戦国時代の肥前国(現在の佐賀県、長崎県)に、その栄華と悲劇の生涯を刻んだ一人の武将がいた。少弐家第16代当主、少弐資元(しょうに すけもと)である。彼の生涯は、「肥前勢福寺城主。大内義隆の攻勢を受け居城を明け渡して和睦する。のち欺かれて所領をすべて失い、追撃を受けて自害した」という簡潔な記述に集約されがちである。しかし、この悲劇的な結末の裏には、鎌倉時代から続く鎮西(九州)の名門としての矜持、宿敵・大内氏との百年以上にわたる宿命的な対立、そして主家を凌駕するまでに台頭した新興勢力・龍造寺氏との複雑な関係性など、幾重にも折り重なった歴史的背景が存在する。
本報告書は、少弐資元を単なる「敗者」として捉えるのではなく、九州北部の権力構造が中世から戦国へと激変する時代の転換点を、その身をもって体現した象徴的人物として位置づける。彼の生きた時代の力学、すなわち巨大勢力の圧力、家臣団の自立化、そして抗いがたい運命の連鎖を解き明かし、その生涯を立体的かつ多角的に描き出すことを目的とする。
西暦 |
和暦(元号) |
少弐氏の動向(資元中心) |
大内氏の動向(義興・義隆中心) |
龍造寺氏の動向(家兼中心) |
その他関連勢力 |
1489 |
長享3/延徳元 |
少弐資元、誕生 1 |
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1497 |
明応6 |
父・政資と兄・高経、大内軍に攻められ自害。資元(9歳)、横岳資貞らに保護される 1 |
大内義興、少弐政資を討伐 2 |
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幕府、大内氏に少弐追討令を発す 3 |
1507 |
永正4 |
大友氏の後援と大内氏との和解により、家督を相続し肥前守に任官 2 |
大内義興、将軍・足利義尹を奉じ上洛 2 |
龍造寺家和・家兼らも上洛軍に従う 2 |
大内・少弐間の和解が成立 |
1524 |
大永4 |
大内方に通じようとした筑紫満門を謀殺 5 |
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1528 |
享禄元 |
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大内義興が死去し、大内義隆が家督を相続 6 |
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1530 |
享禄3 |
田手畷の戦い 。龍造寺家兼らの活躍で大内軍を撃退 8 |
義隆、杉興運に資元討伐を命じるも敗北 7 |
龍造寺家兼、赤熊隊を率いて大内軍を破る。戦功により勢力を拡大 8 |
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1534 |
天文3 |
大内軍に勢福寺城を包囲され、家兼の仲介で和睦し開城 10 |
義隆、自ら出陣。家兼を介して和睦を成立させる 10 |
家兼、大内・少弐間の和睦を仲介 10 |
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1535 |
天文4 |
和睦を破られ、大内氏に全所領を没収される 10 |
義隆、和睦を破り少弐氏の所領を没収 |
家兼、資元を積極的に救援せず傍観 8 |
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1536 |
天文5 |
大内軍の追撃を受け、父と同じ多久・専称寺で自害(享年48) 1 |
義隆、陶興房に命じ資元を攻撃、自害に追い込む。大宰大弐に任官 2 |
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資元の子・冬尚は小田資光のもとへ逃れる 5 |
