最終更新日 2025-06-19

小出吉政

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豊臣の縁者、徳川の世を生きる ― 小出吉政の生涯と一族の生存戦略

序章:豊臣と徳川の狭間で

日本の歴史が織田信長、豊臣秀吉、そして徳川家康という三人の巨星によって大きく塗り替えられた戦国・安土桃山時代。その激動の時代を、一人の武将として、そして一大名家の当主として生き抜いた人物がいる。小出吉政、その名は真田信繁や伊達政宗のような華々しい武勇伝と共に語られることは少ない。しかし彼の生涯は、豊臣家との深い血縁によって立身し、関ヶ原という時代の分水嶺を巧みに乗り越え、徳川の世に一族を存続させた、豊臣恩顧大名の典型的な、そして極めて成功した軌跡を映し出している。

吉政の人生を理解するためには、彼を取り巻く三人のキーパーソンとの関係性を解き明かすことが不可欠である。第一に、豊臣政権下で秀吉の側近として信頼を築き上げ、小出家隆盛の礎を築いた父・小出秀政。第二に、一族の命運をその双肩に担い、関ヶ原の戦いで東軍に属して兄と父を救った弟・小出秀家。そして第三に、吉政の跡を継ぎ、大坂の陣という最後の試練に徳川方として臨んだ息子・小出吉英である。彼ら一族の相互作用の中にこそ、小出吉政という武将の行動原理、そして歴史における彼の真の役割が浮かび上がってくる。本報告書は、これらの関係性を軸に、吉政の生涯を徹底的に掘り下げ、彼とその一族が駆使した生存戦略の巧みさと、その歴史的意義を明らかにすることを目的とする。

第一章:小出家の出自と勃興 ― 秀吉の縁戚として

小出氏のルーツ

小出氏の歴史を遡ると、その出自は必ずしも明確ではない。『藩翰譜』などによれば、藤原南家二階堂氏の流れを汲み、信濃国伊那郡小井弖郷(小出郷)を本貫の地とするとされる 1 。また、その後、一族が尾張国中村(現在の名古屋市中村区)に流れ着いたという伝承も存在する 1 。しかし、鈴木真年編の『百家系図稿』では同じ藤原南家でも工藤氏流とされるなど、その系譜には諸説あり、父・小出秀政以前の具体的な家系を特定することは困難である 1

この出自の曖昧さは、逆説的に小出家の立身出世の本質を物語っている。彼らが伝統的な武家の名門であったり、戦場で圧倒的な武功を立てたりして地位を築いたのではないという事実である。小出家の勃興は、ひとえに豊臣秀吉との極めて個人的な繋がり、すなわち秀政の妻・栄松院が秀吉の母である大政所の妹であったという強固な血縁関係に起因する 3 。これにより、小出家は豊臣政権の「身内」として取り立てられた「縁故大名」としての性格を強く帯びることになる。この出自の背景は、後の関ヶ原の合戦という国家的な動乱において、彼らがどのような判断を下し、いかにして生き残りを図ったのかを理解する上で、極めて重要な前提となる。

父・小出秀政の立身

小出家の歴史が明確になるのは、小出秀政の代からである 1 。天文9年(1540年)に尾張中村で生まれた秀政は、同郷の縁と、秀吉の叔母婿という関係から、秀吉の立身出世に伴いその家臣となった 5 。秀政の「秀」の一字は、秀吉から授かった偏諱である 4

秀政は当初、蔵奉行 4 や播磨姫路城の留守居 4 といった、政権の後方を支える役職を地道に歴任した。天正12年(1584年)頃には、石川光重、伊藤秀盛らと共に秀吉の「側近六人衆」の一人として史料に名が見え、政権中枢で重要な役割を担う存在にまでなっていたことが確認できる 4

その功績と信頼を背景に、天正13年(1585年)、秀政は和泉岸和田城を与えられる 3 。当初の所領は4千石程度であったが、段階的に加増を重ね、文禄4年(1595年)には3万石を領する大名へと成長した 2 。秀吉の信頼は絶大であり、その死に際しては、片桐且元らと共に遺児・秀頼の補佐を託されるほどであった 4

