本報告書は、戦国時代の阿波国(現在の徳島県)において、その興亡の渦中に身を置いた武将、小笠原成助(おがさわら なりすけ)、またの名を一宮成相(いちのみや なりすけ)の生涯と事績について、現存する史料に基づき、詳細かつ徹底的に解明することを目的とする。彼の名は諱として成祐、成助、成佐など複数の表記で伝えられている 1 。本報告書では、便宜上「小笠原成助(一宮成相)」として言及する。彼が阿波の歴史、特に守護細川氏の衰退、三好氏の台頭と内紛、そして長宗我部氏の四国制覇という激動の時代において、いかなる役割を果たしたのかを明らかにすることを目指す。
彼が生きた戦国時代中後期は、阿波国においても大きな権力構造の変動が見られた時期であった。長らく阿波の支配者であった守護細川氏の権威は失墜し、その家臣であった三好氏が実権を掌握、さらには畿内にも勢力を拡大するに至った。しかし、その三好氏も内部対立や指導者の相次ぐ死によって次第に勢力を弱め、その間隙を縫うように土佐国の長宗我部元親が四国統一へと乗り出す。成助の生涯は、まさにこの阿波における権力の移行期と深く関わっており、彼の動向を追うことは、当時の阿波国、ひいては四国全体の政治・軍事状況を理解する上で不可欠である。
本報告書の作成にあたっては、『三好記』や『南海治乱記』といった軍記物語、関連する古文書の記述、そして天野忠幸氏や平井上総氏をはじめとする近年の研究成果を可能な限り参照し、多角的な分析を試みる。特に、一次史料の吟味を通じて、軍記物に描かれる人物像の検証も行い、より実像に近い成助の姿を追求する。史料的制約から不明な点も少なくないが、現時点で知りうる情報を最大限に活用し、彼の生涯を立体的に再構築することを目指したい。
表1:小笠原成助(一宮成相)関連略年表
年代(西暦) |
主な出来事 |
典拠(主なもの) |
生年不詳 |
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天文22年(1553年) |
鑓場の戦い。主君三好実休の命で出陣。久米義広らによる一宮城夜襲を受けるも、家臣森備前の活躍で脱出。妻(実休妹)が一時人質となる。 1 |
1 |
永禄5年(1562年) |
和泉久米田の戦い。三好実休に従い参陣。実休討死後、三好軍総崩れの中、森備前の采配により自軍をまとめて無事堺へ退却し、賞賛される。 1 |
1 |
天正4年(1576年) |
三好長治と対立。伊沢越前守と共に長治から離反し、細川真之を擁立。荒田野の戦いで長治軍を破り、長治は後に自害。 1 |
1 |
天正5年(1577年)頃 |
長宗我部元親に帰順するとされる。 |
4 |
天正7年(1579年) |
脇城外の戦いで三好方が長宗我部元親勢に大敗。その機に一宮城に復帰したとされる。 4 |
4 |
天正10年(1582年) |
長宗我部元親により、弟の主計頭成時と共に謀殺される。理由として謀反の疑いや織田信長への内通などが挙げられる。 1 |
1 |
没年不詳 |
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この年表は、小笠原成助(一宮成相)の生涯における主要な画期を時系列で整理したものである。彼の人生が、阿波国ひいては四国全体の戦国動乱と密接に連動していたことを示している。詳細な事績については、本報告書の各章で詳述する。
小笠原成助(一宮成相)の出自と家系は、戦国時代の阿波国における彼の立場を理解する上で極めて重要である。特に「小笠原」と「一宮」という二つの姓、あるいはそれらと深く関連する呼称が用いられる背景には、当時の阿波国における武士団の複雑な成り立ちと、彼の家が置かれていた特有の状況が反映されていると考えられる。
阿波国における小笠原氏の歴史は、鎌倉時代に遡る。清和源氏の流れを汲む小笠原氏は、甲斐国小笠原(現在の山梨県)を本拠とし、鎌倉幕府の有力御家人であった。承久の乱(1221年)の後、小笠原長清が阿波国守護に任じられ、以後その子孫が守護職を世襲し、阿波国内に一族を配置して勢力を築いた 6 。一宮成相の家系も、この阿波小笠原氏の庶流に連なるとされる。
