本報告書は、日本の戦国時代から安土桃山時代にかけて活動した武将、小笠原貞種(おがさわら さだたね)の生涯と事績を、現存する史料に基づいて詳細に明らかにすることを目的とします。
ご提示いただいた概要、「小笠原家臣。長時の弟。諸国を流浪したあと、上杉景勝の後援で深志城を奪還。しかし、甥・貞慶が徳川家康の助力を得て信濃に入国すると、城を明け渡した」という情報に合致する人物、すなわち信濃国守護であった小笠原長時の弟であり、「洞雪斎(どうせつさい)」と称された人物に焦点を当てて調査を進めました。
歴史史料を紐解く上で、特に戦国時代のような動乱期においては、同姓同名の人物や、類似した名を持つ人物が多数存在するため、対象を明確に特定することが極めて重要となります。小笠原氏においても、「貞」の字を諱に持つ人物は多く、また「貞種」という名を持つ人物も複数確認されます。例えば、小笠原貞慶(長時の子、すなわち洞雪斎の甥)の子にも貞種という名の人物がおり 1 、また別の史料では、小笠原長棟の四男として1529年生まれの貞種の名も見られますが 1 、その事績は本報告書の中心人物である洞雪斎とは異なる点が見受けられます。したがって、本報告書では、小笠原長時の弟であり、後に「洞雪斎」あるいは「玄也」と称されることになる人物の生涯を追います。この明確化は、歴史研究における基礎的な手続きであり、特に複雑な家系や記録が錯綜しがちな戦国時代の人物を扱う際には不可欠です。
小笠原貞種は、その生涯において複数の呼称で記録されています。諱(いみな、実名)は「貞種」ですが、法号(ほうごう)または斎号(さいごう)として「洞雪斎」の名が広く知られています 2 。また、「玄也(げんや)」という名も用いられており 2 、「洞雪斎玄也」と併記されることもあります 2 。通称(つうしょう、日常的な呼び名)は「孫次郎(まごじろう)」または「孫二郎(まごじろう)」と伝えられています 2 。
戦国時代の武士が一つの実名以外に、通称、官途名、そして出家や特定の文化的活動に伴う法号や斎号など、複数の名を持つことは一般的でした。これらの名は、その人物の生涯の各段階や社会的立場を反映するものです。「洞雪斎」という号に含まれる「斎」の字は、禅宗の修行を積んだ者や茶人、連歌師といった風雅を好む文化人が用いることが多く 5 、これは貞種が単に武勇に優れた武人であっただけでなく、当時の武士階級が持っていた文化的素養の一端を担っていた可能性を示唆しています。本報告書では、文脈に応じてこれらの呼称を使い分けますが、主に「小笠原貞種(洞雪斎)」として記述します。
以下に、小笠原貞種の主要な呼称を整理します。
表1:小笠原貞種 – 主要な呼称と識別子
漢字表記 |
読み |
種別(諱、法号、通称など) |
典拠資料例 |
貞種 |
さだたね |
諱 |
2 |
洞雪斎 |
どうせつさい |
法号/斎号 |
2 |
玄也 |
げんや |
別名/通称 |
2 |
孫次郎/孫二郎 |
まごじろう |
通称 |
2 |
小笠原氏は、清和天皇を祖とする清和源氏の流れを汲む名門武家であり、鎌倉時代から信濃国(現在の長野県)に深く根を下ろし、勢力を拡大した一族です 3 。室町時代に入ると、信濃守護職を世襲し、名実ともに信濃国の支配者としての地位を確立しました。
小笠原貞種(洞雪斎)の父は、この府中小笠原氏の当主であった小笠原長棟(ながむね)です 2 。母は浦野弾正忠の娘とされています 2 。貞種の兄には、父長棟の跡を継いで信濃守護職に就いた小笠原長時(ながとき)がいます 2 。この長時が、後に武田信玄との戦いに敗れ、流浪の運命を辿ることになる人物です。長時、貞種の他にも、信定、清鑑、統虎といった兄弟がいたことが記録されています 2 。ある史料では、貞種を長棟の四男としています 1 。
貞種は、小笠原氏の本拠地の一つであった信濃国林城(現在の長野県松本市)で生まれたと伝えられています 2 。信濃守護という高い家格は、小笠原一族にとって大きな誇りであったと同時に、後の時代に武田氏によってその地位と領国を追われた際には、一族再興への強い執念を抱かせる要因となりました。彼らが流浪の身となった後も、三好氏や上杉氏といった当時の有力大名を頼ることができたのは、単に個人的な武勇や才覚だけでなく、小笠原家が代々築き上げてきた信濃守護家としての権威と、それに伴う広範な人脈が一定程度認められていたからに他なりません。有力大名側も、彼らを庇護下に置くことで、将来的な信濃経略における大義名分や、現地の旧小笠原家臣団との連携の足がかりとしての価値を見出していた可能性が考えられます。
