最終更新日 2025-05-15

山内一豊

山内一豊公に関する調査報告

1. 序論

山内一豊(やまうち かつとよ、天文14年/1546年 - 慶長10年9月20日/1605年11月1日)は、戦国時代から江戸時代初期にかけて活躍した武将であり、土佐藩初代藩主としてその名を歴史に刻んでいます 1 。織田信長、豊臣秀吉、そして徳川家康という、天下統一を成し遂げた三英傑に仕え、激動の時代を巧みに生き抜きました。その生涯は、一介の武士から一国の大名へと成り上がる立身出世の物語であり、戦国武将の処世術の一つの典型を示すものと言えるでしょう 3

特に、妻である千代(見性院)の「内助の功」にまつわる逸話は広く知られており、夫婦の協力によって困難を乗り越え、立身出世を果たしたという物語は、後世に大きな影響を与え、今日においても多くの人々に語り継がれています 3

本報告書では、山内一豊の出自から初期の経歴、関ヶ原の戦いにおける重要な役割、土佐藩初代藩主としての治績、そして彼を支えた妻・千代の人物像、さらには関連する史跡や歴史的評価、後世の創作物における描かれ方に至るまで、現存する資料に基づき、多角的に詳述することを目的とします。

2. 出自と初期の経歴

2.1. 生い立ちと山内家の背景

山内一豊は、天文14年(1545年) 1 、あるいは天文15年(1546年) 4 に、尾張国(現在の愛知県西部)で生を受けました。幼名は辰之助と伝えられています 1 。父は山内盛豊といい、尾張岩倉城主であった織田信安(織田信長の縁戚)の家老を務め、黒田城(現在の愛知県一宮市)を預かる身でした 1 。一豊は黒田城で幼少期を過ごしましたが、彼が15歳を迎える頃、主家である岩倉織田氏と織田信長との間で対立が激化します。この争乱の中で、父・盛豊と兄が相次いで戦死し、山内家は離散の憂き目に遭いました。これにより、一豊は若くして故郷を追われ、母と共に各地を流浪するという苦難に満ちた青年期を送ることになります 1

父兄を仇敵である織田信長に討たれたという事実は、後にその信長に仕えることになる一豊にとって、計り知れない葛藤を生んだであろうことは想像に難くありません。この屈辱的な経験を乗り越えて信長に仕官したことが、結果的に彼の人生を大きく変える転機となった点は、戦国武将の置かれた複雑な主従関係と、生き残りをかけた現実主義的な側面を浮き彫りにしています。戦国時代においては、仇敵に仕えることも珍しいことではありませんでしたが、その心理的負担と、それを乗り越えることで得られる実利、すなわち立身出世の機会との間で、武将たちは常に厳しい選択を迫られていました。一豊の場合、この困難な選択が後の飛躍へと繋がったのです。

2.2. 織田信長への仕官とその時代

各地を流浪した後、一豊は山城国西岡の領主であった牧村政倫に身を寄せ、その政倫が織田信長に臣従したことをきっかけとして、自身も信長に仕えることになりました 1 。親兄弟の仇に仕えることは、一豊にとって大きな屈辱であったでしょうが、これが彼の運命を大きく左右する第一歩となります。

永禄11年(1568年)、信長の命により、木下藤吉郎、すなわち後の豊臣秀吉の配下に入ります 1 。この時、秀吉は40歳、一豊は32歳であったと記録されています 8 。秀吉との主従関係の始まりは、一豊のキャリアにおける極めて重要な転換点であり、彼のその後の立身出世に大きな影響を与えることになります。

信長配下の武将として、元亀元年(1570年)の姉川の戦いでは初陣を飾りました 9 。続く天正元年(1573年)の刀根坂の戦い(一乗谷城の戦いとも呼ばれる)では、朝倉義景軍の猛将・三段崎勘右衛門を討ち取るという目覚ましい武功を挙げます。この戦功により、秀吉から近江国浅井郡唐国(現在の滋賀県長浜市)に400石の所領を与えられ、初めて知行を持つ身となりました 7 。この戦功は、一豊が単なる吏僚ではなく、武勇にも優れた武将であったことを示す初期の重要な証左と言えるでしょう。

2.3. 豊臣秀吉への仕官と戦功

本能寺の変で織田信長が横死した後は、豊臣秀吉に仕え、その天下統一事業に貢献していきます。天正11年(1583年)の賤ヶ岳の戦いでは、秀吉による滝川一益攻めに従軍し、伊勢亀山城(現在の三重県亀山市)攻めにおいて一番乗りの手柄を立てました 3 。この功績は、秀吉からの評価を一層確固たるものにしたと考えられます。

翌天正12年(1584年)の小牧・長久手の戦いでは、徳川家康軍を包囲するための付城(前線基地となる城砦)の建築を担うなど、戦略的な任務もこなしています 9

天正18年(1590年)の小田原征伐では、豊臣秀次(秀吉の甥)の指揮下に入り、山中城(現在の静岡県三島市)攻めなどに参加しました 3 。この戦いでの功績が認められ、豊臣秀次の宿老(家中の重臣)の一人に抜擢されるという栄誉を得ます 9 。これは、一豊が秀吉政権内においても重臣クラスの地位に達したことを明確に示しています。

