最終更新日 2025-07-18

山名豊頼

山名豊頼は兄を殺害し因幡守護を簒奪。但馬宗家の支援を得るも、甥との内戦で国は混乱。その行動は戦国下剋上を象徴し、因幡山名氏滅亡の遠因となった。
山名豊頼

戦国初期の因幡守護・山名豊頼に関する総合的考察

序章:戦国初期の因幡国と山名豊頼の位置づけ

室町時代後期、日本各地で旧来の権威が揺らぎ、実力主義が横行する「戦国時代」がその幕を開けつつあった。かつて全国66か国のうち11か国の守護職を占め、「六分一殿」と称された名門守護大名・山名氏も、応仁の乱(1467-1477年)を経てその勢力を大きく減退させた。しかし、但馬、伯耆、因幡の三国においては、依然として守護としての地位を保ち続けていた 1 。本報告書の主題である因幡山名氏は、山名氏冬を祖とし、但馬国に本拠を置く山名宗家に従属しつつも、因幡一国に根差した独自の在地権力として存在していた 1 。この但馬宗家との緊張感をはらんだ微妙な力関係こそが、本報告で詳述する山名豊頼(やまな とよより)の生涯と、彼が生きた時代の因幡国を理解する上で不可欠な背景となる。

利用者によって提示された「兄・豊頼の跡を継ぐ」という情報 3 は、この人物を巡る情報の錯綜を象徴している。論理的に破綻したこの記述は、後世の編纂物における誤記や混同の結果生じたものと考えられる。史実を丹念に追うと、豊頼が跡を継いだのは兄・**豊重(とよしげ)**であり、その継承は平和的なものではなく、実力による簒奪、すなわち「兄殺し」という衝撃的な事件であったことが明らかになる 5 。この情報の混乱自体が、豊頼の家督継承がいかに異常な事態であったかを物語る「歴史の痕跡」とも言えよう。本報告書では、この兄・豊重との骨肉の争いを豊頼の生涯の主軸に据え、その背景、経緯、そして因幡山名氏に与えた破滅的な影響を徹底的に分析する。

山名豊頼自身の活動を直接的に示す一次史料は、永正十年(1513年)に家臣へ発給した所領安堵状など、極めて限定的である 7 。そのため、本報告書では兄・豊重や子・誠通(のぶみち/まことみち)、但馬山名氏の動向を記した『蔭凉軒日録』や『石清水八幡宮文書』といった同時代の記録 6 、さらには後世の編纂物である『因幡民談記』などを批判的に検討し、関連史料の断片を組み合わせることで、歴史の狭間に埋もれた一人の武将の生涯を立体的に再構築することを目的とする。

第一章:山名豊頼の出自と、内訌を運命づけた一族関係

山名豊頼の生涯を理解するためには、まず彼が置かれていた因幡山名氏内部の複雑な家族関係と、それがもたらした対立の構造を把握する必要がある。彼の行動は、単なる個人の野心に留まらず、一族内に潜在していた分裂の火種によって引き起こされた側面が強い。

父・山名豊時と因幡守護家の系譜

豊頼の父は、因幡守護であった山名豊時(とよとき)である 8 。豊時は、応仁の乱後の混乱が続く文明十一年(1479年)に史料上に初めてその名が現れ、国人・毛利氏の反乱など、不安定な国内情勢に対処していた 5 。彼の活動は文亀元年(1501年)まで確認できるが、その後、永正元年(1504年)には因幡守護として長男である豊重の名が見えることから、この間に家督の譲与、あるいは豊時の死があったものと推測される 8 。この豊時から豊重への継承は、長子相続という当時の慣習に則った、正統なものであった。

兄・豊重との関係 - 対立構造の萌芽

兄の山名豊重は、父・豊時の名代として長享元年(1487年)に室町将軍・足利義尚による六角征伐に従軍するなど 6 、早くから一族の次代を担う存在として中央政界との繋がりを構築していた。文亀年間(1501-1504年)に正式に因幡守護に就任して以降も 8 、幕府との関係を維持し、因幡国内における支配を固めていた。

