最終更新日 2025-06-21

小笠原信之

徳川初期の譜代大名・小笠原信之の生涯と事績

はじめに

小笠原信之という人物の概要

本報告書で取り上げる小笠原信之(おがさわら のぶゆき)は、安土桃山時代から江戸時代前期にかけて活躍した武将であり、大名です。彼は徳川家康及び二代将軍秀忠に仕え、徳川幕府の黎明期における体制固めに貢献した譜代大名の一人として位置づけられます。

本報告書は、小笠原信之の出自、名門小笠原家を相続した経緯、関ヶ原の戦いをはじめとする主要な合戦への参加、武蔵本庄藩及び下総古河藩の藩主としての事績、家族構成、そしてその死に至るまでの生涯を、現存する歴史資料に基づいて詳細に記述し、多角的な視点からその人物像を明らかにすることを目的とします。

報告書の作成にあたっては、小笠原信之の生涯に関する包括的な情報を骨子としつつ 1 、断片的な情報を適宜補い、より深掘りした内容を目指します。

小笠原信之 略年譜

本報告書の冒頭に、小笠原信之の生涯における主要な出来事を時系列で整理した略年譜を提示します。これにより、読者は信之の人生の大きな流れを事前に把握することができます。

表1: 小笠原信之 略年譜

年代

出来事

典拠

元亀元年(1570年)

酒井忠次の三男として三河国に誕生。

1

天正16年(1588年)

小笠原信嶺の娘を娶り、その養嗣子となる。

1

天正18年(1590年)

(養父信嶺が)武蔵国本庄城主(1万石)となる。同年の小田原征伐には、実父酒井忠次と共に参陣。

1

慶長3年(1598年)

養父信嶺の死去(2月19日)に伴い家督を相続し、武蔵本庄藩主となる。

1

慶長5年(1600年)

関ヶ原の戦いに際し、徳川秀忠率いる軍勢に属し、信濃上田城攻めに参加。

1

慶長8年(1603年)

実父酒井忠次の追善供養のため、本庄に円心寺を建立。

1

慶長17年(1612年)

武蔵本庄藩から下総古河藩へ2万石で加増転封。これに伴い本庄藩は廃藩となる。

1

慶長19年4月26日(1614年6月3日)

下総古河にて死去。享年45。

1

この年譜は、信之の生涯の骨格を簡潔に提示することで、後続の詳細な記述内容の理解を助けます。生誕から死没までの主要な出来事、地位の変化、重要な軍事行動を時系列で追うことは、歴史上の人物を理解する上での基本的なアプローチであり、報告書全体を読む上での道標となり、各出来事の時間的な関連性を明確にする役割を果たします。記載する情報は、信頼性の高い資料から抽出されたものであり、報告書の客観性を高めます。

第一部 出自と小笠原家相続

酒井忠次の三男としての誕生

小笠原信之は元亀元年(1570年)、徳川家康の天下統一事業を支えた「徳川四天王」の筆頭格である酒井左衛門尉忠次の三男として、三河国で生を受けました 1 。幼名は小平次郎と伝えられています 1 。実父である忠次は、家康の宿老として数々の合戦で武功を重ね、三河吉田城を守り武田軍と戦うなど、徳川家臣団の中でも特に重きをなした人物です 2 。このような名門の血筋は、信之自身の将来にも大きな影響を与えたと考えられます。

信之が徳川四天王の一人、酒井忠次の子であるという事実は、彼の生涯を考察する上で極めて重要です。酒井忠次は徳川家臣団の筆頭であり、その功績と家康からの信頼は絶大でした 1 。このような有力な譜代家臣の子弟は、主君からの期待も大きく、重要な役割を担う機会に恵まれるのが常でした。徳川家康は、信頼する家臣の子弟を戦略的に配置することで、自身の権力基盤を強化する傾向がありました。したがって、信之の出自は、彼が小笠原家の養子に選ばれるなど、その後のキャリアにおいて有利に働いた主要な要因の一つであったと推察されます。単に一個人の能力だけでなく、酒井家という後ろ盾が彼の立場を強化したと言えるでしょう。

