最終更新日 2025-07-22

小笠原信貴

信濃松尾小笠原氏・小笠原信貴の生涯と一族の興亡

序章:分裂する名門 ― 戦国信濃と小笠原一族

清和源氏の名門、小笠原氏の権勢と内部分裂の序曲

小笠原氏は、清和源氏の一流である甲斐源氏の始祖・源義光を祖とし、甲斐国の武田氏とは同族にあたる名門武家である 1 。その祖である小笠原長清は、源頼朝に従って治承・寿永の乱で戦功を挙げ、鎌倉幕府の有力御家人としての地位を確立した 1 。以降、一族は阿波国や信濃国の守護職を歴任するなど、武家社会において重きをなした 2 。特に、弓馬術や礼法に精通した「小笠原流」の宗家として、武家の師範役という特別な権威を帯びていたとされる 3

しかし、室町時代中期、この名門一族を揺るがす内紛が勃発する。信濃守護としての権勢を誇った小笠原氏であったが、戦国乱世の到来を前に、その力を大きく削がれることになるのである。

「嘉吉の内訌」― 府中小笠原家と松尾小笠原家の決定的な対立

小笠原氏の運命を大きく変えたのが、嘉吉年間(1441年-1444年)に発生した家督相続を巡る内乱、いわゆる「嘉吉の内訌」である 3 。この争いは、小笠原長基の子である長秀と政康、そしてその次世代である持長と宗康の間で繰り広げられた 3 。室町幕府の裁定や、中央の有力守護大名である細川氏、畠山氏の介入も相まって、争乱は泥沼化する 3

この内訌は、文安3年(1446年)に宗康が戦死するも完全な決着には至らず、小笠原一族を二つの大きな勢力へと決定的に分裂させた 3 。すなわち、信濃の国府が置かれた府中(現在の長野県松本市)を本拠とする持長の血筋「府中小笠原氏(深志小笠原氏)」と、伊那郡松尾(現在の長野県飯田市)を拠点とする宗康の弟・光康の血筋「松尾小笠原氏」である 3 。この分裂こそが、その後の小笠原氏の歴史、そして本稿の主題である小笠原信貴の生涯を規定する根源的な要因となった。

伊那谷の情勢 ― 武田信玄侵攻前夜

府中小笠原氏と松尾小笠原氏の対立は、信濃国内の政治情勢を著しく不安定にした。両家は互いに信濃守護職と小笠原惣領職の正統性を主張し、周辺の国人衆を巻き込みながら、絶え間ない抗争を続けた 3 。特に伊那谷では、松尾小笠原氏と、同じく小笠原一族の分家である鈴岡城の鈴岡小笠原氏との間でも争いが発生した 7 。明応2年(1493年)には、松尾小笠原家の小笠原定基が鈴岡城主の小笠原政秀父子を自らの松尾城に招いて謀殺し、鈴岡小笠原氏を滅亡させるという血腥い事件も起きている 5

このように、小笠原一族は内紛によって自らの力を削ぎ、信濃国内に権力の空白地帯を生み出していた。この状況は、隣国・甲斐で勢力を拡大し、信濃への領土的野心を燃やす武田信玄にとって、またとない好機となったのである。小笠原信貴の物語は、この一族分裂という宿命と、外部からの脅威という二重の圧力の中で幕を開ける。

第一章:流転の果ての臣従 ― 父・貞忠と武田信玄

宿敵との戦いと敗北 ― 父・小笠原貞忠の甲斐亡命

小笠原信貴の父・貞忠の代、松尾小笠原家と府中小笠原家の長年にわたる対立は、ついに決定的な局面を迎える。府中小笠原家の当主・小笠原長棟は、信濃統一の野望を抱き、天文年間に入ると松尾小笠原家への攻勢を強めた 3 。数年にわたる戦いの末、天文3年(1534年)頃、貞忠はついに本拠地である松尾城を追われ、一族を率いて甲斐国へと逃れた 9

この亡命は、単なる敗走ではなかった。貞忠が頼った先は、府中小笠原家と敵対関係にあった甲斐の武田信虎(信玄の父)であった。これは、旧領回復という悲願を達成するため、敵の敵を味方とする、戦国武将としての極めて合理的な戦略的判断であった。この決断により、松尾小笠原家は武田氏に臣従し、その庇護下に入ることで再起の機会を窺うこととなる。信貴の人生は、この父・貞忠が敷いた「武田家臣」という路線の上で展開されていくのである。