2.4. 領地の変遷と掛川城主時代

豊臣秀吉の下での一豊の地位向上は、所領の増加という形でも顕著に現れます。天正11年(1583年)8月には、河内国禁野(現在の大阪府枚方市)において361石を加増されました 10 。翌天正12年(1584年)9月には近江国長浜城主となり、5,000石を領します 10 。さらに天正13年(1585年)6月には若狭国高浜城主として1万9,870石、同年閏8月には再び近江国長浜城主となり2万石と、短期間のうちに目まぐるしくその所領と地位を向上させていきました 10

そして、小田原征伐後の天正18年(1590年)9月、徳川家康が関東へ移封されたことに伴い、その旧領地であった遠江国掛川(現在の静岡県掛川市)に5万1千石(資料によっては5万9千石とも 11 )をもって入封し、掛川城主となります 1 。掛川においては、城郭の大規模な修築を行い、初めて天守閣を建立しました。また、大手門を現在の場所に移すなど城の防御機能を高めるとともに、城下町の整備や大井川の治水事業にも尽力し、領主としての優れた行政手腕を発揮しました 3

一豊のキャリア初期における頻繁な加増と領地替えは、豊臣政権下における実力主義と、秀吉による全国の大名配置転換政策を色濃く反映しています。特に掛川への移封は、新たに関東の支配者となった徳川家康への備えとしての戦略的意味合いが強く、一豊が秀吉から軍事的・政治的に一定の信頼を得ていたことを示唆しています。掛川での城郭修築や治水事業といった実績は、彼が単なる武人としてだけでなく、領国経営にも長けた人物であったことを証明しています。こうした経験が、後の土佐統治の礎となったことは想像に難くありません。

表1:山内一豊の主な経歴と石高の変遷

年代

主な出来事

領地・石高

主な典拠

天文14/15年

尾張国に誕生

-

1

永禄11年

木下藤吉郎(豊臣秀吉)の配下となる

-

1

天正元年

刀根坂の戦いで戦功、秀吉より知行を得る

近江国唐国 400石

7

天正11年

賤ヶ岳の戦いで戦功、河内国禁野を加増

河内国禁野 361石 加増

9

天正12年

近江国長浜城主となる

近江国長浜 5,000石

10

天正13年

若狭国高浜城主となる

若狭国高浜 1万9,870石

10

天正13年

近江国長浜城主となる(再任)

近江国長浜 2万石

10

天正18年

小田原征伐に従軍、遠江国掛川城主となる

遠江国掛川 5万1千石(または5万9千石)

2

慶長5年

関ヶ原の戦いで東軍に属す

-

1

慶長5年

土佐国を与えられる

土佐国 当初9万8千石、後20万2,600石

10

慶長10年

高知にて死去

-

1

この表は、一豊が織田信長、豊臣秀吉、徳川家康という三人の天下人に仕えながら、着実にその地位と経済基盤を拡大させていった過程を視覚的に示しています。特に、小田原征伐後の掛川5万石余、そして関ヶ原の戦い後の土佐20万石余という飛躍的な昇進は、彼が時代の大きな転換点において、いかに巧みに立ち回り、主君からの信頼を勝ち得ていったかを物語っています。

3. 関ヶ原の戦いと土佐入封

3.1. 「小山評定」における発言とその影響

慶長5年(1600年)、豊臣秀吉の死後、五大老筆頭であった徳川家康は、会津の上杉景勝に謀反の疑いありとして討伐軍を起こします。山内一豊もこの軍に従い、下野国小山(現在の栃木県小山市)まで進軍した際、石田三成らが家康に対して挙兵したという報がもたらされました 14 。この報を受け、家康は小山に諸将を集めて軍議を開きます。これが世に言う「小山評定」です。

この軍議において、多くの豊臣恩顧の大名たちが自らの去就に迷う中、福島正則が真っ先に家康への忠誠を表明した後、山内一豊は「某は居城である掛川城を貴殿(家康)に提供し、城内の兵糧米も全てお使いいただきたい。一身を投げ打ってご奉公仕る所存でござる」といった趣旨の発言をし、家康への全面的な支持を打ち出しました 7 。この一豊の果断な申し出は、その場にいた他の諸将の心を強く動かし、東軍の結束を固める上で決定的な役割を果たしたとされています 14 。一説には、この掛川城提供の案は、浜松城主であった堀尾吉晴が先に発案したものを、一豊が機を見て自らの発言として申し出たとも伝えられていますが 15 、いずれにせよ、この発言が家康を大いに感動させ、その後の戦局に大きな影響を与えたことは間違いありません。

徳川家康は、この時の一豊の建議を「古来より最大の功名なり」と激賞したと伝えられています 14 。小山評定における一豊の行動は、単なる忠誠心の表明に留まらず、高度な政治的判断に基づく戦略的行動であったと評価できます。豊臣恩顧の大名が多い中で、率先して家康への全面的な支持を打ち出すことは、自らの政治的立場を鮮明にし、家康からの信頼を勝ち取る絶好の機会でした。