具体的には、鎌倉時代の阿波国守護・小笠原長房の子である長久、その四男であった長宗が一宮大粟荘(現在の徳島市一宮町周辺)に居を構え、同地に一宮城を築城したと伝えられる 1 。そして、長宗の子・成宗の代から「一宮氏」を名乗るようになったとされる 1 。成相(成助)は、この一宮氏の直系の子孫にあたるというのが一般的な理解である。
しかし、一宮氏の出自や小笠原氏との関係については、複数の説が存在し、単純ではない。例えば、一宮氏が古代氏族である忌部氏の末裔であるとする説や、小笠原氏との間に養子縁組や婚姻関係があったとする説などが見られる 11 。特に、ある考察によれば、「一宮大宮司成宗が小笠原宮内大輔長宗の猶子(養子)となったか、あるいは系譜を付合させた」可能性が指摘されており、両氏の系譜が後世的に接続された可能性も示唆されている 11 。
戦国時代において、武士の出自や家格は、その社会的地位や影響力を左右する重要な要素であった。「小笠原」という姓は、阿波国における旧守護家としての権威を想起させ、広域的な影響力や家格の高さを誇示するのに有効であったと考えられる。一方で、「一宮」という姓は、特定の地域(一宮荘、一宮城周辺)における在地領主としての立場を明確にし、その土地の神祇(一宮神社)とも結びつくことで、地域住民からの支持や支配の正当性を獲得しやすかったであろう。成助、あるいはその祖先が、これら両方の姓、あるいはその関連性を強調したのは、こうした複数の権威や正当性を自らに引き寄せ、不安定な戦国社会を生き抜くための戦略であった可能性が高い。これは、他の多くの戦国国衆にも見られる、自らの立場を有利にするための系譜操作や縁戚関係の構築といった行動と軌を一にするものと言える。
史料において、彼は「小笠原成助」とも「一宮成相」とも呼ばれ、諱についても成祐、成助、成佐など複数の表記が見られる 1 。これらの呼称が史料によってどのように使い分けられているか、あるいは混同されているかについては、詳細な史料批判が必要となる。
両姓の関係性については、前述の小笠原長宗あるいはその子成宗が、阿波国一宮(現在の徳島市一宮町)の阿波国一宮大粟神社の神官家である一宮大宮司家に入嗣したことにより、一宮氏が「小笠原」を名乗るようになった、あるいはその逆の可能性も考えられる 11 。また、明徳4年(1393年)の記録に見える「小笠原次郎九郎」と、翌明徳5年の「一宮次郎九郎」が、共に小笠原成明の部下であり同一人物ではないかとする指摘もあり、古くから両姓が密接に関連していたことを示唆している 11 。
成助が複数の諱や姓で記録されている事実は、戦国時代の国衆が持つアイデンティティの流動性や、状況に応じて自らを規定する枠組みを使い分ける多層的なあり方を示唆している。戦国時代の国衆は、守護大名、戦国大名、あるいは隣接する他の国衆など、複数の上位権力や競合相手との関係性の中で自らの立場を維持・向上させる必要があった。「小笠原」を名乗ることは、広域的な小笠原ネットワークや旧守護家としての家格を意識したものであり、「一宮」を名乗ることは、在地領主としての実態や地域社会との結びつきを強調するものだったかもしれない。諱のバリエーションも、元服時の烏帽子親や主君との関係、あるいは特定の時期の政治的立場を反映している可能性がある。このように複数の呼称を持つことは、単なる記録の揺れではなく、成助自身、あるいは周囲の人間が、彼の立場や役割を多角的に認識し、表現していたことの現れと考えられる。これは、固定的な身分秩序が揺らぎ、個々の武将が自らの実力や交渉によって地位を築き上げていく戦国時代の特徴を色濃く反映している。
小笠原成助(一宮成相)の権力基盤は、その居城である一宮城(徳島市一宮町・入田町)にあった。一宮城は、南北朝時代の暦応元年・延元3年(1338年)に、前述の小笠原長宗(一宮長宗)によって築かれたと伝えられ、以後代々一宮氏の居城となった 9 。この城は、阿波国における戦略的要衝に位置し、平時の居館である里城と、戦時の詰城である山城から構成される、徳島県内でも最大級の規模を誇る山城であった 12 。山城部分は標高約144メートルの本丸を頂点とし、そこから延びる尾根筋に明神丸や才蔵丸といった複数の曲輪が配置され、堀切や竪堀などの防御施設が設けられていた 12 。
