ご依頼のあった戦国武将「小幡重貞」は、その名の下に複数の人物の経歴が混淆し、歴史の中に埋もれた複雑な存在である。通説として知られる「山内上杉家臣・憲重の嫡男、上総介を称し、安中城を攻略後、長篠の戦いで戦死」という人物像 1 は、一人の人間の生涯としては史実と符合しない。これは、父である**小幡憲重(おばた のりしげ)
と、その子で武田二十四将の一人として名を馳せた 小幡信貞(おばた のぶさだ、信真とも)**という、二人の異なる武将の事績が、後世の伝承や記録の中で融合し、再構築された結果なのである。
この混同が生じた背景には、いくつかの構造的な要因が考えられる。第一に、父子の活動時期が重なり、共に武田信玄に仕え、同じ国峯城を本拠としたこと。第二に、息子である信貞の武名が「赤備え」の猛将としてあまりにも高かったため、父・憲重の功績が息子の物語に吸収されやすかったこと。そして第三に、「長篠合戦での壮絶な戦死」という劇的な(しかし誤った)エピソードが信貞の人物像として定着し、それにそぐわない父子の晩年の記録が軽視された可能性である。この混同は単なる記録ミスではなく、英雄譚として語り継がれる過程で生じた「歴史的記憶の再編」と捉えるべきであろう。
本報告書は、この「小幡重貞」という複合的な人物像を解体し、史料に基づき、父・憲重と子・信貞それぞれの生涯を個別に、かつ相互の関連性を明らかにしながら再構築することを目的とする。まず、両者の経歴を明確に区別するため、以下の対照表を提示する。
年代(西暦) |
小幡憲重(父) |
小幡信貞/信真(子) |
関連する出来事・史料 |
天文17年(1548) |
山内上杉氏から離反し後北条氏に通じる 3 。 |
(未元服) |
関東の勢力図の変動期。 |
天文22年(1553) |
子と共に出仕し、武田信玄に帰属 4 。 |
父と共に信玄に出仕、元服し「信実」を名乗る 4 。 |
『高白斎記』。 |
永禄10年(1567) |
(隠居か) |
家督継承。「右衛門尉信実」として起請文に署名 4 。 |
『下之郷起請文』。 |
元亀3年(1572) |
(存命) |
三方ヶ原の戦いに参陣、負傷。弟・昌定が戦死 4 。 |
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天正3年(1575) |
(戦死説あり) 1 |
長篠の戦いに参陣、負傷するも生還 4 。 |
『信長公記』、武田勝頼書状。 |
天正10年(1582) |
(死去説あり) |
武田氏滅亡後、織田、次いで後北条氏に属す 7 。 |
甲州征伐。 |
天正11年(1583) |
この年に死去したとの記録あり 8 。 |
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『小幡氏歴代法名記録』。 |
天正18年(1590) |
(没) |
小田原城に籠城。戦後、旧知の真田昌幸を頼る 9 。 |
小田原合戦、国峯城廃城。 |
天正20年(1592) |
(没) |
信濃にて死去 4 。 |
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小幡父子の行動を理解するためには、彼らが属した小幡一族の出自と、戦国時代初期の関東地方における彼らの立場を把握することが不可欠である。彼らの選択は、一族が歩んできた歴史と、当時の激動の政治情勢に深く根差している。
上州小幡氏は、平安時代末期に武蔵国で勢力を誇った武士団「武蔵七党」の一つ、児玉党の系譜を引く一族である 10 。その祖は、桓武平氏良文流の秩父行高の子・行頼とされ、彼が上野国甘楽郡小幡の地を領して「小幡」を称したことに始まると伝えられている 10 。この名門としての出自は、彼らが地域の国衆の中で重きをなす上で重要な基盤となった。
その本拠地は、上野国甘楽郡(現在の群馬県甘楽町)に聳える国峯城であった 3 。この城は単なる防衛拠点に留まらない。標高約430メートル、比高230メートルの険峻な山容を利用し、山頂の主郭部、東麓の御殿平と呼ばれる居館部、さらには広大な外郭部から構成される、一大城郭群であった 13 。城域は東西1.2キロメートル以上にも及び、岩盤を削り取った複数の堀切や竪堀、技巧的な枡形虎口などが設けられていた 12 。この規模と構造は、小幡氏が単なる在地領主ではなく、西上野一帯に強大な影響力を持つ有力国衆であったことを物理的に証明している。その築城技術には、後に仕える武田氏の影響も指摘されており、彼らが常に先進的な軍事技術を取り入れていた可能性を示唆している。
