戦国の世に数多の勇将が存在する中で、主君から絶対の信頼を寄せられ、その武威と知略をもって家名を不滅のものとした家臣は決して多くない。立花家臣・小野鎮幸(おの しげゆき)、通称を和泉守(いずみのかみ)は、まさにその稀有な存在の一人である。彼は、戦国の鬼神と恐れられた立花道雪(たちばなどうせつ)にその才を見出され、その養子であり西国無双の勇将と称えられた立花宗茂(たちばなむねしげ)を生涯にわたって支え続けた。
その名は、由布惟信(ゆふ これのぶ)と共に「立花家の両翼」と称されたこと、文禄・慶長の役で豊臣秀吉から「日本槍柱七本(にほんそうちゅうしちほん)」の筆頭と賞賛された武勇、そして関ヶ原合戦後に主家が改易されるという最大の苦境にあっても変わらぬ忠節を尽くした逸話によって、後世に記憶されている 1 。しかし、彼の真価は単なる一廉の武将という評価に留まるものではない。
本報告書は、小野鎮幸という一人の武将の生涯を、現存する史料に基づき、その出自から立花家への帰属の経緯、数々の戦歴における具体的な役割、そして彼の人間性を浮き彫りにする逸話の数々を多角的に解明するものである。特に、彼の行動原理の根底に流れる、主家への絶対的な「忠義」と、目先の評価に惑わされず大局を見据える「深謀遠慮」という二つの側面を軸として、その実像に迫ることを目的とする。通説の奥に秘められた、知勇兼備の将・小野鎮幸の生涯の全貌をここに詳述する。
小野鎮幸の武勲の背景には、鎌倉時代にまで遡る由緒ある家系が存在する。『旧柳川藩志』によれば、小野氏の祖は摂関政治の頂点に立った藤原道長の六男、権大納言・藤原長家(ふじわらのながいえ)にまで遡るとされる 3 。その子孫である佐賀という人物が、正治2年(1200年)、鎌倉幕府の御家人であり豊後大友氏の祖である大友能直(おおともよしなお)を頼って豊後国に下向し、その食客となったのが九州における小野家の始まりと伝えられている 3 。
その後、小野一族は豊後国に根を下ろし、特に大野郡野津院(現在の大分県臼杵市野津町周辺)を領する国人として、戦国大名・大友氏の家臣団に組み込まれていった 4 。鎮幸に至るまで、小野家は長幸、安幸、信幸、そして鎮幸の父・鑑幸(あきゆき)と、代々大友家のために各地を転戦し、その中には三代にわたって戦場で命を落とした者もいるなど、武門の家として忠勤に励んだ 4 。
この小野家が仕えた大友家中において、彼らは「与力(よりき)」という特殊な立場にあった。与力とは、大名がその直臣を、軍団の中核をなす有力家臣(この場合は戸次道雪)の指揮下に一時的に配属する制度である。これは、有力家臣の軍事力を増強すると同時に、大名がその統制を維持するための巧みな仕組みであった。小野家が大友氏の直臣であったことは、立花家史料館に所蔵される古文書からも明らかである。道雪が小野鎮幸に宛てた知行預ヶ状や感状は、道雪譜代の家臣に宛てたものよりも敬意を払った書式で記されており、脇付(追伸)を伴うなど厚礼な扱いを受けている 5 。これは、小野家が道雪個人の家来ではなく、あくまで主家である大友家から派遣された、一段格上の存在として遇されていたことを物語る。この戦国時代特有の複雑な主従関係こそが、小野鎮幸のキャリアの出発点であり、後に彼が遂げる立身の軌跡を理解する上で極めて重要な背景となる。
鎮幸の父・小野鑑幸もまた、主君・大友宗麟(おおともそうりん、義鎮)の命により、道雪の与力として数々の戦場で武功を立てた勇将であった 4 。しかし、その忠義は壮絶な最期をもって示されることとなる。
永禄10年(1567年)9月、道雪は筑前の雄・秋月種実(あきづきたねざね)を討つべく出陣。休松(やすみまつ、現在の福岡県朝倉市)において両軍は激突した。この戦いで、小野鎮幸は由布惟信と共に先鋒を務め、自らも七ヶ所の刀傷を負いながら敵将を三町(約330メートル)も追撃するほどの奮戦を見せた 4 。しかし、この激戦の中で父・鑑幸は討死を遂げる 4 。
