主君に仕え、合戦で武功を立てるという本来の役目を果たすことは困難となっていった。彼は剃髪して仏門に入り、家督と、富田家が代々受け継いできた中条流の道統を、三男である弟の治部左衛門景政に譲ることを決断した 1

この家督相続は、単なる兄弟間の継承以上の意味を持っていた。それは、カリスマ的な技量を持つ天才(勢源)が不測の事態に陥った組織(富田家および富田流)を、実務能力に長けた弟(景政)が引き継ぎ、その存続と発展を図るという、一種の「事業承継」であった。勢源が比類なき「天才プレーヤー」であったとすれば、景政に求められたのは、家と流派という組織を率いる「経営者」としての役割であった。富田家は剣術道場であると同時に、朝倉氏に仕える武家であり、その家門を維持し、禄を確保することが最優先課題であった。景政が後継者に選ばれたのは、彼の剣の技量もさることながら、武士として家を率い、政治的な駆け引きや領地経営といった実務をこなす能力を期待されてのことと推察される。後に前田家で確固たる地位を築き、家を大いに発展させた景政の生涯は、彼がその期待に見事に応えたことを何よりも雄弁に物語っている。彼の真価は、兄・勢源のような伝説的な逸話の多さではなく、激動の時代を乗り越えて家と流派を存続させた、その卓越した組織運営能力と現実的な対応力に見出すことができるのである。

第二部:激動の時代における武将としての道 ― 滅亡と再興

一、主家・越前朝倉氏への仕官とその終焉

兄から家督を譲られた富田景政は、越前の戦国大名・朝倉義景に仕え、武将としてのキャリアを本格的に開始した 10 。越前の首府・一乗谷を本拠とする朝倉家臣団の一員として、彼は家の安泰と発展を目指した。しかし、その平穏は長くは続かなかった。

天正元年(1573年)8月、織田信長の圧倒的な軍事力の前に、栄華を誇った朝倉氏は滅亡の時を迎える。主家を失った景政は、多くの元朝倉家臣たちと同様に、自らの力で新たな道を切り拓かねばならない「浪人」の身となった。

ここで特筆すべきは、同じく元朝倉家臣に「富田長繁(とだ ながしげ)」という人物が存在することである。長繁は朝倉氏滅亡後、織田方に寝返り、その後、越前の実権を握るべく一向一揆を扇動するが、やがてその一揆勢との対立の末に討ち死にするという波乱の生涯を送った 12 。この富田長繁と、本報告書の主題である富田景政は、姓が同じであるため混同されやすいが、全くの別人である。長繁が一か八かの投機的な行動で自滅したのに対し、景政はより堅実で戦略的な再仕官の道を選択することになる。

二、新主君・前田利家への帰属と府中三人衆の時代

朝倉家滅亡後、景政は織田信長配下の有力武将であった前田利家に仕えることとなった 10 。その正確な時期については諸説あるが、朝倉氏が滅亡し、越前の支配体制が再編される過程であったことは間違いない。

天正3年(1575年)、信長は越前で蜂起した一向一揆を徹底的に殲滅し、平定する。そして、北陸方面軍の総司令官として柴田勝家を越前北ノ庄城に置き、その与力(補佐兼監視役)として、前田利家、佐々成政、不破光治の三名を越前府中に配置した。これが世に言う「府中三人衆」である 17 。景政が利家に仕官したのは、まさにこの時期であり、利家が越前府中で新たな支配体制を築き、その勢力を確立していく黎明期に、その家臣団に加わったことを意味する。

主家滅亡という絶望的な状況から、織田政権下で急速に台頭しつつあった新進気鋭の武将・前田利家を新たな主君として選んだ景政の決断は、彼の先見の明と現実的な判断力を示している。それは、戦国の世を生き抜くための、極めて戦略的なキャリア選択であった。

三、加賀藩における武功と地位

富田景政のキャリアは、主家を失った浪人が、新たな有力大名に見出されてその家臣団の中核に組み込まれ、最終的に譜代の家臣に等しい信頼を得るに至る、戦国時代の典型的な成功モデルの一つであった。利家が越前府中で活動を開始した初期段階から仕えることで、景政は単なる中途採用の家臣ではなく、古参としての地位を築く機会を得たのである。

