最終更新日 2025-07-18

山吉景長

山吉景長は越後の名門・山吉氏の嫡流。父と兄の死後、13歳で家督を継ぎ、領地半減の逆境に。御館の乱では景勝方に与し旧領を奪還。

上杉景勝の驍将、山吉景長の生涯 ― 越後から米沢へ、激動の時代を生きた武将の実像

序章:越後の名門・山吉氏とその嫡流、山吉景長

第一節:蒲原郡の名族、山吉氏の淵源

日本の戦国時代、越後の地にその名を刻んだ武将は数多いが、上杉謙信、そしてその後継者である景勝の時代を通じて、主家の浮沈と運命を共にした一人の武将がいた。その名は山吉景長(やまよし かげなが)。彼の生涯を詳らかにするには、まず彼が背負った名門「山吉氏」の歴史から紐解く必要がある。

山吉氏は、桓武平氏の平頼盛を祖とする伝承を持つが 1 、確実な史料においては室町時代の応永33年(1426年)に三条島城将としてその名が見える、越後国蒲原郡に深く根差した武家である 2 。その名字の地は蒲原郡山吉(現在の新潟県見附市山吉町)に由来すると考えられている 2 。彼らは越後守護代であった長尾氏の配下として頭角を現し、やがて蒲原郡の郡代として三条城(新潟県三条市)を拠点に大きな勢力を築き上げるに至った 2 。この蒲原郡司という役職は、越後国の中でも穀倉地帯であり交通の要衝でもある重要地域における代官的権限を意味し、山吉氏が上杉政権下でいかに重きをなしていたかを物語っている。

第二節:父・山吉豊守の権勢と景長の誕生

景長の父、山吉豊守(とよもり)の時代、山吉家の権勢は頂点に達した。豊守は単なる地方の有力国人にとどまらず、主君・上杉謙信の側近中の側近として、軍事・政務の両面で絶大な信頼を得ていた 7 。謙信の意向を諸将に伝える御奏者としての役割を担い、関東の諸豪族や宿敵であった後北条氏との外交交渉の矢面に立つなど、その活動は越後国内にとどまらなかった 7

その権勢を最も象徴するのが、軍役負担である。天正年間(1573年-1592年)に作成された『上杉家軍役帳』において、山吉豊守は377名という軍役を課せられている 7 。これは、斎藤朝信や色部氏といった他の重臣たちを凌ぎ、上杉家臣団の中で筆頭の数字であった。この事実は、山吉家が当時の上杉家中で最大の兵力動員能力とそれに伴う責任を有していたことを示す、極めて重要な指標である。

山吉景長は、永禄8年(1565年)頃、この越後の名門にして上杉家の中核を担う山吉家の嫡流として生を受けた 12 。彼が生まれた時代は、謙信が幾度となく関東へ出兵し、また越中方面へも勢力を拡大するなど、上杉家の威勢が最大版図に達しようとしていた輝かしい時期と重なる。景長は、まさに上杉家の栄光と共にその生を享けたのであった。

第一章:激動の家督相続 ― 少年当主の船出

第一節:名門の悲劇 ― 父と兄の相次ぐ死

栄華を誇った山吉家に、暗雲が垂れ込める。天正5年(1577年)9月、家中を支えた大黒柱である父・豊守が死去した 12 。史料によっては天正3年(1575年)説もあるが 7 、いずれにせよその死は山吉家にとって大きな打撃であった。さらに不幸は続き、家督を継いだはずの嫡男、すなわち景長の兄である盛信までもが、父の後を追うように間もなく急死するという悲劇に見舞われた 7

この当主の相次ぐ死は、家中随一の勢力を誇った山吉家を、一転して存亡の危機へと突き落とした。この混乱の渦中にあって、わずか13歳の少年であった山吉景長が、一族の命運をその双肩に担い、家督を継承せざるを得なくなったのである 12 。この未曾有の危機に際し、叔父にあたる山吉景久が後見人として景長を補佐し、幼い当主を支えたことが記録されている 3

第二節:試練の始まり ― 三条城没収と木場への移封

若き景長を待ち受けていたのは、過酷な現実であった。当時の上杉家には、「当主が15歳になるまでは領地を没収する」という厳しい掟が存在した 12 。これは、幼少の当主では定められた軍役を完全に果たすことが困難であるため、一時的に領地を主家が預かるという、戦国大名家における中央集権化政策の一環ともいえる制度であった。

