戦国武将 小川祐忠 ―その生涯と関ヶ原の転変―
1. 序論:小川祐忠とは
本報告書は、戦国時代から安土桃山時代にかけて活動した武将、小川祐忠(おがわ すけただ)の生涯と事績、特にその評価に大きな影響を与えた関ヶ原の戦いにおける動向と、その後の処遇について、現存する資料に基づき多角的に検討することを目的とします。小川祐忠は、弘治3年(1549年)に生まれ、慶長6年(1601年)に没した武将です 1 。彼は激動の時代を生き抜き、一時は伊予国府(現在の愛媛県今治市周辺)に7万石を領する大名にまで上り詰めました 2 。しかし、関ヶ原の戦いを境にその地位を失った人物であり、その生涯は戦国武将の処世と運命の一断面を映し出しています。
祐忠に関する史料は断片的であり、特にその出自や改易の具体的な理由については諸説が存在します。例えば、出自については近江国出身とする説が有力ですが、備後国出身で毛利氏に仕えたとする異説も見られます 1 。本報告書では、これらの情報についても可能な限り比較検討し、その人物像に迫ります。
2. 出自と初期の経歴
2.1. 生誕と家系
小川祐忠は、弘治3年(1549年)の生まれとされています 1 。出身地については、近江国神崎郡小川村(現在の滋賀県東近江市小川町)とする説が一般的で、近江小川氏の一族と考えられています 2 。父は小川壱岐守と伝えられています 5 。幼名は孫一郎といい 1 、通称としては左平次、土佐守、左近太夫などが史料に見られます 1 。官位は従五位下土佐守、左近太夫に叙されています 5 。
一方で、一部の資料では、祐忠を備後国(現在の広島県東部)の出身とし、天文4年(1535年)頃の生まれで、当初は毛利氏に仕えていたとする記述も見られます 4 。この説は、祐忠の生涯における主君の変遷の多さや、後年、豊臣秀吉による中国攻めの際にその地理的知識が活用された可能性を示唆する文脈で語られることがあります 4 。しかしながら、多くの二次史料、例えば『デジタル版 日本人名大辞典+Plus』や中国語版Wikipediaなどは近江出身説を採っており 1 、本報告書では近江出身の祐忠を主軸として扱います。この異説の存在は、祐忠の初期の経歴に関する史料が錯綜していること、あるいは同姓同名の別人物との混同、地方の伝承などが影響している可能性を示唆していますが、提供された資料群のみではこの背景を詳細に解明することは困難です。
2.2. 初期に仕えた主君
近江出身説に基づけば、祐忠は当初、近江の戦国大名である六角氏に仕えていたとされます 1 。六角氏が織田信長の侵攻により勢力を弱めると、その後は浅井長政に仕えたと考えられています 1 。この時期の祐忠の具体的な活動に関する詳細な記録は乏しいものの、近江の在地領主として、主家の興亡に翻弄されながらも武士としての経験を積んでいたことが推察されます。
3. 織田信長から豊臣秀吉へ:立身の道
3.1. 織田信長への臣従と本能寺の変後の動静
浅井氏が天正元年(1573年)に織田信長によって滅ぼされると、小川祐忠は信長に降伏し、その家臣となったと考えられています 5 。信長配下としての具体的な活動は明らかではありませんが、近江衆の一人として組み込まれたものと見られます。
天正10年(1582年)6月、本能寺の変により信長が横死するという大事件が発生すると、祐忠の運命も再び大きく動きます。彼は明智光秀に属し、羽柴秀吉(後の豊臣秀吉)と光秀が覇権を争った山崎の戦いに光秀方として参戦したとされています 6 。この選択は、当時の近江が光秀の勢力圏に近かったことや、信長体制下での自身の立場などが影響した可能性があります。
光秀が山崎の戦いで敗死すると、祐忠は柴田勝家に属し、その甥である柴田勝豊の家老となりました 6 。明智光秀という敗軍の将に与したにもかかわらず、処刑されることなく有力武将である柴田勝豊の家老という重職に就くことができた経緯は、史料からは明確ではありません。しかし、当時の武将の流動性や、祐忠自身の武勇や能力、あるいは近江における人脈などが評価された結果かもしれません。この主君の目まぐるしい変遷は、戦国乱世を生き抜くための必死の選択であったと同時に、状況に応じて巧みに立ち回る祐忠のしたたかさの一端を物語っているとも言えるでしょう。
3.2. 豊臣秀吉への臣従と伊予国拝領
