日本の戦国時代史において、小田氏治(おだ うじはる)ほど特異な評価を受ける武将は稀である。彼は、その生涯を通じて居城である小田城を幾度となく敵に奪われ、敗戦を重ねたことから「戦国最弱」という不名誉なレッテルを貼られることが多い 1 。しかしその一方で、敗れるたびに必ず再起し、故地奪還の戦いを執拗に続けたその姿から、「常陸の不死鳥」という英雄的な美称でも知られている 4 。この敗戦の将と不屈の英雄という二つの顔は、小田氏治という人物の複雑さと、彼が生きた戦国期関東の激動を映し出す鏡と言えよう。
本報告書の中心的な問いは、この矛盾に満ちた人物像の核心に迫ることにある。なぜ彼は、通説によれば9回にも及ぶ居城の陥落を経験しながら、その都度立ち上がることができたのか 1 。そして、なぜ敗北を重ねる指揮官でありながら、家臣や領民から絶大な支持を得続けることができたのか 5 。この謎を解き明かすことは、単に一人の武将の生涯を追うだけでなく、戦国時代の権力構造、領主と民の関係、そして「強さ」とは何かという根源的な問いを考察することに繋がる。
本報告書は、小田氏治の生涯を時系列に沿って丹念に追う。その出自と彼が置かれた地政学的環境から説き起こし、宿敵たちとの熾烈な攻防、彼を支えた人間関係の力学、そして大名としての滅亡に至る悲劇的な決断を明らかにする。さらに、後世における評価の変遷を分析することで、従来の「弱い武将」という一面的なイメージを乗り越え、彼の歴史的実像を多角的に再定義することを試みるものである。
小田氏治の行動原理と、彼を支えた在地社会の結束を理解するためには、まず彼が背負っていた「小田氏」という家の歴史的権威と、彼が家督を継いだ時点での関東の複雑な政治状況を把握する必要がある。
小田氏は、単なる常陸の一国人領主ではない。その出自は、鎌倉幕府の創設期にまで遡る、関東でも屈指の名門であった。氏の祖は、源頼朝の乳母の縁者であり、その挙兵に初期から馳せ参じて功績を挙げた八田知家(はった ともいえ)である 9 。知家は、頼朝の死後に幕政を主導した「十三人の合議制」の一員にも名を連ねるほどの重鎮であった 10 。本姓を藤原北家道兼流とし、下野国(現在の栃木県)の有力武家である宇都宮氏の一門という、極めて由緒正しい血筋を誇っていた 9 。
知家は、常陸国守護に任じられると、筑波山麓の小田(現在の茨城県つくば市小田)に拠点を構え、その子孫が「小田」を称するようになった 9 。これにより、小田氏は常陸国南部において、400年以上にわたる在地支配の正統性を確立したのである。室町時代には、鎌倉府によって関東の支配体制を担う名家として「関東八屋形(かんとうはっしゃかた)」の一つに列せられるなど、その家格は他の関東諸将の中でも特筆すべきものであった 16 。
この鎌倉以来の名門であるという事実は、単なる過去の栄光ではなかった。戦国時代においても、この歴史的権威は小田氏の大きな無形の資産であった。氏治の代に至っても、この「名門」としての自負は、佐竹氏や後北条氏といった新興勢力(と彼らが認識していたであろう勢力)に対して容易に屈服しないという、彼の不屈の闘争心の精神的支柱となったと考えられる。同時に、400年にわたる在地支配は、領民の間に「小田の殿様こそが正統な領主である」という強固な意識を醸成した 7 。後に詳述するが、氏治の驚異的な再起能力の根源には、この歴史的連続性によって育まれた領主と領民の特殊な関係が存在したのである。
氏治の父である第14代当主・小田政治(まさはる)は、下総の結城氏や古河公方などと争い、一時的に所領を拡大するなど、戦国大名として一定の成功を収めた 5 。しかし、氏治が家督を相続した天文17年(1548年)頃、関東の政治情勢は激動の渦中にあった。
