山内忠義は土佐二代藩主。一豊養子、家康養女と婚姻で山内家を盤石に。大坂の陣遅参も不問。野中兼山を登用し治水・殖産興業を推進。強権政治で軋轢も、近世土佐の礎を築いた名君。
江戸時代初期、土佐国を治めた山内家二代藩主・山内忠義。彼の名は、初代藩主であり、戦国乱世を駆け抜けた伯父・山内一豊の影に隠れがちである。しかし、一豊が武功によって獲得した土佐二十四万石という広大な領地を、実質的に安定した近世大名領国へと育て上げたのは、まさしく忠義その人であった。
初代藩主・一豊の治世は、関ヶ原の戦いの功績により土佐一国を与えられたものの、その統治は困難を極めた 1 。旧領主・長宗我部氏の遺臣団、特に「一領具足」と呼ばれる半農半兵の在地勢力による抵抗は根強く、浦戸一揆に代表される反乱に直面するなど、藩の統治基盤は極めて脆弱であった 3 。武力による立身出世の典型であった一豊に対し、その後を継ぐ忠義には、武力ではなく卓越した統治能力によって藩を安定させることが時代の要請として課せられていた。
さらに、山内家は豊臣恩顧の外様大名という立場にあった 1 。成立間もない徳川幕府の治世下で、いかにして中央政権との信頼関係を構築し、その地位を盤石なものとするか。これは、山内家の存続そのものに関わる喫緊の課題であった 6 。忠義の生涯は、まさにこの幕藩体制下における生存戦略と、領国経営という二重の難題に挑み続けた軌跡であったと言える。
本報告書は、山内忠義を単なる「偉大な父(伯父)の跡継ぎ」としてではなく、戦国の遺風が色濃く残る土佐を近世的な統治国家へと変貌させ、その後の二百数十年にわたる繁栄の礎を築き上げた「創業者」の一人として再評価することを目的とする。彼の「剛毅果断」と評される性格、若き日の試練、そして稀代の経世家・野中兼山を登用して断行した大改革の光と影を丹念に追うことで、その実像に迫る。
年号(西暦) |
年齢 |
主な出来事 |
出典 |
文禄元(1592) |
1歳 |
遠江国にて、山内康豊の長男として誕生。幼名は国松。 |
7 |
慶長10(1605) |
14歳 |
伯父・一豊の死去に伴い、家督を相続。土佐藩二代藩主となる。徳川家康の養女・阿姫と婚姻。従五位下対馬守に叙任される。 |
7 |
慶長15(1610) |
19歳 |
従四位下土佐守に昇叙。居城の河内山城を「高知城」と改称する。 |
7 |
慶長19(1614) |
23歳 |
大坂冬の陣に徳川方として参陣。預かり人の毛利勝永に脱走される。 |
12 |
慶長20(1615) |
24歳 |
大坂夏の陣に際し、暴風雨のため渡海できず参戦しなかった。 |
12 |
元和年間 |
- |
藩財政の窮乏に対し、「元和改革」に着手。田地割替制などを導入。 |
9 |
寛永3(1626) |
35歳 |
侍従に任ぜられる。 |
7 |
寛永8(1631)頃 |
40歳 |
野中兼山を奉行職に抜擢し、藩政改革を本格化させる。 |
8 |
承応2(1653) |
62歳 |
大坂から陶工を招き、藩窯として「尾戸焼」を創始する。 |
13 |
明暦2(1656) |
65歳 |
中風を患い、長男の忠豊に家督を譲り隠居する。 |
7 |
寛文3(1663) |
72歳 |
藩主・忠豊が野中兼山を失脚させる(寛文の改替)。 |
17 |
寛文4(1664) |
73歳 |
11月24日、死去。 |
7 |
山内忠義が土佐藩の二代藩主となる道程は、個人の意思を超えた、山内家の存続と徳川幕府との関係構築という二つの国家的課題によって運命づけられていた。彼の出自、養子縁組の経緯、そして戦略的な婚姻は、戦国から江戸へと移行する時代の要請そのものであった。