戦国時代において、城郭は単なる居住空間ではなく、軍事拠点、政治・経済の中心地、そして領主の権威を象徴するものであった。一宮城が「徳島県でもっとも大きなもの」 12 であったという事実は、一宮氏(そして成助)が阿波国内で有数の勢力であったことを物理的に示している。山城と里城の組み合わせは、平時の統治と戦時の防御という二つの機能を備えており、領国経営の安定に不可欠であった。この堅固な城の存在が、三好氏のような上位権力との関係においてもある程度の自律性を保つことを可能にし、また長宗我部氏のような新たな脅威に対しても抵抗の拠点となり得た。成助の行動を理解する上で、彼が一宮城という強力な基盤を持っていたことは無視できない。実際に、成助は一宮城主として、阿波国内の他の国衆、例えば吉野川沿いの領主たちが三好氏の家臣となる中で、阿波南部や西部を拠点とする有持氏や海部氏、大西氏と同様に、比較的独立性の高い領主としての立場にあったことが示唆されている 1 。
表2:小笠原氏と一宮氏の出自に関する諸説対照
説の名称 |
主な提唱者・典拠史料 |
関係性の内容 |
信憑性・課題 |
小笠原庶流説(一宮氏が小笠原氏の分家) |
『一宮成相』(Wikipedia) 1 、『阿波一宮城』(hb.pei.jp) 9 、『一宮城 (阿波国)』(Wikipedia) 10 など |
鎌倉時代の阿波守護小笠原長房の子・長久の四男長宗が一宮に居住し、その子成宗より一宮氏を名乗った。 |
一般的な説として広く認知。ただし、系譜の連続性について詳細な一次史料による裏付けが望まれる。 |
忌部氏末裔説 |
『阿波国における一宮氏と小笠原氏の姓の関係性や歴史的経緯について』(wwr2.ucom.ne.jp) 11 |
阿波忌部氏の末裔が一宮氏の源流である可能性。 |
阿波忌部氏の系図には「一宮」が見当たらず、直接的な証明は困難。史料の信憑性検証が必要。 |
養子縁組・系譜付合説 |
『阿波国における一宮氏と小笠原氏の姓の関係性や歴史的経緯について』(wwr2.ucom.ne.jp) 11 |
一宮大宮司成宗が小笠原宮内大輔長宗の猶子となったか、系譜を付合させた可能性。 |
両氏の関係性を説明する一つの仮説。具体的な証拠に乏しく、推測の域を出ない部分もある。 |
婚姻関係説 |
『阿波国における一宮氏と小笠原氏の姓の関係性や歴史的経緯について』(wwr2.ucom.ne.jp) 11 |
一宮氏と小笠原氏が婚姻関係を結び、密接な関係が生まれた可能性。 |
具体的な婚姻の記録が不明。他の説との関連性も考慮する必要がある。 |
「一宮」地名由来説 |
『阿波国における一宮氏と小笠原氏の姓の関係性や歴史的経緯について』(wwr2.ucom.ne.jp) 11 |
「一宮」の姓が阿波国一宮神社に由来し、小笠原氏入部以前から存在した可能性。 |
地名と氏族名の関連は一般的だが、小笠原氏との関係性を説明するものではない。 |
この表は、小笠原成助(一宮成相)の出自に関する複雑な議論を整理したものである。複数の説が存在し、それぞれに根拠や課題があることを示している。これらの諸説を比較検討することで、彼の家系が持つ歴史的背景の多層性を理解する一助となる。
小笠原成助(一宮成相)の生涯において、阿波国を本拠として畿内にも強大な勢力を築いた三好長慶との関係は、彼の地位と行動に大きな影響を与えた。特に、長慶の妹を娶ったことは、成助が三好一門に連なることを意味し、彼の政治的・軍事的立場を大きく向上させる要因となった。
小笠原成助(一宮成相)は、当時の阿波国主であり、畿内においても室町幕府を凌駕する勢いを誇った三好長慶の妹を娶ったとされている 14 。この婚姻が成立した正確な時期については史料に明記されていないものの、三好長慶が阿波及び畿内での勢力を固めていく過程で、阿波国内の有力国衆である一宮氏(小笠原氏)との連携を強化する目的があったと考えられる。