当時の小田氏は、三つの強大な勢力に囲まれた極めて脆弱な立場に置かれていた。北には、常陸国統一の野望を燃やす佐竹義昭。南には、相模国を拠点に関東全域に覇を唱え始めた後北条氏康。そして西には、室町幕府の出先機関である古河公方・足利氏を擁し、長年のライバルであった下総の結城政勝が勢力を張っていた 10 。
この勢力図は、戦国期関東の複雑さを凝縮したものであった。小田氏の領地は、これら三大勢力の緩衝地帯に位置しており、常にその動向に左右される運命にあった。生き残りのためには、ある時は一方と結び、またある時はもう一方に寝返るという、綱渡りのような外交戦略を展開せざるを得なかったのである。氏治の生涯にわたる戦いの数々は、この絶望的ともいえる地政学的環境から生まれた必然であったと言えよう。
父・政治が築いた一時的な勢力拡大も束の間、若き氏治が家督を継いだ小田家には、内外から厳しい試練が待ち受けていた。
天文17年(1548年)、父・政治の死に伴い、氏治は15歳(一説には18歳)という若さで小田家第15代当主となった 6 。戦国時代において、若年の当主の家督相続は、家臣団の動揺や主導権争いを引き起こし、周辺勢力にとっては介入の絶好の機会と見なされるのが常であった 5 。氏治も例外ではなく、父の葬儀に参列した家臣たちの間には、早くも小田家の将来を巡る疑心暗鬼が渦巻いていたと想像される 5 。
さらに、父・政治は勢力拡大の過程で「当たり構わず敵を作った」と評されており、その外交的負債もまた、若き氏治の双肩に重くのしかかった 5 。家中の結束を固め、山積する外交問題を解決するという、極めて困難な舵取りを迫られたのである。
家督相続後、直ちに表面化したのが、長年の宿敵であった下総の結城政勝との対立であった 21 。そして、氏治の治世の多難を象徴する最初の、そして最大の打撃となる事件が起こる。同年、小田家の譜代重臣であり、その武勇で知られた真壁城主・真壁久幹(まかべ ひさもと)が、結城方の家臣・水谷治持の説得に応じ、小田家から離反して結城方についてしまったのである 21 。
この真壁氏の離反は、単なる一家臣の裏切りとして片付けられる問題ではない。それは、当時の関東における国人領主たちの自立志向と、シビアな生存戦略の現れであった。父・政治の死と若き氏治への代替わりによる小田家の求心力低下は、真壁氏のような有力家臣にとって、自家の将来を見直す契機となった。当時、結城氏は常陸の佐竹氏とも連携を強めており、真壁氏から見れば、斜陽の気配が漂う小田家にとどまるよりも、隆盛する結城・佐竹連合に与する方が、自家の安泰と勢力拡大に繋がるという、極めて現実的な判断だったのである 23 。この離反は、小田家の軍事力を大幅に削ぐだけでなく、他の国人衆の動向にも影響を与えかねない、氏治の治世初期における致命的な痛手となった。
周囲を強敵に囲まれた氏治は、生き残りのために目まぐるしく外交方針を転換せざるを得なかった。当初、氏治は常陸北部の佐竹義昭と連携し、共通の敵である結城政勝を攻撃した(弘治元年、1555年) 21 。
しかし、翌弘治2年(1556年)、事態は急変する。結城政勝が、関東に覇を唱える相模の後北条氏康から、岩付城主・太田資正や江戸城主・遠山綱景らの援軍を得て、小田領に侵攻してきたのである 21 。氏治はこれを海老ヶ島で迎え撃つも大敗を喫し(海老ヶ島の戦い)、ついに本拠地である小田城を初めて奪われるという屈辱を味わい、支城の土浦城へと逃げ込んだ 4 。
