小笠原信定公の生涯:信濃より畿内へ、戦国乱世に散った武将の軌跡
序章:小笠原信定という武将
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本報告書の目的と対象人物の概要
小笠原信定(おがさわら のぶさだ、永正18年(1521年) - 永禄12年1月6日(1569年2月1日))は、戦国時代の信濃国に生を受け、府中小笠原氏の一族としてその名を歴史に刻んだ武将である 1。本報告書は、現存する史料や研究成果に基づき、信定の生涯を詳細かつ多角的に明らかにすることを目的とする。彼に関する既知の情報を基点としつつ、その背景、詳細、さらには歴史的文脈における意義を深掘りすることで、その実像に迫る。
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戦国時代における小笠原氏の位置づけ
小笠原氏は、清和源氏の流れを汲む信濃国の名門守護家であったが、戦国時代に至ると、一族内部の対立や周辺勢力の台頭により、その勢力は往時のものとは大きく様変わりしていた 2。特に信濃国内においては、府中小笠原家、松尾小笠原家、そして信定が再興を託されることになる鈴岡小笠原家といった形で、いわば三家に分裂し、相互に牽制し合う複雑な状況を呈していた 2。この一族内の不統一が、後に甲斐の武田氏による信濃侵攻を有利に進めさせる一因となった可能性は否定できない。
第一章:小笠原信定の出自と鈴岡小笠原家の再興
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生誕と家系:府中小笠原家における信定
小笠原信定は、永正18年(1521年)、当時信濃守護の任にあった府中小笠原家の当主、小笠原長棟の次男として生を受けた 1。彼には、後に家督を継承する兄・小笠原長時がいた 1。府中小笠原家は、信濃国における小笠原氏の宗家的立場にあり、信定はその嫡流に連なる血筋であった。
戦国時代の武家社会において、家督を継承する嫡男以外の男子、とりわけ次男や三男は、本家の勢力基盤を強化するため、新たに分家を創設したり、戦略的に重要な拠点に配置されたりする役割を担うことが一般的であった。信定が後に鈴岡小笠原家を再興するに至る経緯も、この時代の慣習と深く結びついていると考えられる。それは単なる個人的な行動ではなく、府中小笠原家の家としての戦略の一環として、次男である彼に託された使命であったと推察されるのである。
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鈴岡小笠原家再興の経緯と意義
信定は、父である長棟、あるいは家督を継いだ兄・長時の命を受け、信濃国伊那郡飯田の鈴岡城に入り、かつて存在したものの歴史の中で一時的に途絶えていた鈴岡小笠原家を再興した 1。史料によれば、鈴岡の系統の小笠原氏は信定の戦死によって最終的に途絶えたとされているが 2、これは信定による再興後の断絶を指すものと解釈される。
この再興の背景には、同じ伊那郡に勢力を有していた分家、松尾小笠原家への対抗意識が存在したと指摘されている 1。小笠原一族は、府中の宗家、伊那の松尾、そして鈴岡の三家に大きく分かれており 3、鈴岡はその一翼を担う家であった。鈴岡城の地理的位置(現在の飯田市 2)と、松尾小笠原家の本拠であった松尾城との近接性(毛賀沢川を挟んで対峙していたと記録されている 4)を考慮すると、鈴岡小笠原家の再興は、府中小笠原家による伊那郡南部への影響力拡大、および松尾小笠原家への直接的な牽制を意図した、極めて戦略的な配置であった可能性が高い。単に名跡を復活させるという以上に、府中小笠原家が伊那郡における勢力基盤を強化し、一族内での競争において優位を確保するための、より大きな戦略的意図が込められていたと考えられるのである。
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鈴岡城主としての活動
信定は鈴岡城 4 を拠点とし、伊那郡における府中小笠原家の代行者として活動を展開した。彼の具体的な統治内容に関する詳細な史料は乏しいものの、周辺の国人衆との関係構築や、有事に備えた軍事力の維持に注力していたと推察される。史料には「鈴岡城は、信濃の守護小笠原貞宗の二男宗政が築城し、その後、宗康を祖とする鈴岡小笠原氏が居住した」との記述もあり 6、信定による再興以前にも鈴岡小笠原氏が存在した歴史的背景が示されている。信定の再興は、こうした旧来の権威を再び活用し、府中小笠原家の勢力伸張を図ろうとしたものと見ることができる。
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小笠原信定 略年表
年代(推定含む)
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出来事
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典拠
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永正18年(1521年)
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小笠原長棟の次男として誕生
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1
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天文年間(詳細不明)
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父・長棟または兄・長時の命により、鈴岡小笠原家を再興、鈴岡城主となる
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1
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天文23年(1554年)8月
