小野寺康通は出羽の戦国大名・小野寺氏の武将。関ヶ原で西軍に与し、大森城攻防戦で奮戦するも、戦後改易され石見津和野へ配流。兄・義道に先立ち津和野で死去。その子孫は津和野藩士として存続した。
戦国乱世の終焉を告げる関ヶ原の戦い。その勝敗は、日本全国の大名家の運命を劇的に変えた。東北の出羽国に勢力を誇った名門・小野寺氏もまた、西軍に与したことで改易の憂き目に遭い、歴史の表舞台から姿を消した一族である。その最後の当主・小野寺義道の影に隠れ、多くを語られることのない一人の武将がいた。義道の弟、小野寺康通である。
康通の名は、兄に従い、関ヶ原合戦で西軍に加担し、戦後、石見国津和野へ配流されたという断片的な事実と共に伝えられるに過ぎない。しかし、散逸した史料を丹念に繋ぎ合わせる時、そこには一族の存亡を賭した「慶長出羽合戦」において獅子奮迅の働きを見せ、敗者として流された地でも武士としての矜持を失わなかった、実直な武将の姿が浮かび上がる。
本報告書は、康通の父・景道が築いた小野寺氏の全盛期から、兄・義道の時代の苦難、そして康通自身の戦いと晩年に至るまでを、現存する史料に基づき詳細に追跡する。特に、彼の生涯における最大の舞台となった出羽「大森城攻防戦」の戦術的意義、そして配流先である石見津和野での生活実態を深く掘り下げることで、歴史の片隅に追いやられがちな一武将の生涯を多角的に再評価し、その実像に迫ることを目的とする。
小野寺一族の歴史は、平安時代後期にまで遡る。藤原秀郷の流れを汲む山内首藤氏の庶流とされ、その名の起こりは下野国都賀郡小野寺保(現在の栃木県栃木市岩舟町小野寺)を本貫としたことに由来する 1 。文治5年(1189年)の奥州合戦において、源頼朝方として戦功を挙げた小野寺道綱が、恩賞として出羽国雄勝郡などの地頭職を与えられたことで、一族は東北の地に確固たる足掛かりを築いた 2 。
鎌倉時代を通じて幕府御家人として重きをなした小野寺氏は、南北朝の動乱期には出羽へ本格的に移住。室町時代に入ると、関東公方の支配に反発する他の有力国人と同様に、足利将軍家直属の奉公衆である「京都御扶持衆」となり、中央権力との直接的な結びつきを保ちながら地域での勢力を伸張させた 2 。歴代当主が将軍から「偏諱」(名前の一字を賜ること)を授かっている事実は、彼らが奥羽の地にありながらも、常に中央の権威を意識し、それを自らの権威付けに利用していたことを示している 2 。
小野寺氏がその最盛期を迎えたのは、康通の父である第13代当主・小野寺景道(かげみち、初名は輝道)の時代であった 7 。景道は天文15年(1546年)、家臣であった大和田光盛らの謀反(平城の乱)によって父・稙道を殺害され、一時は庄内(現在の山形県庄内地方)の大宝寺氏のもとへ逃れるという苦難を経験する 5 。しかし、大宝寺氏や由利郡の諸氏、そして小野寺一門の支援を得て数年後に勢力を回復。謀反者らを討ち滅ぼし、本拠地を従来の稲庭城や沼館城から、より戦略的価値の高い横手盆地の中心、横手城(朝倉城)へと移した 5 。景道は巧みな婚姻政策と軍事行動によって周辺豪族を巧みに従え、出羽国の仙北三郡(平鹿、雄勝、仙北)にまたがる広大な版図を確立し、小野寺氏の黄金時代を築き上げたのである 3 。
小野寺康通は、この栄華のただ中で、景道の三男として生を受けた 7 。彼には、家督を継ぐはずであったが早世した長兄・光道、そして父の跡を継いで第14代当主となる次兄・義道がいた。また、弟には後に吉田館主となる陳道(のぶみち)がいた 7 。一族が勢力を拡大する中で、康通は分家として平鹿郡の要衝である大森城の城主となり、小野寺領の西方の守りを担うこととなった 1 。
天正11年(1583年)頃、父・景道の隠居に伴い、次兄の義道が家督を相続した 12 。永禄9年(1566年)生まれの義道は 13 、武勇に優れた武将であったと伝えられる一方で、史料の多くは彼を「知略に乏しい」「思慮が浅い」と評している 12 。この将器の評価は、その後の小野寺氏の運命に暗い影を落とすことになる。
