1. はじめに
本報告書は、戦国時代の出雲国に生きた一人の武将、尼子清久(あまご きよひさ)の生涯と、彼を取り巻く複雑な歴史的状況について、現存する史料に基づき詳細に考究することを目的とする。清久の生涯は、戦国時代における尼子氏の興隆と内紛、そして周辺勢力との激しい権力闘争の渦中で翻弄されたものであり、当時の武将が置かれた過酷な運命を象徴する一例と言えるであろう。
戦国時代の出雲国において、尼子氏は当初、守護京極氏の守護代としてその地位を築いた 1 。特に尼子経久(つねひさ)の代には、巧みな謀略と武威をもって勢力を飛躍的に拡大させ、山陰・山陽十一ヶ国太守と称されるほどの広大な影響力を誇る戦国大名へと成長した 3 。しかし、その支配基盤は必ずしも盤石ではなく、一族内や有力国人衆との間に潜在的な緊張関係を常に抱えていた。本報告書で光を当てる尼子清久は、まさにそのような尼子氏の内部矛盾と、西国の大内氏や後に台頭する毛利氏といった外部勢力との角逐の狭間で、短い生涯を終えた人物である。彼の存在は、尼子氏の歴史、ひいては中国地方の戦国史を理解する上で、見過ごすことのできない意義を有している。
2. 尼子清久の出自と境遇
2.1 父・塩冶興久とその立場
尼子清久の父は、尼子経久の三男にあたる塩冶興久(えんや おきひさ)である 3 。興久は、出雲国西部に勢力を持った名族塩冶氏の養子となり、その家督を継承した 6 。これは、父経久による出雲国内の勢力基盤強化策の一環であったが、結果として尼子宗家との間に深刻な軋轢を生む要因ともなったのである 6 。
塩冶興久の生涯における最大の転機は、享禄三年(1530年)頃に父・経久に対して起こした反乱、いわゆる「塩冶興久の乱」である 6 。この反乱の背景には、経久による塩冶氏の伝統的な権益への介入、西出雲の国人領主たちの尼子宗家に対する不満、そして興久自身の所領加増要求などが複雑に絡み合っていたとされる 6 。興久は、出雲大社や鰐淵寺といった寺社勢力、さらには三沢氏、多賀氏などの西出雲の有力国人を味方につけ、妻の実家である備後国の山内氏とも連携し、広範な反尼子連合を形成するに至った 7 。
この塩冶興久の乱は、単なる親子の確執や個人的な野心に起因するものではなく、より深層的な要因を内包していたと考えられる。尼子氏の急激な勢力拡大は、その支配体制の未熟さや、古くからの在地勢力との間に摩擦を生じさせた。興久が養子に入った塩冶氏は、独自の歴史と権益を持つ名族であり、興久がその立場を代弁するようになると、尼子宗家が進める中央集権的な政策と衝突する可能性は当初から存在したと言える 6 。興久の所領加増要求の裏には、彼を支持する西出雲の国人衆(出雲大社を含む)の期待があったことは想像に難くない 6 。反乱に同調した勢力が備後山内氏や但馬山名氏にまで及んだことは 7 、この乱が単なる個人的な反抗ではなく、広域的な反尼子感情の受け皿となったことを示唆している。
しかし、この反乱は尼子経久およびその嫡孫である詮久(あきひさ、後の尼子晴久)によって鎮圧され、興久は敗走の末、天文三年(1534年)に自害を遂げた 7 。この内乱は、尼子氏の支配体制に潜む脆弱性を露呈させると同時に 7 、後の尼子宗家による一層強固な権力基盤強化への動きへと繋がっていくのである 7 。
2.2 父の反乱が清久に与えた影響
父・塩冶興久の反乱と悲劇的な最期にもかかわらず、その嫡男であった塩冶清久(後の尼子清久)は、幼少であったためか処刑を免れた。興久の遺領は、清久と、興久の次兄にあたる尼子国久(くにひさ)によって分割相続されたと伝えられている 7 。この処置は、塩冶氏旧臣の動揺を抑え、懐柔するとともに、尼子一門による西出雲支配を再編強化する意図があったものと考えられる。
反乱者の子である清久に父の遺領の一部を相続させたという事実は、単なる温情によるものとは考えにくい。むしろ、そこには尼子経久の冷徹な政治的判断が働いていたと見るべきであろう。塩冶興久の反乱は大規模であり、その支持基盤は西出雲に深く根差していた 6 。反乱鎮圧後、興久の血筋を完全に根絶やしにすることは、塩冶氏旧臣や同調勢力のさらなる反発を招き、西出雲の安定を損なう危険性があった。そこで、幼少の清久に相続を認める一方で、尼子一門の実力者である尼子国久(興久の兄)にも遺領を分け与えることで 9 、塩冶氏の勢力を実質的に分断・弱体化しつつ、尼子一門による支配を確実なものにしようとしたのである。これは、武力による鎮圧と並行して、懐柔策や勢力再編によって支配を安定させようとする、経久の老練な政治手腕の一端を示すものと言える。
