本報告は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将、小笠原長時(おがさわら ながとき)の生涯を、その出自、武田信玄との抗争、流浪の生活、最期、そして文化的側面や人物像に至るまで、詳細かつ多角的に明らかにすることを目的とする。長時は永正十一年(1514年)に生まれ、天正十一年(1583年)に没した、信濃国(現在の長野県)の守護大名であった 1 。彼が生きた戦国時代は、室町幕府の権威が失墜し、守護大名の支配体制が揺らぎ、各地で実力を持つ者が台頭する「下剋上」の風潮が蔓延した激動の時代であった。
小笠原長時の生涯は、まさにこの時代の大きな転換期を象徴している。信濃守護という伝統的な権威を背景に持ちながらも、甲斐国(現在の山梨県)から急速に勢力を拡大した武田信玄という新しい時代の覇者との熾烈な争いに敗れ、故郷を追われることとなった 1 。その後の彼の人生は、各地の有力者を頼って再起を図る流浪の連続であり、旧体制の権威が実力主義の波に飲み込まれていく戦国時代の縮図とも言える。長時の苦難に満ちた道程は、伝統的秩序の崩壊と新たな秩序形成へと向かう時代のダイナミズムを色濃く反映しており、彼の生涯を追うことは、この変革期の歴史的意義を深く理解する上で極めて重要である。
小笠原氏の起源は、清和源氏の一流である甲斐源氏に遡る。その祖は源頼義の三男、新羅三郎義光とされ、鎌倉時代初期には、加賀美遠光の子である小笠原長清が甲斐国巨摩郡小笠原(現在の山梨県)に住んだことから小笠原姓を称するようになった 3 。長清は源頼朝に従って戦功を挙げ、弓馬の術に長けたことから頼朝の弓馬師範として重用されたと伝えられている 4 。この弓馬術と礼法は「小笠原流」として後世に大成され、武家社会における小笠原氏の権威の源泉の一つとなった 6 。
その後、小笠原氏は信濃国に土着し、徐々に勢力を拡大していった。中でも長時が属する府中小笠原氏は、信濃国府中(現在の松本市)の林城を本拠とし、代々信濃守護職を世襲する家柄として、信濃国内に大きな影響力を持った 2 。特に、安曇郡・筑摩郡を主要な支配領域とし、政治的・軍事的な中心勢力としての地位を確立していた 3 。
しかし、戦国時代に入ると、信濃国内では府中小笠原氏の他にも、伊那郡の松尾小笠原氏や鈴岡小笠原氏といった分家が割拠し、必ずしも一枚岩の体制ではなかった 8 。これらの分家間では時に対立や勢力争いが生じることもあり、府中小笠原氏による信濃国内の完全な統制を困難にする要因ともなっていた 8 。このような一族内部の複雑な権力構造は、後に武田氏のような外部勢力の侵攻に対して、信濃国人衆が一致団結して抵抗体制を築く上での潜在的な障害となった可能性が考えられる。小笠原氏が代々継承してきた弓馬術礼法という文化資本は、武家社会における彼らの格式とアイデンティティを支える重要な要素であったが、実力主義が支配する戦国乱世においては、この伝統的権威だけでは領国を防衛し、勢力を維持するには限界があったことを、長時のその後の運命は示唆している。
小笠原長時は、永正十一年十月二十三日(1514年11月9日)、信濃守護・小笠原長棟の長男として府中林城で生誕した 1 。幼名は豊松丸と伝えられている 2 。母は浦野弾正忠の娘であった 2 。大永六年(1526年)十一月五日、13歳で元服し、又二郎、右馬助などと称した 1 。
長時が家督を相続したのは、天文十年(1541年)、父である長棟が出家したことに伴うものであったと見られている 1 。この頃、信濃国は依然として多くの国人領主が割拠する状態にあり、隣国の甲斐では武田晴信(後の信玄)が父・信虎を追放して国主となり、信濃への侵攻を本格化させようとしていた時期であった。信濃国内の有力者としては、北信の村上義清や諏訪郡の諏訪頼重などが存在し、小笠原氏もこれらの勢力と時には連携し、時には対立しながら、信濃守護としての地位を維持しようと努めていた 7 。長時の家督相続は、まさに信濃国内が不安定化し、武田氏という外部からの強大な圧力が現実的な脅威となりつつある、極めて困難な時期に行われたのである。若くして信濃守護家の当主となった長時が背負った重圧は、計り知れないものがあったと推察される。