戦国大名は、領国支配を安定させるために、地域の有力者である国衆との関係構築を重視した。その最も有効な手段の一つが婚姻政策であった。三好長慶にとって、妹を成助のような有力国衆に嫁がせることは、本国阿波の安定化と自勢力の基盤強化を目的とした戦略的な婚姻政策の一環であったと言える。阿波は三好氏にとって本拠地の一つであり、畿内で覇権を争う上で、その後背地である阿波の安定は不可欠であった。有力国衆である一宮氏(小笠原成助)を姻戚関係によって取り込むことは、阿波支配の強化に直結したのである。
一方、成助にとっても、中央の大勢力である三好氏との姻戚関係は、自身の地位を保障し、他の阿波国衆に対する優位性を確立する上で大きなメリットがあった。当時の最大勢力の一つである三好長慶の妹婿となることは、自身の家格を高め、他の国衆との競争において有利な立場を得ることを意味した。また、三好氏の軍事力や政治的影響力を背景に、自領の安泰を図ることも期待できたであろう。この婚姻は、単なる個人的な結びつきではなく、戦国期によく見られる大名と国衆の間の相互依存的かつ戦略的な同盟関係の形成を示す典型例と言える。
三好長慶の弟であり、阿波方面の軍事を統括していた三好実休(義賢、実名を義賢とする史料もある)の指揮下で、小笠原成助(一宮成相)は活動したことが記録されている 1 。実休は勇猛果敢な武将として知られ、兄長慶の阿波における代行者として大きな権限を有していた。成助は、その実休の妹婿という立場もあって、実休配下の有力武将の一人として重用されたと考えられる。
具体的な軍事行動としては、天文22年(1553年)6月に起こった阿波国内の動乱、いわゆる鑓場の戦いが挙げられる。この時、阿波守護家の細川氏之(持隆)が三好実休の軍勢に包囲され自害に追い込まれた。これに対し、細川氏恩顧の旧臣であった名東郡芝原城主の久米義広らが蜂起し、実休の妹婿である成助の居城・一宮城へと夜討ちを仕掛けた 1 。久米方の軍勢は巧みに城内に侵入し、里城にいた成助は窮地に陥ったが、家臣の森備前が機転を利かせ、里城を囲む大竹藪の中に成助を押し入れてその身を隠させ、辛くも難を逃れたと伝えられる 1 。この夜襲の際、成助の妻(実休の妹)は人質として芝原に連行されたが、その後の中富川における戦いで久米義弘らは実休の軍に敗れ戦死し、人質も無事に戻ったものと考えられる 1 。
このエピソードは、成助が三好実休の妹婿かつ配下として行動しつつも、一宮城主としての独自の基盤を有し、阿波の他の国衆と同様に一定の独立性を保持していたことを示している。戦国期の大名と国衆の関係は、一方的な支配・従属関係ではなく、相互の利害や力関係によって変動する複雑なものであった。三好氏のような戦国大名も、領国支配を円滑に行うためには、国衆の協力を必要とし、国衆は、大名の権威を認めつつも、自らの所領や家臣団を維持し、一定の自律性を確保しようとした。成助が一宮城という強固な拠点を持つ独立領主としての側面も持ち合わせていたことは、この時代の典型的な国衆の姿であり、彼の立場は、三好氏への忠誠と、自己の勢力維持という二つの要素の間でバランスを取る必要があったことを示唆している。これは、後の三好長治との対立にも繋がる伏線となり得る。
永禄5年(1562年)3月、三好氏は和泉国久米田(現在の大阪府岸和田市)において、畠山高政・根来寺衆と大規模な合戦を行った(久米田の戦い)。小笠原成助(一宮成相)も、三好実休率いる阿波衆の一翼としてこの戦いに参陣した 1 。
この戦いは三好方にとって厳しいものとなり、総大将の三好実休が敵の鉄砲攻撃により討死するという悲劇に見舞われた。総大将を失った三好軍は総崩れとなり、敵の追撃を受けつつ堺を経由して阿波へと引き上げることとなった 1 。このような混乱した状況下で、成助の率いた軍勢の撤退ぶりは際立っていた。彼の軍は、家臣の森備前守が巧みな采配を振るい、100人余りの兵で成助を取り囲んで敵の追撃を切り抜け、無事堺にたどり着いたと伝えられている 1 。この功績は高く評価され、彼の武名は一層高まった(ユーザー提供情報)。
