戦国時代の会津に君臨した名門、蘆名氏。その四百年にわたる栄華が、天正17年(1589年)の摺上原(すりあげはら)の戦いによって、わずか一日で終焉を迎えたことは、奥州の歴史における一大悲劇として知られている。この歴史的敗北の裏で、決定的な役割を果たしたとされる一人の武将がいる。その名は富田氏実(とみた うじざね)。蘆名家の重臣「四天の宿老」の一角を占めながら、主君・蘆名盛隆の死後、後継者争いで伊達政宗の弟・小次郎を推して敗れ、最終的には摺上原の戦いで伊達方に内通したとも、主力の敗北後に降伏したとも伝えられる人物である 1 。
氏実の行動は、しばしば蘆名家を滅亡に導いた「裏切り者」として、単純化された評価を下されがちである。しかし、彼の選択は、一個人の資質や野心のみに帰結するものではなかった。その背景には、最盛期を過ぎた蘆名家が内包していた構造的な矛盾、すなわち旧来の宿老層と新興の権力者との深刻な対立、そして南奥州の覇権を狙う伊達政宗という巨大な外部圧力が、複雑に絡み合っていた。富田氏実という人物の行動原理を解き明かすことは、戦国末期の地方権力が、抗いがたい時代の奔流の中でいかにして崩壊に至ったか、その力学を理解する上で不可欠な鍵となる。
本報告書は、現存する史料を丹念に読み解き、富田氏実の生涯を、彼個人のみならず、蘆名家の権力構造、対伊達氏政策、そして戦国末期の奥州における勢力再編という重層的な文脈の中に位置づける。これにより、単なる「裏切り者」のレッテルを越え、激動の時代を自らの一族と共に生き抜こうとした一人の武将の、苦渋に満ちた選択の実像に迫ることを目的とする。
富田氏実の行動を理解するためには、まず彼が背負っていた「富田一族」という家の歴史と、蘆名家におけるその地位を把握する必要がある。富田氏は、一朝一夕に成り上がった家ではなく、会津の地に深く根を張り、代々蘆名家に仕えてきた名門であった。その歴史的背景こそが、氏実のプライドと権力基盤を形成し、後の行動原理に大きな影響を与えたのである。
富田氏の出自については諸説あるが、祖は安積郡富田(現在の福島県郡山市)に住んだ古代氏族・安積臣(あさかのおみ)の後胤とされている 3 。また、耶麻郡磐梯山にあった慧日寺(えにちじ)の寺侍を経て土豪化したという伝承も残っており、これは富田氏が、三浦一族である蘆名氏が会津の支配者として定着する以前からの在地勢力であったことを強く示唆している 4 。
蘆名氏との主従関係の始まりは非常に古く、貞応元年(1222年)には既に家臣となっていたとされる 4 。この事実は、富田氏が一方的に征服されたのではなく、在地領主として蘆名氏の支配体制に協力・編入される形で、その地位を確立していった過程を物語る。さらに、『富田家年譜』という一族の記録によれば、嘉暦2年(1327年)には下荒井城を築いたと記されており、鎌倉時代から会津において独自の勢力基盤を持つ有力な豪族であったことがうかがえる 6 。
このような歴史的背景から、富田氏にとっての「主家」とは、絶対的な服従を強いる存在というよりも、自家の所領と家門の安泰を保障してくれるパートナーとしての側面が強かったと考えられる。この「半独立的な在地領主」としての意識は、主家の力が衰え、自家の存続が脅かされた時に、新たなパートナーを模索するという、後の氏実の選択を理解する上で極めて重要な要素となる。
富田氏が蘆名家中で不動の地位を築いたのは、氏実の父・富田滋実(しげざね)の代であった。滋実は、主君である蘆名盛滋(もりしげ)から「滋」の一字を偏諱(へんき)として賜るほどの信任を得ていた 2 。彼の活躍は、家中の内紛鎮圧や外交交渉など多岐にわたる。特に、猪苗代盛頼の討伐や、永禄9年(1566年)に実現した伊達輝宗の妹と蘆名盛興(もりおき)との婚姻締結においては、中心的な役割を果たした 2 。この伊達家との和議に際して交わされた血判起請文には、滋実は他の三人の重臣と共に名を連ねており、この頃には既に蘆名家中の最高意思決定に関わる存在となっていたことがわかる 7 。