父の戦死という悲劇に見舞われながらも、若き鎮幸の武勇と忠節は主君・大友宗麟の知るところとなった。宗麟は鑑幸の死を悼み、その跡目を鎮幸が継ぐことを正式に認める安堵状を発給した 5 。この事実は、与力であった小野家の家督相続権が、直接の指揮官である道雪ではなく、大友本家の当主によって掌握されていたことを示す貴重な証左である。父の死という大きな犠牲を乗り越え、鎮幸は小野家の当主として、戦国の荒波へと本格的に乗り出していくことになった。
小野鎮幸の運命を大きく変えたのは、彼の類稀なる才覚を見抜いた二人の傑出した人物との出会いであった。一人は主君・立花道雪、そしてもう一人はその腹心・由布惟信である。
元亀元年(1570年)頃、鎮幸は大友家からの軍目付として道雪の軍中に派遣されていた 3 。軍目付とは、大名が派遣する監察官であり、鎮幸が依然として大友本家の直臣という立場にあったことを示している。この時、道雪の最も信頼する家臣であり、後に「立花双翼」として鎮幸と並び称されることになる由布惟信(雪下)が、鎮幸の非凡な言動や立ち居振る舞いに注目した 1 。
惟信は鎮幸の器量を「尋常の士にあらず」と見抜き、主君・道雪に対して「彼を立花家の家臣として正式に迎え入れるべきです」と強く進言した。その熱意は凄まじく、「私の知行を削ってでも鎮幸殿に与え、彼を我が家に迎え入れたい」とまで申し出たという 8 。道雪もまた、かねてより鎮幸の武勇と知略を高く評価しており、この進言を快く受け入れた。彼は主君・大友宗麟に鎮幸の正式な移籍を願い出て、これを認めさせる 8 。
さらに道雪は、鎮幸を単なる家臣としてだけでなく、一門衆として迎えるために、自らの養女(戸次親延の娘)を鎮幸に嫁がせた 1 。これにより、鎮幸は客分であった「与力」の立場から、名実ともに立花家の譜代家臣へとその地位を確立したのである。この異例の抜擢は、道雪がいかに鎮幸の才能に惚れ込み、将来を嘱望していたかを物語っている。史料によれば、鎮幸は天正10年(1582年)には立花家の家老に列せられており、その信頼が揺るぎないものであったことが確認できる 5 。
小野鎮幸が立花家において単なる勇将に留まらず、軍団の中核を担う存在となった背景には、主君・立花道雪の独特な軍事思想があった。道雪は、古代中国の兵法書『孫子』、特に第五篇「兵勢篇」に記された「凡そ戦いは、正を以て合し、奇を以て勝つ(凡戰者、以正合、以奇勝)」という「奇正の兵法」を、自らの軍略の根幹に据えていた 1 。
この思想に基づき、道雪は二人の重臣を呼び寄せ、こう告げたとされる。「軍を率いるには、定石である『正』の戦術と、敵の意表を突く『奇』の戦術を自在に使い分けることが肝要である。お前たち二人が、私の両翼となって『正』と『奇』を担え」と。この時、剛毅実直で戦の定石に通じた由布惟信が「正の将」に、そして機変に富み、大胆な発想を持つ小野鎮幸が「奇の将」に任じられた 1 。
「正」が王道であり、堅実な陣立てや正面からの攻撃によって戦線を維持する力であるとすれば、「奇」は奇襲、陽動、伏兵といった変則的な戦術によって敵の予測を裏切り、戦局を動的に変化させて勝利を決定づける力である。鎮幸に与えられた役割は、まさにこの「奇」を体現し、戦場に混沌を生み出し、その中から勝利の活路を切り開くことにあった。こうして、由布惟信と小野鎮幸は「立花双翼」と称揚され、道雪が率いる精強な軍団の戦術的な両輪として、その名を九州に轟かせることになるのである 1 。
「奇の将」としての役割は、単なる猪武者の勇猛さだけでは務まらない。敵の意図を読み、地形を活かし、味方を最適なタイミングで動かす知略が不可欠である。小野鎮幸は、その武勇の陰で「深謀遠慮の将」とも評される、優れた知将としての一面を併せ持っていた 1 。
