陸奥国(現在の東北地方北東部)に広大な勢力を誇った葛西氏は、鎌倉時代から戦国時代の終焉に至るまで、約四百年にわたりこの地を治めた名門である。その歴史は、源頼朝による文治五年(1189年)の奥州合戦に遡る 1 。葛西氏の祖・葛西清重は、この合戦における戦功により、頼朝から奥州の広大な所領(磐井、江刺、伊沢、気仙、牡鹿、本吉の諸郡)と奥州惣奉行の職を与えられ、一躍奥羽における有力御家人の地位を確立した 1 。
時代が下り、戦国期に入っても葛西氏は、室町幕府の将軍家から当主が偏諱(諱の一字を賜ること)を拝領するなど、中央政権からも認められた奥州の有力大名として君臨し続けた 3 。その所領は現在の宮城県北部から岩手県南部に及び、三十万石以上を領有していたと伝わる 2 。しかし、その広大な領国支配は、決して盤石なものではなかった。隣接する大崎氏や、南から勢力を伸張させる伊達氏との緊張関係は常態化しており、加えて、領内における統治体制そのものが、葛西氏の権力基盤を脆弱にする要因を内包していたのである。
葛西氏の支配体制は、織田信長や豊臣秀吉のような中央集権的な戦国大名が確立した上意下達のシステムとは大きく異なっていた。その実態は、葛西宗家を盟主としながらも、寺崎氏、柏山氏、富沢氏、熊谷氏といった、一族の庶家や古くからの国人領主たちが強い独立性を保持する連合政権に近いものであった 2 。これらの家臣団は、葛西氏と共に鎌倉時代に奥州へ下向した一族や、それ以前から土着していた地頭の末裔など、その出自は多様であり、それぞれが自らの所領と郎党を持つ半独立的な領主であった 4 。彼らは、時には「一揆」という形で心を一つにする契約を結び、共同で防衛にあたる一方、ひとたび利害が対立すれば、所領を巡って互いに干戈を交えることも少なくなかった 6 。事実、葛西領内では、有力家臣同士の紛争や、時には主家に対する反乱が頻発しており、葛西当主はその調停と鎮圧に絶えず腐心していたのである 4 。
このような不安定な支配構造は、葛西氏の統治におけるアキレス腱であった。当主の権力が領内の隅々まで絶対的に及ばない状況下で、家臣団を統制し、忠誠を確保するために多用されたのが、政略結婚や養子縁組といった血縁政策であった。有力家臣同士を縁組させることで融和を図り、あるいは対立する家臣団の間に楔を打ち込み、主家への依存度を高める。それは、葛西氏が生き残るための巧みな統治術であると同時に、その政略の渦に巻き込まれた者たちの悲劇を生み出す土壌ともなった。
本報告でその生涯を追う寺崎良次(てらさき よしつぐ)は、まさにこの葛西氏が内包する構造的矛盾の只中に生きた武将である。彼は、葛西氏の有力家臣である寺崎氏の当主でありながら、その出自は宿敵ともいえる金沢氏にあった。実家と養家、そして主家の思惑が複雑に絡み合う中で、彼は忠義と宿命の狭間で苦悩し、翻弄された。本報告は、寺崎良次という一人の武将の生涯を徹底的に掘り下げると同時に、彼が生きた時代の奥州、とりわけ葛西氏の支配構造とその特質を明らかにすることを目的とする。彼の軌跡を辿ることは、歴史の表舞台には現れない地方武将の生き様を通して、戦国という時代の深層を理解するための一つの鍵となるであろう。
寺崎良次の生涯を理解するためには、彼がその身を置いた二つの家、すなわち実家である金沢氏と、養家である寺崎氏の歴史的背景と、両家の間に横たわる深い因縁を解き明かす必要がある。彼の運命は、この二つの家の宿命的な関係性によって、その幕を開けることとなる。
金沢氏は、奥州千葉氏の一族に連なる家系である 7 。その祖は薄衣清胤(うすぎぬ きよたね)とされ、彼が陸中国金沢村(現在の岩手県一関市)に朝日館を築いて本拠としたことから、金沢を姓として称するようになったと伝わる 7 。金沢氏は、葛西領の南西部、磐井郡の「流郷(ながれのしょう)」と呼ばれる地域に勢力を張る有力な国人領主であった。
