小笠原秀政公 生涯と事績
1. はじめに
小笠原秀政は、戦国時代の末期から江戸時代初期にかけての激動の時代を生きた武将である。信濃守護の名門小笠原氏の血を引きながらも、一族の没落という苦難の中で生を受け、父祖伝来の地の回復と、主君徳川家康への忠誠にその生涯を捧げた。下総古河藩主、信濃飯田藩主を経て、ついに旧領である信濃松本藩主の座に就いたものの、その治世は短く、慶長20年(1615年)の大坂夏の陣において、嫡男・忠脩(ただなが)と共に壮絶な戦死を遂げた 1 。その最期は、徳川家への揺るぎない忠義を象徴する出来事として、後世に長く語り継がれることとなる。
本報告書は、現存する諸史料に基づき、小笠原秀政の出自と流浪の幼少期から、青年期の苦難、武将としての台頭、各地の藩主としての治績、そして大坂の陣における最期と、その後の小笠原家への影響に至るまでを詳細かつ網羅的に記述する。これにより、秀政という武将の多面的な実像を明らかにし、その歴史的意義を考察することを目的とする。既に知られている「徳川家臣、貞慶嫡男、松本藩主、大坂夏の陣で戦死、『信濃は…』の辞世」といった情報の範囲を大きく超え、その背景にある複雑な人間関係や政治情勢、そして秀政自身の苦悩や決断に光を当てることを目指すものである。
2. 小笠原秀政の出自と家系の背景
小笠原氏の信濃における盛衰と、秀政が生まれた時代の状況
小笠原氏は、清和源氏義光流を祖とし、鎌倉時代より信濃国に深く根を下ろし、室町幕府の下では信濃守護職を世襲する名門武家であった。しかし、戦国時代の到来と共に、一族内部の抗争や、甲斐国の武田信玄をはじめとする周辺の有力戦国大名の侵攻により、その勢力は次第に衰退の一途をたどった 6 。
秀政の祖父にあたる小笠原長時は、天文19年(1550年)、武田信玄(当時は晴信)との間で行われた塩尻峠の戦いで決定的な敗北を喫し、本拠地であった信濃府中(現在の長野県松本市)の深志城を追われることとなった 8 。その後、長時は越後の長尾景虎(後の上杉謙信)や京の三好長慶らを頼って各地を流浪する身となり、小笠原氏は信濃における支配権を完全に喪失した。この一族の没落と故郷喪失という屈辱的な経験は、その後の小笠原貞慶・秀政父子の生涯にわたり、旧領回復という悲願を抱かせ続ける根源的な動機となった。
このような一族の苦難の時代、永禄12年(1569年)3月21日、小笠原秀政は父・貞慶が流浪の境遇にあった山城国宇治田原(現在の京都府宇治田原町)において生誕した 1 。秀政が物心ついた頃には、既に小笠原氏は信濃を失い、一族再興の道を必死に模索し続けるという困難な状況下にあったのである。この故郷喪失と流浪の経験は、秀政の精神形成に大きな影響を与え、生涯を通じて「信濃」という土地への強い執着心を抱かせることになったと考えられる。父・貞慶が後に徳川家康の支援を得て一時的に深志城を回復したという出来事 8 は、若き秀政にとって、信濃回復が単なる夢物語ではない具体的な目標として意識される契機となったであろう。そして、その執念は、秀政が飯田藩主、さらには松本藩主として信濃の地に戻り、最期に「信濃は…」という言葉を残したとされる逸話 4 に象徴されるように、彼の生涯を貫く行動原理の一つとなった。この執着は、単なる領地への欲望を超え、一族の誇りと名誉の回復、そして流浪の末に掴み取ろうとした安定への渇望が複雑に絡み合ったものであったと推察される。
父・小笠原貞慶の生涯と秀政への影響
秀政の父である小笠原貞慶(天文15年(1546年)生 - 文禄4年(1595年)没)は、父・長時と共に信濃を追われた後、京に上り三好長慶を頼った。その後、室町幕府15代将軍・足利義昭に仕え、織田信長の勢力が伸張するとこれに従属した 8 。天正10年(1582年)、織田信長による甲州征伐で武田氏が滅亡すると、徳川家康の支援を受けて長年の悲願であった旧領・深志城に入り、城名を「松本城」と改称して小笠原家再興の第一歩を記した 8 。