天文十年(1541年)に家督を相続した武田晴信は、国内の統一を果たすと、本格的に信濃への侵攻を開始した。その戦略は巧みであり、まず諏訪頼重を攻略して諏訪郡を制圧し、次いで伊那郡へと進出するなど、段階的に信濃への圧力を強めていった 1 。この武田氏の急速な台頭に対し、小笠原長時は信濃守護として危機感を募らせ、北信の村上義清やその他の信濃国人衆と連携し、反武田の連合戦線を形成しようと試みた 1 。長時の娘婿である藤沢頼親などもこの動きに加わったとされる 13 。
しかし、信濃国人衆はそれぞれが独立した勢力であり、必ずしも一枚岩ではなかった。武田信玄は巧みな外交戦略と軍事力によって国人衆を分断し、各個撃破する戦術を用いた。諏訪氏のように早期に武田氏に屈した勢力もあれば、最後まで抵抗を続ける勢力もあったが、旧来の対立関係や各々の利害が絡み合い、有効かつ持続的な連合体制を構築することは困難であった。長時の守護としての求心力も、これらの国人衆を完全に束ね、武田氏の侵攻を阻止するには至らなかった可能性が高い。武田氏という共通の脅威を前にしながらも、信濃内部の足並みの乱れは、結果として武田氏による信濃制覇を容易にする一因となった。
武田晴信の信濃侵攻が激化する中、天文十七年(1548年)七月、小笠原長時と武田晴信は塩尻峠(現在の長野県塩尻市と岡谷市の境)で激突した。この戦いに先立ち、武田軍は上田原の戦いで村上義清に敗北を喫しており、その隙を突く形で小笠原長時は諏訪郡へ進出した 14 。小笠原軍の兵力は5000、対する武田軍は3000であったと伝えられ、兵力的には小笠原方が優位にあった 14 。
しかし、戦いの結果は小笠原軍の大敗に終わった。その敗因としては、複数の要因が指摘されている。武田晴信は意図的に行軍を遅らせることで小笠原軍を油断させ、七月十九日の早朝、小笠原方が武具を解いて休息し、多くが就寝中であったところを奇襲した 14 。不意を突かれた小笠原軍は組織的な抵抗ができず、総崩れとなった。さらに、この戦いでは山辺氏、西牧氏、三村氏といった小笠原方の家臣が武田方に寝返るという裏切りも発生し、敗北を決定的なものとした 9 。この敗戦で小笠原軍は1000人もの戦死者を出し、長時は辛うじて本拠地である林城へと逃れた 14 。
塩尻峠での大敗は、小笠原長時にとって致命的な打撃となった。この敗戦の傷跡は深く、家中統制の脆さが露呈した。武田軍の追撃は厳しく、天文十九年(1550年)七月には、長時はついに本拠地である林城を放棄せざるを得なくなり、信濃からの逃亡を余儀なくされた 1 。これにより、信濃守護としての小笠原氏の権威は完全に失墜し、大名としての小笠原氏は一時的に滅亡したと評されるほどの事態となった 5 。林城の失陥は単に一拠点を失った以上の意味を持ち、長時のその後の数十年にわたる流浪の生活の直接的な原因となったのである。
林城を失い、信濃を追われた小笠原長時であったが、なおも旧領回復の望みを捨ててはいなかった。塩尻峠の敗戦から5年後の天文二十二年(1553年)五月七日、長時は武田晴信と桔梗ヶ原(現在の長野県塩尻市)で再び相見えることとなった 16 。この戦いは、おそらく村上義清など他の反武田勢力との連携のもと、信濃奪還を目指した長時の抵抗の一環であったと考えられる。
しかし、この桔梗ヶ原の戦いにおいても、長時は武田軍に対して決定的な勝利を収めることはできなかった。この戦いの詳細な戦況や結果については史料が乏しいものの、この戦いを境に、長時による信濃国内での組織的な抵抗は事実上終焉を迎えたと見られる。自力での旧領回復が絶望的であることを悟った長時は、これ以降、越後の長尾景虎(後の上杉謙信)など、より強力な外部勢力への依存を深めていくこととなる。桔梗ヶ原の戦いは、長時にとって信濃奪還の夢がさらに遠のいた戦いであったと言えよう。