このように、小出吉政のキャリアは、父・秀政が豊臣政権内で築き上げた確固たる地位と、秀吉との強固な縁戚関係という、他に代えがたい「政治的資産」の上に成り立っていた。吉政は、単なる一武将としてではなく、豊臣一門に準ずる特別な家柄の嫡男として、そのキャリアを華々しくスタートさせたのである。この点が、他の多くの豊臣恩顧大名とは一線を画す、彼の特異な立場を形成したと言えよう。

第二章:吉政の青年期と豊臣政権下での飛躍

秀吉の馬廻衆として

小出吉政は、永禄8年(1565年)、父・秀政が仕える尾張国愛知郡中村で生を受けた 10 。母・栄松院が豊臣秀吉の母・大政所の妹であったため、吉政は秀吉の従弟にあたる 10 。この極めて近しい血縁関係により、吉政は早くから秀吉の身辺警護と側近を兼ねる馬廻衆として仕え、豊臣政権の中核でその青年期を過ごした。

軍歴と加増

吉政の武将としてのキャリアは、天正18年(1590年)の小田原征伐への従軍から本格的に始まる 10 。続く文禄・慶長の役(1592年-1598年)においては、父・秀政が大坂城の留守居という重要任務を担っていたため、吉政がその名代として、九州に築かれた出兵拠点である肥前名護屋城に在陣した 4 。この時、弟の秀家も名護屋城に滞在しており 11 、小出家が一族を挙げて秀吉の朝鮮出兵という国家的事業に貢献していたことがうかがえる。

吉政の出世は目覚ましく、文禄2年(1593年)には従五位下信濃守に叙任されると同時に、但馬国有子山城2万石を与えられ、大名の仲間入りを果たす 10 。翌文禄3年(1594年)には伏見城の普請を分担し、その功績もあってか播磨国内で2万石を加増され、所領は合計4万石に倍増した 10

吉政のキャリアにおける最大の転機は、文禄4年(1595年)に訪れる。豊臣政権を揺るがした関白・豊臣秀次事件である。この事件に連座して失脚した前野長康に代わり、吉政はその旧領であった但馬国出石6万石への移封を命じられた 10 。この異例の抜擢は、秀次事件という政権内部の粛清を経て、秀吉がより信頼のおける「身内」で重要拠点を固めようとした意図の表れであった。これにより、父・秀政が領する和泉岸和田3万石と合わせて、小出家は合計9万石を領する大身となり、その勢力は頂点に達した 10

秀吉死後の役割

慶長3年(1598年)8月、太閤秀吉がその波乱の生涯を閉じると、豊臣政権は大きな転換点を迎える。吉政は秀吉の遺産分配において、名刀「国景」を賜った 10 。これは、彼が秀吉から格別の信頼を寄せられていた証左と言える。

さらに、秀吉が死の直前に定めたとされる大坂城の警備体制を示す『大坂御番之次第』という朱印状によれば、吉政は城の中枢に通じる本丸裏御門および青屋口御門の門番という、極めて重要な役職に任じられていた 10 。また、秀吉死後の慶長5年(1600年)正月に三奉行(長束正家、増田長盛、前田玄以)の連署で出された法度においても、吉政は片桐且元と共に大坂城の破損や掃除といった城郭全体の保守責任者に任命されている 10 。これらの事実は、吉政が秀吉亡き後の豊臣家において、単なる一大名ではなく、政権の中核を担う重臣として位置づけられていたことを明確に示している。

第三章:天下分け目の決断 ― 関ヶ原合戦における小出家の生存戦略

慶長5年(1600年)、徳川家康と石田三成の対立が頂点に達し、天下分け目の関ヶ原の戦いが勃発する。豊臣恩顧の大名たちは、恩義を取るか、時勢を読むか、という究極の選択を迫られた。この国家的な動乱において、小出家は一族の存亡を賭けた、極めて巧緻な生存戦略を展開することになる。