武田信玄の信濃統治戦略と「信濃先方衆」

父・信虎の跡を継いだ武田信玄は、本格的な信濃侵攻を開始する。その際、信玄が巧みに用いたのが、現地の国人衆を自軍に組み込む「先方衆(さきかたしゅう)」という制度であった 11 。これは、降伏した信濃の武将たちに所領の一部を安堵する代わりに、武田軍の尖兵として、いまだ抵抗を続ける他の信濃勢力と戦わせるというものであった 9

この政策は、武田軍の損害を最小限に抑えつつ、信濃の地理に明るい在地領主を道案内や切り込み役として活用できるという利点があった。さらに、信濃の国人衆同士を戦わせることで、彼らの力を削ぎ、武田氏への反抗心を削ぐ効果も期待できた。小笠原貞忠・信貴父子は、この「信濃先方衆」の筆頭格として、武田軍の中に組み込まれることになった 2

臣従がもたらした光と影

武田氏への臣従は、松尾小笠原家にとって大きな転機となった。最大の恩恵は、宿敵・府中小笠原家に対抗するための強力な軍事力を得たことであった。信玄という絶対的な後ろ盾を得て、悲願であった松尾城の奪還が現実的な目標となったのである 13

しかし、その代償もまた大きかった。信濃先方衆として戦うことは、かつての同胞である信濃の武士たちに刃を向けることを意味した。また、一族の命運を完全に武田家の戦略に委ねることになり、武田家が衰退すれば、自らも共倒れとなる危険性を常に孕んでいた。信貴の生涯は、この武田家臣従がもたらした光と影の中を歩む半生であったと言える。

第二章:小笠原信貴の生涯 ― 武田家臣としての半生

小笠原信貴の生涯は、武田家の信濃侵攻という大きな歴史のうねりと密接に結びついている。彼は父・貞忠の路線を継承し、武田家臣として忠誠を尽くすことで、一族の再興を成し遂げた。

【表1】小笠原信貴 略年表

年代(西暦)

出来事

典拠

生年不詳

小笠原貞忠の子として生まれる。母は信濃の有力国人・諏訪満隆の娘 15

10

天文18年 (1549)

衰退していた飯田の開善寺を復興させる 9

9

天文23年 (1554)

武田信玄の伊那侵攻に「信濃先方衆」として従軍。府中小笠原信定が守る鈴岡城を攻め、旧領・松尾城を回復する 2

9

時期不詳

伊那郡に菩提寺として龍門寺を創建する 6

6

天正7年 (1579)

5月24日、死没。龍門寺に葬られる 9 。官位は左衛門佐、信濃守 10

9

出自と家督相続 ― 諏訪氏との血縁が持つ意味

信貴の母は、諏訪大社の大祝(おおほうり)家の一族であり、信濃の有力国人であった諏訪満隆の娘であった 15 。諏訪氏は、小笠原氏と並ぶ信濃の名族であり、時には争い、時には協力する複雑な関係にあった 17 。この婚姻は、松尾小笠原家が武田氏に臣従する以前から、信濃国内の在地領主と連携し、独自の勢力基盤を築こうとしていたことを示唆している。武田信玄自身も、諏訪頼重を滅ぼした後にその娘を側室に迎えるなど、婚姻政策を通じて諏訪地方の安定化を図っており 11 、信貴が持つ諏訪氏との血縁は、武田家臣として伊那谷を治める上で、無視できない影響力を持っていたと考えられる。

武田軍の尖兵として ― 天文23年(1554年)の伊那侵攻

信貴の生涯における最大のハイライトは、天文23年(1554年)の武田信玄による伊那侵攻である。この戦いで、信貴は父・貞忠と共に信濃先方衆として武田軍に従軍し、長年の宿願であった旧領回復に臨んだ 2

彼らの主な攻撃目標は、府中小笠原家の小笠原信定(宗家当主・長時の弟)が守る鈴岡城であった 7 。信貴らは伊那谷の地理を熟知しており、その案内と奮戦によって武田軍は有利に戦いを進め、同年8月には鈴岡城を陥落させた 7 。この功績により、信貴ら松尾小笠原氏は、父・貞忠が追われてから約20年ぶりに本拠地・松尾城への帰還を果たしたのである 2 。これは、武田氏への臣従という選択が、一族にとって具体的な成果をもたらした瞬間であった。

