山名政豊は応仁の乱後、疲弊した山名氏を継承。播磨侵攻で赤松氏に大敗し、嫡男・俊豊との内訌も勃発。明応の政変で一時優位に立つも、国人衆の台頭を許し、山名氏衰退を決定づけた。
室町時代、山名氏は清和源氏新田氏の庶流として興り、南北朝の動乱期に初代当主・山名時氏の卓越した軍事・政治手腕によって、山陰地方を中心に巨大な勢力を築き上げた 1 。その勢威は、一族で日本六十六州のうち十一州の守護職を占めるに至り、「六分一殿(ろくぶいちどの)」と称されるほどの絶頂期を迎える 3 。しかし、その強大すぎる力は室町幕府三代将軍・足利義満の警戒を招き、明徳2年(1391年)の明徳の乱で幕府軍に敗北。山名氏は但馬・伯耆・因幡の三国に領国を削減されるという大きな挫折を経験した 5 。
この失墜した権勢を再興したのが、本稿の主題である山名政豊の祖父、山名持豊(宗全)であった。宗全は嘉吉元年(1441年)に勃発した嘉吉の乱において、六代将軍・足利義教を暗殺した赤松満祐の討伐軍総大将として大功を挙げ、その功績により、かつて明徳の乱で失った播磨・備前・美作の守護職を回復 5 。山名氏を再び幕政の中枢を担う有力守護大名の地位へと押し上げたのである。
山名政豊は、この「再興の英雄」宗全の孫として、正統な後継者と目される山名教豊の子として、嘉吉元年(1441年)に生を受けた 13 。しかし、彼が家督を継承する道程は、平穏とは程遠いものであった。応仁元年(1467年)に勃発した応仁の乱の最中、父・教豊が陣中で病没 14 。これにより政豊は、祖父・宗全の直接の後継者として、西軍総大将家の家督を継ぐという重責を、戦乱の渦中で担うこととなった。さらに文明5年(1473年)3月には祖父・宗全が、続く5月には東軍総大将にして宿敵の細川勝元が相次いでこの世を去る 10 。
両雄の死は、泥沼化していた大乱の潮目を大きく変える転機となったが、それは同時に、政豊が巨大な負の遺産を一身に背負うことを意味した。彼が継承したのは、宗全が再興した栄光の遺産というよりは、十年近くに及ぶ戦乱で疲弊しきった山名一族と、総大将を失い統率の揺らぐ西軍そのものであった。彼の最初の任務は、輝かしい未来を築くことではなく、巨大な戦乱をいかに収拾するかという、極めて困難な「敗戦処理」だったのである。この出発点こそが、彼のその後の性急な権威回復への渇望と、悲劇的な生涯を理解する上で極めて重要な鍵となる。
西暦(和暦) |
政豊の年齢 |
山名政豊の動向・山名家関連の出来事 |
国内外の主要な出来事 |
1441年(嘉吉元) |
0歳 |
生誕 13 。 |
嘉吉の乱勃発。祖父・宗全が赤松満祐を討伐。 |
1467年(応仁元) |
26歳 |
父・教豊が陣没し、祖父・宗全の後継者となる 14 。 |
応仁の乱勃発。 |
1473年(文明5) |
32歳 |
3月に祖父・宗全が病没。山名氏惣領となる 10 。 |
5月に細川勝元が死去。 |
1474年(文明6) |
33歳 |
4月、細川政元と和睦し、京都での戦闘を終息させる 13 。 |
足利義尚が9代将軍に就任。 |
1477年(文明9) |
36歳 |
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応仁の乱が完全に終結。 |
1479年(文明11) |
38歳 |
領国の反乱鎮定のため、但馬国へ下向 14 。 |
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1483年(文明15) |
42歳 |
播磨・備前・美作の失地回復を目指し、播磨へ侵攻 14 。 |
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12月、真弓峠の合戦で赤松政則軍に大敗を喫する 14 。 |