小笠原貞種が生きた戦国時代の信濃国は、守護小笠原氏の権威が必ずしも盤石ではなく、村上氏、諏訪氏、木曾氏、仁科氏といった多くの国人領主が各地で割拠し、互いに勢力を競い合う複雑な情勢下にありました 1 。小笠原氏は信濃守護として名目上の最高権力者ではありましたが、これらの国人衆を完全に統制するには至らず、時には彼らとの間で激しい抗争を繰り広げることもありました。
さらに、小笠原一族内部においても、府中小笠原宗家と、伊那郡を本拠とする松尾小笠原家や鈴岡小笠原家といった分家との間で対立や抗争が絶えず、国内の統一は困難な状況でした 3 。このような不安定な情勢の中、隣国である甲斐国(現在の山梨県)において武田晴信(後の信玄)が父・信虎を追放して国主となると、武田氏による信濃への本格的な侵攻が開始されます。これにより、信濃守護であった小笠原氏は、その存亡をかけた直接的な脅威に晒されることとなり、貞種の人生もまた、この大きな歴史の渦に巻き込まれていくのです 3 。
甲斐の武田晴信(信玄)による信濃侵攻が本格化すると、信濃守護小笠原長時を中心とする小笠原一族は、その強大な軍事力の前に苦戦を強いられます。決定的な転機となったのは、天文17年(1548年)7月に起こった塩尻峠の戦いです。この戦いで小笠原長時軍は武田晴信軍に大敗を喫し、小笠原氏の信濃における勢力は大きく後退しました 13 。この敗戦は、単に一戦の勝敗に留まらず、小笠原氏の支配基盤を揺るがす深刻な打撃となりました。
そして天文19年(1550年)7月、ついに小笠原氏の本拠地であった林城が武田軍の攻撃により陥落します 3 。これにより、小笠原長時とその一族は、先祖代々の地である信濃からの退去を余儀なくされました。この時、弟である小笠原貞種(洞雪斎)も、兄・長時や、後に松本城主となる甥の小笠原貞慶(長時の三男)と共に、故郷を離れ、長い流浪の生活へと足を踏み入れたと考えられています 2 。塩尻峠での敗北と林城の失陥は、府中小笠原宗家にとって、単なる軍事的な敗北以上の意味を持っていました。それは、信濃における支配基盤の完全な喪失であり、家臣団の離散を招き、一族が再興をかけて各地を転々とする苦難の始まりを告げる出来事だったのです。この故郷喪失という共通体験は、貞種を含む小笠原一族のその後の行動理念、すなわち旧領回復への強い執念を形成し、他勢力との関わり方にも大きな影響を与えたと考えられます。
信濃を追われた小笠原長時、貞種、貞慶ら一族は、まず京都へ向かい、当時畿内において強大な勢力を誇っていた三好長慶を頼ったとされています 2 。三好氏は、小笠原一族の血を引くとも称しており 3 、この同族間の繋がりを頼ったものと考えられます。また、当時の京都は、各地から追われた武将や公家が集まる場所であり、再起を図るための情報収集や人脈形成の拠点でもありました。
この時期、兄の長時は室町幕府の将軍であった足利義輝に仕え、その特技である弓馬術礼法の指南役を務めたとも伝えられています 16 。このような活動を通じて、小笠原氏は中央政界との繋がりを保ち、信濃回復への機会を窺っていたのでしょう。
小笠原一族が三好氏の庇護下にあった永禄12年(1569年、一部史料では永禄10年/1567年1月6日とも 2 )、三好三人衆らが将軍足利義昭(当時は京都の本圀寺に滞在)を襲撃するという事件が発生しました(本圀寺の変)。この際、小笠原貞種(洞雪斎)も、兄の長時や甥の貞慶らと共に三好方としてこの戦いに加わりましたが、結果として三好方は敗退しました 2 。
この本圀寺の変への参加は、小笠原氏が単に三好氏の食客として身を寄せているだけでなく、その軍事行動に積極的に協力し、中央の政局にも深く関与しようとしていたことを示すものです。信濃という一地方の旧領回復という目標を達成するためには、中央政界の動向が無視できないという認識があり、そこで功績を挙げることによって、より強力な支援を得ようとする戦略的な意図があったことを示唆しています。