ところが、ここに関東の複雑なパワーバランスが氏治に味方する。常陸への進出を目論む北条氏康にとって、常陸北部に勢力を張る佐竹義昭は将来の障害であった。そのため、北条氏は佐竹氏を牽制する駒として氏治に注目し、彼と和解する道を選んだのである 21 。北条という強力な後ろ盾を失った結城勢に対し、氏治は反撃に転じ、同年8月には早くも小田城の奪還に成功する 21 。この一連の出来事は、氏治が巨大勢力の思惑に翻弄されながらも、その力学を巧みに利用して窮地を脱するという、彼の生涯を貫く戦いの様式を象徴する最初の事例となった。
小田氏治の生涯は、本拠地である小田城を巡る30年以上にわたる攻防戦の歴史そのものであると言っても過言ではない 13 。この終わりなき喪失と奪還の繰り返しこそが、彼に「戦国最弱」と「常陸の不死鳥」という、相反する二つの評価をもたらした。本章では、その主要な合戦を時系列で詳述し、彼の戦歴の全貌を明らかにする。
年月日(西暦/和暦) |
出来事/合戦名 |
交戦相手 |
結果(小田城の状況) |
備考(同盟関係、逃亡先など) |
1556年(弘治2年) |
海老ヶ島の戦い |
結城政勝・北条氏康 |
喪失① |
敗北後、土浦城へ逃亡 21 |
1556年(弘治2年)8月 |
小田城奪還 |
結城政勝 |
奪還① |
北条氏康と和解し、その助力を得て奪還 21 |
1557年(弘治3年) |
黒子の戦い |
佐竹義昭 |
喪失② |
敗北後、土浦城へ逃亡 25 |
1559年(永禄2年) |
小田城奪還 |
(佐竹氏) |
奪還② |
家臣・菅谷政貞の活躍により奪還 21 |
1564年(永禄7年)4月 |
山王堂の戦い |
上杉謙信・佐竹義昭 |
喪失③ |
謙信に大敗し、藤沢城へ逃亡 21 |
1565年(永禄8年)12月 |
小田城奪還 |
佐竹義廉 |
奪還③ |
佐竹義昭の死後の混乱に乗じて奪還 21 |
1566年(永禄9年)2月 |
小田城開城 |
上杉謙信 |
喪失④ |
謙信に降伏。城壁破却を条件に開城 21 |
1568年(永禄11年) |
小田城返還 |
上杉謙信 |
奪還④ |
結城晴朝を通じて謙信に降伏し、返還される 21 |
1569年(永禄12年)11月 |
手這坂の戦い |
佐竹義重・太田資正 |
喪失⑤(最終) |
大敗し、土浦城へ逃亡。以後、奪還できず 19 |
1573年(元亀4年)1月 |
小田城奇襲 |
太田資正・真壁氏幹 |
喪失⑥ |
大晦日の連歌会で油断し、奇襲され落城 8 |
1573年(天正元年)2月 |
小田城奪還 |
太田資正・真壁氏幹 |
奪還⑤ |
大雪に乗じて急襲し、一時奪還 28 |
1573年(天正元年)4月 |
小田城再喪失 |
多賀谷氏・佐竹方 |
喪失⑦ |
再び攻め落とされ、木田余城へ逃亡 28 |
(注:小田城の落城・奪還回数については諸説あり、上記は主要な記録に基づく一例である 1 。)
氏治のキャリアにおいて、最も強大な敵として立ちはだかったのが、「軍神」と謳われた越後の上杉謙信であった。
永禄4年(1561年)、謙信が関東管領として大軍を率いて関東へ出兵し、北条氏の小田原城を包囲した際には、氏治も他の関東諸将と共にこれに参陣している 21 。この時点では、彼は上杉方の一員であった。しかし、小田原城が落ちず謙信が越後へ帰国すると、永禄5年(1562年)には北条氏康の巧みな外交戦略に乗り、上杉方から離反して北条方へと鞍替えする 21 。そして、佐竹義昭が謙信の出兵に同行して領地を留守にした隙を突き、佐竹方の府中城主・大掾貞国を攻撃して破る(三村の戦い)など、反上杉・反佐竹の動きを鮮明にした 21 。