戦国時代初期、小幡氏は関東管領を世襲する山内上杉氏の重臣として、西上野の支配体制の中核を担っていた。箕輪城主の長野氏と並び称される西上野の雄であり、「上州八家」や「四宿老」の一角に数えられるなど、その地位は極めて高かった 7 。
しかし、その盤石に見えた関東の秩序は、天文14年(1545年)に起きた「河越夜戦」によって根底から覆される。この戦いで、関東管領・上杉憲政と扇谷上杉朝定の連合軍は、相模の後北条氏康の奇襲を受けて壊滅的な敗北を喫した 17 。この一戦は、単なる軍事的な敗北以上の意味を持った。関東管領の権威は地に堕ち、上杉氏の軍事力と求心力は回復不可能なまでに低下したのである 17 。
この権力の真空状態を突いて、勝者である後北条氏が関東への勢力拡大を加速させる。これまで上杉氏に従っていた関東の国衆たちは、存亡をかけた選択を迫られた。没落しつつある旧主・上杉氏に忠誠を尽くして共倒れになるか、あるいは新興勢力である後北条氏に鞍替えして生き残りを図るか。小幡氏のその後の動向は、まさにこの戦国時代の「国衆」が置かれた典型的なジレンマと、彼らが下した現実的な対応を示すものであった。彼らの主君の乗り換えは、単なる裏切り行為として断罪されるべきではなく、一族と所領の安泰を最優先とする国衆としての、極めて合理的な生存戦略だったのである。
「小幡重貞」の父、憲重の生涯は、関東の勢力図が塗り替わる激動の時代にあって、一国衆がいかにして生き残りを図ったかを示す縮図である。彼の選択は、大勢力に翻弄されながらも、巧みな立ち回りで一族の存続を第一に考えた、現実主義者の姿を浮き彫りにする。
河越夜戦で上杉氏の権威が失墜すると、憲重は迅速に行動する。天文17年(1548年)10月、彼は長年仕えた山内上杉氏を見限り、関東で勢力を伸張する後北条氏に通じた 3 。これは、関東の新たなパワーバランスに適応するための、国衆としての現実的な判断であった。
しかし、この路線転換は一族内に深刻な亀裂を生んだ。主家を巡る上杉派と北条派の対立に加え、西上野の覇権を巡って競合する箕輪城主・長野業政の策謀も絡み、憲重は一族の小幡景定(景純)との内紛に陥る 13 。この争いに敗れた憲重は、一時的に本拠地である国峯城から追放されるという屈辱を味わった 13 。
所領を失い流浪の身となった憲重が活路を求めた先は、西から上野を窺う甲斐の武田信玄であった。この選択が、小幡氏の運命を大きく変えることになる。甲斐の軍学書『高白斎記』には、天文22年(1553年)9月、憲重が子(後の信貞)を伴って信玄に出仕したことが記録されており、これが小幡父子が正式に武田氏の麾下に入ったことを示す決定的な史料となっている 4 。
武田信玄にとって、西上野の有力国衆である憲重の帰属は、まさに渡りに船であった。信玄は憲重を、未知の土地である上野を攻略するための重要な「媒介者」として活用した。憲重は、地元の地理や人脈に精通している利点を最大限に生かし、武田軍の西上野侵攻を積極的に支援したのである 13 。
その協力関係の最初の成果が、国峯城の奪還であった。永禄4年(1561年)、信玄は軍勢を動かして国峯城を攻略し、憲重を城主の座に復帰させた 13 。これにより、武田氏は西上野に確固たる拠点を確保した。憲重は武田軍の「西上野先方衆」の筆頭とされ、安中城攻略をはじめとする上野各地の戦いで、侵攻の先導役として、また主力部隊の一翼として目覚ましい功績を挙げた 2 。彼の存在は、武田軍が西上野を制圧する上で不可欠だったのである。
憲重の最期については、複数の説が伝えられており、これも父子混同の一因となっている。
最も広く知られているのが、天正3年(1575年)の長篠の戦いで討死したとする説である 1 。しかし、これは後述する息子・信貞の部隊が同合戦で壊滅的な打撃を受けた事実と混同された可能性が極めて高い。