1545 |
天文14 |
(資元の死後)子・冬尚、馬場頼周の讒言を信じ龍造寺氏討伐を黙認 |
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馬場頼周の謀略により、家兼の子・孫の多くが殺害される 15 |
馬場頼周、資元を見殺しにした家兼への憎悪から龍造寺一族を粛清 17 |
1559 |
永禄2 |
資元の子・冬尚、龍造寺隆信に攻められ自害。 名門・少弐氏、滅亡 18 |
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龍造寺隆信、少弐冬尚を滅ぼし肥前を掌握 |
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少弐資元の生涯を理解するためには、彼が背負った一族の歴史、すなわち鎌倉時代から続く栄光と、戦国の動乱の中で徐々に衰退していった過程をまず把握する必要がある。
少弐氏の祖は、藤原秀郷の流れを汲むと称した武藤氏に遡る 18 。その始祖である武藤資頼は、もとは平家に仕えていたが、源平合戦の最中に源氏方に投降し、源頼朝の御家人となった 21 。平家滅亡後、頼朝は九州における旧平家方の勢力を抑えるため、資頼を鎮西奉行に抜擢し、筑前・豊前・肥前などの守護職に任じた 21 。この頼朝による大抜擢が、一族のその後の興隆の礎となったのである。
資頼の子・資能の代になると、大宰府の次官職である「大宰少弐」を世襲したことから、その官職名を家名とし、「少弐」を名乗るようになった 19 。こうして少弐氏は、同じく関東から下向した大友氏、島津氏よりも早く九州に根を張り、大宰府という政治・文化の中心地を本拠としたことで、鎮西の御家人の中でも筆頭の家格を誇る名門としての地位を確立した 2 。
少弐氏の歴史が最も輝いたのは、国家存亡の危機であった元寇(文永・弘安の役)においてである。文永11年(1274年)と弘安4年(1281年)の二度にわたる蒙古襲来に際し、当時の当主・少弐資能と、その子である経資、景資らは、九州の御家人を率いる総司令官として日本軍の先頭に立った 2 。特に弘安の役では、経資の子・資時が壱岐島で壮絶な戦死を遂げ、老将・資能自身もこの戦で受けた傷がもとで命を落とすなど、一族は多大な犠牲を払いながらも国難を防いだ 18 。この比類なき武勲により、少弐氏は筑前・豊前・肥前・壱岐・対馬の「三前二島」の守護職を兼ねる九州北部最大の勢力となり、その栄華は頂点に達した。この元寇での英雄的な活躍こそが、後代に至るまで少弐一族の誇りと矜持の源泉となったのである 18 。
しかし、鎌倉幕府が滅亡し南北朝の動乱期に入ると、少弐氏の栄光にも翳りが見え始める。足利尊氏が九州へ落ち延びた際にはこれを支援し、多々良浜の戦いで菊池氏を破るなど活躍したものの 21 、室町幕府が九州統治のために設置した九州探題職を巡って、幕府や他の有力守護との対立が頻発するようになった。
特に、少弐氏にとって宿命のライバルとなるのが、周防国(現在の山口県)を本拠とする大内氏であった 23 。大内氏は、九州探題を支援するという名目で北九州への軍事介入を繰り返し、博多の利権や筑前の支配権を巡って少弐氏と激しく衝突した 18 。この両家の対立は、単なる領土争いにとどまらず、九州における覇権を賭けた百年以上にわたる「戦争」の様相を呈していく。大内氏の執拗な攻勢の前に、少弐氏は次第に本拠地である大宰府を追われ、肥前国への後退を余儀なくされるなど、その勢力はじりじりと削られていった 2 。
少弐資元の父であり、第15代当主であった少弐政資は、この没落の流れに抗い、一時は「少弐氏中興の祖」と称されるほどの活躍を見せた人物であった 3 。応仁元年(1467年)から始まった応仁の乱で、宿敵・大内氏が西軍の主力として軍勢を率いて上洛すると、政資はこの好機を逃さなかった。東軍の細川氏と結び、手薄となった九州で蜂起。対馬の宗氏の支援を得て大内軍を破り、奪われていた大宰府の奪還に成功したのである 3 。さらに朝鮮との貿易も活発化させ、経済的基盤を再建するなど、少弐氏の勢力を見事に回復させた。