この裏切りに激怒したのが謙信であった。永禄7年(1564年)4月、佐竹義昭らの要請を受けた謙信は、後に「神速」と評されるほどの驚異的な速さで常陸へと進軍する 26 。援軍を要請した真壁氏幹が、謙信からの返書を読んでいる最中に、すでに謙信の先鋒が宇都宮まで進軍しているとの報に仰天したという逸話は、その異常な機動力を物語っている 26 。氏治はわずか3,000余の兵でこれを迎え撃つが、山王堂(現在の茨城県筑西市)において、謙信率いる8,000余の精鋭に大敗を喫した(山王堂の戦い)。小田城は三度目の落城を迎え、氏治は支城の藤沢城へと逃れた 21 。
しかし、不死鳥はここで終わらない。翌永禄8年(1565年)12月、宿敵・佐竹義昭が病死すると、その混乱に乗じて小田城を守る佐竹勢を駆逐し、見事に本拠の奪還に成功するのである 21 。だが、その喜びも束の間、永禄9年(1566年)2月には謙信が再び関東へ出兵。氏治はまたも敗走し、小田城の防御施設を破却することを条件に降伏、開城を余儀なくされた 21 。それでもなお、永禄11年(1568年)には宿敵であった結城晴朝を仲介役として謙信に恭順の意を示し、城を修復しないという条件付きで小田城への帰還を許されている 21 。
謙信の脅威が去った後、氏治の前に最大の壁として立ちはだかったのが、佐竹義昭の子で、後に「鬼義重」と恐れられる佐竹義重であった。常陸統一を目指す義重にとって、南部に勢力を保つ名門・小田氏は排除すべき最大の障害であった。
その帰趨を決したのが、永禄12年(1569年)11月の手這坂(てばいざか)の戦いである。旧領回復に燃える氏治は、佐竹方の将となっていた太田資正・梶原政景親子が守る片野城を攻めた 27 。これに対し、資正らはかつて小田氏の重臣であった真壁久幹らの援軍を得て、筑波山の東麓、手這坂で小田軍を迎撃した 27 。この戦いで小田方は一門の岡見治資・義綱らが討死するなど大打撃を受け、軍は総崩れとなった 27 。
この手這坂での大敗は、氏治にとって決定的な意味を持った。山王堂の戦いが対外的な大勢力による懲罰であったのに対し、手這坂の戦いは常陸国内の覇権を巡る地域紛争の最終的な決着であった。この戦いで氏治は、太田資正や真壁久幹といった、かつての同盟者や家臣を含む佐竹中心の連合軍に敗れた。これは、小田氏が常陸国内で完全に孤立したことを意味していた。氏治は本拠地・小田城へ退却しようとしたが、退路を断たれ、忠臣・菅谷政貞を頼って土浦城へと落ち延びた 27 。佐竹方はがら空きとなった小田城を容易に占領し、以後、氏治がこの城を奪還することは二度となかった 19 。小田城の恒久的な喪失は、小田氏が在地領主としての基盤を失い、流浪の勢力へと転落したことを意味する、まさに分水嶺となる出来事であった。
しかし、氏治の戦いはまだ終わらない。元亀元年(1570年)、小田領に侵攻してきた結城晴朝の約6,000の軍勢に対し、氏治は菅谷政貞らの奮戦により、わずか2,000の兵力で平塚原にて夜襲を敢行し、見事な大勝利を収めている 21 。これは彼の戦歴において数少ない、そして輝かしい戦術的勝利として特筆される。
さらに元亀4年(天正元年、1573年)には、氏治の執念を象徴するような目まぐるしい攻防が繰り広げられる。元旦の未明、氏治が大晦日に連歌会を開いて油断していた隙を突かれ、太田資正らの奇襲を受けて小田城を奪われる 8 。しかし、翌2月には大雪に乗じて城を急襲し、一時的に奪還。だが、それも束の間、4月には多賀谷氏などの佐竹方によって再び攻め落とされ、氏治は木田余城へと逃れている 28 。
天正年間に入っても、氏治は藤沢城などを拠点に抵抗を続けた。天正11年(1583年)には、孫を人質に出して佐竹氏に一時的に降伏し、この頃に出家して「天庵(てんあん)」と号したとされる 24 。しかし、その後も佐竹方となった下妻城主・多賀谷氏と戦うなど、最後まで故地回復の望みを捨てることはなかった 24 。