小笠原信嶺の養子となる経緯

天正16年(1588年)、信之は信濃の名門である伊那小笠原氏の当主、小笠原信嶺(おがさわら のぶみね)の娘を娶り、その養嗣子となりました 1 。この養子縁組は、徳川家康の直接の命令によるものであったと複数の資料で一致して伝えられています 1 。これは、単なる家と家との結びつきを超えた、政治的な意図があったことを強く示唆します。

養父となった小笠原信嶺は、信濃守護の家柄である小笠原氏の一流、松尾小笠原氏の当主でした 3 。彼は武田信玄、織田信長と主君を変え、最終的に徳川家康に仕え、家康の関東入部に伴い天正18年(1590年)には武蔵国本庄に1万石の所領を与えられていました 3 。信嶺には男子がおらず、娘のみであったため 7 、家の断絶を防ぎ、有力な後継者を迎える必要に迫られていたことが、この養子縁組の直接的な背景と考えられます。

家康が信之の小笠原家への養子入りを命じたという事実は、この縁組が高度に政治的な判断に基づいていたことを示しています。小笠原氏は信濃の名族であり、その家名と影響力は無視できませんでした 3 。信嶺自身、武田、織田、徳川と複数の主君に仕えた経歴を持ち 7 、その忠誠を確実なものにする必要がありました。信嶺に男子の後継者がいなかったことは 7 、家康にとって小笠原家に対する影響力を強める絶好の機会でした。譜代の重臣である酒井忠次の子・信之を養子に入れることで、小笠原家を徳川体制に強固に組み込み、その所領と家臣団を確実に掌握しようとしたと考えられます 1 。このような有力大名家への養子縁組を通じた支配力の強化は、家康が頻繁に用いた常套手段であり、大名統制策の重要な一翼を担っていました。信之の養子入りは、小笠原家の存続という側面だけでなく、徳川家康による全国支配体制構築の一環として、戦略的に行われた人事であったと理解できます。

信嶺系小笠原家の家督相続

慶長3年(1598年)2月19日、養父である小笠原信嶺は52歳でこの世を去りました 3 。これを受けて信之は小笠原家の家督を正式に相続し、武蔵本庄藩1万石の藩主となりました 1 1 の記述によれば、信之は「信嶺系小笠原家初代」とされており、これは酒井家から養子として入った信之が、信嶺から続く家系において新たな系統の創始者として認識されていたことを示しています。信嶺の墓所は、彼自身が開基となった本庄の開善寺にあり、夫人と共に葬られています 3

第二部 徳川家臣としての武功

若年からの徳川家への臣従

信之は少年期から徳川家康に近侍していたと伝えられています 1 。実父・忠次の存在もあって、幼い頃から徳川家の中枢に近い環境で薫陶を受け、武将としての基礎を培ったものと推察されます。

小田原征伐への従軍

天正18年(1590年)、豊臣秀吉が北条氏を打倒するために行った小田原征伐において、信之は実父・酒井忠次と共に徳川軍の一員として参陣しました 1 。この戦いは、豊臣政権による天下統一事業の総仕上げとも言える重要な戦役であり、徳川家康も主力軍として参加しました。信之がこの戦役で具体的にどのような役割を果たしたかについての詳細な記録は、今回参照した資料からは確認できませんでしたが、父と共に従軍したという事実は、彼が若くして重要な軍事行動に加わっていたことを示しています。 17 は小田原征伐全体の戦況の一端を伝えています。

上杉景勝討伐と関ヶ原の戦い

慶長5年(1600年)、徳川家康は会津の上杉景勝に謀反の疑いありとして討伐軍を起こします。信之は、家康の子である徳川秀忠が率いる軍勢に従い、この上杉討伐に出陣しました 1 。しかし、その進軍の途上、石田三成らが家康に対して兵を挙げたため、天下分け目の関ヶ原の戦いが勃発します。秀忠軍は中山道を進みましたが、信濃上田城に立てこもる真田昌幸・幸村(信繁)親子の抵抗に遭い、足止めを食らいました(第二次上田合戦)。信之もこの上田城攻めに加わっています 1

