武田二十四将の一人として、その名は戦国史に刻まれている小幡昌盛(おばた まさもり)。武田信玄・勝頼の二代に仕えた忠臣として、特にその最期は悲劇的な逸話とともに語り継がれています。しかし、私たちが知る小幡昌盛の人物像、その詳細な経歴や人間味あふれる逸話のほとんどは、江戸時代初期に成立した軍学書『甲陽軍鑑』にその典拠を求めているのが実情です 1 。
一方で、昌盛と同時代に書かれた確実な一次史料、すなわち古文書などの中に彼の名が登場する機会は極めて限られています 1 。この情報量の著しい偏りは、私たちが抱く「小幡昌盛」のイメージが、歴史的事実そのものというよりは、後世、特に彼の実子であり甲州流軍学の祖となった小幡景憲が編纂した『甲陽軍鑑』を通じて、意図的に形成されたものである可能性を強く示唆しています 3 。
本報告書は、この「史実」と「物語」の狭間に存在する武将・小幡昌盛の生涯を、現存する史料を批判的に検討し、比較分析することを通じて再構築する試みです。彼の出自から武田家臣としての歩み、そして後世に語り継がれる逸話の背景にあるものを探り、一人の武将の実像に迫ります。
表1:小幡昌盛 略年譜
年代 |
出来事 |
典拠 |
天文3年(1534年) |
小幡虎盛の次男として生まれる。 |
1 |
永禄4年(1561年) |
6月、父・虎盛が病没し家督を相続。海津城副将の任を辞し、旗本足軽大将となる。 |
5 |
|
9月、第四次川中島の戦いに武田信玄本陣の旗本として参陣。 |
1 |
永禄12年(1569年) |
三増峠の戦いに一条信龍隊の検使として参陣。 |
1 |
元亀2年(1571年) |
11月、長坂昌国と共に祈祷奉行に任じられる(確実な一次史料における唯一の所見)。 |
1 |
元亀3年(1572年) |
三方ヶ原の戦いに参陣。 |
10 |
天正3年(1575年) |
長篠の戦いに参陣したとされる。 |
10 |
天正9年(1581年) |
11月頃より、「積聚の脹満」(日本住血吸虫症か)を患う。 |
12 |
天正10年(1582年) |
3月3日、甲州征伐の最中、落ち延びる武田勝頼に甲斐善光寺にて暇乞いをする。 |
1 |
|
3月6日、病死。享年49。武田家滅亡の5日前であった。 |
1 |
小幡昌盛の家系、後に「甲州小幡氏」と称される一族のルーツは、甲斐国ではなく遠江国(現在の静岡県西部)の国人・勝間田氏にあるとされています 15 。『甲陽軍鑑』などの記述によれば、昌盛の祖父にあたる小幡日浄(にちじょう、名は盛次)の代に、主家であった勝間田氏が今川義忠との争いに敗れて離散したため、日浄は甲斐国へ移り住み、武田信虎に仕官したと伝えられています 15 。この時、一族は「小畠」という姓を名乗っていました 15 。このように、昌盛の一族は甲斐譜代の家柄ではなく、外部から武田氏に仕えた新興の家臣であったことが、その後の彼の立場を考える上で重要な背景となります。
昌盛の人物像を語る上で、その偉大な父・小幡虎盛(おばた とらもり)の存在は欠かせません。虎盛は、信虎・信玄の二代にわたって仕えた歴戦の勇将であり、その武勇から「鬼虎(おにとら)」の異名で敵味方に恐れられました 18 。生涯で36度の合戦に出陣し、その体には41ヶ所もの傷を負い、主君から36枚の感状を与えられたという逸話は、彼の武功の高さを物語っています 17 。
虎盛の主な役割は、対上杉氏の最前線である信濃国・海津城(かいづじょう、現在の松代城)の守りでした。城代である高坂昌信(春日虎綱)を補佐する副将として、越後の上杉謙信の南下に備えるという極めて重要な任務を担っていました 6 。
しかし、永禄4年(1561年)、第四次川中島の戦いを目前に控えた6月、虎盛は病によって陣没します 17 。その臨終に際し、息子たちに「よくみのほどをしれ」(よく身の程を知れ)という九文字の遺言を残したことは、彼の武士としての哲学を示すものとして非常に有名です 6 。この遺言は、単に分をわきまえよという戒めだけでなく、自らの能力と置かれた状況を的確に判断せよという、乱世を生き抜くための深い教えであったと解釈されています。この父の遺言は、後に昌盛が自らの意志で信玄に願い出て役職を変えるという行動と対比的に読み解くことができ、物語に深みを与える重要な要素となっています。
