徳川家臣、小浜光隆(おばま みつたか)は、戦国時代の動乱が終焉を迎え、江戸幕府による泰平の世が確立される過渡期に、徳川家の水軍(船手組)の中核として活躍した武将である。彼の生涯は、戦働きを本分とする「武将」から、幕府の法と秩序を維持する「官僚」へとその役割を変貌させていった旗本の一典型であり、徳川幕府がいかにして全国の海上勢力を統制し、中央集権的な支配体制を築き上げていったかを映し出す貴重な事例といえる。
徳川家の水軍は、三河以来の譜代の家臣団から形成されたものではなく、武田氏や後北条氏といった旧敵対勢力に仕えていた海賊衆や水軍の将を、その専門技能を高く評価して積極的に登用した点に大きな特徴がある 1 。小浜光隆は、その中でも伊勢の海にその源流を持つ父・景隆(かげたか)から続く水軍の将としての家系を継ぎ、関ヶ原の戦い、大坂の陣という天下分け目の合戦で赫々たる武功を立てた。そして江戸時代に入ると、西日本の海事を統括する大坂船手頭(ふなてがしら)という要職を歴任し、幕府の権威を海上において執行する役割を担った 3 。
本報告書は、『寛政重修諸家譜』をはじめとする基本史料に加え、関連する諸記録を丹念に調査し、小浜光隆の出自からその死に至るまでの生涯を網羅的かつ詳細に追跡するものである。彼の軍功、幕府内での職務、知行の変遷、そして家族や子孫に至るまでを多角的に検証することで、一人の武将の生涯を通して、戦国から近世へと移行する時代の大きな潮流を浮き彫りにすることを目的とする。
小浜光隆の父、小浜景隆は、伊勢国答志郡小浜(現在の三重県鳥羽市小浜町)を本拠地とした海賊衆(水軍)の頭目であった 4 。その家系は、『寛政重修諸家譜』によれば藤原氏の支流を称している 7 。当初、景隆は伊勢国司であった北畠氏に属し、大型の軍船である安宅船を擁する水軍の中核として、伊勢湾にその勢力を誇っていた 1 。しかし、織田信長の支援を得て志摩国の統一を目指す九鬼嘉隆(くき よしたか)との抗争に敗れ、本拠地である伊勢湾を追われることとなる 5 。
その後、元亀2年(1571年)、甲斐の武田信玄が水軍を創設するにあたり、景隆はその卓越した海上戦闘能力を買われ、船大将として招聘された。信玄没後はその子、勝頼に仕えたが、天正10年(1582年)に武田氏が滅亡すると、徳川家康に仕官し、徳川水軍の将として新たな道を歩み始める 5 。家康は景隆に駿河国内で1500石を与え、その能力を高く評価した。特に天正12年(1584年)の小牧・長久手の戦いでは、伊勢の村松・大淀方面に来襲した羽柴秀吉方の九鬼嘉隆勢と交戦し、これを撃退する戦功を挙げており、家康の期待に応えている 6 。
この経緯は、小浜氏が徳川家で重用された背景を解き明かす上で極めて重要である。家康にとって景隆は、単に有能な水軍の将というだけでなく、豊臣政権下で強大な力を持つ九鬼嘉隆への対抗策として、戦略的に不可欠な存在であった。長年にわたり伊勢・志摩の海で九鬼氏と覇を競った景隆の経験と知識は、いわば「九鬼キラー」として、他の誰にも代えがたい価値を持っていたのである。武田旧臣を積極的に登用する家康の方針も相まって、景隆は徳川家中で確固たる地位を築くに至った。
天正18年(1590年)、家康が関東へ移封されると、景隆は相模・上総の両国にわたって3000石の知行を与えられた 5 。これは、江戸湾の防衛という観点から、景隆の水軍力が引き続き高く評価されていたことを示している。彼は江戸湾の入り口を扼する軍事上の要衝、相模国三浦郡三崎(現在の神奈川県三浦市)に駐屯を命じられ、向井正綱、間宮高則、千賀氏らと共に「三崎四人衆」と称される水軍の重鎮の一角を占めた 5 。