しかし、この栄光は長くは続かなかった。応仁の乱が終結し、大内政弘の子・義興が九州へ本格的な反攻を開始すると、政資は再び劣勢に立たされる。幕府から追討令を得た大内・渋川連合軍の全面攻撃を受け、筑前を放棄 3 。肥前へ退却し、傘下の国人であった多久氏の梶峰城に籠もった。だが、その頼みとした多久宗時に裏切られ、城を追放されるという致命的な打撃を受ける 3 。万策尽きた政資は、明応6年(1497年)、多久の専称寺において自刃し、その波乱の生涯を閉じた 3 。
この父・政資の死は、単なる一武将の敗北ではなかった。その死の構図、すなわち①宿敵・大内氏による執拗な攻撃、②頼みとした家臣(国人)の裏切り、そして③寺院という聖なる場所での自害という三つの要素は、後の時代に息子・資元の最期と不気味なまでに一致する 1 。政資の死は、資元の悲劇を予兆する「原型」であり、少弐氏の没落が個人の資質の問題ではなく、強大な隣国と自立化する家臣という、抗いがたい時代の構造的圧力によって引き起こされたことを象徴している。この「悲劇の型」の反復こそが、少弐氏の落日を物語る上で極めて重要な意味を持つのである。
Mermaidによる関係図
父と兄を同時に失い、一族は滅亡の淵に立たされた。その絶望的な状況から、幼い資元がいかにして家名を再興し、歴史の表舞台に再び姿を現したのか。その道のりは、苦難と忍従、そして大国の思惑に翻弄されるものであった。
明応6年(1497年)、大内義興率いる討伐軍の前に、父・政資は多久の専称寺で自刃し、嫡男であった兄・高経もまた、父とは別の場所で大内軍との戦いの末に命を落とした 2 。これにより、少弐家の嫡流は断絶したかに見えた。この時、政資の三男であった資元(幼名・松法師丸)は、わずか9歳(数え年、満8歳)の幼児に過ぎなかった 1 。
風前の灯火であった少弐家の血脈を守ったのは、一族への忠誠を誓う旧臣たちであった。資元は、少弐氏の庶流であり、最後まで父・政資に従った重臣・横岳資貞らに保護され、肥前国三根郡にある西島城にかくまわれた 1 。大内氏による執拗な残党狩りの目をかいくぐり、資元はここで息を潜め、雌伏の時を過ごすこととなる。いつ追っ手に発見されるか分からない恐怖の中で、滅び去った一族の再興を誓う、苦難に満ちた少年期であった。
資元と少弐氏にとって転機が訪れたのは、彼の力ではなく、九州の勢力図を巡る大国の政治力学によるものであった。当時、九州北部で大内氏と覇を競っていた豊後国(現在の大分県)の大友氏が、宿敵である大内氏を牽制するための戦略的価値を少弐氏に見出したのである 2 。大友氏は、少弐氏を再興させることで、大内氏の背後を脅かす存在として利用しようと画策した。
この思惑が現実のものとなったのが、永正4年(1507年)のことである。大内義興が、先の政変で都を追われていた前将軍・足利義尹(後の義材)を奉じて上洛するという大事業に乗り出した際、後顧の憂いを断つために、長年の宿敵であった少弐氏との一時的な和解に応じた。この機を捉え、大友氏の後ろ盾を得た資元は、正式に少弐家の家督を継ぐことを認められ、肥前守に任官されたのである 2 。父の死から10年、19歳になっていた資元は、ついに歴史の表舞台への復帰を果たした。
しかし、この家督相続は、資元が自力で勝ち取ったものではなく、大友氏の政治的思惑と、大内氏の一時的な戦略転換(上洛への集中)という外的要因に大きく依存する、極めて脆弱な基盤の上に成り立っていた。いわば、資元は「大友氏の対大内用の駒」という傀儡的な立場からそのキャリアを再出発させたのである。だが、彼はその立場に甘んじることはなかった。大永4年(1524年)には、大内方に通じていた国人・筑紫満門を謀略によって殺害するなど 5 、主体的に旧領回復と勢力拡大を図ろうとする気概を見せる。彼の生涯は、大国の思惑に翻弄される運命に抗い、名門の誇りを取り戻そうとする、連続的な闘争の物語となっていくのである。