その知略が遺憾なく発揮されたのが、天正15年(1587年)の肥後国人一揆討伐の際である。この時、立花軍は一揆勢の鎮圧に参加したが、鎮幸は作戦行動に先立ち、進軍経路の綿密な偵察を怠らなかった。さらに、現地の地理や一揆勢の動向を正確に把握するため、山伏や忍者を巧みに手配し、情報収集に努めたという記録が残っている 1 。これは、彼が戦いを始める前に、勝利のための布石を周到に打つタイプの指揮官であったことを示している。
戦場においてもその知略は冴えわたり、自ら第三陣という戦略的に重要な部隊を率いて、敵の伏兵による襲撃を読み切り、これを逆に打ち破るという殊功を立てた 1 。また、別の戦いでは、敵方に味方する従兄弟を調略によって内応させ、城攻めを有利に進めたという逸話も伝わっており、彼が情報戦や心理戦にも長けていたことが窺える 7 。これらの事実は、小野鎮幸が「奇の将」として、ただ奇抜な戦術を好んだのではなく、緻密な情報収集と冷静な分析に基づいた、合理的な「奇策」を駆使する指揮官であったことを証明している。
天正13年(1585年)、主君・立花道雪が筑後の陣中で病没すると、立花家は大きな転換期を迎える。道雪の養子であった立花宗茂が、若くしてその家督と精強な軍団を継承した。小野鎮幸は、次席家老としてこの若き新当主を支え、立花家の重石としての役割を担うこととなる 1 。
その直後、九州統一の野望に燃える島津氏が、破竹の勢いで北上を開始。天正14年(1586年)、島津の大軍が立花領のある筑前国に侵攻した。この九州の歴史を揺るがす大戦において、鎮幸は宗茂を補佐し、立花山城籠城戦などで奮戦する 1 。
彼の不屈の闘志が最も顕著に示されたのが、島津方の高鳥居城(たかとりいじょう)攻略戦であった。この戦いの最中、鎮幸は敵の鉄砲玉を両足に受け、倒れ伏してしまう。しかし、彼はその場から動けなくなりながらも、地に伏したまま采配を振り続け、味方を叱咤激励し、ついに軍を勝利へと導いた 1 。この逸話は、彼の驚異的な精神力と、将としての責任感の強さを如実に物語っている。
天正15年(1587年)、豊臣秀吉による九州平定が成り、立花宗茂はその功績を認められて筑後柳川13万2千石の大名として独立した 1 。この時、宗茂は鎮幸のこれまでの功労に報いるため、家臣団の中で最高禄となる五千石を与え、柳川城の重要な支城である蒲池城(かまちじょう)の城主(城番家老)に任じた 1 。これは、宗茂が鎮幸を単なる家臣としてではなく、自らの領国経営と軍事における最重要パートナーとして認識していたことの証左に他ならない。
小野鎮幸の名声は九州に留まらず、豊臣秀吉が引き起こした文禄・慶長の役によって、海を越えて天下に轟くこととなる。鎮幸は主君・宗茂に従って朝鮮半島へと渡海し、立花軍の中核として数々の戦いでその武勇を発揮した 2 。
特に文禄2年(1593年)1月の碧蹄館(へきていかん)の戦いは、立花軍の武名を不滅のものとした。この戦いで、立花軍わずか3,000は、小早川隆景らと共に日本軍の先鋒として、平壌攻略の勢いに乗る李如松率いる数万の明軍と激突した 16 。圧倒的な兵力差にもかかわらず、日本軍は明軍を撃破するという奇跡的な勝利を収めるが、その先陣を切って敵の大軍を食い止めたのが立花軍であった 17 。鎮幸もこの死闘の中で、中心的な役割を果たしたことは想像に難くない。
これらの朝鮮での目覚ましい活躍により、鎮幸の名は秀吉の耳にも達した。帰国後、宗茂と共に大坂城で秀吉に拝謁した際、彼は最大級の賛辞を贈られる。秀吉は鎮幸を指して、「貴殿は九州において立花・大友両家第一の功労者であり、さらに朝鮮においても数々の武勲を立てた。その槍働きは、まことに当代随一。日本槍柱七本の筆頭である」と称揚したのである 2 。
