少弐政資は九州の名門少弐氏当主。大内氏との対立の中、博多を奪還し勢力回復。しかし大内氏の反攻と家臣の裏切りで肥前で自刃。悲劇の武将だが戦略家として再評価される。
本報告書は、日本の戦国時代初期を生きた武将、少弐政資(しょうに まさすけ、1441年 - 1497年)の生涯を、多角的な視点から徹底的に分析し、その歴史的実像に迫ることを目的とする。一般に、少弐政資は「大内氏に敗れて博多を追われ、子と共に自害した悲劇の当主」として知られている。しかし、その生涯は単なる滅びゆく大名の悲劇としてのみ語られるべきではない。本報告書では、室町時代後期の九州における政治、経済、軍事の構造的変動の中で、鎌倉以来の伝統的権威を背負いながらも、最後まで時代の潮流に抗い続けた一人の戦略家として政資を再評価する。
政資の生涯を規定したのは、宿敵・大内氏との数世代にわたる宿命的な対立であった。鎌倉時代以来、鎮西(九州)の雄として君臨した少弐氏 と、周防国(現在の山口県)から北九州へと勢力を拡大する新興勢力・大内氏 との抗争は、政資の時代には既に抜き差しならない段階に達していた。この対立の根源には、国際貿易港・博多を擁する筑前国(現在の福岡県西部)の守護職の正当性を巡る争いがあり、これが政資の生涯を貫く中心的な主題であった。
少弐満貞、資嗣、教頼といった政資の父祖たちは、次々と大内氏との戦いの中で命を落としていった。このような一族存亡の危機的状況にあって、その命運を一身に背負い立ち上がったのが政資である。彼の治世は、応仁の乱という未曾有の動乱を好機として掴み取った一時的な「中興」の時代 と、その後の栄光の拠点を追われ、家臣にも裏切られるという悲劇的な末路によって彩られており、九州戦国史の中でも極めて劇的な様相を呈している。本報告書は、この少弐政資という人物の生涯を徹底的に掘り下げることで、室町後期から戦国初期にかけての九州における権力構造の変容と、その中で生きた武将の実像を明らかにするものである。
少弐氏の歴史は、鎌倉幕府の成立期にまで遡る。その祖は、藤原秀郷の流れを汲むとされる武藤資頼であり、源頼朝によって大宰府の次官である大宰少弐に任じられたことをもって、その歴史は始まる。資頼の子・資能の代より「少弐」を姓として名乗るようになり、九州における幕府の重鎮としての地位を確立した。
少弐氏の名を不朽のものとしたのは、13世紀後半の元寇(文永・弘安の役)における目覚ましい活躍である。二度の国難に際し、当主の少弐資能、その子である経資や景資らは、九州の御家人たちを率いて日本軍の中核として奮戦した。弘安の役では、経資の子・資時が壱岐で戦死し、総大将であった資能自身も戦闘で負った傷がもとで命を落とすなど、一族として多大な犠牲を払った。この「元寇の英雄」としての功績により、少弐氏は筑前、豊前、肥前、壱岐、対馬の「三前二島」と称される広大な地域の守護職を与えられ、その権勢は絶頂に達した。この輝かしい歴史と、九州の伝統的守護家の中でも随一とされた家格は、後代に至るまで少弐氏の誇りの源泉であり続け、政資の時代においてもその行動を支える精神的支柱であった。
少弐氏の栄光に影を落とし始めたのが、周防を本拠とする大内氏の九州進出であった。南北朝の動乱期を経て、室町幕府が九州支配のために設置した九州探題・今川了俊が京へ帰還すると、その後任の渋川氏を援護するという名目で、大内氏は北九州への介入を本格化させていく。彼らは筑前国内の荘園の代官職などを足がかりとして徐々に影響力を強め、大内教弘の時代には守護代や郡代を派遣して、筑前国を守護領国化するに至った 1 。