忠義の藩主としての成功を語る上で、実父・山内康豊の存在は決定的に重要である 19 。康豊は初代藩主・一豊の実弟であり、単なる親族というだけでなく、兄の覇業を支えた有能な武将であった 8 。関ヶ原の戦いの後、一豊が土佐に入国する際には、その先陣として現地の鎮撫にあたり、入国後は土佐中村に2万石を与えられて、抵抗勢力の強い幡多郡(土佐西部)の支配を任されるなど、兄から絶大な信頼を寄せられていた 19 。
この康豊の役割が最も重要性を増したのは、慶長10年(1605年)に一豊が死去した時である。当時、忠義はわずか14歳であり、未だ安定しない大藩を統治するにはあまりに若すぎた 20 。この危機的状況において、徳川家康自らの命により、忠義の後見役として藩政の実権を握ったのが康豊であった 19 。彼は高知に移り、忠義が成人して藩政を自ら担えるようになるまで、実質的な統治者として藩の舵取りを行った。後年、山内家第18代当主・山内豊秋が康豊を「兄より優れた人物だった」と評しているように 20 、彼の政治手腕は高く評価されていた。
康豊の存在は、単なる後見人にとどまらない。それは、山内家の権力継承における極めて戦略的な人事であり、藩の混乱を防ぎ、統治の連続性を確保するための「橋渡し」であった。康豊が築いた政治的・軍事的基盤なくして、忠義の52年間にわたる長期安定政権はあり得なかったであろう。
忠義が山内家の後継者となった背景には、伯父・一豊夫妻の家庭の事情と、妻・見性院(千代)の冷静な政治判断があった。一豊と見性院は、天正13年(1585年)の大地震で一人娘の与祢を失って以来、嗣子に恵まれなかった 10 。跡継ぎの不在は、大名家の存続にとって致命的である。夫妻は一時期、拾(ひろい)と名付けた捨て子を養育したが、これは後に禅門に入り湘南和尚となっている 22 。
最終的に後継者として白羽の矢が立ったのが、一豊の弟・康豊の長男である国松、すなわち後の忠義であった 7 。この決定には、見性院の強い意向が働いたとされる。彼女は、出自が不明な湘南和尚を後継とすることに反対し、血縁が確かで正統性の高い忠義を推したのである 6 。
この選択は、戦国から江戸へと時代が移る中で、大名家の存続には「血統の正当性」がいかに重要であるかを、見性院が深く理解していたことを示している。「内助の功」で知られる彼女の卓越した政治感覚は、個人的な同情よりも、山内家の未来を盤石にするという政治的リアリズムを優先させた。出自不明の養子では、将来、家臣団の掌握や幕府の公認を得る上で、何らかの瑕疵と見なされる危険性があった。最も正統性の高い血縁者を後継者に据えるという彼女の決断が、忠義の運命を決定づけたのである。
忠義の藩主としての地位を決定的に固めたのが、徳川家康の養女・阿姫(くまひめ)との婚姻であった。この縁組は、忠義が家督を相続した慶長10年(1605年)、京都で執り行われた 10 。阿姫の実父は家康の異父弟にあたる松平定勝であり、彼女は徳川宗家に極めて近い血縁者であった 17 。
この婚姻は、単なる政略結婚の域を超え、豊臣恩顧の外様大名であった山内家が、徳川の世で生き残るための「生命線」とも言える戦略的投資であった。この縁組の実現には、一豊と見性院が深く関与しており、婚礼は忠義を次期当主として家康・秀忠に披露する絶好の機会ともなった 10 。見性院は婚礼後、阿姫に付き添って土佐へ帰国するなど、細心の注意を払っている 10 。