彼は単なる剣術指南役としてではなく、実戦でその価値を証明する武将であった。天正10年(1582年)、織田軍による上杉方の魚津城攻略戦に参加したとされ、この時点で既に4,000石を知行していたという記録がある 16 。この知行高は、彼が利家家臣団の中で重要な位置を占めていたことを示唆している。

本能寺の変の後、利家は羽柴(豊臣)秀吉の盟友としてその地位を飛躍的に高め、加賀・能登・越中を領する大大名へと成長していく。その過程で、景政もまた利家の重臣としてその地位を確固たるものにしていった。後年、彼は能登支配の戦略的拠点である七尾城の守将に任じられている 10 。要衝の城代を任されることは、主君からの絶対的な信頼の証左である。景政は、自らの剣と知略をもって、浪人の身から大名の信頼厚い重臣へと、その地位を駆け上がった。彼の剣術は、観念的な武芸ではなく、合戦での武功や領国統治といった実務に直結した、「禄を得るためのスキル」そのものであったのである。

第三部:富田流剣術の真髄と伝承 ― 実戦の剣

一、中条流から富田流へ:その剣技の核心

富田勢源・景政兄弟によって大成された中条流の剣技は、やがて彼らの名を冠して「富田流」として世に知られるようになった 1 。この流派の最大の特徴は、小太刀の卓越した操法にあった 4 。しかし、それは小太刀のみに特化したものではなく、戦場で遭遇するあらゆる状況に対応するための総合武術であったことは前述の通りである 4

富田流の形稽古は「死合(しあい)の作法」と呼ばれ、極めて実戦的な想定で行われた。打太刀(うちだち、攻撃役)が三尺(約90センチメートル)を超える大太刀を用いるのに対し、仕太刀(したち、受け役)はそれよりも短い中太刀や小太刀でこれに対応した 5 。これは、体格や武器のリーチで劣る者が、いかにして技でその不利を覆すかという、富田流の思想を体現する稽古法であった。

その動きは「流水の如し」と評される 6 。相手の攻撃を大仰に受け止めるのではなく、最小限の動きで捌き、あるいは受け流しながら、流れるように相手の死角へと入り込み、一瞬の隙を突いて反撃する。それは、高度な体捌きと、相手の動きを読む「拍子」の理解を要求する、極めて洗練された技術体系であった 22

二、弟子・鐘捲自斎と一刀流への影響

富田景政の剣名は、彼自身の武功や後進の指導を通じて広まっていった。その弟子の中で最も著名な人物が、鐘捲自斎(かねまき じさい)である 10 。ただし、自斎は兄・勢源の弟子であったとする説も有力であり、富田兄弟のいずれか、あるいは両方から指導を受けた可能性が高いと考えられている 1

この鐘捲自斎の存在が、富田流を日本剣術史の大きな潮流へと接続させる。自斎は、後に一刀流の流祖となる伊藤一刀斎(いとう いっとうさい)の師であったとされているからである 10 。一刀流は、その後の江戸時代を通じて、柳生新陰流と並び称される最も影響力のある剣術流派の一つとなった。その源流の一つに富田流が存在したという事実は、富田景政とその流派が後世に与えた影響の大きさを物語っている。

三、大名への指南:豊臣秀次との関わり

富田景政の名声は、主君である前田家や北陸の地にとどまらなかった。彼は、時の天下人・豊臣秀吉の甥であり、関白の地位にあった豊臣秀次に剣術を指南したという記録が残っている 10 。これは、景政と富田流が、当代随一の剣術流派の一つとして中央政権にまで認識されていたことを示す、極めて重要な事実である。

当時、有力な大名が著名な剣術家を師として招聘することは、自らの武威と教養を示す一種のステータスであった。秀次が数ある剣術家の中から景政を選んだという事実は、富田流が持つ実戦性と名声の高さを証明している。