掛川城提供の申し出は、家康にとって東海道筋の兵站線を確保するという軍事的な意味合い以上に、諸将の心理を掌握し、東軍の結束を強固にするという政治的効果が絶大でした。一豊がこの申し出の持つ戦略的重要性を理解していたとすれば、彼の政治感覚は非常に鋭敏であったと言えるでしょう。たとえ堀尾吉晴の発案であったとしても、それを最も効果的なタイミングで家康に伝え、実行に移した一豊の判断力と実行力は高く評価されるべきです。この一件は、戦国末期の武将が生き残りをかけて繰り広げた情報戦と心理戦の一端を示しており、関ヶ原の戦い本戦での目立った戦功がないにも関わらず、戦後に土佐一国という破格の恩賞に繋がった最大の要因と考えられます 15 。これは、戦功の評価基準が軍事的なものだけでなく、政治的な貢献度も重視されたことを示す好例です。

3.2. 関ヶ原の戦い本戦における動向と戦功

小山評定の後、東軍は西進を開始します。山内一豊の部隊は、関ヶ原の本戦(慶長5年9月15日)に至る過程で、まず岐阜城攻略に参加した後、西へ進軍し、垂井・関ヶ原を焼き払い、赤坂・青野原に着陣、大垣城攻撃のための付城を築いたとされています 19

本戦当日、一豊の主力部隊は、南宮山に布陣していた西軍の毛利秀元・長宗我部盛親らの軍勢を牽制する役割を担いました 7 。毛利勢は吉川広家らの内応工作により最後まで動かなかったため、一豊の部隊が直接的な大規模戦闘に及ぶことはありませんでした。そのため、関ヶ原の本戦においては「後陣の防御にあたったため活躍の場がなかった」 3 、あるいは「さしたる働きもありませんでした」 15 と評されるように、目立った武功を挙げることはできませんでした。ただし、一部資料には、南宮山の敵に動きがないことを見て、家康の命令により有馬豊氏・蜂須賀至鎮の隊と共に前進して戦ったとの記述も見られますが、大きな戦果には繋がらなかったようです 20

関ヶ原本戦における一豊の直接的な武功は限定的であったと言わざるを得ません。しかし、南宮山の毛利勢を抑えるという役割は、西軍の有力部隊を戦場から遊離させ、東軍本隊の戦闘を有利に進める上で間接的に貢献したと評価できます。もし毛利勢が積極的に行動していれば、東軍は側面からの攻撃を受ける危険性があり、戦いの趨勢は変わっていた可能性も否定できません。家康が一豊を高く評価したのは、本戦での武功よりも、むしろ小山評定における「忠節」を重視した結果であると言えるでしょう 17

3.3. 土佐国拝領の経緯と石高

関ヶ原の戦いが東軍の勝利に終わると、徳川家康による論功行賞が行われました。山内一豊は、小山評定における功績が特に高く評価され、土佐一国(現在の高知県)を与えられることになりました 2 。これは、それまで掛川5万石余の大名であった一豊にとって、破格の大出世でした。

拝領当初の土佐国の石高は9万8千石とされましたが、一豊入封後に行われた検地(高直し)の結果、20万2,600石に増加したと記録されています 10 。資料によっては24万石 22 、あるいは表高20万2,600石余に対して実高は24万8,300石余であったとするものもあります 23

戦場での華々しい活躍がなかった一豊に対するこの大幅な加増は、周囲を驚かせたと言われています。しかし、家康は「小山での一豊の申し出が(東軍の)勝利をもたらしたのだ」と述べて、その功績を称えたと伝えられています 15

一豊の土佐拝領は、関ヶ原の戦後処理における家康の論功行賞の特色を象徴する出来事と言えます。家康は、直接的な戦闘での武功のみならず、戦いの帰趨を左右する重要な局面での政治的判断や忠誠心を高く評価しました。豊臣恩顧の大名であった一豊を厚遇することで、他の豊臣系大名に対して家康への忠誠を誓うことの重要性を示し、自らの覇権を確立しようとする意図があったと考えられます。また、長宗我部氏の旧領であり、その遺臣たちの抵抗も予想される土佐の統治を、実績のある一豊に任せることで、その統治能力を試すという側面もあったのかもしれません。

4. 土佐藩初代藩主としての治績

4.1. 高知城の築城と城下町の整備

慶長5年(1600年)11月、土佐国を与えられた山内一豊は、翌慶長6年(1601年)1月に浦戸城(現在の高知市浦戸)に入城しました 2 。しかし、浦戸は城下町を展開するには手狭であり、また水害も多い土地であったため、新たな城地の選定が急務となりました 24 。一豊は領内を検分した結果、高知平野のほぼ中央に位置する大高坂山を新城の建設地と定め、築城に着手します 7 。これが現在の高知城です。

築城にあたっては、近江国の石垣技術者集団である穴太衆(あのうしゅう)を配下に持つ百々綱家(どど つないえ)を築城総奉行に任命し、先進的な技術を導入しました 24 。工事は迅速に進められ、慶長8年(1603年)には本丸と二の丸の主要部分が完成し、一豊は新城に入城を果たします 2 。城全体の縄張りがほぼ完成したのは慶長16年(1611年)のことでした 7