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1487年(長享元) |
46歳 |
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将軍・足利義尚が近江へ出陣(鈎の陣)。 |
1488年(長享2) |
47歳 |
7月、播磨から但馬へ敗走 14 。 |
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8月、嫡男・俊豊を擁立する国人衆の動きが表面化 14 。 |
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1493年(明応2) |
52歳 |
3月、俊豊との武力抗争が勃発 14 。 |
4月、明応の政変。将軍・足利義材が廃される。 |
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7月、俊豊を破り、備後国へ追放する 14 。 |
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1499年(明応8) |
58歳 |
1月23日、病没。享年59 13 。 |
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祖父・宗全と宿敵・細川勝元という二人の巨星が相次いで没したことで、応仁の乱は指導者を失い、急速に終結へと向かう。文明6年(1474年)4月3日、山名氏惣領となった政豊は、細川勝元の子・政元との間で和睦を締結した 13 。これにより、11年にわたって京の都を焦土と化してきた大乱は、ようやく終息の兆しを見せたのである。
しかし、この和睦の実態は、対等な講和とは言い難いものであった。記録によれば、この和睦は「山名政豊が東軍にくだる」という形式を取っており、事実上の降伏であった 17 。当時、将軍・足利義政は東軍の陣営にあり、西軍に属する諸将は守護職を剥奪されるという政治的圧力を常に受け続けていた 22 。総大将を失い、疲弊しきった西軍を率いる政豊にとって、一族の存続を図るためには、この屈辱的な条件を呑む以外に選択肢はなかったのである。
このため、「応仁の乱を終結させた」という政豊の功績は、再検討を要する。彼が主導的に和平を創出したというよりは、大勢が既に決した状況下で、一族の損害を最小限に食い止めるための現実的な政治判断を下した「実務者」としての役割が強かったと言えよう。事実、この和睦はあくまで山名・細川両氏間の戦闘を終結させたに過ぎず、乱の直接的な原因であった畠山義就と畠山政長の家督争いや、西軍の有力大名であった大内政弘の抵抗はなおも続いた 17 。乱が完全に鎮まるのは、大内政弘が領国に引き揚げる文明9年(1477年)のことである 14 。
京都での戦乱が形式的に終結した後、政豊はしばらく在京していたが、文明11年(1479年)、ついに本国である但馬へと下向する 14 。その目的は、長期にわたる戦乱によって弛緩しきった領国支配を再構築し、但馬に隣接する伯耆・因幡両国で頻発していた国人領主の反乱を鎮定することにあった 7 。
当時の山名氏の分国では、惣領家の権威低下に乗じた国人衆の自立化が著しく、特に因幡国では深刻な事態に陥っていた。政豊は、因幡守護であった一族の山名豊時を支援し、八東郡私部郷を拠点とする有力国人・毛利氏(森氏とも記される)が起こした反乱(毛利次郎の乱)の鎮圧に直接乗り出す 8 。この反乱の背後には、宿敵・赤松政則による扇動があったとされ、政豊は帰国早々、赤松氏との熾烈な代理戦争に直面することになったのである 26 。