この大内氏の侵出に対し、少弐氏は激しく抵抗するが、両者の対立は単なる領土紛争に留まらなかった。それは、室町幕府の権威を背景とした、支配の「正当性」を巡る法的な論争でもあった。大内氏は、少弐氏を「年久の朝敵」、すなわち長年にわたる幕府への反逆者であると断じ、幕府から正式に発給された「治罰御教書」(討伐命令書)を自らの軍事行動の正当性の根拠とした 1 。これは、武力による支配を公的な権威によって正当化しようとする、大内氏の巧みな政治戦略であった。
これに対し、少弐氏は、筑前守護職は先祖代々受け継いできた「普代知行」であると主張した 1 。そして、一度は「朝敵」とされたものの、幕府から赦免され、守護職を「還補」(返還)されたことを法的根拠として対抗したのである 1 。この両者の主張の応酬は、幕府の権威が著しく低下し、地方における支配の正当性が、旧来の「法理」と新たな「実力」との間で激しく揺れ動いていた時代の特徴を象徴している。両者は、弱体化したとはいえ未だに権威の源泉と見なされていた室町幕府を、自陣営に引き込むための法的・政治的闘争を繰り広げていた。政資の戦いもまた、単なる軍事行動の連続ではなく、この失われた「公的な正当性」を回復するための闘争という側面を色濃く持っていたのである。
政資が誕生した15世紀中頃、少弐氏の置かれた状況は絶望的であった。政資の祖父・満貞、大叔父・資嗣、そして父・教頼は、いずれも大内氏との戦いの中で命を落とすか、あるいは敗北を重ねていた。
特に父・少弐教頼の時代は苦難の連続であった。嘉吉元年(1441年)、6代将軍・足利義教が暗殺された嘉吉の乱の混乱に乗じて、幕府の赤松氏討伐命令に背き、筑前・豊前に侵攻するも、大内教弘に撃退される 1 。その後、文安2年(1445年)には一時的に幕府から筑前守護に還補されるなど、再起の機会はあったものの、大内氏の圧倒的な軍事力の前に支配を安定させることはできなかった 1 。寛正6年(1465年)にも再度、筑前守護への還補が認められるが、大内氏の妨害によって結局は筑前に入国することすらできず、最終的には対馬への亡命を余儀なくされた 1 。政資は、まさにこの一族存亡の危機という嵐の中で生を受け、その後の波乱に満ちた生涯を開始することになるのである。
少弐政資は、嘉吉元年(1441年)、少弐教頼の子として誕生した。その生誕地は、父・教頼が亡命していた対馬であった可能性が高い。母は対馬の領主・宗貞盛の娘であり、この血縁関係は、没落した少弐氏にとってまさに生命線となった。
父・教頼が大内氏との戦いに敗れ、対馬に逼塞していたため、幼少期の政資(初名は次郎、後に頼忠と名乗る)もまた、母方の実家である宗氏の庇護下で成長した 2 。宗氏は、元寇以来の少弐氏の譜代の家臣であり、三代にわたって主家を支え続けてきた忠臣であった 2 。対馬という国境の島を拠点に、独自の海軍力と朝鮮貿易による経済力を有する宗氏の存在は、この時期の少弐氏にとって、単なる庇護者以上の、再起に不可欠な戦略的パートナーであった。
雌伏の時を過ごしていた政資と少弐一族に、千載一遇の好機が訪れる。応仁元年(1467年)、京都を主戦場として応仁・文明の乱が勃発すると、宿敵である大内氏の当主・大内政弘(教弘の子)は、西軍の主力として京都での戦闘に釘付けとなり、十一年もの長きにわたって在京を余儀なくされた。これにより、大内氏の支配が及んでいた北九州の政治・軍事情勢に、巨大な力の空白が生じたのである。