武田家に仕え始めた当初は「小畠」姓でしたが、昌盛の代に武田信玄の命によって「小幡」へと改姓したと、『寛永諸家系図伝』には記されています 15 。これにより、彼の一族は「甲州小幡氏」としてのアイデンティティを確立し、武田家臣団における正式な地位を固めたと考えられます。
武田家臣団を語る上でしばしば混同を招くのが、昌盛が属する「甲州小幡氏」と、もう一つの「上州小幡氏」の存在です。両者は同じ「小幡」を名乗りますが、その出自も役割も全く異なる別系統の一族です 7 。この二つの小幡氏の違いを理解することは、武田家臣団の多様な構造を把握する上で極めて重要です。
上州小幡氏は、上野国(こうずけのくに、現在の群馬県)甘楽郡を本拠とした有力な国衆(在地領主)でした 22 。その当主である小幡信貞(のぶさだ、信実とも)は、武田氏の勢力拡大に伴ってその支配下に入り、「先方衆(さきかたしゅう)」、すなわち領国拡大の最前線に立つ外様軍団として重用されました。特に信貞が率いた「赤備え(あかぞなえ)」の部隊は、武具を朱色で統一した精強な騎馬軍団として知られ、『甲陽軍鑑』によればその兵力は500騎にも及んだとされます 6 。三増峠の戦いや長篠の戦いなど、武田軍の主要な合戦で華々しい活躍を見せたのは、この上州小幡氏です 22 。
これに対し、昌盛の甲州小幡氏は、前述の通り遠江出身の譜代家臣です。主君直属の「旗本足軽大将」として信玄の側に仕えましたが、その動員兵力は上州小幡氏に比べてはるかに小規模でした 13 。
この二つの小幡氏の存在は、武田家臣団が、信虎の代から仕える譜代の家臣を政権の中核に据えつつ、新たに服属させた各地の有力国衆を「先方衆」として巧みに軍事力に組み込み、領国を支配・拡大していたことを示す好例と言えるでしょう。
表2:甲州小幡氏(昌盛)と上州小幡氏(信貞)の比較
項目 |
甲州小幡氏(昌盛の系統) |
上州小幡氏(信貞の系統) |
出自 |
遠江国 勝間田氏 15 |
上野国 小幡氏 22 |
系統 |
平良文流(『寛政譜』による)とされるが不詳。上州小幡氏とは別系統 15 。 |
不詳。甲州小幡氏とは別系統 22 。 |
主な人物 |
小幡日浄(盛次)、小幡虎盛、 小幡昌盛 、小幡景憲 |
小幡憲重、 小幡信貞(信実) 、小幡信定 |
主な拠点 |
甲斐国(屋敷跡は現在の山梨県韮崎市) 21 |
上野国 国峰城(群馬県甘楽町) 27 |
軍団の特徴 |
旗本足軽大将。騎馬3騎、足軽10人を率いる小規模な主君直属部隊 13 。 |
先方衆。騎馬500騎を率いる大規模な軍団。「赤備え」で有名 6 。 |
武田家臣団における位置づけ |
譜代家臣(主君に代々仕える家臣) |
外様国衆(新たに服属した在地領主) |
永禄4年(1561年)に父・虎盛が亡くなると、次男であった昌盛が家督を相続しました 5 。当初、彼は父の重要な任を引き継ぎ、対上杉氏の最重要拠点である海津城の副将(城番)として、城代の春日虎綱(高坂昌信)を補佐するよう命じられます 1 。海津城は、信濃の川中島平を見渡し、越後の上杉謙信の侵攻を食い止めるための最前線基地であり、その支配は武田氏の北信濃経営の要でした 29 。この地を守ることは、武田家臣として極めて重い責任を伴う任務でした。
昌盛の生涯における最初の、そして最も劇的な転機は、この海津城副将の任をめぐって起こります。この逸話は、彼の人物像を決定づけるものとして、『甲陽軍鑑』に詳しく描かれています。
同書によれば、昌盛は父の後を継いで辺境の城を守るという役割に甘んじることなく、主君・信玄の側近くで直接仕える「旗本」となることを強く望み、信玄に対して訴訟を起こしたとされます 1 。主君の命令に異を唱えるこの行動は、信玄の逆鱗に触れました。結果、昌盛は甲府の妙音寺に蟄居を命じられ、ついには切腹を言い渡されるという、絶体絶命の危機に陥ったのです 32 。