しかし、貞慶の道のりは決して平坦ではなかった。天正13年(1585年)、徳川家康の重臣であった石川数正が豊臣秀吉のもとへ出奔するという事件が起こると、貞慶も秀吉に通じたとされる 8 。その後、天正15年(1587年)には秀吉の命により再び家康の指揮下に入るなど、戦国末期の複雑な政治状況の中で、生き残りを賭けた巧みな(あるいは苦渋に満ちた)選択を繰り返した 8 。『朝日日本歴史人物事典』は、貞慶を「小笠原氏の近世大名としての基礎を築いた策略家であった」と評している 8 。
天正17年(1589年)、貞慶は嫡男である秀政に家督を譲って隠居の身となった。翌天正18年(1590年)、秀政が徳川家康の関東移封に伴い下総国古河へ移されると、貞慶もこれに従い、文禄4年(1595年)5月10日、古河の地でその波乱に満ちた生涯を閉じた。享年50であった 1 。
父・貞慶の「策略家」としての生き様は、秀政の行動原理にも影響を与えたと考えられる。秀政自身も、父の動向や石川数正の出奔といった外部要因によって、徳川の人質から豊臣の家臣へ、そして再び徳川へという流転を経験している 1 。これは、父の処世術を間近で見てきた影響も否定できない。しかしながら、秀政の生涯の後半は、徳川家康への一貫した忠誠によって特徴づけられる。これは、父の不安定な立場を反面教師としたのか、あるいは父・貞慶が最終的に見出した徳川家との強固な結びつき(秀政と家康の孫娘との婚姻など)こそが小笠原家安泰の道であると確信した結果かもしれない。父の柔軟とも日和見的とも言える生き方に対し、秀政が最終的に示した確固たる忠誠心は、戦国乱世から近世へと移行する時代の武士の価値観の変化を映し出しているとも言えよう。秀政は、父の苦労と選択の上に、新たな時代における「譜代」としての生き方を選び取ったのである。
3. 青年期と家督相続
人質時代と流転の経験
天正10年(1582年)、本能寺の変後の混乱期に父・貞慶が徳川家康の傘下に入ると、当時14歳であった秀政(幼名:幸松丸、初名:貞政)は、その忠誠の証として家康に人質として差し出され、家康の重臣で岡崎城代であった石川数正のもとに預けられることとなった 1 。これは、小笠原家が徳川家との同盟関係を維持するための重要な手段であり、石川数正はいわばその保証人ともいえる立場にあった。
しかし、天正13年(1585年)11月、預かり親であった石川数正が突如として徳川家康のもとを出奔し、豊臣秀吉に寝返るという衝撃的な事件が発生する。この際、秀政も数正によって半ば強制的に豊臣方に連行されてしまった 1 。この秀政自身の意思とは無関係な主君の変更は、彼の運命を大きく揺るがす出来事であった。この予期せぬ事態により、秀政および父・貞慶は、否応なく豊臣秀吉に仕えざるを得ない状況に追い込まれたのである。この石川数正の出奔という「不可抗力」は、小笠原家の対外戦略にも大きな転換を強いた。徳川家康の支援による信濃回復という従来の路線から、一時的に豊臣秀吉という新たな中央権力者との関係構築を余儀なくされたのである。秀政にとって、この時期は自身の将来が他者の動向によって左右される不安定なものであり、後の豊臣政権下、そして関ヶ原へと向かう緊張の中で、自身の立ち位置を定める上で複雑な思いを抱かせる原体験となった可能性が高い。この「流された」経験が、後に自らの意思で徳川家康への忠誠を固める上での心理的な背景の一つとなったとも考えられる。
豊臣秀吉との関わりと小笠原家家督の相続
豊臣秀吉に仕えることになった貞政は、秀吉から偏諱(「秀」の一字)を賜り、名を「秀政」と改めた 2 。これは、秀吉政権下において、信濃の名門である小笠原氏が一定の認知と地位を得たことを示すものであった。
天正17年(1589年)正月、父・貞慶が隠居し、秀政は21歳の若さで小笠原家の家督を相続した 1 。この時点では、父が回復した信濃松本城主としての家督相続であった。豊臣秀吉が秀政の家督相続を認め、さらに後述する婚姻を斡旋した背景には、戦略的な意図があったと考えられる。秀吉にとって、信濃の名門である小笠原氏を自身の支配体制に効果的に組み込むことは重要な課題であった。さらに、当時勢力を伸長しつつあった徳川家康を牽制、あるいは懐柔する上で、小笠原氏を介して徳川氏との間に影響力を行使しようという狙いがあった可能性も否定できない。秀政の家督相続と婚姻は、単なる個人的な出来事ではなく、秀吉の巧みな大名統制策の一環として行われたものであったと言えるだろう。