西軍加担の背景

小出家が西軍に与した理由は、複数の要因が絡み合っている。第一に、父・秀政が秀吉の死に際して遺児・秀頼の補佐を託されたという、豊臣家への強い忠誠心と恩義である 5 。秀吉によって大名に取り立てられた小出家にとって、豊臣家を見捨てるという選択は心情的に困難であった。第二に、本拠地である和泉岸和田と但馬出石が、共に西軍の勢力圏内にあったという地理的状況も無視できない。周囲を西軍諸将に囲まれる中で、東軍に与することは物理的にも大きなリスクを伴った。これらの理由から、父・秀政と嫡男である吉政が西軍に加担したのは、ある意味で自然な流れであった 6

吉政の具体的な動向 ― 丹後田辺城攻撃

西軍に加わった吉政は、主力部隊の一員として丹後国田辺城の攻略に参加した。この城は、東軍に与した細川忠興の父であり、当代随一の文化人としても知られる細川幽斎が、わずか500の兵で守る拠点であった 17 。吉政は、小野木重次、前田茂勝らと共に、総勢約1万5千の包囲軍に加わり、城を攻めた 18

この田辺城の戦いは、幽斎の決死の抵抗と、彼の文化人としての名声を惜しんだ後陽成天皇の勅命による和睦介入もあって、50日以上にも及ぶ長期戦となった 18 。結果的に、この攻防は西軍にとって大きな誤算となる。関ヶ原の本戦という大局から見れば、1万5千もの兵力を、本来投入すべき主戦場から引き離し、足止めさせてしまった戦略的な失策であった。吉政の行動は、西軍の一員としての忠実な任務遂行であったが、それは西軍全体の戦略的視野の欠如という大きな渦の中にあり、結果として西軍の敗北に間接的に繋がる動きの一部となってしまったのである。

一族の保険 ― 弟・小出秀家の東軍参加

一方で、小出家は巧妙な「保険」を掛けていた。父・秀政は、徳川家康が石田三成挙兵に先立って行った会津の上杉景勝討伐に際し、次男の秀家を自らの名代として、兵300を率いて従軍させていたのである 4 。三成の挙兵後も、秀家はそのまま東軍に留まり、9月15日の関ヶ原の本戦において、徳川方として戦功を挙げた 11

秀家の功績はそれだけに留まらなかった。関ヶ原での東軍勝利の後、和泉国に帰還した秀家は、父の居城である岸和田城を接収。そこへ西軍の敗将・長宗我部盛親の軍勢が上陸すると、これを果敢に撃退するという大きな功績を立てた 11

結果としての所領安堵

この弟・秀家の東軍における目覚ましい活躍が、小出家の運命を決定づけた。西軍に与した父・秀政と兄・吉政の罪は、秀家の功績に免じて問われることはなく、一族は岸和田3万石、出石6万石の所領を一切減らされることなく安堵されるという、望外の結果を得たのである 5 。これは、小出家が周到に準備し、実行した「両属」戦略が完璧に成功したことを意味する。

同様に一族で東西に分かれた真田家が、父・昌幸と次男・信繁(幸村)の配流という厳しい処分を受けたのとは対照的である。また、西軍の主力として最後まで戦い、戦後に改易(領地没収)された立花宗茂 25 と比べても、小出家の処遇は破格であった。この差を生んだ要因は、第一に、秀吉との血縁関係から西軍加担に「酌量の余地」があると家康に判断されたこと。第二に、弟・秀家が関ヶ原の本戦参加と戦後の残敵掃討という両面で、疑いのない「具体的な戦功」を立てたこと。この二つの要因が重なった結果、小出家の生存戦略は、他のどの大名よりも巧みで、成功した稀有な事例となったのである。

関ヶ原合戦における小出家主要人物の動向

人物

所属軍

主な動向

戦後の処遇

小出秀政(父)

西軍

大坂城に在城し、豊臣秀頼を補佐。実質的な西軍首脳部の一員。

岸和田3万石の本領安堵。

小出吉政

西軍

丹後田辺城攻撃軍の主力として参戦。主戦場には不参加。

出石6万石の本領安堵。

小出秀家(弟)