この「日本槍柱七本」という称号は、単なる武勇の格付けではなかった。賤ヶ岳の七本槍がそうであったように、これは秀吉が天下の有力大名とその重臣たちの功績を公認し、自らの権威の下に秩序立てるための高度な政治的パフォーマンスであった 19 。選ばれた顔ぶれは、徳川家の本多忠勝、島津家の島津忠恒、上杉家の直江兼続など、いずれも各大名家を支える「柱」たる重臣たちであった。その中で、一介の家臣である小野鎮幸が、しかもその「筆頭」として挙げられたことは、異例中の異例であった。これは、秀吉が立花宗茂という武将の器量をいかに高く評価し、九州における立花家の存在を重視していたかを示す、何よりの証拠と言える。鎮幸個人にとっての栄誉であると同時に、主家である立花家の武威を天下に示す、極めて政治的な意味合いを持つ称号だったのである。
武将名 |
主家 |
当時の石高(主家) |
特徴・役割 |
選定理由の考察 |
小野鎮幸 |
立花家 |
13万石 |
立花双翼・奇の将。朝鮮での武功は抜群。 |
九州の雄・立花家の武威を象徴し、宗茂を高く評価する秀吉の意向を反映。 |
本多忠勝 |
徳川家 |
150万石(関東移封後) |
徳川四天王。生涯無傷の伝説を持つ猛将。 |
天下人たる家康の最強の家臣を組み込むことで、称号の権威を高める。 |
島津忠恒 |
島津家 |
約73万石 |
島津家当主。朝鮮でも自ら奮戦。 |
九州のもう一方の雄・島津家を懐柔し、政権内に取り込む意図。 |
後藤基次 |
黒田家 |
12万石(中津) |
黒田二十四騎。智勇兼備で知られる猛将。 |
秀吉子飼いの黒田長政の重臣であり、豊臣政権の西国支配の安定を担う人材。 |
直江兼続 |
上杉家 |
120万石(会津) |
上杉家の宰相。文武両道の名執政。 |
関東の家康を牽制する上杉家の力を認めつつ、その中心人物を取り込む。 |
飯田直景 |
森家 |
7万石(信濃川中島) |
森忠政の家老。森家の武勇を支える。 |
織田家以来の旧臣であり、秀吉政権の基盤を支える中小大名の代表格。 |
吉川広家 |
毛利家 |
14万石(月山富田) |
毛利両川の一翼。毛利一門の重鎮。 |
西国最大の雄・毛利家を代表する人物であり、一族の結束と力を評価。 |
慶長5年(1600年)、天下分け目の関ヶ原の戦いが勃発すると、立花家は重大な岐路に立たされる。この時、家老である小野鎮幸は、豊臣家への恩義を重んじ、石田三成が率いる西軍に味方することを強く主張したと伝えられている 2 。その結果、主君・宗茂は主力軍を率いて東上し、京極高次が籠る大津城の攻略に参加した。
しかし、主戦場である関ヶ原で西軍が僅か一日で敗北すると、状況は一変する。九州では、徳川家康に通じていた黒田如水(孝高)、加藤清正、そして西軍から東軍に寝返った鍋島直茂・勝茂父子らが、主のいない柳川城へと矛先を向けた 2 。
主家存亡の危機に際し、柳川の留守を預かる鎮幸は、総大将として城兵を率いて出陣を決意する。立花軍の総兵力は13,000であったが、徳川家康への恭順を示すため宗茂が城に留まったため、実際に出陣したのは鎮幸が率いる約1,300(一説に3,000)の兵のみであった 2 。対する鍋島軍は32,000という圧倒的な大軍であった。
同年10月20日、両軍は柳川北方の江上・八院(現在の福岡県久留米市城島町、大川市、大木町)で激突した 2 。兵力差は実に10倍以上。しかし、鎮幸率いる立花軍は、その精強さを遺憾なく発揮し、奮戦する。鎮幸は巧みな指揮で鍋島軍の猛攻を幾度も押し返したが、激戦の中で自身も銃創や矢傷を負い、討死寸前の危機に陥った 2 。この絶体絶命の窮地を救ったのが、黒田軍の動向を偵察していた別動隊の立花成家(薦野増時の子)であった。成家は手勢300を率いて鍋島軍の側面に敢然と奇襲をかけ、敵陣に混乱を生じさせた。その隙を突いて、鎮幸は辛くも戦場を離脱することに成功する 2 。この江上・八院の戦いは、立花軍の敗戦ではあったものの、小野鎮幸の将としての粘り強さと、立花家臣団の死をも恐れぬ勇猛さを示す死闘として、長く語り継がれることとなった。
小野鎮幸の評価は、戦場での武功だけに留まらない。彼にまつわる数々の逸話は、その人物像に深みを与え、甲冑の奥に隠された素顔を我々に伝えてくれる。