信濃を追われた小笠原長時は、まず同じく武田信玄の圧迫を受けていた北信濃の雄、村上義清を頼った 1 。しかし、村上義清もまた武田軍の攻勢に抗しきれず、両者は共に越後国(現在の新潟県)の長尾景虎(後の上杉謙信)の庇護を求めることとなった 3 。景虎は当時まだ若年であったが、その器量を見抜き、長時らを快く迎え入れたとされる 7 。
上杉謙信(景虎)は、長時が信濃守護という名門の出であること、そして小笠原家に伝わる弓馬術礼法に深い敬意を払ったと伝えられている 7 。長時自身も、流浪の身でありながら武術の鍛錬を怠らず、その弓術は謙信からも称賛されたという 7 。謙信にとって、信濃守護であった長時を庇護することは、武田信玄による信濃支配の不当性を訴え、自らの信濃介入を正当化する上で政治的な意味合いを持っていた。また、長時の持つ小笠原流の権威は、謙信自身の武名や文化的な高さを内外に示す上でも利用価値があったと考えられる。一方、長時にとって謙信の強大な武力は、失った信濃を回復するための唯一の希望であった。両者の関係は、このような互いの利害の一致の上に成り立っていたと言えるだろう。長時は、拠点を失ってもなお、小笠原流の宗家としての誇りを精神的な支柱とし、この試練を乗り越えることで、その技と精神がより強く、より深いものになると信じていた 7 。
越後で上杉謙信の庇護を受けていた小笠原長時であったが、信濃回復への道が容易に開けない中、新たな支援者を求めて上洛する。当時、畿内で強大な勢力を誇っていたのは三好長慶であり、長時は同族(阿波小笠原氏の系統とされる)の誼を頼って長慶の元に身を寄せた 1 。長時は摂津芥川城などに滞在したと記録されている 3 。
京において長時は、室町幕府第十三代将軍・足利義輝に接近し、その騎馬指南役を務めたとされる 1 。これは名誉ある役職ではあったが、当時の幕府権力は既に弱体化しており、将軍の権威を利用して信濃回復を試みたものの、実質的な兵力支援を得るには至らなかった。長時は、将軍義輝や上杉謙信を介して故郷への帰還を画策したが、これらの試みはことごとく失敗に終わった 3 。高槻市の本山寺に残る記録によれば、長時は信濃への帰国が叶うよう祈祷を依頼しており、また同時期に足利義輝が上杉謙信に対し、長時の帰国を助けるよう命じる書状を発給していたことが確認されている 19 。これは、長時が中央の権威と地方の有力者の双方に働きかけ、多方面から帰国への道筋を探っていたことを示しているが、当時の複雑な政治状況の中で、その悲願が達成されることはなかった。三好長慶自身も、松永久秀の台頭や内部抗争、対立勢力との戦いに明け暮れており、遠く信濃の問題にまで手が回らなかったのが実情であったろう。
永禄七年(1564年)に三好長慶が病死し、その後三好氏は内紛や織田信長の台頭により急速に勢力を失っていく。永禄十一年(1568年)、織田信長が足利義昭を奉じて上洛を果たすと、三好三人衆らは駆逐され、長時もまた新たな庇護者を求めて再び越後の上杉謙信のもとへ身を寄せたとされる 1 。
しかし、頼みとしていた上杉謙信も天正六年(1578年)に急死する。これにより、長時は再び流浪の身となり、諸国を遍歴した。天正八年(1581年)には、当時天下統一を目前にしていた織田信長に一時的に迎えられ、信濃の名義上の旗頭として利用された 2 。この時期、長時は信長の京都で行われた大規模な軍事パレードである御馬揃えにも、公家衆の一人として参加している 2 。これは、信長が旧来の権威を利用しつつ自らの支配の正当性を補強しようとする戦略の一環であり、長時にとっては一縷の望みであったかもしれないが、実質的な力を伴うものではなかった。
最終的に長時は、陸奥国会津(現在の福島県)の戦国大名・蘆名盛氏の客分として迎えられることとなる 1 。盛氏のもとで長時は厚遇され、時には軍師として戦略面で盛氏の支援を担当したとも伝えられている 2 。長年培ってきた武家故実や戦略に関する知識が、晩年に至っても一定の評価を得ていたことを示唆しているが、それはあくまで客将としての立場であり、自らの領国を持つ大名としての地位を取り戻すには至らなかった。長時の生涯は、有力者の盛衰に大きく左右される、まさに戦国時代の流転そのものであった。