高知城の天守は三層六階の望楼型で、一豊が以前居城としていた掛川城の天守を模して造られたと伝えられています 13 。また、城の縄張りは梯郭式平山城で、鏡川と江ノ口川を天然の外堀として巧みに利用しています 27 。本丸を最後の防衛拠点とする設計は、慶長期の城郭によく見られる特徴です。詰門(つめのもん)は敵が容易に本丸へ侵入できないよう複雑な構造にするなど、随所に防御上の工夫が凝らされています 27

築城と並行して、城下町の整備も精力的に進められました。これにより、高知は土佐国の新たな政治・経済の中心地として発展していくことになります 10 。新領主として早急な支配体制の確立が求められる中、高知城の築城と城下町の整備は、物理的な拠点確保という側面だけでなく、新たな支配秩序の象徴としての意味合いも強かったと言えるでしょう。旧領主である長宗我部氏の影響力を払拭し、山内氏の権威を領内に示す上で、壮大な城郭と計画的な都市建設は不可欠な事業でした。

4.2. 検地と石高の確定

土佐に入封した一豊は、領国経営の基礎を固めるため、速やかに検地を実施しました 2 。この検地(高直しとも呼ばれる)により、当初9万8千石とされていた土佐国の石高は、最終的に20万2,600石へと大幅に増加しました 10

長宗我部氏時代に行われた太閤検地の結果を記した総検地帳は、土佐国の基本的な土地台帳として近代まで利用されたとされており 32 、山内氏による検地も、これを基礎にしつつ、より実態に即した石高を把握するための再調査であったと考えられます。二代藩主・忠義の時代には「元和改革」の一環としてさらに検地が進められ、藩の財政基盤の確立が図られました 25

検地の実施は、藩の財政基盤を確立し、安定した年貢収取システムを整備する上で不可欠な政策でした。石高の増加は、藩の経済力向上に直結し、幕府から課される軍役負担などに対応するための重要な財源確保に繋がったのです。この正確な石高の把握こそが、その後の土佐藩の安定的な統治を可能にした要因の一つと言えるでしょう。

4.3. 長宗我部旧臣への対応

山内一豊が土佐に入国した際、最も大きな課題の一つが、旧領主である長宗我部氏の家臣団、特に「一領具足」と呼ばれる半農半兵の在地武士たちの扱いであった。彼らは新領主である山内氏に対して強い抵抗感を示し、浦戸一揆 2 や滝山一揆 33 といった武力蜂起を引き起こしました。

これに対し一豊は、一方的な弾圧だけでなく、懐柔と威嚇を巧みに使い分ける方策で臨みました。長宗我部時代の旧政を一部引き継ぐことを表明して民心の安定を図り 25 、一部の長宗我部家臣をそのまま召し抱えるなど、融和的な姿勢も見せています 16 。しかし、抵抗を続ける勢力に対しては断固たる態度で臨み、滝山一揆では大砲を用いて鎮圧し、首謀者を処刑するなど、厳しい弾圧も行いました 16

また、一豊は土佐統治初期において、常に身辺の警戒を怠らず、自身と全く同じ服装をさせた影武者数人を引き連れて高知城築城の現場査察などを行っていたという逸話も残っており 16 、新領地における緊張感の高さがうかがえます。

長宗我部旧臣への対応は、まさにアメとムチを使い分ける巧みな統治術であったと言えます。旧臣の完全な排除はさらなる反乱を招く危険性があり、一方で無条件の懐柔は新支配体制の権威を損なう可能性があります。一豊は、抵抗勢力には断固たる処置で臨みつつ、従順な者や有能な者は取り立てることで、旧臣層の分断と懐柔を図ったと考えられます。この絶妙なバランス感覚が、比較的短期間での土佐平定に繋がった要因の一つと言えるでしょう。影武者の逸話は、彼が常に身の危険を感じ、慎重に行動していたことを示しており、新領地統治の困難さを如実に物語っています。

4.4. 産業振興策

山内一豊の土佐藩における治世は4年9ヶ月と比較的短かったため 25 、大規模な産業振興策を彼自身の手で完成させるには至らなかった可能性が高いです。しかし、その短い期間においても、後の土佐藩の経済発展の礎となるいくつかの施策が見られます。

掛川城主時代には、城下町の整備や大井川の治水事業を手がけるなど、領国経営における手腕を発揮していました 12 。土佐入封後も、高知城下の整備を進めるとともに、領内の要地に重臣を配置して地方の安定化を図りましたが 35 、これが間接的に産業活動の基盤整備に繋がったと考えられます。

土佐における有名な逸話として、領民の食中毒を防止するためにカツオを生で食べることを禁じたところ、領民がカツオの表面のみを炙って「これは焼き魚だ」と言い繕って食べたことが、「カツオのたたき」の起源になったという話があります 3 。これは直接的な産業振興策ではありませんが、民政への配慮を示す興味深い事例です。

より具体的な商業振興策としては、商人を誘致するために諸役を免除した結果、「御免(後免)」という地名が生まれたという記録があります 34 。これは、特定地域における商業活動の活性化を目指した政策であったと考えられます。

本格的な新田開発や諸産業の導入は、二代藩主・忠義の時代に、その家老であった野中兼山によって強力に推進されました 25 。しかし、一豊の時代に行われた検地の実施や領内の安定化は、こうした後の産業発展のための重要な前提条件を整えたと言えるでしょう。一豊の役割は、混乱していた土佐を平定し、統治の基礎を固めることに重点がありましたが、その中で商業の活性化など、初期的な施策も行っていたことがうかがえます。