この掟に従えば、山吉家の所領は全て没収されてもおかしくなかった。しかし、山吉家が代々上杉家に尽くしてきた貢献、とりわけ父・豊守の絶大な功績が謙信によって考慮され、領地の完全没収という最悪の事態は免れた 12 。これは、掟を絶対としない上杉家の情理を重んじる一面を示すと同時に、山吉家の存在がいかに大きかったかを逆説的に物語っている。

とはいえ、景長と山吉家が受けた措置は、「領地半減」の上、山吉氏が代々蒲原郡支配の拠点としてきた本城・三条城を召し上げられ、木場(現在の新潟市西区木場)という地へ移るという、極めて厳しいものであった 3 。この出来事は、山吉家にとってまさに「痛恨事」 3 であり、名門からの転落を意味する屈辱的な処置であった。

この一連の経験は、若き景長の心に複雑な感情を刻み込んだと考えられる。本来ならば全てを失うはずであった家を、父の功績と主君の温情によって存続させてもらったことへの「恩義」。そして同時に、先祖代々の本拠と所領の半分を失った「屈辱」と、いつ家が取り潰されてもおかしくないという切迫した「危機感」。この恩義に報いたいという想いと、失われた家格を自らの武功によって回復したいという渇望が、彼のその後の行動原理を形成していくことになる。

以下の表は、景長の家督相続前後における山吉家の権勢の劇的な変化を示している。

項目

相続前(山吉豊守時代)

相続後(山吉景長時代)

典拠

本拠地

越後国 三条城

越後国 木場城

7

役職

蒲原郡司

(剥奪)

4

軍役負担

377名(家中筆頭)

約180名(推定)

7

家臣団内序列

筆頭格

中堅クラスへ降格

7

この表が示す通り、「領地半減」という言葉だけでは伝わらない、政治的・軍事的影響力の急落は明らかである。特に、地域の支配権を象徴する「蒲原郡司」の役職を失ったことは、山吉家が受けた打撃の大きさを如実に物語っている。景長は、この大きなハンディキャップを背負い、戦国の荒波へと漕ぎ出すことになったのである。

第二章:御館の乱 ― 景勝方としての初陣と功績

第一節:運命の選択 ― 景勝方への帰属

景長が家督を継いだ翌年の天正6年(1578年)3月、上杉家を、そして越後国を揺るがす大事件が起こる。軍神・上杉謙信が後継者を指名しないまま、春日山城で急死したのである 3 。謙信の死は、二人の養子、すなわち謙信の実姉の子である上杉景勝と、小田原北条家から人質として迎えられた上杉景虎との間で、家督を巡る凄惨な内乱「御館の乱」を引き起こした 13

越後の国人衆は、それぞれの思惑から景勝方と景虎方に分かれて激しく争った。この国家存亡の危機において、山吉景長は逡巡することなく、いち早く景勝方に与して旗幟を鮮明にした 3 。この迅速な決断の背景には、景勝が謙信の血を引く正統な後継者候補であり、上田長尾衆という強力な支持基盤を持っていたという政治的判断に加え 14 、家督相続時に示された主家(謙信、そしてその立場を継承する景勝)からの「温情」に対する恩義が、強く影響していたと考えられる。景長は新たな本拠地である木場城を固め、景勝方の一翼を担って戦いに身を投じた 3

第二節:旧領奪還への執念 ― 三条城攻略

景長にとって、この御館の乱は単なる主家の内乱ではなかった。彼が失った旧領・三条城は、父・豊守の死後、謙信によって神余親綱(かなまり ちかつな)という武将に与えられていた 16 。この神余親綱が御館の乱において景虎方に与したため、景長にとって三条城は、主家の敵が守る城であると同時に、何としても奪還すべき自らの旧領という二重の意味を持つ、因縁の地となったのである。

若き景長は、この難局において卓越した才覚を見せる。彼は単なる力攻めではなく、三条城内に今も残るであろう父の代からの家臣、すなわち山吉氏の旧臣たちに密かに内応を働きかけるという、巧みな策略を用いた 16 。この作戦は、城内の人的資産を的確に把握し、活用しようとする知略の表れであった。

