最終更新日 2025-05-18

小幡景憲

甲州流兵学者 小幡景憲 ―その生涯と『甲陽軍鑑』をめぐる研究―

1. 序論

小幡景憲(おばた かげのり、1572-1663)は、江戸時代前期の兵法家であり、甲州流兵学の祖としてその名を広く知られている 1 。彼は、戦国大名武田氏の旧臣という出自を持ちながら、徳川幕府に仕え、戦国時代の動乱期に培われた兵法を、泰平の世における学問として体系化するという重要な役割を担った。本報告書は、この小幡景憲の生涯、兵学者としての業績、そして彼が編纂に深く関与したとされる軍学書『甲陽軍鑑』について、現存する資料に基づき多角的に分析し、その歴史的意義を明らかにすることを目的とする。

小幡景憲に関する研究は、単に一個人の事績を追うに留まらず、戦国時代から江戸時代初期への移行期における武士の思想、兵法理論の変遷、さらには歴史書の編纂とその受容といった、より広範なテーマを理解する上で不可欠である。本報告書では、まず景憲の波乱に満ちた生涯を概観し、次に彼が創始した甲州流兵学の内容と展開、そして『甲陽軍鑑』の成立と景憲の役割、史料的価値について詳述する。最後に、これらの分析を踏まえ、景憲の人物像と歴史的評価について考察を加える。

2. 小幡景憲の生涯

2.1. 出自と家系

小幡景憲は、元亀3年(1572年)、甲斐武田氏の家臣であった小幡勘兵衛昌盛の三男として誕生した 1 。幼名は熊千代といい、後に孫七郎、勘兵衛を通称とし、法名を道牛と号した 2 。父である昌盛は、武田家において足軽大将を務め、かつては信濃国海津城(現在の長野県長野市)の城主であった春日虎綱(高坂昌信として知られる)を補佐した経歴を持つ武将であった 2 。この出自は、景憲が幼少期より武田家の軍事的気風の中で育ち、兵法への関心を深める素地となった可能性を示唆している。

小幡姓を名乗る家系は複数存在するが、景憲が属したのは甲州小幡氏であり、その祖は遠江国(現在の静岡県西部)の国人であった勝間田氏に遡るとされる 3 。一方で、上野国(現在の群馬県)を本拠とした上州小幡氏は秩父氏の後裔であり、甲州小幡氏とは別系統であるとする説が有力である。ただし、両者を同族とする系図も存在することから、その関係性については慎重な検討が必要とされるが、現状では後者の説には疑わしい点が多いと指摘されている 3 。景憲の家系を特定することは、彼のアイデンティティ形成や、後に武田氏の事績をまとめた『甲陽軍鑑』の編纂に取り組む動機を理解する上で重要となる。

景憲の祖父にあたる小幡虎盛(日浄の子)は、「鬼虎」の異名を持つ猛将であり、主君武田信虎・信玄より多数の感状を拝領し、その身には多くの戦傷を刻んでいたと伝えられる 3 。父の昌盛も、海津城代を務めた後、信玄の旗本として活躍したが、天正10年(1582年)の武田氏滅亡の直前、織田・徳川連合軍による甲州征伐の最中に病没している 2 。景憲の家系が武勇に優れ、武田家中において一定の評価を得ていたことは、彼が兵法家としての道を歩む上で少なからぬ影響を与えたと考えられる。なお、景憲には兄が二人おり、長兄の昌忠は旗本となったが二代で家系が断絶し、次兄の在直は徳川四天王の一人である井伊直政に仕えたと記録されている 3

2.2. 武田氏滅亡後の流転と徳川家への仕官

天正10年(1582年)、織田信長と徳川家康の連合軍による甲州征伐によって武田氏が滅亡した際、小幡景憲は11歳であった 2 。主家を失った多くの武田遺臣と同様に、景憲もまた徳川家康に仕えることとなり、当初は家康の三男(後の二代将軍)である徳川秀忠の小姓として召し出された 2 。これは、武田氏の旧領を確保した家康が、武田家の旧臣を積極的に登用した政策の一環であったと考えられる。

しかし、文禄4年(1595年)、景憲は24歳の時に、理由は明らかではないものの、突如として秀忠のもとを出奔し、その後約20年間にわたり諸国を流浪したと伝えられている 2 。この長い流浪の期間は、景憲が各地で兵法や武術の修行を積み、後の兵法家としての広範な知識と深い洞察力を養う上で、極めて重要な意味を持ったものと推察される。具体的な足跡については不明な点が多いものの、この時期の経験が彼の人間形成並びに兵法思想の熟成に寄与したことは想像に難くない。