しかし、金沢氏の歴史は、主家である葛西氏に対する反抗の歴史でもあった。永正四年(1507年)、金沢冬胤(かなざわ ふゆたね)が葛西氏に対して反乱を起こしたのである。この戦いは、金沢氏と寺崎氏の間に、消しがたい遺恨を残すことになる。この時、葛西方として出陣した寺崎時胤(てらさき ときたね)は、金沢軍との激戦の末に討死を遂げた 8 。この事件は、両家の間に血で血を洗う対立の歴史を刻み込んだ。
本報告の主題である寺崎良次の実父は、史料において「金沢下総守良通(かなざわ しもうさのかみ よしみち)」としてその名が確認できる人物である 8 。彼は永禄年間(1558年-1570年)頃に活動したとみられ、後に詳述する、自らの三男・良次(当時の名は吉次)を、宿敵であるはずの寺崎氏へ養子として送り出すという、重大な決断を下すことになる。
一方、良次の養家となった寺崎氏もまた、金沢氏と同様に奥州千葉氏の一族を称する家系である 8 。一部の系図では葛西氏の庶家とも記されており 3 、いずれにせよ葛西家臣団の中で重きをなす一族であったことは間違いない。彼らは金沢氏と同じく流郷に勢力基盤を持ち、峠城(とうげじょう)を居城としていた 8 。
金沢氏との因縁は、前述の永正四年の戦いに始まる。この戦いで当主・寺崎時胤を討たれた寺崎家は、その復讐を誓う。時胤の子・五郎三郎(史料によっては重清、あるいは時継とも記される)は、永正七年(1510年。史料によっては永正十八年(1521年)とするものもある)に金沢城を攻め、父の仇である金沢冬胤を討ち取ることに成功する 8 。しかし、その直後、彼は主君であるはずの葛西重信の軍勢に攻められ、討死するという悲劇的な最期を遂げた 8 。この不可解な出来事の背後には、家臣団同士の私闘を許さず、勢力を伸ばした寺崎氏を危険視した葛西当主の思惑があった可能性が指摘されている。
父の仇を討ったものの、自らも主君に討たれるという悲劇によって、寺崎氏は当主とその後継者を同時に失うという断絶の危機に瀕した。この危機を収拾するために行われたのが、戦国時代の政略の中でも極めて異例といえる養子縁組であった。跡継ぎを失った寺崎氏に、宿敵である金沢氏から、当主・金沢良通の三男が養子として迎え入れられたのである。この人物こそが、後の寺崎良次(当時は吉次(きちじ)と名乗った)であった 8 。
この養子縁組は、両家の私的な合意によるものではなく、流郷における二大勢力の長年にわたる紛争を終結させ、地域の安定化を図ろうとする葛西当主の強い意向、すなわち命令によって断行された政略であったと考えるのが自然である。良次は、二つの家の和解の象徴、あるいは人質として、敵対する一族の家督を継ぐという数奇な運命を背負わされることになった。
この養子縁組は、良次の生涯に決定的な影響を与えた。彼は寺崎氏の当主として、養家への忠誠を誓う一方で、実家である金沢氏との関係にも苦慮したであろう。そして、後に実家である金沢氏が再び葛西氏に反旗を翻した際、彼は養家・寺崎氏の当主として、主君・葛西氏の軍勢に加わり、自らの生まれ故郷である金沢氏と戦うという、過酷な選択を迫られることになる。依頼者が提示した「実家が謀叛を起こした際、良次は葛西軍に従った」という情報は、まさにこの文脈の中で起きた出来事であり、彼の苦悩と忠義を象徴するものである。天文十三年(1544年)に金沢胤正が反乱を起こし、葛西高信に討伐された際、金沢氏出身の寺崎吉次(良次)はこの高信に従ったと推測され、この功により寺崎家は金沢氏の旧領を与えられ、流郷における支配的地位を確立した 8 。
寺崎良次に関する史料を調査する上で、一つの大きな課題となるのが名前の表記の揺れである。彼は「良次」の他に、「吉次(きちじ)」、「良継(よしつぐ)」といった複数の名で記録されている 7 。これらを別人と見なすことも可能であるが、活動時期、拠点、そして何よりも「石見守(いわみのかみ)」という共通の官途名から判断して、これらはすべて同一人物を指すものと結論付けるのが最も合理的である。