この好機を政資が見逃すはずはなかった。彼は、宗貞盛の弟で後継者であった宗貞国と共に蜂起する 2 。文明元年(1469年)5月、対馬から海を渡って筑前に上陸すると、大内氏の支配に不満を抱いていた秋月氏、原田氏、草野氏といった筑前の国人衆を次々と味方につけ、一気呵成に大宰府を攻撃し、これを奪還した 2 。その勢いは留まるところを知らず、旧臣たちも各地から馳せ参じ、筑前・豊前両国から大内勢力を完全に駆逐。かつての旧領を回復することに成功したのである。さらに、応仁の乱で大内氏と敵対する東軍に属していた室町幕府から、文明2年(1470年)には肥前国守護に任命されるなど、政資は目覚ましい勢力回復を成し遂げた。この一連の成功は、彼自身の能力もさることながら、「中央(京都)の政治的混乱」と「外戚(宗氏)の強力な支援」という二つの外部要因を巧みに利用した、極めて時宜を得たものであった。彼の「中興」は、自らが創出した状況というよりは、彼が的確に「利用した」状況の結果であり、この事実は、後の彼の権力基盤が、見かけよりも脆弱であったことを示唆している。
この勢力回復の過程で、政資は中央の権威との結びつきを強化することで、自らの支配の正当性を確立しようと努めた。父・教頼の死後、家督を継承するにあたり、当時の8代将軍・足利義政から、その名の一字(偏諱)である「政」の字を賜り、名を「政尚(まさなお)」と改めた。その後、時期は定かではないが、さらに「政資(まさすけ)」へと改名している。
将軍からの偏諱を拝領することは、地方の守護大名にとって、幕府から公的にその地位を承認されたことを意味する、極めて重要な政治的行為であった。特に、大内氏から「朝敵」の汚名を着せられ、その正統性を常に問われ続けてきた少弐氏にとって、将軍との直接的な結びつきを示すこの改名は、何物にも代えがたい権威の源泉となった。これは、政資が単なる武辺一辺倒の武将ではなく、中央政局の動向を冷静に見極め、自らの政治的立場を有利にするための象徴的な戦略を駆使できる、優れた政治感覚の持ち主であったことを示している。
文明年間の勢力回復において、政資が大宰府、そして博多の港を大内氏から奪還したことは、単に先祖伝来の旧領を回復したという以上の、決定的な意味を持っていた。中世の博多は、日明貿易や日朝貿易における日本側の最大の拠点であり、東アジアの交易ネットワークの中核をなす国際貿易港であった。この港を支配することは、人、物、情報、そして莫大な富が集積する経済的生命線を掌握することを意味した。
この経済基盤の確立こそが、政資の「中興」を支える原動力となった。彼は博多を拠点として、特に朝鮮との貿易に力を注ぎ、一族の再興に必要な経済力を着実に蓄えていった 2 。この貿易によって得られた莫大な利益が、彼の軍事行動を支える兵糧や武具の購入費用となり、また、肥前をはじめとする領国の経営を安定させるための財政基盤となったのである。博多の掌握は、少弐氏が再び北九州の覇権を争うための、不可欠な戦略的勝利であった。
政資が主導した朝鮮貿易の具体的な品目に関する詳細な記録は限られている。しかし、当時の日朝貿易の一般的な交易品から、その内容を推定することは可能である。
日本側からの主要な輸出品は、銅、硫黄、金といった国内で産出される鉱物資源であった。これらに加え、琉球王国との中継貿易を通じて入手した、東南アジア産の蘇木(赤色の染料)や胡椒といった香辛料なども、朝鮮へ再輸出されたと考えられる。
一方、朝鮮側からの輸入品で最も重要だったのは、木綿および綿布であった。当時、日本ではまだ木綿の本格的な栽培が始まっておらず、衣料の原料として極めて価値の高い輸入品であった。その他にも、仏教経典の集大成である大蔵経や、朝鮮独自の書籍、薬材として珍重された高麗人参、そして虎や豹の毛皮などが輸入された。
政資は、この双方向の交易を活発化させることで、自国の産品を富に変えるとともに、領内に貴重な物資をもたらし、その経済力と文化的影響力を高めていった。彼の権力は、この博多貿易という一点集中の経済基盤に支えられていたが、それは同時に、博多を失えば財政が即座に破綻するという、極めてリスクの高い構造でもあった。