2.3. 関ヶ原の戦いと大坂の陣

諸国を流浪していた小幡景憲であったが、慶長5年(1600年)に天下分け目の戦いとして知られる関ヶ原の戦いが勃発すると、東軍に属し、井伊直政の配下として戦功を挙げたとされる 2 。この時点では、景憲は依然として浪人の身分であったと記録されていることから 4 、正規の家臣としての参加ではなかったようである。武田氏の旧臣を多く抱えていた井伊直政の軍に加わったことは、景憲の武士としての矜持を示すと同時に、徳川方との繋がりを完全に断ち切ってはいなかった可能性を示唆している。

その後の景憲の動向で特に注目されるのは、慶長19年(1614年)の 大坂冬の陣、及び翌慶長20年(元和元年、1615年)の大坂夏の陣における役割である。記録によれば、景憲は当初、豊臣方に与していたが、内実は徳川方に通じており、江戸幕府の京都所司代であった板倉勝重に対して、大坂城内の情報を逐一連絡していたという 1 。そして、大坂城が陥落する直前に城内から脱出し、徳川方にその状況を報告したとされている 1

この大坂の陣における内通工作は、景憲の生涯を語る上で避けて通れない複雑な側面を提示している。景憲の出奔とそれに続く長い浪人生活は、彼にとって正規の武士としての地位を回復することへの強い渇望を生んだ可能性がある。武田遺臣としての自負と、現実的な立身出世の機会との間で、彼がどのような思慮を巡らせたのかは興味深い。大坂の陣での内通は、徳川方への決定的な忠誠を示すことにより、幕府への確実な帰参と安定した地位を獲得するための、極めて戦略的な行動であったと解釈することができる。武田氏滅亡後、一度は徳川家に仕官しながらも出奔したという過去を持つ景憲にとって、徳川方の「信用」を改めて勝ち取る必要性を痛感していたとしても不思議ではない。その意味で、この内通工作は、単なる日和見主義的な行動として片付けるべきではなく、戦国乱世から江戸泰平の世へと移行する激動期を生き抜こうとする一人の武士の現実的な選択であり、また、自身の兵法家としての洞察力を最大限に活用しようとした戦略的思考の現れであったとも考えられる。この行動は、景憲個人の処世術に留まらず、徳川幕府初期における情報戦の熾烈さの一端を物語る事例としても捉えることができよう。

2.4. 江戸幕府への再仕官と晩年

大坂の陣における「功績」が評価された結果、小幡景憲は再び徳川氏に仕えることとなり、最終的に1500石の知行を与えられた 1 。寛永9年(1632年)には幕府の役職である使番に任命されており 1 、これにより幕府内での彼の地位は確固たるものとなった。

安定した生活基盤を得た景憲は、この時期に甲州流兵学を大成させ、多くの門弟を育成することに心血を注いだ 1 。彼の兵法家としての名声は高まり、その門下からは後に名を成す多くの兵学者が輩出されることになる。

景憲は兵法のみならず、剣術にも優れた技量を持っていた。当代一流の剣客として知られる小野忠明(小野派一刀流の祖)に師事し、皆伝を授けられたと伝えられている 2 。興味深いことに、景憲と小野忠明は互いに師であり弟子でもあるという関係にあり、景憲は忠明に対して甲州流兵学を教授したという記録も残っている 4 。これは、景憲の兵法家としての評価がいかに高かったかを示すと同時に、当時の武芸者間の活発な交流の一端を物語っている。

私生活においては、横田尹松の子である縄松(後の小幡景松)を養子として迎え、また、庄田安勝の室となった養女がいた 2

小幡景憲は、寛文3年(1663年)2月25日、92歳という長寿を全うしてこの世を去った 1 。彼の長い生涯は、戦国時代の終焉から江戸幕府の確立期に至る日本の大きな歴史的転換期と重なっており、その中で彼は兵法家として、また一人の武士として、後世に大きな影響を残したのである。

表1: 小幡景憲 略年表

和暦年号

西暦

年齢(数え)