本圀寺の変の後、三好氏の勢力は次第に衰退し、代わって尾張の織田信長が急速に台頭してきます。このような中央政局の変化の中で、小笠原長時らは新たな頼先を求め、越後国(現在の新潟県)を本拠とする上杉謙信のもとへ身を寄せました 3 。上杉謙信は、信濃を巡って武田信玄と川中島で数度にわたる激闘を繰り広げており、同じく武田氏によって故郷を追われた小笠原氏にとって、信濃回復の望みを託すに足る有力な存在でした。
小笠原貞種(洞雪斎)も、兄・長時に従って、あるいはその前後で上杉氏に仕えるようになったと考えられます。後に天正壬午の乱において、謙信の後継者である上杉景勝から深志城奪還のための後援を受けることになる背景には、この時期に上杉氏との間に築かれた主従関係、あるいはそれに近い信頼関係があったと推測されます 2 。
天正10年(1582年)6月2日、織田信長が京都の本能寺において家臣の明智光秀に討たれるという衝撃的な事件(本能寺の変)が発生しました。この事件は、日本の歴史における大きな転換点となり、織田氏の支配下にあった広大な旧武田領、すなわち甲斐国や信濃国などは突如として主無き地となりました。これにより、徳川家康、北条氏直、そして上杉景勝といった周辺の有力大名たちは、この空白地帯の支配権を巡って激しい争奪戦を開始します。これが世に言う「天正壬午の乱」です 3 。
信濃国内もまた、この大変動によって大きな混乱に陥りました。旧領の回復を目指す者、新たな支配者に取り入って勢力の維持・拡大を図ろうとする者など、各地域の国人領主や武士たちがそれぞれの思惑で動き出し、まさに群雄割拠の様相を呈しました。小笠原貞種(洞雪斎)にとっても、この混乱は長年待ち望んだ旧領回復の千載一遇の好機と映ったことでしょう。
天正壬午の乱の勃発を受け、越後の上杉景勝は信濃における影響力を拡大すべく、迅速に行動を開始します。その戦略の一環として、かつて信濃守護であった小笠原氏の一族である小笠原貞種(洞雪斎)を支援し、信濃府中の要衝である深志城(現在の松本城)の奪還を試みました 3 。
当時、深志城は武田氏滅亡後、織田信長によって木曾義昌に与えられていましたが、信長の横死により、義昌の立場は極めて不安定なものとなっていました 19 。上杉景勝にとって、旧信濃守護家の一員である貞種を擁して深志城を攻略することは、軍事的な意味合いだけでなく、上杉氏の信濃進出における大義名分を確保し、現地の旧小笠原家臣団や国人衆の協力を得るための重要な布石でした。貞種は、いわば上杉方の信濃経略における旗頭としての役割を期待されたのです。
そして天正10年(1582年)6月下旬頃、小笠原貞種は上杉軍の強力な支援を受けて深志城を攻撃し、木曾義昌を城から追放して、一時的にではありますが、小笠原氏の旧本拠地の一つを掌握することに成功しました 19 。
小笠原貞種(洞雪斎)が上杉景勝の支援のもと深志城を奪還した直後、事態は新たな局面を迎えます。貞種の兄であり、府中小笠原氏の正統な家督継承者と目される小笠原長時の嫡男(貞種にとっては甥)、小笠原貞慶が、徳川家康の強力な後援を受けて信濃国に入国してきたのです 3 。
貞慶は、父・長時以来の旧臣たちを糾合し 3 、叔父である貞種が掌握する深志城に対して攻撃を開始しました 3 。『信濃史料』には、天正10年7月19日以前の出来事として、「小笠原貞慶、叔父同玄也貞種、を攻めて」という記述が見られ 24 、叔父と甥が深志城を巡って干戈を交えるという、一族内の骨肉の争いが展開されたことが記録されています。
この貞種と貞慶の対立は、単なる個人的な感情や家督を巡る争いに留まらず、より大きな構図の中で捉える必要があります。それは、小笠原家再興の主導権をどちらが握るかという問題であると同時に、信濃の覇権を争う上杉景勝と徳川家康という二大勢力の代理戦争の様相を色濃く呈していました。貞慶は、長時の嫡男としての正統性を前面に押し出し、徳川家康という新たな、そして強力な後ろ盾を得て旧領回復の実現を目指しました。一方の貞種は、上杉氏の支援という現実的な力を背景に、一足先に実力行使によって旧領回復を果たそうとしたのです。この争いの結果、徳川家康の支援を受けた貞慶が勝利を収めたことは、その後の小笠原氏が徳川体制下で大名として存続していく道筋を決定づける、極めて重要な出来事となりました。