2.3 塩冶清久から尼子清久へ – 尼子姓への復帰の経緯と時期
当初、塩冶清久と名乗っていた彼は 5 、天文九年(1540年)に作成された史料『自尊上人江御奉加目録』には「尼子彦四郎清久」としてその名が見え、尼子一門の中での序列五位に位置づけられていたことが確認される 5 。これは、父・興久の反乱が許され、塩冶姓から尼子姓への復帰(帰参)が正式に認められたことを意味する。その具体的な経緯については史料に乏しく不明な点が多いが、祖父・経久、あるいは当時既に家督を継いでいた伯父・晴久(当時は詮久)の判断によるものであったと考えられる 5 。
この清久の尼子姓復帰と一門としての厚遇は、当時の尼子氏が置かれていた政治的状況と無縁ではない。反逆者・塩冶興久の嫡男である清久が 5 、天文九年(1540年)という時期に尼子姓を名乗り、一門序列五位という比較的高い地位を与えられていたこと 5 は、単なる赦免以上の積極的な取り込みを意図したものであった可能性が高い。この頃、尼子氏は西の大内氏との間で石見銀山を巡る争いや、安芸・備後方面での勢力争いを激化させていた 3 。特に天文九年には、尼子詮久(晴久)が大軍を率いて毛利元就の吉田郡山城を攻めたものの、大内義隆の援軍もあって敗退するという大きな戦いがあった 3 。このような緊迫した対外状況下において、かつての敵対勢力の嫡流である清久を厚遇することは、旧塩冶方勢力の完全な掌握と、尼子一門全体の結束を内外に示すという戦略的効果を期待したものであったろう。清久の序列の高さは、彼が単なる人質ではなく、一定の役割を期待された一門衆として扱われたことを示唆しており、尼子宗家の統治戦略の一環と見ることができる。
表1:尼子清久関連年表
年代 (西暦) |
尼子清久の動向 |
尼子氏・塩冶氏関連事項 |
主要関連勢力の動向 (大内氏・毛利氏など) |
典拠例 |
享禄三年 (1530) |
(出生前か幼少期) |
塩冶興久、父・尼子経久に対し反乱を起こす (塩冶興久の乱) |
大内氏、興久と経久双方から支援要請を受け、最終的に経久を支持 7 |
6 |
天文三年 (1534) |
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塩冶興久、自害。興久の遺領は子・塩冶清久と兄・尼子国久が継承 |
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7 |
天文六年 (1537) |
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尼子経久隠居、孫・詮久(後の晴久)が家督相続 |
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14 |
天文九年 (1540) |
『自尊上人江御奉加目録』に尼子彦四郎清久として記録、一門序列五位 |
尼子詮久(晴久)、毛利元就の吉田郡山城を攻撃するも敗退 (吉田郡山城の戦い) |
大内義隆、毛利元就を支援 |
3 |
天文十年 (1541) |
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11月、尼子経久死去。詮久、将軍足利義晴より偏諱を受け晴久と改名 |
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3 |
天文十一年 (1542) |
第一次月山富田城の戦いで大内方に内通 |
大内義隆、出雲へ侵攻 (第一次月山富田城の戦い)。尼子晴久、籠城し徹底抗戦 |
大内義隆、月山富田城を包囲 |
5 |
天文十二年 (1543) |
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第一次月山富田城の戦い終結。尼子方勝利、大内軍撤退。晴久、大内方に与した者への処分を開始 |
大内義隆、撤退中に養子・晴持を失うなど大損害を被る |
13 |
天文十二年以降 |
尼子晴久により粛清される |
尼子晴久、権力基盤強化のため、一族や国人衆の統制を強化 |
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5 |
天文二十三年 (1554) |
(既に死去) |
尼子晴久、叔父・尼子国久ら新宮党を粛清 |
