戦国時代の関東平野は、数多の英雄たちが覇を競う舞台であった。その激動の歴史の渦中に、一人の特異な武将が存在した。その名を山上道及(やまがみ どうきゅう)という。上州(こうずけのくに、現在の群馬県)の城主として生まれながら、時代の荒波に翻弄され、流浪の身から佐野家の重臣へ、そして天下人の尖兵を経て、最後は奥羽の地で戦う客将へと、その生涯はめまぐるしい変転を遂げた。彼の生き様は、戦国後期における地方国衆の苦悩、武士の忠誠観の変化、そして個人の実力のみが頼りとなる社会のダイナミズムを色濃く映し出している。
「佐野四天王随一の猛将」「三度の首供養」といった勇猛さを伝える逸話に彩られる一方で、その実像は断片的な史料の中に埋もれ、多くが謎に包まれている。本報告書は、これらの伝説の奥に隠された山上道及という人物の実像に、信頼性の高い史料を丹念に読み解きながら迫るものである。彼の生涯を追うことは、関東戦国史の一断面を深く理解する旅であり、一人の武将が自らの武と知略を武器に、いかにして乱世を生き抜いたかの軌跡を辿る試みである。
山上道及の生涯を追う上で、彼が複数の名を持っていたことを理解することが不可欠である。史料によって彼の呼称は異なり、それは彼のキャリアの変遷と立場を反映している 1 。
表1:山上道及の主な名と号
呼称 |
読み |
時期・文脈 |
主な出典史料 |
山上氏秀 |
やまがみ うじひで |
初期の諱(いみな)。上州山上城主時代から佐野家臣時代にかけて用いられる。 |
『上州故城塁記』 3 、Wikipedia 2 など |
山上照久 |
やまがみ てるひさ |
佐野家臣時代の諱。氏秀と並行して用いられることがある。 |
『nobuwiki』 1 など |
山上道及 |
やまがみ どうきゅう |
出家後の号。特に豊臣政権や上杉家に仕えた後半生で主に用いられる。 |
『秋田藩家蔵文書』 2 、上杉家関連史料 2 など |
道牛/道休/道久 |
どうぎゅう/どうきゅう |
「道及」の異表記、あるいは通称。武勇を尊ぶイメージから「道牛」の字が当てられることもある。 |
『nobuwiki』 1 、近衛龍春の小説 4 など |
本報告書では、彼の生涯の段階に応じてこれらの名を使い分けるが、人物を特定する際は、最も広く知られ、彼の後半生を象徴する「道及」を主として用いることとする。彼の物語は、上州の国衆「山上氏秀」の悲劇から始まる。
山上道及の人物像を理解するためには、まず彼の出自である上州の武士団・山上氏の歴史と、彼が直面した時代の大きなうねりから説き起こさねばならない。
山上氏は、鎮守府将軍・藤原秀郷を祖とする藤姓足利氏の系譜を引く、上野国に根を張った名門の武家である 3 。その歴史は鎌倉時代にまで遡り、代々、赤城山の南麓一帯を支配する国衆(在地領主)として、地域の歴史にその名を刻んできた。
彼らの本拠地は、現在の群馬県桐生市新里町に位置した山上城であった 6 。この城は赤城山から伸びる丘陵の先端に築かれ、関東平野の北端を見渡すことができる戦略的要衝であった 6 。眼下には交通の要路が走り、軍事的にも経済的にも重要な拠点として機能していたことが窺える。山上氏は、この城を拠点として上州に勢力を張り、室町時代には関東管領山内上杉氏に仕え、「上州八家」の一つに数えられるほどの有力な国衆であったと伝えられている 1 。
道及、すなわち山上氏秀が生きた16世紀半ばの関東は、大きな権力構造の転換期にあった。長らく関東の支配者であった古河公方と関東管領上杉氏の権威は失墜し、代わって相模国(現在の神奈川県)の小田原を拠点とする後北条氏が、破竹の勢いでその版図を北へ、東へと拡大していた。上州の国衆たちは、旧来の主である上杉氏につくか、新興の覇者である北条氏に従うかという、存亡をかけた厳しい選択を迫られていた。