連戦連敗を喫し、幾度となく本拠地を失いながらも、その都度再起を果たした小田氏治。その驚異的な回復力の源泉は、一体どこにあったのだろうか。それは、彼の個人的な資質以上に、彼を支え続けた忠臣たちの結束と、領民からの絶大な思慕という、強固な社会的基盤に求めることができる。
氏治の不屈の戦いを第一線で支えたのが、譜代の重臣たちであった。中でも、土浦城を拠点とした菅谷(すげのや)氏と信太(しだ)氏の存在は欠かせない 5 。
特に、菅谷勝貞・政貞父子の忠勤は目覚ましい。主君である氏治が敗れて小田城を追われるたびに、菅谷氏は自らの居城である土浦城や藤沢城に氏治を迎え入れ、再起のための拠点と兵力を提供し続けた 24 。菅谷政貞は何度も小田城奪還作戦を主導し、その軍事行動は領民の間で「菅谷の軍が来た。今こそ反撃の時だ」と認識されるほど、氏治の抵抗の象徴となっていた 35 。かつての同僚であった真壁久幹との戦いでは、相手に戦術を熟知されていたために苦戦を強いられるなど、具体的な戦闘の様子も伝えられている 35 。彼は、主君・氏治が天正11年(1583年)に佐竹氏に臣従するまで、一貫して忠義を尽くしたのである 34 。
信太氏もまた、小田家の屋台骨を支える重鎮であった。手這坂の戦いの後、氏治が家中の混乱を収拾するために信太伊勢守を粛正したという記録もあり、敗戦後の苦しい状況下で家中を統制する氏治の苦悩も垣間見える 27 。こうした忠臣たちの存在なくして、氏治の度重なる再起はあり得なかったであろう。
氏治の「不死鳥」ぶりを支えた最大の力は、領民からの驚くほど強固な支持であった。戦国時代の領主と領民の関係性を考える上で、小田氏の事例は極めて示唆に富んでいる。
最も有名な逸話が、年貢にまつわるものである。小田城が佐竹方の支配下に置かれ、新しい領主が赴任してきても、小田領の民は年貢を納めようとしなかった。それどころか、彼らは収穫物を隠し持ち、潜伏中の旧主・氏治のもとへわざわざ届け続けたという記録が複数の資料に見られる 1 。これは、領民が佐竹氏の支配を正統なものと認めず、氏治こそが自分たちの唯一の「お殿様」であると認識していたことの何よりの証拠である。
さらに、氏治方が小田城奪還の兵を挙げると、領民たちもこれに呼応して自発的に蜂起し、占領軍を攻撃する原動力となった 5 。城を奪われてもなお、領民が旧主のために武器を取るというのは、戦国時代において極めて稀な事例である。
この驚異的な忠誠心の背景には、複合的な要因が存在する。第一に、小田氏が鎌倉時代から400年以上にわたってこの地を治めてきた「土地の主」であったという歴史的連続性である 7 。領民にとって小田氏による支配は、生活の基盤であり、共同体の象徴でもあった。佐竹氏による支配は、この長年続いた安定した秩序を破壊する「外部からの侵略」と映ったのである。第二に、小田氏が代々「善政」を敷いていた可能性が極めて高い 7 。具体的な検地記録や年貢率に関する史料は乏しいものの 38 、もし彼らが過酷な支配者であったならば、これほどまでの支持を得ることは不可能であっただろう。領民の献身的な行動は、小田氏の統治が比較的公正で、彼らの生活を保障するものであったことの間接的な証明と言える。そして第三に、氏治自身が領地を失ってもなお、その地に戻ろうと戦い続ける不屈の姿が、領民に強い共感と希望を与え、一体感を生んだと考えられる。氏治の再起能力は、彼の個人的な魅力以上に、小田家が長年にわたって築き上げてきた「領主と領民の強固な信頼関係」という社会資本の賜物であり、戦国時代の領主権力の一つのあり方を示す貴重な事例なのである。