18 11 19 は、この第二次上田合戦の状況や秀忠軍の構成について触れています。特に 11 によれば、信之の実兄である酒井家次も秀忠軍の主力部隊の一員としてこの戦いに参加していました。信之は関ヶ原の戦いの主要な局面であった上田城攻めに参加しましたが、この戦いは秀忠軍の関ヶ原本体への遅参という結果を招きました。上田城での真田軍の頑強な抵抗は、秀忠率いる徳川本隊の進軍を大幅に遅らせる原因となりました 11 。信之は主君である秀忠の指揮下で忠実に任務を遂行しましたが、結果として関ヶ原の主戦場には間に合いませんでした。この上田城攻めは、秀忠にとって苦い経験となり、家康の叱責を受けたとされています 11 。そのような状況に身を置いたことは、信之にとっても大きな経験であったはずです。しかし、上田城の真田勢を抑えることは、東軍にとって戦略的に重要な意味を持っており、信之ら将兵の奮戦がなければ、西軍にさらなる勢いを与えた可能性も否定できません。信之の関ヶ原における軍功は、直接的な主戦場でのものではありませんでしたが、徳川秀忠の指揮下で重要な作戦行動に参加したという事実は、彼の武将としてのキャリアにおいて無視できない経験です。この経験は、後の徳川幕府、特に秀忠政権下での彼の立場にも影響を与えた可能性があります。

第三部 本庄藩主時代

武蔵本庄藩の立藩と藩政

慶長3年(1598年)、養父信嶺の死去に伴い家督を相続した信之は、武蔵国本庄(現在の埼玉県本庄市)1万石の藩主となりました 1 12 の記述では信之を「二代本庄城主」としていますが、これは小笠原信嶺を初代の本庄城主とした場合の呼称です。一方で、信之が養子として新たな家系を興したことから、「信嶺系小笠原家初代」 1 とも称されており、実質的な藩の創始者としての側面も持っていたと考えられます。

本庄は江戸と京を結ぶ主要街道の一つである中山道における重要な宿場町であり、信之の治世は約十数年間に及びました 1 。この期間中、信之は中山道本庄宿の整備や町割りなど、領内の発展に寄与した可能性が 12 によって示唆されています。本庄宿は中山道の要衝であり 12 、その整備は街道交通の円滑化、ひいては幕府による全国支配の強化に繋がる重要な事業でした。江戸時代初期の藩主は、軍事的な役割だけでなく、領内の民政安定化や経済基盤の確立も重要な責務でした。信之の約14年間にわたる本庄での治世 (1598年~1612年) は、こうした領国経営に取り組むには十分な期間であったと言えます。 12 が示唆する「本庄宿の発展の礎を築きました」という記述は、彼が単なる城主ではなく、地域の行政官としても機能していたことを示しています。信之は武将としての側面だけでなく、領国経営においても一定の役割を果たしたと考えられます。特に交通の要衝である本庄宿の整備に関わったことは、徳川幕府が進める全国的なインフラ整備政策の一翼を担ったことを意味し、彼の行政手腕をうかがわせます。

円心寺の建立

慶長8年(1603年)、信之は実父である酒井忠次の冥福を祈るため、本庄の地に円心寺(当初は円心坊と称した)を建立しました 1 。この行為は、小笠原家の養子となった後も、生家の酒井家、とりわけ偉大な父忠次への深い敬愛の念と感謝の気持ちを持ち続けていたことの証左と言えるでしょう。円心寺は浄土宗の寺院であり、後に近隣の鴻巣宿勝願寺の末寺となりました 5 。現在も本庄市に現存し、信之の事績を今に伝えています。山門は天明年間の建築と伝えられています 13