合戦において敗勢となった場合、軍勢を立て直して損害を最小限に抑え、組織的に撤退することは極めて困難であり、高度な指揮能力と兵の士気・練度が求められる。総大将が討死するという最悪の状況下で、成助の部隊が秩序を保ち、主君(この場合は成助自身)を無事に退却させたという事実は、その部隊が単なる烏合の衆ではなかったことを意味する。特に森備前守の采配が賞賛されている点から、成助が有能な家臣を登用し、その能力を活かすことができた指揮官であったことが窺える。この危機管理能力と、それを支えた家臣団の結束力の高さは、戦国武将が単独で成り立つのではなく、質の高い家臣団によって支えられていたことを示す好例である。この成功体験は、成助自身の自信を高めるとともに、家臣団からの信頼をより強固なものにし、その後の彼の活動における重要な基盤となったと考えられる。
三好実休の死は、阿波三好家の権力構造に大きな変動をもたらし、阿波国内の情勢を一層流動化させた。このような中で、小笠原成助(一宮成相)は、自己の勢力維持と拡大を目指し、阿波国内の政争に深く関与していくことになる。
永禄5年(1562年)の久米田の戦いで三好実休が戦死すると、その子である三好長治が阿波三好家の家督を継承した。しかし、長治は若年であったため、当初はその叔父である三好康長や、家中の重臣であった篠原長房らが後見役として実権を握り、領国経営や軍事指揮にあたった 15 。篠原長房は特に有能な人物で、三好氏の分国法である「新加制式」の編纂にも関わるなど、三好三人衆をも凌ぐ影響力を持っていたとされ、長慶死後の三好氏を支える中心人物の一人と見なされていた 16 。
しかし、三好長治が成長するにつれて、これら重臣との間に軋轢が生じ始める。特に元亀4年(1573年)には、篠原長房・長重父子が主君・三好長治や阿波守護家の細川真之に攻められ討死するという事件(上桜城の戦い)が発生する 17 。この事件の背景には、長房の権勢を妬む篠原自遁(長房の弟とされる)や、長治の母である小少将の讒言があったとする説も伝えられているが、その信憑性については慎重な検討が必要である 18 。いずれにせよ、篠原長房という重鎮を失ったことは、阿波三好家の統制力を著しく低下させ、家中の不安定化を一層進める結果となった 15 。
このような主家の内紛と弱体化は、小笠原成助(一宮成相)のような阿波国内の有力国衆にとって、主家からの自立性を高める、あるいは新たな勢力と結びつく契機となった。三好実休という強力な指導者を失い、さらに長治が経験豊富な重臣・篠原長房を排除したことは、阿波三好家の求心力を低下させた。権力の空白あるいは不安定な状況は、成助のような実力を持つ国衆にとって、自らの判断で行動する余地を拡大させたと言える。成助は、自己の勢力保全・拡大のため、より有利な提携相手を模索するようになっていったと考えられる。これが後の細川真之擁立や長宗我部氏への接近に繋がる背景となる。
三好長治政権下での阿波三好家の混乱が深まる中、天正4年(1576年)秋頃、阿波国内の情勢を大きく揺るがす事件が発生する。阿波守護家の当主であった細川真之(父・氏之が三好実休に殺害された後、傀儡として擁立されていた)が、三好長治の支配下にあった勝瑞城(徳島県藍住町)を出奔したのである 1 。これに対し、三好長治は細川真之討伐のため、名東郡荒田野(現在の阿南市周辺)に出陣した。
この時、小笠原成助(一宮成相)は、長治の重臣であった伊沢越前守(頼俊)と共に、突如として長治から離反し、長治軍の背後を襲撃した 1 。この予期せぬ裏切りにより三好長治軍は敗北し、長治自身は篠原長秀(篠原長房の子とは別人か)の居城である今切城(徳島市)へ逃れた。しかし、成助らの追撃は厳しく、長治は今切城からも追われ、同年12月27日、板東郡別宮浦(別宮長原、現在の徳島市・松茂町付近)にて自害して果てた 1 。享年25歳であった 2 。
成助が細川真之を擁立して三好長治に反旗を翻した背景には、長治の政治に対する阿波国内の国衆たちの不満があったと考えられる。長治は篠原長房を討伐した後、強権的な政治を行ったとされ、これが国人たちの離反を招いたとの指摘もある 15 。成助の行動は、単に長治個人への反発だけでなく、三好氏による阿波支配のあり方そのものへの異議申し立てであった可能性がある。そして、「守護」という伝統的権威を持つ細川氏を擁立することで、成助は自らの行動に大義名分を与え、他の国衆の支持を集めようとしたと考えられる。この行動は、成助が単なる三好氏の従属的な家臣ではなく、阿波の政治動向に主体的に関与する有力なアクターであったことを明確に示している。