この内応工作は功を奏し、天正8年(1580年)、神余親綱は城内で内応した者によって討ち取られ、山吉氏の故地である三条城はついに景勝方の手に落ちた 16 。この功績は、景長が単に武勇に優れた若武者であるだけでなく、人心掌握や策略にも長けた指揮官であることを証明するものであった。家督相続時の苦境から立ち直り、新たな景勝政権内で自らの価値を証明したこの戦功は、景長にとって大きな自信となり、景勝からの信頼を確固たるものにする最初の大きな一歩となった。そしてそれは、次なる大乱で彼が最前線を任される重要な布石となるのである。

第三章:新発田重家の乱 ― 最前線指揮官としての七年間

第一節:対新発田の要衝・木場城

御館の乱を制し、越後の国主となった上杉景勝であったが、その治世は平穏ではなかった。乱後の論功行賞に強い不満を抱いた揚北衆の雄・新発田重家が、天正9年(1581年)、景勝に対して反旗を翻したのである 13 。重家は越後の重要な物流拠点である新潟津と沼垂を占拠し、港湾の利権を確保して長期戦の構えを見せたため、この地域の争奪が「新発田重家の乱」における最大の焦点となった 20

この事態に際し、景勝が対新発田戦略の最重要拠点として白羽の矢を立てたのが、山吉景長の守る木場城であった 20 。木場城は信濃川水系の中ノ口川沿いの平城であり、新発田方が押さえる新潟津を直接監視し、攻撃する上で絶好の位置にあった 21 。景勝は、山吉景長と蓼沼友重という信頼の置ける武将を木場城に配置し、対新発田の最前線基地とした 20 。木場城の築城年については天正5年説 20 や天正9年説 11 など諸説あるが、いずれにせよ景長の木場移封から新発田の乱勃発までの間に、対新発田を強く意識して築城、または大改修された戦略拠点であったことは間違いない。

第二節:新潟津を巡る死闘

新発田重家の乱は、実に7年もの長きにわたって上杉家を苦しめた 13 。この間、最前線である木場城は、新発田勢から繰り返し激しい攻撃に晒された 20 。天正11年(1583年)には新発田勢が木場城を攻め、対する景長らも新潟城へ攻撃を仕掛けるなど、一進一退の攻防が何年も続いた 20

景長は、単に城に籠って守りを固めるだけではなかった。彼は積極的に城から打って出て、数々の武功を挙げている。特に天正14年(1586年)7月、新潟津周辺で行われた合戦において、敵将・新発田駿河守を討ち取るという大きな功績を上げた 3 。これは、戦線の膠着を打破し得る重要な戦果であった。

この景長の目覚ましい働きは、春日山城の景勝政権中枢にも高く評価されていた。景勝の懐刀である直江兼続は、景長に対し、その戦功を賞賛する書状を送っている 25 。現存するその書状には、景長が蓼沼友重と共に新潟城へ侵攻して挙げた戦功を、主君・景勝が大いに喜んでいる旨が記されており、景長の働きが上杉家中枢から注視され、正当に評価されていたことを明確に示している。

この一連の出来事は、景勝・兼続体制の統治機構としての機能性の高さをうかがわせる。景長が最前線の実動部隊の指揮官として働き、兼続が春日山城で全体戦略を統括するという役割分担がなされていた。そして、最前線の戦果が迅速に中央へ報告され、中央からの評価が感状という具体的な形で前線へフィードバックされる。このような緊密なコミュニケーションと、功績に対する正当な評価システムは、長期にわたる困難な戦いにおいて、前線の将兵の士気を維持し、組織全体の結束力を高める上で不可欠である。新発田重家の乱における景長の活躍と、それを支えた兼続との連携は、景勝政権が機能的な統治組織として成熟しつつあったことを示す好例と言えよう。

第四章:天下統一の奔流の中で ― 豊臣政権下の山吉景長

第一節:豊臣大名・上杉家の中核として

7年に及ぶ新発田重家の乱を鎮圧し、名実ともに越後を完全に掌握した上杉景勝は、天正14年(1586年)に上洛を果たし、天下人・豊臣秀吉に臣従した。これにより上杉家は、独立した戦国大名から、豊臣政権下の一大名へとその立場を変えた 3