主要な出来事

関連資料ID

元亀3年

1572年

1歳

甲斐武田氏家臣・小幡昌盛の三男として誕生

1

天正10年

1582年

11歳

武田氏滅亡。徳川家康に仕え、徳川秀忠の小姓となる

2

文禄4年

1595年

24歳

徳川秀忠のもとを出奔、諸国を流浪する

2

慶長5年

1600年

29歳

関ヶ原の戦いにおいて、東軍の井伊直政に属し戦功を挙げる

2

慶長19年

1614年

43歳

大坂冬の陣。豊臣方に与するも、徳川方に内通

1

元和元年

1615年

44歳

大坂夏の陣。引き続き内通し、落城直前に徳川方に通報。戦後、再び徳川氏に仕える

1

元和7年頃

1621年頃

50歳頃

『甲陽軍鑑』の最古写本とされる小幡景憲写本が作成される

22

寛永9年

1632年

61歳

江戸幕府の使番となる。知行1500石。この頃、『甲陽軍鑑』の新たな伝写本を作成したとされる

1

寛文3年2月25日

1663年4月3日

92歳

死去

1

3. 甲州流兵学の創始と展開

3.1. 甲州流兵学の成立 ― 武田信玄の兵法思想の継承と体系化

小幡景憲は、甲州流兵学の事実上の流祖として広く認識されている 1 。この流派は、戦国時代の名将として名高い武田信玄の軍略や思想を理想とし、その名を冠して「信玄流」とも称されることがある 8 。景憲自身、武田家旧臣の家に生まれたこともあり、信玄への深い敬慕の念を抱いていた。彼は、武田氏滅亡後も長年にわたり、信玄ゆかりの地を訪ね歩き、武田家の遺臣たちを捜し求めては、古記録や伝承の収集に尽力したと伝えられている 8

こうした地道な資料収集と、景憲自身が流浪の期間などを通じて培った兵法に関する深い学識とが結びつき、甲州流兵学という一つの学問体系としてまとめ上げられた 8 。その体系は、単に武田信玄個人の戦術を模倣するに留まらず、中国の古典兵法(例えば『孫子』や『呉子』といった「武経七書」に代表される兵書群)の理念を基盤としつつ、そこに信玄が実践した具体的な戦例や用兵思想を巧みに組み込んでいる点に大きな特色があった 7 。これにより、甲州流兵学は、戦国時代の経験知と古典的な兵法理論とを融合させた、より普遍性のある学問としての性格を帯びるに至ったのである。

3.2. 甲州流兵学の思想と特徴

甲州流兵学は、単なる戦闘技術の集積ではなく、国家統治や組織運営、さらには個人の修養にまで及ぶ広範な思想体系を有していた。その根底には、人材を適材適所に配置することの重要性、信賞必罰を厳格に行うことによる国内秩序の安定、そして民百姓に対して仁政を施すことといった、為政者としての基本的な心得が据えられていた 10 。君主は心を平静に保ち、何事に対しても公正無私な態度で臨むべきであり、臣下は君主に対して従順であるべきだが、時には主君の過ちを諫める諫言も行うべきであるとする君臣間の理想的な関係性も説かれた 10 。これらの思想は、中国の古典兵法書群である『武経七書』にも共通して見られる普遍的な統治理念であり、甲州流兵学がこれらの影響を強く受けていたことを示している 10 。武田信玄が定めたとされる分国法「甲州法度次第」にも、同様の理念が見られることから 11 、甲州流兵学は武田氏の統治思想を色濃く反映していたと言えよう。

戦術論においては、敵の攻撃を事前に察知し、その不意を突くことの重要性が強調された 10 。また、単に敵を撃破するのではなく、可能な限り敵国を保全したまま勝利を収めること、すなわち「戦わずして勝つ」ことを理想とし、そのための謀略や外交戦略も重視された 10 。籠城戦においては、敵の挑発に乗らず冷静さを保つこと、内通の誘いがあった場合には独断で対応せず必ず大将に報告すること、城外へ出ての深追いは避けること、そして兵糧や水の確保といった兵站維持を徹底することなどが、具体的な法令として定められていた 10 。これらの教えは、戦闘における合理性と情報戦の重要性、そして持久戦における規律の厳格さを示している。また、甲州流の築城術においては、小勢でも守りやすく、城内を有効活用できるという観点から、「小さく、丸く」縄張りを行うことが推奨されたとされ 13 、放火戦術も重要な戦略の一つとして位置づけられていた 13

さらに、甲州流の学問体系には、天文気象や陰陽五行といった、古代中国から伝わる自然哲学や占術的な要素も含まれていたとされている 8 。これは、当時の兵学が、単に人間同士の駆け引きだけでなく、天の時や地の利といった自然の摂理をも考慮に入れて戦略を練ろうとしていたことを示唆している 14 。ただし、これらの要素が具体的にどのように兵法に取り入れられていたかについては、現存する資料からは必ずしも明確ではなく、今後の研究課題の一つと言える。

甲州流兵学が、単に武田信玄の戦術を模倣するだけでなく、それを中国古典の兵法理論や儒教的な統治思想と結びつけることで、より普遍的で体系的な「学問」として確立しようとした背景には、時代の変化が大きく影響している。戦乱が終息し、泰平の世へと向かう江戸時代初期において、武士階級は新たな社会における自らの存在意義を模索する必要に迫られていた。そのような状況下で、兵法は単なる戦闘技術から、武士としての教養、さらには統治の学問へとその性格を変容させていく。小幡景憲自身、武田家滅亡という主家の喪失と、徳川幕府の下での新たなキャリア形成という大きな転換点を経験している。この経験が、過去の栄光である信玄の兵法を、新しい時代である江戸時代に適応しうる普遍的な学問へと昇華させる強い動機となった可能性は高い。甲州流兵学が、実践的な戦術論と普遍的な統治理念とをバランス良く含んでいたからこそ、当時の多くの武士たちのニーズに応え、広く受け入れられた 6 と考えられるのである。