その後、柴田勝家と羽柴秀吉が対立を深めると、柴田勝豊は叔父である勝家を裏切り秀吉方に寝返ります。このため、家老であった祐忠も秀吉方として勝家と戦うことになりました 6 。賤ヶ岳の戦いで勝家が滅び、勝豊も間もなく病死すると、祐忠は正式に豊臣秀吉に仕えることになります。
秀吉の下では、その中国地方の地理や情勢に通じている点が評価された可能性が示唆されています 4 。天正10年(1582年)の備中高松城攻め(本能寺の変の直前の出来事であり、時期的に柴田勝豊に仕える前、あるいは秀吉への帰属過程での出来事か、前述の備後出身説と関連する可能性も考慮が必要ですが、多くの史料は秀吉への臣従後の活動として捉えています)では、秀吉軍の一員として参陣し、有名な水攻めに何らかの協力をした可能性も指摘されていますが、史料上で確認できる具体的な役割は明らかではありません 4 。
秀吉の天下統一事業が進む中で、祐忠も戦功を重ねたものと推察されます。四国平定(天正13年、1585年)などを経て、伊予国府中に7万石という大領を与えられ、府中城主として大名に列しました 2 。この7万石という石高は、豊臣政権下において中堅以上の大名であり、祐忠が秀吉から一定の評価と信頼を得ていたことを示しています。『聚楽武鑑』や『野史』といった当時の武鑑や史書にも、その略歴が記されているとされます 2 。
文禄・慶長の役(朝鮮出兵)にも、伊予の大名として何らかの形で関与したと考えられます。北条征伐や朝鮮出兵で存在感を示したという記述もありますが 8 、祐忠自身が朝鮮へ渡海したという確かな史料はなく、家臣団の一部を派遣したり、兵糧米や軍需物資の調達といった後方支援に関わった可能性も考えられます 4 。これほどの厚遇を得た背景には、単に主君を巧みに乗り換えてきた処世術だけでなく、秀吉政権下で具体的な武功や統治能力における貢献があったと考えるのが自然です。しかしながら、提供された資料群からは、備中高松城攻めへの関与の可能性以外に、祐忠が伊予7万石を与えられるに至った具体的な戦功や行政手腕を示す記録は乏しいのが現状です。この点は、祐忠の豊臣政権下での評価を正確に把握する上での課題と言えます。
表1:小川祐忠 略年譜と主君の変遷
年代(西暦/和暦) |
およその年齢 |
主な出来事 |
仕えた主君 |
身分・石高など |
典拠 |
1549年 (天文18年) |
0歳 |
近江国神崎郡小川村に生まれる(伝) |
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|
1 |
(不明) |
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六角氏に仕える |
六角氏 |
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1 |
(不明) |
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浅井長政に仕える |
浅井長政 |
|
1 |
1573年 (天正元年)以降 |
24歳以降 |
織田信長に仕える |
織田信長 |
|
6 |
1582年 (天正10年) |
33歳 |
本能寺の変後、明智光秀に属す。山崎の戦いに参戦 |
明智光秀 |
|
6 |
1582年 (天正10年)以降 |
33歳以降 |
柴田勝豊の家老となる |
柴田勝豊 |
家老 |
6 |
1583年 (天正11年)以降 |
34歳以降 |
豊臣秀吉に仕える |
豊臣秀吉 |
|
6 |
(不明) |
|
伊予国府7万石を領す |
豊臣秀吉 |
伊予国府城主、7万石 |
2 |
1600年 (慶長5年) |
51歳 |
関ヶ原の戦い |
豊臣秀頼(西軍) |
小早川秀秋隊に所属、約2千兵 |
3 |
1600年 (慶長5年) |
51歳 |
関ヶ原の戦後、改易 |
(なし) |
所領没収 |
3 |
1601年 (慶長6年) |
52歳 |
死去 |
(なし) |
|
1 |
この略年譜は、小川祐忠の生涯における主君の頻繁な変遷と、それに伴う身分の変化を端的に示しています。戦国時代の武将がいかに流動的な状況下で生き残りを図ったか、そして祐忠がその中で一定の地位を築き上げた過程を理解する一助となります。
4. 関ヶ原の戦い:運命の転換
