山口重政は織田信雄、徳川家康に仕え、蟹江城合戦で忠義を示し大名となる。しかし嫡男の婚姻問題で改易。大坂の陣で息子を失うも、その忠義が認められ大名に復帰。波乱の生涯を送った。
戦国時代から江戸時代初期という、日本の歴史上最も激しい変革期を生きた武将、山口重政。彼の生涯は、まさに「栄光」「転落」「再起」という言葉で象徴される、波乱に満ちたものであった。織田、豊臣、徳川という三英傑が天下の覇権を争う中、重政は一人の武将として、また一人の大名として、その激流に身を投じ、幾度もの苦難を乗り越えて家名を後世に残した 1 。
彼の人生は、個人の武勇や才覚が成功の全てであった戦国乱世から、幕府の厳格な統制と秩序が何よりも重んじられる江戸幕藩体制へと、価値観が劇的に転換する時代の縮図でもあった。この時代の大きなうねりは、重政のような武将の運命を翻弄し、彼の栄光と挫折の双方に深く関わっている。本稿では、山口重政の出自から、織田家臣としての奮闘、徳川家臣としての立身、そして予期せぬ改易からの奇跡的な大名復帰に至るまでの全貌を、関連する事件や人物との関わりの中で詳細に解き明かし、その不屈の人物像に迫るものである。
山口重政の波乱に満ちた生涯を概観するため、その年譜を以下に示す。石高の劇的な変動は、彼の人生がいかに浮き沈みの激しいものであったかを如実に物語っている。
西暦(和暦) |
年齢 |
主な出来事 |
仕えた主君 |
石高 |
典拠 |
1564年(永禄7年) |
1歳 |
尾張国にて誕生 |
- |
- |
1 |
1584年(天正12年) |
21歳 |
小牧・長久手の戦い。蟹江城合戦で大野城を死守 |
織田信雄 |
- |
1 |
1590年(天正18年) |
27歳 |
主君・織田信雄の改易に伴い浪人となる |
(浪人) |
0 |
4 |
1591年(天正19年) |
28歳 |
徳川家康に仕官 |
徳川家康 |
5,000石 |
3 |
1600年(慶長5年) |
37歳 |
関ヶ原の戦い(上田城攻め)に参加 |
徳川家康 |
5,000石 |
1 |
1601年(慶長6年) |
38歳 |
常陸国牛久に立藩。大名となる |
徳川家康 |
10,000石 |
3 |
1611年(慶長16年) |
48歳 |
5,000石を加増される |
徳川秀忠 |
15,000石 |
3 |
1613年(慶長18年) |
50歳 |
嫡男・重信の婚姻問題で改易、蟄居 |
(改易) |
0 |
1 |
1515年(元和元年) |
52歳 |
大坂夏の陣に参陣。嫡男・重信、弟・重克が戦死 |
徳川家康 |
0 |
1 |
1628年(寛永5年) |
65歳 |
大名として復帰。奏者番となる |
徳川家光 |
15,000石 |
1 |
1635年(寛永12年) |
72歳 |
死去 |
- |
15,000石 |
1 |
山口重政の血筋は、遠く西国にその源流を持つ。本姓を多々良氏とし、室町時代から戦国時代にかけて周防国(現在の山口県)を拠点に西日本に絶大な影響力を誇った守護大名・大内氏の庶流と伝えられている 1 。その証として、山口家は代々、大内氏の家紋である「大内菱」を用いており、その出自に対する強い誇りを窺い知ることができる 1 。
やがて一族の一部は尾張国(現在の愛知県西部)に移り住み、戦国の動乱の中で織田氏の家臣団に組み込まれていった 4 。重政は永禄7年(1564年)2月25日、この尾張の地で山口盛政の長男として生を受けた 1 。母は岡部正房の娘であった 1 。その後、同族である尾張寺部城主・山口重勝の養子となり、その家系を継ぐこととなる 3 。
重政の武将としてのキャリアは、織田信長の次男・織田信雄に仕えることから始まった。当初は信雄の重臣であった佐久間信栄(さくま のぶひで)の配下にあった 2 。この佐久間信栄は、諱を正勝とも伝えられるが、信頼性の高い同時代史料においては信栄の名で記録されている人物である 12 。
重政の名が歴史の表舞台に現れるのは、天正12年(1584年)に勃発した小牧・長久手の戦いにおいてである。この戦いで、豊臣秀吉と徳川家康・織田信雄連合軍が激突すると、重政も信雄方として参陣した 11 。この戦役の中でも、特に彼の運命を決定づけることになったのが、尾張南部の沿岸地帯で繰り広げられた蟹江城合戦であった。