このような情勢の中、運命の日が訪れる。弘治元年(1555年)、北条氏康は上州への侵攻を本格化させ、その矛先は山上城にも向けられた。城主であった山上氏秀は、この強大な軍事力の前に抗しきれず、長年の一族の拠点であった山上城を追われることとなった 1 。
この落城は、単に氏秀個人の戦いの敗北を意味するものではなかった。それは、北条氏による関東支配戦略が着実に進行し、上杉方であった上州国衆が次々と切り崩されていくという、より大きな歴史的潮流の一コマであった。多くの国衆が経験した運命を、氏秀もまた辿ることになったのである。この「土地を失う」という原体験こそが、彼のその後の波乱に満ちた人生の出発点となった。故郷と拠点を失った牢人・山上氏秀は、新たな主君を求めて流浪の旅に出ることを余儀なくされたのである。
故郷の上州を追われた山上道及(氏秀)は、一介の牢人として再起の機会をうかがうこととなる。彼が次なる活躍の舞台として選んだのは、隣国・下野(しもつけのくに、現在の栃木県)の雄、佐野氏であった。
城を失った道及は、当初、同じく上州の有力国衆であった足利長尾氏の当主・長尾当長を頼った。しかし、その当長もやがて北条氏康の軍門に降ったため、道及は下野国へと渡り、唐沢山城を本拠とする佐野氏第13代当主・佐野泰綱の家臣となった 1 。
当時の佐野氏は、北の上杉謙信と南の北条氏康という二大勢力の狭間にあって、極めて不安定な立場に置かれていた。ある時は上杉に属し、またある時は北条に従うという、巧みな外交と頑強な防衛によってかろうじて独立を保っている状態であった 1 。特に彼らの居城・唐沢山城は、上杉謙信による十数回にも及ぶ攻撃を凌いだ天下の名城として知られており、佐野氏の存立は、この城の堅固さと、それを支える家臣団の武勇にかかっていた 11 。このような常に存亡の危機に瀕した環境は、道及のような武勇に優れた牢人にとって、その腕一本で名を上げ、自らの価値を証明する格好の舞台であった。
佐野家に仕官した道及は、期待に違わぬ働きを見せる。上杉、北条との間で繰り返される数々の戦いにおいて抜群の武功を挙げ、瞬く間に重臣の列に加えられた。やがて彼は、家中でも特に武勇に優れた四人の将を指す「佐野四天王」の一人に数えられるまでになる 1 。「佐野四天王」という呼称自体は、後世の軍記物語などで形作られた可能性も否定できないが、そう呼ばれるほどに彼の武功が突出していたことの証左と見なすことができる。
彼の武名を特に際立たせているのが、「首供養」という特異な逸話である。彼は生涯で三度にわたり、自らが討ち取った敵兵の首を丁重に集め、供養する儀式を執り行ったと伝えられている 2 。この逸話は、彼を単なる血気盛んな猛将としてではなく、より複雑な内面を持つ人物として描き出している。
この「首供養」という行為には、複数の意味合いが込められていると考えられる。第一に、それは彼の圧倒的な武功の誇示である。供養が必要なほど数多くの敵を討ち取ったという、自らの武勇を内外に示すパフォーマンスであった。第二に、そこには戦国武将特有の死生観と宗教観が垣間見える。敵とはいえ、人の命を奪うことへの畏れ、そして討ち取った者たちの怨霊や祟りを鎮めようとする、深い信仰心の発露であった可能性が高い。武功を立てるという武士の本分と、死者への畏敬の念という、一見矛盾した精神性が同居するこの行為こそが、山上道及という武将の類稀なる個性を象徴している。この逸話は彼の武名と共に広まり、遠く奥羽の上杉家にまで知られるほどの、彼の「ブランド」となった 13 。