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武田信玄の伊那侵攻により、松尾小笠原信貴らに攻められ鈴岡城落城、信濃を離れる
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2
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天文23年以降(詳細不明)
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兄・長時と共に上洛、三好氏を頼り客将となり、摂津芥川城に滞在
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1
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永禄11年(1568年)
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織田信長の上洛軍により芥川城落城
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1
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永禄12年1月5日
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本圀寺の変に三好三人衆方として参戦
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1
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永禄12年1月6日
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桂川にて敗走中に討死(享年49)
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1
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第二章:武田氏の信濃侵攻と信定の抗戦
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武田信玄による伊那侵攻の本格化
天文年間に入ると、甲斐国の戦国大名・武田信玄(当時は晴信)は、信濃国への侵攻を本格化させる。信定の兄である府中小笠原家当主・小笠原長時は、天文17年(1548年)の塩尻峠の戦いにおいて武田軍に致命的な大敗を喫し、これにより府中小笠原家の勢力は著しく後退した 1。この戦いでは、小笠原長時軍の兵力は5000余であったが、味方であったはずの山辺氏・西牧氏・三村氏といった国人衆が武田方に寝返ったため敗退したと具体的に記されており 7、小笠原方の内部結束がいかに脆弱であったかを物語っている。
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鈴岡城の攻防と落城の経緯
兄・長時が本拠地を失い、信濃守護としての権威が揺らぐ中でも、信定は伊那郡の鈴岡城に拠点を構え、武田氏に対する抵抗の意思を明確に示し続けた 1。
天文23年(1554年)、武田信玄は伊那郡への大規模な侵攻作戦を開始する 2。この時、下伊那地方の多くの武将が武田氏の軍門に降る中、信定は兄・長時や、同じく伊那郡東部に勢力を持つ知久氏らと共に、最後まで武田氏への抵抗を試みた 2。
しかし、衆寡敵せず、鈴岡城は、皮肉にも武田方についてその先鋒となっていた同族の松尾小笠原家の当主・小笠原信貴らに攻められ、同年8月に落城の悲運を迎える 2。この結果、信定は信濃国における最後の拠点を失い、故郷を離れることを余儀なくされた。鈴岡城落城の直接的な攻撃者が、同じ小笠原一族である松尾小笠原信貴であったという事実は 2、武田信玄の巧みな外交戦略、すなわち敵対勢力の内部対立を利用した分断統治と、小笠原氏内部に根深く存在した対立構造が複合的に作用した結果であると言える。信定の抵抗は、強大な外敵である武田氏との戦いであったと同時に、いわば内なる敵との戦いでもあり、その困難さは察するに余りある。
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信濃からの離脱と流浪
鈴岡城の落城後、信定らは下条(地名か、あるいはその地の領主であった下条氏を一時的に頼ったかについては諸説ある)を経由して各地へ落ち延び、最終的には生まれ故郷である信濃国を離れることとなった 2。兄・長時もまた、府中の林城などを失った後、越後国の上杉謙信を頼るなど、流浪の身の上となっていた 9。信定がその後に辿る運命も、この兄・長時と軌を一にする部分が見受けられる。
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信濃伊那郡における小笠原氏主要三家と周辺勢力(天文23年頃)
勢力名
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主要人物
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本拠地(推定)
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対武田氏
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備考
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府中小笠原家
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小笠原長時