毛利元就、厳島の戦いで陶晴賢を破る (天文二十四年、1555年) |
1 |
(参考) 天正六年 (1578) |
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子・加藤政貞(清久の孫とされる場合もあるが 5 では子)、尼子再興軍として上月城の戦いで敗れ自害 |
毛利氏、織田氏と中国地方で抗争 |
1 |
3. 第一次月山富田城の戦いと尼子清久の動向
3.1 合戦の背景:尼子氏と大内氏の対立
天文九年(1540年)、尼子氏当主であった尼子晴久(当時は詮久)は、三万とも言われる大軍を率いて安芸国に侵攻し、大内氏方の有力国人であった毛利元就の居城・吉田郡山城を包囲した 4 。しかし、毛利軍の頑強な抵抗と、大内義隆が派遣した陶隆房(すえ たかふさ)率いる二万の援軍の前に尼子軍は大敗を喫し、安芸・備後における影響力を大きく後退させる結果となった 4 。
この吉田郡山城の戦いでの敗北と、翌天文十年(1541年)11月の祖父・尼子経久の死去という不幸が重なり、尼子氏の勢力下にあった国人領主たちが大量に大内氏へと寝返るという、尼子氏にとって極めて危機的な状況が生じた 18 。このような状況を好機と捉えた大内義隆は、尼子氏の本拠地である出雲国への大々的な侵攻を決意する。室町幕府将軍・足利義晴からの尼子氏攻撃要請も、この決定を後押ししたと考えられている 19 。これが、天文十一年(1542年)から翌十二年(1543年)にかけて繰り広げられた、第一次月山富田城の戦いである 8 。
3.2 合戦の経過と概要
大内義隆は、毛利元就をはじめとする中国地方の諸勢力を率い、約四万五千とも称される大軍を擁して月山富田城に迫った。これに対し、尼子晴久が率いる籠城兵の数は約一万五千と、兵力では大内方が圧倒的に優位であった 13 。
しかし、尼子方は巧みなゲリラ戦術によって大内軍の補給路を度々攪乱し 13 、また、難攻不落と謳われた月山富田城の堅固な守りもあって、戦線は膠着状態に陥った 21 。長期にわたる包囲戦は、大内軍の士気を低下させ、兵站にも困難をきたした。さらに、当初大内方に与していた三刀屋氏などの出雲国人衆が戦況の不利を悟り、再び尼子方へと寝返るという事態が発生し、大内軍の戦況は急速に悪化していった 15 。
最終的に大内義隆は撤退を余儀なくされ、その撤退戦の過程で養嗣子であった大内晴持(はるもち)を不慮の事故で失うなど、甚大な損害を被った 15 。この第一次月山富田城の戦いは、大内氏にとっては勢力後退の一因となり、逆に尼子氏にとっては、当主晴久のもとで勢力を回復させ、その後の最盛期を迎える大きな契機となったのである 13 。
3.3 尼子清久の立場変更 – 大内方への内通
この尼子氏の存亡をかけた第一次月山富田城の戦いの最中、天文十一年(1542年)、かつて父の反乱を許され尼子一門に復帰していたはずの尼子清久が、反尼子、すなわち大内義隆方に立場を変えた(内通した)と記録されている 5 。
史料には「大内方に与した」 18 、あるいは「反尼子に立場を変えた」 5 と簡潔に記されているのみで、その具体的な内通の内容や動機については詳細な記述が見当たらない。しかし、尼子宗家がまさに存亡の危機に瀕しているという極限状況下での裏切り行為であったことは疑いようがない。
清久の内通は、単なる個人的な背信行為として片付けることはできない。その背景には、先の塩冶興久の乱で顕在化した尼子氏内部の亀裂が、未だ完全に修復されていなかったという事情があった可能性が考えられる。清久は父・興久の反乱後、一度は許され尼子一門としての地位を与えられていたが 5 、尼子氏にとって最大の危機において大内方に寝返ったのである 5 。この行動の裏には、父・興久が尼子宗家によって死に追いやられたことへの消えぬ遺恨、あるいは大内氏の力を借りてかつての塩冶氏の勢力を再興しようとする野心、尼子晴久の統治や自身への処遇に対する不満、さらには大内方からの調略や、当初優勢に見えた大内軍に味方することで自らの生き残りを図ろうとした戦況判断など、様々な要因が複合的に絡み合っていたと推測される。いずれにせよ、この内通は尼子晴久にとって許しがたい裏切り行為であり、後の粛清の直接的な原因となった。そして、一度は収束したかに見えた塩冶氏系統の問題が、再び尼子宗家を揺るがす形で表面化したことを示している。
4. 尼子晴久による粛清
4.1 粛清の時期と経緯