天正9年(1581年)、佐野氏は北条方に属する館林城主・長尾顕長との間で、免鳥城(現在の栃木県佐野市)を巡る激しい合戦を繰り広げた(免鳥の合戦) 14 。この戦いの後、道及は「武者修行」と称して突如佐野家を出奔する 1 。
この一度目の出奔の真意は定かではない。文字通り、さらなる武辺の誉れを求めて諸国を巡る旅に出たのかもしれないし、あるいは佐野家内部での何らかの対立が背景にあった可能性も考えられる。いずれにせよ、この上方への旅は、彼の運命を再び大きく動かすことになる。この旅の途上で、彼は後の政治的盟友となる一人の傑物と再会を果たすのである。その人物こそ、佐野一族でありながら中央政界にも通じた外交僧、天徳寺宝衍であった。
武辺一筋に生きてきた山上道及のキャリアは、一人の傑物との連携によって新たな局面を迎える。それは、単なる武将から、関東の勢力図を動かす政治的プレイヤーへの変貌であった。
天徳寺宝衍(てんとくじ ほうえん)は、佐野家当主・佐野昌綱の弟であり、道及の主君・宗綱の叔父にあたる人物である 16 。彼は早くから佐野家を出て出家し、外交僧として活動していた。特に、中央の織田信長や豊臣秀吉といった天下人と直接的な繋がりを持ち、関東の情勢を彼らに伝える重要なパイプ役を担っていた 10 。道及が武勇によって佐野家を支える「剛」の存在であったとすれば、宝衍は情報と外交によって家を支える「柔」の存在であったと言える。道及が最初の出奔で上方に滞在していた際、この宝衍と再会し、固い盟友関係を結んだ 2 。
天正13年(1585年)元旦、佐野家にとって激震が走る。当主の佐野宗綱が、北条方の長尾顕長との戦いで若くして戦死してしまったのである 10 。嫡男のいなかった宗綱の死は、佐野家に深刻な後継者問題を引き起こした。
家中は二つに割れた。一つは、強大な北条氏の庇護下に入ることで家の安泰を図ろうとする「北条派」である。彼らは、北条氏康の子である北条氏忠を宗綱の娘婿として迎え、家督を継がせることを主張した。これに対し、敢然と異を唱えたのが天徳寺宝衍であった。彼は、北条氏の支配下に入ることは佐野氏の独立を失うことだとし、関東で反北条連合の中核をなす常陸(ひたち、現在の茨城県)の佐竹義重の子を養子に迎えるべきだと主張した 1 。そして、この宝衍の側に立ち、佐竹派(反北条派)の中核を担ったのが、佐野家随一の猛将として家中に重きをなしていた山上道及であった。
この対立は、単なる佐野家内部のお家騒動ではなかった。それは、北条氏の関東支配に組み込まれるか、それとも勃興しつつある豊臣政権と結びついて独立を維持するかという、関東全体の未来を占う代理戦争の様相を呈していた。道及は、この局面において、一人の武将から、明確な政治的意思を持った活動家へとその姿を変貌させたのである。
後継者を巡る対立は11ヶ月にも及んだが、佐野領に幾度も軍事介入を行う北条氏の圧力が最終的な決め手となった。天正14年(1586年)11月、ついに北条氏忠が正式に佐野家の家督を継承することが決定する 2 。
これは、宝衍と道及にとって完全な政治的敗北を意味した。もはや佐野家に彼らの居場所はなく、二人とその一派は、再び故郷を離れることを余儀なくされる。しかし、この亡命は単なる逃亡ではなかった。彼らには次の一手があった。それは、当代随一の実力者であり、北条氏と対立する豊臣秀吉を頼ることである 1 。