義道の時代、小野寺氏を取り巻く環境は厳しさを増していた。南からは「出羽の驍将」最上義光が執拗に領地を蚕食し、支配下にあった鮭延城主・鮭延秀綱の離反を招くなど 8 、父・景道が築き上げた勢力圏は徐々に切り崩されていった 3 。
天正18年(1590年)、豊臣秀吉による小田原征伐に参陣した義道は、所領を安堵され、豊臣大名として生き残る道を得る 12 。しかし、その直後に領内で発生した「仙北一揆」の責任を問われ、所領の3分の1を没収されるという手痛い処分を受けた 8 。この時、一族にとって父祖伝来の地であった雄勝郡が最上氏の所領とされたことは、両者の間に拭い去れない遺恨を残し、後の破滅的な決断へと繋がる伏線となった 12 。
こうした外患に加え、小野寺氏は致命的な内憂にも見舞われる。文禄4年(1595年)、最上義光の巧妙な謀略に嵌った義道は、家中随一の知謀の将と謳われた重臣・八柏道為(やがしわみちため)を、最上氏への内通を疑い誅殺してしまう 7 。自らの手で最も有能な家臣を葬り去ったこの事件は、小野寺氏の弱体化を決定的なものとした。
この一連の経緯を俯瞰すると、当主である兄・義道と、大森城主であった弟・康通の対照的な役割が浮かび上がってくる。義道が当主として中央政権との折衝や最上氏との大局的な争いといった政治的・戦略的課題に直面し、結果として失策を重ねていく一方で、康通は一貫して大森城という軍事拠点を守る実務的な役割に徹していた。いわば、義道が家中全体を率いる「政務担当」として苦悩する中、康通は領国西方の防衛最前線を担う「実務担当」として、着実にその責務を果たしていたのである。この兄弟間の機能分化こそが、後の慶長出羽合戦において、義道の戦略的判断と康通の戦術的武功という、記録に残る両者の姿の差異を生んだと考えられる。
人物名 |
生没年 |
康通との関係 |
主要な事績・備考 |
関連資料 |
小野寺景道(輝道) |
1534年-1597年 |
父 |
小野寺氏の最盛期を築く。横手城主。 |
7 |
小野寺義道 |
1566年-1645年 |
兄(次男) |
小野寺氏最後の当主。横手城主。康通と共に津和野へ配流。 |
12 |
小野寺光道 |
不明-1590年頃 |
兄(長男) |
嫡男であったが、家督相続前に早世。 |
7 |
小野寺陳道(秀道) |
不明 |
弟(末子) |
吉田館主。関ヶ原後、南部藩に仕える。 |
2 |
最上義光 |
1546年-1614年 |
宿敵 |
出羽山形城主。小野寺氏と激しく対立し、その没落を招いた。 |
12 |
坂崎直盛 |
不明-1616年 |
預かり先の藩主 |
初代津和野藩主。関ヶ原の戦後、小野寺兄弟を預かる。 |
2 |
亀井政矩 |
1590年-1619年 |
預かり先の藩主 |
坂崎氏改易後の津和野藩主。引き続き小野寺兄弟を預かる。 |
2 |
慶長5年(1600年)、豊臣秀吉の死後に顕在化した徳川家康と石田三成の対立は、天下分け目の関ヶ原の戦いへと発展した。この大乱は、遠く離れた出羽の地にも「慶長出羽合戦」として飛び火し、小野寺氏に最後の決断を迫ることになる。
当初、小野寺義道は、出羽の他の諸大名と同様に東軍(徳川方)に与し、家康による会津の上杉景勝征伐に参加する姿勢を見せていた 14 。しかし、家康が石田三成挙兵の報を受けて軍を西へ反転させると、上杉家家老・直江兼続がその隙を突いて最上領への大々的な侵攻を開始する。この状況を目の当たりにした義道は、突如として東軍を離反し、上杉方に味方するという大きな賭けに出た 12 。
この寝返りの背景には、単なる戦況判断だけではない、積年の思いが複雑に絡み合っていた。第一に、出羽における東軍の総大将が、長年にわたり領地を削られ、謀略によって重臣を失わされた宿敵・最上義光であったことへの強い反発があった 12 。第二に、最上氏が上杉軍の猛攻に晒されているこの状況は、かつて太閤検地で没収された父祖伝来の地・雄勝郡を奪還する、またとない好機と映ったのである 14 。そして第三に、眼前の強大な上杉軍がこの地域の覇権を握るであろうという、地政学的な判断も働いたと考えられる。