より信頼性の高い史料によれば、憲重は長篠の戦い以降も存命していたことが確認できる。史料上の最後の記録は、天正8年(1580年)に武田勝頼から発給された書状である 8 。そして、小幡一族の菩提寺に伝わる『小幡氏歴代法名記録』には、武田氏が滅亡した翌年の天正11年(1583年)8月15日に死去したと記されている 8 。これが、憲重の最も信憑性の高い最期と考えられる。彼は武田家の滅亡を見届けた後、静かにその生涯を閉じたのである。
父・憲重が築いた武田家臣としての地位を継承し、その武名を天下に轟かせたのが、息子・信貞(信真)である。武田二十四将の一人に数えられ、武田軍の精強さを象徴する猛将として、彼の生涯は武田家の栄光と悲劇を色濃く反映している。
信貞は天文9年(1540年)に生まれたとされる 9 。父と共に武田信玄に仕えた後、元服に際して信玄から「信」の一字を賜り、「信実」と名乗った 4 。その後も「信貞」「信真」など複数の諱(いみな)を用い、官途名としては「上総介」や「尾張守」を称した 4 。これらの名前の変遷は、彼のキャリアの進展と、仕える主君の変化を反映している。
永禄10年(1567年)に提出された『下之郷起請文』には、彼が「右衛門尉信実」として単独で署名しており、この頃までには家督を継承し、名実ともに小幡氏の当主として活動していたことが確認できる 4 。この起請文の内容から、彼が甘楽郡・多胡郡にまたがる広大な領域を支配下に置き、多数の同心衆を率いる大身の国衆であったことが窺える。
小幡信貞の名を不朽のものとしたのが、彼が率いた「赤備え」の部隊である。これは、兜や鎧、旗指物に至るまで、武具のすべてを赤(朱)で統一した精鋭部隊を指す 21 。
『甲陽軍鑑』によれば、小幡氏は父子合わせて500騎、侍大将として千騎を率いたとされ、これは武田家中でも最大級の兵力であった 9 。この大部隊を赤一色で染め上げた「小幡の赤備え」は、戦場において際立った存在感を示し、武田軍の象徴として敵に恐れられた 22 。その勇名は、後に徳川家康が井伊直政に赤備えを編成させる際、「小幡の赤備えは具足旗指はもちろん、鞍や鞭まで赤かったと聞く。そのようにせよ」と命じたという逸話からも窺い知ることができる 22 。
その武勇を裏付けるのが、敵方である織田方の記録『信長公記』の記述である。長篠の戦いの項で、小幡勢について「馬上巧者」、すなわち馬術に長けた者たちであったと特筆している 4 。これは、彼らが優れた騎馬突撃戦術を駆使する、当代随一の騎馬軍団であったことを示す第一級の証言である。現在、甘楽町歴史民俗資料館には、乗馬での活動に特化した珍しい様式の「小幡氏紋付赤備具足」が所蔵されており、赤備えの実在と、その高い機能性を今に伝えている 25 。
信貞は、武田軍の主力として各地の合戦を転戦した。永禄12年(1569年)の三増峠の戦い、同年の駿河蒲原城攻略戦(この戦いで弟・信高が戦死)、そして元亀3年(1572年)の三方ヶ原の戦い(弟・昌定が戦死、信貞自身も負傷)など、常に軍団の先鋒を務め、その武勇を発揮した 4 。
彼の名を巡る最大の謎が、天正3年(1575年)の長篠の戦いにおける動向である。
通説では、信貞はこの戦いで討死したと広く信じられている 2。しかし、これは史実ではない。
『信長公記』によれば、武田軍の三番手として突撃した小幡の赤備え部隊は、織田・徳川連合軍が馬防柵の背後に周到に準備した鉄砲隊の一斉射撃の前に甚大な被害を受け、「過半が討ち倒され」壊滅的な打撃を被った 26 。この部隊の壊滅という劇的な事実が、司令官である信貞の死と結びつけられ、「長篠で戦死」という伝説が生まれたのである。
だが、信貞自身は死地を生き延びていた。その決定的証拠が、戦後に主君・武田勝頼が信貞に送った書状の存在である。武田家の古文書を集成した『歴代古案』には、勝頼が信貞とその兄弟の負傷を気遣い、労う内容の書状が収められており、彼の生還を明確に証明している 4 。信貞は深手を負いながらも、甲斐への帰還を果たしていたのである。この事実は、武田騎馬軍団の栄光と、鉄砲という新兵器の前にその戦術が時代遅れとなっていく悲劇を、一身に体現した彼の姿をより鮮明に描き出している。
長篠の敗戦後も、信貞は武田家の中核として勝頼を支え続けた。しかし、天正10年(1582年)、織田信長の圧倒的な軍事力の前に武田氏は滅亡する(甲州征伐)。主家を失った信貞は、織田信忠の派遣した部将・森長可に降伏し、織田氏の配下となった 7 。