博多を掌握し経済的基盤を固める一方で、政資は本拠地である肥前国(現在の佐賀県・長崎県)における領国支配の安定化にも注力した。彼は領国に守護代や郡代といった役職を置き、支配体制の制度化を図った。例えば、文明17年(1485年)の時点では、肥前国の三根郡の郡代として加賀氏伴がその任にあり、その後任には少弐一族の横岳資貞が就任していることが確認されている。
さらに重要だったのは、肥前国内に割拠する国人衆との関係構築である。政資は、彼らを単に力で抑えつけるのではなく、巧みな外交政策や婚姻政策を通じて、自らの支持基盤へと組み込んでいった。その代表的な例が、実弟の胤資を肥前の有力国人である小城の千葉氏の養子として送り込んだことである。これにより、分裂状態にあった千葉氏のうち、西千葉氏を確実に味方につけることに成功した。また、龍造寺氏や高木氏といった他の有力国人に対しても、その武力を尊重し、自らの軍事行動に従わせることで、協力関係を築いた。明応2年(1493年)には、少弐氏の支配に服属しようとしない西部の松浦党・伊万里山代氏を、龍造寺氏らの軍勢を率いて征伐しており、肥前国人衆に対する宗主としての権威を示している。
しかし、この権力基盤は、強力な直轄領と譜代家臣団を持つ大内氏に比べ、構造的に脆弱であったと言わざるを得ない。彼の軍事力は、独立性の高い国人領主たちの連合体に依存しており、その協力関係は、少弐氏の威勢と、彼ら国人衆の利害が一致している間だけ維持される、不安定なものであった。主家の力が衰えれば、彼らが離反する可能性は常に内在していたのである。
表1:少弐政資の領国経営と関連国人衆
氏族名 |
拠点 |
政資との関係(当初) |
関係の変化 |
関連史料 |
宗氏 |
対馬 |
強力な同盟者(外戚) |
後に大内方へ離反 |
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龍造寺氏 |
佐賀 |
従属的な家臣 |
政資の代は忠実、後に自立・敵対 |
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千葉氏 |
小城 |
分裂状態(西千葉が少弐方) |
弟・胤資が養子に入る |
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多久氏 |
多久 |
傘下の国人 |
最終的に裏切る |
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横岳氏 |
三根 |
一族、郡代 |
政資死後も遺児を保護 |
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高木氏 |
肥前 |
従属的な家臣 |
軍事行動に参加 |
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文明9年(1477年)、11年にも及んだ応仁・文明の乱が終結すると、西軍の総帥として京都に留まり続けていた大内政弘が、ついに本国である周防へと帰還した。これは、政資にとっての束の間の「好機」が、終わりを告げたことを意味していた。これまで京都の戦乱に注がれていた大内氏の強大な軍事力の矛先が、再び北九州に向けられることが避けられない情勢となったのである 2 。
大内政弘の帰国とほぼ時を同じくして、政資にとって致命的ともいえる事件が起こる。長年にわたり少弐氏の再興を支え続けてきた、対馬の宗氏が突如として少弐氏から離反し、大内氏の側に寝返ったのである 2 。