徳川家康の孫娘・登久姫(福姫)との婚姻とその意義
天正17年(1589年)8月、豊臣秀吉の計らい(あるいは命令)により、秀政は徳川家康の長男で既にこの世を去っていた岡崎三郎信康の娘である登久姫(当時14歳、福姫とも称され、後の峯高院)と結婚した 1 。登久姫は、父・信康が悲劇的な最期を遂げたこともあり、家康にとって特別な意味を持つ孫娘であった。
この婚姻は、石川数正出奔事件で一時的に疎遠となっていた小笠原氏と徳川氏との関係を再び強固なものとし、秀政のその後の政治的立場を安定させる上で極めて重要な意味を持った。秀政は単なる家臣ではなく、家康の「孫婿」という極めて近しい姻戚関係を結ぶことになり、これは徳川家内部における秀政の信頼度と発言力を格段に高める効果があった。
この「血の絆」は、後の小笠原家の運命を大きく左右することになる。慶長20年(1615年)の大坂夏の陣で秀政・忠脩父子が戦死し、小笠原宗家が断絶の危機に瀕した際、次男・忠真が家督を相続し家名が存続できた背景には、この徳川家との強固な姻戚関係が決定的な役割を果たしたと考えられる 4 。秀政の戦功に加え、この「血縁」という要素が、江戸時代を通じて小笠原家が譜代大名として重んじられ、幾多の危機を乗り越えて存続していくための強力な「生命線」となったのである。
なお、正室となった登久姫は、慶長12年(1607年)、秀政が信濃飯田藩主であった時期に飯田の地で死去し、その菩提を弔うために峯高寺が建立された 1 。
4. 徳川家康への臣従と武将としての台頭
小田原征伐における戦功と下総古河への移封
天正18年(1590年)、豊臣秀吉による小田原北条氏攻め(小田原征伐)が開始されると、秀政は父・貞慶と共に徳川家康の軍に属して参陣し、戦功を挙げたとされる 1 。
小田原征伐後、徳川家康が関東へ移封されると、それに伴い秀政は下総国古河(現在の茨城県古河市)に3万石の所領を与えられた 1 。この古河への移封は、秀政にとって重要な転機であった。古河は江戸の北方を守る軍事・交通の要衝であり、利根川水系を押さえる戦略的にも重要な地であった。家康が信頼する秀政をこの地に配置したことは、関東支配体制を固める上での重要な布石であったと言える。
一部の記録 4 によれば、この時期に父・貞慶が何らかの理由(家臣を匿った等)で豊臣秀吉の不興を買い、改易されたため、父子共に改めて家康に仕える形になったとされる。この貞慶「改易」説については、その具体的な内容や時期、理由に関する一次史料が乏しく、解釈が分かれるところであるが、結果として秀政が家康から古河3万石を与えられたという事実は、家康が小笠原家(特に秀政)を見捨てず、むしろ自らの関東支配体制の重要な一翼を担わせようとしたことを示している。この出来事は、秀政にとって、豊臣政権下での不安定な立場から、徳川家康というより確実な主君の下での再出発を意味し、家康への忠誠心を一層強固にする契機となった可能性がある。
文禄4年(1595年)3月20日には、従五位下・上野介に叙任され、豊臣姓を授けられている 4 。
文禄の役における役割
文禄元年(1592年)から始まった豊臣秀吉による朝鮮出兵(文禄の役)に際しては、徳川家康の命令を受け、肥前国名護屋(現在の佐賀県唐津市鎮西町名護屋)に在陣した 13 。『豊津町史』によれば「家康の補佐を果たした」とあり 15 、直接的な渡海や戦闘参加の記録は確認できないものの、兵站の維持、連絡調整、あるいは家康本陣の警備など、後方支援に関わる重要な役割を担ったと考えられる。
関ヶ原の戦いにおける功績と信濃飯田への加増移封
