最終更新日 2025-05-22

尼子誠久

戦国武将・尼子誠久の実像:新宮党の中核、その武勇と悲劇的末路

はじめに

本報告書は、戦国時代の武将、尼子誠久(あまご さねひさ、永正7年(1510年)? - 天文23年11月1日(1554年11月25日))の生涯、事績、および歴史的評価を、現存する資料に基づき多角的に検証し、その実像に迫ることを目的とする。尼子誠久は、出雲国を本拠とした戦国大名尼子氏の一族であり、特に精鋭部隊「新宮党」の中核として、尼子氏の勢力拡大期に武勇を馳せた人物である。しかし、その生涯は主君による粛清という悲劇的な結末を迎えることとなる。

本報告書では、尼子誠久個人の武勇や逸話だけでなく、彼が属した新宮党の特質、尼子宗家との関係性、そして彼が生きた時代の政治・軍事状況(特に宿敵毛利氏との関係)を総合的に考察する。主要な問いとして、(1) 尼子誠久は尼子氏の中でどのような役割を果たし、その評価はどうであったか、(2) 新宮党粛清の真相は何か、(3) 『雲陽軍実記』などの後世の編纂物は、誠久像の形成にどのような影響を与えたか、といった点を明らかにすることを目指す。

さらに、尼子誠久及び新宮党の存在と粛清は、単なる一族内の権力闘争に留まらず、戦国大名尼子氏の統治構造の脆弱性や、毛利氏のような新興勢力とのパワーバランスの変化を象徴する出来事であった可能性も視野に入れる。この視点から、誠久の生涯をより大きな歴史的文脈の中に位置づけることを試みる。

第一章:尼子誠久の出自と新宮党における台頭

1.1 生誕、家系、および初期の経歴

尼子誠久は、永正7年(1510年)に、尼子経久の次男である尼子国久の嫡男として誕生したと伝えられている 1 。父・国久は、尼子氏の精鋭軍団として名高い新宮党の党首であり 3 、誠久はその中核を担う存在として成長した。父同様に武勇に優れていたとされ 1 、新宮党の一員として尼子氏の勢力拡大に貢献したことが記録されている 2

誠久の人生において重要な転機となったのは、叔父にあたる塩冶興久が反乱を起こし敗死した後、父・国久が塩冶氏の所領を継承したことである。さらに誠久自身も出雲国の有力国人であった多賀氏に婿入りしたことで、国久とその一族は西出雲に強大な影響力を持つに至った 1 。この西出雲における新宮党の勢力基盤の確立は、後に尼子宗家との間に緊張関係を生む伏線となる。誠久の妻の実家である多賀氏は、出雲国内で相当な勢力を有していたと考えられ、この婚姻関係は、国久・誠久父子が西出雲を実質的に支配する上で、軍事的・経済的に重要な支えとなったであろう。しかし、この強固な地盤と独立性は、尼子宗家から見れば、統制の及ばない潜在的な脅威と映った可能性も否定できない。

1.2 新宮党の成立とその特質

新宮党は、尼子氏の本拠地である月山富田城の北麓、新宮谷に居館を構えていたことから、その名で呼ばれるようになった尼子氏家中の精鋭軍事集団である 3 。その起源は尼子久幸(経久の弟)の代に遡るとされ、誠久の父・国久の時代に「新宮党」という名称が定着したと言われている。当初から尼子氏一門による親衛隊的な役割を担い、その勇猛果敢な戦いぶりは、尼子氏の勢力伸長に不可欠な存在であった 3

新宮党は単なる軍事集団に留まらなかった。国久の養子先である吉田氏が所有していた出雲国東部の所領や、謀反を企てて追討された国久の末弟・塩冶興久の遺領である出雲国西部の塩冶をも引き継いで支配しており、広大な経済基盤とそれに伴う政治的影響力を有していた 3

特筆すべきは、新宮党が宗家とはある程度独立した権限を有していた点である。尼子経久の死後は、当主である尼子晴久の裁判権などに度々介入したこともあったと記録されている 3 。具体的に、西出雲における尼子氏の支配は国久を通じた間接的なものであり、杵築大社(現在の出雲大社)やその支配下勢力との折衝においては、晴久も国久に頼らざるを得ない状況があった 3 。このことは、新宮党が特定の地域(特に西出雲)において高度な自治権を持ち、宗家の意向とは別に独自の判断で行動できる余地があったことを示唆している。この「独立性」の高さが、後の尼子宗家との深刻な対立、そして粛清へと繋がる遠因となったのである。