この離反は、大内氏による巧みな調略の結果であったと考えられる。宗氏の裏切りは、単に強力な同盟者を一人失ったという以上の、深刻な影響を少弐氏にもたらした。それは、少弐氏の権力構造の根幹を揺るがす、戦略的な転換点であった。宗氏との連携は、少弐氏が対馬・壱岐をも含めた海洋的な勢力として、朝鮮半島との直接的な交易ルートを確保するための生命線であった。この離反により、政資は大陸との直接的なパイプを断ち切られ、安全な後背地としての対馬をも同時に失った。彼の勢力は、国際的な交易ネットワークに連なる「海洋大名」から、肥前一国に閉ざされた「内陸の地方勢力」へと、その性格を大きく変質させられてしまったのである。これ以降、政資は宗氏に代わって、肥前の有力国人である龍造寺氏への依存を深めていくことになるが、これは彼の権力基盤が、筑前から肥前へと完全に移行したことを象徴する出来事であった。
帰国した大内政弘の反攻は、迅速かつ熾烈であった。文明10年(1478年)9月、大内氏の本格的な侵攻を受けた政資は、ついに抵抗を支えきれず、栄華を極めた拠点である大宰府と博多を放棄せざるを得なくなった 2 。彼が旧領を回復してから、わずか10年足らずの出来事であった。
北九州の制海権と貿易利権は、博多と宗氏の両方を手中に収めた大内氏によって完全に掌握された。経済的にも戦略的にも内陸に封じ込められた政資は、本拠地である肥前への退却を余儀なくされた。この敗北以降、政資は肥前国神埼郡にある勢福寺城(せいふくじじょう)などを拠点として、大内氏への絶望的な抵抗を続けることになる。勢福寺城は、もともと九州探題の一色氏によって築かれた山城で、少弐氏が長く居城としてきた、一族にとって因縁深い城であった。ここが、彼の最後の戦いの舞台となるのである。
博多を追われ、肥前へと退いた政資であったが、その闘志は衰えていなかった。彼は劣勢にありながらも、驚異的な粘り強さで再起を賭けた最後の抗戦に打って出る。
長享元年(1487年)、政資は肥前国内に残る敵対勢力である九州探題・渋川万寿丸の居城、綾部城を攻撃し、万寿丸を筑前へと追放した。これは、肥前東部における支配権を再確立し、反攻の足掛かりを築こうとする試みであった。さらに、長年の盟友関係にあった豊後国(現在の大分県)の大友政親と連携し、筑後国(現在の福岡県南部)の国人衆を味方につけて、大内領への反攻を開始する。この作戦は一時的に功を奏し、政資は筑前・筑後・肥前の大半を再び制圧し、一時は大宰府に返り咲くほどの勢いを見せた。明応3年(1494年)には、弟の千葉胤資や龍造寺康家らの大軍を率いて肥前西部に侵攻し、これまで服属していなかった松浦党をも支配下に置くなど、その晩年において、最後の輝きを放ったのである。
しかし、この政資の驚異的な再起は、宿敵・大内氏の警戒心を最大限にまで高める結果となった。大内政弘の子で、新たに家督を継いだ大内義興は、政資の存在を自らの九州支配における最大の脅威とみなし、その完全な殲滅を決意する。義興は、京の将軍・足利義稙(よしたね)に働きかけ、正式に「少弐氏追討」の御教書(命令書)を入手した。これにより、大内軍は幕府の公認を得た「官軍」となり、少弐氏を「朝敵」として討伐する絶対的な大義名分を得た。
明応6年(1497年)、大内義興は周防、長門、そして筑前、豊前の国人衆からなる圧倒的な大軍を動員し、政資の最後の拠点である肥前へと総攻撃を開始した。官軍の権威と物量に勝る大内軍の前に、少弐勢は各地で次々と撃破された。この絶望的な戦いの中で、政資の嫡男であった高経も奮戦の末に討死し、少弐氏の命運は、ここに尽きようとしていた。
