富田盛実は蘆名氏の宿老。永正会津の乱で蘆名盛高を支持し、蘆名家中で地位を確立。その子孫である富田氏実は、蘆名家滅亡の摺上原の戦いで伊達政宗と内通したとされる。
日本の戦国時代、奥州会津に君臨した蘆名氏。その四百年にわたる治世を支え、そしてその終焉にも深く関与した一族がある。松本、平田、佐瀬と並び「蘆名四天の宿老」と称された富田氏である 1 。本報告書は、ご依頼者が関心を寄せられた「富田盛実」という人物を手掛かりに、蘆名家の歴史の重要な節目に常にその名を刻んだ富田一族の興亡の軌跡を、史料に基づき徹底的に解明するものである。
調査を進めるにあたり、まず明確にすべき点がある。ご依頼者が把握されている「富田盛実」は、永正年間(1504-1521)に主君である蘆名盛高・盛滋父子の内紛において、父の盛高方に与して戦った人物として記録に見える 2 。一方で、蘆名家滅亡期の天正年間(1573-1592)に「四天の宿老」として権勢を振るい、その後の歴史に大きな影響を与えたのは「富田氏実(うじざね)」という同族の別人である 4 。この二人の人物は、活躍した時代が半世紀以上異なり、混同は避けねばならない。
この歴史的記憶の錯綜は、単なる誤伝ではない。むしろ、富田氏という一族が、蘆名家の歴史における二つの大きな内乱、すなわち永正年間の家督争いと、滅亡の直接的要因となった天正年間の後継者問題の双方で、常に鍵を握る中心的な役割を担っていたことの証左と言えよう。それゆえ本報告書では、特定の個人に限定せず、富田一族の通史として、永正年間の当主(盛実と目される人物)と天正年間の当主・氏実を重要な画期として捉え、その栄光と苦悩の物語を多角的に描き出す。
報告書の理解を助けるため、まず富田一族の主要人物の関係を以下の略系図に示す。
表1:富田一族 略系図
世代 |
人物名 |
通称・官途 |
備考 |
- |
富田盛美 |
- |
- |
- |
富田実持 |
- |
盛美の子 |
- |
富田滋実 |
左近将監、美作守 |
実持の子。蘆名盛滋より偏諱を賜う。猪苗代盛頼討伐や伊達家との婚姻外交で活躍 1 。 |
当主 |
富田氏実 |
美作守 |
滋実の子。本報告書の中心人物の一人。蘆名盛氏より偏諱を賜う。蘆名四天の宿老 1 。 |
子 |
富田隆実 |
将監 |
氏実の長男。摺上原の戦いで奮戦 6 。 |
子 |
佐瀬常雄 |
- |
氏実の次男。佐瀬種常の養子となる 4 。 |
子 |
富田実積 |
- |
氏実の三男 4 。 |
子 |
富田氏繁 |
- |
氏実の四男。子孫は仙台藩家老となる 4 。 |
出典: 1 の情報を基に作成。
この系図が示すように、本報告書で詳述する富田氏実と、摺上原の戦いで対照的な行動をとる富田隆実は父子関係にある。この関係性を念頭に置くことで、蘆名家滅亡という悲劇の内実をより深く理解することができるであろう。
富田氏が、いかにして会津の地に根を下ろし、蘆名家の重臣へと至ったのか。その起源は、複数の伝承の中に語られている。
最も有力な説の一つは、古代の安積郡富田(現在の福島県郡山市周辺)に住んだことに由来するというものである 9 。さらにその祖先は、会津最古の寺院とされ、平安時代初期に高僧・徳一によって開かれた慧日寺(えにちじ)の寺侍であったと伝えられる 9 。慧日寺は、かつて寺僧三百、僧兵数千を擁したとされる大寺院であり 11 、その寺侍であったということは、富田氏が単なる武士ではなく、古くからの宗教的権威に根差した土着の有力者であったことを示唆している。外部から会津に入り支配を確立した蘆名氏に対し、富田氏は在地領主としての由緒と格を有していた。この土着性こそが、後に彼らが蘆名家中で重きをなすための基盤となったと考えられる。