この婚姻により、山内家は単なる臣従大名から、徳川家の準親族(姻戚)へとその地位を格上げし、絶大な政治的安定性を手に入れた 6 。幕府からの信頼を得やすくなるだけでなく、他藩との関係においても優位に立つことができる。後に詳述する大坂夏の陣での「遅参」が事実上不問に付されたのも、この強力なパイプがあったからこそ可能であったと考えられる。これは、山内家の安泰を次世代にわたって保証するための、一豊と見性院による最後の、そして最大の「内助の功」であったと言えよう。
関係 |
氏名 |
生没年・備考 |
出典 |
本人 |
山内 忠義(やまうち ただよし) |
文禄元(1592) - 寛文4(1664)。土佐藩二代藩主。幼名:国松。 |
7 |
実父 |
山内 康豊(やすとよ) |
天文18(1549) - 寛永2(1625)。一豊の弟。忠義の後見役。 |
19 |
実母 |
長井利直の娘 |
不詳。 |
20 |
養父 |
山内 一豊(かずとよ) |
天文14(1545) - 慶長10(1605)。土佐藩初代藩主。 |
1 |
養母 |
見性院(けんしょういん) |
不詳 - 元和3(1617)。一豊の正室。通称:千代。 |
24 |
正室 |
阿姫(くまひめ) |
文禄4(1595) - 寛永9(1632)。徳川家康養女。実父は松平定勝。法号:光照院。 |
6 |
長男 |
山内 忠豊(ただとよ) |
慶長14(1609) - 寛文9(1669)。土佐藩三代藩主。 |
17 |
長女 |
喜与(きよ) |
不詳。 |
17 |
次女 |
フウ |
寛永9(1632) - 延宝7(1679)。本多政長の正室。 |
17 |
三女 |
松(まつ) |
不詳。真田信利の正室。 |
17 |
四女 |
佐与姫(さよひめ) |
不詳。大宮季光の室。 |
17 |
五女 |
椎(しい) |
不詳。山内一輝の継室。 |
17 |
藩主就任直後の忠義を待ち受けていたのは、豊臣家の滅亡へと至る大坂の陣という全国規模の動乱であった。この未曾有の危機への対応と、その後の藩政初期における地道な改革は、若き君主としての彼の資質を試す最初の試練となった。
慶長19年(1614年)に大坂冬の陣が勃発すると、23歳の忠義は徳川方として5000の兵を率いて参陣し、船場に陣を構えた 12 。しかしこの時、土佐藩が預かっていた豊臣恩顧の勇将・毛利勝永が、忠義との衆道関係を口実にするという奇策を用いて陣から脱走し、大坂城に入城して豊臣方に加わるという手痛い失態を演じている 12 。これは、若き忠義の指揮官としての未熟さと、戦場の混乱の中で危険人物を管理することの難しさを示す逸話である。
さらに翌年の慶長20年(1615年)、大坂夏の陣に際しては、土佐から出陣しようとしたものの、「暴風雨」に遭遇して渡海できず、決戦に参戦することができなかった 12 。戦後、幕府は夏の陣での失態や軍規違反を理由に多くの大名を叱責、あるいは改易という厳しい処分を下したが 25 、土佐藩が処罰されたという記録は見当たらない。
この「遅参」が不問に付された背景には、複数の要因が考えられる。第一に、徳川家康の養女・阿姫との姻戚関係が、幕府の心証を和らげる上で決定的な役割を果たしたことは間違いない。第二に、幕府にとって、西国の外様大藩である土佐藩に武功を立てさせることよりも、領内の安定を優先させ、西国支配の礎として機能させることの方が重要であった可能性がある。当時の土佐は、依然として長宗我部旧臣による不穏な空気が残っており、藩の主力を大坂に投入することは国元が手薄になるリスクを伴った 3 。結果的に、「暴風雨」という不可抗力は、藩の軍事力を温存し、領内統治に専念させるという戦略的利益をもたらした。幕府と山内家の双方にとって、この「結果オーライ」な状況は好都合であり、忠義の遅参は黙認されたのであろう。