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(林城など喪失)
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敵対
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信濃守護。塩尻峠敗戦後、勢力大幅減。信定の兄。
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鈴岡小笠原家
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小笠原信定
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鈴岡城
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敵対
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府中小笠原家方。長時・長棟の命で再興。
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松尾小笠原家
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小笠原信貴
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松尾城
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従属
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武田氏の信濃先方衆として活動。鈴岡城攻撃に参加
5
。
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武田氏
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武田信玄(晴信)
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甲斐
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―
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信濃侵攻を推進。
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知久氏
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知久頼元(当時)
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神之峰城など
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敵対
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信定と共に武田氏に抵抗するも、後に頼元は処刑される
2
。
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下伊那のその他国人
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(多数)
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伊那郡各地
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従属多
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武田氏の侵攻に対し、多くが恭順。
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第三章:流浪の日々と三好氏への臣従
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東海道を経て京へ:兄・長時との同行
信濃国における全ての拠点を失った小笠原信定は、兄である長時と共に東海道を上り、当時の日本の政治・文化の中心地であった京を目指した 1。これは、地方で勢力を失った武将が、中央の有力者に再起の機会や庇護を求めるという、戦国時代においては決して珍しくない行動パターンであった。兄・長時はその後、越後の上杉謙信を頼り、さらには織田信長に客分として迎えられるなど、独自の道を歩むことになるが 9、信定のその後の動向は、これとはやや異なる様相を呈する。
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三好氏との接触と客将としての立場
京に到着した信定は、当時、畿内において強大な軍事力と政治的影響力を保持していた三好長慶(あるいはその一族、時期的に長慶没後の三好三人衆の可能性も高い)を頼り、その客将としての処遇を受けることになった 1。
この主従関係の背景には、単に三好氏が当時畿内で最大の勢力であったという現実的な理由だけでなく、より深い歴史的な繋がりが影響した可能性も指摘されている。三好氏は、その出自について、かつて阿波国守護であった小笠原氏の末裔を称していた 13。この(自称ではあるものの)血縁関係が、信濃の名門守護家の嫡流である信定らを受け入れる上で、何らかの役割を果たしたのかもしれない。没落したとはいえ、信濃小笠原氏という名跡は依然として重みを持っていた。信定にとって、同じ「小笠原」を称する有力大名に庇護を求めることは、心理的な拠り所や、将来的な連携への淡い期待を抱かせるものであった可能性が考えられる。一方、三好氏側にとっても、名門である信濃小笠原氏の人間を客将として迎えることは、自らの家系の権威付けに利用できるという側面があったかもしれない。