もはや命運尽きたかと思われたその時、昌盛を救ったのが、信玄の嫡男である若き武田勝頼と、信玄の寵臣であった土屋昌続でした。二人が必死に信玄へ助命を嘆願したことにより、昌盛は罪を赦され、念願であった旗本足軽大将に任じられた、と物語は結ばれます 1 。
この一連の逸話は、史実として確証があるわけではありません。しかし、物語としては非常に重要な機能を担っています。第一に、昌盛が危険な前線の高い地位よりも、主君の側で仕えることを何よりも望む「純粋な忠誠心」の持ち主であることを強調します。第二に、後の主君となる勝頼が、家臣の命を救うために父・信玄に意見する「慈悲深い人物」であることを読者に印象付けます。そして第三に、昌盛と勝頼の間に特別な恩義の関係を構築することで、後の昌盛の殉死的な忠義に強い説得力を持たせるのです。これは、編者である息子・景憲が、父と、父が最後まで仕えた主君・勝頼の両方を顕彰するために巧みに配置した、物語的装置であった可能性が極めて高いと考えられます。
こうして昌盛が就いた「旗本」とは、主君の直轄部隊を指す、信頼の証ともいえる役職です。その中でも「足軽大将」は、侍大将を補佐する検使(監察役)として諸部隊に派遣されたり、主君の本陣を固めたりする重要な役割を担いました 34 。
ある記録によれば、昌盛は「騎馬3騎、足軽10人」を率いたとされます 13 。これは、上州小幡氏のような大部隊とは性質が異なり、主君の側近くで機動的に動く、精鋭の直属部隊であったことを示唆します。また、彼の知行地は武功を重ねるごとに加増され、最終的には計七百貫文に及んだとも伝えられています 36 。当時の武田家の貫高制においてこれは相当な高禄であり、彼の働きが信玄から高く評価されていたことをうかがわせます。
旗本となった昌盛は、武田軍の主要な合戦に参加していきます。『甲陽軍鑑』などの軍記物によれば、彼の活躍は以下の通りです。
このように数々の武功が伝えられる昌盛ですが、彼の活動を同時代の確実な一次史料で確認できるのは、現在のところ一点のみです。それは、元亀二年(1571年)十一月二十八日付で武田氏が発給した文書で、そこには昌盛が長坂昌国と共に「祈祷奉行」に任じられたことが記されています 1 。
祈祷奉行とは、領国内の寺社や僧侶を統制し、戦勝祈願などの宗教儀礼を管理する文治的な役職です。この記録は、昌盛が単なる武勇一辺倒の武将ではなく、行政的な能力も備え、信玄から信頼されていたことを示す貴重な証拠です。しかし同時に、これ以外の一次史料がほぼ見当たらないという事実は、彼の華々しい武功伝の多くが、後世に『甲陽軍鑑』によって創作、あるいは大きく脚色されたものである可能性を強く裏付けていると言わざるを得ません。
元亀4年(1573年)に信玄が病没すると、昌盛はその後継者である武田勝頼に引き続き仕えました。勝頼の時代、武田家は最大の版図を築きますが、同時に織田・徳川との対立は激化の一途をたどります。
天正3年(1575年)の長篠の戦いでは、昌盛も参陣したとする資料が存在します 10 。しかし、この合戦で織田・徳川連合軍の鉄砲隊の前に突撃し、壊滅的な被害を受けた武田軍の中核部隊には、上州小幡信貞の名が明確に記されている一方で、昌盛の具体的な活躍を伝える記録は乏しいのが現状です 26 。父・虎盛と同様に、対上杉の抑えとして海津城の守備など後方の重要な任務に就いていた可能性も考えられます 7 。
武田家の命運が傾き始める中、昌盛自身も病魔に蝕まれていました。『甲陽軍鑑』の品第57によれば、昌盛は天正9年(1581年)頃から「積聚の脹満(しゃくじゅのちょうまん)」という病を患ったと記されています 12 。
これは腹水が溜まって腹部が異常に膨れ上がる症状を指し、近年の医学史・歴史研究の進展により、当時、甲斐国、特に甲府盆地一帯の河川流域で蔓延していた風土病「日本住血吸虫症」であった可能性が非常に高いと指摘されています 13 。ミヤイリガイという巻貝に寄生する虫が原因のこの病は、当時は治療法がなく、多くの人々の命を奪った恐ろしい病でした。