3.3. 主要な門弟と後代兵学への影響

小幡景憲の門下からは、数多くの優れた兵学者が輩出し、甲州流兵学は江戸時代の兵学界に大きな影響を与えた。その中でも特に高名な弟子として、北条氏長、山鹿素行、近藤正純、富永勝由、梶定良らがおり、前の四名は「小幡門四哲同学」と称されるほどの俊英であった 1

北条氏長(ほうじょう うじなが)は、景憲から甲州流兵学を学んだ後、それをさらに発展させ、独自の兵学流派である北条流兵法を創始した 1 。北条流の大きな特徴は、それまで軍学に含まれていた中世的な迷信・俗説(例えば、軍配を用いた日取りや方角の吉凶占いなど)や、精神論的な教訓、因習といった要素を排し、より合理的かつ実践的な軍事学として体系化しようとした点にある 16 。氏長は『兵法雄鑑』、『兵法雌鑑』、『士鑑用法』といった多くの著作を残し、その兵法思想を後世に伝えた 15 。また、彼は江戸幕府の軍制整備にも深く関与し、慶安の軍役令(1649年)の起草にも携わったとされ、その影響力は学問の領域に留まらなかった 15

山鹿素行(やまが そこう)もまた、小幡景憲の門下で甲州流兵学を修めた後、独自の学風を確立し、山鹿流兵学の祖となった 1 。山鹿流は、甲州流兵学を基礎としつつも、そこに儒学の思想を深く取り入れ、兵法を単なる軍事技術としてではなく、武士としての修養法、さらには人間学としての側面を強化した点に特色がある 16 。その内容は、陣形や築城術、軍令といった伝統的な兵法に加え、「用士」(人材登用論)、「撰功」(功績評価論)、「賞罰」(賞罰論)といった、現代で言うところの人事評価や組織運営論にまで及ぶ、極めて総合的な学問体系であった 18 。山鹿素行の思想は、後の時代の思想家にも影響を与え、例えば幕末の吉田松陰も彼の学説に影響を受けたとされる 13

小幡景憲の甲州流兵学は、江戸幕府において事実上の公認兵学としての地位を確立し、一説には2000人もの旗本が景憲の門を叩いたと伝えられている 6 。これは、甲州流兵学が、戦国時代の「実戦の知」を、江戸時代の「泰平の学」へと巧みに橋渡しする役割を果たしたことを示している。それは、兵法が軍事技術という枠を超え、武士道や組織論、さらには人間学といった、より広範な領域へとその射程を広げていく、日本兵法思想史における重要な転換点を象徴する出来事であったと言えるだろう。

表2: 小幡景憲の主要な門弟とその後の兵学への影響

門弟名

主な活動・役職

創始または発展させた兵学流派

流派の主な特徴・著作

備考

関連資料ID

北条氏長

江戸幕府旗本、大目付など

北条流兵法

甲州流を改良し、迷信的要素を排除。合理的・実践的な軍学を体系化。『兵法雄鑑』『雌鑑』『士鑑用法』など。慶安の軍役令起草に関与。

小幡門四哲同学の一人

1

山鹿素行

兵学者、儒学者

山鹿流兵法

甲州流に儒学を取り入れ、武士の修養法としての側面を強化。陣形、築城術に加え、人事論や組織論も含む総合的学問。『武教全書』など。

小幡門四哲同学の一人。吉田松陰らに影響。

1

近藤正純

不明(詳細情報なし)

小幡門四哲同学の一人

2

富永勝由

不明(詳細情報なし)

小幡門四哲同学の一人

2

梶定良

不明(詳細情報なし)

2

杉山盛政

小幡景憲の股肱の臣と称される

甲州流の継承・発展に寄与した可能性

8

4. 『甲陽軍鑑』と小幡景憲

4.1. 『甲陽軍鑑』の成立過程と小幡景憲の編纂における役割

『甲陽軍鑑』は、戦国大名武田信玄とその子勝頼の時代を中心とした武田家の事績、軍略、法制、さらには家臣たちの言行や武士としての心得などを記した軍学書である 8 。その成立に関しては諸説あるが、一般的には、武田信玄に長く仕えた重臣である高坂弾正昌信(春日虎綱)が、主君勝頼への諫言や後世への教訓として語った内容を、高坂の甥にあたる春日惣次郎と、春日家の家臣であった大蔵彦十郎が筆記したものが原初的な形態であるとされている 4 。これらの記述は、高坂昌信の死を挟んで、天正年間(1573年~1585年頃)に書き継がれたものと考えられている 4