4.5. 藩政の基礎確立

山内一豊は、慶長6年(1601年)の土佐入封から慶長10年(1605年)に61歳で病没するまでの約5年間という短い期間に、土佐藩の初期統治の基礎を築き上げました 1 。その主な内容は、高知城の築城と城下町の整備による政治・軍事拠点の確立 10 、検地の実施による財政基盤の把握 2 、そして長宗我部旧臣への対応を通じた領内秩序の安定化です。また、領内の要地に信頼できる重臣を配置することで、藩の隅々まで支配を行き渡らせる体制を整えました 25

一豊の土佐統治は短期間であったものの、その間に後継の藩体制の骨格を作り上げた意義は非常に大きいと言えます。特に、外部から入った大名家が、旧領主の勢力が依然として強い土地を治める上で直面するであろう数々の困難を乗り越え、安定した支配体制への道筋をつけた点は高く評価されるべきです。彼の死後、山内家が幕末に至るまで約270年間にわたり土佐を統治し続けることができたのは、この初期に築かれた強固な基盤があったからこそと言えるでしょう。

5. 山内一豊の人物像

5.1. 性格・能力に関する逸話と評価

山内一豊の人物像は、一般的に妻・千代の「内助の功」によって立身出世を果たしたというイメージが強いですが、彼自身の資質や能力を示す逸話も数多く残されています。

武将としての勇猛さを示すものとしては、若き日の刀根坂の戦いで顔面に矢を受けながらも敵将・三段崎勘右衛門を討ち取った武功 9 や、賤ヶ岳の戦いにおける伊勢亀山城攻めでの一番乗りの功名 3 などが挙げられます。これらの戦働きは、彼が単に運や妻の力だけでなく、自らの武勇によっても道を切り開いてきたことを物語っています。

政治家、あるいは指導者としての判断力や戦略眼も注目すべき点です。関ヶ原の戦いを前にした小山評定において、自らの居城である掛川城を徳川家康に提供することをいち早く申し出たことは、その最たる例と言えるでしょう 14 。この行動は、状況を的確に読み、時流を見極めた上での大胆な決断であり、家康からの絶大な信頼を勝ち取り、結果として土佐一国という破格の恩賞に繋がりました。

土佐入国後の統治においては、反抗する長宗我部旧臣に対しては厳しい態度で臨む一方で、懐柔策も用いるなど、剛柔併せ持った統治能力を発揮しました 16 。また、常に身辺の警戒を怠らず、影武者を用いていたという逸話 16 は、彼の慎重な性格と、新領地統治の困難さを示しています。

私生活においては、生涯側室を設けなかったと伝えられており、これは当時の武将としては珍しいことで、妻・千代への深い愛情と信頼、そして彼自身の真面目で実直な人柄をうかがわせます 40 。ただし、その実直さゆえか、出世は同時代の他の武将と比較して早い方ではなかったという評価もあります 40

『一豊公御伝記』によれば、一豊は戦場では多弁で大声で部下を叱咤し、言葉もはっきりしていたとされます。一方で、平時の食事作法は上品であり、酒は嗜む程度、茶の湯や能もわずかに嗜む程度であったと記されており、武骨さと洗練された側面を併せ持っていたようです 26

徳川家康は、小山評定での一豊の忠節を「木の本、その他の衆中は枝葉の如し」と、樹木に例えてその重要性を称賛したと伝えられており 17 、これが一豊の生涯における最大の評価と言えるかもしれません。

これらの逸話や評価を総合すると、山内一豊は、妻・千代の賢明な支えが大きかったことは疑いないものの、それに応えるだけの武勇、政治的判断力、慎重さ、そして時には非情な決断も下せる剛毅さを兼ね備えた、戦国武将としてバランスの取れた能力の持ち主であったと考えられます。彼自身に相応の器量と実力がなければ、土佐20万石の大名という地位にまで上り詰めることは到底不可能だったでしょう。

5.2. 妻・千代(見性院)の人物像と「内助の功」

山内一豊の妻・千代(慶長20年/元和3年〈1617年〉没 40 、戒名は見性院)は、「内助の功」で夫を支えた賢妻として、その名が広く知られています。彼女の出自については諸説あり、美濃斎藤氏の家臣であった不破彦三郎の娘とする説 40 や、近江国の出身説 40 、あるいは美濃国郡上八幡城主・遠藤氏の娘とする説 5 などが伝えられています。近年では、裏付けとなる資料の発見などから郡上八幡説が注目されていますが、決定的な証拠はまだ見つかっていません 5

千代は非常に教養が高く、政治や外交においても優れた手腕を発揮したとされ、一豊の死後も山内家を陰から支えたと言われています 5 。彼女の賢明さと夫への献身を示す逸話として、特に有名なものが二つあります。