1.3 尼子誠久の新宮党における地位と影響力

尼子誠久は、新宮党の党首である国久の嫡男として、父と並び称されるほどの武勇を誇った 1 。新宮党の軍事行動においては常に中心的な役割を担い、その勇猛さをもって数々の武功を挙げ、尼子氏の勢力拡大に大きく貢献したと伝えられる 2

しかし、その武勇を背景とした彼の振る舞いは、時に傲慢と受け取られ、他の尼子家重臣との間に確執や軋轢を生んでいたことが複数の史料で示唆されている 2 。具体的な逸話については後述するが、これらの伝承は、彼の強烈な個性と、家中に及ぼした影響の大きさを物語っている。

誠久の「傲慢な振る舞い」が、単に彼個人の性格に起因するものだったのか、それとも新宮党全体の特権意識や、宗家に対する潜在的な対抗意識の表れだったのかは考察の余地がある。新宮党自体が尼子家中で「傲慢に振る舞い」と記述されていること 3 、そして彼らが尼子氏の軍事力の根幹を成し、広大な所領と独立した権限を有していた事実 3 を踏まえると、誠久の行動は、新宮党という強大な権力集団に属する者の特権意識と、宗家や他の重臣に対する優越感から生じた可能性が高い。つまり、彼個人の資質と、彼が属した集団の力学が複合的に作用した結果と考えるのが自然であろう。

第二章:尼子誠久の武功と政治的活動

2.1 主要な合戦への参加と戦功

尼子誠久は、新宮党の中核メンバーとして、父・国久と共に各地を転戦し、尼子氏の勢力拡大に多大な貢献をしたとされている 2 。彼の具体的な戦功に関する詳細な記録は断片的ではあるものの、その武勇は広く知れ渡っていた。尼子氏の軍事行動は、天文7年(1538年)頃から急速に広域化し、山名氏や赤松氏の分国、さらには畿内や安芸・備後方面へと侵攻を繰り返しており 6 、誠久もこれらの重要な戦役の多くに参加していた可能性が極めて高い。

特に重要な戦いとして挙げられるのが、天文9年(1540年)の吉田郡山城の戦いである。この戦いは、当時の尼子氏当主であった尼子晴久(当時は詮久)が、安芸国の有力国人であった毛利元就の居城・吉田郡山城を攻略しようとした大規模な軍事行動であった。この戦いにおいて、新宮党は尼子軍の先鋒部隊として極めて重要な役割を担った 7 。『伯耆民談記』によれば、誠久はこの芸州への軍役に参加しており、その際、自身の居城であった伯耆国河口城には留守役として家臣の加藤兵蔵と福原彌吉を配置している 8

しかし、この戦いは尼子氏にとって厳しい結果となった。新宮党の実質的な指導者であり、誠久の祖父の弟にあたる尼子久幸が討死するという大きな犠牲を払ったのである 3 。尼子軍は当初、圧倒的な兵力で毛利方を攻め立てたものの、毛利元就の巧みな籠城戦術と、救援に駆けつけた大内氏の援軍によって、最終的には敗退を余儀なくされた 9 。この戦いにおける誠久個人の具体的な戦功を記した史料は見当たらないものの、彼が主力部隊の一翼を担い、勇猛に戦ったことは想像に難くない。

吉田郡山城の戦いでの敗北、とりわけ新宮党の重鎮であった尼子久幸の戦死は、新宮党内部の力関係や、尼子宗家に対する発言力に少なからぬ変化をもたらした可能性がある。久幸は新宮党の「実質上の指導者」と目されていた人物であり 3 、その死は新宮党にとって計り知れない損失であったはずである。久幸の死によって、新宮党内における尼子国久(尼子経久の次男)の序列が相対的に上昇し、その嫡男である誠久の立場も間接的に強化された可能性が考えられる。一方で、この敗戦の責任問題などが、宗家との関係に微妙な影を落とした可能性も否定できない。

2.2 伯耆国河口城主としての活動

『伯耆民談記』には、尼子誠久が伯耆国の河口城を任され、自身の居城としていたとの記述が見られる 8 。この時期は、大永年間(1521年~1528年)に尼子氏が伯耆国一帯を掌握した後のことと考えられ、誠久の父・国久も同時期に伯耆国の羽衣石城を拠点に東伯耆三郡を管轄していたとされる 8