この表記の揺れは、単なる誤記や転写ミスではなく、彼の生涯における各段階や、記録を残した側の立場を反映している可能性がある。例えば、「吉次」は金沢氏から寺崎氏へ養子に入った当初の名であり、「良次」や「良継」は元服後や家督を継承した後の正式な諱であったと推測できる。「吉」と「良」や、「次」と「継」は、音通や縁起の良い字への変更など、戦国武将の名前においてしばしば見られる現象である。この解釈に立つことで、断片的に残る「寺崎石見守」の記録を一つの線で結び、彼の行動を一貫した物語として再構築することが可能となる。本報告では、これらの名をすべて同一人物「寺崎良次(吉次/良継)」として扱い、その生涯を追跡する。
以下の表は、複数の史料に見られる寺崎氏と金沢氏の系図情報を比較・整理したものである。人物名の表記、続柄、活動年代に見られる異同を明らかにすることで、本報告における人物比定の妥当性を示す。
史料上の位置づけ |
寺崎時胤の世代 |
寺崎重清(五郎三郎)の世代 |
寺崎良次(吉次)の世代 |
良次の子・兄の世代 |
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家系 |
寺崎氏 |
寺崎氏 |
金沢氏 → 寺崎氏 |
寺崎氏 / 金沢氏 |
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人物名(諱・通称・官途名) |
寺崎時胤 (下野守) 8 |
寺崎五郎三郎 (重清/時継) 8 |
金沢良通 (下総守) 8 の三男、 |
寺崎良次 (吉次/良継、石見守) 8 |
子 : 寺崎信次 (正継/信継、刑部) 8 |
実兄: 金沢信胤 (伊予守) 8 |
居城 |
峠城 8 |
峠城 8 |
峠城 8 |
峠城 / 金沢城 |
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主な事績・没年 |
永正4年(1507)、金沢冬胤の反乱で討死 8 。 |
永正7年(1510)または永正18年(1521)、金沢冬胤を討つも、直後に葛西重信に攻められ討死 8 。子がなく、寺崎家は断絶の危機に。 |
跡継ぎのいない寺崎重清の養子となる 8 。実家・金沢氏の反乱の際は葛西方に従う 8 。天正7年(1579) または天正10年(1582) 8 に戦死。 |
天正18年(1590)の奥州仕置後、葛西大崎一揆に参加 8 。天正19年(1591)、桃生郡深谷糟塚にて兄弟(甥と伯父)揃って自刃 7 。 |
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考察 |
金沢氏との確執の始まり。 |
復讐を果たすも、主家の介入により悲劇的な最期を遂げる。この断絶が良次の養子縁組の直接的な原因となる。 |
葛西氏の政略により、宿敵の家を継ぐ。実家と養家の間で忠義を尽くし、流郷の旗頭として活躍。 |
葛西氏滅亡という時代の激動の中で、かつて対立した二つの血筋が「葛西家臣」として運命を共にし、一族の歴史に幕を下ろす。 |
寺崎良次の生涯を語る上で、彼の活動拠点であった「峠城」の存在は欠かせない。この城は、単なる居城というだけでなく、葛西領における彼の地位と役割を象徴する戦略的な要衝であった。
「峠城」という名の城は、全国各地にその記録が散見される 11 。しかし、寺崎氏が葛西氏の家臣であり、その所領が磐井郡流郷であったという文脈を考慮すると、彼らの居城は岩手県一関市花泉町老松字峠沢に現存する城跡に比定するのが最も妥当である 10 。