再興を果たした資元は、失われた権威と領土を取り戻すべく、宿敵・大内氏との対決姿勢を鮮明にしていく。そして享禄3年(1530年)、彼の治世における最大のハイライトであり、同時にその後の悲劇への序曲ともなる「田手畷(たでなわて)の戦い」が勃発する。
大内義興の死後、家督を継いだ大内義隆は、父の代からの宿敵である少弐氏が、資元のもとで再び勢力を回復しつつある兆候を看過しなかった 6 。享禄3年(1530年)春、義隆は筑前守護代の杉興運を総大将に任じ、肥前東部の国人衆を従えた1万ともいわれる大軍を、資元の本拠地である肥前勢福寺城(現在の佐賀県神埼市)へと侵攻させた 7 。
これに対し、資元が動員できた兵力はわずかであり、譜代の家臣である龍造寺氏や小田氏、馬場氏らを結集して防戦にあたったものの、兵力差は歴然としていた 8 。少弐軍の敗色は濃厚であり、名門の再興もここまでかと思われた。
両軍が筑後川の支流である田手川付近の湿地帯「田手畷」で対峙した際、戦況を覆す奇跡が起こる。この戦いの実質的な主役となったのは、少弐氏の重臣であり、当時すでに老練の域に達していた龍造寺家兼であった 15 。
数に劣る少弐軍は当初、大内軍の猛攻に押され苦戦を強いられた。しかしその時、突如として戦場に異様な一団が出現する。赤熊(しゃぐま)の毛皮を頭に被り、鬼のような面をつけた百人ほどの奇襲部隊が、大内軍の側面に猛然と突入したのである 8 。この異形の集団の正体は、龍造寺家兼の配下にあった佐賀本庄の郷士・鍋島清久とその子・清房が率いる鍋島一党であった。湿地帯での予期せぬ奇襲に大内軍の陣形は大きく乱れ、浮き足立つ。この好機を逃さず、龍造寺家兼が率いる本隊が奮起し、一斉に反撃に転じた。
戦況は一変し、乱戦の中で大内方の先陣を務めた筑紫尚門、横岳資貞といった肥前の有力国人らが次々と討ち死にし、総大将の杉興運は命からがら筑前へと敗走した 8 。少弐軍は、圧倒的な兵力差を覆し、歴史的な大勝利を収めたのである。
田手畷の戦いでの勝利は、滅亡寸前であった少弐氏の威光を一時的に回復させ、資元を大いに喜ばせた。戦後、最大の功労者である龍造寺家兼には、資元から恩賞として佐賀郡の広大な所領が与えられた 26 。また家兼は、奇襲を成功させた鍋島清房に自らの孫娘を嫁がせ、両家の間に強固な姻戚関係を築いた。この夫婦の間に生まれたのが、後に龍造寺氏を支え、佐賀藩の礎を築くことになる鍋島直茂である 8 。
しかし、この輝かしい勝利は、皮肉にも少弐氏の未来に暗い影を落とすことになる。この勝利は、実質的に龍造寺家兼とその配下の軍功によってもたらされたものであった 15 。その結果、少弐家内部における家兼の権威と影響力は、主君である資元を凌駕するほどに増大してしまったのである。さらに深刻だったのは、敵将であった大内義隆までもが、少弐資元ではなく龍造寺家兼の武勇と実力を高く評価し、以降、調略の主要な対象として見なすようになったことであった 7 。
つまり資元は、自らの勝利によって、自らを脅かすほどの強大な家臣を育て上げ、かつその家臣を宿敵に狙われるという、極めて不安定で危険な状況を自ら作り出してしまったのである。田手畷での勝利の歓声の裏で、主家と家臣の力関係は決定的に逆転し、後の龍造寺氏の自立と裏切りへの道が、この時に敷かれたと言っても過言ではなかった。
田手畷の敗戦は、大内義隆に大きな衝撃を与えた。しかし、西国随一の戦国大名である彼は、単なる武力による再侵攻という短絡的な手段を選ばなかった。彼は、武力と権威、そして調略を組み合わせた、より巧みで執拗な戦略によって、少弐氏を精神的にも物理的にも追い詰めていく。