一方で、富田氏は藤原南家伊東氏の流れを汲むとする説も存在する。『伊東家譜』には、伊東祐盛が富田に移り住み、富田伊東の祖となったと記されている 9 。富田氏が代々名乗りに用いた「祐」の字が、伊東氏の祖である工藤氏の通字と一致することから、この説にも一定の説得力がある 9 。
いずれの説が正しいにせよ、富田氏が蘆名氏の家臣団に組み込まれていくのは鎌倉時代の貞応元年(1222)頃とされる。蘆名氏二代当主・光盛が慧日寺で出会った有司・漏祐に仕官を勧めたところ、漏祐は固辞し、代わって息子の千松(後の範祐)を出仕させたのが始まりと伝えられている 9 。こうして富田氏は、会津の歴史の表舞台に登場し、武士団としてその地位を確立していくのである。
富田氏が蘆名家中でその存在感を決定的に高めた最初の画期が、永正2年(1505)に勃発した「永正会津の乱」である。これは、蘆名家13代当主・盛高と、その嫡男・盛滋の間で繰り広げられた、家督を巡る深刻な内乱であった 12 。
この争いの根底には、蘆名家臣団内部の有力家系間の対立があった。すなわち、後の四天宿老を構成することになる富田氏・佐瀬氏と、同じく四天宿老の一角を占める松本氏との派閥抗争である 14 。武勇に優れた盛滋は松本氏の支援を受けて挙兵し、綱取城に籠城した 14 。これに対し、当主である父・盛高は富田氏と佐瀬氏の支持を得て白川口へ兵を進めた 2 。この時、盛高を支持した富田氏の当主こそ、ご依頼者の知る「富田盛実」、あるいはその父祖であったと考えられる 3 。
同年十月、両軍は塩川で激突。激戦の末、盛高・富田方が勝利を収め、敗れた盛滋は伊達家を頼って出羽国長井へと落ち延びた 2 。この内乱における勝利への貢献は、富田氏の家中における地位を不動のものとした。彼らは単なる一家臣ではなく、主家の家督問題にさえ影響を及ぼすほどの力を持つ存在として、宿老への階梯を駆け上がっていったのである。
しかし、この永正会津の乱が残した影響は、富田氏の栄達だけに留まらない。この時に顕在化した「富田・佐瀬 vs 松本」という家臣団の対立構造は、蘆名家が抱える構造的な脆弱性の発端となった。松本氏はその後も度々反乱を起こすなど、蘆名家にとって不安定要因であり続けた 17 。そして、この時に生まれた家臣団の亀裂は、約80年の時を経て、蘆名家滅亡の引き金となる天正年間の後継者問題における家臣団分裂へと、影を落としていくことになるのである。
永正会津の乱から約半世紀、蘆名家は16代当主・盛氏の時代に全盛期を迎える。「奥州の名君」と称された盛氏のもと、勢力は中通りにまで拡大し、会津は約72万石ともいわれる栄華を誇った 12 。この輝かしい時代に、富田一族の新たな当主として歴史の表舞台に登場するのが、富田氏実である。
氏実の父・滋実は、猪苗代盛頼の討伐や、伊達輝宗の妹と蘆名盛興(盛氏の嫡男)との婚約を取りまとめる外交交渉で活躍するなど、すでに家中で重きをなしていた 1 。その地盤を受け継いだ氏実は、元亀2年(1572年)頃に出仕し、主君・盛氏からその名の一字である「氏」の偏諱を授かるという、家臣として最高の栄誉を受けた 4 。これは、氏実が盛氏から深い信頼を寄せられ、将来を嘱望される有望な武将と見なされていたことの証である。
その期待に応え、氏実は武将として着実に功績を重ねていく。天正6年(1578年)、上杉謙信の死後の混乱に乗じて反乱を起こした大槻政通・山内重勝らを、同僚の平田舜範らと共に鎮圧し、その武名を示した 4 。この頃の氏実は、まさに蘆名家の屋台骨を支える忠実な宿老として、そのキャリアの絶頂期にあった。