当時、重政の主君である佐久間信栄は、蟹江城の支城として大野城を築城し、その守備を重政に一任していた 12 。しかし、戦況が膠着する中、秀吉方の将・滝川一益の巧みな調略により、蟹江城を守る前田種定が裏切り、城は豊臣方の手に落ちてしまう 12 。この時、不運にも重政の母が人質として蟹江城内に取り残されてしまった 5 。一益はこれを好機と捉え、母の命と引き換えに大野城を明け渡し、豊臣方に寝返るよう重政に強く迫った。
母の命か、主君への忠義か。究極の選択を迫られた重政であったが、その決断は揺るがなかった。彼は非情ともいえる覚悟でこの要求を断固として拒絶し、大野城の死守を選択したのである 14 。この重政の忠節は、連合軍の総帥であった徳川家康の知るところとなり、彼の武将としての器量と義理堅さは、家康に強烈な印象を与えた。この一件は、単に一城を守り抜いたという武功に留まらず、重政のその後の人生を大きく左右する伏線となった。母を見殺しにしてでも主家への忠義を貫くという戦国武将の覚悟を示したこの行動が、結果的に彼の未来を切り開くことになったのである。この戦いでの奮闘の後、天正14年(1586年)には養父・重勝から家督を相続し、山口家の当主となった 1 。
蟹江城合戦での忠義は高く評価されたものの、重政の運命は主君・織田信雄の動向に大きく左右された。天正18年(1590年)、天下統一を目前にした豊臣秀吉は、信雄に対し、旧領の尾張・伊勢から駿河への国替えを命じる。しかし、信雄がこれを拒否したため、秀吉の怒りを買い、改易処分となってしまう 1 。主君を失った重政は、信雄に従って下野国(現在の栃木県)まで赴いた後、禄を離れ、浪人の身となった 3 。
しかし、彼の武将としての才覚と、かつて示した忠節を忘れていなかった人物がいた。徳川家康である。天正19年(1591年)、重政は家康に召し出される。これは、蟹江城合戦での縁に加え、徳川四天王の一人である本多忠勝からの強い推挙があったためとも言われている 3 。こうして重政は徳川家臣団に加わり、5000石の知行を与えられた 3 。当初は家康の嫡男・秀忠に附属され、その側近である御伽衆の一人として仕えた 3 。
慶長5年(1600年)、天下分け目の関ヶ原の戦いが勃発すると、重政は徳川秀忠が率いる別働隊に属し、中山道を進軍。信濃国(現在の長野県)において、真田昌幸が守る上田城攻めに参加した 1 。この戦功が認められ、戦後の慶長6年(1601年)、常陸国牛久(現在の茨城県牛久市)周辺に1万石の所領を与えられ、ついに大名の列に加わることとなった 3 。ここに常陸牛久藩が立藩し、重政はその初代藩主となったのである。その後も幕府内での評価は高く、慶長11年(1606年)には旗本たちの軍事組織である大番の長、大番頭に任命され 1 、慶長16年(1611年)にはさらに5000石を加増され、所領は1万5000石に達した 3 。
順風満帆に見えた重政のキャリアは、慶長18年(1613年)に突如として暗転する。彼の人生における最大の悲劇、改易である。その直接的な引き金となったのは、嫡男・山口重信の婚姻問題であった 1 。重政は、時の幕府老中で二代将軍・秀忠の側近筆頭であった大久保忠隣(おおくぼ ただちか)の養女(実父は石川康通)を、幕府からの正式な許可を得ないまま重信の妻として迎え入れてしまったのである 8 。
この「私婚」は、幕府の法度を蔑ろにするものとして厳しく咎められた。結果、重政は全ての所領を没収され、大名の地位を剥奪された。そして、父子ともに武蔵国越生(現在の埼玉県越生町)にある龍穏寺に蟄居を命じられるという、最も重い処分を受けた 1 。
しかし、この事件の背景には、単なる手続き違反では済まされない、江戸幕府黎明期の深刻な政治闘争が渦巻いていた。この改易は、同年に発覚した「大久保長安事件」と密接に連動している 8 。大久保長安は、鉱山開発などで功績を挙げた幕府の勘定方であったが、彼の死後、莫大な不正蓄財が発覚。この事件は、長安を登用した大久保忠隣を失脚させるための、政治的な疑獄事件へと発展した。当時、幕府内では大御所・家康の側近である本多正信・正純親子と、将軍・秀忠を補佐する大久保忠隣との間で熾烈な権力闘争が繰り広げられていた 8 。
この政争の文脈において、重政の行動は致命的であった。有力大名である忠隣との縁組は、戦国時代の感覚では自家の安泰を図るための常套手段であった。しかし、中央集権体制の確立を急ぐ幕府首脳、特に本多派から見れば、それは将軍の許可なく徒党を組むに等しい危険な行為と映った。結果として、重政の改易は、忠隣を追い詰めるための格好の口実として利用され、彼は巨大な政治的粛清の渦に巻き込まれる形で転落したのである。これは、武士の生き残りをかけた戦いの舞台が、戦場での「武勇」から、幕府内での「政治」へと完全に移行したことを、重政自身の身をもって証明する出来事であった。