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摂津芥川城での活動
小笠原信定は、三好氏の客将として、摂津国(現在の大阪府北部)の芥川城に滞在したと記録されている 1。芥川城は、かつて三好長慶が本拠地としたこともある戦略的に重要な城であり、信定がそこに身を寄せることが許されたという事実は、彼が三好氏から一定の信頼、あるいは利用価値を認められていたことを示唆している。
しかし、この比較的安定したかに見えた日々も長くは続かなかった。永禄11年(1568年)、尾張の織田信長が、後に室町幕府第15代将軍となる足利義昭を奉じて大規模な軍勢を率いて上洛すると、畿内の勢力図は一変する。この信長の上洛軍の前に、三好氏の重要拠点の一つであった芥川城も攻め落とされ、信定は再び安住の地を失うことになったのである 1。
第四章:本圀寺の変と最期
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永禄12年(1569年)本圀寺の変の概要
永禄12年(1569年)1月、三好長逸・三好宗渭(政康)・石成友通ら、いわゆる三好三人衆は、織田信長が擁立した室町幕府第15代将軍・足利義昭が滞在していた京の六条本圀寺を急襲した 15。この事件は「本圀寺の変」または「六条合戦」と称され、当時の畿内における織田・足利政権と三好勢力との間の緊張関係を象徴する出来事であった。
三好三人衆は、かつて足利義栄(義昭の従兄弟)を将軍として擁立しており 1、義昭を中心とする新政権とは明確な敵対関係にあった。この襲撃は、年末年始の油断と、織田信長が主力軍と共に美濃国岐阜へ帰還していた隙を巧みに狙ったものであった。
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信定の参戦と戦闘の経過
小笠原信定は、この本圀寺の変において、主家である三好三人衆方に加勢し、足利義昭襲撃の軍事行動に直接参加した 1。信濃を追われ、三好氏の客将として再起を期していた信定にとって、この戦いはその忠誠を示すと同時に、自らの武名を取り戻すための重要な機会であったのかもしれない。
三好軍は一時、本圀寺を包囲し、寡兵で籠城する足利義昭らを窮地に陥れた。しかし、義昭方に馳せ参じた細川藤孝、三好義継(義昭方の三好氏)、池田勝正、伊丹親興らの救援軍の奮戦や、さらには急報を受けて岐阜から驚異的な速さで軍を率いて駆けつけた織田信長本隊の出現により、戦局は劇的に逆転した 1。
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桂川での敗死:その壮絶な最期
優勢だった三好三人衆軍は、織田軍の反撃を受けて敗走を余儀なくされ、小笠原信定もまたこの混乱した戦闘に巻き込まれた。京都南部の桂川付近で行われた追撃戦において、信定は最後まで奮戦したものの、衆寡敵せず、永禄12年1月6日(西暦1569年2月1日)、ついに力尽き討死を遂げた 1。享年49歳であった。
史料によれば、この時、信定と共に彼の家臣33名も主君と運命を共にして討死したと伝えられており 17、その主従の結束の強さと、戦いの激しさがうかがえる。信濃を追われ、三好氏の客将として再起を期した信定にとって、本圀寺の変は文字通り最後の大きな戦いであった。敗色濃厚となる中で逃亡の道を選ぶのではなく、最後まで戦い抜き討死したという事実は、彼が武士としての意地や矜持を貫いた結果と言えるだろう。多数の家臣が共に殉じたという記録は、信定が単に利用されるだけの客将ではなく、彼自身の人間的な魅力や統率力によって、忠誠心の高い家臣団を維持していたことを示唆しており、単なる敗将ではない、一廉の武将としての側面を物語っている。
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墓所と法名、討死した家臣たち
小笠原信定の墓所は、山城国(現在の京都府)の成恩寺にあるとされている 1。
後世に作成された霊牌には、信定の法名として「前戸部侍郎従五位下小笠原民部太輔 源朝臣信定雲山観公大居士」と刻まれていることが確認できる 17。この法名には「戸部侍郎(とべじろう)」や「民部太輔(みんぶのたいふ)」といった官職名が含まれており、これは彼の生前の家格や、あるいは死後に贈られた追贈の官位を反映しているものと考えられる。
さらに注目すべきは、この霊牌には、信定と共に本圀寺の変で討死した家臣33名の俗名も併せて刻まれていることである 17。これは、主君と生死を共にした忠臣たちへの深い追悼の念を示すものであり、戦国武士の主従関係の一端を垣間見ることができる。
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本圀寺の変 主要関係者(永禄12年)
陣営
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主要人物
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備考
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攻撃側(三好三人衆方)
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三好長逸、三好宗渭(政康)、石成友通、
小笠原信定
、斎藤龍興(異説あり)
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足利義昭の排除を目指す。
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防御側(足利義昭方)
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足利義昭、明智光秀(当時義昭の家臣)、細川藤孝、三好義継、池田勝正、伊丹親興、織田信長(救援軍大将として)