しかし、栄光の時代は長くは続かなかった。天正8年(1580)に名君・盛氏が世を去ると、蘆名家の運命は暗転する。天正12年(1584)、後を継いでいた18代当主・盛隆が家臣に暗殺され、さらにその跡を継いだ幼い亀王丸もわずか3歳で夭折するという悲劇が続いた 12 。これにより、蘆名家は深刻な後継者不在の危機に陥る。
この未曾有の国難に際し、家臣団は二つに分裂した。一つは、隣国で急速に勢力を拡大する伊達政宗の弟・小次郎を養子に迎え、伊達家との連携で難局を乗り切ろうとする「伊達派」。もう一つは、常陸の雄・佐竹義重の子である義広を迎え、豊臣中央政権との繋がりが深い佐竹家を後ろ盾としようとする「佐竹派」である 23 。
富田氏実は、蘆名一門の重鎮である猪苗代盛国や、四天宿老の同僚である平田氏ら、宿老の大半や国人領主たちと共に、伊達派の中核を担った 4 。これは、地政学的に強大な伊達家との協調を優先する、現実的な判断であったと言える。しかし、この後継者争いは、中央政権とのパイプを持つ重臣・金上盛備の巧みな政治工作により、佐竹派の勝利に終わる 6 。天正15年(1587年)、佐竹家から義広が新当主として迎えられ、蘆名家中の権力構造は一変した。
この後継者争いにおける政治的敗北は、富田氏実のその後の運命を決定づける重大な転換点となった。家中での主導権を失っただけでなく、新当主・義広に随行してきた佐竹家臣(大縄氏ら)が実権を握り、旧来の伊達派宿老は次々と失脚させられていく 23 。蘆名家中枢における自らの将来が閉ざされたと感じたであろう氏実にとって、主家への忠誠心は大きく揺らいだに違いない。この政治的疎外と将来への不安が、彼を蘆名家と敵対する伊達政宗への接近、そして内通へと駆り立てる現実的な動機を形成した可能性は極めて高い。生き残りを賭けて、敵であったはずの伊達と通じる道を探るのは、戦国の世を生きる武将として、ある意味で自然な選択肢であったのかもしれない。
後継者問題で伊達派に与しながらも、富田氏実は同時に、蘆名家の宿老として対外的な責務も果たしていた。その行動は、彼の人物像の複雑さを如実に物語っている。
当時、蘆名家にとって最大の脅威は、言うまでもなく伊達政宗の軍事的圧力であった。この脅威に対抗するため、蘆名家中枢が選択した道は、天下人となった豊臣秀吉の権威に頼ることであった。そして、その重要な外交交渉の担い手こそ、富田氏実だったのである 21 。
史料によれば、氏実は豊臣政権の中枢にいた石田三成と書状を交わし、新当主・義広の上洛を促すなど、中央とのパイプ役として奔走している 5 。この交渉の過程で、会津の特産品であった「松尾の梨」を三成に贈ったという逸話も残されている 21 。これは、彼が単なる武辺者ではなく、贈答品を効果的に用いる細やかな外交感覚をも備えた人物であったことを示している。
家中では伊達派の中心人物でありながら、対外的には反伊達の切り札となる豊臣政権との外交を主導する。この一見矛盾した行動こそ、富田氏実という武将の真骨頂であった。彼は、複数の選択肢を常に天秤にかける、高度な政治的リアリストだったのである。蘆名家が豊臣政権の庇護下で存続できるのであれば、それに越したことはない。そのための外交努力は惜しまない。しかし、万が一それが失敗した場合の保険として、伊達との繋がりも維持しておく。これは、主家である蘆名家の存続と、自らの一族である富田家の存続という、二つの異なるレベルの生存戦略を同時に追求する、極めて冷静かつ冷徹な判断であったと言えよう。忠臣か、裏切り者か、という単純な二元論では、彼の複雑な行動を到底理解することはできない。