慶長5年(1600年)に勃発した関ヶ原の戦いにおいては、徳川家康率いる東軍に属し、下野国宇都宮城(現在の栃木県宇都宮市)の守備を担当した 3 。これは、家康が主力を率いて西上する間の関東における徳川方の重要拠点を守るという、地味ながらも戦略的に極めて重要な任務であった。特に、会津の上杉景勝の南下を牽制し、江戸を背後から守るという役割は、東軍の勝利に不可欠なものであり、もし宇都宮城が陥落すれば、家康は背後を脅かされ、東西から挟撃される危険性すらあった。秀政はこの重責を見事に全うした。
戦後、慶長6年(1601年)2月、この宇都宮城守備の功績が認められ、2万石を加増の上、信濃国飯田(現在の長野県飯田市)5万石の領主として移封された 1 。これにより、小笠原氏は、かつて武田氏によって追われた旧領信濃国への復帰を、まずは飯田という形で果たしたのである。この飯田への移封は、石高の増加という実利的な恩賞であると同時に、小笠原氏にとって「信濃への帰還」という長年の悲願達成に向けた大きな一歩であり、極めて象徴的な意味を持っていた。家康にとっても、この人事は秀政の忠功に報いると同時に、信濃という要衝に信頼できる譜代格の大名を配置するという戦略的意図も含まれており、小笠原氏の旧領への想いを汲みつつ、自身の支配体制強化に繋げるという、家康ならではの巧みな人事であったと言える。
5. 藩主としての治績
小笠原秀政は、その生涯において下総古河藩、信濃飯田藩、そして信濃松本藩という三つの藩の藩主を務めた。それぞれの藩における統治期間や石高、主な施策は以下の通りである。
表1:小笠原秀政 統治歴一覧
藩名 |
統治期間 (西暦) |
石高 |
主な施策・出来事 |
下総古河藩 |
天正18年~慶長6年 (1590~1601年) |
3万石 |
古河城の修復・拡張、隆岩寺開基 20 |
信濃飯田藩 |
慶長6年~慶長18年 (1601~1613年) |
5万石 |
正室福姫(登久姫)死去、峯高寺建立 1 、法度制定、町方支配体制整備、検地実施 21 |
信濃松本藩 |
慶長18年~慶長20年 (1613~1615年) |
8万石 |
城下町整備の継続 22 、交通網整備・庄屋制度導入の試み 23 、天神社勧請 22 |
下総古河藩における統治 (天正18年 - 慶長6年 / 1590年 - 1601年)
下総国古河においては、3万石の領主として約10年間統治にあたった 1 。当時の古河城は戦乱により荒廃していたため、秀政はその修復・拡張に着手したと伝えられている 20 。また、城下町の整備にも力を注いだものと考えられる。この古河統治時代には、菩提寺として隆岩寺を開基している 20 。『古河藩』の記録によれば、古河城の大規模な修復・拡張工事の間、一時的に近隣の栗橋城(現在の茨城県五霞町及び埼玉県久喜市)を居城としていた可能性が示唆されており、隆岩寺が古河市内と五霞町内にそれぞれ独立して存在することがその傍証とされている 20 。この点は、秀政の古河における初期の統治拠点の変遷を考察する上で興味深い。
信濃飯田藩における統治 (慶長6年 - 慶長18年 / 1601年 - 1613年)
信濃国飯田においては、5万石の領主として約12年間にわたり統治を行った 1 。飯田への入封は、小笠原氏にとって念願の信濃復帰の第一歩であり、秀政はまず領内支配の基盤を固めることを優先したと考えられる。具体的には、領内の治安維持のために「法度」を定め、町方には庄屋や年寄といった役人を置いて支配体制を整備した 21 。
また、検地も実施したが、これは実際に田畑を測量するものではなく、既存の検地帳簿を基に年貢高を算定する方式(いわゆる指出検地か)であったとされる 21 。大規模な測量にかかる時間と労力、そしてそれに伴う領民の負担や反発を避け、早期の安定統治を目指した現実的な判断であった可能性がある。飯田城下の飯田町や小池町といった町名は、この秀政の統治時代からのものと伝えられている 21 。