しかし、この成助による細川真之の擁立は、阿波国内の権力闘争を一層激化させ、諸勢力が離合集散を繰り返す流動的な状況を生み出した。三好長治の弟で讃岐にいた十河存保(三好義賢の子で、十河一存の養子)などがこれに反発し、阿波の覇権を巡る争いは新たな局面を迎えることになった 20 。結果として、この内乱は土佐の長宗我部元親のような外部勢力の介入を招く大きな要因となり、阿波国の運命を大きく左右することになる。
三好氏の内紛により阿波国が混乱する中、土佐国では長宗我部元親が急速に勢力を拡大し、四国統一という野望を現実のものとしつつあった。小笠原成助(一宮成相)の晩年は、この長宗我部元親の台頭と深く関わることになる。
天文8年(1539年)に生まれた長宗我部元親は、永禄3年(1560年)の初陣以降、土佐国内の諸豪族を次々と破り、天正3年(1575年)には四万十川の戦いで一条兼定を破って土佐を完全に統一した 21 。土佐統一を成し遂げた元親は、その勢いを駆って阿波、讃岐、伊予へと侵攻を開始する 21 。
阿波国においては、三好長治が天正4年(1576年)末に小笠原成助(一宮成相)らによって討たれ、細川真之が擁立されたものの、国内の混乱は収まらなかった。このような状況は、元親にとって阿波進出の絶好の機会となった。天正5年(1577年)には、元親の支援を受けた細川真之が三好長治を破った荒田野の戦いなど、元親の影響力は阿波国内に深く浸透し始めていた 1 。
当初、長宗我部元親は中央の織田信長と友好関係にあり、信長の承認のもとで四国切り取り次第という黙認を得ていたとされる 21 。しかし、三好氏が織田信長に接近し、信長が三好氏を後援するようになると、元親と信長の関係は悪化し、敵対関係へと転じた 20 。この中央情勢の変化も、阿波の国衆たちの動向に複雑な影響を与えた。
このような中で、小笠原成助(一宮成相)も長宗我部元親に通じるようになったとされる 4 。その具体的な時期は必ずしも明確ではないが、三好氏の内紛と弱体化、そして長宗我部氏の急速な台頭という状況が、成助の判断に影響を与えたことは想像に難くない。長宗我部元親という新たな強大な外部勢力の出現は、成助をはじめとする阿波の国衆にとって、従来の勢力図を根本から覆すものであり、自らの生き残りをかけた新たな対応を迫られるものであった。元親への帰順は、ある種の現実的な選択であったと言えるだろう。衰退しつつある三好氏に最後まで殉じるか、台頭する長宗我部氏に新たな活路を見出すかは、彼らにとって死活問題であった。成助が元親に通じたのは、三好長治を打倒し細川真之を擁立したものの、阿波国内の情勢が安定せず、より強力な後ろ盾を求めた結果である可能性もあれば、元親の軍事力に抗しきれないと判断した現実的な選択であったかもしれない。
天正7年(1579年)には、阿波国脇城(現在の徳島県美馬市)周辺で、三好方の勢力と長宗我部元親の勢力が激突した(脇城外の戦い)。この戦いで三好方が元親勢に大敗すると、その混乱に乗じて小笠原成助(一宮成相)は一宮城に復帰したと伝えられている 4 。これは、彼が長宗我部氏の勢力拡大を背景に、自らの拠点を取り戻したことを示唆している。
長宗我部元親は、四国統一を進める過程で、帰順した国衆に対してもその実力を警戒し、自らの支配体制を確立するために、時に懐柔し、時に粛清するという硬軟両様の策を用いた。阿波国内の有力国衆もその対象であり、元親は彼らを完全に支配下に置こうとし、抵抗する者は容赦なく排除する方針であったことが史料から窺える 24 。