この二度目の出奔は、かつての「武者修行」とは全く意味合いが異なる。それは、生き残りをかけた高度な政治判断の結果であった。そしてこの決断は、一地方の家臣に過ぎなかった道及を、天下統一という巨大な歴史の歯車に組み込む、大きな飛躍の機会をもたらした。逆境をバネにして、より大きな舞台へと駆け上がる。山上道及の人生は、まさに戦国乱世のダイナミズムそのものであった。
佐野家を追われた山上道及と天徳寺宝衍は、彼らの政治的価値を正しく評価できる唯一の人物、豊臣秀吉のもとへと走った。ここから道及は、一地方の武将から、天下統一事業を推進するエージェントへと、その役割を大きく変えていく。
秀吉に仕官した道及は、すぐさまその能力を認められ、重要な任務を与えられる。天正14年(1586年)5月、道及は上洛し、秀吉から直接「惣無事令」を接受した記録が残っている 2 。惣無事令とは、秀吉が天皇の権威を背景に、全国の大名に対し私的な領土紛争(私戦)を禁じた命令であり、彼の天下統一事業の根幹をなす政策であった。
道及に与えられた役割は、この惣無事令を携え、奥州および関東の諸大名のもとへ赴く使者であった。この事実は、第一級の史料である『秋田藩家蔵文書』に記されており、彼のキャリアにおける極めて重要な転換点を示すものである 2 。秀吉が、関東の複雑な情勢に精通し、かつ武勇にも優れた道及を、自らの政策を現地で執行する代理人として高く評価していたことがわかる。一介の牢人に過ぎなかった男が、天下人の重要政策の尖兵として、かつては雲の上の存在であった大名たちのもとへ赴く。これは、道及の人生における頂点の一つであったと言えよう。
秀吉の関東平定、すなわち小田原北条氏の討伐が現実味を帯びてくる中で、道及はさらに重要な役割を担う。天正18年(1590年)、秀吉は天徳寺宝衍に対し、来るべき大戦に備え、関東八州の詳細な絵図(地図)を作成するよう命じた。宝衍はこの大任の実行責任者として、盟友である道及を指名した 1 。
道及は、福地、田口、高山といった旧佐野家臣団の仲間たちと共に、関東諸国の山河の地形、城郭の位置と規模、街道網などを詳細に調査し、色分けした精密な絵図を完成させた。この絵図は、豊臣軍の軍監であった加藤清正に提出されたと記録されている 2 。この事実は、道及が単なる武勇だけの人物ではなく、地理的知識や情報収集・分析能力といった、軍事作戦の立案に不可欠な知略をも兼ね備えていたことを雄弁に物語っている。
そして天正18年(1590年)、秀吉による20万を超える大軍が関東に侵攻し、小田原征伐が開始される。宝衍と道及も豊臣軍の一員としてこれに参陣した。彼らは、北陸道を進軍してきた前田利家・上杉景勝の軍勢に合流し、道案内役を務めた 16 。
やがて豊臣軍は、彼らにとって因縁の地である佐野領へと進撃する。かつて自らが仕え、そして追われた主家である佐野氏の居城・唐沢山城は、この時、北条氏忠が城主となっていた。宝衍と道及は、この唐沢山城の攻略に加わり、最終的に城の降伏を請け取るという、数奇な役割を果たすことになった 16 。
追放された者が、今度は天下人の軍勢を率いて故郷の城を攻め、それを受け取る。この出来事は、戦国武将の忠誠のあり方が、土地や血縁といった旧来の価値観から、実力と恩顧を与えてくれる新たな権力者へと劇的に移行していく時代の変化を、あまりにも鮮やかに象徴している。北条氏が滅亡し、佐野家の家督は宝衍(還俗して佐野房綱を名乗る)が継承することとなり、道及はついに積年の雪辱を果たしたのである。
小田原征伐によって天下統一が成り、関東の勢力図も一新された。しかし、山上道及の戦いはまだ終わらなかった。彼の流転の生涯は、最後の舞台である東北の地へと向かう。