飯田統治中の慶長12年(1607年)、正室であった福姫(登久姫)が死去するという不幸に見舞われた。彼女は徳川家康との重要な繋ぎ役であり、秀政にとって精神的な支えでもあったはずである。秀政はその死を深く悼み、菩提を弔うため、元々慶林寺という名の寺院を、福姫の法名「峯高寺殿義誉रेन्द्र大姉」にちなんで峯高寺と改め、開基となった 1 。この出来事が、秀政の宗教観や領内における寺社政策に何らかの影響を及ぼした可能性も否定できない。一部記録 4 にはこの頃秀政が出家したとの記述もあるが、その真偽と福姫の死との関連については更なる検討を要する。
信濃松本藩への復帰 (慶長18年 - 慶長20年 / 1613年 - 1615年)
6. 大坂の陣と壮絶な最期
大坂冬の陣への対応 (慶長19年 / 1614年)
慶長19年(1614年)に大坂冬の陣が勃発すると、秀政は自身は国元である信濃松本城の守りを固め、嫡男である小笠原忠脩(当時21歳または22歳)を小笠原軍の総大将として出陣させた 5 。この父子の役割分担は、松本という重要拠点の守備を万全にしつつ、嫡男である忠脩に大舞台での経験を積ませ、次代の指導者としての資質を試すという戦略的意図があったものと考えられる。忠脩はこの初陣において、軍資金の調達に苦労したと伝えられており 29 、これは戦の厳しさと将としての責任の重さを痛感する試練であったろう。
大坂夏の陣への出陣と天王寺・岡山の戦い (慶長20年 / 1615年)
翌慶長20年(1615年)の大坂夏の陣では、秀政は自ら小笠原軍を率い、忠脩と共に戦場へ赴いた 1 。忠脩は、冬の陣では松本城の留守居を命じられていたが、夏の陣ではその命令に従わず、幕府に届け出ることなく戦場に駆けつけたとされる 5 。徳川家康はこの軍令違反を咎めるどころか、その意気を評価したという逸話も残っている 5 。
5月7日(旧暦)、天王寺・岡山の決戦において、小笠原隊は徳川方最前列の本多忠朝隊に続く二番手として布陣し、豊臣方の毛利勝永隊と対峙した 5 。戦端は、本多隊の物見が前方に出たところを毛利隊の鉄砲隊が応射したことにより開かれた。毛利勝永は果敢に本多忠朝隊に襲いかかり、激戦となった 5 。本多隊が崩れるのを見た小笠原秀政は、その救援に向かったが、そこに毛利隊の隣に布陣していた木村宗明(前日の若江の戦いで討死した木村重成の叔父)隊が猛攻を仕掛けてきた 5 。
この夏の陣に臨むにあたり、秀政・忠脩父子は、それぞれがこの戦いを自らの最後の晴れ舞台と捉えていた節がある 5 。特に忠脩の無届けでの参陣は、その覚悟の程を物語る。この戦いを最後の功名の機会として戦場に臨んだ武将は少なくなく、それが夏の陣を稀に見る激戦たらしめた要因の一つであった。しかし、戦場の現実は厳しく、栄光を求める想いは、毛利・木村両隊の猛攻という混沌の中で、生き残りを賭けた必死の戦いへと変貌していった。
父子戦死の状況と「信濃は…」の辞世
乱戦の中、まず嫡男の忠脩が討死した 4 。一部の記録では、忠脩は負傷し、家臣の二木政成と共に自刃したとも伝えられる 28 。父である秀政も、本多忠朝隊を救援すべく奮戦し、木村宗明隊の攻撃を受ける中で瀕死の重傷を負った 5 。秀政は戦場から後方に移されたものの、手当ての甲斐なく同日夕刻に息を引き取った。享年47であった 1 。
秀政は死の間際、主君・徳川家康に対し「信濃は…」と言い残して絶命したと伝えられている 1 。その言葉の続きは不明であるが、後継者や信濃国の将来を案じてのものであったと推測され、彼の生涯を貫いた故郷信濃への強い想いを象徴する最期の言葉として知られている。また、別の辞世の句として「おのずから枯れ果てにけり草の葉の主あらばこそまたも結ばめ」(草の葉が自然と枯れ果ててしまったように、主君がいればこそ再び結ばれることもあろうものを)という歌も伝えられている 34 。
この父子戦死という悲劇は、小笠原家にとって当主と後継者を同時に失うという壊滅的な打撃であり、家名断絶の危機という「負の遺産」をもたらした。しかし、同時に、徳川家のために親子揃って命を捧げたという事実は、後世の小笠原家にとって「父祖の勲功」という計り知れない「正の遺産」となった 4 。この壮絶な忠死は、徳川幕府に対する小笠原家の忠誠心の証として、後の時代に同家が危機に瀕した際に常に考慮され、家名の存続を助ける一因となったのである。