豊臣秀吉の死後、徳川家康が台頭し、天下分け目の戦いへと情勢が急速に進展する中で、小川祐忠もまたその渦中に巻き込まれていきます。
4.1. 西軍への所属と布陣
慶長5年(1600年)に勃発した関ヶ原の戦いにおいて、小川祐忠は豊臣方、すなわち西軍に属して参戦しました 3 。彼は、西軍の主要武将の一人であった小早川秀秋の指揮下に配属され、同じく秀秋隊に属した脇坂安治、朽木元綱、赤座直保らと共に、合戦の要衝の一つである松尾山の麓に約2千の兵を率いて布陣したとされています 7 。
祐忠がなぜ小早川秀秋の部隊に組み込まれたのか、その具体的な経緯は史料からは明らかではありません。伊予国という領地が、秀秋の領国である筑前や、西軍の総大将毛利輝元の本拠地である中国地方と地理的に比較的近かったこと、あるいは豊臣政権下での大名の序列や、当時の軍編成における慣例に従ったものと考えられます。いずれにせよ、この配置が結果的に祐忠の運命を大きく左右することになりました。
4.2. 東軍への寝返り
関ヶ原の合戦当日、戦況が膠着状態にある中、松尾山に布陣していた小早川秀秋は、かねてより内通していた徳川家康の催促に応じ、突如として西軍を裏切り東軍に寝返りました。この秀秋の行動をきっかけとして、同じく松尾山麓に布陣していた小川祐忠も、脇坂安治、朽木元綱、赤座直保らと共に東軍に転じ、眼下で奮戦していた西軍の大谷吉継隊に襲いかかりました 3 。
この寝返りにおいて、小川祐忠の軍勢は勇戦し、大谷吉継隊の有力武将であった平塚為広を討ち取るという戦功を挙げたと伝えられています 7 。この戦功は、東軍への貢献を示すものであり、祐忠自身は戦後の恩賞を期待したであろうと推察されます 7 。
祐忠の寝返りが、小早川秀秋の行動に追随した受動的なものであったのか、あるいはある程度の主体的な判断があったのかは、議論の余地があります。一部の史料では、祐忠も事前に東軍の藤堂高虎と通じていたという説が示唆されていますが 7 、一方で、その内通を明確にしていなかった、あるいは家康方に通款を明らかにしていなかったとも言われています 7 。これに対し、同じく寝返った脇坂安治は、事前に東軍への内通の意思を明確に示していたとされています 12 。この事前の内通の有無、あるいはその明確さが、後の徳川家康による戦後処理において、彼らの処遇を分ける一因となった可能性は十分に考えられます。戦況を冷静に見極め、有利な側につこうとする、祐忠のこれまでの処世術にも通じる「したたかさ」が、この土壇場でも発揮されたのかもしれません。
5. 改易と晩年
関ヶ原の戦いは東軍の圧勝に終わり、徳川家康による新たな支配体制が構築されていく中で、小川祐忠は予期せぬ運命を辿ることになります。
5.1. 所領没収(改易)とその理由
関ヶ原の戦いにおいて、西軍から東軍へ寝返り、平塚為広を討ち取るという戦功を挙げたにもかかわらず、戦後、小川祐忠は徳川家康から伊予国府7万石の所領を全て没収され、改易処分となりました 3 。これは、祐忠にとってまさに青天の霹靂であったでしょう。
この厳しい処分の理由については、諸説が提示されており、単一の理由ではなく複数の要因が複合的に作用したと考えられます。
これらの理由が単独で、あるいは複合的に作用し、祐忠の改易という厳しい処分につながったと考えられます。
5.2. 他の寝返り諸将との比較
関ヶ原の戦いでは、小川祐忠以外にも複数の武将が西軍から東軍へ寝返りましたが、その戦後処遇は一様ではありませんでした。この比較は、祐忠がなぜ改易という厳しい結果に至ったのかを理解する上で重要です。
これらの比較から、徳川家康の戦後処理における「寝返り」に対する評価基準が浮かび上がってきます。主に、(1)事前の内通の有無とその明確さ、(2)寝返りのタイミングと主体性、(3)東軍の有力者からの口利きや弁護の有無、(4)当該武将のこれまでの実績や家康からの信頼度、そして潜在的な危険性などが総合的に勘案されたと考えられます。小川祐忠の場合は、脇坂安治ほど明確な事前内通が確認されず、赤座直保のように完全に受動的だったわけでもない(平塚為広を討つという戦功がある)ものの、朽木元綱のように最終的に許されることもありませんでした。この中間的な立場に加え、前述の悪政説や石田三成との関係説などが複合的に作用し、最も厳しい処分である改易に至った可能性が高いと言えるでしょう。
表2:関ヶ原の戦いにおける主要寝返り諸将の処遇比較