大坂の陣が終結し、世に「元和偃武」と呼ばれる平和な時代が訪れると、忠義は父・康豊の後見のもと、本格的な藩政に着手する。しかし、大坂の陣への出兵や幕府から課される普請役などにより、藩の財政は早くも窮乏していた 14 。これに対応するため、忠義は治世の前半に「元和改革」と呼ばれる一連の藩政改革を実施した 9 。
この改革の核心は、単なる財政再建に留まらず、土佐藩を戦国的な遺制から脱却させ、幕藩体制に適応した近世的な統治機構へと転換させることにあった。具体的には、まず年貢収入の安定化を目指し、農民支配の徹底が図られた。逃亡した農民を呼び戻す「走者の帰住奨励」や、封建的な身分制度であった「下人解放」を進めることで、藩が直接把握・管理する労働力としての「百姓」を確保しようとしたのである 9 。
さらに重要なのが、近世的な土地制度である「田地割替制」の導入である 9 。これは、農民が耕作する土地を定期的に割り替える制度であり、土地と豪農の強い結びつきを断ち切る効果があった。長宗我部氏時代の「一領具足」のように、土地に根差した在地勢力が再び台頭することを防ぎ、藩による一元的な土地支配と年貢徴収を可能にするための構造改革であった。これらの政策は、後の野中兼山による、より大規模で抜本的な改革の地ならしとなる、重要な布石であったと言える。
山内忠義の52年間にわたる治世の中で、最も輝かしい功績として記憶されているのが、稀代の経世家・野中兼山を登用し、彼に全権を委ねて断行させた一連の藩政改革である。それは、疲弊した藩を再建するに留まらず、土佐の風土そのものを造り変えようとする壮大な「国造り」事業であった。
寛永8年(1631年)頃、40歳になっていた忠義は、藩政の抜本的改革を断行するため、野中兼山(良継)を奉行職という要職に抜擢した 8 。兼山の祖母は初代藩主・一豊の妹・合(ごう)であり、山内家とは縁戚関係にあった 26 。また、兼山が幼少期に政争により上方に流浪していたところを、藩の重臣・小倉少助政平が見出し、土佐に連れ帰って養育したという経緯もあった 22 。
しかし、当時の兼山はまだ若く、藩内での地位も決して高くはなかった。そのような人物を藩政の最高責任者の一人に大抜擢することは、年功序列を重んじる家臣団からの強い反発を招きかねない、極めてリスクの高い決断であった。これは、忠義の「剛毅果断」と評される性格を如実に示すものである。彼は、「元和改革」だけでは藩の根本的な問題は解決できないと見抜き、既存の枠組みを打ち破ることのできる強力なリーダーシップを持つ人物を求めていた。そして、南学(朱子学)に裏打ちされた強い信念と、国家を経営する卓越した才能を兼山のうちに見出した忠義は、周囲の反対を押し切って彼に藩政の未来を託したのである 27 。この決断こそ、忠義自身の強い意志と指導者としての慧眼を示すものであった。
忠義の絶対的な信頼を背景に、兼山は約30年間にわたり、土佐の国力を根底から向上させるための大規模な改革、いわゆる「兼山政治」を断行した 26 。その政策は、土佐という国の地理的・社会的条件を深く理解した上で立案された、長期的かつ体系的な「国土開発計画」であった。
その最大の功績は、治水と新田開発である。土佐は山がちで平野が少なく、河川は急流で常に水害の危険に晒されていた。兼山はこの根本的な弱点を克服するため、現在の香美市に巨大な「山田堰」を建設し、暴れ川として知られた物部川の治水に成功した 27 。この堰によって安定した水利を得た香長平野には、実に26年の歳月をかけて広大な新田が開発され、「堰下三万石」と称される県内随一の穀倉地帯が誕生した 27 。