東軍

関ヶ原の本戦に参戦し戦功。戦後、和泉にて長宗我部軍を撃退。

1千石を加増され2千石に。一族の赦免に決定的な貢献を果たす。

小出三尹(弟)

西軍

大津城攻めに参加。

兄・秀家の功により赦免される。

第四章:徳川の世の大名として ― 岸和田藩主・吉政

関ヶ原の戦いという最大の危機を乗り切った小出家であったが、その後の道のりもまた、平坦ではなかった。徳川家康による新しい天下の秩序が形成されていく中で、一族は新たな体制への適応を迫られることとなる。

関ヶ原後の領地再編

皮肉なことに、一族の存続に最大の貢献を果たした弟・秀家は、その功績が報われた矢先の慶長8年(1603年)、大坂にて37歳の若さで病死してしまう 10 。その死を家康も惜しんだと伝えられる 11

翌慶長9年(1604年)には、父・秀政も65歳でその生涯を閉じた 5 。父子の相次ぐ死を受け、徳川家康の命によって小出家の領地再編が行われる。嫡男である吉政は、父の遺領である和泉岸和田藩3万石(後に加増され5万石となる)を継承するため、長年治めた但馬出石から移封となった 9 。そして、吉政が去った後の但馬出石藩6万石(後に分知により5万石となる)は、吉政の長男である小出吉英が継承することになった 13 。これにより、小出家は岸和田と出石に二つの藩を構える体制となった。

岸和田藩主としての治世

吉政は慶長9年(1604年)から慶長18年(1613年)までの約9年間、岸和田藩の二代藩主を務めた 9 。しかし、現存する史料を精査しても、この期間に吉政が藩主として行った具体的な治績、例えば検地の実施、城下町の整備、新田開発といった内政に関する記録はほとんど見当たらない 10

この記録の乏しさは、いくつかの理由が考えられる。一つは、藩主としての在任期間が比較的短かったこと。もう一つは、彼の治世が、豊臣家が依然として大坂城に健在であり、徳川家との緊張が日増しに高まっていく時期と重なっていたことである。大坂の陣を目前に控えたこの緊迫した状況下では、大規模な内政改革よりも、徳川家への恭順の意を示しつつ、領内の現状を維持することが最優先された可能性が高い。そのため、波乱に満ちた武将としての前半生に比べ、岸和田藩主としての吉政の姿は、歴史の記録の中に静かに埋もれている。

大坂の陣を前にした死

慶長18年(1613年)2月、吉政は徳川と豊臣の最終決戦である大坂の陣が勃発する前年に、49歳でその生涯を閉じた 10 。その亡骸は紀伊国の高野山奥の院や、京都の大徳寺玉林院に葬られている 10

吉政の死は、小出家にとって一つの時代の終わりを象徴する出来事であった。当主として大坂の陣に臨むという重責は、息子の小出吉英に引き継がれた。吉英は、父の世代とは異なり、迷うことなく徳川方として参陣。豊臣方の大野治房軍による岸和田城攻撃を果敢に防衛し、徳川家への忠誠を戦功という形で示した 13 。もし吉政が生きていれば、かつての主家である豊臣家と戦うことに、少なからず葛藤を覚えたかもしれない。彼の死は、結果的に小出家が豊臣家との過去の縁を完全に断ち切り、徳川の世を生きる大名として新たな一歩を踏み出す、決定的な契機となったのである。

第五章:人物像と史料的評価

人物像の再構築

小出吉政という人物を評価する際、彼は偉大な父・秀政と、一族の救世主となった弟・秀家の間に立つ、ある種「中間的」な存在であったと言える。彼は、派手な武勇伝や奇抜な逸話で歴史に名を刻むタイプの武将ではなかった。むしろ、豊臣家への忠誠という心情と、一族存続という現実的な要請との間で、冷静にバランスを取ることに長けた人物であった。