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当時の室町幕府将軍とその支持勢力。
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第五章:小笠原信定の子孫と後世の顕彰
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子・長継の動向
小笠原信定には、長継(ながつぐ)という名の子がいたことが記録されている 1。信定が本圀寺の変で非業の最期を遂げた後、この長継がどのような人生を歩んだのかは、信定の血脈の行方を知る上で重要である。
史料によれば、長継は、信定の兄・長時の三男であり、後に府中小笠原家の家督を継いで大名となった小笠原貞慶(さだよし、信定の甥にあたる)、そしてその子である小笠原秀政(ひでまさ)の父子に仕えたとされている 1。信定が再興した鈴岡小笠原家は彼一代で事実上途絶えたとされるが 2、その実子である長継が、小笠原一族の本家筋にあたる貞慶・秀政に仕官したという事実は、信定の血脈が形を変えて本家に合流し、存続したことを示している。これは、戦国時代の武家において、ある家系が断絶、あるいはそれに近い状態に陥ったとしても、その近親者が別家や本家に吸収されることで一族全体の結束を保ち、血筋を繋いでいこうとする動きの一例と言えるだろう。
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子孫・小笠原貞徳による慰霊と西生寺の霊牌
信定の死から約150年の歳月が流れた江戸時代中期の享保8年(1723年)、信定の子孫にあたる小笠原貞徳(さだのり)という人物が、祖先である信定と、本圀寺の変で共に討死した家臣たちの霊を慰め、供養するために、西生寺(さいしょうじ)という寺院に霊牌を奉安した 17。
この霊牌には、前述の信定の法名「前戸部侍郎従五位下小笠原民部太輔 源朝臣信定雲山観公大居士」と共に、彼と運命を共にした家臣33名の俗名が一体として刻まれている 17。
さらに注目すべきは、この霊牌奉安以降、豊前国小倉藩の歴代藩主(府中小笠原氏の嫡流)が、この西生寺へ参詣することが慣例となったと伝えられている点である 17。小倉藩主小笠原氏は、信定の兄・長時の子孫である小笠原貞慶の系統であり、信定の直系ではない。それにもかかわらず、一族の武将として信定の顕彰が重視されたことは、信定の生涯やその壮絶な最期が、小笠原一族の歴史の中で「記憶されるべき武勲」あるいは「悲劇の武将」として肯定的に評価され、語り継がれていたことを強く示唆している。これは、たとえ最終的に故郷回復の夢は叶わず、家を再興することもできなかったとしても、その示した忠義や奮戦ぶりが、一族の誇りとして、あるいは教訓として認識されていた可能性を示している。特に、武家の家格や由緒が重んじられた江戸時代において、戦国期に活躍した先祖の事績を顕彰することは、藩主家の権威付けにも繋がる行為であったと考えられる。
第六章:小笠原信定の生涯とその歴史的評価
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信定の生涯の総括
小笠原信定の生涯は、信濃国の名門守護家である小笠原氏の一員として生まれながらも、一族内部の対立と戦国時代という未曾有の激動の中で故郷を追われ、畿内での再起を目指すも志半ばにして戦場に散った、まさに波乱に満ちたものであった。鈴岡小笠原家の再興に始まり、宿敵武田氏に対する粘り強い抵抗、そして流浪の果てに身を寄せた三好氏の客将としての活動と、本圀寺の変における壮絶な最期は、彼の武将としての生き様を鮮烈に物語っている。
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戦国時代の動乱に翻弄された武将としての評価
信定の生涯は、武田氏や織田氏といった強大な新興勢力の台頭と、それに伴う小笠原氏や三好氏のような旧勢力の衰退という、戦国時代特有のダイナミックな権力構造の変化に大きく左右されたと言える。彼の人生は、個人の力量や意志だけでは抗し難い、時代の大きなうねりの中にあった。
兄である小笠原長時と比較した場合、長時が信濃守護としての名分を失った後も、上杉謙信や織田信長、さらには会津の蘆名盛氏といった有力者を頼り、各地を流浪しつつも天寿を全うし(その死因には異説も存在するが 9)、最終的に会津で客死したのに対し、信定は畿内での具体的な戦闘行動に身を投じ、戦場でその命を散らしたという点で、その最期は対照的である。
信定の武力による抵抗は、結果として失地回復や家の再興という具体的な成果に結びつくことはなかった。しかし、その一貫して武門の道を歩んだ姿勢や、後世の子孫による手厚い顕彰は、彼が単なる歴史の敗者として片付けられるべきではない、記憶されるべき側面を持っていたことを示している。
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関連史料における言及の可能性と今後の研究課題
小笠原信定に関する研究は、兄・長時や他の著名な戦国武将と比較して、必ずしも十分に進んでいるとは言えない状況にある。しかし、いくつかの史料群には、彼の事績に関するさらなる情報が含まれている可能性が残されている。
例えば、武田氏の軍学書として名高い『甲陽軍鑑』 19 には、武田氏による信濃侵攻の詳細な経緯が記されている可能性があり、その中で信定個人や鈴岡城の戦いについて、これまで知られていない言及が発見されるかもしれない。
また、織田信長の動向を記した第一級史料である『信長公記』は、信定が最期を遂げた本圀寺の変に関する基本史料の一つであり、信定の具体的な戦闘行動や討死の状況について、より詳細な記述がなされていないか、改めて精査する価値がある。ただし、既存の知見では「三好軍の『小笠原信定』を討ち、織田信長の勝利」といった簡潔な記述に留まる可能性も指摘されている 16。