氏治の人物像は、敵将からも一目置かれていた。宿敵であった佐竹義昭は、上杉謙信に宛てた書状の中で、氏治について次のように評している。「氏治は近年、弓矢の道(武運)こそ衰えているものの、源頼朝公以来の名家であり、氏治本人も並々ならぬ才覚の持ち主である。また、譜代の家臣にも優れた者が多く、とにかく家名を保っている」 42 。
これは、敵対する武将からの客観的な評価として極めて重要である。義昭は、氏治の敗戦続きの現状を認めつつも、その背景にある家格の高さ、本人の潜在的な能力、そして優秀な家臣団の存在を的確に分析している。この証言は、小田氏治が単に「弱い」だけの武将ではなく、その家名と組織力によって、周辺勢力にとって侮れない存在であり続けたことを明確に示している。
常陸の地で30年以上にわたり、一進一退の攻防を繰り広げてきた小田氏治であったが、その戦いも日本の歴史が大きく動く中で、予期せぬ形で終焉を迎える。天下統一という巨大な奔流が、彼の宿願を飲み込んでいったのである。
天正18年(1590年)、関白豊臣秀吉は、天下統一の総仕上げとして、関東に巨大な勢力圏を築いていた後北条氏の討伐を決定した。いわゆる「小田原征伐」である 43 。秀吉は20万を超える大軍を動員し、関東・奥羽の全ての戦国大名に対し、小田原への参陣を厳命した。これは単なる軍事動員ではなく、秀吉への臣従を誓うか否かを問う「踏み絵」であり、これに従わないことは豊臣政権への反逆を意味した 43 。
この日本の歴史の転換点ともいえる重大な局面で、小田氏治は致命的な判断ミスを犯す。彼は、秀吉の命令に従って小田原へ参陣しなかったのである。その理由は、ただ一つ。長年の宿願であり、彼の生涯そのものであった「小田城の奪還」に最後の望みを賭けていたからであった 15 。
天下の趨勢が北条氏の滅亡へと傾く中、氏治はこれを好機と捉えた。天正18年1月、彼は手勢を率い、当時すでに秀吉方に属していた佐竹氏が支配する小田城へと進軍した。城外の樋ノ口に陣を敷き、最後の奪還作戦を開始したのである(樋ノ口の戦い) 24 。小田勢は奮戦し、一時は城壁に迫るなど優勢に戦いを進めた。しかし、佐竹方の猛将・太田資正らが片野城から急行してくると戦況は激化し、多大な損害を出した末、ついに奪還は叶わなかった 24 。
この行動は、最悪の結果を招いた。「天下人・秀吉の命令を無視して小田原に参陣せず、あろうことか豊臣方である佐竹氏の城を攻撃した」という事実は、秀吉の逆鱗に触れた 8 。北条氏が降伏し、小田原征伐が終結すると、秀吉による戦後処理「奥州仕置」の中で、氏治の処遇が決定された。結果は、全所領の没収であった 15 。これにより、鎌倉時代から約400年にわたって続いた常陸の名門、大名としての小田氏は、ここに完全に滅亡したのである。
氏治の滅亡は、悲劇的なアイロニーに満ちている。彼の生涯を貫き、彼を「不死鳥」たらしめてきた不屈の精神と、小田城への異常なまでの執着こそが、最終的に彼を大名として滅ぼす直接的な原因となった。もし彼が、長年の宿願を一時的に棚上げにし、時代の大きな流れを読んで秀吉に参陣していれば、佐竹氏や結城氏のように、たとえ小領主としてでも家名を存続できた可能性は極めて高い。しかし、彼は最後まで「小田城の主」であるという自己のアイデンティティにこだわり続けた。それは、天下の情勢を読み誤った戦略的失敗であると同時に、一人の武将が自らの信念と宿願に殉じた、あまりにも人間的な結末であった。彼の滅亡は、彼の生き様そのものが導いた、必然的な帰結だったのかもしれない。
大名としての地位を失った小田氏治であったが、彼の人生はまだ終わらなかった。そして、彼が守り抜こうとした「小田」の家名もまた、形を変えながら激動の時代を生き抜いていくことになる。