これらの功績により、富田家は松本氏、平田氏、佐瀬氏といった他の名門と並び、蘆名家の国政を担う「四天の宿老」と称される家格を確立したのである 3 。父・滋実が築き上げたこの輝かしい地位と権勢を、子である氏実は継承することになる。それは、一族の誇りであると同時に、蘆名家の命運を左右する重い責務を背負うことを意味していた。
父・滋実から家督を継いだ富田氏実は、通称を美作守(みまさかのかみ)と称し、蘆名家中枢の一員としてそのキャリアを開始した。元亀2年(1572年)頃には史料にその名が見え始め、主君・蘆名盛氏(もりうじ)から「氏」の字を賜っている 2 。彼は宿老として、表向きは主家のために働き、その権勢を振るったが、その裏では蘆名家が抱える深刻な内紛の渦中に身を投じていくことになる。
宿老としての氏実の公的な活動として記録に残るものに、天正6年(1578年)の反乱鎮圧がある。この年、上杉謙信の死を契機として、蘆名家臣の大槻政通や山内重勝らが反旗を翻した。氏実は同じく四天の宿老である平田舜範らと共に出陣し、この反乱を見事に鎮圧している 2 。この功績は、氏実が宿老として軍事的な指揮権を持ち、主家の安定維持という責務を果たしていたことを明確に示している。
また、彼の邸宅が政治の舞台として機能していたことを示す事件も起きている。天正10年(1582年)、信濃の名門・小笠原氏の元当主で、会津に流寓していた小笠原長時が、家臣によって殺害されるという事件が発生した。この凶行の現場は、実に氏実の邸宅で催されていた酒宴の席であった 2 。この一件は、単なる家臣の暴発というだけでなく、氏実の邸宅が諸勢力の要人が集う政治的な社交場であり、時には謀議や暗殺の舞台にさえなり得る、平穏ならざる家中の空気を象徴している。
蘆名家の内部対立がより深刻な形で表面化したのが、天正12年(1584年)6月に起きた松本行輔(まつもと ゆきすけ)の謀反である。松本氏は富田氏と同じく「四天の宿老」に数えられる名門であったが、この謀反に氏実が「加担」していたと記録されている 2 。これは極めて重大な事実である。同僚である重臣の反乱に与したということは、この時点で既に蘆名家中枢が深刻な機能不全に陥っており、宿老たちが自らの派閥の利害のためには、主家への反逆にすら手を染めることを厭わない状況にあったことを示している。
この行動は、氏実が後の後継者問題で突如として反体制に転じたわけではないことを物語っている。彼の行動基準は、もはや抽象的な「蘆名家への忠誠」ではなく、より具体的な「自派閥の利益」や「政敵の排除」へと移行していた可能性が高い。松本氏の謀反への加担は、来るべき本格的な権力闘争に向けた布石であったのか、あるいは共通の政敵に対抗するための連携であったのか、その詳細は不明である。しかし、いずれにせよ、氏実の後の「裏切り」とされる行動は、この根深い家中対立の延長線上にあったと見るべきであろう。蘆名家滅亡の遠因は、この宿老たちの権力闘争の中に、既に深く刻み込まれていたのである。
蘆名家の命運を決定的に左右する転機は、天正12年(1584年)に当主・蘆名盛隆が近臣の大庭三左衛門によって暗殺され、さらにその後を継いだ遺児・亀若丸までもが天正14年(1586年)にわずか3歳で夭逝したことで訪れた 10 。当主を失い、正統な後継者が不在という権力の空白は、水面下で進行していた家中対立を一気に表面化させ、蘆名家を二分する激しい派閥抗争へと発展させた。この抗争の中心に、富田氏実はいた。
当主の座を巡り、蘆名家中は二つの派閥に分裂して激しく対立した。一つは富田氏実が率いる派閥であり、もう一つは「蘆名の執権」と称された金上盛備(かながみ もりはる)が率いる派閥であった。
この後継者問題を巡る対立構造は、以下の表のように整理できる。
派閥 |
擁立候補 |
主要人物 |
主な支持勢力 |
主張の背景・狙い |
伊達派 |
伊達小次郎 |
富田氏実 、平田氏、猪苗代盛国 |
蘆名譜代の宿老、在地国人領主 |