さらに、『信濃史料』 21 をはじめとする長野県関連の地方史料群には、鈴岡城主時代の信定の具体的な統治活動や、当時の伊那郡の地域情勢に関する断片的な情報が含まれている可能性が期待される。特に、近年の研究成果として、花岡康隆氏による「鈴岡城主小笠原信定とその周辺」という論考の存在が確認されており 23、これは信定研究において極めて重要な文献となる可能性が高く、その内容の精査が急務である。
加えて、飯田市などの地方自治体が編纂した市町村史 12 や、地域に残存する古文書の中に、これまで未発見であった信定に関するより詳細な記録が眠っている可能性も否定できない。これらの史料を丹念に渉猟し、分析を進めることが、小笠原信定という武将の生涯と、彼が生きた時代の解明に繋がる今後の重要な研究課題と言えるだろう。
結論
小笠原信定は、信濃の名門小笠原氏の出身という出自を持ちながらも、戦国時代の激流に翻弄され、故郷を追われ、最終的には畿内の戦乱の中でその生涯を終えた武将である。彼の人生は、一族の分裂、強大な隣国の侵攻、そして中央政権の激変という、当時の武士が直面した困難を凝縮したものであったと言えよう。
鈴岡小笠原家の再興は、府中小笠原家の戦略の一翼を担うものであり、伊那郡における勢力維持の試みであったが、武田信玄の圧倒的な軍事力の前に挫折した。しかし、信濃を追われた後も、三好氏の客将として再起を図り、最期は本圀寺の変において主家のために戦い討死するという、武士としての矜持を貫いた生涯であった。
信定の系統は彼一代で途絶えたものの、その子は本家に合流し血脈を繋ぎ、また後世には子孫によって手厚く慰霊されている。これは、彼の生き様が、小笠原一族の歴史の中で一定の評価と敬意をもって記憶されていたことを示唆している。
現存する史料は断片的であり、その全貌を詳細に解明するには更なる研究が待たれるが、小笠原信定の生涯は、戦国という時代の厳しさと、その中で必死に生き抜こうとした一人の武将の姿を我々に伝えている。彼の人生は、華々しい成功物語ではないかもしれないが、時代の波に抗い、自らの信念に従って戦い続けた武士の生き様として、深く考察するに値する。
引用文献
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小笠原信定 - Wikipedia
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B0%8F%E7%AC%A0%E5%8E%9F%E4%BF%A1%E5%AE%9A
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松尾・鈴岡小笠原氏略歴 - 飯田市ホームページ
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-
鈴岡城跡 - 飯田市ホームページ
https://www.city.iida.lg.jp/site/bunkazai/suzuokajo.html
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鈴岡城の見所と写真・100人城主の評価(長野県飯田市) - 攻城団
https://kojodan.jp/castle/930/
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飯田・下伊那の文化財検索 - 飯田市美術博物館
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3-1 松本城の城主(1) 武田氏と小笠原貞慶
https://www.oshiro-m.org/wp-content/uploads/2015/04/a3_1.pdf
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知久頼氏 - Wikipedia
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小笠原長時 - Wikipedia
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小笠原長時(おがさわら ながとき) 拙者の履歴書 Vol.188~信濃守護の矜持と流離 - note
https://note.com/digitaljokers/n/n21d450e8f19e
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小笠原氏 - Wikipedia
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座光寺北城 座光寺南城 鈴岡城 知久平城 兎城 松尾城 和田城
http://yogokun.my.coocan.jp/nagano/iidasi2.htm
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三好一門との関係?「桐・三階菱透かし」鐔 - 日本刀・刀装具の研究
http://katana.mane-ana.co.jp/owari-miyoshi.html
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織田信長の合戦年表 - 戦国武将一覧/ホームメイト - 刀剣ワールド
https://www.touken-world.jp/tips/84754/
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西生寺(門司区大里) のホームページ、小笠原信定
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小笠原長時とは? わかりやすく解説 - Weblio辞書
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