全領地を没収された氏治は、秀吉の直臣となることを願ったが、それは叶えられなかった 24 。しかし、天正19年(1591年)、奥州を巡察する秀吉を会津まで追いかけ、重臣・浅野長政の執り成しによって罪を謝罪し、許しを得ることに成功する 24 。
この時、氏治に救いの手を差し伸べたのが、徳川家康の次男であり、豊臣秀吉の養子、そして後には結城晴朝の養子ともなっていた結城秀康であった。氏治の娘の一人、駒姫が秀康の側室となっていた縁から、氏治は秀康の「客分」として迎えられ、300石の知行を与えられた 8 。
その後、関ヶ原の戦いの功により、慶長6年(1601年)に秀康が越前北ノ庄(現在の福井県)68万石へ転封となると、氏治もこれに従って越前の地へ移住した 8 。波乱に満ちた生涯を送った「常陸の不死鳥」は、同年閏11月13日、越前の地で静かにその生涯を閉じた。享年は68、あるいは71であったと伝えられる 8 。その遺体は一度、曹洞宗の大本山である永平寺に葬られたが、後に故郷である常陸国の新善光寺に改葬された 24 。
大名としての小田家は滅亡したが、氏治の血脈は複数の系統に分かれて江戸時代を生き抜いた。これは、戦国から近世への移行期において、かつての名門が多様な形で存続を模索した興味深い事例である。
このように、大名としての小田家は氏治の代で終わったが、「小田の家」は決して断絶したわけではなかった。嫡流は武家の身分を失いながらも剣術家として、庶流は主君を変えながらも藩士として、そして女系は最も安定した形で大名家の血統として、それぞれが異なる形で「家」の存続を果たしたのである。
小田氏治という武将の評価は、時代と共に大きく変遷してきた。江戸時代の軍記物における記述から、現代のサブカルチャーにおけるキャラクター化まで、その捉えられ方は彼の特異な生涯を反映している。
江戸時代に成立した『関八州古戦録』などの軍記物語において、氏治はしばしば敗走する将として描かれる傾向にある 51 。しかし、それは単なる弱将としての描写に留まらない。彼の個人的な剛勇さや、菅谷氏をはじめとする家臣たちの忠義、そして領民たちが彼を深く思慕していた逸話なども同時に記録されており、その人物像は決して一面的ではない 5 。
特に、彼の本拠地であった常陸国では、旧主として敬意をもって語り継がれていた。江戸時代後期に地元の学者・長島尉信によって編纂された地誌『小田事績』には、小田氏代々の事績が詳細に記されている 53 。また、文政12年(1829年)には、氏治の二百回忌が盛大に執り行われたという記録もあり、彼が地元において忘れられた存在ではなかったことを示している 24 。この背景には、氏治の旧家臣であった菅谷氏が江戸時代に旗本として存続し、筑波周辺を治めていたことも影響していると考えられる。旧家臣の家が地域の名士として残ったことで、旧主・小田氏への敬意が地域社会に根付いていったのであろう 54 。
明治以降の近代歴史学においては、歴史は主に勝者の視点から語られる傾向が強かった。そのため、常陸国の覇権争いでは、最終的に勝利した佐竹氏や、関東全体で大きな影響力を持った北条氏の研究が中心となり、その中で敗れ去った一地方領主である小田氏治が注目されることは少なかった。
しかし、近年の研究では、氏治に対する評価に新たな視点が加わっている。歴史家・乃至政彦氏らが指摘するように、氏治が敗れた戦いの多くは、彼が常に自軍よりもはるかに強大な連合軍を相手にしていたという事実がある 4 。上杉謙信による小田城攻撃は、関東中の大名が動員された多国籍軍によるものであった 4 。このことから、彼の敗北は単純な「弱さ」に起因するのではなく、むしろ彼が周辺勢力から「単独で挑むには危険すぎる強敵」として認識され、常に大軍をもって包囲攻撃される対象であったことの証左である、という見方が提示されている 4 。