伊那の領主としての活動 ― 信仰と統治

軍事面での活躍の一方で、信貴は領主としての統治にも手腕を発揮した。彼は武力だけでなく、宗教的権威を利用して領内の安定を図った。天文18年(1549年)、松尾城回復に先立って、室町時代後半から衰退していた飯田の名刹・開善寺を復興させている 9 。さらに、自らの菩提寺として龍門寺を創建した 6 。これらの寺社保護政策は、領民の信仰心を集めると同時に、小笠原氏の支配の正当性を内外に示すための重要な手段であった。

天正7年(1579年)の死没 ― 武田家滅亡の序曲

信貴は天正7年(1579年)5月24日にこの世を去り、自らが創建した龍門寺に葬られた 9 。彼が亡くなったのは、武田家が天正3年(1575年)の長篠の戦いで織田・徳川連合軍に歴史的な大敗を喫し、その威信が大きく揺らぎ始めた時期であった。絶対的な庇護者であった信玄は既に亡く、後継者である勝頼の時代には、かつての勢いは失われつつあった。

信貴の死は、松尾小笠原家にとって、一つの時代の終わりを意味していた。父と共に武田氏に臣従し、その力をもって一族を再興させた信貴の時代が終わり、彼の息子たちは、滅亡へと向かう武田家と共に、より困難で激動の時代の荒波に立ち向かうことを余儀なくされたのである。

第三章:激動の時代を生きた息子たち ― 信嶺と長巨の選択

父・信貴が築いた武田家臣としての地位。しかし、その武田家の屋台骨が大きく傾く中、家督を継いだ息子たちは、一族存続のために重大な決断を迫られる。長男・信嶺と次男・長巨が選んだ道は、対照的でありながら、いずれも戦国乱世を生き抜くためのしたたかな生存戦略であった。

【表2】松尾小笠原家 略系図(貞忠から信嶺・長巨まで)

【松尾小笠原家 略系図】

小笠原貞忠

(母:諏訪満隆の娘) = 小笠原信貴
┣━━━━━━━━━┓
┃                  ┃
(妻:武田信廉の娘) = 小笠原信嶺 (長男)    小笠原長巨 (次男) = (妻:武田信実の娘)
┃                  ┃
(養子・酒井信之)          (長泰)
┃                  ┃
(越前勝山藩主家へ)       (交代寄合伊那衆へ)

10

長男・信嶺の決断 ― 織田信長への帰順と母の悲劇

天正10年(1582年)2月、織田信長は嫡男・信忠を総大将とする大軍を信濃へ侵攻させた(甲州征伐)。武田勝頼への信濃国人衆の信望は既に失墜しており、織田軍が美濃の岩村城に入ると、雪崩を打って離反する者が相次いだ 21

この時、松尾城主であった信嶺は、誰よりも早く武田家を見限り、織田方への帰順を決断した。これは単なる降伏ではなかった。『信長公記』によれば、信嶺は織田軍の案内役を務め、武田一門の仁科盛信が籠城する高遠城攻めの先鋒に加わるという、積極的な忠誠を示したのである 21

この信嶺の「裏切り」は、武田勝頼を激怒させた。勝頼は報復として、人質として甲府にいた信嶺の母、すなわち信貴の妻を処刑するという凶行に及んだ 21 。一族の存続という大義のためとはいえ、信嶺の決断は、実の母の命というあまりにも大きな犠牲の上に成り立っていた。

天正壬午の乱 ― 徳川家康への臣従と旧領回復への道

甲州征伐後、信嶺は信長から旧領を安堵されたが、そのわずか3ヶ月後、本能寺の変で信長が横死する。これにより、甲斐・信濃は主を失った混乱状態(天正壬午の乱)に陥り、越後の上杉氏、相模の北条氏、そして三河の徳川家康が覇を競う場と化した 25

この未曾有の危機に際し、信嶺は徳川家康に属することを即座に決断する 2 。彼は酒井忠次の配下として、信濃・甲斐の各地を転戦し、諏訪頼忠や大道寺政繁といった後北条方の勢力と戦った 21 。特に、北条軍が伊那谷にまで迫った際には、飯田城に籠城するなど、徳川方として信濃を守り抜く上で重要な役割を果たした 7

近世大名への道程 ― 小笠原信嶺と武蔵本庄藩一万石

天正壬午の乱における一連の軍功により、信嶺は家康から深く信頼され、松尾城を中心とする旧領の支配を認められた。さらに天正18年(1590年)、豊臣秀吉による小田原征伐の後、家康が関東へ移封されると、信嶺もこれに従い、武蔵国児玉郡本庄に一万石を与えられた 2 。これにより、彼は本庄藩の初代藩主となり、松尾小笠原家は近世大名としての地位を確立したのである。