さらに、米だけに頼らない多角的な経済構造を構築するため、殖産興業にも力を注いだ。港湾を整備して物流を活性化させ、商人や職人を集めて在郷町を建設することで、商工業の拠点を整備した 26 。また、鉱山開発や製紙業の育成も行い、藩の財政基盤を強化した 13 。
人材登用においても、兼山は革新的な手法を用いた。長宗我部旧臣であっても、新田開発に協力するなど能力を示した者は「郷士」として取り立て、武士の身分を与えた 29 。これは、旧臣たちの不満を和らげ、藩の軍事力を増強するという一石二鳥の効果を狙ったものであった。
これらの巨大プロジェクトは、一貫した政治的意思と強力な権限がなければ実行不可能であった。忠義が藩主として兼山を全面的に支持し、あらゆる障害から彼を守り続けたことこそが、この壮大な「土佐の国造り」を可能にした最大の要因である。
しかし、兼山の改革は輝かしい成果の裏で、深刻な軋轢を生んでいた。その急進性と強権的な手法は、多くの人々の恨みを買うことになる。
最も大きな犠牲を強いられたのは、領民であった。山田堰をはじめとする大規模な土木事業は、民衆に過酷な賦役を課した。その労働の厳しさに耐えかねて、土地を捨てて逃亡する農民(走り者)が後を絶たなかったという 18 。民衆の怨嗟の声は、日増しに高まっていった。
また、藩の内部でも、兼山の独裁的な政治手法は深刻な対立を生んだ。儒学精神に基づく彼の峻厳な態度は、同僚である藩の重臣たちから「傲慢」と映り、その功績への嫉妬も相まって、多くの政敵を作った 27 。
藩主である忠義のもとには、民衆の苦しみや藩士たちの不満が絶えず報告されていたはずである。それでも彼が兼山を更迭しなかったのは、改革を完遂するという強い決意があったからに他ならない。彼は、藩の長期的な繁栄のためには、一時的な民衆の犠牲や藩内の不和は不可避なコストであると判断した。この冷徹なまでの現実主義こそが、忠義の統治者としての本質であり、「剛毅果断」と評される所以である。しかし、この姿勢は、結果として自らの死後、最大の功臣である兼山とその一族を悲劇的な運命へと導く遠因ともなったのである。
政策分野 |
具体的事業 |
目的 |
成果(光) |
副作用(影) |
治水・新田開発 |
山田堰の建設と物部川水系の用水路網整備 13 |
治水による水害防止と、灌漑用水の確保による耕地拡大 |
「堰下三万石」と称される穀倉地帯の創出、食糧生産の安定化 27 |
過酷な賦役による民衆の疲弊、逃散者の増加 18 |
殖産興業 |
港湾の整備、在郷町の建設、鉱山開発、製紙業の育成 13 |
物流・商業の活性化と、米以外の財源確保による藩財政の多角化 |
藩経済の活性化、商工業拠点の形成、藩財政の確立 9 |
(特筆すべき直接的な副作用は少ないが、開発独占が既存勢力の反発を招いた) |
行政・人材登用 |
長宗我部旧臣の郷士登用、能力本位の人材抜擢 26 |
藩内融和の促進、反山内感情の緩和、藩の軍事力強化 |
藩の一体性向上、多様な人材の活用による藩政の効率化 29 |
既存の山内家臣団との潜在的対立、身分秩序の動揺に対する保守派の反発 27 |
思想・風俗 |
儒学(南学)に基づく封建道徳の徹底、倹約の奨励 |
藩士・領民の精神的統制と、質実剛健な気風の醸成 |
藩の綱紀粛正、武士階級の意識改革 |
厳格すぎる道徳の押し付けが、民衆や藩士の不満を増大させた 27 |
「剛毅果断」な政治家として、時に非情なまでの決断を下した山内忠義。しかし、その厳格な統治者の顔の裏には、文化を愛し、その振興に力を注ぐ教養人としての一面も存在した。寺社の復興や藩窯の創設は、彼の人物像に深みを与える重要な側面である。