学術的な再評価とは別に、現代において小田氏治の人気を飛躍的に高めたのは、ゲームやテレビ番組といったポピュラーカルチャーの影響である。
特に、コーエーテクモゲームスの歴史シミュレーションゲーム『信長の野望』シリーズにおける彼の扱いは決定的であった。同シリーズにおいて氏治は、戦闘に関する能力値は低いものの、家臣や領民からの人望を示す「魅力」の能力値は高く設定されることが多く、そのユニークなキャラクター性がプレイヤーに強い印象を与えた 55 。何度も滅亡させられても、ゲームのシナリオによっては復活するその姿は、まさに「不死鳥」であり、「戦国最弱」という愛すべきレッテルを定着させた 57 。
さらに、2018年に放送されたNHKの歴史番組『歴史秘話ヒストリア』で「“戦国最弱”小田氏治がゆく」と題して特集されたことで、その特異な生涯が歴史ファンの枠を越えて広く知られるようになり、人気に火が付いた 54 。
現代人がなぜこれほどまでに小田氏治に惹かれるのか。その理由は、彼の生き様が現代社会に生きる我々の心に響く、普遍的なメッセージ性を持っているからに他ならない。織田信長や武田信玄のような圧倒的な「勝者」の物語とは異なり、氏治の物語は「負けても終わりではない」「何度でも立ち上がることができる」という希望を与えてくれる 1 。彼は、戦は弱いが人柄で部下や領民から愛される、現代の組織論にも通じるようなリーダー像として解釈できる 7 。能力主義が席巻する現代において、彼の存在は「人徳」という価値の重要性を再認識させる。巨大な力に翻弄されながらも、自らの故郷というアイデンティティを守るために最後まで足掻き続けたその姿は、多くの人々の共感と「判官贔屓」を誘うのである。この「弱さ」と「不屈さ」の魅力的な同居こそが、彼を単なる歴史上の人物から、現代人が感情移入できる「愛すべきキャラクター」へと昇華させた最大の要因であろう。
本報告書を通じて詳述してきた通り、常陸の戦国大名・小田氏治を、単に「戦国最弱」という一言で片付けることは、その人物像と彼が生きた時代の複雑さを見誤るものである。
彼は「弱い」武将だったのではない。むしろ、鎌倉以来の名門としての誇りを背負い、上杉、北条、佐竹という、当代屈指の強大勢力がひしめく関東の地政学的な要衝において、常に不利な状況下で戦い続けた武将であった。彼の敗戦の多さは、弱さの証明というよりも、彼がそれだけ執拗に、そして何度も強大な敵に立ち向かい続けたことの裏返しである。
その驚異的なまでの再起能力、すなわち「不死鳥」としての側面は、彼の個人的な資質以上に、小田氏が400年の長きにわたって築き上げてきた、在地社会との強固な信頼関係という「目に見えない社会資本」に支えられていた。領主が危機に陥れば、家臣だけでなく領民までもが一体となって旧主を支え、その帰還のために戦う。この関係性は、戦国時代の領主権力のあり様を考える上で、極めて稀有で貴重な事例と言える。
彼の滅亡は、皮肉にも彼を不死鳥たらしめてきた故地への執着が、天下統一という時代の大きな変化の奔流と衝突した結果であった。それは戦略的な失敗であると同時に、自らの信念に殉じた悲劇でもあった。
現代において小田氏治が多くの人々を惹きつけてやまないのは、彼の生涯が、勝敗という結果だけが人間の価値を決定するのではないという、力強いメッセージを放っているからであろう。逆境にあっても決して諦めない不屈の精神と、能力や強さだけでは測れない人間的魅力が、時に軍事力以上の力を発揮しうることを、彼の人生は我々に示唆している。小田氏治は、戦国という過酷な時代における、一人の「負けなかった敗者」として、歴史の中に不滅の光を放ち続けているのである。