墓所と法号
小笠原秀政の法号は「両選院殿義叟宗玄大居士」である 1 。秀政と忠脩父子の遺骨は信濃松本に運ばれ、当初は埋橋の剣塚に葬られたが、後に林城の麓にある広沢寺境内に改葬された 1 。現在も広沢寺本堂裏には、御霊屋(おたまや)と称される立派な両公の墓所が現存している 1 。また、秀政の菩提寺である宗玄寺は、後に小笠原氏が移封された豊前国小倉(現在の福岡県北九州市)に現存する 1 。
7. 小笠原秀政の人物像と評価
『松本市誌』などに見る評価
前述の通り、『松本市誌』は小笠原秀政を「文武両道に長じたるは勿論、更に神仏を崇敬し、深く禅理に精通せしこと、貞宗以来の一人なりと称せられる。意を政治に留め、能く民情を察し、農事を励まし、商業を勤め、博愛慈にして領民大いに悦服せり」と高く評価している 1 。この評価は、秀政が単なる武勇に優れた武将であるだけでなく、文化的な素養や信仰心を持ち、民政にも意を用いた為政者であったことを示唆している。
「文武両道」という評価のうち、「武」についてはその軍歴が示す通りであるが、「文」や「禅理に精通」という点については、寺院の開基や神社の勧請といった行動 1 がその一端をうかがわせる。「民政重視」という点も、城下町の整備 22 や交通網・庄屋制度への取り組み 23 、法度の制定 21 などが伝えられており、具体的な実績に裏打ちされている部分もある。しかし、各藩における統治期間、特に松本藩でのそれが極めて短かったこと、また詳細な行政記録が豊富とは言えないことを考慮すると、これらの評価には、旧領主の帰還に対する領民の期待や、後の小笠原家による先祖顕彰の中で、ある程度の理想化が含まれている可能性も否定できない。それでもなお、彼が有能な武将であり、領民の安定を願う為政者であったことは、断片的な記録からも推察される。
逸話から伺える性格
いくつかの逸話は、秀政の性格の一端を垣間見せる。大坂夏の陣の前日(5月6日)、ある戦闘に参加しなかったことを徳川家康(あるいは秀忠)に叱責され、雪辱を期して翌7日の天王寺・岡山の戦いで奮戦の末に討死したという話 35 は、彼の名誉を重んじる武士としての気概や、強い責任感を示している。
また、大坂夏の陣で徳川家康が討死し、秀政がその影武者を務めたという説 5 も存在する。これは史実としては考えにくいものの(秀政の年齢と家康の年齢差、秀政自身の戦死など)、このような説が生まれた背景には、秀政の家康への忠誠心が並々ならぬものであったという認識や、大坂の陣における家康本陣の危機的状況、そしてそれを救った忠臣への称賛といった要素が絡み合っているのかもしれない。この説は、秀政が主君のために命を投げ出すことも厭わない、極めて忠義心の厚い人物であるというイメージを補強する。
秀政が織田信孝と同じ「弌剣平天下」(一剣天下を平らぐ)という印判を用いていたという逸話 4 は、彼が天下泰平への強い意志、あるいは武力による秩序回復という信念を抱いていた可能性を示唆している。
負の側面や課題
秀政自身の直接的な負の評価や失策に関する記録は少ないが、彼のキャリアに影響を与えた可能性のある出来事として、父・貞慶が豊臣秀吉の不興を買ったとされる一件 11 が挙げられる。これは貞慶の行動に起因するものではあるが、結果として小笠原家全体の立場を危うくし、秀政の青年期における苦労の一因となった可能性がある。また、同史料 11 は、貞慶(あるいは当時の小笠原家)が秀吉の出自を軽んじるような態度を取った可能性を示唆しており、これが事実であれば、当時の複雑な人間関係や価値観の衝突を物語る。
8. 死後の小笠原家と秀政の影響
次男・忠真による家督相続の経緯
大坂夏の陣における秀政と嫡男・忠脩の同時戦死は、小笠原宗家にとってまさに断絶の危機であった。しかし、秀政の次男であった忠真(ただざね。初名は忠政(ただまさ)、後に忠真と改名 38 )が、徳川幕府の特別な計らいにより家督を相続し、信濃松本8万石を継承することが許された 12 。