この原資料、あるいはそれに類する小幡家に伝来した写本(一説には、武田氏滅亡後に上杉家に仕えた小幡光盛、またはその子孫とされる小幡下野守が入手し、加筆したものとも言われる)を、小幡景憲が入手し、それに増補・集成を加えて最終的な形にまとめ上げたとされるのが、今日我々が目にする『甲陽軍鑑』である 1 。現存する最古の写本としては、元和7年(1621年)頃に景憲自身が作成したとされるものが確認されている 22 。景憲は、入手した時点で既に破損が著しかったとされる原本を丹念に整理し、寛永9年(1632年)には新たな伝写本を作成したと記録されている 7

小幡景憲が『甲陽軍鑑』の編纂にこれほどまでに情熱を注いだ背景には、単なる学術的な興味や兵法研究への関心に留まらない、より深い動機があったと推察される。それは、滅亡した旧主武田氏の栄光と、その優れた兵法思想という貴重な遺産を、何とかして後世に伝え、再構築しようとする強い意志であった。そして、それを自身が創始する甲州流兵学の権威付けと巧みに結びつけることで、兵法家としての自らの社会的地位を確立し、ひいては他の武田遺臣たちの地位向上にも繋げようとした、極めて戦略的な意図があったのではないだろうか 21 。景憲自身、武田家旧臣の家に生まれ、主家滅亡という悲運を体験している。武田遺臣たちの救済は、彼にとって個人的な使命感とも結びついていた可能性がある。『甲陽軍鑑』を甲州流兵学の「教科書」 20 として位置づけることにより、「武田信玄の兵法こそが甲州流兵学であり、その正統な継承者が小幡景憲である」という構図を作り上げ、自身の権威を高めることに成功した。江戸幕府の旗本たちに対して兵学を教授する際 6 、この「武田ブランド」とも言うべき権威は、甲州流兵学の魅力を一層高める効果をもたらした。徳川家康自身が武田信玄の将器を高く評価していたことはよく知られており、幕府内で武田流兵法に対する需要が存在したことも、景憲の活動を後押ししたと考えられる。したがって、景憲による『甲陽軍鑑』の編纂と普及活動は、失われた主家の記憶を保存・顕彰するという個人的な情熱と、新しい時代における自身の兵法家としてのアイデンティティ確立、そしてキャリア形成という現実的な目標とが、分かちがたく結びついたものであったと解釈することができる。

4.2. 甲州流兵学における『甲陽軍鑑』の教材としての位置づけ

小幡景憲は、自らが編纂に深く関与した『甲陽軍鑑』を、自身が創始した甲州流兵学の中核的な教科書として用いた 4 。彼はこの書を通じて、門弟である多くの武士たちに対し、武田信玄・勝頼父子の時代の歴史的経緯、武田家独自の軍法や戦術、そして武士としていかにあるべきかという精神的支柱などを教授したのである。

景憲が指導を行う際、『甲陽軍鑑』に記された内容は全て真実であるという前提に立っていたとされる 20 。これは、教材としての権威を高め、教育効果を上げるための戦略であった可能性も否定できないが、同時に、後の時代における史料批判の対象となる要因の一つともなった。しかし、当時の武士たちにとって、『甲陽軍鑑』は単なる歴史書や戦術書を超え、武士としての生き方や価値観を学ぶための重要なテキストであったことは間違いない。

『甲陽軍鑑』が後世に与えた影響の一つとして、武田信玄に関する様々な言説やイメージの形成に大きく寄与した点が挙げられる。例えば、信玄の有名な言葉として知られる「人は城、人は石垣、人は堀、情けは味方、仇は敵なり」という教訓も、この『甲陽軍鑑』に収録されているものである 5 。この言葉は、物質的な城郭よりも人材の重要性を説き、また仁政を敷くことの大切さを説いたものとして、今日に至るまで多くの人々に感銘を与え続けている。『甲陽軍鑑』は、こうした信玄の思想や人間性を具体的に伝える上で、極めて重要な役割を果たしたと言えよう。

4.3. 『甲陽軍鑑』の史料的価値を巡る議論と近年の研究動向

『甲陽軍鑑』の史料としての価値については、その成立当初から現代に至るまで、様々な議論が交わされてきた。早くも江戸時代には、その記述内容に関して、合戦の経緯や年紀の誤りなどが複数の識者によって指摘されていた 22 。例えば、肥前平戸藩主であった松浦鎮信が著した『武功雑記』や、儒学者湯浅常山による『常山紀談』といった書物の中で、『甲陽軍鑑』には虚偽の記述が多いと批判されている 22