こうして西軍に転じた義道は、自ら軍を率いて最上方の湯沢城を包囲攻撃する 14 。しかし、城将・楯岡満茂の巧みな防戦の前に攻めあぐね、戦線は膠着状態に陥った 18 。義道が旧領回復の夢を追いかけている間に、美濃関ヶ原では、わずか半日で東軍の圧倒的勝利という形で雌雄が決していたのである。
関ヶ原での西軍敗北の報は、出羽の戦況を一変させた。頼みの上杉軍は米沢へ撤退を開始し、西軍に与した小野寺氏は完全に孤立無援となった。好機と見た最上義光は、秋田実季や由利衆らと連合軍を組織し、小野寺領への総攻撃を開始した 12 。
東軍の反攻の主目標の一つとなったのが、康通が守る大森城であった。清水義親を大将とする最上・秋田・由利連合軍は、その数一万余と伝えられ、小野寺領の西の玄関口である大森城へと殺到した 12 。対する康通の城兵は、わずか800人。絶望的な兵力差であった 20 。
しかし、康通はこの窮地において、一人の武将として生涯最高の輝きを放つ。城内に敵兵がなだれ込むほどの激戦が繰り広げられる中、城主である康通は自ら大長刀を手に取って先頭に立ち、敵兵を斬り伏せ、押し返したという 12 。その鬼神の如き奮戦は城兵の士気を大いに鼓舞し、兄・義道や弟・陳道の援軍も駆けつけたことで、ついに東軍を撃退することに成功する 12 。伝承によれば、城内の女たちまでもが石を投げて応戦したとされ、まさに城を挙げた必死の防戦であった 20 。
一部の記録には「大森落城」との記述も見られるが 22 、より詳細な戦況を伝える史料によれば、大森城は2ヶ月にも及ぶ連合軍の猛攻に耐え抜き、遂に落城することはなかった 20 。最終的に、力攻めを諦めた東軍との和議によって開城に至ったとされている 20 。
この大森城での戦いは、小野寺康通の武将としての資質を何よりも雄弁に物語るものである。謀略に弱く大局観に欠けたと評される兄・義道とは対照的に、康通は絶望的な状況下で卓越した指揮能力と個人の武勇を発揮し、戦術的には勝利を収めた。小野寺氏が有能な現場指揮官を擁しながらも、当主の戦略的判断の誤りによって滅亡へと向かったという、一族の悲劇を象徴する戦いであったと言えよう。康通のこの奮戦がなければ、小野寺氏は「最上の謀略で自滅し、抵抗らしい抵抗もできずに滅んだ一族」として、より惨めな形で歴史に記憶されていたかもしれない。康通の武功は、滅びゆく一族の最期に、確かな武門の意地と名誉という一筋の光を与えたのである。
慶長出羽合戦における奮戦も虚しく、関ヶ原の戦い全体における西軍の敗北という現実は覆せなかった。戦後、徳川家康による論功行賞が始まると、西軍に与した小野寺氏は「改易」、すなわち領地を全て没収されるという最も厳しい処分を受けた 2 。これにより、鎌倉時代から400年以上にわたって出羽国に根を張った戦国大名・小野寺氏は、その歴史に幕を閉じた。
慶長6年(1601年)、当主であった小野寺義道は、子の左京、そして大森城で武功を挙げた弟の康通と共に、石見国津和野(現在の島根県鹿足郡津和野町)へ配流されることが決まった 2 。これは単なる追放ではなく、他の大名家に身柄を預け、監視下に置く「預け(あずけ)」という形式の処罰であった 23 。死罪に次ぐ重刑ではあるが、斬首や自刃を免れたことは、武士としての命脈を保つことを許されたことを意味していた 24 。
小野寺兄弟の預かり先となったのは、関ヶ原の戦いで東軍として功を挙げ、新たに津和野3万石の藩主となった坂崎出羽守直盛であった 2 。坂崎氏は津和野城の大改修や城下町の整備に着手し、その後の津和野藩の基礎を築いた人物として知られる 19 。