父・長時が流浪の苦難を重ねる一方、その三男である小笠原貞慶(幼名・小僧丸、通称・喜三郎)は、父とは異なる道を歩んでいた 20 。貞慶は早くから父と別行動をとり、織田信長に仕えた後、本能寺の変後は徳川家康に臣従した 2 。そして天正十年(1582年)、武田氏が織田信長によって滅ぼされると、この混乱に乗じて家康の後援を得て、父祖伝来の旧領である信濃府中深志城(現在の松本城)を回復することに成功したのである 1 。実に30年以上の歳月を経て、小笠原氏は故郷の地を取り戻した。
この時、貞慶は喜びのあまり「待つこと久しくして、本懐を遂ぐ!」と叫んだと伝えられ、この「待つ」「本懐」から「松本」という地名が生まれたという逸話も残っている 20 。深志城は松本城と改称され、小笠原氏による新たな統治が始まった。貞慶の旧領回復は、父・長時の長年の悲願の達成であり、小笠原家再興の象徴的な出来事であった。しかし、それは長時自身の力ではなく、息子が新たな時代の覇者たちに巧みに取り入ることで実現したものであった。これは、戦国時代における武家の生き残り戦略が、伝統的権威への固執から、新興勢力への現実的な順応へと変化していったことを示唆している。
三男・貞慶による旧領回復の報は、遠く会津にいた父・長時のもとへもたらされた。長年の悲願が成就したことを知り、長時もまた信濃への帰還準備を進めていたとされる 1 。しかし、その夢が叶う寸前、天正十一年(1583年)二月二十五日、長時は会津若松で波乱に満ちた生涯を閉じた。享年70であった 1 。
その死因については、病死説も皆無ではないが、多くの史料が家臣による暗殺説を伝えている 1 。それによれば、長時は蘆名氏の重臣である富田氏実の邸宅で催された酒宴の席で、自らの家臣である坂西勝三郎(さかにし かつさぶろう)の妻に対して何らかの性的な嫌がらせを行ったという。これに激怒した坂西勝三郎が抜刀し、長時とその妻、さらには娘までも斬り殺したとされている 2 。坂西勝三郎はその後逃走を図ったが、蘆名家の追手によって討ち取られたという 2 。この事件について、林哲氏は、長時が酒に酩酊しており、坂西が長時の言動を拡大解釈、あるいは勘違いした可能性も指摘している 2 。
長時の最期が暗殺であったとすれば、それは彼の人生の悲劇性を一層際立たせる。故郷への帰還を目前にしての非業の死は、運命の皮肉と言わざるを得ない。また、暗殺の原因とされる行為が事実であれば、弓馬術礼法の宗家としての品格とはかけ離れた側面があった可能性も示唆し、人物像の多面性を浮き彫りにする。坂西勝三郎の行動は、主君の不当な行いに対する怒りという側面と、あるいは酒席での偶発的な事件という側面の両方から解釈の余地があるが、いずれにせよ、この事件は当時の主従関係の緊張や、客将という不安定な立場にあった長時の周囲の人間関係の複雑さを示唆しているのかもしれない。
長時の墓所は、福島県会津若松市の大龍寺にあり、法名は長時院殿麒翁正麟大居士などと伝えられている 2 。
小笠原長時は、同時代の史料や後世の編纂物において、「信濃四大将」の一人に数えられることがある 2 。これは、彼が信濃守護家の当主として一定の勢力と名声を有していたことを示すものであろう。しかし、その武将としての実力については、評価が分かれるところである。
特に、甲斐の武田信玄との一連の戦いにおいては、塩尻峠での大敗をはじめとして、戦略・戦術面での見劣りが指摘されることが多い。「戦国大名に脱皮できないまま信玄に敗れた」 3 、「信玄と戦ったことで実態以上に高く評価されることも多い」 3 といった厳しい評価も存在する。これは、長時が伝統的な守護としての権威に依存し、実力主義が支配する戦国時代の新たな統治・軍事システムへの適応が遅れたことを示唆している。家中統制の甘さや、合戦における状況判断の誤りなども、敗北を重ねた要因として挙げられよう。彼の武将としての評価は、伝統的権威と戦国的実力の狭間で揺れ動き、結果として時代の変化に対応しきれなかった悲劇の将としての側面が強いと言える。