明治時代に入り、西洋的な実証主義に基づく近代歴史学が日本にも導入されると、『甲陽軍鑑』に対する評価は一層厳しいものとなった。歴史的事実や年紀の正確性に多くの問題点が見られることから、史料としての価値は低い、あるいは皆無であるとされ、甚だしくは小幡景憲が春日虎綱(高坂昌信)の名を騙って創作した偽書であるとまで見なされるようになった 7 。このような否定的評価を決定づけた代表的な論考として、1891年(明治24年)に歴史学者の田中義成が発表した「甲陽軍鑑考」が挙げられる 20

しかしながら、歴史学の分野で厳しい評価を受けていた一方で、『甲陽軍鑑』は他の分野では異なる側面から評価されてきた。例えば、国語学の分野では、その豊富な語彙や独特の文体から、国語辞典類において多くの語句が採録されてきた。また、日本の倫理思想史においては、「武士道」という言葉の初出史料の一つとして注目され、戦国時代に形成された武士の行動規範や精神構造(「心組み」)を、江戸時代初期の視点から集大成した貴重な文献として評価されてきたのである 22

こうした状況に変化の兆しが見え始めたのは、1990年代以降のことである。国語学者である酒井憲二氏による精力的な研究、特に浩瀚な校本である『甲陽軍鑑大成』の刊行などを契機として、『甲陽軍鑑』に対する文献学的、書誌学的な研究が飛躍的に進展し、その再評価の動きが活発化した 7 。酒井氏の研究によって、それまで混淆としていた『甲陽軍鑑』の多数の写本や版本が系統的に整理され、本文の異同が比較検討できるようになったことで、研究水準は格段に向上した。さらに、歴史学者の高橋修氏らによる研究によって、『甲陽軍鑑』が成立してから版本として出版されるに至るまでの詳細な経緯も次第に明らかになってきている 7

現在の学界における『甲陽軍鑑』の評価は、かつてのような全面的な否定からは脱却し、より多角的かつ慎重なものとなっている。歴史的史実を直接的に知るための一級史料として扱うには、依然として多くの問題点が含まれており、特に合戦の年紀や具体的な経緯などに関しては、他の信頼性の高い一次史料(古文書や同時代の記録など)とのクロスチェックが不可欠であることは論を俟たない 20 。しかしながら、その一方で、『甲陽軍鑑』が江戸時代以降の文学、演劇、講談といった創作物に与えた影響の大きさや、当時の武士たちがどのような歴史観や武士道徳を抱いていたかを知る上での思想史的価値は、今日広く認められている 7 。『甲陽軍鑑』は、史実そのものを正確に伝える書物というよりも、戦国乱世の記憶が江戸という新しい時代の中でどのように解釈され、受容されていったかを示す貴重な文化遺産として、今後も研究が続けられていくであろう。

5. 小幡景憲の人物像と多面的評価

5.1. 兵法家としての小幡景憲

小幡景憲の兵法家としての最大の功績は、戦国時代の名将武田信玄の兵法思想を継承し、それを江戸時代という新たな時代状況に合わせて体系化し、甲州流兵学として確立した点にあると言える 1 。彼は、単に過去の戦術を墨守するのではなく、中国の古典兵法や自身の経験知をもとに、より普遍的で実践的な兵学を構築しようと試みた。

また、景憲は優れた教育者でもあった。彼の門下からは、後に北条流兵法を開いた北条氏長や、山鹿流兵学の祖となった山鹿素行といった、江戸時代を代表する兵学者たちが輩出された 1 。一説には、景憲の指導を受けた旗本は2000人にも及んだとされ 6 、その影響力がいかに広範であったかが窺える。彼は、『甲陽軍鑑』を教材として用い、武田信玄の事績や思想を通じて、武士としての心得や統率論を教授した。これは、兵法が単なる戦闘技術から、武士階級の総合的な教養へと変容していく過程において、重要な役割を果たしたと言えるだろう。

5.2. 剣術家としての一面

小幡景憲は、兵法家としての名声に隠れがちではあるが、優れた剣術家としての一面も持ち合わせていた。彼は、当代一流の剣客であり、小野派一刀流の流祖として知られる小野忠明に剣術を学び、その奥義を究めて皆伝の域に達していたと伝えられている 2

興味深いことに、景憲と小野忠明の関係は、一方的な師弟関係に留まらなかった。互いに相手の専門分野を尊重し、教え合うという、いわば相互師弟とも呼べる間柄であったとされる 4 。すなわち、景憲が忠明から一刀流剣術の指導を受けた一方で、忠明は景憲から甲州流兵学を学んだという記録が残っているのである。これは、景憲の兵法家としての評価がいかに高かったかを示すと同時に、当時の武芸者たちが、専門分野の垣根を越えて互いに学び合い、技芸を高め合っていた活気ある状況を物語っている。兵法と剣術は、武士にとって車の両輪とも言える重要な武技であり、景憲がその両方に通じていたことは、彼の武人としての総合的な能力の高さを示している。