中でも景隆は、知行2000石であった向井正綱を上回る3000石を与えられており、三崎四人衆の筆頭格として迎えられたことが窺える 8 。これは、徳川水軍が、旧来の家臣からではなく、外部から招聘した専門技能集団によって構成されていたことを示すと同時に、その中でも小浜氏が特別な期待を寄せられていたことの証左である。小浜家の歴史は、戦国時代に自立的な領域支配を行っていた海賊衆が、有力大名の軍事力として組織化され、やがて近世的な知行体系に組み込まれた「武家」へと転換していく、時代の大きな流れを象徴している。
三崎四人衆の筆頭として江戸湾の守りを固めていた父・景隆であったが、慶長2年(1597年)に58歳で死去する 5 。彼は三崎四人衆の中で最も早く世を去った。これにより、嫡男である光隆が家督を相続し、父が築いた3000石の知行と徳川水軍の将という重責を継承することになった。そして、そのわずか3年後に勃発した関ヶ原の戦いは、若き当主・光隆にとって、その力量を天下に示す最初の試練の場となった 3 。
慶長5年(1600年)、天下分け目の関ヶ原の戦いが起こると、光隆は徳川家康率いる東軍に加わって参陣した 3 。彼の主戦場は、美濃の関ヶ原ではなく、父祖の地である伊勢の海であった。光隆は弟の小浜守隆と共に水軍を率い、伊勢国安乗浦(現在の三重県志摩市阿児町安乗)において、西軍に与した宿敵・九鬼嘉隆の水軍と激突したのである 11 。
この安乗浦の海戦は、小浜家にとって単なる一戦闘以上の意味を持っていた。対峙した九鬼嘉隆は、かつて父・景隆を伊勢から追いやった張本人である。この戦いは、光隆にとって父の代からの因縁に決着をつける雪辱戦であった。さらに、戦いの構図は複雑な様相を呈していた。九鬼家では、父・嘉隆が西軍に、その子・守隆が東軍に属するという分裂状態にあり、光隆は東軍の同僚である九鬼守隆と連携して、その父である嘉隆を討つという立場にあった 10 。これは、天下統一という大きな奔流が、旧来の地域的な対立や家族の絆さえも飲み込み、武将たちに非情な選択を強いた時代の現実を物語っている。
この戦いで光隆は目覚ましい武功を挙げる。彼は九鬼水軍を打ち破り、その旗艦ともいえる巨大な軍船「日本丸」を鹵獲(ろかく)するという大金星を挙げた 11 。『寛政重修諸家譜』を引用した資料によれば、この戦功に加えて、西軍方の拠点であった尾張国知多郡に放火するなど、積極的な軍事行動を展開したことが記録されている 7 。
光隆の勝利は、徳川の覇権が確立していく中で、小浜氏が長年の宿敵であった九鬼氏に対して軍事的な優位性を示したことを意味した。この武功は、光隆が単に父の地盤を継承しただけでなく、自らの実力で徳川家中の信頼を勝ち取り、一族の地位を確固たるものにするための重要な一歩となったのである。
関ヶ原の戦いから14年後の慶長19年(1614年)、豊臣家との最後の決戦である大坂の陣が勃発すると、小浜光隆は再び徳川水軍の中核を担う指揮官として歴史の表舞台に登場する 3 。この時、徳川方は大坂城を海上から完全に封鎖するため、大規模な船団を編成した。光隆は、幕府船奉行の向井忠勝、そしてかつての宿敵の子であり今や東軍の同僚として大名となっていた九鬼守隆、尾張徳川家に仕える千賀信親らと共に、約1500艘もの大船団を率いて大坂城の西の守りの要である伝法口方面に布陣した 3 。
この布陣の目的は明確であった。それは、大坂湾から淀川を遡って大坂城へ至る水上の補給路を完全に遮断し、城を兵糧攻めに追い込むことにあった 15 。難攻不落と謳われた大坂城を力攻めにするリスクを避け、兵站を断つことで勝利を得ようとする徳川家康の戦略において、制海権の確保はまさに死活問題であり、光隆らが担った役割は極めて重要であった。
11月16日、光隆らが率いる徳川水軍は、伝法口において大野治長(資料によっては大野治胤ともされる)配下の豊臣方水軍と激しい海戦を繰り広げた 3 。この戦いにおいて、光隆は特筆すべき功績を挙げる。それは、豊臣方の軍船である関船と早船をそれぞれ2隻ずつ乗っ取るという、具体的な戦果であった。この功績は『寛政重修諸家譜』にも明確に記されており、彼の武勇を物語るものとして後世に伝えられている。