一つは「名馬購入の逸話」です。一豊がまだ織田信長配下の一家臣で禄も少なかった頃、近く行われる馬揃え(軍馬の閲兵式)を前に、馬市で素晴らしい駿馬を見つけましたが、高価で手が出せずにいました。その様子を見た千代は、嫁入りの際に父から「夫の一大事の際に使うように」と渡されていた秘蔵の黄金十両を鏡の奥から取り出し、一豊に差し出しました。一豊はこの資金で名馬を購入し、馬揃えにおいて信長の目に留まり、大いに面目を施したとされています。この出来事が、一豊の出世の糸口になったとも言われています 1

もう一つは「笠の緒文(密書)の逸話」です。関ヶ原の戦いの直前、徳川家康に従って会津へ出陣していた一豊のもとに、大坂にいた千代から一通の密書が届けられました。当時、大坂は石田三成方の勢力下にあり、千代も監視されていましたが、彼女は巧みにこの密書を送ったのです。その内容は、石田三成方の動向を知らせるとともに、「自分(千代)のことは心配せず、家康公への忠義を貫いてください。もしもの時は自害してご迷惑はおかけしません」という覚悟を伝えるものでした。千代はさらに、この手紙を開封せずにそのまま家康に渡すよう一豊に指示しました。一豊はその言葉に従い、密書を未開封のまま家康に差し出したことで、家康の深い信頼を得たとされています 1

これらの逸話は、千代の機知に富んだ判断力、夫を思う深い愛情、そして武士の妻としての覚悟を鮮やかに示しており、彼女が単に夫に従順なだけの女性ではなく、夫のキャリアを戦略的に後押しする有能なパートナーであったことを物語っています。これらの物語が後世に語り継がれる中で、ある程度の脚色や美化が加えられた可能性は否定できませんが、千代が非凡な才覚と気概を持った女性であったことは確かでしょう。山内一豊の立身出世の陰には、常に千代の賢明な支えがあったと言われ、二人の物語は夫婦協力の美談として、今日に至るまで多くの人々に感銘を与え続けています 1

6. 関連史跡

山内一豊とその妻・千代ゆかりの地は、彼らの生涯の足跡を辿るように各地に点在しています。

6.1. 掛川城

遠江国掛川城(現在の静岡県掛川市)は、山内一豊が天正18年(1590年)から関ヶ原の戦い後の慶長5年(1600年)まで、約10年間にわたり居城とした場所です 1 。一豊はこの地で大規模な城郭修築を行い、東海の名城と称される基礎を築きました。特筆すべきは、掛川城で初めて天守閣を建立し、大手門を現在の位置に整備したことです 11 。また、城下町の整備や大井川の治水事業にも尽力し、領主としての行政手腕を発揮しました 12

現在の掛川城天守閣は、平成6年(1994年)に日本で初めて本格的な木造建築として復元されたものです 11 。復元にあたっては、山内一豊が後に築城した高知城天守を参考にしたとされています 29 。天守台の石垣からは、山内期の自然石や粗割石が用いられていたことも確認されていますが、これらは復元工事に伴い解体、積み直されました 11 。城内には、江戸時代に再建された二ノ丸御殿(国の重要文化財)が現存するほか、袋井市の油山寺に移築された大手二の門(山門として現存、国の重要文化財)など、一豊時代を偲ばせる遺構が残されています 11 。天守閣及び御殿は一般に見学が可能です 11

掛川城は、一豊が一国一城の主としての経験を積み、領国経営の手腕を磨いた重要な場所であり、ここで培われた築城や城下町整備のノウハウが、後の高知城築城にも活かされたと考えられます。

6.2. 高知城

土佐国(現在の高知県高知市)の高知城は、山内一豊が土佐入封後の慶長6年(1601年)から築城を開始し、慶長8年(1603年)に入城した、土佐藩山内家の居城です 2

天守は三層六階の望楼型で、一豊がかつて居城とした掛川城を模して造られたという説があります 7 。高知城は、享保12年(1727年)の大火で追手門などを除く大部分を焼失しましたが、寛延2年(1749年)までに再建されました。現在見られる天守や本丸御殿、追手門など15棟の建造物群は、この再建時のものであり、国の重要文化財に指定されています 7 。特筆すべきは、日本で唯一、本丸の建築群(天守、御殿、櫓、門など)がほぼ完全に現存する城であるという点です 3 。城の縄張りは梯郭式平山城で、築城総奉行は百々綱家が務めました 24

高知城は、山内氏による土佐支配の象徴であり、その後の土佐藩270年間の政治・経済・文化の中心となりました。一豊による築城は、新領主としての権威確立と領国経営の拠点整備という二重の目的を持っていました。現存する本丸建築群は、江戸初期から中期の城郭建築を知る上で極めて貴重な歴史遺産であり、一般に見学が可能です 43

6.3. 山内一豊及び妻・千代の銅像

山内一豊と妻・千代の功績を称える銅像は、ゆかりの地にいくつか建立されています。

  • 高知城内
  • 山内一豊像: 高知城追手門から入ってすぐ、高知県立図書館前に勇壮な騎馬像が建っています 28 。これは彫刻家・本山白雲の作で、初代の像は明治44年(1911年)あるいは大正2年(1913年)に建立されましたが、太平洋戦争中の金属類回収令により供出されました。現在の像は平成8年(1996年)に再建された二代目です 28 。像の高さは4.3メートル 47 、台座を含めると9.4メートルにもなり 28 、国内最大級の騎馬像の一つとされています。
  • 千代の像: 高知城公園内の杉ノ段に、山内一豊の妻・千代の単独像が設置されています 7 。これは、夫を内助の功で支えた賢夫人としての千代を顕彰するものです。所在地は高知市丸ノ内1丁目2とされています 50
  • 岐阜県郡上市
  • 美濃国郡上八幡(現在の岐阜県郡上市)の郡上八幡城の麓、城山公園(本丸跡地)には、山内一豊と妻・千代、そして名馬の三者を一体とした銅像があります 51 。これは、千代が郡上八幡の出身であるという説(遠藤氏の娘説)にちなんで建立されたもので、夫婦の絆と、出世のきっかけとなった名馬購入の逸話を象徴しています 5