忠義は、その治世を通じて寺社の修復に尽力したことが記録されている 9 。これは、単なる彼個人の信仰心の発露に留まらず、民心の安定と領主の権威の誇示という、宗教的かつ政治的な二重の目的を持った政策であった。
長年の戦乱で荒廃した寺社は、地域社会の精神的な支柱であった。その復興を藩主自らが主導することは、領民の心を慰撫し、仁政を布く君主としての姿を可視化する上で極めて有効な手段であった。同時に、寺社を藩の庇護下に置くことで、その経済力や影響力を管理し、反体制の拠点となることを未然に防ぐ狙いもあったと考えられる。特に、野中兼山による強権的な改革が民衆に大きな負担を強いる中で、この寺社保護政策は、改革の「アメ」として機能し、民心のバランスを取る役割も果たしていた可能性がある。
忠義の文化的な側面を最も象徴するのが、藩窯「尾戸焼(おどやき)」の創始である。承応2年(1653年)、忠義は大阪から陶工・久野正伯を招き、高知城の北に位置する尾戸(現在の小津町)に、藩の御庭焼として窯を開かせた 13 。
当初、尾戸焼は藩主が用いる器や、幕府・他大名への贈答品として制作された 34 。これは、忠義自身の文化的な教養の高さを示すと同時に、藩の威信を高めるための戦略的な事業であった。生産された端正で薄作りの陶磁器は、土佐藩の文化水準の高さを内外に示す「外交ツール」として機能した。
この事業は、単なる大名の趣味の域を超えている。藩の公式な窯として新たな産業を育成し、将来的には藩の特産品として経済的な利益を生むことも視野に入れていた可能性がある。これは、野中兼山が進めた殖産興業政策と軌を一にするものであり、忠義の文化政策が経済政策と密接に連携していたことを示唆している。
忠義の人柄を伝えるものとして、「剛毅果断」という評価に加え 9 、その特徴的な外見に関する逸話が残されている。彼は、鼻の下から左右に鎌を逆さにしたように跳ね上げた「鎌髭(かまひげ)」をたくわえていたという 13 。
この「鎌髭」という外見的特徴は、彼の「剛毅果断」という内面的な性格を象徴的に表していると解釈できる。若くして大藩の主となり、家臣団をまとめ、数々の難局に立ち向かう必要があった忠義にとって、外見から威厳や決断力を示すことは、統率力を高める上で有効な自己演出であったかもしれない。この力強く、やや威圧的な印象を与える髭のスタイルは、彼の肖像や逸話を通じて後世に伝わり、「剛毅な名君・山内忠義」というパブリックイメージを形成する上で、少なからぬ役割を果たしたと考えられる。
50年以上にわたり土佐藩に君臨した忠義にも、老いと病が訪れる。彼の隠居と死は、藩の権力構造に大きな変化をもたらし、自らが生涯をかけて支援した最大の功臣・野中兼山の悲劇的な失脚へと繋がっていく。それは、一つの時代の終わりを告げる出来事であった。
明暦2年(1656年)、忠義は65歳で中風を患い、政治の表舞台から退くことを余儀なくされた。家督は長男の忠豊に譲り、隠居の身となった 7 。しかし、彼の政治への情熱は衰えていなかった。隠居に際し、後継者である忠豊に対して、引き続き野中兼山を重用し、藩政改革を継続するよう強く命じている 17 。
この命令は、忠義が自ら敷いた改革路線を次代にも継承させようとする強い意志の表れである。それは同時に、息子・忠豊の能力や考え方、特に兼山に対する評価を、完全には信頼していなかったことの裏返しでもあった。兼山による改革はまだ道半ばであり、その頓挫を何よりも恐れていた忠義は、隠居後もなお藩政への影響力を保持しようとしたのである。