成助が元親の支配下でどのような立場に置かれたのか、詳細は不明な点が多い。しかし、元親は阿波平定後、一宮成助や新開道善(富岡城主)など、在地で力を持つ有力な土豪を謀殺によって排除していることから 1 、成助もまた、元親の支配体制を磐石なものにするための警戒対象と見なされていた可能性が高い。帰順した国衆であっても、過去の経緯や潜在的な抵抗力を考慮し、元親は彼らを完全に信用していなかったと考えられる。特に成助のような一国衆は、三好氏との関係も深く、独自の軍事力と一宮城という拠点を有していたため、元親にとっては注意すべき存在だったであろう。成助の立場は、元親の支配下で一時的に安堵されたように見えても、常に元親の猜疑心や支配戦略の対象となっていた可能性があり、その後の謀殺へと繋がる伏線となっていた。
小笠原成助(一宮成相)の最期は、長宗我部元親による謀殺であったと伝えられている。天正10年(1582年)、成助は弟の主計頭成時と共に、元親によって殺害された 1 。この時期、元親は中富川の戦いで十河存保を破り、阿波の実質的な支配権を確立しつつあった 20 。
成助らが謀殺された理由については、史料に「謀反の疑いがあったことや一時信長に通じていたことなどが挙げられている」と記されている 1 。これらの理由が真実であったか否かは定かではないが、元親が阿波支配を確固たるものにするために、潜在的な脅威となりうる有力国衆を排除する方針の一環であった可能性は極めて高い。元親にとって、成助が「邪魔な存在」と認識されていたことは想像に難くない。
注目すべきは、同じ時期に阿波の有力国衆であった新開道善なども元親によって謀殺されているという事実である 1 。これらの事件は個別のものとして捉えるよりも、元親による阿波国衆に対する系統的な勢力削減策、あるいは恐怖による支配の徹底を意図したものであったと推測される。支配を確固たるものにするためには、在地で力を持つ国衆の存在は、潜在的な不安定要因となり得た。特に成助は、三好氏との繋がりも深く、独自の軍事力と一宮城という拠点を有していた。長宗我部元親が四国統一という大目標を達成し、その支配を安定させるために行った、計算された「国衆粛清」の一環として、成助はその非業の最期を迎えたのである。これは、戦国大名が新たな領国支配体制を構築する際に見られる、旧秩序の解体と新秩序の強制というプロセスの一環であり、戦国大名が領域支配を確立する過程でしばしば見られる、旧勢力や潜在的対抗勢力を排除し、権力を集中させるための非情な手段であったと言える。
小笠原成助(一宮成相)に関する史料は断片的であり、その人物像の全貌を詳細に描き出すことは容易ではない。しかし、残された記録の端々からは、戦国乱世を生き抜こうとした一人の武将の姿が浮かび上がってくる。
小笠原成助(一宮成相)の武将としての能力を物語るエピソードとして、まず永禄5年(1562年)の和泉国久米田の戦いにおける撤退指揮が挙げられる。総大将三好実休が討死し、三好軍が総崩れとなる絶望的な状況下で、成助の軍勢は家臣森備前守の巧みな采配のもと、秩序を保ちつつ敵中を突破し、無事堺へと退却した 1 。この冷静な判断力と統率力は、彼の武将としての器量と、優れた危機管理能力を示している。また、森備前守という有能な家臣に恵まれ、その能力を戦場で最大限に活かすことができた点も注目される。これは、成助が家臣団をよく掌握し、彼らからの信頼も厚かったことを示唆している。
政治的な判断力と行動力においては、天正4年(1576年)に三好長治から離反し、細川真之を擁立した一件が重要である 1 。これは、単なる主家への反逆と見ることもできるが、一方で、三好長治政権の不安定さや阿波国内の勢力バランスの変化を敏感に察知し、自らの生き残りと勢力拡大のために下した大胆な決断であったとも評価できる。この行動には、状況を見極める洞察力と、大きなリスクを伴う行動を敢行する主体性、あるいは野心が見て取れる。
しかし、その生涯は長宗我部元親に帰順した後、最終的には謀殺されるという悲劇的な結末を迎える。これは、戦国時代の国衆が置かれた極めて厳しい立場と、その中で必死に生き残りを図ろうとしたものの、より大きな力の奔流に抗しきれなかった姿を象徴している。