小笠原家を継いだ信之が、実父・酒井忠次のために寺院を建立したという事実は注目に値します。当時の武家社会における養子縁組は、家名存続や政治的同盟の意味合いが強く、必ずしも実家との縁が完全に断ち切られるものではありませんでした。酒井忠次は徳川家にとって非常に重要な人物であり、その追善供養を行うことは、信之自身の徳川家への忠誠心を示す行為とも解釈できます。寺院の建立 1 は、多大な費用と労力を要する事業であり、信之の忠次に対する深い思慕の情と、それを実行するだけの経済力や影響力があったことを示しています。円心寺の建立は、信之の人間性における孝心の深さを示すと同時に、養子先の家名を汚さず、かつ実父への敬意も示すという、当時の武士の複雑な立場におけるバランス感覚の現れとも言えます。

信仰

信之は、本庄の金鑚神社(かなさなじんじゃ)を篤く信仰していたと伝えられています 10 。金鑚神社は武蔵国でも有数の歴史を持つ古社であり、地域の守護神として広く信仰を集めていました。領主である信之がこの神社を信仰したことは、領民との精神的な結びつきを強め、領内融和や安定した統治にも寄与した可能性があります。

第四部 古河藩主時代

下総古河藩への加増転封

慶長17年(1612年)、信之は武蔵本庄藩から下総古河藩(現在の茨城県古河市)へ、1万石の加増となる2万石で移封されました 1 。この転封に伴い、約14年間続いた本庄藩は廃藩となり、本庄城も廃城となりました 4 。城下町はその後も中山道の宿場町として機能し続けました 4

移封先の古河は、江戸と日光・奥州方面を結ぶ日光街道(奥州街道)沿いの要衝に位置し、利根川水系の水運も利用できるなど、軍事的・経済的に極めて重要な拠点でした 14 。信之は石高を増やされて古河へ移封されましたが、これは栄転と見なせます。古河は江戸の北方を守る上で、また日光(家康の霊廟が造営される地)への街道を押さえる上で、本庄よりも戦略的重要性は高い土地でした 14 。石高の増加(1万石から2万石へ)は、信之のこれまでの働きが評価され、より大きな責任を任されたことを意味します。徳川幕府は、譜代大名をこのような戦略的要地に配置することで、支配体制を盤石なものにしようとしました。これは、幕府による全国的な大名配置計画の一環でした。本庄藩の廃藩と本庄城の廃城 4 は、幕府が地域の戦略的重要度を再評価し、より効率的な支配体制へと再編を進めていたことを示唆しています。この移封は、信之が徳川幕府にとって信頼できる譜代大名として認識され、より重要な任務を与えられたことを示しています。古河藩主としての彼の役割は、江戸幕府の北関東における支配力強化に貢献することが期待されていたと考えられます。

古河藩における活動

古河藩主としての信之の在任期間は、慶長17年(1612年)から慶長19年(1614年)に亡くなるまでのわずか2年間と、非常に短いものでした。この短い期間における信之自身の具体的な藩政に関する記録は、今回の調査資料からは多くを見出すことができませんでした。

しかし、 20 の記述によれば、信之の死後、家督を継いだ長男の政信が古河城主であった元和3年(1617年)に、二代将軍徳川秀忠が日光社参の途中で古河城に宿泊し、その際に政信が饗応役を務めたとあります。これは信之の直接の事績ではありませんが、小笠原家が古河城主として幕府の重要な行事に関わっていたことを示す出来事として注目されます。

第五部 家族と縁戚

実家・酒井家と養家・小笠原家

  • 実父 : 酒井忠次 1 – 徳川四天王。
  • 養父 : 小笠原信嶺 1 – 信濃松尾小笠原氏当主、武蔵本庄藩初代藩主。
  • 兄弟 : 酒井家次(長兄、 11 によれば上田城攻めに父祖以来の家臣団を率いて参加)、本多康俊(次兄、本多家に養子)、松平久恒(松平家に養子)、酒井忠利(『寛政重修諸家譜』などでは忠知と記載、庄内藩酒井家の分家を興す)などがいます 1 。兄たちが他家へ養子に出ている例は、当時の武家社会における家の存続や勢力拡大のための一般的な慣習を反映しています。