河口城主としての誠久の具体的な治績に関する記録は乏しい。しかし、前述の吉田郡山城への出兵の際に城番を配置していることから 8 、河口城が伯耆国における尼子氏の重要な軍事拠点の一つとして機能していたと推測される。伯耆国は、出雲の尼子氏にとって、東方への勢力拡大の足掛かりとして、あるいは西方からの侵攻に対する防衛線として、戦略的に極めて重要な地域であった。誠久がそのような要衝である河口城の城主を任されていたという事実は、彼が単なる勇猛な武将というだけでなく、一定の領域支配を委ねられるほどの信頼と地位を尼子家中で得ていたことを示唆しているのではないだろうか。これはまた、新宮党が尼子氏の領国経営にも深く関与していた証左の一つと見なすこともできよう。

2.3 美作国統治への関与と牛尾幸清との関係

尼子誠久は、後年、美作国方面の統治を尼子氏の重臣である牛尾幸清と共に担当していたと伝えられている 2 。尼子氏は天文年間前半に美作国へ侵攻し、その影響下に置いており 9 、誠久の美作統治への関与はこの時期以降のことと考えられる。

しかしながら、誠久の美作国における具体的な統治内容や実績に関する史料は極めて乏しいのが現状である 14 。美作国は古くから鉄生産(たたら製鉄)が盛んな地域であり 14 、尼子氏の経済基盤とも深く関連していた可能性が指摘されるが、誠久が鉄生産に直接的に関与したことを示す具体的な記録は見当たらない。

牛尾幸清は尼子氏の譜代の有力な重臣であり、彼と共に統治を担当したという事実は、誠久が軍事面だけでなく、領国経営においても一定の役割を期待されていたことを示唆している。ただし、誠久の性格を考慮すると、この共同統治が常に円滑に行われたかどうかは疑問の余地がある。史料には、誠久が「武勇を笠に着て傍若無人な振る舞いもあり、他の尼子家重臣とも確執を生じた」と評されている記述があり 2 、牛尾幸清のような譜代の重臣との間にも、方針の違いや主導権争いといった何らかの摩擦が生じた可能性は否定できない。もし美作統治においても同様の確執が存在したとすれば、それは誠久及び新宮党と、他の譜代重臣層との間に存在した潜在的な対立構造を補強する材料となり得るだろう。

【表1】尼子誠久 関連年表(主要な出来事と戦歴)

年代(和暦)

年代(西暦)

主要な出来事・戦歴

典拠例

永正7年

1510年

尼子国久の嫡男として誕生(推定)

1

大永年間

1521-1528年

この頃、伯耆国河口城主に就任か

8

不明

不明

出雲の有力国人・多賀氏の娘と婚姻

1

天文9年

1540年

吉田郡山城の戦いに新宮党の一員として参加。尼子久幸討死。

3

天文年間後半

1540年代後半

美作国方面の統治を牛尾幸清と共に担当

2

天文23年11月1日

1554年11月25日

尼子晴久により父・国久と共に粛清される。新宮党館にて自害(または暗殺)。享年45(推定)。

2

この年表は、尼子誠久の生涯における主要な出来事を時系列で整理したものである。彼のキャリアパスと、当時の尼子氏の動向との関連性を俯瞰的に理解する一助となることを期待する。

第三章:新宮党粛清の真相と誠久の最期

3.1 粛清に至る背景:尼子宗家との確執と権力闘争

新宮党、とりわけその指導者であった尼子国久・誠久父子は、その卓越した武勇と数々の戦功を背景に、尼子家中で絶大な力を持つに至った。しかし、その勢力拡大に伴い、次第に傲慢とも取れる振る舞いが目立つようになり、主君である尼子晴久や他の重臣たちとの間に深刻な確執や軋轢が生じていたことが、複数の史料からうかがえる 2

新宮党は、出雲国西部を中心に強固な勢力基盤を築き、杵築大社(現在の出雲大社)との結びつきも強かった 3 。これは、出雲国全体の直接統治を目指し、中央集権化を推し進めようとしていた晴久にとって、看過できない障害と見なされるようになった。晴久は、新宮党を介さずに杵築大社や西出雲に直接介入し、その経済力や軍事力を宗家の管理下に置こうと画策していたのである 3 。実際に、国久が発給した文書の中には、杵築大社やその支配下勢力と尼子晴久との間を取り持つ内容のものが多く見られ、西出雲における尼子氏の支配が、国久を通じた間接的なものであったことを示している 3 。この状況は、晴久が目指す領国一元支配の方針と明らかに矛盾するものであった。