これ以降、上杉家は秀吉が推し進める天下統一事業の一翼を担い、全国規模の戦役に動員されることになる。山吉景長は、これらの戦いにおいて常に上杉軍の主要戦力の一人として参陣しており 3 、内乱を乗り越え、天下の舞台に立った主君・景勝からの変わらぬ信頼の厚さがうかがえる。かつて存亡の危機にあった少年当主は、数々の戦功を経て、豊臣大名・上杉家の中核を担う歴戦の武将へと成長を遂げていたのである。

第二節:全国を転戦する日々

景長の戦歴は、越後の内乱から天下統一戦争へとその舞台を広げていく。

  • 佐渡征伐(天正17年/1589年): 秀吉の命による佐渡本間氏の平定戦において、景長は上杉軍の「先陣」を承った 3 。先陣は最も名誉ある役目の一つであり、その武勇と卓越した部隊指揮能力が高く評価されていなければ任されることはない。この抜擢は、景長が上杉軍を代表する猛将の一人として認められていたことの証左である。
  • 小田原征伐(天正18年/1590年): 秀吉が総力を挙げて敢行した小田原北条氏攻めでは、景勝に従って関東へ出陣。上杉軍は北条氏の支城の中でも重要な拠点であった八王子城の攻略を担当し、景長もこの攻城戦に加わった 3
  • 文禄・慶長の役(朝鮮出兵、文禄元年/1592年〜): 秀吉が引き起こした朝鮮への出兵に際しても、景長は海を渡り、上杉軍の一員として参陣している。この時、彼は「母衣武者(ほろむしゃ)」を務めたと記録されている 3 。母衣は、背中に背負うことで流れ矢を防ぐ武具であり、これを着用することを許された母衣武者は、主君の側近くにあって伝令や護衛を担う、選りすぐりの精鋭騎馬武者であった。この役目に任じられたことは、彼が優れた武芸の持ち主であっただけでなく、主君の傍に仕えることを許された、極めて信頼の置ける武将であったことを示している。

佐渡、関東、そして朝鮮半島へ。景長の足跡は、秀吉の天下統一事業とそれに続く対外戦争の軌跡に、まさしく重なっている。彼は上杉家の、そして豊臣政権の「天下」を体現する戦いに、その身を投じ続けたのである。

第五章:関ヶ原、そして米沢へ ― 晩年と死

第一節:会津移封と関ヶ原

慶長3年(1598年)、豊臣秀吉の命により、上杉景勝は長年治めた越後を離れ、会津百二十万石へと加増移封された 26 。これは上杉家の栄光の頂点であり、山吉景長も主君に従って本拠を会津へと移した。

しかし、その栄華は長くは続かなかった。同年、秀吉が死去すると、五大老の一人であった景勝は、同じく五大老筆頭の徳川家康と鋭く対立する。慶長5年(1600年)、天下分け目の関ヶ原の戦いが勃発すると、景勝は西軍の石田三成方に与し、北の地で東軍の最上義光・伊達政宗と激しい戦いを繰り広げた。世に言う「慶長出羽合戦」である 27

この上杉家の命運を賭けた重要な戦いにおいて、山吉景長は「和田蔵の守備に専念していたようだ」と記録されている 3 。和田蔵の具体的な場所を特定することは困難であるが、上杉軍の兵糧や武具を集積した兵站拠点、あるいは後方の重要施設であった可能性が高い。若い頃の景長が、新発田の乱で自ら敵将の首を挙げるなど、華々しい武功を立てた前線指揮官であったのとは対照的である。この役割の変化は、彼の能力が衰えたことを意味するものではない。むしろ、長年にわたる数々の戦功と経験により、景勝や兼続から絶大な信頼を得ていたことを示唆している。派手な武功を競う若手の段階を越え、合戦の勝敗を根底から左右する兵站の維持や後方の守りといった、地味だが極めて重要な任務を安心して任せられる、円熟した重臣としての地位を確立していたのである。攻守にわたって高い能力を発揮できる、経験豊かな武将としての姿がそこにはあった。