嫡男を失い、敗走を続ける政資に残された最後の望みは、傘下の国人であり、かつ娘・桔梗の嫁ぎ先でもある多久宗時を頼ることだった。政資は、宗時の居城である梶峰城(かじみねじょう、現在の佐賀県多久市)へと向かった。舅である宗時が、婿である自分を匿ってくれることに一縷の望みを託したのである。
しかし、その望みは非情にも打ち砕かれる。多久宗時は、既に大内義興から「政資を匿えば、汝もろとも攻め滅ぼす」という最後通牒を受け取っていた。自領と一族の存続か、滅びゆく主君への忠義か。戦国を生きる国人領主としての合理的な判断は、後者を切り捨てることであった。宗時は、城門を固く閉ざし、政資の入城を拒絶した。この裏切りは、個人の不忠というよりも、少弐氏の権威がもはや国人領主たちに忠誠を捧させる価値を完全に失ったことの、最終的な証明であった。
最後の逃げ場を失い、追手に追われた政資は、梶峰城の麓にある専称寺(せんしょうじ、現在の佐賀県多久市)へと逃げ込んだ。そして明応6年4月19日(1497年5月21日)、全ての望みが絶たれたことを悟り、ついに自刃して果てた。享年57。その戒名は、安養院殿明哲本光大禅定門と伝えられている。
政資は、武将であると同時に、和歌や連歌にも通じた教養深い文化人であったと伝わっている。彼が最期に詠んだとされる辞世の句は、その人柄を今に伝えている。
花ぞ散る 思へば風の 科(とが)ならず 時至りぬる 春の夕暮れ
「花が散るのは、風のせいではない。ただ、春の夕暮れという、散るべき時が来ただけなのだ」というこの歌は、自らの死を自然の摂理として静かに受け入れる無常観と、武将としての潔さを見事に表現している。一族の再興に生涯を捧げ、最後まで戦い抜いた男が、その最期に示した深い諦観と教養は、彼の悲劇的な生涯を一層印象深いものにしている。
表2:少弐政資の生涯と関連年表
西暦 |
和暦 |
政資の動向 |
関連勢力の動向(幕府・大内・その他) |
1441年 |
嘉吉元年 |
誕生 |
嘉吉の乱勃発。父・教頼が大内教弘に敗北 1 。 |
1469年 |
文明元年 |
宗貞国と共に蜂起、大宰府を奪還。 |
応仁の乱の最中、大内政弘は在京。 |
1477年頃 |
文明9年頃 |
盟友であった対馬の宗氏が離反。 |
応仁の乱終結。大内政弘が本国へ帰国。 |
1478年 |
文明10年 |
大内軍に敗れ、大宰府・博多を放棄し肥前へ退却。 |
大内政弘による北九州侵攻が本格化。 |
1487年 |
長享元年 |
肥前の綾部城を攻略し、九州探題・渋川万寿丸を追放。 |
|
1494年 |
明応3年 |
大友氏と連携し、肥前西部の松浦党を支配下に置く。 |
大内政弘が死去し、義興が家督を継承。 |
1497年 |
明応6年 |
大内義興に敗れ、嫡男・高経戦死。多久宗時に裏切られ、専称寺で自害。 |
大内義興、幕府の追討令を得て肥前へ侵攻。 |
少弐政資の死によって、鎌倉以来の名門・少弐氏は事実上一時滅亡した。しかし、その血脈は辛うじて保たれた。政資の三男で、当時はまだ幼児であった資元(すけもと)が、横岳資貞をはじめとする忠実な旧臣たちに保護され、肥前国三根郡の西島城で密かに匿われ、成長したのである。
成人した資元は、父・政資と同様に、一族の再興にその生涯を捧げることになる。彼は、父の代からの同盟者であった豊後の大友氏からの支援を受け、また、龍造寺家兼ら家臣団の奮闘にも支えられ、再び少弐氏の旗を掲げた。勢福寺城を拠点として勢力を拡大し、大内氏と和睦を結んで、一時は肥前守護の地位を回復するなど、目覚ましい活躍を見せた。しかし、この再興もまた長くは続かなかった。享禄3年(1530年)以降、再び大内氏の攻勢にさらされ、天文5年(1536年)、大内義隆が派遣した陶興房の軍勢に攻められ、資元は父・政資が自刃したのと同じ、多久の専称寺でその生涯を閉じた。親子の墓碑は、今もこの寺に並んで現存している。