晴久の裁判権への介入 3 や、晴久の命令と国久の命令が異なり指揮系統に混乱が生じる 19 といった事態は、単なる儀礼的な問題を越え、宗家の統治権を直接的に侵害する行為であり、晴久が粛清という強硬手段に訴える動機として十分であった可能性が高い。

さらに、新宮党内部も必ずしも一枚岩ではなく、党首の座や所領問題を巡る対立が存在したことも指摘されている。例えば、尼子久幸の嫡男である尼子詮幸と国久との間の対立や、誠久と弟の尼子敬久との間での意見の相違、さらには誠久の嫡男である尼子氏久と叔父の敬久との不仲などが伝えられており 3 、これらが尼子家全体の不安定要因となっていた可能性も考慮する必要があるだろう。

3.2 毛利元就の調略説の検討:諸説の比較と信憑性

新宮党粛清の直接的な引き金として、宿敵・毛利元就による巧妙な調略があったとする説は、古くから根強く語り継がれている 3 。具体的には、元就が尼子国久に宛てて主君・晴久の暗殺を唆す内容の偽手紙を作成し、これを晴久が入手するように仕向けた結果、晴久がこの手紙の内容を信じ込み、新宮党の粛清に踏み切ったという筋書きである 3 。ただし、この逸話は、元就が同時期に周防の大内氏の家臣であった江良房栄を同様の謀略で陥れた事件を基にして、後世に創作されたものであるとの見方も存在する 3

ウェブサイト『ニッポン城めぐり』で実施されたアンケート調査によれば、この「元就謀略説」が最も多くの支持を集めており(32%)、回答者の間で広く浸透していることがわかる 20 。次いで、「新宮党に反抗の意思は無かったが、その増長を危惧した晴久が当主権力の集中を図った」(24%)、「新宮党を常々疎ましく感じていた晴久が、毛利元就の仕掛けた謀略にあえて便乗した」(19%)といった説が続いている 20 。これらの説は、粛清の原因を(1) 元就の謀略に求めるもの、(2) 晴久の権力集中志向に求めるもの、(3) 新宮党の増長そのものに求めるもの、(4) これらの複合的な要因に求めるもの、といった複数の視点を提供している。

近年の研究においては、晴久自身が出雲国西部の直接支配を確立し、宗家の権力を強化するという内的な動機から、その障害となり得る新宮党を排除しようとしたという見方が有力視される傾向にある。前述のアンケート調査のコメントにも、「最近の研究では、晴久自信が塩治氏旧領の出雲西部への影響力を考えた結果、その地域を支配する新宮党を粛清した様ですね」といった意見が見られる 20

毛利元就の謀略が実際にあったかどうかはさておき、それが粛清の唯一かつ決定的な原因であったと断定することは難しい。むしろ、既に尼子宗家と新宮党の間には深刻な亀裂が存在しており、元就の謀略(仮にあったとして)は、その亀裂を決定的にした、あるいは晴久に粛清決行の「大義名分」や「きっかけ」を与えたに過ぎないのではないかという解釈が成り立つ。新宮党の増長や宗家との確執は、晴久が新宮党に対して強い不信感や危機感を抱く十分な理由となっていたと考えられ、元就の謀略がなくとも、晴久が自身の権力集中のためにいずれかの時点で新宮党の排除に動いた可能性は高いと言えるだろう。

【表2】新宮党粛清の要因に関する諸説比較

説の名称

主な内容

典拠・論者例

支持の多寡(より)

研究上の評価・考察

毛利元就謀略説

元就の偽手紙などの謀略により、晴久が新宮党に不信感を抱き粛清に至った。

3

32% (最も支持が多い)