これらの銅像は、山内一豊と千代の事績、特に千代の「内助の功」が、それぞれの地域における歴史的シンボルとして、また観光資源や教育的素材として活用されていることを示しています。高知城の騎馬像の再建の経緯は、戦争による文化財の喪失と、その後の平和な時代における歴史的偉人の再評価という、時代の変遷を物語るものと言えるでしょう。

6.4. 墓所

山内一豊とその妻・千代の墓所は、土佐と京都の二箇所に存在します。

  • 高知県高知市
  • 土佐藩主山内家の歴代墓所が、高知市中心部の南に位置する筆山(ひつざん)にあり、国の史跡に指定されています 52 。この墓所には、初代藩主である一豊と二代藩主・忠義の墓が、禅宗僧侶の墓形式である卵塔型(無縫塔ともいう)で築かれています 52
  • 京都府京都市
  • 臨済宗妙心寺派大本山である妙心寺(京都市右京区)の塔頭寺院の一つ、大通院に、山内一豊と妻・千代夫妻の墓(御廟)があります 53 。大通院は山内家の菩提寺であり、霊屋内には一豊と千代の無縫塔が左右に並んで祀られています。夫婦の墓石がこのように並んで安置されるのは、当時としては大変珍しいことでした。この御廟は、千代の十七回忌にあたる寛永10年(1633年)に、一豊夫妻の義子であり、後に妙心寺の住持となった湘南宗化(一豊の養子・拾)によって建立されたと伝えられています 53 。大通院は通常非公開ですが、時期によっては特別公開されることがあります 53

高知と京都の双方に墓所が存在することは、一豊が土佐藩の始祖であると同時に、中央(京都)の文化や宗教(特に禅宗)とも深い繋がりを持っていたことを示唆しています。妙心寺大通院の墓が夫婦仲良く並んで祀られている点は、二人の絆の深さを物語るものとして特に注目され、彼らの夫婦愛を象徴するものとして後世に語り継がれています。

表2:山内一豊関連史跡一覧

史跡名

所在地

主な関連・現状など

主な典拠

掛川城

静岡県掛川市

天正18年~慶長5年の居城。一豊により天守初建。現天守は木造復元。二ノ丸御殿(重文)現存。

11

高知城

高知県高知市

土佐藩初代藩主として築城。天守・本丸御殿など15棟が現存(全て重文)。

3

山内一豊像(高知城内)

高知県高知市

高知県立図書館前。本山白雲作の騎馬像。初代は戦時供出、平成8年再建。

28

山内一豊妻千代の像(高知城内)

高知県高知市

高知城公園杉ノ段。内助の功を称える単独像。

7

山内一豊・千代・名馬の像

岐阜県郡上市

郡上八幡城麓、城山公園内。千代の郡上出身説にちなむ。

51

土佐藩主山内家墓所

高知県高知市筆山

国の史跡。初代一豊の墓は卵塔型。

52

妙心寺大通院 山内一豊・千代墓所

京都府京都市右京区

山内家菩提寺。霊屋内に夫妻の無縫塔が並んで祀られる。通常非公開。

53

この表は、山内一豊ゆかりの地を一覧で示すことで、彼の生涯の足跡を地理的に把握しやすくするとともに、各史跡の現状や一豊との関連性を簡潔に理解する助けとなります。

7. 歴史的評価と後世への影響

7.1. 同時代及び後世における評価、近年の研究動向

山内一豊の評価は、時代や視点によって多様な側面を見せます。同時代、特に彼を土佐一国の大名に取り立てた徳川家康からは、関ヶ原の戦いに先立つ小山評定での忠節を「木の本、その他の衆中は枝葉の如し」とまで称賛され、その政治的判断が極めて高く評価されました 14 。この評価が、本戦での目立った武功がなかったにも関わらず、破格の恩賞に繋がった最大の理由です。

後世においては、妻・千代の「内助の功」によって大名になったという側面が強く語り継がれ、賢妻を持つ幸運な武将というイメージが一般化しました 3 。これは、特に明治以降の修身教育などで理想的な夫婦像として取り上げられた影響も大きいと考えられます。

しかし近年では、こうした従来の評価に加え、一豊自身の武将としての能力や政治家としての手腕も再評価される傾向にあります 16 。例えば、土佐入国後の旧臣対策に見られる剛柔織り交ぜた統治術や、掛川城や高知城の築城・城下町整備に見る領国経営の手腕などが注目されています。また、派手な武功よりも堅実さで評価され、最終的に土佐藩20万石の基礎を築いた点は、乱世を生き抜く処世術の一つの形として評価されています 4