義隆がまず着手したのは、少弐氏がその存在の拠り所としてきた「権威」の無力化であった。少弐氏は、その名の通り「大宰少弐」という大宰府の官職を代々世襲してきたことを、その家格の根源としていた 21 。義隆は、この権威を根底から覆すため、朝廷に対して莫大な献金を行い、天文5年(1536年)、ついに「大宰少弐」よりも上位の官職である「大宰大弐」に任官されることに成功する 2 。
これは、単なる名誉職の獲得ではない。少弐氏が誇りとしてきた官位を、その上位の官位を持つことで相対的に貶め、「九州における公的な支配者」としての正統性が大内氏にあることを内外に示す、極めて効果的な政治戦略であった 27 。これにより、義隆は少弐氏討伐に「大義名分」を得たのである。
大内義隆の次なる一手は、少弐氏の内部からの切り崩し、すなわち龍造寺家兼の調略であった。田手畷の戦いで家兼の実力を認めた義隆は、彼を少弐氏から離反させるべく、様々な働きかけを行った 7 。
一方、龍造寺家兼もまた、一族の将来を賭けた重大な岐路に立たされていた。主家である少弐氏は、名門とはいえその勢力は衰退の一途をたどっている。このまま没落しつつある主君に殉じるのか、それとも西国最大の勢力である大内氏と結び、一国人領主から戦国大名として自立する道を選ぶのか。当時すでに80歳を超えていたとされる老将・家兼は、一族の存亡をかけた究極の選択を迫られていたのである。
天文3年(1534年)、周到な準備を整えた大内義隆は、陶興房を大将とする大軍を再び肥前へ派遣し、資元の居城・勢福寺城を包囲した 10 。さらに義隆は自らも筑前に出陣し、太宰府に本陣を構え、戦況を注視した 5 。
この時、義隆は正面からの攻撃と並行して、決定的な調略を仕掛ける。龍造寺家兼に対し、少弐資元との和睦を仲介するよう命じたのである 5 。もはや大内軍に抗する術はないと判断した家兼は、この命令を受諾。主君である資元のもとへ赴き、和議に応じるよう説得した。これは、少弐氏の筆頭家老である家兼が、事実上、敵方である大内氏のエージェントとして機能したことを意味していた。主君と宿敵との間で、家兼はついに後者を選ぶ決断を下したのである。
龍造寺家兼の説得は、四面楚歌の状態にあった少弐資元にとって、抗いがたいものであった。彼は、家臣の進言を受け入れ、宿敵との和睦に一縷の望みを託す。しかし、その先に待っていたのは、救済ではなく、あまりにも無慈悲な裏切りと、父の運命をなぞるかのような悲劇的な結末であった。
家兼の仲介により、資元は大内義隆との和睦を受け入れた。そして天文3年(1534年)、和平の証として、長年本拠としてきた堅城・勢福寺城を明け渡し、大内軍は包囲を解いた 10 。ひとまず戦火は収まり、資元は安堵したかに見えた。
しかし、この和睦は当初から大内義隆が仕組んだ罠であった。和議が成立し、少弐氏が武装を解いた直後の天文4年(1535年)、義隆は突如として和睦の約束を反故にし、少弐氏が肥前に有する所領をすべて没収するという暴挙に出たのである 10 。これは、もはや戦ではなく、一方的な簒奪であった。
この時、田手畷で資元を救った英雄であり、今回の和睦を仲介した龍造寺家兼は、主君の窮状に対して積極的に救援の手を差し伸べることはなかった 8 。彼はこの裏切りを傍観し、事実上、資元を見殺しにした。これにより、少弐氏は軍事的拠点と経済的基盤のすべてを失い、完全に無力化された。
すべてを失い、裸同然となった資元に、大内義隆はなおも追撃の手を緩めなかった。天文5年(1536年)9月、陶興房が率いる大内軍の追討を受けた資元は、逃亡の末、かつて父・政資が自害したのと同じ、肥前多久の専称寺に追い詰められた 3 。
この場所が彼の終焉の地となったことは、単なる偶然ではあるまい。それは、少弐氏の没落が、①大内氏という巨大な外的圧力と、②自立化する家臣(父の代の多久氏、そして資元の代の龍造寺氏)という内的要因の組み合わせによって引き起こされるという「運命のパターン」が、二代にわたって寸分違わず反復されたことを象徴している。