尼子清久の粛清は、第一次月山富田城の戦いが終結し、大内軍が撤退した後、天文十二年(1543年)以降に行われたと考えられる 5 。尼子晴久は、この存亡をかけた戦いにおいて大内氏に与した者たちへの処分を開始し、その手始めとして、塩冶興久の子である尼子清久を処刑したと記されている 18 。この断固たる処置により、晴久は出雲国内における支配権を回復し、裏切り者に対して容赦しない姿勢を内外に示したのである 23 。
4.2 粛清の理由:大内方への加担と尼子氏の権力強化策
尼子清久粛清の直接的な理由は、第一次月山富田城の戦いにおける彼の大内方への内通行為であることは明白である 5 。これは尼子宗家に対する明確な敵対行為であり、戦時下においては許されざる裏切りと見なされた。
しかし、この粛清は単なる裏切り者への報復に留まらず、尼子晴久による権力基盤強化策の一環という側面も持っていた。晴久は、この未曾有の危機を乗り越えた後、自らの支配体制を盤石なものとするため、領国内の不安定要素を徹底的に排除する必要性を痛感していた 13 。塩冶氏の血を引き、かつ具体的な裏切り行為に及んだ清久は、その出自と行動から、潜在的な脅威として明確に認識された可能性が高い 4 。
この尼子清久の粛清は、単なる戦時下の裏切り者への処罰という側面だけでなく、尼子晴久が目指した中央集権的な支配体制構築の過程における、見せしめと内部固めのための戦略的行為であったと解釈できる。第一次月山富田城の戦いでは、国人衆の離反や再度の寝返りが戦局を大きく左右した 15 。これは、当時の尼子氏の支配基盤が、国人衆の動向に大きく依存していたことの証左である。晴久は、この戦いの後、失地回復と勢力拡大を進めるにあたり、より強固な家臣団統制と中央集権化を志向したと考えられる 13 。清久は尼子一門でありながら敵方に通じたため、その処罰は他の国人衆や家臣に対する強烈な警告となったであろう。特に、塩冶興久の乱という過去のトラウマを持つ尼子宗家にとって、再び塩冶系の人物が反逆的行動を取ったことは看過できるものではなく、その血筋に対して厳しい態度で臨む必要があったのかもしれない 4 。この粛清は、後の新宮党粛清にも通じる、晴久の非情とも言える権力集中への意志の表れと見ることができる。
4.3 粛清の方法に関する情報
史料には「粛清された」「処刑された」との記述が見られるものの 5 、具体的な処刑方法についての詳細は、提供された資料からは残念ながら確認することができない 5 。
4.4 尼子晴久の他の粛清事例(新宮党など)との比較と文脈
尼子晴久は、天文二十三年(1554年)に、叔父であり義父でもあった尼子国久とその一族(新宮党)を謀反の疑いで粛清するという大規模な内部粛清を行っている 1 。新宮党は尼子氏の精鋭部隊として武勇を誇ったが、その勢力が強大になりすぎたことや、晴久が進める中央集権化政策にとって障害と見なされたことが粛清の背景にあるとされる 13 。この粛清に関しては、毛利元就の謀略が関与したという説も根強く存在する 24 。
注目すべきは、この新宮党を率いた尼子国久が、塩冶興久の兄であり、興久の乱後、その遺領を清久と共に相続した人物であるという点である 9 。尼子清久の粛清と新宮党の粛清は、共に尼子晴久による権力強化と内部統制の一環という点で連続性が見られる。しかし、対象の性質(清久は明確な裏切り者、新宮党は潜在的脅威)と規模において差異がある。清久は第一次月山富田城の戦いで明確に敵対したため 5 、彼の粛清は裏切りに対する直接的な報復と見せしめの意味合いが強い。一方、新宮党(尼子国久)は、晴久の支配を支える強力な軍事集団であったが、その独立性と勢力が晴久の猜疑心を招いたとされ 13 、こちらは将来的な脅威の排除という予防的側面が強かったと考えられる。尼子国久が清久の伯父であり、かつて塩冶興久の遺領を分け合った関係にあること 9 は、晴久にとって塩冶氏系統の勢力が依然として根強く残っていることへの警戒感を強めた可能性がある。清久の粛清(天文十二年以降)は、新宮党粛清(天文二十三年)に先立つものであり、晴久が一族内の不安定要素を段階的に、しかし確実に排除していった過程と見ることができる。塩冶興久の反乱、清久の内通、そして新宮党(国久派)の強大化という一連の出来事は、尼子宗家にとって塩冶氏とその縁戚が、支配体制における構造的な弱点となり得たことを示していると言えよう。
5. 尼子清久の歴史的評価と残された謎
5.1 史料における記述の限界と人物像の不明瞭さ