徳川水軍の圧倒的な物量と巧みな戦術の前に豊臣方の水軍は抗しきれず、壊滅的な打撃を受けた 12 。この伝法口での勝利により、大坂城は海からの支援を完全に断たれ、籠城する豊臣軍の士気と戦力に深刻な影響を与えた。
光隆のこの功績は、単に敵船を鹵獲したという戦闘レベルの成果にとどまるものではない。彼の活躍は、大坂城の兵站を断つという、家康が描いた戦争全体の戦略目標を達成する上で決定的な役割を果たした。堅城を無力化する上で、海からの封鎖は陸からの包囲と同じく、あるいはそれ以上に重要な意味を持っていた。この戦略的価値の高さこそが、戦後の論功行賞において光隆が破格の評価を受け、さらなる加増を得る直接的な要因となったのである。
大坂の陣における一連の軍功により、小浜光隆の徳川家における評価は不動のものとなった。戦後、彼の知行は3000石から大幅に加増され、最終的に一族で5000石、一説には5370石を領する大身旗本へと躍進した 3 。
そして元和6年(1620年)、幕府は光隆に新たな重責を任せる。それが 大坂船手頭 への任命であった 3 。これは、江戸に置かれ向井氏が筆頭を務めた船手頭とは別に、大坂を拠点として西日本の海事を広く管轄する、極めて重要な役職である 18 。光隆は大坂の衢壤島(くじょうじま)北端の川口に広大な船手屋敷を構え、西国の海に睨みを利かせることになった 17 。
大坂船手頭としての光隆の職務は、もはや戦場で敵と刃を交えることではなかった。彼の役割は、泰平の世の秩序を海上で維持する、幕府の行政官僚としてのそれであった。
その第一の職務は、 西国大名の船舶監察 である。これは、幕府が武家諸法度で定めた大船建造の禁令が遵守されているかを監視する、警察的な役割を帯びていた 3 。諸大名が幕府に隠れて強大な海軍力を保持することを防ぎ、幕府の軍事的優位を保つための重要な任務であった。
この職務の厳格さを示す具体的な事例が、寛永2年(1625年)の 黒田忠之告発事件 である。光隆は、筑前福岡藩52万石の藩主である黒田忠之が禁令に違反して大船を建造したとして、これを容赦なく幕府に告発した 3 。この一件は、光隆が一個の旗本としてではなく、幕府の法を執行する権威の代行者として、大藩の藩主に対しても臆することなくその職責を全うしたことを示している。
さらに、『寛政重修諸家譜』の記述を引用する一部資料によれば、光隆は御船手役と同時に 淡路国洲本城の城番 を兼務したとされる 7 。洲本は大阪湾の入り口に位置する海上交通の要衝であり、その城番を任されたことは、彼の役割が単なる船舶監察にとどまらず、西日本の海上防衛全体を視野に入れた軍事的・行政的なものであったことを物語っている。
また、彼の活動は水軍関連に限定されなかった。寛永13年(1636年)には江戸城の普請事業にも関与しており、その際に細川忠利と交わした書状が現存している 19 。これは、大身旗本として幕府の重要事業全般に動員される立場にあったことを示唆するものである。
光隆の船手頭としてのキャリアは、彼の役割が「戦国の海将」から「江戸の海上官僚」へと完全に転身を遂げたことを明確に示している。それは、小浜光隆という一個人のキャリアパスであると同時に、徳川幕府が「武」による支配から「法」による支配へと移行していく、時代の大きな転換点を象徴する出来事であった。
小浜光隆が築いた地位は、彼自身の武功のみならず、巧みな婚姻政策によっても盤石なものとされた。彼の家族構成は、小浜家が単なる技能集団から、徳川家の支配層に深く組み込まれた正規の武家(旗本)へと移行したことを物語っている。
光隆の没後(あるいは隠居後)、家督と大坂船手頭の職は嫡男の嘉隆に引き継がれた。寛永19年(1642年)7月19日、嘉隆は幕府からの奉書をもって正式に父の遺跡を継承し、大坂の御船手となっている 17 。小浜家は、光隆、嘉隆、そして嘉隆の子である広隆と、三代にわたって大坂船手頭の要職を務め上げ、5370石という大身旗本の地位を維持した 17 。