もはや逃れる術はないと悟った資元は、父と同じ場所で、同じように裏切りによってその生涯を終えることを決意する。天文5年9月4日、少弐資元は専称寺にて自害。享年48(数え年)であった 1 。彼の死は、一個人の死であると同時に、鎌倉時代から続いた「鎮西の名門・少弐氏」という中世的な権威が、戦国という新しい時代の冷徹な論理(下剋上と実力主義)によって完全に過去の遺物とされた、象徴的な瞬間であった。現在、多久市の専称寺には、この悲運の父子の墓碑が静かに並んで現存している 1 。
少弐資元の死は、一族の歴史における決定的な転換点となった。彼の死後、少弐氏は名目上存続するものの、もはや自立した戦国大名としての実体を失い、北九州の政治力学の中で翻弄される存在へと転落していく。そして皮肉なことに、資元の悲劇的な死が、巡り巡って自らの一族にとどめを刺す「怪物」を生み出す遠因となるのである。
資元の自害の際、その子である冬尚はかろうじて難を逃れ、肥前蓮池城の小田資光のもとへ身を寄せた 5 。その後、冬尚は龍造寺家兼らの支援も受けて一時的に少弐氏を再興するが 5 、もはやその力は往時の面影もなく、実質的には龍造寺氏や大友氏の思惑によって担がれる傀儡当主に過ぎなかった。北九州の主役の座は、もはや少弐氏から、台頭著しい龍造寺氏へと移りつつあった。
この状況に憤慨したのが、少弐氏譜代の忠臣・馬場頼周であった。彼は、龍造寺家兼が主君・資元を見殺しにしたことを許しがたい裏切りとみなし、その後の家兼の専横ぶりに強い危機感と憎悪を抱いていた 16 。
天文14年(1545年)、頼周はつに行動を起こす。主君・冬尚の承認のもと(あるいは讒言によって承認させ)、謀略を用いて龍造寺家兼の子や孫たちを次々と誘い出して殺害するという、凄惨な粛清事件を引き起こしたのである 15 。この事件により、龍造寺一族の主だった者はほぼ全滅し、家兼自身も筑後への逃亡を余儀なくされた。
この馬場頼周による復讐劇は、予期せぬ結果をもたらす。一族の男子のほとんどを失った龍造寺家兼は、家名断絶の危機に瀕し、苦渋の決断を下す。それは、仏門に入っていた曾孫・円月を還俗させ、龍造寺家の後継者とすることであった 18 。この円月こそ、後に「肥前の熊」と恐れられ、九州三強の一角に数えられることになる龍造寺隆信である 30 。
一族を惨殺されたという強烈な原体験を持つ隆信は、非情で苛烈な戦国大名へと成長する。彼は馬場頼周を討って祖父や父の仇を討つと、かつての主家である少弐氏にも牙を剥き、永禄2年(1559年)、ついに主君・少弐冬尚を勢福寺城に攻め滅ぼした 18 。ここに、鎌倉以来の名門・少弐氏は、三百七十余年の歴史に幕を閉じたのである。
この歴史の連鎖を辿ると、一つの皮肉な因果関係が浮かび上がる。すなわち、①少弐資元の悲劇的な死(龍造寺家兼の裏切りが原因)が、②馬場頼周の復讐心を生み、③その復讐が龍造寺一族の粛清事件を引き起こし、④その結果として龍造寺隆信という「怪物」が歴史の表舞台に登場し、⑤最終的にその隆信が少弐氏を完全に滅亡させた、という流れである。資元の死が、時を経て自らの一族を根絶やしにする種を蒔いたとも言えるこの構造は、戦国時代の非情さと歴史の皮肉を雄弁に物語っている。
結論として、少弐資元は決して無能な武将ではなかった。田手畷の戦いでは、家臣の力に助けられながらも大勝利を収めている。しかし彼の悲劇は、第一に、あまりにも強大で執拗な宿敵・大内氏の存在。第二に、田手畷の勝利によって肥大化し、自立していく家臣団を制御できなかったこと。そして何よりも、鎌倉以来の名門という「過去の栄光」と権威に縛られ、実力が全てを支配する戦国という新しい時代の変化に対応しきれなかった点にある。彼の生涯は、中世的な権威が崩れ去り、下剋上の嵐が吹き荒れる時代の転換点を、その身をもって体現した、悲劇の武将として記憶されるべきであろう。