少弐氏の再興を二代にわたって支えたのは、龍造寺氏をはじめとする肥前の国人衆であった。しかし、主家の権威が失墜し、その力が衰退していく過程で、彼らは徐々に自らの実力を蓄え、やがて主家を凌駕する存在へと成長していく。特に、龍造寺家兼とその一族の台頭は著しく、彼らは少弐氏の家臣という立場から、肥前における独立した戦国大名へと変貌を遂げた。
少弐氏最後の当主となったのは、資元の子・冬尚(ふゆひさ)であった。彼の時代になると、龍造寺家からは「肥前の熊」と恐れられた龍造寺隆信が登場する。隆信は、かつての主家である少弐氏を完全に自らの支配下に置こうと画策し、永禄2年(1559年)、ついに主君である冬尚に牙を剥いた。隆信に攻められた冬尚は、勢福寺城近くの菅生寺で自害。これにより、鎌倉時代から四百年以上続いた鎮西の名門・少弐氏は、かつての家臣であった龍造寺氏の手によって、歴史の舞台から完全に姿を消すことになったのである。
少弐政資の生涯は、滅びゆく一族の運命に翻弄された悲劇の当主として語られることが多い。確かに、彼の人生は宿敵・大内氏との絶え間ない戦いに明け暮れ、最後は家臣の裏切りによって非業の死を遂げるという、悲劇的な結末を迎えた。
しかし、その生涯を詳細に検証すると、彼が単なる「滅びゆく者」ではなかったことが明らかになる。彼は、応仁の乱という中央の政治的空白を的確に突き、博多という国際貿易港の経済的価値を正確に理解し、それを活用して一度は旧領の大部分を回復した。その手腕は、極めて戦略的であり、優れた状況判断能力と行動力を持っていたことの証左である。彼は、時代の大きなうねりの中で、伝統的権威、経済力、軍事力、そして外交関係といった、自らが持ちうる全てのカードを駆使して、最後まで運命に抗った旧勢力の最後の戦略家として評価されるべきであろう。
政資の敗北と、その後の少弐氏の完全な滅亡は、九州北部の政治秩序が、鎌倉以来の伝統的権威を誇る名門守護(少弐氏)から、中央の室町幕府と結びついて広域支配を確立した守護大名(大内氏)、そして最終的には、在地から実力でのし上がった国人領主(龍造寺氏)へと、不可逆的に移行したことを象徴する画期的な出来事であった。少弐政資の生涯は、まさにその激動の過渡期そのものを体現していたのである。
少弐政資の生涯は、宿命のライバルである大内氏との絶え間ない抗争の中にあった。彼は、応仁の乱という全国的な動乱を、一族再興のための千載一遇の好機と捉え、果敢に行動を起こした。博多の港を掌握し、朝鮮貿易によって莫大な富を得ることで、父祖が失った旧領の大部分を回復し、少弐氏の「中興」を一時的に成し遂げた。その手腕は、戦略家として高く評価されるべきものである。
しかし、彼が築き上げた権力基盤は、博多貿易という一点集中の経済と、肥前国人衆との流動的な同盟関係の上に成り立つ、本質的に脆弱なものであった。応仁の乱が終結し、中央の政治情勢が安定すると、それは宿敵・大内氏の本格的な反攻を招く結果となる。長年の盟友であった宗氏の離反は、彼の勢力から海洋性と国際性を奪い、そして最後は、頼みとした家臣・多久宗時の裏切りによって、全ての望みを断たれた。
彼の粘り強い戦いは、旧来の名門が時代の変化に最後まで抗った証であり、その死と少弐氏の滅亡をもって、九州北部の政治勢力図は大きく塗り替えられていく。彼の生涯は、滅びの美学を体現した悲劇の武将であると同時に、限られた条件の中で最大限の戦略を尽くした現実主義者でもあった。少弐政資という人物を多角的に検証することは、戦国時代という巨大な時代の転換期における、権力と権威、忠誠と裏切り、そして人間の意志と抗いがたい運命の相克を理解する上で、我々に極めて重要な示唆を与えてくれるのである。