江戸時代中期以降、小浜家は越後国(現在の新潟市周辺)にも知行地を得ており、その支配の痕跡は『横越町史』などの地方史料に散見される 21 。これにより、一族は江戸に本拠を置きつつ、各地に分散した知行地を支配する典型的な旗本の姿となった。
以下の表は、父・景隆から子・嘉隆に至る小浜家三代の経歴と地位の変遷を要約したものである。
当主 |
主な役職・立場 |
主君・所属 |
主要な功績・活動 |
知行石高の変遷 |
小浜景隆 (父) |
海賊衆頭目、船大将 |
北畠氏 → 武田氏 → 徳川氏 |
小牧・長久手の戦いでの海上戦闘 |
1500石(駿河)→ 3000石(相模・上総) |
小浜光隆 (本人) |
船手頭、大坂船手頭 |
徳川氏 |
関ヶ原(安乗浦)、大坂の陣(伝法口) |
3000石 → 5000石余 |
小浜嘉隆 (子) |
大坂船手頭 |
徳川氏 |
大坂船手頭職の世襲、大坂川口の開発 |
5000石余を継承 |
この表が示すように、小浜家は景隆の代に徳川家に仕え、光隆の代に戦功によってその地位を飛躍的に向上させ、嘉隆の代でその地位を世襲によって確固たるものにした。その過程は、「海賊衆」から「船大将」へ、そして「船手頭」という幕府の官僚へと、その役割と性格を変えながら、徳川の治世に適応し、繁栄していった一族の軌跡を明確に示している。
小浜光隆の正確な生没年については、残念ながら『寛政重修諸家譜』のような基本史料にも明確な記載が見当たらない 17 。しかし、いくつかの史料からその時期を推測することは可能である。
ある二次資料には、『寛政重修諸家譜』からの引用として、息子の嘉隆が14歳で家督を継いだ際、父の光隆は63歳であったとの記述が存在する 7 。嘉隆が正式に大坂船手頭の職を継いだのが寛永19年(1642年)であることから 17 、光隆はこの頃に没したか、あるいは職を辞して隠居した可能性が極めて高い。一部でみられる寛文6年(1666年)没という説 23 は、同時代に活躍した徳島藩主の蜂須賀光隆との混同の可能性が指摘されており、慎重な検討を要する。
小浜光隆の墓所については、複数の場所にその伝承が残されている。これらは一見矛盾しているように思えるが、実際には小浜家の活動拠点の変遷と一族の歴史そのものを物語る貴重な物的証拠である。
これら三つの墓所の存在は、小浜一族の歴史的な旅路を地理的に示している。大坂の富光寺は「大坂船手頭」として西国の海を差配した時代の記憶を、宇治の興聖寺は「大名家との縁戚関係」による家格の向上を、そして江戸の吉祥寺は幕府の中枢に組み込まれた「江戸旗本」としての最終的な定着を、それぞれ象徴しているのである。
小浜光隆の生涯は、父・景隆から受け継いだ水軍の将としての卓越した技能を、徳川家による天下統一事業という時代の要請に応える形で遺憾なく発揮した、輝かしい成功の物語である。彼は、関ヶ原の戦いにおける安乗浦での宿敵・九鬼嘉隆との対決、そして大坂の陣における伝法口での戦略的勝利という、二つの大きな戦功によって、徳川家における自らの、そして一族の地位を不動のものとした。
しかし、彼の歴史的意義は、戦場での武功に留まるものではない。むしろ、その真価は戦後の泰平の世において発揮された。大坂船手頭として、彼は西国大名の動向に厳しく目を光らせ、幕府の法である大船建造の禁令を厳格に執行した。大藩の藩主であろうと不正を許さなかったその姿勢は、彼がもはや戦国的な実力主義の世界に生きる武将ではなく、法と秩序を重んじる近世的な官僚制社会の忠実な担い手へと変貌を遂げたことを明確に示している。
光隆が一代で築き上げた武功と信頼は、小浜家が五千石を超える大身旗本として幕末まで存続するための盤石な礎となった。彼の生涯は、伊勢の海に生まれた一海将が、激動の時代を巧みに生き抜き、新たな時代の支配体制に完全適応することで一族を繁栄に導いた、有能な武将であり、そして優れた幕府官僚の理想的な姿を、現代に力強く伝えているのである。