天正17年(1589)6月5日、奥州の勢力図を塗り替える決戦の火蓋が切られた。磐梯山麓の摺上原で、蘆名義広率いる蘆名・佐竹連合軍と、伊達政宗率いる伊達軍が激突したのである。この戦いの直接のきっかけは、伊達政宗の執拗な調略に応じ、かつて氏実と共に伊達派を形成した蘆名一門の重臣・猪苗代盛国が伊達方へ寝返ったことであった 25 。
この蘆名家の命運を賭けた決戦において、富田一族は悲劇的なまでに分裂した姿を晒すことになる。
父・富田氏実の長男である富田隆実(将監)は、蘆名軍の先鋒として奮戦。その勇猛さは凄まじく、伊達軍の先陣・猪苗代盛国隊を打ち破り、さらに二の陣の原田宗時、三の陣の片倉景綱の部隊をも突破して、政宗の本陣に迫るほどの目覚ましい活躍を見せた 2 。緒戦は、隆実の獅子奮迅の働きにより、蘆名軍が優勢であった。
しかし、その一方で父・氏実の行動は不可解であった。史料によれば、氏実が率いる部隊は後方にあり、隆実の奮戦をただ傍観するのみで、やがては無断で戦線を離脱したとされる 4 。この行動は、事前に伊達方と内通していたためと強く疑われている 4 。戦後、伊達家に降伏したという説や、そもそも黒川城の留守居役として参戦していなかったという異説も存在するが 4 、いずれにせよ、蘆名家の中核を担うべき宿老が、その責務を放棄したことは、蘆名軍の士気を著しく低下させ、最終的な大敗の一因となったことは間違いない 30 。
戦場で繰り広げられた富田父子のこの対照的な行動は、末期的な状況にあった蘆名家臣団の崩壊を象徴する悲劇である。父・氏実の行動が、後継者問題に端を発する政治的計算と、自らの一族の生き残りを賭けた冷徹な判断の結果であるとすれば、子・隆実の行動は、そのような政治的打算を超えた、武士としての純粋な忠義と名誉の発露であったと見ることができる。蘆名家という「公」への忠誠と、富田家という「私」の存続。二つの価値観が、父と子の間で激しく衝突したのである。この相克は、家臣団の分裂が、もはや一個人の裏切りというレベルに留まらず、家族という最小単位にまで深く浸透していた、蘆名家の末期的症状を克明に物語っている。
摺上原での大敗により、当主・義広は実家の佐竹氏のもとへ逃亡し、四百年にわたって会津に君臨した戦国大名・蘆名氏は事実上滅亡した 25 。主家を失った富田一族もまた、過酷な運命の岐路に立たされる。
主家滅亡の一因を作った富田氏実のその後の消息は、諸説あり判然としない。常陸の佐竹氏のもとへ逃れたとも 4 、あるいは伊達家に降伏したとも伝えられる 4 。一方で、最後まで忠節を尽くして奮戦した息子の隆実は、流浪の末に相馬氏に仕官したという記録が残る 29 。
しかし、富田一族の物語はここで終わらない。むしろ、ここからが戦国武家の生存戦略の真骨頂と言えるかもしれない。特筆すべきは、氏実の四男であった富田氏繁の系統が、かつての宿敵である伊達家に仕官し、その家名を後世に伝えたことである 4 。氏繁の子・氏紹(うじつぐ)は、仙台藩二代藩主・伊達忠宗、三代・綱宗、四代・綱村の三代に仕え、伊達騒動の際にも藩主を支え続けた功績により、奉行職を経て家老にまで昇進。永代着座という、藩内でも最高位の家格を与えられ、二千石の知行を得るに至った 8 。
主家を滅ぼした宿敵のもとで、一族が繁栄を遂げる。これは、歴史の大きな皮肉である。しかし同時に、戦国乱世から近世へと移行する激動の時代における、武家の生存戦略の本質を鋭く描き出している。彼らにとって、主家の存亡は絶対的なものではなかった。最も重要なのは、自らの「家名」と「血脈」を次代に繋ぐことであり、そのためには主君を変えることも厭わない、極めて現実的な価値観が支配していた。この価値観に照らせば、富田氏実の摺上原での行動は、蘆名家にとっては紛れもない裏切りであったが、富田家という視点に立てば、結果的に一族を存続させ、近世大名家臣として繁栄させることに成功した「戦略」であったと評価することも可能なのである。