「改易」「配流」という言葉から受ける悲惨なイメージとは異なり、小野寺兄弟の津和野での生活は、一定の敬意と経済的保障のもとにあった。彼らは罪人として牢に入れられるのではなく、預かり先の津和野藩から扶持(給与)を与えられて生活していたのである。記録によれば、兄で元当主の義道には三百石、そして弟の康通には百五十石が支給されたという 12 。150石という扶持は、当時の小身の旗本に匹敵するものであり、生活に困窮するレベルではなかった。康通が単なる「兄の付属品」としてではなく、独立した扶持を与えられたという事実は、幕府あるいは預かり先の坂崎氏が、大森城での武功をはじめとする康通個人の存在を認め、一人の武将として相応の処遇をした可能性を示唆している。これは、徳川幕府が確立していく過程で、敵対した旧大名を社会的に抹殺するのではなく、扶持を与えて管理下に置くことで無力化するという、巧みな統治技術の一端を示す事例とも言える。
彼らと預かり先の藩主・坂崎直盛との間には、単なる監視関係を超えた、武士としての情義に基づいた人間関係が築かれていたことを示す逸話が残っている。元和2年(1616年)、坂崎直盛が徳川家康の孫娘・千姫を巡る一件(千姫事件)で自害に追い込まれ、坂崎家が改易となった後、義道は自分たち兄弟を厚遇してくれた直盛の恩義に報いるため、寛永5年(1628年)の十三回忌に、密かにその墓を建立したと伝えられている 14 。
坂崎氏の改易後、小野寺兄弟は後任の藩主となった亀井氏に預け替えとなり、引き続き津和野の地でその生涯を送った 2 。小野寺氏の血筋は途絶えることなく、その子孫は津和野藩士として亀井氏に仕え、明治維新を迎えることとなる 2 。
配流の身となってから40年、康通は兄・義道に先立ち、寛永18年(1641年)にその波乱の生涯を閉じたと伝えられる 20 。兄の義道は正保2年(1645年)に80歳で没し 13 、その墓所は津和野町内の曹洞宗寺院・本性寺に現存している 12 。
一方で、康通個人の墓碑がどこにあるのかは、明確に特定されていない。しかし、その行方を探る上で極めて重要な手がかりが、津和野町の公式な資料に残されている。それは、津和野城を正面に望む剣玉神社に、「江戸初期に坂崎氏に預けられた小野寺氏の墓所がある」という記述である 30 。
この祀られ方の違いは、配流先での兄弟の立場を象徴しているように思われる。最後の当主であった兄・義道は、一族を代表する個人として記憶され、独立した墓が寺院に建立された。対照的に、康通は「小野寺一族」という集合体の中で、他の者たちと共に神社の境内に祀られた可能性がある。これは、歴史記録においても常に兄の陰に隠れがちであった康通の立ち位置を、死後においても示しているのかもしれない。歴史の光は、しばしば当主という中心人物にのみ当てられ、その周辺で重要な役割を果たした人物は「一族」として一括りにされがちである。剣玉神社の伝承は、そうした歴史の光の影に埋もれた康通という個人の存在を、今に伝える貴重な痕跡と言えよう。
一方、康通が命を賭して守り抜いた故郷の居城・大森城は、小野寺氏の改易後、元和6年(1620年)頃に廃城となった 20 。現在、その跡地には往時を偲ばせる本丸や二の丸、帯郭といった土塁や曲輪の遺構が残り、訪れる者に静かに歴史を語りかけている 20 。
小野寺康通の生涯は、一族の栄光と没落という、時代の大きなうねりの中にあった。彼は、戦略的な判断ミスを重ねていく兄・義道を、軍事の最前線で最後まで支え続けた、実直かつ有能な武将であった。その生き様は、一族の命運を左右する政治の奔流の中で、自らの持ち場を命を賭して守り抜くという、戦国武士の一つの理想像を示している。
大森城での壮絶な防衛戦は、単なる局地戦の勝利に留まらない。それは、滅びゆく小野寺氏の武門としての意地と名誉を、後世に鮮烈に刻み込むものとなった。康通の奮戦がなければ、小野寺氏はただ「最上の謀略で自滅し、あっけなく滅んだ一族」としてのみ記憶された可能性が高い。康通の武功は、一族の歴史の最終章に、確かな輝きを与えたのである。