・強大な伊達氏との連携による家の安泰 ・金上盛備ら新興勢力の排除と、旧来の宿老層による主導権の回復 |
佐竹派 |
佐竹義広 |
金上盛備 |
蘆名家執行部、反伊達連合(佐竹・岩城など) |
・蘆名氏の独立維持(対伊達) ・南奥州の反伊達連合の盟主としての地位確保 ・当主を傀儡化し、執権としての権力掌握 |
両派閥の争いは、金上盛備の巧みな政治工作によって決着した。盛備は佐竹氏との連携をまとめ上げ、最終的に佐竹義広を蘆名義広として当主の座に据えることに成功したのである 2 。これは、富田氏実ら伊達派にとって、完全な政治的敗北を意味した。旧来の宿老層や在地国人たちの意向が、執権の政治力によって覆されたこの結果は、彼らにとって大きな屈辱であり、家中での影響力を著しく低下させるものであった。
この後継者問題の帰結により、蘆名家中の亀裂はもはや修復不可能なレベルに達した。富田氏実の視点から見れば、新たに誕生した義広政権は、正統な蘆名家ではなく、政敵である金上盛備に乗っ取られた傀儡政権に他ならなかった。自らが望まず、かつ自らの権力を削ぐ新当主と、その背後にいる金上盛備に忠誠を誓うことは、彼にとって到底受け入れられるものではなかったであろう。
この政治的敗北の瞬間、氏実の忠誠の対象は、もはや「蘆名家」という抽象的な概念から、「富田家」の存続という、より具体的で切実な目標へと完全に移行したと考えられる。主家を見限るという彼の決意は、この時に固まった。来るべき伊達政宗との決戦において、彼が取る不可解な行動の伏線は、この時点で全て張られていたのである。
天正17年(1589年)6月5日、蘆名家の命運を賭けた摺上原の戦いの火蓋が切られた。後継者問題で生じた亀裂を抱えたまま、蘆名義広率いる軍勢は、伊達政宗の軍と磐梯山麓で激突する。この戦いにおける富田氏実の行動は、様々な記録が錯綜しており、長らく謎とされてきた。しかし、近年の史料研究は、その不可解な行動の裏に隠された、周到な計画の存在を浮かび上がらせている。
摺上原の戦いにおける氏実の役割については、複数の説が存在する。
いずれの説を取るにせよ、氏実が蘆名軍の中核として戦わなかったことは共通している。父の不可解な行動とは対照的に、息子の富田隆実(通称:将監)は、伊達軍の猛将・伊達成実と一騎討ちを演じるほどの奮戦を見せたことが伝えられており、この親子の行動の著しい乖離が、富田家の置かれた複雑な状況を物語っている 2 。
氏実の内通説を単なる憶測から、ほぼ確実な事実へと引き上げたのが、『北塩原村史資料編』に所収されている『片倉家文書』の記述である。この伊達家の重臣・片倉景綱に関する史料には、衝撃的な事実が記録されていた。
第一に、摺上原の戦いが起こる約5ヶ月前の天正17年正月、「とびたかた」(富田方)の使者が、米沢城にいた伊達政宗のもとを訪れ、年始の挨拶として酒肴を届けていたという記録である 16 。これは、開戦前から富田氏と伊達氏が、敵対関係にあるにもかかわらず、極秘裏に接触を持っていたことを示す動かぬ証拠である。
第二に、合戦が終結した直後の同年6月7日から10日の間に、「会津の家老富田美作(氏実)」が、政宗の陣を訪れ、自らの本領安堵を願い出ている記録である 16 。戦いが終わって間髪を入れずに行われたこの行動は、戦後処理について事前に何らかの密約が存在したことを強く推認させる。
これらの史料を繋ぎ合わせると、氏実の行動は、単なる日和見や敵前逃亡ではなかったことが明らかになる。それは、後継者問題で政治的に敗北した時点から周到に準備された、伊達政宗と連携した「政変」の一環であった。年始の挨拶は水面下での交渉開始の合図であり、摺上原での「傍観」や「無断撤退」は、蘆名軍の組織的抵抗を内部から崩壊させるための、意図的なサボタージュであった可能性が極めて高い。彼は、蘆名軍が敗北することを確信し、その敗北を決定的にするために、計算ずくで行動したのである。摺上原の悲劇は、富田氏実という内部協力者を得た伊達政宗によって、周到に仕組まれた結果であったと言えよう。