四、逸話の批判的検討:「匹夫の剣」伝説と柳生新陰流

富田景政にまつわる逸話として、徳川家康の前で剣技を披露した際のエピソードが伝えられている。それによれば、家康は景政の剣を「匹夫(ひっぷ)の剣」、すなわち思慮の浅い、ただ腕力に頼る者の剣であると評し、入門することなく、代わりに柳生宗厳(むねよし、後の石舟斎)の柳生新陰流を選んだという 25

しかし、この逸話は史実としての信憑性が低く、後世、特に江戸時代に入ってから柳生家の権威を高めるために創作されたものである可能性が非常に高いと指摘されている 25 。この逸話の背景を理解するためには、江戸時代の剣術界における政治的な力学を考慮する必要がある。

柳生新陰流は、徳川将軍家の御流儀として採用され、江戸時代を通じて絶大な権威を誇った 26 。柳生家は、自らの剣を単なる殺人術(殺人剣)ではなく、心身を鍛え、ひいては国を治める道にも通じる「活人剣(かつにんけん)」であると標榜した。この文脈において、富田流のような戦国期の実戦剣術を、やや格の劣る「匹夫の剣」として物語の中で位置づけることは、柳生流の思想的な先進性や高尚さを際立たせる上で、極めて効果的なプロパガンダであったと考えられる 29

また、家康自身は、柳生流に入門する以前から、新陰流の系統である神影流を奥山休賀斎(おくやま きゅうがさい)に師事していたとされ、改めて他の流派に入門する必要性自体が薄い 25 。したがって、この「匹夫の剣」の逸話は、史実として受け取るべきではなく、剣術の価値観が「戦場でいかに敵を倒し生き残るか」という実利的なものから、「武士の教養であり、統治の道に通じるもの」へと変化していく江戸時代初期の思想的潮流の中で生まれた、流派間の政治的な言説と解釈するのが妥当であろう。富田景政の剣は「匹夫の剣」などではなく、戦国の世を生き抜くために磨き上げられた「戦国の剣」そのものであった。

第四部:富田家の未来を託して ― 名人越後の誕生

一、嫡男・景勝の戦死と後継者問題

富田景政の武将としてのキャリアは順風満帆に見えたが、家長としては悲劇に見舞われる。天正11年(1583年)、羽柴秀吉と柴田勝家が天下の覇権を争った賤ヶ岳の戦いにおいて、景政の嫡男であった景勝(かげかつ)が、柴田方として戦い、討死してしまったのである 10

この出来事は、景政にとって個人的な悲しみであると同時に、富田家の存続に関わる重大な危機であった。兄・勢源から家督を継ぎ、主家滅亡の危機を乗り越えてきた景政は、再び後継者を失い、富田家の血筋と富田流の道統が断絶する可能性に直面したのである。

二、婿養子・富田重政(名人越後)の育成と活躍

絶望的な状況の中、景政は極めて大胆かつ戦略的な決断を下す。彼は血縁に固執することなく、外部から才能ある若者を新たな後継者として迎え入れることを選んだ。白羽の矢が立ったのは、山崎景邦(やまざき かげくに)の子、与六郎(後の富田重政)であった。山崎景邦もまた元朝倉家臣であり、富田流の門人であったとされ、景政が単に武勇に優れた者ではなく、自らの流派に素養のある人材を慎重に選んだことが窺える 24

この重政は、景政の期待を遥かに超える器量の持ち主であった。天正12年(1584年)、佐々成政が前田利家の末森城を急襲した末森城の戦いにおいて、若き重政は救援軍の先鋒として駆けつけ、一番槍の武功を挙げるという目覚ましい活躍を見せた 31 。この功績は主君・利家から大いに賞賛され、景政の娘を妻として迎え、富田家の婿養子となることが決まった。

景政は、この才能溢れる若き後継者に、自らが持つ剣術の奥義と、戦国武将としての生き様の全てを注ぎ込んだ。景政の指導のもと、重政の才能は完全に開花する。彼は武将として数々の戦功を重ね、最終的には1万3670石という破格の知行を得るに至った 4 。これは剣豪として大名にまでなった柳生宗矩に匹敵するものであり、武将としての成功の証であった。