大名としての地位も所領も全てを失い、蟄居の身となった重政であったが、彼の心の中では「山口家再興」への執念の炎が燃え盛っていた。その凄まじさは、常軌を逸した一つの逸話によく表れている。蟄居の翌年、慶長19年(1614年)に大坂冬の陣が勃発すると、重政は徳川家康に対し、驚くべき提案を行ったと伝えられる。それは、「自らが豊臣方に偽って与し、豊臣秀頼の懐に忍び寄って暗殺する。この大功の代償として、御家の再興を許していただきたい」という、まさに決死の覚悟を示すものであった 1 。
家康はこのあまりに壮絶な申し出を退けたが、その再興にかける執念と忠誠心は認めるところとなったのであろう。翌慶長20年(1615年)の大坂夏の陣において、重政は父子で戦場に立つことを許される。彼は井伊直孝の軍勢に属し、お家再興の唯一の望みをかけて参陣した 1 。
同年5月6日、夏の陣における激戦の一つ、若江・八尾の戦いが始まった。重政は奮戦し、汚名返上に燃える。しかし、その焦りが悲劇を生んだ。嫡男の重信は、手柄を立てようと勇猛果敢に敵陣深くへと突撃しすぎた結果、豊臣方の若き猛将・木村重成の返り討ちに遭い、26歳の若さでその命を散らしたのである 1 。さらにこの戦いでは、重政の実弟・重克も戦死するという悲運に見舞われた 1 。
お家再興の夢は、最も愛する息子と弟の命という、あまりにも大きな犠牲と引き換えに、ようやくその道が開かれることとなった。一族を挙げての命がけの忠義は、幕府に彼の並々ならぬ覚悟を示すに十分であった。
大坂の陣での一族の犠牲と奮戦は、ついに幕府に認められた。戦後、重政は高野山での閉居、姫路藩主・本多忠政預かりの身などを経て、寛永5年(1628年)、ついに赦免され、召し返されることとなった 11 。そして、常陸国牛久、遠江国(現在の静岡県西部)などに合計1万5000石の所領を与えられ、改易から15年の歳月を経て、奇跡的ともいえる大名への復帰を果たしたのである 1 。
大名に返り咲いた重政は、幕府の儀礼や伝達を司る役職である奏者番に任命され、幕政の一翼を担うこととなった 7 。栄光の頂点から絶望の淵へ、そして再び栄光の座へ。数奇な運命を辿った重政は、寛永12年(1635年)9月19日、72年の波乱の生涯に幕を下ろした 1 。法名は「大安全勇瑞厳院」 3 。その亡骸は、江戸・麻布にある曹渓寺に葬られた 11 。
山口重政の生涯を振り返るとき、そこに浮かび上がるのは、極めて多面的で強靭な精神力を持った武将の姿である。蟹江城合戦において母の命よりも主君への「忠義」を優先した若き日の決断。関ヶ原の戦いや大坂の陣で見せた歴戦の将としての「武勇」。そして何よりも、改易という最大の苦境に屈することなく、息子の死という悲劇を乗り越えて家名を再興させた、その驚異的なまでの「執念」。彼は単なる戦働きに長けた武辺者ではなく、時代の激しい変化に翻弄されながらも、決して諦めることなく運命を切り開いていった不屈の人物であったと言えよう。彼の人生は、武士にとって「家」の存続がいかに至上の命題であったか、そしてそのためにいかなる犠牲をも厭わなかった時代の厳しさを物語っている。
重政の死後、山口家の家督は三男(あるいは四男)の弘隆が継承した 1 。弘隆は家督相続にあたり、弟の重恒に5000石を分与した。これにより、牛久藩の石高は1万石となった 17 。この分知は、大坂の陣で戦死した叔父・重克への配慮や、家中の安定を図るための賢明な措置であったと推察される。
藩の政治的中心である牛久陣屋が正式に築かれたのは、初代・重政の代ではなく、この二代・弘隆の治世、寛文9年(1669年)のことである 28 。重政が命がけで再興した山口家は、その後、譜代の小藩として幕末まで12代、約270年にわたって牛久の地を統治し続けた 10 。山口重政の不屈の生涯は、まさにこの安定した藩の礎を築いたものであり、その功績は大きい。
今日、山口重政とその一族の歴史を偲ぶことができる史跡が各地に残されている。
これらの史跡は、栄光と悲劇、そして執念の末に家名を後世に伝えた一人の武将、山口重政の生きた証として、今なお静かにその歴史を語り継いでいる。