伯耆国においても、守護家内部の対立や、南条氏をはじめとする国人衆の反抗が頻発しており、山名氏の支配体制は大きく揺らいでいた 27 。政豊はこれらの反乱鎮圧に奔走し、一定の成果を挙げる。この成功体験は、彼に失墜した権威を回復できるという自信を与え、次なる目標、すなわち祖父・宗全が回復した栄光の地・播磨三国の奪還という、より大きな野望へと駆り立てていくことになる。
政豊の治世における最大の転換点であり、彼の運命を決定づけたのが、赤松氏との播磨・備前・美作三国を巡る大規模な抗争であった。この戦いは、単なる領土紛争に留まらず、失墜した惣領家の権威を軍事的成功によって回復しようとする、政豊の人生を賭けた一大事業であった。
陣営 |
総大将 |
主要な武将・被官 |
与した国人衆・外部勢力 |
備考 |
山名方 |
山名政豊 |
垣屋豊遠、山名俊豊 |
赤松家から離反した在田氏・広岡氏など |
播磨・備前・美作の旧領回復を目指す。 |
赤松方 |
赤松政則 |
浦上則宗、小寺則職、別所則治、宇野政秀 |
因幡毛利氏など、山名氏への反抗勢力 |
応仁の乱で回復した三国の支配権維持を目指す。 |
応仁の乱の過程で、赤松氏は嘉吉の乱で没収された旧領、播磨・備前・美作三国の守護職を回復していた 18 。これは、その赤松氏を討伐してこれらの地を得た山名氏にとって、到底容認できるものではなかった。「播磨国回復」は、明徳の乱以来の山名氏の悲願であり、特に祖父・宗全の功績の象徴でもあった 2 。
両者の緊張関係は、政豊の但馬下向後、急速に高まっていった。『大乗院寺社雑事記』には、文明12年(1480年)の時点で「山名軍が年内に必ず播磨へ攻め入るだろう」との風聞が記されており、開戦が時間の問題であったことを物語っている 30 。そして文明15年(1483年)、政豊はついに室町幕府の制止を振り切り、三国奪還を目指して播磨へと大軍を侵攻させた 14 。
当初、山名軍は快進撃を続け、一時は三国の大部分を制圧するほどの勢いを見せた 14 。しかし、この優勢は長くは続かなかった。
赤松政則は、山名軍の侵攻に対し、自らも軍を率いて山名氏の本国である但馬へ逆侵攻を仕掛けるという大胆な作戦に出た。これにより、政豊は軍を二分して対応せざるを得なくなり、戦況は一変する 31 。
文明15年(1483年)12月25日、但馬と播磨の国境に位置する真弓峠において、政豊率いる山名軍本隊は、赤松方の浦上則宗らが率いる軍と激突した。この「真弓峠の合戦」で、山名軍は守護代の垣屋氏を主力としながらも、歴史的な大敗を喫する 14 。政豊自身も敗走の途中で一時行方不明になるほどの惨敗であり、この一戦は彼の軍事的権威を完全に地に堕とし、山名家中に深刻な動揺をもたらした。
真弓峠での大勝によって勢いづいた赤松政則は、直後に重臣・浦上則宗の離反という内紛に見舞われるも、これを乗り越えて全面的な反撃に転じた 19 。文明17年(1485年)閏3月の真弓峠・蔭木城合戦では、山名軍に大勝し、山名氏の有力重臣であった垣屋豊遠らを討ち取る 31 。
これ以降、戦いの主導権は完全に赤松方に移る。同年6月の片島合戦、翌文明18年(1486年)1月の英賀合戦、4月の坂本の戦いと、赤松軍は連戦連勝を重ねた 31 。この一連の敗戦で、特に播磨守護代であった垣屋氏は多大な犠牲を払い、政豊と垣屋氏との間には修復しがたい亀裂が生じたとされる 35 。
劣勢に立たされた政豊は、もはや播磨の維持は不可能と判断。長享2年(1488年)7月、ついに播磨からの全面撤退を余儀なくされた 14 。この敗走の事実は、当時の有力な記録である『蔭凉軒日録』にも記されている 31 。
播磨侵攻の失敗は、単なる軍事的敗北に留まらなかった。権威回復を賭けたこの大事業の無残な結末は、政豊の指導力に対する一族・家臣団の信頼を根底から覆し、山名惣領家を内部から崩壊させるドミノの最初の一枚を倒す行為となったのである。
播磨からの惨めな敗走は、山名政豊の求心力を決定的に低下させ、これまで水面下で燻っていた家中の不満を一気に表面化させた。それは、実の息子との骨肉の争いという、山名氏の衰退を決定づける最悪の形で現れた。