この峠城は、標高約128メートル、麓からの比高差約80メートルの丘陵上に築かれた典型的な中世の山城である 10 。現地の調査によれば、郭(くるわ)、土塁、堀切といった山城特有の防御施設が確認されており、自然の地形を巧みに利用して築かれた堅固な要塞であったことがうかがえる 14 。大規模な発掘調査の記録は限られているものの 15 、周辺に点在する同時代の城館跡、例えば一関城や薄衣城などの構造から類推するに 16 、本丸を中心に複数の郭を階段状に配置し、尾根を堀切で分断して敵の侵攻を阻む、実戦的な構造を持っていたと考えられる。
この城が持つ価値は、その構造以上に、その地理的な位置にあった。峠城が位置する磐井郡流郷は、葛西領の南西端にあたり、長年にわたって緊張関係にあった大崎氏の領地と境を接していた。さらに、葛西領内にありながらも強い独立性を持つ他の有力国人たちの所領とも隣接しており、まさに葛西領の防衛と内部統制の両面において、極めて重要な意味を持つ最前線であった。寺崎良次は、この戦略的要衝の守りを任された、葛西氏にとって不可欠な武将だったのである。
寺崎良次の役割は、単なる一城主にとどまらなかった。彼は、実家・金沢氏が没落した後にその旧領をも併合し、「流郷二十四ヶ村の旗頭(はたがしら)」としての地位を確立したと伝わる 8 。旗頭とは、特定の地域に属する武士団を戦時に際して束ね、指揮する役職である。これは、良次が流郷という広域における軍事指揮権を葛西宗家から公認されていたことを意味する。
彼がその役割を実際に果たしていたことを示す具体的な記録が存在する。天正七年(1579年)春、岩ケ崎城主であった富沢日向守直綱が流郷に侵攻するという事件が発生した。この時、寺崎良次(史料では「寺崎石見守良継」と記される)は、富沢勢を迎え撃つべく出陣。彼は自らの軍勢だけでなく、葛西方の諸勢力の支援を取り付け、見事に富沢軍を撃退した。この戦いは、彼が単に主君の命令を待つだけの存在ではなく、地域の軍事動員の核として機能する、主体的な指揮官であったことを明確に示している。
この一連の事実は、寺崎良次の立場をより深く理解する上で重要な示唆を与える。彼は葛西氏の「家臣」であると同時に、流郷という自らの支配領域(名字の地)を持つ「国人領主」としての側面を色濃く有していた。葛西氏のような広大な領国を維持する大名は、全ての土地を直接支配するのではなく、その多くを良次のような有力な国人に「安堵」し、その地域の統治を委ねることで成り立っていた。したがって、良次の行動原理は、主君である葛西氏への忠誠心と、自らの領地とそこに住む人々、そして一族を守るという国人領主としての責任感、この二つの動機によって強く駆動されていたと考えられる。峠城は、主家への奉公のための軍事拠点であると同時に、彼の地域支配の権威と実力を示す象徴でもあったのだ。
忠義の武将として、また流郷の旗頭として活躍した寺崎良次であったが、その最期は戦国の世の常として、戦乱の中で訪れる。しかし、彼の死を巡る記録は断片的かつ錯綜しており、その正確な状況を特定することは、歴史研究における一つの挑戦となる。
良次の死に関する最も具体的な記述の一つは、前章でも触れた富沢氏との戦いに関するものである。天正七年(1579年)、流郷に侵攻してきた富沢直綱との戦いにおいて、「寺崎石見守良継、討死」という記録が残されている。もしこの「良継」が良次と同一人物であるならば、彼の没年は1579年ということになる。この戦いでは、葛西氏と対立していた小野寺氏も富沢方に加勢していたが、寺崎氏を中心とする葛西勢の奮戦により撃退された。この戦功は、寺崎氏の武勇と、流郷におけるその重要性を物語るものである。
一方で、これとは異なる記録も存在する。ある系図資料によれば、寺崎吉次(良次)が戦死したのは天正十年(1582年)とされている 8 。この年は、中央で本能寺の変が起こり、織田信長が横死した年である 19 。信長の死は、彼と従属関係を結んでいた奥州の諸大名にも大きな動揺を与え、各地で勢力争いが再燃した時期であった。この政治的空白に乗じて発生した何らかの局地的な紛争に巻き込まれ、良次が命を落とした可能性も十分に考えられる。