出羽の戦場で武勇を轟かせ、遠く石見の地で静かに生涯を閉じた小野寺康通。その名は、最後の当主であった兄・義道ほど広くは知られていない。しかし、彼の生き様は、時代の転換期に翻弄されながらも、与えられた責務を全うした数多の武将たちの姿を代弁している。歴史の主役としてではなく、自らの持ち場で矜持を貫いた一人の武将の生涯は、我々に歴史の奥深さと、その中に生きた人々の確かな息遣いを教えてくれるのである。
西暦 |
元号 |
康通の動向 |
小野寺氏・周辺の動向 |
日本史の主な出来事 |
関連資料 |
1534年 |
天文3年 |
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父・景道、誕生。 |
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7 |
1566年 |
永禄9年 |
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兄・義道、誕生。 |
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12 |
(推定) 1560年代 |
永禄年間 |
出生(景道の三男として)。 |
父・景道が小野寺氏の最盛期を現出。 |
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7 |
1580年頃 |
天正8年頃 |
大森城主となる。 |
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20 |
1582年 |
天正10年 |
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本能寺の変。 |
|
1583年 |
天正11年 |
|
兄・義道が家督相続。 |
|
12 |
1590年 |
天正18年 |
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豊臣秀吉に臣従。仙北一揆の責任を問われ、所領の1/3を没収される。 |
豊臣秀吉、天下統一。 |
12 |
1595年 |
文禄4年 |
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義道、最上の謀略により重臣・八柏道為を誅殺。 |
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12 |
1597年 |
慶長2年 |
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父・景道、死去。 |
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7 |
1600年 |
慶長5年 |
**大森城攻防戦。**寡兵で最上・秋田連合軍の猛攻を防ぎきる。 |
**慶長出羽合戦。**西軍に与し、最上領へ侵攻。 |
関ヶ原の戦い。 |
12 |
1601年 |
慶長6年 |
兄・義道と共に石見国津和野へ配流となる。 |
小野寺氏、改易。 |
徳川家康による戦後処理。 |
2 |
1616年 |
元和2年 |
預かり先が坂崎氏から亀井氏へ変更。 |
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預かり主の坂崎直盛、千姫事件で自害・改易。 |
12 |
1641年 |
寛永18年 |
配流先の津和野にて死去。 |
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20 |
1645年 |
正保2年 |
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兄・義道、津和野にて死去。 |
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13 |