小田原の役の後、道及の動向はしばらく史料から途絶える。佐野家に戻った形跡はなく、再び牢人となっていた可能性が高い。彼の名が再び歴史の表舞台に現れるのは、慶長3年(1598年)のことである。この年、豊臣政権の五大老筆頭であった徳川家康に対抗するため、上杉景勝が越後から会津120万石へと加増移封された。
景勝は、来るべき家康との決戦に備えて軍備を急拡大し、全国から腕利きの牢人(浪人)を積極的に召し抱えていた。その新規召し抱えの武将リストの中に、道及の名を見出すことができる。『上杉家御年譜』などの上杉家関連史料には、「関東牢人、山上道及、首供養度度仕候由」(関東出身の牢人である山上道及は、たびたび首供養を行ったとのことである)という記述がある 1 。
この一文は極めて示唆に富む。道及の特異な逸話である「首供養」が、彼の武勇を証明する一種のブランドとして、遠く会津の地にまで鳴り響いていたことを示している。景勝は、その武名を聞き及んで、歴戦の猛者である道及を客将として招聘したのである。上州の山城から始まった彼の武名は、数十年を経て、彼に新たな仕官の道を開いたのだった。
慶長5年(1600年)、天下分け目の関ヶ原の戦いが勃発すると、その戦いは全国に波及した。会津の上杉景勝は西軍に与し、東軍についた最上義光・伊達政宗の連合軍と、出羽国(現在の山形県・秋田県)を舞台に激しい戦いを繰り広げた。これが「慶長出羽合戦」である。
上杉家の客将となっていた道及も、当然この戦いに参陣したものと考えられる 12 。これが、史料の上で確認できる彼の最後の戦場となった。上州の山城に始まり、下野の平野、京の都、小田原の城下を経て、彼の武人としての人生は、雪深い東北の地で最後の輝きを放った。
なお、近衛龍春の歴史小説『戦って候 不屈の武将・山上道牛』や、それを基にした漫画『花の慶次 -雲のかなたに-』では、この慶長出羽合戦において道及が前田慶次と共に奮戦する場面が描かれている 4 。二人の豪傑の共闘は物語として非常に魅力的であるが、これはあくまで創作上の演出であり、両者が実際に共闘したという史実を確認できる記録はない。しかし、そうした創作の題材となるほどに、道及が歴戦の強者として認識されていたことは間違いない。
慶長出羽合戦以降、山上道及の消息を伝える史料は存在しない。関ヶ原で西軍が敗れた後、上杉家は会津120万石から米沢30万石へと大幅に減封された。多くの家臣が整理される中で、道及が上杉家に留まり続けたのか、あるいは戦場でその生涯を終えたのか、それとも再び牢人となってどこかへ去ったのか。すべては歴史の闇の中である。確かなことは、彼の波乱に満ちた人生が、この戦いを境に静かに歴史の記録から姿を消していくということだけである。
山上道及の生涯を、出自から晩年まで史料に基づき検証してきた。彼の人生の軌跡は、「佐野四天王の一人」や「首供養の猛将」といった断片的なイメージを遥かに超える、複雑で多層的な武将像を我々に提示してくれる。
道及の生涯は、戦国後期に生きた武士の多様な生き様を一身で体現した、稀有なサンプルケースであったと言える。第一に、彼は 土地を失った国衆の悲哀 を背負っていた。北条氏の侵攻によって拠点を奪われた彼の人生は、帰るべき場所を失った者の流浪から始まった。第二に、彼は 実力でのし上がる家臣 であった。佐野家という常に存亡の危機にある組織において、自らの武勇を武器に頭角を現し、重臣にまで登り詰めた。第三に、彼は 中央政権と結びつく政治的策士 としての一面を見せた。天徳寺宝衍との連携を通じて、地方の勢力争いを天下の情勢と結びつけ、豊臣秀吉という新たな権力者に自らを売り込むという高度な政治的判断を下した。そして第四に、彼は**武勇を売り物にする客将(フリーランス)**として生涯を終えた。特定の家に骨を埋めるのではなく、自らの武名と経験を頼りに、それを最も高く評価する主君(上杉景勝)のもとで最後の奉公を果たした。