後世の創作の可能性も指摘されるが、広く流布。元就の策謀家としてのイメージと合致。

晴久による権力集中説

新宮党に反抗の意思は無かったが、その勢力増長を危惧した晴久が、当主権力の集中と領国直接支配を目指し粛清した。

3

24%

近年の研究で重視される傾向。晴久の政策や西出雲の状況から妥当性が高い。

新宮党増長・傲慢説

新宮党の傲慢な振る舞いが家中の反感を買い、宗家の統制を困難にしたため、晴久が混乱を鎮めるためにやむを得ず粛清した。

2

12%

新宮党の行動に関する逸話が背景。ただし、逸話の史実性には検討の余地あり。

元就謀略への便乗説

晴久は元々新宮党を疎ましく思っており、元就の謀略を好機と捉え、それに乗じる形で粛清を実行した。

20

19%

晴久の主体性と元就の関与を両立させる説。晴久の深謀遠慮を示唆。

新宮党による主家乗っ取り画策説

主家を凌ぐ力を持った新宮党が乗っ取りを画策したため、晴久が先手を打って粛清した。

20

11%

新宮党の野心を強調するが、具体的な証拠は乏しい。

複合要因説

上記の複数の要因が複雑に絡み合って粛清に至った。

20 (コメントに見られる)

(その他に含まれるか)

歴史事象の複雑性を考慮した現実的な解釈。各要因の比重については議論の余地あり。

この表は、新宮党粛清の背景にある多様な解釈を整理したものである。歴史事象の理解には、単一の要因に帰結させるのではなく、多角的な視点からの検討が不可欠であることを示している。

3.3 天文23年(1554年)の粛清の実行と誠久父子の最期

天文23年11月1日(西暦1554年11月25日)、尼子晴久は、周到な準備のもとに、突如として叔父である尼子国久と、その嫡男である誠久ら新宮党の主要幹部に対する粛清を実行した 3 。この粛清が決行される直前には、晴久の正室であり、国久の娘(すなわち誠久の姉妹にあたる)が死去しているという事実がある 3 。このタイミングは偶然とは考えにくく、彼女の死が粛清決行の何らかの引き金になった、あるいは晴久にとって新宮党排除の最後の障害が取り除かれたと認識された可能性が指摘できる。彼女は新宮党と宗家の間の数少ない緩衝材としての役割を果たしていたのかもしれず、その死が晴久に最終的な決断を促したとも考えられる。あるいは、彼女の死をきっかけに新宮党が何らかの不穏な動きを見せたことが、晴久に粛清の口実を与えたという見方も成り立つかもしれない。

粛清の具体的な経緯については諸説あるが、国久は月山富田城へ登城する途中で襲撃され暗殺されたと伝えられている 3 。一方、誠久は新宮党の館内において、抵抗の末に自害したとされる 3 。『雲陽軍実記』などの後世の軍記物によれば、誠久は晴久の命令を受けた大西十兵衛や立原備前守といった武将によって暗殺されたとも記されている 2 。この粛清により、尼子氏最強の軍事力を誇った新宮党は壊滅的な打撃を受け、その一族の多くも自害、あるいは各地へ逃亡した 3 。誠久はこの時、享年45であったと伝えられている 2

3.4 粛清が尼子氏の勢力に与えた影響

新宮党の粛清は、尼子氏の勢力に短期的および長期的に大きな影響を及ぼした。

短期的には、尼子晴久は長年の懸案であった出雲国西部の直接支配を実現し、杵築大社以下の諸勢力も宗家の統制下に組み入れることに成功した 3 。これにより、晴久は出雲一国の直接統治という目的をほぼ達成し、宗家の権力基盤を強化した。軍事的な弱体化は限定的であったとされ、晴久の存命中は毛利元就の侵攻をよく防ぎ、天文23年(1554年)の忍原崩れ(三刀屋崩れ)のように、一時的には安芸国へ逆侵攻することもあった 3

しかし、長期的に見ると、この粛清は尼子氏にとって致命的な打撃となった。尼子氏にとって最も有力な親族衆であり、最強の精鋭軍事力であった新宮党を失ったことは、尼子氏の総合的な国力を大きく削ぐ結果となったのである 3 。また、この強硬な手段は領内の他の国人領主たちの間に深刻な不満と不信感を増大させ、尼子氏から追放されたり抑圧されたりした国人衆の離反を招いた 3

晴久が天文29年(1560年)に急死し、その子・尼子義久が後を継ぐと、これらの親族衆の不足や国人衆の離反・反乱といった問題が一気に顕在化し、尼子勢力は急速な衰退の道を辿ることになる 3

一方、この尼子氏の内紛により、対尼子戦線における圧迫が一時的に緩和された毛利氏は、その間隙を縫って天文24年(1555年)の厳島の戦いで陶晴賢を破るなど、対大内氏方面に戦力を集中して中国地方西部での覇権を確立し、急速に勢力を拡大することに成功した 3 。結果的に、新宮党粛清は、皮肉にも毛利氏の中国地方制覇を助ける一因となったと言えるだろう。