鎮幸には、意外な評価がつきまとっていた。それは「守銭奴」というものである。平時、彼は誰からの賄賂でも受け取り、極めて吝嗇に努めたため、家中ではその貪欲さを揶揄する声も少なくなかったという 7 。
しかし、その真意が明らかになる時が来る。慶長の役(二度目の朝鮮出兵)に際し、度重なる出兵で主家である立花家の財政は極度に逼迫し、新たな軍備を整えることさえ困難な状況に陥った。この国家の危機に際し、鎮幸はそれまで「守銭奴」と謗られながら蓄えてきた莫大な私財を、惜しげもなく全て差し出したのである。そのおかげで立花軍は滞りなく出陣の準備を整えることができた 7 。
この時、家中の者たちは初めて鎮幸の行動の真意を悟った。彼の吝嗇は、私利私欲のためではなかった。すべては、いつか必ず訪れるであろう主家の存亡を賭けた一大事に備えるための、深謀遠慮に基づいた戦略的な蓄財だったのである。目先の評判を意に介さず、大局を見据えて行動する彼の姿に、家臣たちはただ驚嘆するしかなかったという 7 。この逸話は、武士の価値が戦場での武勇のみで測られるものではなく、平時における財政管理やリスクマネジメントといった、より多面的な能力によって支えられていたことを示している。鎮幸は、個人的な名声よりも主家の存続という実利を優先する、冷徹なまでのリアリストであった。
鎮幸の武人としての矜持を最も雄弁に物語るのが、彼の身体に刻まれた無数の傷跡にまつわる逸話である。
立花家が改易され、加藤清正の客分として肥後熊本に身を寄せていた頃のこと。ある酒宴の席で、加藤家の家臣たちが鎮幸の武勇伝を聞きたがった。しかし、鎮幸は多くを語ろうとせず、黙しているばかりであった 25 。これに業を煮やした加藤家の者たちが、「小野殿も、所詮は柳川にいたからこその英雄なのだろう。肥後に来てみれば、ただの人と同じではないか」と陰口を叩いた 7 。
その言葉を耳にした鎮幸は、後日の宴席で、再び武勇伝をせがまれると、静かに立ち上がり、「ならば、お見せしよう」とやおら衣服を脱ぎ、上半身を露わにした。そこに現れたのは、刀傷、槍傷、鉄砲傷など、おびただしい数の傷跡であった。生涯で受けた傷は大小合わせて67ヶ所、そのうち腰から上に44ヶ所あったと伝えられる 1 。
満座が息を呑む中、鎮幸は一つ一つの傷跡を指さしながら、「この傷はあの戦で受けたもの、この傷はまた別の戦でのもの」と、淡々と語り始めた。言葉ではなく、歴戦の証である傷跡そのものをもって自らの生涯を語ったのである。これを見た加藤家の家臣たちは、その凄まじい武人の生き様に畏敬の念を抱き、二度と彼の前で自らの手柄話をすることはなくなったという 7 。この逸話は、多くを語らずとも、行動と実績で自らの価値を証明するという、鎮幸の揺るぎない武士としての矜持を象徴している。
小野鎮幸の生涯を貫く最も重要な徳性は、主君と主家に対する絶対的な忠義であった。その忠義は、立花家が改易され、宗茂が領地を失い浪々の身となるという、最も過酷な状況下でこそ、その真価を発揮した。
宗茂が僅かな供回りを連れて京へと上り、大名復帰への道を模索する苦難の時代、鎮幸は肥後に残った。しかし、彼は加藤清正から与えられた禄に安住することなく、自らの生活を切り詰め、こつこつと貯めた私財を定期的に宗茂一行のもとへ送り続けたのである 2 。それは、主君の苦境を座視できぬという忠臣としての情の発露であり、宗茂の再起を信じて疑わないという強い意志の表れでもあった。
そして、その忠誠心は、死の床にあっても揺らぐことはなかった。鎮幸は臨終に際し、子孫に対して次のような遺言を残したと伝えられている。「我が小野家は、代々立花家の家臣である。もし将来、宗茂公が再び大名として柳川の地に返り咲くことがあれば、その時は必ず肥後を去り、柳川に戻って立花家にお仕えせよ」と 8 。この言葉は、彼の忠義が、主家の浮沈や自らの境遇によって左右されることのない、絶対不変のものであったことを何よりも雄弁に物語っている。