武将名 |
所属部隊 |
事前内通の有無・相手 |
関ヶ原での行動 |
戦後の処遇(石高変化) |
処遇の理由(推測含む) |
典拠 |
小川祐忠 |
小早川秀秋隊 |
不明瞭(藤堂高虎説あり) |
小早川に呼応し大谷隊攻撃、平塚為広を討つ |
改易(7万石→0石) |
事前通告なし、悪政説、三成との関係説、家康の不信 |
3 |
脇坂安治 |
小早川秀秋隊 |
あり(藤堂高虎) |
小早川に呼応し大谷隊攻撃 |
所領安堵(伊予大洲3万石) |
事前内通、藤堂高虎の口利き |
12 |
朽木元綱 |
小早川秀秋隊 |
あり(藤堂高虎) |
小早川に呼応し大谷隊攻撃 |
一時減封後、旧領回復(2万石) |
内通の意思表示が遅れたが、最終的に許される |
8 |
赤座直保 |
小早川秀秋隊 |
不明瞭 |
小早川に呼応し大谷隊攻撃 |
改易(2万石→0石) |
自発的寝返りと見なされず |
18 |
小早川秀秋 |
(本隊) |
あり(徳川家康) |
大谷隊を攻撃、西軍総崩れのきっかけを作る |
大幅加増(筑前名島30万石→備前岡山51万石) |
戦局への絶大な影響力。ただし裏切り者としての評価、後に急死・無嗣断絶 |
20 |
この表は、関ヶ原の戦いにおける寝返りという共通の行動を取った武将たちが、それぞれ異なる背景と結果を迎えたことを明確に示しています。小川祐忠の処遇を相対的に評価する上で、これらの比較は不可欠です。
5.3. 隠棲と死没
伊予7万石の大名の地位から一転して所領を失った小川祐忠は、その後、京に隠棲したと伝えられています 5 。武士としての身分を捨て、帰農したという説もあります 14 。いずれにしても、彼は政治の表舞台から完全に姿を消すことになりました。
そして、関ヶ原の戦いの翌年である慶長6年(1601年)、祐忠は死去しました 1 。享年52歳であったとされます 14 。当時の記録である『武徳安民記』には「近比病死ス」と記されており、改易という大きな精神的衝撃が引き金となり、病に倒れ亡くなった可能性も指摘されています 5 。7万石の大名から浪人(あるいは農民)へという急격な境遇の変化は、祐忠にとって計り知れない精神的打撃であったと想像され、その死が改易のわずか1年後であることは、彼が失意のうちに生涯を閉じたことを強く示唆しています。
6. 子孫と家系のその後
小川祐忠自身は不遇の晩年を送りましたが、その家系は一時的にせよ再興の機会を得ます。
6.1. 妻:慶春(一柳直高の娘)
祐忠の正室は、慶春という名の女性で、美濃の武将・一柳直高の娘です 5 。一柳直高の子には、豊臣秀吉に仕えて戦功を挙げた一柳直末や、関ヶ原後は徳川方に仕えて伊予西条藩主などを務めた一柳直盛がおり、慶春は彼らの姉妹にあたります 22 。この姻戚関係が、後に小川家の再興に重要な役割を果たすことになります。
6.2. 長男(または次男):小川光氏
小川祐忠が改易された後、その長男(あるいは次男ともされる)である小川光氏(おがわ みつうじ、通称は壱岐守、左馬助など)は、母方の叔父にあたる一柳直盛(監物)の懸命な奔走により、父祐忠の死と同じ慶長6年(1601年)に、豊後国日田郡に2万石を与えられ、日田藩の初代藩主として家名を再興しました 6 。
光氏は、既存の日隈城には毛利高政の城代がいたため、日田郡夜開郷永山に新たに丸山城を築きました。しかし、この小川家の再興は長くは続かず、慶長15年(1610年)8月、光氏は嗣子のないまま病死してしまいます。これにより、小川家は再び改易となり、無嗣断絶という形で直系大名としての歴史に幕を閉じることになりました 24 。
光氏の日田入領については、大名としてではなく幕府の代官としての赴任であったという説も存在しますが、近年の研究では、慶長6年9月7日付の「豊後国内御知行方目録」などの史料から、光氏は代官ではなく2万石を領する大名であった、すなわち日田領は小川氏の知行地であった可能性が指摘されています 24 。