成助自身が書き残した一次史料は現存が確認されておらず、彼の内面や人格を詳細に描き出すことは困難である。しかし、断片的な記録から、彼は単なる一地方領主ではなく、状況に応じて大胆な政治的決断を下し、軍事的才覚も備えた、戦国乱世を主体的に生きようとした多面的な武将であったと推察される。これらのエピソードを総合すると、成助は時代の波に翻弄されながらも、その時々で最善と信じる道を選び、自らの力で運命を切り開こうとした、戦国武将の典型的な姿の一つとして捉えることができる。
小笠原成助(一宮成相)は、戦国時代の阿波国において、紛れもなく有力な国衆の一人であった。彼の生涯は、阿波における守護細川氏の衰退、三好氏の台頭とその後の内紛、そして長宗我部氏による四国制覇という、目まぐるしい権力構造の変化と軌を一にしている。彼は、三好氏の阿波支配を支える一翼を担い、またその内紛においてはキャスティングボートを握る可能性も秘めていた。長宗我部元親にとっては、阿波平定における重要な攻略対象であり、支配体制確立のための排除対象でもあった。このように、彼は阿波国内の政治・軍事動向において、決して無視できない一定の役割を果たしたと評価できる。
一方で、彼の生涯は、戦国期における国衆の限界性をも示している。一宮城という堅固な拠点を持ち、三好長慶の妹婿という有利な立場を得、久米田の戦いでは武名も上げたにもかかわらず、最終的にはより大きな勢力、すなわち三好中央政権の動揺、織田信長の全国統一への動き、そして長宗我部元親の四国制覇という巨大な力のうねりの中で、独立を保つことができず、非業の最期を遂げた。彼の興亡は、戦国期における権力構造の流動性、下剋上の実態、そして中央集権化へと向かう歴史の大きな流れの中で、地域勢力がどのように翻弄され、あるいは抵抗し、そして消えていったかを示す縮図と言える 1 。
小笠原成助(一宮成相)の生涯は、戦国大名の華々しい活躍の陰に存在した「国衆」と呼ばれる地域権力の興亡を具体的に示す事例である。彼らは地域社会に深く根差し、時には大名の動向をも左右する影響力を持ちながらも、最終的にはより強大な戦国大名による統一の波に飲み込まれていく過渡期の存在であった。成助のような人物の研究は、戦国史を、天下人や大大名だけでなく、それを支え、あるいはそれに抵抗した多様な地域権力の視点からも捉え直すことを可能にし、歴史をより複眼的・多層的に理解する上で不可欠である。
本報告書では、戦国時代の阿波国に生きた武将、小笠原成助(一宮成相)の生涯について、現存する史料と近年の研究成果に基づいて、その出自、三好氏との関係、阿波国内での動向、そして長宗我部元親による謀殺に至るまでの軌跡を追ってきた。
彼の出自は、「小笠原」と「一宮」という二つの姓が絡み合う複雑なものであり、それは彼の家が阿波国において有した歴史的背景と在地性を反映していた。三好長慶の妹婿となることで三好一門に連なり、その勢力下で武功を上げる一方、主家の内紛に乗じて細川真之を擁立し三好長治を打倒するなど、阿波国内の政局に主体的に関与する有力な国衆であった。しかし、四国統一を目指す長宗我部元親の台頭という新たな時代の波には抗しきれず、帰順したものの最終的には謀殺されるという悲劇的な結末を迎えた。
小笠原成助(一宮成相)の生涯は、戦国時代の阿波国という一地方において、激動の時代を生き抜こうとした国衆の一つの典型を示している。彼は、自らの判断と才覚で勢力を維持・拡大しようと試みたが、より大きな権力構造の変化の前には、その限界を露呈せざるを得なかった。彼の存在は、戦国史を中央の視点だけでなく、地方の国衆の視点から見ることの重要性を教えてくれる。
しかしながら、彼の生涯については、史料の制約から依然として不明な点が多く残されている。例えば、三好長慶の妹との婚姻の具体的な時期や経緯、長宗我部元親による謀殺に至る詳細な政治的背景や心理的要因などについては、さらなる研究が待たれる。特に、『三好記』や『南海治乱記』といった軍記物語については、その史料的性格を十分に吟味し、他の一次史料との比較検討を通じて、より客観的な事実関係を明らかにしていく必要がある 31 。今後の新たな史料の発見や、既存史料の再解釈によって、小笠原成助(一宮成相)という人物、そして彼が生きた時代の理解が一層深まることが期待される。