関ヶ原合戦の結果、西軍に与した立花家は徳川家康によって改易され、大名としての地位を失った。主君・宗茂は、旧知の間柄であった加藤清正の庇護を受け、その領地である肥後熊本に身を寄せることとなった 2 。
築城の名手であり、「肥後の虎」と称された勇将・加藤清正は、立花家臣団の武勇、特にその結束力と忠誠心を高く評価していた。中でも、江上・八院の戦いで見せた小野鎮幸の鬼神の如き戦いぶりには深く感銘を受けており、彼を「豪勇無敵の士」と称え、客分として破格の待遇で迎えた 7 。
清正は、宗茂に同行してきた旧立花家臣団を召し抱えるにあたり、鎮幸をその「まとめ役」として指名した。そして、彼に対して4,079石(一説には4,080石)という、大名の家老クラスに匹敵する知行を与えたのである 7 。これは、清正がいかに鎮幸個人の能力を買い、また彼が束ねる旧立花家臣団という戦闘集団を自軍に組み込むことを重視していたかを示している。この時、清正が熊本城下に旧立花家臣たちのための居住区として設けた「柳川小路」という地名は、今なお熊本市内に残り、両家の深い関係性を現代に伝えている 26 。
肥後で客分としての日々を送る鎮幸であったが、彼の心は常に旧主・宗茂の行く末と、立花家の再興にあった。宗茂はその後、徳川家康・秀忠親子にその器量を認められ、慶長8年(1603年)に陸奥棚倉1万石の大名として復帰を果たす。
しかし、鎮幸がその吉報に接し、主家の再興を喜んだであろうものの、彼自身が柳川の地を再び踏むことは叶わなかった。宗茂が元和6年(1620年)に旧領柳川への奇跡的な帰還を果たすより11年も前の、慶長14年(1609年)6月23日、小野鎮幸は肥後熊本の地で、波乱に満ちた64年の生涯を閉じた 1 。
その戒名は「華徳院殿真月浄蓮大居士」 1 。墓所は、彼を厚遇した加藤清正の菩提寺でもある熊本市西区花園の本妙寺にあり、その境内の一角、東光院に今も静かに眠っている 1 。彼は、主君の栄光の帰還を見届けることはできなかったが、その魂は、彼の遺言と共に子孫へと確かに受け継がれていったのである。
小野鎮幸の死は、彼の物語の終わりではなかった。彼の揺るぎない忠義の精神は、その遺言と共に子孫へと受け継がれ、立花家の歴史の中で新たな花を咲かせることになる。
鎮幸には嫡子・質幸(ただゆき)がいたが早世していたため、同じく立花家重臣であった森下釣雲(もりしたちょううん)の子・鎮矩(しげのり)を婿養子として迎えていた 1 。主君・立花宗茂が旧領柳川に再封されるという奇跡が起こると、鎮幸の孫にあたる小野茂高(しげたか)は、祖父の遺言を固く守り、加藤家への奉公を辞して柳川の立花家へと帰参した 3 。宗茂はこれを大いに喜び、茂高を3,000石の知行で召し抱え、大組組頭兼家老という重職に任じた 3 。
以後、小野家は柳川藩の筆頭家老家としてその地位を世襲し、藩政の中枢を担い続けた 31 。江戸時代中期には、鎮幸から数えて6代目にあたる小野春信(はるのぶ)が、藩の財政を潤すために三池炭鉱の経営に乗り出すなど、時代が変わってもその深謀遠慮の才は受け継がれていった 3 。さらに時代が下り、明治期には一族から日本興業銀行の第4代総裁を務めた小野英二郎を輩出するなど、その血脈は日本の近代化にも貢献した 34 。
近年、旧柳川藩家老であった小野家の子孫・小野恭裕氏より、鎮幸の姿を描いたとされる貴重な「小野鎮幸像」が柳川古文書館に寄贈された 9 。これは、鎮幸の遺徳と小野家の歴史が、400年以上の時を超えて現代にまで脈々と受け継がれていることの証である。
小野鎮幸の生涯は、戦国の動乱期を駆け抜けた一人の猛将の記録である。しかしそれと同時に、主君への絶対的な「忠義」、戦局を的確に見抜く「知略」、そして目先の利害に惑わされず未来を見据える「深謀遠慮」という、時代を超えて輝きを失わない武士道の理想を体現した物語でもある。彼の生き様は、立花家の歴史、ひいては九州戦国史において、不滅の光彩を放ち続けている。