しかし、忠義の願いは叶わなかった。三代藩主となった忠豊は、父の命令に表向きは従いつつも、内心では兼山のことを快く思っていなかった 17 。父・忠義が重病に倒れ、その影響力が完全に及ばなくなった頃を見計らい、忠豊は行動を起こす。彼は、生駒木工ら反兼山派の重臣たちと結託し、さらに叔父にあたる伊予松山藩主・松平定行の政治的な後ろ盾も得て、寛文3年(1663年)7月、クーデター的に兼山を弾劾し、失脚させたのである 17 。これを「寛文の改替」という。
財政の私物化など、様々な罪状を突きつけられた兼山は、失脚からわずか3ヶ月後に失意のうちに病死した 17 。病床にあった忠義は、この事態を止める術を持たなかった。自らが抜擢し、半世紀近い治世の後半を共に歩んだ最大の功臣が、実の息子によって断罪される様を、ただ見ているしかなかったのである。これは、忠義が生涯をかけて築き上げようとしたものが、自らの目の前で否定されるに等しい、最大の悲劇であり、痛恨の出来事であったに違いない。
兼山がこの世を去った翌年の寛文4年(1664年)11月、山内忠義は波乱に満ちた73年の生涯を閉じた 7 。彼の死は、土佐藩における一つの時代の完全な終わりを意味した。
忠義が後世に遺したものは、兼山が築いた山田堰のような物理的なインフラだけではない。養母・見性院は晩年、愛読していた『古今和歌集』や『徒然草』を形見として忠義に贈っており、これらは後に山内家から幕府へと献上されている 24 。この事実は、忠義が武断の時代から文治の時代への移行期を生きた、文化的な教養を重んじる大名であったことを象徴している 37 。彼の生涯は、戦国の遺風が残る荒々しい領国を、幕藩体制下に組み込まれた近代的で安定した統治機構へと変貌させる、長く困難なプロセスの体現であった。その墓は、今日も高知市筆山に静かに眠っている 13 。
山内忠義の生涯を俯瞰するとき、彼は単なる「二代目」という言葉では到底括ることのできない、極めて重要な役割を果たした人物であることが明らかになる。初代藩主・一豊が武功によって「獲得」した土佐という領地を、実質的に「経営」し、安定した近世大名領国へと育て上げた真の「創業者」の一人として、彼は再評価されるべきである。
忠義の最大の功績は、疑いなく野中兼山という非凡な才能を見出し、反対勢力から彼を守り、その大改革を最後まで支持し続けたことにある。この「剛毅果断」な決断がなければ、土佐藩のその後200年以上にわたる発展の礎が築かれることはなかったであろう。山田堰に代表される国土開発、殖産興業による経済基盤の確立、そして旧臣をも取り込む人材登用策は、すべて忠義の絶対的な後援があって初めて可能となった。
一方で、彼の「名君」像は一面的なものではない。そのリーダーシップは、藩の発展に不可欠であったと同時に、改革の過程で生じた民衆の疲弊や藩内の軋轢を許容する、冷徹なまでの現実主義を内包していた。彼は理想論者ではなく、藩の長期的な利益という大目的のためには、短期的な犠牲も厭わないリアリストであった。この光と影を併せ持つ複雑さこそが、彼の人物像に深みを与えている。
彼が確立した藩政の基礎、育成した尾戸焼などの産業、そして彼自身が体現した武断から文治へと向かう時代のリーダーシップは、その後の土佐藩の歴史を規定した。幕末、坂本龍馬をはじめとする多くの逸材を輩出した土佐の風土は、忠義と兼山が築いた安定と繁栄の基盤の上で、長い時間をかけて醸成されたものと考えることもできる。
山内忠義の治世なくして、その後の土佐藩の歴史は語れない。彼の存在は、決して地味な「跡継ぎ」ではなく、土佐の歴史における一つの画期をなし、未来への礎を築いた、偉大な統治者であったと結論づけることができる。