天正10年(1582年)7月16日、あるいは7月中旬頃、甥である小笠原貞慶軍の攻撃を受けた小笠原貞種(洞雪斎)は、籠城戦の末か、あるいは戦況を利あらずと判断したのか、交渉によって深志城を貞慶に明け渡しました 2 。この開城に際しては、梶田氏や屋代氏といった武将たちも貞種と行動を共にしていたと記録されています 2 。これらの人物が上杉方の将兵であったとすれば、組織的な撤退が行われたことを示唆します。
この「交渉」の具体的な内容については、残念ながら詳細な史料に乏しく、推測の域を出ません。しかし、当時の状況を鑑みると、いくつかの要因が貞種にとって不利に働いたと考えられます。第一に、貞慶側は小笠原旧臣の多くから支持を得ており 3 、いわば「地元の支持」という点で優位に立っていました。第二に、貞慶の背後には徳川家康という、当時急速に勢力を伸長させていた大大名の存在があり、軍事的にも政治的にも強力な後ろ盾となっていました。
一方で、貞種を支援していた上杉景勝は、同時期に北信濃において北条氏直の大軍と対峙しており、さらに本国越後では重臣であった新発田重家の反乱への対処に追われるなど、複数の戦線を抱えていました 21 。このような状況下では、深志城の貞種に対して十分な後詰(援軍)を送る余裕がなかった可能性が高いと言えます。これらの複合的な要因が、貞種をして深志城を明け渡さざるを得ない状況に追い込んだと推測されます。開城の条件としては、貞種をはじめとする上杉方将兵の安全な退去などが取り決められたものと考えられます。
以下に、天正10年(1582年)における小笠原貞種と深志城に関連する主要な出来事を時系列で整理します。
表2:天正10年(1582年)における小笠原貞種と深志城関連年表
年月日(推定含む) |
出来事 |
主要関連人物 |
支援勢力 |
典拠資料例 |
天正10年6月2日 |
本能寺の変 |
織田信長、明智光秀 |
― |
一般史実 |
天正10年6月中旬 |
上杉景勝、北信濃の国衆へ調略を開始 |
上杉景勝 |
― |
21 |
天正10年6月下旬 |
小笠原貞種(洞雪斎)、上杉景勝の支援で深志城を木曾義昌から奪取 |
小笠原貞種、木曾義昌 |
上杉景勝 |
19 |
天正10年7月16日頃 |
小笠原貞慶、徳川家康の支援で深志城の貞種を攻撃。貞種は交渉の末に開城 |
小笠原貞慶、小笠原貞種 |
徳川家康 |
2 |
天正10年7月以降 |
小笠原貞慶、深志城を松本城と改名 |
小笠原貞慶 |
徳川家康 |
26 |
天正10年(1582年)7月、甥である小笠原貞慶に深志城を明け渡した後の小笠原貞種(洞雪斎)の具体的な動向については、史料が乏しく、不明な点が多く残されています。小笠原氏の家伝や一部の記録によれば、越後へ亡命した、あるいはその後の混乱の中で戦死したなどの説が伝えられています 2 。
しかし、より信頼性の高い史料からは、深志城を失った後も、貞種は引き続き上杉景勝の庇護下にあり、一定期間活動を続けていたことが確認されています。
深志城を明け渡した後も、小笠原貞種(洞雪斎、玄也とも)は上杉景勝のもとに身を寄せ、天正16年(1588年)頃まではその庇護下で活動していたことが、複数の史料によって示されています 2 。
特に注目されるのは、『信濃史料』に収録されている天正16年の記録です。これによれば、「小笠原玄也、洞雪斎、泉沢久秀に音信を送り、綸旨の使者の応待につき諭す」とあり 4 、貞種が上杉家の家臣である泉沢氏(泉沢久秀か)に対し、朝廷からの使者(綸旨を持参した使者)への対応について指示、あるいは助言を与えている様子がうかがえます。綸旨の応対は、儀礼的にも政治的にも非常に重要な任務であり、これを貞種が担当、もしくは関与していたという事実は、彼が単に上杉家に食客として身を寄せているだけでなく、依然としてその家中で一定の信頼と地位を保ち、重要な役割を担っていたことを示唆しています。彼の旧信濃守護家としての家格や、京都での生活経験で培われたであろう儀礼に関する知識、あるいは信濃の国人領主たちとの繋がりなどが、外交や儀礼といった場面で上杉家にとって有用であると評価され、活用されたのかもしれません。これは、貞種が単なる武将としての側面だけでなく、文化的な素養や政務に関わる能力も持ち合わせていた可能性を物語っており、その人物像に深みを与えます。