武将としての評価が複雑である一方、小笠原長時は文化的な側面、特に小笠原流弓馬術礼法の継承者として重要な位置を占めている。長時は小笠原流の宗家であり 2 、その伝統を深く重んじ、流浪の身にあっても武術の鍛錬を怠らず、その姿勢は上杉謙信からも称賛されたと伝えられている 7 。彼はまた、若者たちを指導する中で、小笠原流の本質を見つめ直し、どのような状況下でも武士としての誇りを保ち続けることこそが真の教えであると悟ったという 7 。
戦国時代の小笠原長時・貞慶父子による故実研究は、小笠原流礼法の一系統を形成し、各地に広がる基礎となったとされる 6 。特に江戸時代初期に活躍した水島卜也(みずしま ぼくや)の系統は、民間をはじめ武家社会にも広く普及したが、その伝書の系譜の多くが長時を初代としていることは注目に値する 6 。これは、長時が困難な時代にあって伝統を保持・研究した人物として、後世の礼法家たちから認識されていたことを示唆している。
長時の著作として「小笠原家礼書」の名が挙げられることがあるが 3 、その具体的な内容や現存状況については詳細な研究が待たれる。小笠原家においては、父から子への礼法伝授が極めて厳格に行われたことを示す逸話も残っており 26 、伝統継承への強い意識がうかがえる。長時にとって小笠原流は、単なる武技や作法ではなく、失った領国に代わる精神的支柱であり、アイデンティティそのものであった可能性が高い。彼が流浪中もこれを広めようとした行動は、家の伝統を後世に伝え、小笠原家の存在意義を再確認する行為だったと考えられる。
小笠原長時の人物像を具体的に示す直接的な逸話は多く残されているわけではないが、いくつかの記録からその人となりを垣間見ることができる。
晩年に身を寄せた会津の蘆名盛氏のもとでは厚遇され、軍師的な役割を担ったとも伝えられている 2 。これは、長年の経験や武家故実に関する深い知識が、依然として高く評価されていたことを示している。単に敗軍の将としてではなく、知的な側面を持つ教養人としての一面がうかがえる。
また、長時自身の直接の逸話ではないが、長時の家臣であった犬甘氏の記録「犬甘代々古老夜話集」には、興味深い話が残されている。それは、長時の弟・信貞の子で家臣であった小笠原長継の妻・安貞が、信濃を没落する際に、幼子を抱きながらも下女に鉄砲を持たせ、追ってきた敵に対して馬上から鉄砲を二発放って撃退したというものである 27 。この逸話は、当時の小笠原家関係者の気概や、鉄砲という新しい武器が既に戦いの場で使用されていた状況を示すものであり、長時が置かれていた時代の武家の現実の一端を伝えている。
さらに、上杉謙信との交流の中で見せた礼節を重んじる姿勢や、困難な状況下でも武士としての誇りを失わなかった精神性 7 などは、彼が小笠原流の伝統を体現しようとしていたことを示している。これらの断片的な情報からは、伝統を重んじる一方で、時代の激流に翻弄され、時には人間的な弱さも見せた複雑な人物像が浮かび上がってくる。
小笠原長時の生涯は、信濃守護という名門の栄光に始まり、戦国最強と謳われた武田信玄との熾烈な抗争による失墜、そして数十年に及ぶ流浪の生活を経て、故郷回復を目前にしながら会津の地で非業の最期を遂げるという、波乱に満ちたものであった。
歴史における長時の位置づけは多面的である。彼は、室町時代から続く守護大名という伝統的権威の終焉を象徴する人物の一人であり、実力主義が支配する戦国時代の変革期に翻弄された武将であった。武田信玄という圧倒的な力の前に敗れ去ったことは、武将としての限界を示すものであったかもしれない。しかし同時に、彼は小笠原流弓馬術礼法という武家文化の重要な担い手であり、その継承と研究に生涯を通じて関わった。彼が守ろうとしたこの文化は、形を変えながらも後世に受け継がれ、小笠原家の名を不朽のものとする一助となった。