本報告書で詳述してきたように、富田氏実という人物は、単純な「忠臣」あるいは「裏切り者」という言葉で断じることができるような、平坦な人物ではない。
蘆名家全盛期には、主君・盛氏の信頼厚い宿老として反乱を鎮定し、また、滅亡の危機に瀕しては、豊臣政権との外交交渉という重責を担った。この側面から見れば、彼は紛れもなく蘆名家を支えた「忠臣」であった。
しかしその一方で、後継者問題における政治的敗北を機に、主家を見限り、宿敵・伊達政宗と通じた。そして、主家の命運を分ける決戦において、その敗北を決定づける行動をとった。この側面から見れば、彼は主家を滅亡に追いやった「裏切り者」以外の何者でもない。
この二つの貌は、どちらも富田氏実の真実の姿であった。彼を突き動かしていたのは、戦国乱世を生き抜く武将に共通する、自らの一族を存続させたいという、極めて根源的な欲求であった。その目的のためには、忠誠を誓うことも、裏切ることも、全ては選択肢の一つに過ぎなかった。
彼の生涯は、中世的な主従関係が崩壊し、近世的な「家」の論理がそれに取って代わっていく、時代の大きな過渡期を象徴している。富田氏実を、単に道徳的な善悪の物差しで裁くのではなく、激動の時代の中で、自らの一族の未来を背負い、非情な決断を下さざるを得なかった一人の戦国武将として捉えること。そして、その選択の背景にあった政治状況と歴史の必然性を理解することこそ、我々が彼の生涯から得るべき、最も重要な教訓であろう。
表2:富田氏実と蘆名家 関連年表
年代 |
蘆名家・周辺大名の動向 |
富田氏実の動向 |
中央の動向 |
元亀2年(1572) |
蘆名盛氏、家中の実権を掌握。 |
蘆名盛氏に出仕し、偏諱を賜う 4 。 |
織田信長、比叡山を焼き討ち。 |
天正2年(1574) |
蘆名盛興(盛氏の子)が死去。二階堂氏から盛隆が養子に入る 18 。 |
- |
織田信長、伊勢長島一向一揆を殲滅。 |
天正6年(1578) |
上杉謙信が死去(御館の乱)。大槻政通らが反乱。 |
大槻政通・山内重勝らの反乱を鎮圧 4 。 |
織田信長、毛利氏攻略を開始。 |
天正8年(1580) |
蘆名盛氏が死去。盛隆が実権を掌握 18 。 |
- |
- |
天正10年(1582) |
蘆名盛隆、織田信長と誼を通じる。 |
邸内で小笠原長時が殺害される事件が発生 4 。 |
本能寺の変。織田信長が死去。 |
天正12年(1584) |
蘆名盛隆が家臣に暗殺される。子・亀王丸が跡を継ぐ 12 。 |
松本行輔の謀反に加担したとされる 4 。 |
小牧・長久手の戦い。 |
天正14年(1586) |
蘆名亀王丸が夭折。後継者問題が勃発 21 。 |
伊達小次郎を推す「伊達派」の中核となる 7 。 |
豊臣秀吉、太政大臣に就任。 |
天正15年(1587) |
金上盛備らの工作により、佐竹家から義広が養子に入る 23 。 |
後継者争いに敗北。家中での影響力を失う。 |
九州平定。バテレン追放令。 |
天正17年(1589) |
猪苗代盛国が伊達方へ寝返る。 |
石田三成と外交交渉を行う 5 。伊達政宗と内通か 31 。 |
- |
天正17年(1589)6月 |
摺上原の戦い 。蘆名軍が大敗し、蘆名家が滅亡。 |
傍観・無断撤退したとされ、敗因の一端となる。子・隆実は奮戦 4 。 |
- |
天正18年(1590) |
- |
消息は諸説あり(佐竹氏へ逃亡、伊達氏へ降伏など) 4 。 |
豊臣秀吉、小田原征伐。天下統一。 |
出典: 4 等の情報を基に作成。