摺上原の戦いで主家を事実上の滅亡に追い込んだ富田氏実。彼の選択は、富田一族に何をもたらしたのか。氏実本人のその後の動向は史料に乏しく謎に包まれているが、彼の子孫たちがたどった運命は、氏実の行動が冷徹な生存戦略として、いかに「成功」したかを如実に物語っている。
蘆名家滅亡後の氏実の足取りについては、確たる記録が少ない。最も有力な説は、摺上原の戦いの後、主君・蘆名義広が常陸の佐竹氏のもとへ逃走したのを見届け、黒川城(後の会津若松城)にて伊達政宗に降伏した、というものである 1 。『片倉家文書』の記録とも整合性が取れるこの説が、彼の最後の動向として最も信憑性が高い。異説として、義広に付き従って常陸の佐竹氏のもとへ逃亡したという説も存在するが、伊達方との事前の接触を考えれば、その可能性は低いと言わざるを得ない 4 。降伏後の氏実が伊達家でどのような処遇を受けたのか、そしていつどこで没したのかについては、残念ながら史料上に明確な記述を見出すことはできない。
氏実個人の末路とは対照的に、彼の子孫たちは、それぞれの道を歩み、特に一系統は新たな支配者である伊達家のもとで目覚ましい発展を遂げた。
その功績により、氏紹は最終的に仙台藩の家老職にまで昇進。桃生郡小野本郷に二千石という広大な知行を与えられ、家格も「永代着座二番座」という、藩内でも最高クラスの待遇を与えられた 18 。蘆名家に殉じた金上盛備や、摺上原で討ち死にした佐瀬一族が歴史の露と消えたのとは対照的に、富田一族は、主家を滅亡に導いた張本人の一族でありながら、新たな支配者の中枢に深く食い込み、江戸時代を通じて大身の武家として存続・繁栄したのである。
この結果は、富田氏実の「裏切り」が、単なる保身のための衝動的な行動ではなく、一族の存続と繁栄という明確な目的を持った、冷徹かつ長期的な視野に立った生存戦略であったことを証明している。旧主への「不忠」という倫理的な評価とは別に、戦国の家長として「家」を未来へ繋ぐという責務を、彼は自らのやり方で果たしきったと言えるだろう。
富田氏実の生涯を、蘆名家の権力構造と戦国末期の奥州情勢という文脈の中で再検証する時、彼を単に「忠」か「不忠」かという二元論で評価することの限界が明らかになる。彼の行動は、個人的な資質以上に、時代の大きなうねりの中で、一人の武将が下さざるを得なかった、ある種の必然的な選択であった。
氏実の決断を方向づけた要因は、三つに集約できる。第一に、蘆名氏が会津に入る以前からの在地領主としての「富田家」の存続と繁栄を最優先する、強い意志。第二に、後継者問題で露呈した、旧来の宿老層と新興の執権派との修復不可能な対立という、蘆名家中の根深い病理。そして第三に、もはや一個の地方権力では抗うことのできない、伊達政宗という時代の奔流そのものであった。これら三つの要因が交差した点に、氏実の選択は生まれたのである。
彼は、後継者問題における政治的敗北によって、自らが支えるべき「蘆名家」が、もはや存在しないと判断した。そして、滅びゆく主家と運命を共にする道ではなく、新たな時代の支配者と手を結び、自らの一族を生き永らえさせる道を選んだ。その結果、蘆名四百年の歴史に終止符を打つ引き金を引く「破壊者」となった。しかし同時に、その瓦礫の中から、仙台藩家老という一族の新たな未来を築き上げた「創造者」でもあった。
富田氏実の生涯は、中世的な主従関係が崩壊し、近世的な権力構造へと移行する激動の時代において、武士たちが「家」の存続という至上命題を前に、いかに冷徹で現実的な選択を迫られたかを示す、奥州における一つの象徴的な事例である。彼は、忠義という名の滅びの道ではなく、謀略という名の存続の道を選んだ。その評価は、時代や立場によって大きく分かれるだろう。しかし、その選択の背景にある力学と、彼がもたらした結果を直視することなくして、戦国末期の奥州史を正しく理解することはできない。富田氏実は、その複雑さと矛盾を内包したまま、歴史に記憶されるべき人物なのである。