長時自身は故郷の土を踏むことなく生涯を終えたが、その遺志を継いだ三男・貞慶が徳川家康の後援を得て旧領を回復し、小笠原家は近世大名として存続することになった 1 。これは、長時の苦難に満ちた生涯が、結果として家の再興に繋がったという逆説的な側面を示している。
小笠原長時の生涯は、個人の力では抗しきれない時代の大きな流れと、その中でいかにして家の名誉や伝統を守り抜こうとしたかという、一人の武士の苦闘の物語として捉えることができる。彼の失敗は戦国時代における適者生存の厳しさを示す一方で、彼が守ろうとした文化や伝統の持つ永続性について、我々に深く考えさせるものがある。
年代 (西暦) |
和暦 |
年齢 |
主要な出来事 |
典拠 |
1514年 |
永正11年10月23日 |
0歳 |
信濃国府中林城にて小笠原長棟の長男として生誕。幼名、豊松丸。 |
1 |
1526年 |
大永6年11月5日 |
13歳 |
元服。 |
1 |
1541年頃 |
天文10年頃 |
28歳 |
父・長棟の出家に伴い家督を相続し、信濃守護となる。 |
1 |
1548年 |
天文17年7月19日 |
35歳 |
塩尻峠の戦いで武田晴信(信玄)軍に大敗。 |
1 |
1550年頃 |
天文19年頃 |
37歳 |
武田軍の攻勢により本拠地・林城を失い、信濃を追われる。村上義清を頼る。 |
1 |
1551年頃 |
天文20年頃 |
38歳 |
村上義清と共に越後の長尾景虎(上杉謙信)を頼る。 |
1 |
1553年 |
天文22年5月7日 |
40歳 |
桔梗ヶ原にて武田晴信と戦う。 |
16 |
時期不詳(謙信臣従後) |
- |
- |
上洛し、三好長慶を頼る。将軍足利義輝の騎馬指南役を務める。 |
1 |
1568年頃 |
永禄11年頃 |
55歳 |
三好氏の勢力後退後、再び上杉謙信を頼る。 |
1 |
1578年(謙信死後) |
天正6年以降 |
65歳~ |
再び流浪。 |
1 |
1581年 |
天正8年 |
68歳 |
織田信長に迎えられ、京都御馬揃えに参加。 |
2 |
時期不詳(信長客分後) |
- |
- |
会津の蘆名盛氏の客分となる。 |
1 |
1582年 |
天正10年 |
69歳 |
三男・貞慶が徳川家康の後援で旧領・深志城を回復。 |
1 |
1583年 |
天正11年2月25日 |
70歳 |
会津若松にて死去。家臣・坂西勝三郎による暗殺説が有力。 |
1 |
氏名 |
長時との関係性 |
関わりの概要 |
典拠 |
小笠原長棟 |
父 |
信濃守護。長棟の出家に伴い、長時が家督を相続。 |
1 |
浦野弾正忠の娘 |
母 |
長時の生母。 |
2 |
仁科盛能の娘 |
正室 |
長時の妻。 |
2 |
小笠原長隆 |
長男 |
|
1 |
小笠原貞次 |
次男 |
|
1 |
小笠原貞慶 |
三男 |
父とは別に織田信長・徳川家康に仕え、武田氏滅亡後に旧領・深志城を回復。 |
1 |
武田晴信(信玄) |
敵対者 |
甲斐の戦国大名。信濃侵攻を進め、塩尻峠の戦いなどで長時を破り、信濃から追放。 |
1 |
村上義清 |
同盟者、庇護者 |
北信濃の有力国人。武田信玄に対抗するため長時と同盟。長時が信濃を追われた際に一時的に庇護。 |
1 |
長尾景虎(上杉謙信) |
庇護者、主君 |
越後の戦国大名。信濃を追われた長時を庇護。長時は謙信のもとで信濃回復を目指す。 |
1 |
三好長慶 |
庇護者、同族(説あり) |
畿内の有力大名。上洛した長時を一時庇護。阿波小笠原氏の系統とされる。 |
1 |
足利義輝 |
主君(形式的) |
室町幕府第13代将軍。長時は義輝の騎馬指南役を務めた。 |
1 |
織田信長 |
主君(一時的) |
天下人。長時を一時的に客分として迎え、信濃の名義上の旗頭として利用。 |
2 |
蘆名盛氏 |
庇護者 |
会津の戦国大名。晩年の長時を客分として厚遇。 |
1 |
坂西勝三郎 |
家臣、暗殺者(説あり) |
長時の家臣。酒宴の席での妻への不始末に激怒し、長時夫妻らを斬殺したとされる。 |
1 |