長享2年(1488年)8月、政豊が但馬に帰国するや否や、領国の国人領主のほとんどが彼に背き、嫡男(史料によっては二男ともされる)の山名俊豊を新たな惣領として擁立しようとする動きが公然化した 14 。この対立の根底には、対外戦争の失敗に対する責任追及に加え、但馬の支配権を巡る政豊の強権的な姿勢と、それに反発する俊豊および国人衆との間の深刻な路線対立があった 26 。播磨での敗戦は、俊豊らに父を排除する絶好の口実を与えたのである。
この父子の内訌は、単なる一地方の権力闘争では終わらなかった。俊豊は、当時の将軍・足利義材(後の義稙)と緊密な関係を築き、その権威を後ろ盾として父に対抗した 36 。事実、政豊は将軍義尚(義材の先代)による近江出陣(鈎の陣)への出陣命令を受けられなかったのに対し、俊豊は義材の名代として上洛し、従軍している 14 。この時点で、山名家の内紛は「現将軍派(俊豊) vs 反将軍派(政豊)」という、中央政局の代理戦争の様相を呈し始めていた。
この複雑な状況を一変させたのが、明応2年(1493年)4月に勃発した「明応の政変」である。管領・細川政元がクーデターを起こし、将軍・義材を捕縛・追放。新たに足利義澄(義高)を十一代将軍として擁立したのだ 37 。
この中央政局の激変は、山名父子の立場を一夜にして逆転させた。最大の後ろ盾であった将軍・義材を失った俊豊は、政治的に完全に孤立する。一方で、これまで冷遇されていた父・政豊は、機敏に新将軍・義澄およびクーデターの首謀者である細川政元と結びつき、一転して「体制派」としての正統性を手に入れた 36 。政豊は軍事力ではなく、中央の政変という「追い風」に乗ることで、息子に対する決定的な優位を確保したのである。この一連の出来事は、室町幕府の権威が解体し、地方の武将たちが生き残りをかけて中央の権力闘争に深く関与し、またその影響を直接的に受けるようになった戦国時代初期の力学を象徴している。
政治的優位に立った政豊は、ただちに攻勢に転じる。明応2年(1493年)3月には既に始まっていた父子の武力抗争は、政変後に激化。同年7月に行われた合戦で政豊軍は勝利を収め、敗れた俊豊は備後国へと落ち延びていった 14 。
こうして内乱を力で鎮圧した政豊は、俊豊を廃嫡し、三男の山名致豊を後継者に定めた 12 。しかし、この勝利の代償はあまりにも大きかった。一連の内訌は山名氏の国力をさらに消耗させ、一族の結束を回復不可能なまでに破壊した。備後に追われた俊豊の子孫は、そのまま同地に土着して備後山名氏となり、惣領家からの離心は決定的となったのである 12 。
内乱を収拾し、後継者問題を一応の形で決着させた政豊であったが、その心労は大きかったであろう。明応8年(1499年)1月23日、彼は波乱に満ちた生涯を閉じた。享年59であった 13 。
山名政豊の治世は、対外戦争の失敗と深刻な内訌によって、山名氏の権力が内部から崩壊していく過程そのものであった。その結果、但馬・伯耆・因幡の三国における守護の権威は著しく低下し、代わって守護代や有力国人衆がその勢力を伸長させることとなった。
政豊の権威失墜と父子相克の最大の受益者の一人が、但馬守護代であった垣屋氏である 12 。垣屋氏は、かつて明徳の乱で山名惣領家を唯一支持した功臣であり、但馬国内に強固な基盤を築いていた 41 。播磨での敗戦や惣領家の内訌を経て、その立場は主家を脅かすほどに強大化する。
政豊の死後、家督を継いだ山名致豊の代になると、垣屋続成はもはや被官としての立場を顧みず、公然と主家に反旗を翻した。永正元年(1505年)、垣屋続成は致豊の居城である此隅山城を攻撃するに至る 26 。守護がその居城を守護代に攻められるというこの異常事態は、守護権力が名目上のものとなり、実力を持つ国人が領国支配の実権を握る「下剋上」の時代の到来を明確に示している。