正室と子女

  • 正室 : 小笠原信嶺の娘 1 。彼女との婚姻により、信之は信嶺の養嗣子となりました。具体的な名は伝わっていません。
  • 子女 1 :
  • 長男: 小笠原政信(おがさわら まさのぶ)。父・信之の死後、家督を相続し下総古河藩の二代藩主となりました 1 。慶長12年(1607年)に武蔵国本庄城で生まれたとされています 10 。後に下総関宿藩へ移封され、2万7千石を領しました 16
  • 次男: 小笠原信政(おがさわら のぶまさ) 1
  • 娘: 青山幸成(あおやま よしなり/ゆきなり、大和郡上藩主など)の正室 1
  • 娘: 高木貞勝(たかぎ さだかつ、旗本)の室 1
  • 娘: 水野忠貞(みずの たださだ、三河岡崎藩水野家の家臣か)の正室 1

信之の子女、特に娘たちは他の武家へ嫁ぎ、長男の政信は家督を継いで藩主となっています。江戸時代の武家社会において、婚姻は家同士の同盟関係を強化し、一族の社会的地位を安定させるための重要な手段でした。信之の娘たちが青山氏、高木氏、水野氏といった他の武家(おそらくは譜代の家臣)に嫁いだこと 1 は、小笠原家の姻戚関係を広げ、幕藩体制内でのネットワークを強化する役割を果たしたと考えられます。長男・政信が本庄城で生まれ 10 、父の跡を継いで古河藩主となり 1 、さらに関宿藩へと移封された 16 ことは、信之が養子として興した小笠原家が徳川譜代大名として安定的に継続したことを示しています。信之は、自身の養子入りによって始まった小笠原家の新たな系統を確立し、その血脈を次代に繋ぐことに成功しました。また、子女の婚姻を通じて他の譜代大名家との連携を深め、徳川幕府を支える家臣団の一員としての地位を固めたと言えます。

表2: 小笠原信之 関係系図(簡略版)

Mermaidによる関係図

graph TD S_T[酒井忠次] -->|実父| O_N[小笠原信之] O_NM[小笠原信嶺] -->|養父| O_N O_NM_D[小笠原信嶺の娘] -->|正室| O_N O_N --> O_MSN[小笠原政信(長男)] O_N --> O_NBM[小笠原信政(次男)] O_N --> D1[娘(青山幸成正室)] O_N --> D2[娘(高木貞勝室)] O_N --> D3[娘(水野忠貞正室)]

この系図は、信之を中心とした簡略な家族関係を視覚的に理解しやすくするためのものです。信之の立場は、実父、養父、そして養父の娘である妻との関係によって特徴づけられます。これらの複雑な関係性を文章だけで説明するよりも、系図で視覚的に示す方が直感的で理解が深まります。この系図は、信之が酒井家と小笠原家を結びつける存在であったこと、そして彼の子孫がどのように続いたかを明確に示し、報告書全体の理解を助けます。

第六部 晩年、死没、及びその評価

死没と墓所

小笠原信之は、慶長19年4月26日(西暦1614年6月3日)、下総古河藩主として在任中に死去しました 1 。享年は45歳でした 1 。その死因に関する具体的な記録は、今回の資料からは見当たりませんでした。古河へ移封されてからわずか2年後のことであり、志半ばでの死であったかもしれません。

信之の墓所は、埼玉県本庄市中央にある開善寺にあります 1 。この開善寺は、養父である小笠原信嶺が生前に自ら開基した寺院であり、信嶺夫妻の墓も同寺に並んで建てられています 8 。信之の墓も、信嶺夫妻の墓と同様に宝篋印塔である可能性が高いと考えられます 12 。信之の戒名は龐巌了温(ほうがんりょうおん)と伝えられています 1