剣の腕もまた比類なく、その官位である越後守にちなんで「名人越後」と称され、人々から畏敬された 4 。慶長19年(1614年)からの大坂の陣では、既に隠居の身でありながら参陣し、19もの首級を挙げるという鬼神の如き強さを見せた 4 。また、主君である加賀藩主・前田利常から「無刀取りはできるか」と問われ、真剣を突きつけられても全く動じず、見事にそれに応じたという逸話も残っている 24

富田景政の生涯における最大の功績は、彼自身の武功や剣技以上に、この富田重政という「名人」を育て上げ、家と流派を次代に繋いだことにあると言っても過言ではない。富田重政は、景政の人生の集大成であり、最高傑作であった。景政の生涯は、三度にわたる断絶の危機を乗り越えた執念の物語であり、特に重政の育成は、単なる後継者選びではない。それは、自らの理想とする武士像と剣技を、才能ある若者という媒体を通して後世に遺そうとした、景政の教育者、そしてプロデューサーとしての一面を浮き彫りにしている。


表1:富田流主要人物対照表

氏名

生没年(推定含む)

景政との関係

通称・異名

主な功績・逸話

最終的な知行

富田 勢源

生没年不詳

五郎左衛門

中条流の天才剣士。眼病で失明後も薪で達人を倒す。鐘捲自斎の師とも。

-

富田 景政

大永4年(1524) - 文禄2年(1593)

本人

治部左衛門

兄から家督を継承。前田利家に仕え七尾城守将。豊臣秀次に剣術を指南。

4,000石以上

富田 重政

永禄7年(1564) - 寛永2年(1625)

婿養子

越後守、名人越後

末森城で一番槍。大坂の陣で19首級。無刀取りの逸話。

13,670石

富田 重康

慶長7年(1602) - 寛永20年(1643)

孫(重政の次男)

越後守、中風越後

父の跡を継ぐが中風を患う。剣の腕は確かだったが早世。

10,000石


三、景政の死と、その後の富田家

富田景政は、自らの手で育て上げた重政が家督を継ぎ、富田家の安泰と富田流の隆盛を見届けた後、文禄2年(1593年)、70年の生涯に幕を閉じた 16

名人越後・重政の死後、家督は次男の重康が継いだ。重康もまた剣の名手であったが、壮年期に中風を患ったことから「中風越後」と呼ばれた 16 。寛永20年(1643年)に42歳の若さで亡くなると、加賀藩における富田流の勢いは次第に衰退していった 34 。しかし、その技と名は完全に途絶えたわけではない。弘前藩に伝わった當田流(とうだりゅう)のように、分派を通じてその剣技と思想は後世に伝えられ、日本剣術史の中に確かな足跡を残している 5

結論:富田景政が後世に遺したもの

富田景政の生涯は、兄・勢源の伝説的な剣豪譚や、婿養子・重政の華々しい武功譚の影に隠れがちであった。しかし、その実像は、戦国の動乱期を生き抜いた、稀有な「マネジメント能力を持つ剣豪」と評することができる。彼は、個人の武勇を誇るだけでなく、常に家と流派の存続という大局を見据え、現実的な判断力と組織運営能力で幾多の危機を乗り越えた。彼の生涯は、戦国の世を武士がいかにして生き抜き、自らの家と技を後世に伝えるかという、普遍的なテーマを内包している。

富田景政が歴史に残した功績は、以下の三点に集約される。

第一に、 富田流の存続と発展 である。彼は兄・勢源から受け継いだ中条流の剣技を、自らの武将としての経験を通じてさらに実戦的に洗練させ、一大流派「富田流」としての地位を確立させた。

第二に、 後継者の育成 である。嫡男の死という絶望的な状況から、富田重政という類稀なる才能を見出し、「名人越後」と称されるほどの武将・剣豪に育て上げた。これにより、加賀藩における富田家の地位を盤石にし、家門の繁栄をもたらした。

第三に、 剣術史への貢献 である。彼の弟子(あるいは兄の弟子)である鐘捲自斎を通じて、後の一刀流の成立に間接的に寄与した。これは、富田流の技術と思想が、日本剣術史の大きな潮流の一つに合流し、後世に多大な影響を与えたことを意味する。