この温情とも言える措置の背景には、秀政・忠脩父子の忠烈な戦死に対する幕府の評価、そして何よりも秀政の正室・登久姫を通じた徳川家との強固な血縁関係があったことは想像に難くない 4 。忠真は家康にとって曾孫にあたる存在であり、この血の繋がりが小笠原家存続の大きな要因となった。幕府としても、松本の安定統治のためには、旧領主であり徳川家に縁の深い小笠原氏を存続させることが得策であるという戦略的判断も働いたであろう。忠真はまた、兄・忠脩の未亡人で自身の従妹にあたる亀姫を正室に迎え、忠脩の子である長次を養育した 38 。
小笠原宗家のその後の展開(松本→明石→小倉)
家督を継いだ小笠原忠真は、元和3年(1617年)に信濃松本から播磨国明石10万石へ移封された 12 。さらに寛永9年(1632年)には、豊前国小倉15万石へと加増移封され、以後、小笠原宗家は譜代の重鎮として明治維新まで小倉藩主を務めることとなる 15 。この石高の増加と西国の要衝への配置は、徳川幕府の小笠原家に対する変わらぬ信頼の厚さを示している。
秀政・忠脩父子の戦死が後世の小笠原家に与えた影響
前述の通り、秀政・忠脩父子の壮絶な戦死は、小笠原家にとって計り知れない「勲功」として記憶された 4 。江戸時代を通じて、小笠原家の当主が何らかの問題を起こしたり、家が危機に瀕したりした際に、この「父祖の勲功」が常に酌量され、改易などの厳しい処分を免れる一助となったと伝えられている 11 。血をもって示された徳川家への忠誠は、小笠原家が譜代大名としての地位を確立し、長く存続していくための揺るぎない礎となったのである。
9. まとめと考察
小笠原秀政の生涯は、戦国乱世の終焉と江戸幕府の成立という、日本史における大きな転換期と重なっている。信濃守護という名門の嫡流に生まれながらも、一族の没落により流浪の境遇からその人生をスタートさせ、父・貞慶と共に旧領回復の悲願を胸に刻み続けた。
青年期には、徳川家康への人質、石川数正の出奔に伴う豊臣秀吉への臣従、そして再び徳川家への帰属という複雑な政治的変転を経験する。その中で、秀吉から偏諱を受け、家督を相続し、家康の孫娘・登久姫を娶ることで、徳川家との間に強固な絆を築き上げた。この婚姻は、彼の政治的立場を安定させ、後の小笠原家の運命を左右する重要な布石となった。
武将としては、小田原征伐、文禄の役、そして関ヶ原の戦いと、時代の大きな節目となる戦役に参加し、着実に功績を重ねた。特に関ヶ原の戦いにおける宇都宮城守備の功により信濃飯田5万石を与えられ、一部ではあるが父祖の地への帰還を果たす。その後、石川氏の改易という予期せぬ機会を得て、ついに慶長18年(1613年)、信濃松本8万石の城主として、小笠原氏の本拠地であった松本への復帰を成し遂げた。
藩主としては、下総古河、信濃飯田、そして信濃松本と、各地で城の修築や城下町の整備、法度の制定など、領国経営に尽力した。特に松本での治世は2年弱と短かったものの、領民からは善政を敷いたと評価されている。これは、旧領主の帰還に対する期待と、秀政自身の為政者としての資質が結実したものであろう。
しかし、その松本での治世も束の間、慶長20年(1615年)の大坂夏の陣において、徳川方として参戦し、嫡男・忠脩と共に天王寺・岡山の激戦の中で壮絶な戦死を遂げる。享年47。その最期に「信濃は…」と言い残したとされる逸話は、彼の生涯を貫いた故郷への想いと、主君への忠誠を象徴している。
小笠原秀政の生涯は、戦国時代の流動的な主従関係から、江戸時代のより固定化された封建秩序へと移行する過渡期を生きた武将の典型と言えるかもしれない。彼は、幾多の困難と変転を乗り越え、最終的には徳川家康への揺るぎない忠誠を貫くことで、自らの、そして一族の未来を切り開いた。その忠義は、大坂の陣における父子の壮絶な死によって最高潮に達し、その「父祖の勲功」は、江戸時代を通じて小笠原家の安泰を支える精神的支柱となった。彼の人生は、失われた名誉と故郷の回復への執念、そして激動の時代における主君への献身が織りなす、戦国武将の一つの生き様を鮮やかに示している。