だが、その直後に本能寺の変が勃発し、織田家の支配も瓦解する。関東の権力構造が再び流動化する中、信貞は後北条氏に仕える道を選んだ 7 。
彼の武将としての最後の戦いは、天正18年(1590年)の豊臣秀吉による小田原征伐であった。北条方として小田原城に籠城したが、北条氏は天下の趨勢に抗しきれず降伏 9 。これにより信貞は、父祖伝来の本領である上野国小幡を完全に失った。
すべてを失った信貞が最後に頼ったのは、武田家臣時代に上野方面の同僚として長年苦楽を共にした、旧知の真田昌幸であった 9 。この個人的な「縁」が、彼にとって最後の命綱となったのである。昌幸の庇護のもと、信濃で余生を送った信貞は、天正20年(1592年)、波乱に満ちた生涯に幕を下ろした。享年52であった 4 。彼の晩年は、戦国武将にとって主従関係や血縁だけでなく、同僚として培った固い絆がいかに重要なセーフティネットであったかを物語っている。
小幡氏の物語は、信貞の死では終わらない。本領を失った一族が、その後いかにして血脈を繋ぎ、戦国の世を生き抜いていったかを追跡することは、戦国武家のしたたかな生命力を示している。
信貞には実子がいなかったため、弟・信秀の子である直之を養子に迎えていた 10 。武田氏という巨大な庇護者を失った後、小幡一族は一つの家に命運を託すことを避け、いわば「人的資源の分散投資」とも言うべき生存戦略をとった。
中核となったのは、養嗣子の直之である。彼は徳川家康にその武門の家柄を評価され、旗本として召し出された。これにより、小幡宗家は江戸幕府の直臣として家名を再興することに成功した 7 。
一方で、一族の他の者たちは、それぞれ異なる大名家に仕官の道を見出した。直之の弟たちは、信貞が最後に頼った真田家の信之に仕えて松代藩の重臣となった家系(松代小幡氏)や、紀州徳川家に仕えた家系などに分かれた 10 。また、信貞の別の養子であった信定は、旧領小幡を与えられた奥平信昌に一時仕えた後、加賀百万石の前田家に仕官している 28 。さらには米沢藩の上杉家臣となった系統も存在し 10 、一族は各地に根を下ろし、その血脈を後世に伝えたのである。
彼らが去った本領・上野国小幡は、徳川家康の関東入国後、奥平信昌、水野氏らの支配を経て、元和元年(1615年)からは織田信長の次男・信雄の子孫が治める小幡藩の地となった 29 。以降、織田氏が約150年にわたって統治し、現在の群馬県甘楽町に残る城下町の美しい町並みや、国指定名勝である大名庭園「楽山園」などは、この織田氏の時代に形成されたものである 31 。
本報告書が解き明かしてきたように、「小幡重貞」という名は、父・憲重と子・信貞という二人の武将の複合像であった。両者の生涯は、それぞれが戦国時代における異なる武士の類型を代表しており、その歴史的評価も分けて考えるべきである。
父・ 小幡憲重 は、上杉、北条、武田という大勢力の間で翻弄されながらも、一族の存続を最優先に考え、巧みな交渉と戦略で立ち回った、戦国時代の「国衆」の典型であった。彼の選択は、時に主君を裏切る非情なものであったかもしれないが、それこそが激動の時代を生き抜くためのリアリズムであった。彼が武田信玄への帰属という道筋をつけたからこそ、息子・信貞の華々しい活躍の舞台が整えられたのである。
子・**小幡信貞(信真)**は、父が築いた基盤の上で、その武才を存分に開花させた。彼が率いた「赤備え」は、武田軍団の精強さを象徴する存在となり、その武名は後世にまで語り継がれた。特に、長篠での悲劇的な突撃と、それにまつわる「戦死」の伝説は、彼を単なる一武将から、武田騎馬軍団の栄光と悲劇を一身に背負う象徴的存在へと昇華させた。その「赤備え」の勇名は、後に井伊直政によって徳川軍団に受け継がれ、日本の武家文化に大きな影響を与え続けたのである 22 。
結論として、「小幡重貞」という一つの名に集約されてきた父子の事績を分離し、それぞれの実像を歴史の中に正しく位置づけることで、我々は戦国という時代の多層的な姿をより深く理解することができる。一方は時代の変化を読み、一族を存続させた現実主義の国衆。もう一方は、時代の象徴として伝説となった猛将。この父子の物語は、戦国史のダイナミズムと、そこに生きた人々のリアルな姿を、今に力強く伝えている。