尼子清久の生没年は不明であり 5 、その人物像や具体的な事績に関する詳細な記録は極めて乏しい。彼の名は主に、父・塩冶興久の反乱、尼子姓への復帰、そして第一次月山富田城の戦いにおける内通とそれに続く粛清という、断片的かつ波乱に満ちた出来事を通して語られるに過ぎない。
『雲陽軍実記』や『自尊上人江御奉加目録』といった史料にその名が見えるものの 5 、特に軍記物である『雲陽軍実記』の記述については、その史料的性格を十分に考慮して扱わねばならない。尼子清久に関する情報の断片性は、戦国時代において宗家の主流から外れた人物や、歴史の敗者、あるいは反逆者とされた人物の生涯を詳細に追うことの困難さを示している。彼らの物語は、多くの場合、勝者や主流派の記録の陰に隠れがちである。清久の生涯の重要な節目(生誕、正確な粛清時期、死去年など)が不明であることは、彼が歴史の主要な記録対象ではなかったことを示唆する 5 。彼の行動は、主に尼子宗家の視点、特に当主晴久の行動を正当化する文脈で語られることが多い。これは、歴史記録がしばしば権力者の視点を反映し、反対勢力や傍流の人物については情報が限られるという一般的な傾向を反映している。清久のような人物の実像に迫るには、限られた史料を丹念に読み解き、行間を読み、当時の政治状況や人間関係から推察していく作業が不可欠となる。
5.2 その後の影響:子・加藤政貞について
尼子清久には加藤政貞(かとう まささだ)という子がいたとされ 5 、この政貞は後に尼子氏再興を掲げた尼子勝久に従い、播磨国上月城の戦いで毛利軍に敗れ、勝久と共に自害したと伝えられている 29 。父・清久が尼子宗家によって粛清されたにもかかわらず、その子が尼子氏再興のために命を捧げたという事実は、戦国武士の複雑な忠誠観と、家の名誉や存続にかける執念、そして運命の皮肉を物語っている。祖父・塩冶興久は尼子宗家に反逆し、父・尼子清久は宗家当主によって粛清された。この血縁からすれば、政貞が尼子氏に恨みを抱いても不思議ではない。しかし、政貞は尼子氏の家名を再興しようとする運動に身を投じ、最終的には殉じたのである 29 。この行動の背景には、個人的な恩讐を超えた、より大きな「尼子」という家名や武士としての「忠義」の観念、あるいは没落した家の再興にかける一縷の望みなど、様々な動機が考えられる。父が宗家から排除されたにもかかわらず、子がその宗家の再興に尽力するという構図は、戦国時代の武家社会における忠誠や家意識の多層性、そして一度失われたものを回復しようとする人間の強い意志を示す感動的な逸話とも言える。それはまた、清久の血筋が、彼の死によって完全に途絶えたわけではなかったことを示している。
5.3 尼子清久という存在が示す戦国武将の過酷な運命
父の反乱に始まり、一度は許されながらも最終的には宗家によって粛清されるという尼子清久の生涯は、戦国時代における武将、特に宗家の傍流や潜在的な対抗勢力と見なされかねない立場にあった者の過酷な運命を象徴していると言えよう。忠誠と裏切り、赦免と粛清が紙一重で交錯する非情な時代において、個人の意思や願いだけではどうにもならない大きな歴史の力の流れに翻弄された一生であった。彼の存在は、華々しい戦国絵巻の陰に隠れた、無数の名もなき武士たちの悲哀をも我々に伝えているのかもしれない。
6. おわりに
尼子清久は、尼子経久の三男・塩冶興久の子として生まれ、父の反乱という波乱の幕開けの中でその人生を歩み始めた。一度は許されて尼子一門に復帰し、一定の地位を与えられたものの、尼子氏最大の危機であった第一次月山富田城の戦いにおいて大内氏に内通したことが決定的な要因となり、尼子氏当主・晴久によって粛清された。その生涯は、戦国時代の武家社会における権力闘争の厳しさ、一族内の愛憎の交錯、そして個人の選択がもたらす過酷な結果を凝縮して示している。
尼子清久に関する史料は極めて断片的であり、特に彼自身の人物像や内通に至る詳細な心理、粛清の具体的な状況については不明な点が多い。今後、関連する地方史料の再検討や、同時代の日記、書状などの網羅的な調査を通じて、わずかでも新たな情報が発見されることが期待される。特に『自尊上人江御奉加目録』のような一次史料に、彼に関するさらなる記述や、彼の立場を類推できるような周辺情報が眠っている可能性も否定できない。彼の存在は、尼子氏内部の権力構造や、戦国大名による国人・一門統制の実態を理解する上で、決して看過することのできない貴重な事例であると言えよう。彼の短い生涯は、戦国という時代の複雑さと非情さを、我々に改めて教えてくれるのである。