5.3. 伝わる逸話と人物像の考察

小幡景憲の人物像を伝える逸話はいくつか残されているが、その中でも特に有名なのが、徳川家康に武田信玄が用いたとされる軍配について尋ねられた際の一件である。景憲は、甲州流兵学の権威として、信玄にふさわしい豪奢で立派な軍配を製作して家康に献上した。しかし、家康はその軍配を一瞥するや、「このような重くて持ちにくいものを、あの信玄が実戦の場で使うはずがない」と言って投げ返したという 25 。この逸話は、景憲が抱いていた理想化された信玄像と、実用性を重んじる家康の現実主義的な視点との対比を鮮やかに描き出している。景憲が、信玄を神格化に近い形で捉えていたのか、あるいは甲州流の権威を高めるために意図的に華美な軍配を製作したのか、その真意は定かではないが、彼の信玄に対する深い敬慕の念を窺わせるエピソードである。

また、『甲陽軍鑑』の流布を巡る逸話も興味深い。景憲が信頼する弟子に貸し与えた『甲陽軍鑑』の写本が、その弟子の小姓の手によって、景憲に無断で京都の版元に持ち込まれ、出版されてしまったというのである 7 。この出来事は、『甲陽軍鑑』という書物がいかに価値の高いものとして認識されていたかを示すと同時に、著作物の管理や版権といった問題が、当時既に存在していたことを示唆している。景憲にとっては不本意な形での出版であったかもしれないが、結果として『甲陽軍鑑』がより多くの人々の目に触れる機会となったことは皮肉な巡り合わせと言える。

景憲の生涯を振り返ると、徳川秀忠のもとを突如出奔し長期間諸国を流浪したことや 2 、大坂の陣における豊臣方への参加とそれに続く徳川方への内通といった複雑な行動 1 などから、「なかなか落ち着かない人だったようだ」という評価もなされている 18 。これらの行動は、一見すると一貫性に欠けるようにも見えるが、彼の内面に目を向けると、そこには武田信玄という理想化された英雄への強い思慕と、戦国末期から江戸初期という激動の時代を生き抜くための極めて現実的な判断力・行動力という、二つの異なる側面が複雑に絡み合っていたのではないかと推察される。彼の「落ち着かなさ」は、この理想と現実の間での葛藤や、自己の理想(武田兵法の顕彰や兵法家としての立身)を実現するための最適な場を常に模索し続けた結果の現れであったのかもしれない。甲州流兵学の体系化や『甲陽軍鑑』の編纂といった彼の偉大な業績は、失われた武田の栄光という「理想」を、江戸時代という新しい「現実」の中で再構築し、後世に伝えようとした情熱の結晶であったと解釈できる。これらの行動は、単なる性格的特徴として片付けるのではなく、時代を生き抜くためのエネルギーの発露であり、彼のダイナミックな自己実現の過程であったと捉えることも可能であろう。

5.4. 歴史的評価の変遷

小幡景憲の歴史的評価は、彼が深く関与した『甲陽軍鑑』の評価と密接に連動しながら、時代と共に変遷してきた。

江戸時代においては、景憲は甲州流兵学の祖として、また『甲陽軍鑑』の編纂者として、武士社会において大きな影響力を持った 6 。彼が確立した甲州流兵学は、幕府の公認兵学に近い位置を占め、多くの武士たちが彼の教えを学んだ。この時期、景憲は兵学界における中心人物の一人と見なされていたと言える。

しかし、明治時代以降、実証主義的な歴史研究が主流となると、『甲陽軍鑑』はその記述の正確性や史料的価値について厳しい批判に晒されることとなった。それに伴い、景憲自身も、時には『甲陽軍鑑』の偽作者とまで見なされるなど、その評価は大きく揺らいだ 7

近年に至り、『甲陽軍鑑』に対する文献学的・書誌学的な研究が進展し、その多面的な価値が再認識されるようになると、小幡景憲の兵法思想史における役割も改めて注目されるようになった 7 。彼が戦国時代の兵法を江戸時代の学問へと橋渡しした功績や、後代の兵学に与えた影響の大きさは、今日では広く認められている。

なお、『甲陽軍鑑』以外の景憲自身の著作については、現存する資料群からは明確な情報を得ることは難しい 1 。彼が『甲陽軍鑑』の編纂と甲州流兵学の教授に心血を注いだことは確かであり、この書物こそが彼の名を最もよく後世に伝えるものとなっている。