信嶺には男子がいなかったため、家康の重臣である酒井忠次の三男・信之を娘婿として養子に迎えた 4 。この信之の系統が、後に越前勝山藩(福井県)へと転封され、幕末まで大名家として存続することになる 4

旗本としての存続 ― 次男・長巨と交代寄合伊那衆

兄・信嶺が中央の政局と連動し、大名への道を歩んだのとは対照的に、次男の長巨(ながなお/ながおん)は、故郷・伊那谷に根を下ろす道を選んだ。

関ヶ原の合戦後、兄の養子・信之は松尾への帰郷を拒んだため、家康は代わりに長巨に信濃国伊那郡伊豆木(現在の飯田市伊豆木)に1,000石の所領を与えた 15 。長巨はここに伊豆木陣屋を構え、江戸幕府の直臣である旗本となった 2

彼の家系は、領地に居住し、江戸への参勤交代を行う特殊な格式を持つ「交代寄合」とされ、同じく伊那谷に所領を得た知久氏・座光寺氏と共に「伊那衆(伊那三家)」と称された 16 。石高こそ1,000石と少なかったが、先祖伝来の地で在地領主として家名を保ち、江戸時代を通じて存続したのである 16

信嶺と長巨の兄弟が歩んだ道は、一族の生存戦略という観点から非常に示唆に富む。兄は天下の動向を見極めて中央の有力者に仕え、軍功によって「大名」という新たな地位を勝ち取った。一方、弟は兄が故郷を離れる中、幕府の直臣として「在地領主」の立場を確保し、一族のルーツを守った。これは、どちらか一方が断絶しても、もう一方が家名を存続させられるという、巧みなリスク分散であったと見ることができる。信貴の代からの苦難の歴史が、息子たちにこうしたしたたかな生存術を教えたのかもしれない。

終章:小笠原信貴とその一族が残した歴史的意義

小笠原信貴という武将の生涯は、戦国時代という激動の時代を生きた一地方領主の苦悩と選択、そしてその決断が子孫に与えた影響を鮮やかに映し出している。

信貴とその父・貞忠が、宗家である府中小笠原家との内紛に敗れた末に、宿敵の同族に固執せず、新興勢力である武田信玄に臣従するという決断を下したこと。これこそが、松尾小笠原家が滅亡の淵から蘇り、近世まで家名を繋ぐための決定的な礎となった。もし彼らが旧来の対立構造に囚われ続けていれば、信濃の他の多くの国人衆と同様に、歴史の波に呑み込まれ、共倒れになっていた可能性は極めて高い。

信貴から息子たちの世代へと続く物語は、戦国乱世における生存戦略の典型例を示している。絶対的な庇護者であった武田家が滅亡するという最大の危機に直面した際、長男・信嶺は時勢を読んで織田、そして徳川へと主君を乗り換え、自らの武功によって大名への道を切り拓いた。一方、次男・長巨は、兄とは別の形で徳川家に仕え、旗本として先祖伝来の地に根を下ろし、一族の血脈を故郷に留めた。この「大名化」と「在地領主化」という二筋の道は、一族が未来にわたって存続するための、見事な戦略であったと言えよう。

歴史の皮肉を感じさせるのは、かつて松尾家を信濃から追放した府中小笠原家のその後の運命である。当主・長時は武田信玄に敗れて信濃を追われ、各地を流浪する苦難の道を歩んだ 33 。しかし、その子孫である貞慶は、信嶺と同じく最終的に徳川家康に仕え、旧領を回復。江戸時代には豊前小倉藩主として大いに栄え、幕末まで続くことになる 1

かつて信濃の覇権を巡って血で血を洗う争いを繰り広げた二つの小笠原家が、最終的には共に徳川の旗の下に集い、近世大名・旗本として新たな秩序の中に組み込まれていった。この事実は、戦国という時代のダイナミズムと、天下統一という巨大なうねりの前では、個々の家の恩讐がいかに矮小化されてしまうかという歴史の摂理を物語っている。

小笠原信貴の生涯は、決して歴史の表舞台で華々しく活躍した英雄の物語ではない。しかし、彼の生き様は、分裂した一族の宿命を背負い、巨大勢力の狭間で翻弄されながらも、次代に希望を繋ぐために最善の選択を模索し続けた、一人の武将とその一族の苦闘の記録として、我々に多くのことを示唆してくれるのである。

引用文献

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