特に、小山評定における一豊の行動については、歴史学的な再検討が進んでいます。白峰旬氏の研究では、小山評定自体の史実性や、そこで一豊が果たしたとされる役割について、一次史料に基づいた批判的な検討がなされています 57 。この研究は、一豊の行動が、従来語られてきたようなドラマチックなものだけでなく、より冷静かつ計算された戦略的判断に基づくものであった可能性を示唆しており、従来の「妻の功績」や「幸運」に頼ったという評価に一石を投じるものです。

山内一豊の歴史的評価は、妻・千代の物語性と、小山評定という逸話に大きく影響されてきました。しかし、近年の実証的な研究は、これらの逸話の史実性を問い直し、一豊自身の主体的な判断や能力、そして当時の政治状況の複雑さを浮き彫りにしようとしています。「幸運な武将」あるいは「妻に助けられた凡将」といった単純なレッテルから脱却し、激動の時代を生き抜いた一人の武将・政治家としての多面的な実像に迫る試みが進んでいると言えるでしょう。特に小山評定の再検討は、一豊個人の評価のみならず、関ヶ原の戦い前夜における東軍形成過程全体の理解にも影響を与える重要な論点となっています。

7.2. 歴史小説、ドラマにおける描かれ方とその影響

山内一豊とその妻・千代の物語は、そのドラマ性から数多くの歴史小説や映像作品の題材とされてきました。中でも最も広く知られているのは、司馬遼太郎の小説『功名が辻』と、これを原作として2006年に放送されたNHK大河ドラマでしょう 58

これらの作品では、主に妻・千代が主人公として描かれ、一豊は実直で誠実な人物ではあるものの、妻の知恵と内助によって数々の困難を乗り越え、出世していく夫として描かれる傾向があります 58 。この描写は、一豊の人間的な魅力や夫婦の絆を強調する一方で、山内家の子孫からは史実における一豊の主体性や能力が十分に描かれていないとの批判も寄せられています 59

『功名が辻』以前にも、山内一豊夫妻を題材とした作品は存在します。例えば、永井路子の小説『一豊の妻』では、『功名が辻』とは対照的に千代が悪妻として描かれ、一豊がそれに苦労するという、全く異なる夫婦像が提示されています 60 。また、テレビドラマとしては、1966年のNET(現テレビ朝日)『戦国夫婦物語 功名が辻』や、1997年のテレビ朝日『司馬遼太郎の功名が辻』など、複数回にわたり映像化されています 59

これらの創作物、特に『功名が辻』の成功は、「山内一豊=妻の内助の功で出世した武将」というイメージを国民的規模で定着させる上で絶大な影響力を持ったと言えます。歴史上の人物が創作物でどのように描かれるかは、その人物のパブリックイメージ形成に大きく関わります。一豊の場合、『功名が辻』が彼の評価を良くも悪くも固定化させた側面は否定できません。しかし、多様な解釈に基づく作品が存在することは、歴史の多面性と、創作物が歴史をどのように受容し、再生産していくかという文化的な現象を考える上で、非常に興味深い事例と言えるでしょう。

8. 結論

山内一豊の生涯は、戦国乱世から江戸初期という激動の時代を、主君を変えながらも巧みに生き抜き、最終的に土佐20万石の大名へと成り上がった、まさに立身出世の物語です。その過程においては、織田信長、豊臣秀吉、徳川家康という当代の三英傑に仕え、それぞれの政権下で武功を挙げ、また領主としての経験を積みました。彼の成功の背景には、妻・千代(見性院)の賢明な内助があったことは広く知られていますが、一豊自身もまた、武勇に優れ、時流を読む鋭い政治感覚と、時には大胆な決断を下せる指導力を備えていたことが、本報告書の調査から明らかになりました。

特に、関ヶ原の戦いに先立つ「小山評定」における掛川城提供の申し出は、彼の運命を決定づけた最大の功績であり、徳川家康から絶大な信頼を得る要因となりました。この行動は、単なる忠誠心の表明に留まらず、戦局全体を見据えた高度な政治的判断であったと評価できます。

土佐藩初代藩主としての治世はわずか5年弱と短期間でしたが、高知城の築城と城下町の整備、検地の実施、そして長宗我部旧臣への巧みな対応などを通じて、その後の山内家による約270年間にわたる長期安定支配の強固な礎を築きました。

「内助の功」の物語は、夫婦の理想像として後世に語り継がれる一方で、一豊自身の主体的な能力や戦略眼といった側面を覆い隠してきた可能性も否定できません。しかし、近年の歴史研究においては、こうした従来のイメージに囚われず、史料に基づいたより多角的で実証的な一豊像の再構築が進められています。

山内一豊は、戦国乱世を生き抜いた武将としての実力と、新しい時代である江戸幕藩体制に適応していく政治的柔軟性を併せ持った、注目すべき人物です。彼の生涯は、個人の才覚と努力、時勢を読む洞察力、そして人間関係(特に夫婦の絆)が、いかに複雑に絡み合いながら歴史を形成していくかを示す好例と言えるでしょう。今後、さらなる史料の発見や研究の深化によって、山内一豊のより詳細な実像が明らかになることが期待されます。

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