祐忠自身は改易という厳しい処分を受けましたが、その直後に息子が2万石とはいえ大名として取り立てられたという事実は注目に値します 6 。これは、祐忠の「罪」が小川家そのものの完全な断絶を意図するほどではなかったこと、あるいは妻の実家である一柳氏、特に一柳直盛の徳川家に対する影響力や働きかけが相当なものであったことを示唆しています。この状況を踏まえれば、祐忠の改易は、実質的には大幅な減封と当主の交代という側面も持っていたという見方も成り立つかもしれません。しかし、その再興も光氏一代で終わりを告げたことは、戦国時代を生き抜いた小川家の直系大名としての歴史が、極めて短期間で終焉したことを意味します。これは、当時の大名家が常に後継者問題という断絶のリスクを抱えていたことを示す一例と言えるでしょう 25 。
6.3. その他の子
小川祐忠には、光氏以外にも複数の子がいたと伝えられています。
これらの子供たちの兄弟順については、史料によって異同が見られます。例えば、彦根藩の筋奉行に小川半左衛門という人物が提出した由緒書では、光氏が長男、良氏(祐滋)が次男、実乗が三男とされています。しかし、『國領系図』という史料では、左馬介良氏(祐滋)が嫡子で、壱岐守光氏をその弟として記述しています 5 。このような記述の差異は、彼らが異母兄弟であった可能性や、史料編纂の際に嫡出(正室の子であること)を優先して記述した可能性などを示唆しています 5 。
7. 史跡と伝承
小川祐忠の生涯を偲ぶことができる史跡や伝承が、彼が活動した近江や伊予の地に残されています。
7.1. 墓所・供養塔
浄立寺の墓所が琵琶湖に沈んだという伝承や、伊予国分寺に残る供養塔が「粗末な」と形容されている点は 27 、小川祐忠の晩年の不遇を象徴しているかのようです。かつて7万石を領した大名としては、いささか寂しい終焉であったことがこれらの史跡や伝承から窺えます。
8. 結論:乱世を生きた武将・小川祐忠の生涯
8.1. 生涯の総括
小川祐忠は、近江国の小領主の出自から身を起こし、六角氏、浅井氏、織田氏、明智氏、柴田氏(柴田勝豊)、そして豊臣氏と、目まぐるしく変わる時代の流れの中で主君を変えながら、最終的には伊予国府7万石の大名にまで登り詰めた武将でした。その生涯は、まさに戦国乱世の激動と、そこで生き抜くための処世術を象徴していると言えるでしょう。彼は、状況に応じて巧みに立ち回り、自らの地位を築き上げていきました。
しかし、その「したたかさ」とも評される生き様は、関ヶ原の戦いを経て徳川家康が新たな支配体制を構築する時代においては、必ずしも肯定的に評価されませんでした。関ヶ原での東軍への寝返りという、一見すれば新体制への貢献とも取れる行動も、結果的には彼の地位を保証するものとはならず、改易という厳しい結末を招きました。
8.2. 歴史的評価と人物像の多面性
小川祐忠の歴史的評価は、関ヶ原の戦いにおける寝返りと、その後の改易という劇的な出来事に大きく左右されています。豊臣政権下で7万石の大名にまでなったことから、一定の能力や実績があったことは間違いありませんが、その具体的な治績や武功に関する詳細な史料が乏しいことも、彼の評価を多角的に行うことを難しくしています。
改易の理由として挙げられる「悪政」についても、その具体的な証拠となる史料は現時点では確認されておらず、むしろ徳川家康の政治的判断や、祐忠自身のこれまでの処世に対する不信感が強く影響した可能性が考えられます。事前の内通の不明確さや、石田三成との関係が疑われたことなど、家康にとって「信頼できない人物」と見なされる要素が重なった結果と言えるかもしれません。
息子・光氏が一柳氏の尽力によって一時的に家名を再興したものの、それも一代で終わったことは、祐忠自身の功績によるものではなかったという側面を浮き彫りにし、彼の晩年の評価を物語っているかのようです。また、その出自や初期の経歴に関する史料間の情報の差異は、祐忠の人物像が一様ではないこと、あるいはまだ解明されていない部分が多く残されていることを示唆しています。
8.3. 今後の課題
小川祐忠という武将の全体像をより明確にするためには、さらなる史料の調査が不可欠です。特に、本報告書で言及された『聚楽武鑑』や『野史』 2 、そして改易理由の一端を示唆する『近江神崎郡志稿』 7 といった史料を直接調査し、その内容を詳細に検討することが望まれます。これらの史料にあたることにより、祐忠の豊臣政権下での具体的な活動内容や、改易理由とされる「悪政」が具体的にどのようなものであったのか、あるいはそれが本当に実態を伴うものであったのかといった点が明らかになる可能性があります。それによって、戦国末期から江戸初期にかけての激動の時代を生きた一武将の、より詳細で客観的な評価が可能になるでしょう。