勇将が敵の刃によってではなく、故郷の風土病によって戦う力を奪われていくという悲劇的な状況は、彼の物語に一層の深みを与えています。この具体的な病状の記述は、『甲陽軍鑑』が当時の社会状況や風俗をリアルに反映している側面を持つことを示す好例ともいえるでしょう。
天正10年(1582年)2月、織田信長・徳川家康連合軍による大規模な武田領侵攻、いわゆる甲州征伐が開始されます。しかし、昌盛は病床にあり、この国家存亡の危機に出陣することは叶いませんでした 1 。
武田方の城は次々と陥落し、家臣の裏切りも相次ぎます。勝頼は本拠地であった新府城に火を放ち、一族の小山田信茂を頼って岩殿城を目指し落ち延びていきました。この主君の悲壮な逃避行を聞いた昌盛は、死の床から起き上がり、輿に乗って甲斐善光寺(現在の甲府市)へと駆けつけます。そして、そこで勝頼に今生の暇乞いをしたと、『甲陽軍鑑』は感動的な筆致で描いています 14 。歩くことすらままならない痛々しい姿で現れた忠臣に、勝頼も涙を流してその志に感謝したと伝えられています 42 。
勝頼との悲痛な別れを果たした直後、天正10年3月6日、小幡昌盛は息を引き取りました。享年49 1 。それは、主君・勝頼が天目山で自害し、名門・武田家が滅亡する、わずか5日前のことでした。
戦場で華々しく散るのではなく、病によって戦うことすらできず、滅びゆく主家を見届けながら息絶える。この劇的なタイミングで迎えた最期は、昌盛の生涯を「最後の最後まで主君と運命を共にした忠臣」として完璧に完結させるための、物語的構成と言えるでしょう。彼の死に様までもが、後世の武士が理想とする忠義の形として、見事に演出されているのです。
小幡昌盛の生涯を理解する上で、『甲陽軍鑑』という書物との関係を抜きにして語ることはできません。彼の人物像の大部分は、この書物によって形成され、後世に伝えられたからです。
『甲陽軍鑑』は、表向きには武田四名臣の一人、高坂昌信が口述した内容を記録したものとされています。しかし、現在では国語学的、歴史学的研究の進展により、昌盛の三男である小幡景憲(おばた かげのり)が主体となって編纂・加筆したというのが定説となっています 2 。
景憲は武田家滅亡後、徳川家に仕え、甲州流軍学の祖として名を馳せ、多くの弟子を抱えました 4 。彼にとって『甲陽軍鑑』は、単なる武田家の興亡を記した歴史書ではありませんでした。それは、自らが創始した甲州流軍学の正統性と権威の源泉となるべき「教典」そのものだったのです。
その教典の中で、実の父である昌盛を、信玄・勝頼から深く信頼され、最後まで忠義を貫いた理想的な武将として描くことは、景憲自身の出自を権威付け、ひいては彼が教える甲州流軍学の価値を絶対的なものにする上で、極めて重要な意味を持っていました 46 。昌盛の感動的な物語は、景憲による「父祖顕彰」という強い意図が色濃く反映された結果と見なすべきでしょう。
信玄が「鬼の子(虎盛)には鬼の娘(猛将・原虎胤の娘)が相応しい」と言って昌盛に妻を娶らせたという逸話 1 や、第二章で述べた旗本になるための切腹騒動、そして最期の暇乞いなど、昌盛に関する逸話は人間味にあふれ、非常に魅力的です。
これらの逸話は、その史実性を直接証明する一次史料に乏しいという側面を持つ一方で、戦国時代から江戸時代初期にかけての武士たちが理想とした「主君への忠義」「主従の絆」「潔い死に様」といった価値観、すなわち「武士道」の精神を雄弁に物語る、思想史上の貴重な史料であると言えます 44 。『甲陽軍鑑』は、事実を記録する年代記としてではなく、武士の生きるべき規範を示す物語として、後世に絶大な影響を与えたのです。
では、なぜ小幡景憲は、数多いる武田家臣の中から父・昌盛をこれほどまでに重要人物として描いたのでしょうか。そこにはいくつかの理由が考えられます。
第一に、昌盛は武田家譜代の家臣でありながら、大領主ではなく、主君に近侍する旗本という、読者が感情移入しやすい立場にあったことが挙げられます。第二に、彼の生涯は、偉大な父の武名、主君への純粋な忠誠、劇的な危機からの救済、そして悲劇的な最期と、物語の主人公として非常に魅力的な要素に満ちていました。