関ヶ原において西軍に加担するという選択は、豊臣家への恩義を重んじる彼の立場を象徴している。しかし同時に、弟を東軍に参加させるという「保険」を許容したことは、自らの感情や信義だけに流されることなく、一族という共同体の利益を最大化する道を選んだ、極めて現実的な為政者としての側面を浮き彫りにする。彼の真価は、戦場の華々しい活躍ではなく、時代の流れを冷静に見極め、激動の時代を乗り切るための最善手を探し続けた、その堅実な判断力にあったと評価できるだろう。

史料における存在感

吉政の人物像をさらに探る上で、『川角太閤記』のような同時代の軍記物語や記録は重要な手がかりとなる。この史料は、筑後柳河城主・田中吉政(小出吉政とは別人)の家臣であった川角三郎右衛門の見聞を基にしており、秀吉の時代を生きた人々の生の声に近い情報を含むため、史料的価値が高いとされる 37 。しかし、この『川角太閤記』をはじめとする諸史料を精査しても、小出吉政個人に関する詳細な記述や、彼の人柄を伝えるような逸話はほとんど確認できない。

彼の行動は、常に父・秀政や弟・秀家、あるいは豊臣家や徳川家といった、より大きな存在との関係性の中で語られる。これは、彼が歴史の大きな舞台で主役として目立つような強烈な個性や逸話を持たなかったことを示唆している。しかし、それは決して彼が無能であったことを意味しない。むしろ、彼の歴史における役割が、偉大な父から受け継いだものを着実に守り、次代へと引き継ぐ「継承者」であり、複雑な人間関係や政治状況を乗り切るための「調整役」であったことを物語っている。歴史の記録における彼の「静かなる存在感」こそが、彼の本質を最もよく表しているのかもしれない。

終章:小出家のその後と吉政の遺産

小出家の複雑な変遷

小出吉政の死後、彼が守り抜いた小出家は、さらに複雑な変遷を辿ることになる。吉政の跡を継いで岸和田藩主となった長男・吉英は、大坂の陣での功績も認められたが、元和5年(1619年)、幕命により再び但馬出石藩5万石へ転封される 9

一方で、吉政の次男であった小出吉親は、この兄・吉英の転封に伴い、但馬の所領から分知を受ける形で丹波国園部へ移り、新たに園部藩を立藩した 1 。これにより、小出家は出石藩と園部藩の二つの家系に分かれることになった。

嫡流の断絶と分家の存続

その後の小出家の運命は、皮肉な結末を迎える。関ヶ原の危機を乗り越え、本家を継いだ吉政の嫡流である出石藩主家は、藩主の早世が相次ぐという不運に見舞われた。そして元禄9年(1696年)、9代藩主・小出英及がわずか3歳で死去したことにより、跡継ぎがなく無嗣改易(断絶)となってしまう 14

一方で、その過程で分かれた分家、すなわち吉政の次男・吉親が興した丹波園部藩は、安定した治世を続け、幕末の動乱を乗り越えて廃藩置県まで存続した 1

この結果は、戦国から江戸への移行期において、大名家がいかにして存続したかが、単なる戦略や能力だけでなく、多くの偶然や複雑な要因に左右されるかを如実に示している。関ヶ原を乗り切るための巧みな戦略を駆使し、本家を継承した吉政の直系は、結果として約100年で歴史の舞台から姿を消した。しかし、その過程で分かれた家系が、小出の名を後世に伝えたのである。

結論

小出吉政の生涯は、血縁という出自、主君への忠誠、そして一族存続のための現実的な計算が複雑に交錯する、時代の転換期を生きた武将のリアルな姿を映し出している。彼は歴史の主役ではなかったかもしれない。しかし、彼とその一族が選択した道は、豊臣恩顧の大名が徳川という新しい時代へといかにして軟着陸を果たしたかを示す、極めて貴重な歴史的ケーススタディである。吉政が残した最大の遺産は、彼個人の華々しい功績というよりも、一族が徳川の世で大名として存続するための「道筋」を、父や弟と共に築き上げたことそのものにあったと言えるだろう。彼の堅実な生涯は、乱世を生き抜くための知恵として、後世に多くの示唆を与え続けている。

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