彼の人物像を考える上で、『唐沢城老談記』 21 や『上州故城塁記』 3 といった後代の軍記物語が描く英雄的な側面と、『秋田藩家蔵文書』 2 や上杉家の史料 2 が示す、断片的だが確実な記録とを比較検討することが重要である。伝説は彼を「猛将」として語り継ぐが、史料は彼が時代の変化に巧みに適応し、生き残りを図った現実的な戦略家であったことを示唆している。惣無事令の使者や関東絵図の作成といった任務は、彼が単なる武勇だけでなく、知略と交渉力、そして情報分析能力をも兼ね備えていたことを証明している。
なぜ今、山上道及のような人物が我々の興味を引くのだろうか。それは、彼の生き方が、現代社会を生きる我々にある種の示唆を与えてくれるからかもしれない。終身雇用という価値観が揺らぎ、組織への帰属意識が変化する現代において、自らの専門性(スキル)を武器に、所属する組織を渡り歩きながらも自己の価値を証明し続けた彼の姿は、時代を超えた普遍的な生存戦略のモデルとして、我々の目に映るのである。山上道及は、戦国という極限状況の中で、自らの道を切り拓いた、一人の孤高のプロフェッショナルであった。その実像は、これからも多くの歴史愛好家を魅了し続けるに違いない。
表2:山上道及 関連年表
西暦 (和暦) |
山上道及の動向 |
佐野氏の動向 |
関東情勢 (北条/上杉) |
中央情勢 (織田/豊臣) |
1555 (弘治元) |
北条氏康に山上城を追われる 1 。 |
- |
北条氏、関東へ勢力拡大。 |
- |
(時期不明) |
佐野泰綱に仕官する 1 。 |
上杉・北条間で降伏と独立を繰り返す 1 。 |
上杉謙信、関東出兵を繰り返す。 |
- |
1581 (天正9) |
免鳥の合戦に参加後、「武者修行」と称し出奔 2 。 |
長尾顕長と免鳥城で交戦 15 。 |
- |
織田信長、勢力を拡大。 |
1585 (天正13) |
(佐野家復帰後) |
当主・佐野宗綱が戦死 10 。後継者問題が勃発。 |
後北条氏と佐竹氏ら反北条連合の対立が激化(沼尻の合戦など)。 |
豊臣秀吉、関白に就任。 |
1586 (天正14) |
天徳寺宝衍と佐竹派を形成するも敗北。佐野家を離れ秀吉に仕官。惣無事令の使者となる 1 。 |
北条氏忠が家督を継承。事実上、北条氏の支配下に入る。 |
北条氏、佐野領への軍事介入を成功させる。 |
秀吉、惣無事令を発令。 |
1590 (天正18) |
関東絵図の作成を主導 2 。小田原征伐に豊臣方として参陣 1 。 |
(当主・北条氏忠)豊臣軍に降伏し、唐沢山城は落城 16 。 |
小田原城が落城し、後北条氏が滅亡。 |
秀吉、天下を統一。 |
1598 (慶長3) |
上杉景勝の会津移封に伴い、客将として仕官する 2 。 |
佐野信吉が当主。豊臣大名として存続。 |
徳川家康が関東の新支配者となる。 |
秀吉が死去。 |
1600 (慶長5) |
上杉軍の一員として慶長出羽合戦に参戦したと推定される 12 。 |
当主・佐野信吉は東軍に与する。 |
- |
関ヶ原の戦い。 |
1601年以降 |
史料から消息が途絶える。 |
- |
- |
徳川幕府の成立へ。 |