さらに、彼の死については、後の時代の出来事との混同も見られる。天正十九年(1591年)の葛西大崎一揆の際に、子である信次や兄の信胤と共に戦死したとする趣旨の記述も存在するが 8 、これは明らかに良次本人の最期ではなく、彼の一族の終焉を伝える記録との混同である。
依頼者が当初提示した情報の中にあった「河崎合戦」で戦死した、というキーワードは、今回の調査で渉猟した史料群の中では、その名称を明確に確認することができなかった。これは、この合戦が極めて局地的なものであったか、あるいは別の名称で記録されている可能性を示唆する。
「河崎」という地名は、文字通り川の先、川に面した場所を指す一般的な地名であり、特定の場所を指し示す固有名詞とは限らない 20 。葛西領内、あるいはその周辺に、当時「河崎」と呼ばれていた場所が存在し、そこで戦闘があった可能性は否定できない。この「河崎合戦」について、いくつかの仮説を立てることができる。
現存する史料から、寺崎良次の最期を一つの確定的な事実として断定することは困難である。彼の死に関する情報の錯綜は、織田信長や豊臣秀吉のような天下人の動向とは異なり、中央の歴史書には詳細が記されにくい地方武将の運命を象徴している。彼らの生涯は、一族に伝わる系図や、断片的な軍記物、地域の伝承など、客観性や網羅性に限界のある史料を通してしか窺い知ることができない。
しかし、これらの断片的な情報を繋ぎ合わせることで、一つの確からしい歴史像を構築することは可能である。寺崎良次は、天正七年(1579年)または天正十年(1582年)に、主君・葛西氏の忠実な家臣として、領内の紛争を鎮圧する過程で、あるいは領土を防衛する戦いの最前線で、その生涯を閉じた。これが、現時点で最も妥当性の高い結論と言えるだろう。「河崎合戦」の謎は、史料の限界を示すと同時に、失われた歴史のピースを探し求め、再構築していく歴史研究の奥深さをも物語っている。
寺崎良次が戦場に散った後も、戦国の世の動乱は続く。彼の死から約十年後、時代の大きなうねりは、彼の主家である葛西氏、そして彼が守り抜こうとした寺崎・金沢の一族をも飲み込み、その歴史に悲劇的な終止符を打つことになる。
天正十八年(1590年)、天下統一を目前にした豊臣秀吉は、関東の雄・北条氏を攻めるべく小田原征伐の軍を起こした。秀吉は全国の諸大名に、この戦いへの参陣を厳命する。しかし、奥州の大名であった葛西晴信は、領内の混乱などを理由にこれに参陣しなかった(あるいは遅参した) 2 。この不参を、秀吉は豊臣政権への服従を拒否する意思表示と見なし、断固たる処置を下す。小田原平定後、奥州に軍を進めた秀吉は、「奥州仕置」を断行。葛西氏は、鎌倉時代から四百年にわたって支配してきた広大な所領をすべて没収され、大名としての家名はここに滅亡した 2 。
葛西氏が治めていた旧領には、秀吉の家臣である木村吉清・清久親子が新たな領主として入部した 21 。彼らは、豊臣政権の支配を浸透させるべく、新たな検地(太閤検地)の強行など、急進的な改革に着手した。
しかし、この木村氏による強引な統治は、土地と深く結びついてきた旧葛西家臣や在地領主、そして領民たちの激しい反発を招いた。先祖代々の土地を奪われ、旧来の慣習を否定された彼らの不満は、同年十月、ついに大規模な武装蜂起という形で爆発する。これが、隣接する大崎氏の旧領で起きた一揆と連動し、「葛西大崎一揆」と呼ばれる大反乱へと発展した 22 。この一揆は、単なる農民反乱ではなく、旧領主である葛西・大崎両氏への忠誠心と、新たな支配者への抵抗が結びついた、旧体制による最後の組織的抵抗であった。