景憲は、父・昌盛の生涯を「理想の家臣」のモデルケースとして描くことで、栄華を極めた武田家の記憶、その栄光と悲劇、そして乱世を生きる武士としていかに生き、いかに死ぬべきかという壮大なテーマを、読者に対して効果的に伝えることに成功したのです。
武田家は滅亡しましたが、小幡昌盛の子孫や親族は、それぞれ異なる道を歩み、その血脈を後世に伝えていきました。
武田氏滅亡後、長男の昌忠(まさただ)は徳川家康に召し出され、旗本として徳川家に仕えました 15 。これは、武田遺臣を積極的に登用した家康の政策の一環であり、昌盛の忠義が評価された結果とも考えられます。しかし、残念ながらこの昌忠の家系は二代で断絶したと伝えられています 15 。
次男の在直(ありなお)は、徳川四天王の一人であり、武田の軍制を積極的に取り入れたことで知られる井伊直政に仕えました 16 。井伊家の軍団の象徴である「赤備え」は、元々武田軍の山県昌景らが率いた部隊に由来し、多くの武田旧臣が組み込まれていました。在直もその一員として迎えられ、その子孫は彦根藩士として幕末まで続いたとされます。彦根藩の史料には、足軽組の一つとして「小幡組」の名が見えることもあり、在直の一族が藩内で一定の役割を担っていたことがうかがえます 49 。
三男の景憲(かげのり)は、昌盛の息子たちの中で最も後世に名を残しました。彼は武田家滅亡後、兄と同様に徳川家に仕え、二代将軍・徳川秀忠の小姓となりますが、文禄4年(1595年)に突如出奔し、諸国を流浪します 50 。その後、関ヶ原の戦いや大坂の陣で武功を挙げ、再び幕臣として迎えられました 43 。
景憲の最大の功績は、父祖の記憶をまとめた『甲陽軍鑑』を世に広め、それを教典として「甲州流軍学」を大成させたことです。彼の軍学は泰平の世の武士たちに広く受け入れられ、その門下からは、後に独自の思想を展開する山鹿素行(やまが そこう)のような重要な人物も輩出されました 43 。景憲の成功は、彼が父・昌盛を通じて「武田の記憶」を継承し、それを戦乱の記憶から泰平の世における「武士の教養」という新たな価値へと昇華させた結果と言えるでしょう。昌盛の物語は、この息子・景憲の活躍によって初めて世に知られることとなったのです。
昌盛の一族の動向として、叔父(一説には弟)である小幡光盛(みつもり)の存在も重要です。光盛は、昌盛が旗本になる際に海津城の城番の任を引き継ぎました 16 。武田氏が滅亡すると、光盛は越後の上杉景勝に仕え、その子孫は米沢藩士として存続しました 15 。これにより、小幡一族は徳川家(旗本)、井伊家(彦根藩)、そして上杉家(米沢藩)と、それぞれ異なる大名家のもとでその家名を伝えていくことになりました。
戦国武将・小幡昌盛の生涯を探求する旅は、我々を二つの異なる肖像へと導きます。一つは、歴史の断片から浮かび上がる「史実の昌盛」です。彼は、勇将・虎盛の子として生まれ、武田信玄・勝頼の二代に仕え、祈祷奉行といった行政的な役職もこなした、信頼篤い譜代の家臣でした。そして、主家の滅亡を目前にして、故郷の風土病によりその生涯を閉じた、一人の武将でした。
もう一つは、息子・景憲が編纂した『甲陽軍鑑』という壮大な物語の中に生きる「理想の忠臣・昌盛」です。彼は主君の側近くに仕えることを何よりも願い、その忠誠心ゆえに一度は死を命じられながらも、後の主君となる若き勝頼の慈悲によって救われます。そして最期には、病に倒れながらも滅びゆく主君のもとへ駆けつけ、涙の暇乞いを交わして息絶える。この物語の中の昌盛は、武士としての忠義、主従の絆、そして悲劇的な美学を完璧に体現しています。
結論として、小幡昌盛とは、歴史的事実と、後世に創造された物語とが分かち難く結びついた人物であると言えます。彼の生涯の探求は、単に一人の武将の人生を追うだけでなく、戦国時代の記憶がどのように語り継がれ、理想の武士像がいかにして形成されていったのかという、歴史叙述そのものの本質的な問題を我々に提示してくれます。小幡昌盛は、甲斐武田家に生きた史実の人物であると同時に、日本の武士道精神を象徴する、不朽の文学的英雄でもあるのです。