新宮党粛清が尼子晴久にとって「必要悪」であったのか、それとも致命的な「失策」であったのかという評価は難しい。権力集中という短期的な成果はあったものの、国力低下という長期的な代償はあまりにも大きかった。戦国時代において中央集権化は多くの大名が目指した道であったが、その手法があまりにも急進的かつ強硬であったため、内部からの反発を招き、結果として自らの首を絞めることになったのではないか。毛利元就が吉川氏・小早川氏という有力な一門を巧みに取り込み(毛利両川体制)、勢力拡大に繋げた例と比較すると、尼子氏の有力一門の活用方法には問題があったと言わざるを得ないかもしれない。

第四章:尼子誠久の人物像:伝承と史実

4.1 『雲陽軍実記』等に描かれる誠久の逸話

尼子誠久の人物像を伝える上で欠かせないのが、『陰徳太平記』や『雲陽軍実記』といった後世に編纂された軍記物である。これらの書物には、誠久の勇猛さと同時に、その傲慢さや傍若無人な振る舞いを具体的に示す逸話が数多く記録されている 2

代表的な逸話としては、以下のものが挙げられる。

  • 鼻の逸話 : 主君・尼子晴久の祐筆(秘書役)であった末次讃岐守の鼻が大きいことを見て、誠久は「お前は武名は高くないくせに、役に立たない鼻だけが高い」と嘲笑し、暴行を加えて鼻を砕いたとされる 2 。この逸話は、誠久の粗暴さと、他者を見下す性格を端的に示している。
  • 下馬強要の逸話 : 誠久は自らの権勢を誇示するかのように、「館前、目の届く限り乗馬無用」(自分の目の届く範囲内では身分に関わらず下馬せよ)という高圧的な命令を下し、尼子領内の人々を大いに困惑させたとされる。これに反発した熊谷新右衛門という気骨のある武将が、牛の背に鞍を置いてまたがり、鷹狩りの最中であった誠久の前をわざと通り過ぎた。誠久の家臣が下馬を命じると、熊谷は「下馬の事は承知しているが、これは馬ではなく牛である」と応酬し、誠久の権威を巧妙にかわしたという 2 。この逸話は、誠久の横暴さと、それに対する反発が存在したことを示唆している。
  • 髭の逸話 : 立派な髭を自慢にしていた中井平蔵兵衛尉という武将が、誠久にその髭をなじられた。翌日、中井は晴久の前に出仕する際、片方の髭だけを剃り落として現れた。晴久がその奇妙な姿を咎めると、中井は「誠久様に髭のことで叱責されたので剃り落とすことにしましたが、晴久様もご存知のこの立派な髭を全て剃ってしまうのは、晴久様に対してかえって無礼になるかと存じ、片方だけを剃って参りました」と述べたとされる 2 。この逸話は、誠久の些細なことに対する干渉や、あるいは誠久と晴久の命令系統の混乱、さらには両者の潜在的な対立を家臣が皮肉ったものとも解釈できる。

これらの逸話は、尼子誠久という人物の性格を強烈に印象付けるものであり、彼の「傲慢な武将」というイメージ形成に大きく寄与している。しかし、軍記物特有の脚色や誇張が含まれている可能性も常に考慮に入れる必要がある。これらの逸話が全くの創作であるとは考えにくいものの、何らかの史実に基づいているか、あるいは当時の誠久や新宮党に対する一般的な評価や風評を反映している可能性が高い。特に「傲慢さ」が繰り返し強調される背景には、新宮党の勢力が実際に強大であり、尼子宗家や他の重臣層にとって脅威と映っていたという事実が存在し、逸話はその脅威を人格化したものと捉えることもできるだろう。

4.2 史料批判を通じた人物像の再構築

『雲陽軍実記』をはじめとする軍記物は、その多くが江戸時代に入ってから成立したものであり、記述には編者の主観や創作、あるいは特定の人物を英雄視したり逆に貶めたりする意図が含まれる場合があるため、その史料的価値については慎重な検討が求められる 21

尼子誠久に関する一次史料、すなわち同時代に書かれた古文書や記録類は、残念ながら極めて限定的であるのが現状である 23 。尼子氏関連の古文書群である『佐々木文書』などが存在するものの 27 、誠久個人に直接言及したものは少ない。