富田景政は、派手な逸話こそ少ないものの、戦国の世を知略と武勇、そして何よりも先見の明をもって生き抜いた、真の武将剣士であった。その功績は、一人の剣豪としてのみならず、一つの流派と武家を次代へと繋いだ「偉大な継承者」として、今こそ再評価されるべきである。


表2:富田景政 略年表

西暦(和暦)

富田景政の動向

関連する歴史上の出来事

1524年(大永4年)

越前に生まれる。

-

不詳

兄・勢源が眼病のため、家督と中条流道統を継承。朝倉義景に仕える。

-

1573年(天正元年)

主家・朝倉氏が織田信長により滅亡。浪人となる。

一乗谷城の戦い

1575年(天正3年)頃

前田利家に仕官する。

越前一向一揆平定。府中三人衆の成立。

1582年(天正10年)

魚津城の戦いに従軍。知行4,000石。

本能寺の変

1583年(天正11年)

嫡男・景勝が賤ヶ岳の戦いで戦死。

賤ヶ岳の戦い

1584年(天正12年)

山崎景邦の子・重政を婿養子に迎える。

末森城の戦い

不詳

能登・七尾城の守将となる。

-

不詳

豊臣秀次に剣術を指南する。

豊臣政権の確立

1593年(文禄2年)

70歳で死去。

文禄の役

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引用文献

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  2. 富田勢源(とだせいげん)とは? 意味や使い方 - コトバンク https://kotobank.jp/word/%E5%AF%8C%E7%94%B0%E5%8B%A2%E6%BA%90-1094702
  3. 剣術の流派 | 殺陣教室・東京のスクール https://tate-school.com/archives/548
  4. 燕の街んなかの歴史 (まちを歩いてみよう) 燕中央まちづくり協議会 http://tsubamereki.web.fc2.com/meijin-etigo.htm
  5. 當田流 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%95%B6%E7%94%B0%E6%B5%81
  6. 當田流剣術 - YouTube https://www.youtube.com/watch?v=P7074z6fsWg
  7. 當田流剣術 - 日本古武道協会 https://www.nihonkobudokyoukai.org/martialarts/079/
  8. 津軽・旧弘前藩伝来 當田流剣術の小太刀操法 - WEB秘伝 https://webhiden.jp/archive/post_4/
  9. 第16話 冨田勢源とその兄弟 - 独断と偏見による日本の剣術史(@kyknnm) - カクヨム https://kakuyomu.jp/works/1177354054887946957/episodes/1177354054888608241
  10. 富田景政 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AF%8C%E7%94%B0%E6%99%AF%E6%94%BF
  11. 朝倉家最強家臣に迫る!朝倉宗滴、真柄十郎左衛門、富田勢源!福井市一乗谷ゆかりの地をご紹介!|福旅blog - 福いろ https://fuku-iro.jp/blog/detail_187.html
  12. 朝倉天正色葉鏡 ~悪辣狐姫の戦国伝奇軍記譚~ - 第13話 越前一向一揆 - 小説家になろう https://ncode.syosetu.com/n4156ew/14/
  13. 企画展示報告 2 越前戦国演義-戦雲の果てに- - 鯖江市 https://www.city.sabae.fukui.jp/kosodate_kyoiku/manabenoyakata/kanpou/manabeyakata-kanpou.files/H295kikakutenji2.pdf
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  17. 越前 龍門寺城 府中三人衆の一人、不破光治が入った城 http://kyubay46.blog.fc2.com/blog-entry-211.html
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  20. 富田流剣術 - いちに会 https://ichinikai.com/bbs2/994294744989933.html
  21. 當田流剣術 - 弘前市 https://www.city.hirosaki.aomori.jp/gaiyou/bunkazai/shi/2021-0317-0919-141.html
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  33. 剣豪「名人越後」富田重政と摩利支天山 宝泉寺 https://gohonmatsu.or.jp/toda_shigemasa/
  34. 富田重康(とだ しげやす)とは? 意味や使い方 - コトバンク https://kotobank.jp/word/%E5%AF%8C%E7%94%B0%E9%87%8D%E5%BA%B7-1094695
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