6. 結論

小幡景憲は、戦国時代の終焉から江戸幕府の確立期という、日本史における大きな転換点を生きた兵法家であった。彼の最大の功績は、武田信玄の兵法思想を中核とする戦国時代の軍事知識を、『甲陽軍鑑』の編纂と甲州流兵学の創設・教授を通じて、江戸時代という新たな時代状況に適応させ、体系化し、後世に伝えた点にある。彼の活動は、兵法が単なる実戦の技術から、武士階級の総合的な教養や組織運営論へとその性格を変容させていく、まさにその過渡期を象徴するものであったと言える。

景憲が確立した甲州流兵学は、北条氏長による北条流兵法や、山鹿素行による山鹿流兵学といった、後代の重要な兵学諸流派の成立に大きな影響を与えた。これらの流派を通じて、甲州流の思想的要素は江戸時代の武士道精神の形成にも少なからず寄与したと考えられる。また、彼が編纂に深く関わった『甲陽軍鑑』は、その史料的価値について様々な議論がありつつも、武田信玄の英雄像や戦国時代の武士の姿を生き生きと描き出し、江戸時代以降の文学や芸能、さらには現代に至るまでの歴史認識に影響を与え続けている。

一方で、小幡景憲の生涯や業績には、未だ解明されていない点も多く残されている。例えば、大坂の陣における内通工作の具体的な経緯や、その背景にあった彼の真意、甲州流兵学の教えの中に含まれていたとされる天文気象や陰陽五行説の具体的な内容とその影響などについては、今後のさらなる史料の発見と研究の深化が待たれるところである。これらの課題の解明は、小幡景憲という一人の兵法家の実像をより明確にするだけでなく、日本の近世初期における思想史や文化史を理解する上でも重要な意義を持つであろう。

引用文献

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  2. 小幡景憲とは何? わかりやすく解説 Weblio辞書 https://www.weblio.jp/content/%E5%B0%8F%E5%B9%A1%E6%99%AF%E6%86%B2
  3. 小幡氏 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B0%8F%E5%B9%A1%E6%B0%8F
  4. 000all.pdf - 山口県文書館 http://archives.pref.yamaguchi.lg.jp/user_data/upload/File/archivesexhibition/AW16bugeitaiiku/000all.pdf
  5. 小幡景憲 | 武将のり - Ameba Ownd https://bushonori.amebaownd.com/posts/45604994/
  6. 武田信玄と『甲陽軍鑑』 - 印刷博物館 https://www.printing-museum.org/etc/pnews/083_1.php
  7. 武田信玄と『甲陽軍鑑』 - 印刷博物館 https://www.printing-museum.org/etc/pnews/08301.php
  8. 甲州流 - 山口県文書館 http://archives.pref.yamaguchi.lg.jp/user_data/upload/File/archivesexhibition/AW16bugeitaiiku/02.pdf
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  11. 川中島合戦はなぜ起こったのか、武田信玄と上杉謙信の一騎打ちは本当なの? - 額縁のタカハシ https://www.gakubuti.net/framart/why_happen.html
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  14. 近世人の思想形成と書物 若 尾 政 希 - 一橋大学 https://hermes-ir.lib.hit-u.ac.jp/hermes/ir/re/9507/HNshakai0004201110.pdf
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  17. 郷土士の歴史探究記事 その47 http://kyoudosi.cocolog-nifty.com/blog/2020/02/post-af17ba.html
  18. 山鹿流に夢中|k_maru027 - note https://note.com/k_maru027/n/n628c080c2a5c
  19. 甲陽軍鑑(コウヨウグンカン)とは何? わかりやすく解説 Weblio辞書 https://www.weblio.jp/content/%E7%94%B2%E9%99%BD%E8%BB%8D%E9%91%91
  20. 甲陽軍鑑の取り扱いについて - note https://note.com/gunkan2222neco/n/n71510971099a
  21. 「甲陽軍鑑」を知る・・・① - funny 一時 serious のち interesting - ココログ http://arcadia.cocolog-nifty.com/nikko81_fsi/2015/08/post-8b0b.html
  22. 甲陽軍鑑 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%94%B2%E9%99%BD%E8%BB%8D%E9%91%91
  23. 上杉定勝筆『見聞書』の紹介と検討(二) https://chuo-u.repo.nii.ac.jp/record/2001908/files/repo-0287-3877_109_06.pdf
  24. 古来諸説が行わ れている。なかでも明治二十四年史学雑誌十四号田中義成 博士の「甲陽軍鑑考」は、画期的な名論であった。 https://fwu.repo.nii.ac.jp/record/1694/files/KJ00000148580.pdf
  25. 川中島、謙信・信玄一騎打ちの真相について http://yogokun.my.coocan.jp/kawanakajima.htm
  26. 信玄の『甲陽軍鑑』の教えはビジネスに生かせる|Biz Clip(ビズ ... https://www.bizclip.ntt-west.co.jp/articles/bcl00007-044.html