山名氏の権力構造の変化は、その本拠地の変遷にも象徴的に現れている。かつて山名氏は、但馬国の政治的中心地であった豊岡市九日市に広大な守護所を構え、平時の行政を司っていた 2 。しかし政豊の時代、国人衆、とりわけ垣屋氏からの軍事的圧迫が増大する中で、より防衛力に優れた此隅山(豊岡市出石町)へと拠点を移さざるを得なくなった 4 。
この守護所の移転は、単なる居城の変更ではない。それは、山名氏の権力基盤が、領国全体を統治する広域支配者としての「守護」から、自らの直轄領を守るのが精一杯の「一地方領主」へと縮小したことを物理的に示すものであった。15世紀末から山名氏の支配拠点となった此隅山城とその山麓の宮内堀脇遺跡からは、守護館の跡や、輸入品を含む権威を象徴する多数の遺物が出土しており、往時の権勢を偲ばせると同時に、その防衛的な立地は、彼らが常に外部からの脅威に晒されていたことを物語っている 4 。
但馬以外の分国においても、国人衆の自立化はもはや止めようのない潮流となっていた。因幡国では、毛利氏や矢部氏が反守護連合を形成し、守護家の支配に対して執拗な抵抗を繰り返した 24 。伯耆国でも、南条氏などが守護の統制に反発し、独自の動きを見せるようになっていた 27 。
これらの国人一揆は、赤松氏のような外部勢力と結びつくことで、より大規模かつ複雑な様相を呈した 26 。政豊は生涯を通じてこれらの反乱鎮圧に奔走したが、彼らを完全に屈服させることはできず、むしろ内訌を収拾するために彼らの要求を呑まざるを得ない場面も増えていった。その結果、守護権はさらに切り崩され、国人衆の発言力は増大の一途を辿ったのである 12 。
山名政豊は、室町幕府の権威が崩壊し、群雄が割拠する戦国時代の扉を開いた、まさに時代の大きな転換期を生きた武将であった。彼の生涯と行動は、守護大名という旧来の権力が、いかにして解体され、新たな秩序へと再編されていったかを示す、一つの典型的な事例と言える。
彼の歴史的評価は、二つの側面から捉える必要がある。一方では、祖父・宗全と父・教豊亡き後の山名氏を率い、細川政元との和睦によって11年に及ぶ応仁の乱に形式的な終止符を打った人物として評価される 18 。彼は、一族の存続という現実的な目標のために、困難な政治的決断を下した。
しかし、その一方で、彼の治世は山名氏の決定的な衰退期と重なる。和睦によって失墜した権威を取り戻そうとして強行した播磨侵攻は、真弓峠での惨敗という最悪の結果を招き、彼の指導力を根底から揺るがした。この対外戦争の失敗が引き金となり、嫡男・俊豊との骨肉の内訌が勃発。さらにこの内乱が中央の「明応の政変」と連動したことで、山名家中の亀裂は回復不可能なものとなった。彼は「応仁の乱」という巨大な戦乱を終わらせた一方で、自らの領国に「戦国」という、より深刻で根深い新たな戦乱を呼び込んでしまったのである。
政豊の悲劇は、彼が「守護大名」という過去の栄光に固執し、その権威を回復しようと試みた点にある。しかし、その手法(大規模な軍事行動)の失敗は、皮肉にも国人衆の自立を促し、彼自身を戦国大名的な一地方領主へと追い込んでいった。彼の生涯は、時代の大きな構造転換の波に抗おうとして、逆にその波に飲み込まれていった武将の苦闘の記録である。
祖父・宗全が再興した山名氏の威勢は、政豊の代に再び大きく傾いた。対外戦争の失敗、内訌による分裂、そして家臣の台頭という負の連鎖は、その多くが彼の決断に起因している。彼が三男・致豊に残した但馬山名氏は、もはやかつての「六分一殿」の面影はなく、守護代の垣屋氏や、やがて出雲から伸長してくる尼子氏、そして西国の雄・毛利氏といった新興勢力の草刈り場となっていく 35 。山名政豊は、意図せずして、自らの一族が戦国時代の荒波の中に埋没していく道筋を決定づけた人物として、日本史にその名を刻んでいる。