第二節:米沢藩士としての終焉

関ヶ原での西軍本隊の敗北という報は、優勢に戦いを進めていた北の上杉軍の動きを止めた。戦後処理の結果、上杉家は徳川家康によって会津百二十万石を没収され、出羽米沢三十万石へと大幅に減封されるという厳しい処分を受けた 3

景長もまた、この主家の浮沈に黙々と従い、新たな本拠地となった米沢へ移った 3 。かつて越後で失った所領を武功で取り戻し、会津では大身の知行を得たであろう彼の栄光は、主家の敗北と共に大きく削がれることとなった。以下の表は、上杉家の栄枯盛衰と完全に連動した、景長の知行と本拠地の変遷をまとめたものである。

時期

上杉家の石高/本拠地

山吉景長の役職/本拠地

知行(推定)

典拠

〜天正5年

越後(謙信時代)

(父・豊守)三条城主

家中筆頭

7

天正5年〜

越後(景勝時代)

木場城主

半減

11

慶長3年〜

会津120万石

会津領内の知行地

越後時代より増加か

3

慶長6年〜

米沢30万石

米沢藩士(侍組か)

大幅に減少

3

この表が示すように、彼の生涯はまさしく主家と一蓮托生であった。そして慶長16年(1611年)、景長はその波乱に満ちた生涯を、米沢の地で静かに閉じた 12

終章:山吉景長の歴史的評価と後世への影響

第一節:武将・山吉景長の総括

山吉景長の生涯は、戦国末期から江戸初期にかけての激動の時代を、主君・上杉景勝と共に駆け抜けた忠臣のそれであった。

第一に、彼は 苦難を乗り越えた忠臣 であった。少年期に父と兄を相次いで失い、家督相続と同時に領地半減・本城没収という逆境に立たされながらも、決して主家を恨むことなく、一貫して景勝への忠誠を貫いた。

第二に、彼は 智勇兼備の指揮官 であった。御館の乱では、単なる武力に頼らず内応工作という知略を用いて旧領・三条城を奪還し、新発田重家の乱では7年間にわたり最前線を死守し、自ら敵将を討ち取る武勇を示した。その働きは、発足間もない景勝・兼続体制を軍事面で支える上で、不可欠なものであった。

そして第三に、彼は 景勝時代を体現する武将 であった。彼の軍歴は、景勝が越後の内乱を制して国主となり、豊臣政権下で天下の戦役に身を投じ、そして関ヶ原の敗戦を経て米沢藩祖となるまでの道のりと、完全に一致する。彼はまさしく、上杉景勝という主君の時代を体現する「申し子」ともいえる武将だったのである。

第二節:山吉家のその後と歴史への貢献

景長の死後も、山吉家の血脈は途絶えることはなかった。彼の子孫は、その後も米沢藩士として上杉家に仕え続けた 3 。後年、赤穂浪士の討ち入り事件で吉良邸で奮戦したことで知られる山吉新八は、景長の直系ではないが同族であり、山吉の名は江戸時代を通じて米沢藩の歴史に刻まれ続けた 30 。現在も、山形県米沢市内の照陽寺などには山吉家の墓所が残り、往時を偲ばせている 33

我々が今日、山吉景長という一武将の具体的な活躍、特に直江兼続から感状を授かるほどの功績を知ることができるのは、単なる偶然ではない。その背景には、後世における米沢藩の組織的な努力があった。米沢藩は江戸時代を通じて、藩の公式な歴史書を編纂するために、複数回にわたり家臣団(山吉家も含む)から先祖代々の古文書、すなわち「御書」や「御感状」などを提出させていた記録が残っている 35

もし山吉家が江戸時代に断絶していたり、あるいは米沢藩がこうした修史事業に熱心でなかったりした場合、景長の活躍を伝える一次史料の多くは散逸し、彼の名は歴史の闇に埋もれていた可能性が高い。一個人の記録が、子孫の存続と、藩という組織による歴史編纂事業によっていかにして「歴史」として定着していくか。山吉景長の事例は、その興味深い過程を示している。彼はその武功によって主家に貢献しただけでなく、子孫と主家が後世に遺した記録を通じて、四百年の時を超えて、今なお我々にその生涯を語りかけているのである。

引用文献

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