したがって、誠久の人物像を再構築する際には、軍記物の記述を無批判に受け入れるのではなく、当時の政治状況や他の関連史料との整合性を丹念に比較検討し、客観的な視点から分析する必要がある。例えば、近年の歴史シミュレーションゲームにおける尼子誠久の能力値を見ると、武勇は77と高く設定されている一方で、知略は61、政治に至っては28と低い評価がなされている場合がある 28 。これは、軍記物によって形成された「勇猛ではあるが、知略や政治力に欠ける猪武者」といったイメージを反映している可能性が高い。

しかしながら、誠久が伯耆国河口城主 8 や美作国統治の担当者 2 といった、単なる一武将では任されないであろう役職に就いていた事実は、彼が一定の統率力や政治的手腕も評価されていた可能性を示唆している。これらの役職が、新宮党という一族の立場から与えられたものであった可能性も考慮する必要はあるものの、軍記物の記述だけでは捉えきれない多面的な評価の余地を残していると言えるだろう。彼の「武勇」や「数多の武功」を具体的に裏付ける一次史料の発見と分析が、今後の研究課題となる。

4.3 当時の武将としての評価と限界

尼子誠久は、戦国時代における「武」を象徴する武将の一人として、特に彼が属した新宮党が尼子氏最強の精鋭集団であったことから、その勇猛さは当時においても高く評価されていたと考えられる。尼子氏の勢力拡大期において、彼の武勇が不可欠であったことは想像に難くない。

しかし、その一方で、彼の協調性の欠如や政治的バランス感覚の不足といった側面が、結果的に彼自身の破滅と新宮党の崩壊を招き、さらには尼子氏全体の衰退へと繋がった可能性は否定できない。彼の生涯は、戦国時代において単なる武勇だけでは生き残ることができず、組織内での複雑な人間関係や権力闘争がいかに過酷であったかを示す一例と言えるだろう。

尼子誠久のような「武辺一辺倒」とも受け取られかねない人物が、なぜ尼子氏の重職を占めることができたのか。それは、尼子氏の勢力拡大期において、彼の持つ卓越した軍事的能力が極めて重要視されたからであろう。しかし、勢力が安定期に入り、領国経営の効率化や中央集権体制の確立が喫緊の課題となってくると、誠久のような人物の「傲慢さ」や新宮党の「独立志向」は、宗家にとって統治の障害となり得る。尼子氏が、新宮党のような強力な一門を、宗家の統制下に巧みに組み込みつつ、その力を最大限に活用するような柔軟な統治システム(例えば、毛利元就が採用した毛利両川体制のようなもの)を構築できなかったことが、この悲劇の一因となったのかもしれない。

第五章:尼子誠久の子孫とその後の尼子氏

5.1 五男・尼子勝久の尼子再興軍における役割

新宮党粛清の嵐の中、尼子誠久の五男(一部史料では具体的な続柄は不明ながら、尼子勝久が新宮党構成員としてリストアップされている 3 )は、忠義な家臣の手によって京都へ逃れ、一時的に僧籍に入っていたと伝えられている 2

その後、彼は還俗して尼子勝久と名乗り、尼子氏の旧臣である山中幸盛(鹿介幸盛)らに擁立されて、滅亡した尼子家の再興を目指す軍勢の総大将となった 2 。尼子勝久は、織田信長の支援も得て、一時は旧領である出雲国への再入国を果たすなど、執拗に尼子家再興のための戦いを続けた。しかし、その願いも虚しく、最終的には中国地方の覇者となっていた毛利氏の強大な軍事力の前に敗れ、天正6年(1578年)、播磨国の上月城において自害し、尼子家再興の夢は潰えた。

尼子勝久が再興軍の旗頭として擁立された背景には、彼が尼子誠久の子であり、かつて尼子氏の武勇の象徴であった新宮党の血を引くという正統性があったことは間違いない。彼の存在は、かつての尼子氏の栄光と、新宮党の悲劇的な最期を旧臣たちに想起させ、彼らの結束を促す精神的な支柱となった可能性がある。勝久自身の指導者としての資質に関する具体的な記録は乏しいものの、山中幸盛のような不屈の忠臣に支えられ、尼子家再興という困難な目標に向かって最後まで戦い抜いたその姿は、父・誠久や新宮党の記憶をある形で継承し、戦国乱世の終焉期における一抹の光芒を放ったと言えるだろう。

5.2 その他の子女に関する情報(多賀氏との婚姻関係など)