小笠原貞種(洞雪斎)の正確な没年については、残念ながら確たる史料は見当たりません。天正16年(1588年)の活動記録が、現時点では彼の動向を伝える最後の確実な情報となっています。一部の資料では、この天正16年(1588年)に没したとしていますが 2 、断定するには至っていません。また、別の史料に見られる「小笠原貞種 1529年~1587年」という記述 1 は、生年から考えても、本報告書の対象である洞雪斎とは別人であるか、あるいは情報が錯綜している可能性が高いと考えられます。
墓所については、兄である小笠原長時と同じく、福島県会津若松市にある大龍寺に存在するとされています 2 。大龍寺は、小笠原長時が創建に関わったと伝えられる寺院であり 27 、実際に長時とその妻、そして娘の墓も同寺に現存しています 28 。小笠原長時は、流浪の末に会津の蘆名氏を頼り、天正11年(1583年)に同地で亡くなりました 10 。
貞種がいつ会津の地に移ったのか、あるいは越後などで亡くなった後に遺骨などが兄の眠る大龍寺に葬られたのか、その経緯は明らかではありません。上杉景勝が後に会津へ移封されるのは慶長3年(1598年)であり、貞種の活動が見られなくなる天正16年(1588年)とは時間的な隔たりがあります。もし貞種が1588年頃に越後で亡くなったとすれば、何らかの理由で後に会津の兄の許へ改葬された可能性も考えられます。いずれにせよ、兄弟が同じ寺院に葬られているという事実は、戦国乱世に翻弄され、故郷を追われた小笠原一族にとって、会津の地が一つの終焉の場所となったことを象徴していると言えるでしょう。
小笠原貞種(洞雪斎)は、清和源氏の名門であり信濃守護を世襲した小笠原家に生まれながらも、戦国時代の激動の渦に巻き込まれ、故郷である信濃を追われるという運命を辿りました。兄である小笠原長時らと共に各地を流浪し、その半生は苦難に満ちたものであったと推察されます。
流浪の身となってからは、畿内の三好氏、そして越後の上杉氏といった当時の有力大名を頼り、一族再興と旧領回復の機会を粘り強く窺い続けました。天正壬午の乱という、織田信長の死によって生じた権力の空白期には、上杉景勝の後援という千載一遇の好機を得て、一時的にではありますが、かつての小笠原氏の本拠地の一つであった深志城を奪還するという目覚ましい働きを見せました。しかし、その喜びも束の間、徳川家康を後ろ盾とする甥の小笠原貞慶との間で争いとなり、結果として城を明け渡すことになりました。
その後も上杉氏の庇護下で活動を続けたことが史料から確認できますが、その最期に関する詳細は不明な点が多く、歴史の表舞台から静かに姿を消したかのように見えます。彼の生涯は、戦国時代において没落した名門一族の武将が、いかにして激動の時代を生き抜き、一縷の望みを繋いで再興を目指したかという、一つの典型的な姿を示していると言えるかもしれません。
小笠原貞種(洞雪斎)は、兄の小笠原長時や甥の小笠原貞慶(後の松本藩祖)ほど、歴史の表舞台で華々しい、あるいは大きな事績を残した人物として記録されているわけではありません。しかしながら、天正壬午の乱という信濃の歴史における重要な転換点において、深志城争奪戦の主要な当事者の一人として、無視できない確かな足跡を残しています。
彼の行動は、当時の信濃を巡る上杉氏と徳川氏という二大勢力の熾烈な勢力争いを如実に反映しており、その大きな力の狭間で翻弄されつつも、小笠原家再興の一翼を担おうとした人物として評価することができるでしょう。彼が上杉方の支援を得て一時的にでも深志城を回復したことは、小笠原氏の旧臣や信濃の民衆に対して、依然として小笠原氏の存在感を示すものであったと考えられます。
また、「洞雪斎」や「玄也」といった呼称、そして晩年に綸旨の応対に関与したとされる記録からは、単に武勇に優れた武人としての側面だけでなく、当時の武士として求められた一定の文化的素養や儀礼に関する知識も持ち合わせていた可能性がうかがえます。
史料的な制約から、彼の生涯の全貌や内面に迫ることは困難な部分も多いですが、その断片的な記録を繋ぎ合わせ、その生涯を追うことは、戦国時代という過酷な時代を生きた一人の武士の生き様や、中央の政局に翻弄される地方勢力の動向、そして名門意識を背負った一族の葛藤と希望を理解する上で、一つの貴重な示唆を与えてくれます。小笠原貞種のような、必ずしも歴史の主役とは言えない人物の生涯を丹念に掘り下げることによって、より多層的で深みのある戦国時代の歴史像が浮かび上がってくるのではないでしょうか。