この存亡をかけた戦いに、寺崎良次が遺した一族もまた、その身を投じた。良次の跡を継いで峠城主となっていた子・ 寺崎信次 (てらさき のぶつぐ。史料によっては正継、信継とも記され、官途名は刑部)と、良次の実兄であり金沢家の当主であった 金沢信胤 (かなざわ のぶたね。官途名は伊予守)は、一揆軍の主力として蜂起したのである 8 。
かつては敵対し、血で血を洗う抗争を繰り広げた二つの家。そして、政略によって結びつけられ、良次という一人の武将の苦悩の源となった二つの血筋。しかし、主家・葛西氏が滅亡し、故郷が新たな支配者の手に渡るという未曾有の事態に直面した時、彼らは寺崎も金沢もなく、ただ「旧葛西家臣」として結束した。良次の子である信次と、良次の兄である信胤は、甥と伯父という血縁を超え、共通の運命を背負う同志として共に戦った。
一揆軍は一時は木村吉清を佐沼城に追い詰めるなど勢いを見せたが、豊臣政権が派遣した蒲生氏郷や、秀吉の命を受けた伊達政宗を主力とする本格的な討伐軍の前に、次第に追い詰められていく。そして天正十九年(1591年)八月十四日、彼らの最後の時が訪れる。討伐軍との激戦の末に敗れた寺崎信次と金沢信胤は、桃生郡深谷の 糟塚(ぬかづか) (あるいは糠塚)において、もはやこれまでと覚悟を決め、兄弟(系図によっては弟と記されるが、正しくは甥と伯父)揃って自刃して果てたと伝わる 7 。糟塚の具体的な場所については、現在の宮城県登米市や石巻市周辺に比定する説がある 23 。
この壮絶な最期は、寺崎良次の生涯から始まった物語の、悲劇的な終着点であった。金沢氏による寺崎時胤の殺害という「血の対立」に始まり、良次の養子縁組という「政略による結合」を経て、最後は共通の主家と故郷のために共に命を落とすという「忠義による一体化」で幕を閉じたのである。良次がその一生をかけて背負った宿命と貫いた忠誠は、彼の死後、次世代の者たちによって最も悲劇的かつ純粋な形で昇華された。それは、戦国乱世の終焉期に、時代の波に抗い、そして消えていった奥州の武士たちの生き様の、一つの象徴であったと言えよう。
戦国時代の武将、寺崎良次(吉次/良継)。彼の名は、織田信長や豊臣秀吉といった天下人のように、歴史の教科書に記されることはない。しかし、史料の断片を丹念に繋ぎ合わせて浮かび上がるその生涯は、戦国という時代の力学と、そこに生きた地方武将のリアルな姿を雄弁に物語っている。
寺崎良次の人生は、宿命に翻弄されたものであった。彼は、主君・葛西氏の政略の駒として、父祖の代からの宿敵であった寺崎氏へ養子に出された。実家・金沢氏と養家・寺崎氏の宿怨、そして両家を統制しようとする主君の思惑が交錯する中で、彼は常に複雑で困難な立場に置かれ続けた。しかし、彼はその宿命から逃げることなく、最終的には養家である寺崎氏の当主としての立場を貫き、主君・葛西氏への忠義を尽くして戦場にその命を散らした。
彼の忠誠心は、彼個人の一代で終わることはなかった。それは血を超えて一族に受け継がれ、彼の子・信次と、彼の実兄・信胤が、滅びゆく葛西家と運命を共にするという、葛西大崎一揆における壮絶な最期という形で結実した。かつて対立した二つの家が、最後は「葛西家臣」という一つの旗の下に結束し、共に滅びる。この悲劇的な結末は、良次が生涯をかけて貫いた忠義がもたらした、一つの帰結であったのかもしれない。
寺崎良次の生涯を追うことは、単に一人の無名武将の伝記を掘り起こす作業にとどまらない。それは、葛西氏という奥州の名門が、いかにして内部の脆弱な結束を保ち、そして戦国末期の巨大な権力の前になすすべもなく滅びていったのかを、一人の家臣の視点から克明に描き出すことである。彼は、歴史の主役ではなかったかもしれない。しかし、その生き様と死に様は、歴史の狭間に埋もれた無数の人々の喜びと悲しみ、忠義と苦悩を、我々に力強く伝えてくれる。寺崎良次は、時代の奔流に翻弄されながらも、武士としての本分を全うした、確かな実像を持つ歴史上の一人物なのである。