尼子誠久の妻は、前述の通り、出雲国の有力国人であった多賀氏の娘である 1 。誠久と彼女の間には、尼子勝久以外にも複数の子女がいたことが記録されている。具体的には、氏久(うじひさ)、吉久(よしひさ)、季久(すえひさ)、常久(つねひさ)、通久(みちひさ)といった名が伝えられている 2

このうち、嫡男とされる尼子氏久は、家督相続を巡って叔父にあたる尼子敬久(国久の子で誠久の弟)と不仲であったとされ、これが新宮党内部の不協和音の一因となっていた可能性も指摘されている 3 。興味深いことに、新宮党粛清後、尼子晴久は氏久に新宮党の残党を率いさせたとされる記述もあるが 3 、その後の氏久の具体的な動向については不明な点が多い。

これらの誠久の子女たちが、新宮党粛清という未曾有の悲劇の後、あるいは尼子氏の滅亡後にどのような運命を辿ったのか、その詳細を伝える記録は極めて乏しいのが現状である。

ここで一つの疑問が生じる。誠久の妻の実家である多賀氏は、新宮党粛清の際にどのような立場を取ったのであろうか。娘婿である誠久が主君によって殺害されたという事実は、多賀氏と尼子宗家の関係に何らかの変化をもたらさなかったのだろうか。史料 3 によれば、第一次月山富田城の戦い(これは新宮党粛清よりも前の出来事である)の際に、尼子氏の姻族であった多賀氏が尼子方から離反したという記述がある。もしこの情報が事実であるとすれば、粛清以前から多賀氏と尼子宗家、あるいは新宮党との関係が必ずしも良好ではなかった可能性も考えられる。仮に多賀氏が新宮党粛清の際に尼子宗家側に与していた、あるいは中立を保っていたとすれば、それは新宮党の孤立を一層深める一因となったかもしれない。この点に関する更なる史料の発見と分析が待たれる。

おわりに

尼子誠久の歴史的評価の総括

尼子誠久は、戦国大名尼子氏の最盛期を軍事面で支えた、武勇に優れた武将であったことは疑いようがない。彼が中核を担った新宮党の精鋭ぶりは、尼子氏の勢力拡大に大きく貢献した。しかし、その強大すぎる武力と影響力、そして彼個人の資質ともされる傲慢さが、結果として主家である尼子宗家との間に深刻な対立を引き起こし、自身と一族の破滅を招いた。

彼の生涯は、戦国時代における武将の栄光と悲劇、そして大名家内部における権力闘争の厳しさと非情さを象徴している。新宮党粛清事件は、単なる一族内の内紛に留まらず、尼子氏がその後の戦国乱世を生き抜き、勢力を維持していく上で、極めて大きな痛手となり、その衰退を決定づける重要な転換点の一つとして評価されるべきであろう。

今後の研究への展望(更なる史料調査の必要性など)

尼子誠久に関する一次史料は依然として乏しく、その実像の多くは『雲陽軍実記』などの後世に編纂された軍記物に依存しているのが現状である。これらの軍記物については、その史料的価値を慎重に吟味し、批判的な検討を一層深めていく必要がある。

『佐々木文書』 24 など、尼子氏に関連する古文書群の中に、誠久や新宮党に関する未発見あるいは未解読の記述が存在する可能性も否定できず、これらの丹念な調査と分析が期待される。特に、誠久の具体的な戦功、美作国統治の実態、妻の実家である多賀氏との関係など、未だ不明な点が多い分野については、地域史研究との連携や、発掘調査など考古学的な成果との比較検討も有効なアプローチとなるであろう。

長谷川博史氏の労作『戦国大名尼子氏の研究』 24 のような基礎的な研究成果を踏まえつつも、新たな史料の発見や、既存史料に対する新たな視点からの分析を通じて、尼子誠久という人物、そして彼が生きた時代に対する理解がより一層深まることが望まれる。

最後に、尼子誠久や新宮党の物語は、現代に生きる我々に対しても、いくつかの普遍的な教訓や示唆を与えてくれるように思われる。例えば、組織における功労者と権力者との間に生じうる緊張関係、強大な武力や専門知識を持つ集団をいかにコントロールし、組織全体の利益に繋げていくかの難しさ、そして内部対立が組織全体に与える深刻な影響などである。歴史上の人物や事件を、現代的な視点から再解釈し、その普遍的な意義を考察することは、歴史研究の持つ現代的意義を示す上で重要であり、今後の研究においても留意すべき点であろう。

引用文献

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