官位

生前の信之は、従五位下、左衛門佐(さえもんのすけ)に叙任されていました 1 。これは、当時の大名として一般的な官位であり、彼の格式を示しています。

小笠原信之の歴史的評価

現存する資料において、小笠原信之個人の功績や人物像に対する直接的かつ詳細な評価は多くありません。しかし、彼の生涯の軌跡を丹念に追うことで、徳川政権初期における譜代大名の典型的な姿と、彼らが果たした役割が浮かび上がってきます。

実父・酒井忠次という偉大な存在の影響を受けつつも、徳川家康の命によって名門小笠原家の養子となり家督を継いだこと、小田原征伐や関ヶ原の戦い(上田城攻め)といった重要な軍事行動に参加したこと、本庄藩主として領国経営の一端を担い、実父追善のための円心寺建立 1 や本庄宿の整備への関与の示唆 12 といった事績を残したこと、そして子孫へ家督を確実に継承させたことは、彼が徳川の天下を支えた武将として、また領主として忠実にその役割を果たしたことを示しています 1

下総古河への加増移封は、彼の能力と徳川家への忠誠が認められ、より重要な地を任された結果と解釈できます。しかし、その地での活躍は、あまりにも早い死によって限られたものとなってしまいました。彼は家康による戦略的な養子縁組の対象として選ばれ 1 、徳川譜代の武将として期待される主要な軍事作戦には全て参加しています 1 。本庄藩を十数年にわたり統治し、目立った失政もなく、地域の発展にも貢献しました。より戦略的に重要な古河藩へと加増移封された事実は 1 、彼が幕府から一定の評価と信頼を得ていたことを示しています。しかし、45歳での死 1 は、当時の平均寿命を考慮しても決して長くはなく、彼がさらに大きな功績を残す可能性を閉ざしてしまいました。

小笠原信之は、戦国乱世の終焉と江戸幕府の成立という激動の時代において、徳川家の忠実な家臣として、また有能な領主として堅実にその責務を果たした人物と言えます。特筆すべき華々しい武勇伝や革新的な政策で歴史に名を残すタイプではなかったかもしれませんが、彼のような譜代大名の着実な働きこそが、徳川三百年の泰平の礎を築いた原動力の一つでした。その早すぎる死が惜しまれます。

おわりに

本報告書では、日本の戦国時代から江戸時代初期に生きた武将、小笠原信之の生涯について詳細に検討してまいりました。彼は、徳川四天王酒井忠次の三男として生まれながらも、徳川家康の命により名門小笠原信嶺の養子となりその家名を継ぎ、徳川家康・秀忠の二代にわたって忠勤に励んだ人物です。

信之の人生は、戦国時代の終焉から江戸幕府による新たな支配体制が確立されていく過渡期における、武士の生き方の一典型を示しています。特に、徳川政権下における譜代大名が担った役割と、主君の意向によって左右される運命を象徴していると言えるでしょう。

彼は、小田原征伐や関ヶ原の戦いにおける上田城攻めなど、幕府成立期の重要な軍事行動に参加する一方で、本庄藩主としては円心寺の建立や宿場整備への関与など、領国経営においても確かな足跡を残しました。その後、より重要な拠点である下総古河藩へ移封されましたが、その地での活躍は早世によってわずかな期間に留まりました。

信之の死後、彼が興した小笠原家の系統は長男政信によって堅実に引き継がれ、譜代大名として徳川幕府を支え続けました。

小笠原信之は、歴史の表舞台で際立って目立つ存在ではなかったかもしれませんが、本報告書で明らかにしたように、徳川幕府の基盤確立に貢献した数多くの忠実な武将・大名の一人として、その堅実な生涯と歴史的役割は再評価されるべきであると考えます。

引用文献

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  16. 下総関宿藩 小笠原家供養塔 https://gururinkansai.com/shimousaogasawarake.html
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  18. 【戦国時代の境界大名】真田氏――時代の趨勢そのままに主君を変える - 攻城団 https://kojodan.jp/blog/entry/2021/01/12/180000
  19. 第二次上田攻め https://museum.umic.jp/sanada/sakuhin/uedazeme2.html
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