一方で、弟である豊頼が史料に初めて登場するのは、それからしばらく後の永正八年(1511年)のことである。この年、前将軍・足利義稙(よしたね、義材より改名)と細川高国らが、将軍・足利義澄と細川澄元を擁する勢力と京都近郊で対峙した「船岡山合戦」が勃発した。この重要な戦いにおいて、豊頼は兄・豊重と共に、但馬宗家の当主・山名致豊(むねとよ)の名代として、足利義稙方に参陣している 9 。この時点では、兄弟が宗家の指揮下で共闘しており、表向きは協力関係にあったことが窺える。しかし、この共闘こそが、翌年に訪れる破局への序曲となったのである。

【表】因幡山名氏主要人物関係図(山名豊頼周辺)

因幡山名氏が陥った内訌の構図は、豊時の子である豊重と豊頼の兄弟間対立に端を発し、その子らの世代にまで引き継がれていく。この複雑な関係性を理解するため、以下に主要人物の関係図を示す。

世代

系統

人物名

続柄・役職

第一世代

(共通の父)

山名豊時

因幡守護

第二世代

【豊重・豊治派】

山名豊重

豊時の長男。当初の因幡守護。

【豊頼・誠通派】

山名豊頼

豊時の次男。兄を殺害し守護職を簒奪。

第三世代

【豊重・豊治派】

山名豊治

豊重の子。父の仇である叔父・豊頼と対立。

【豊頼・誠通派】

山名誠通

豊頼の子。父の跡を継ぎ、但馬宗家と対立。

この図が示すように、因幡山名氏は「兄・豊重とその子・豊治」の系統と、「弟・豊頼とその子・誠通」の系統という、二つの明確な対立派閥に分裂した 10 。この骨肉の争いが、以降数十年にわたり因幡国を戦乱の渦に巻き込み、最終的に因幡山名氏そのものを滅亡へと導くことになる。

第二章:永正九年の政変 - 兄殺しによる家督簒奪

永正八年(1511年)の船岡山合戦で示された兄弟の協力関係は、わずか一年で完全に崩壊する。永正九年(1512年)、山名豊頼は歴史の表舞台に躍り出るが、それは血塗られたクーデターの実行者としてであった。この事件は、豊頼個人の野心のみならず、山名一族全体のパワーバランスを巡る、より大きな政治力学の中で引き起こされたものであった。

但馬宗家の介入とクーデターの実行

永正九年(1512年)、但馬宗家の当主・山名致豊(研究によっては誠豊ともされる 5 )は、突如として因幡守護家の内政に介入する。致豊は、守護・山名豊重の弟である豊頼を全面的に支援し、豊重の居城である布勢天神山城(現在の鳥取市湖山町南に位置した 11 )を攻撃させた 5 。この戦いで兄・豊重は城内で討死し、豊頼がその地位を実力で奪い取る形で、新たな因幡守護となった 5

このクーデターは、単なる兄弟喧嘩とは到底言えない。一介の守護の弟が、現職の守護である兄を討ち滅ぼすには、外部からの強力な軍事支援が不可欠である。但馬宗家がこの暴挙を後援した背景には、緻密な政治的計算があったと考えられる。兄・豊重は、幕府との直接的な繋がりを持ち 6 、隣国の伯耆守護・山名澄之との間に摩擦を抱えるなど 9 、宗家の意向から離れて自立的な行動を取る傾向が見られた。宗家にとって、分家の自立化は自らの権威を脅かす危険な兆候である。そこで、より従順で統制下に置きやすいと判断した弟・豊頼を新たな守護として擁立し、豊重を排除することで、因幡国を宗家の直接的な影響下に置こうと画策したのである。つまり、この事件は豊頼を主役としながらも、その実態は但馬宗家による因幡支配を強化するための「代理戦争」という側面を色濃く持っていた。

『因幡民談記』の「申ノ歳崩れ」伝承と、その歴史学的解釈

この永正九年のクーデターの衝撃は、後世にまで語り継がれることとなった。江戸時代に編纂された因幡国の地誌『因幡民談記』には、天文十七年(1548年)に豊頼の子・誠通(この頃には久通と改名)が但馬山名氏に攻められて天神山城で敗死した事件を指して、「申ノ歳崩れ(さるのとし くずれ)」という伝承が記されている 5

しかし、近年の歴史研究(特に高橋正弘氏の説)では、この伝承の解釈に新たな光が当てられている。それによれば、『因幡民談記』の記述は史料の不足による誤認や混同であり、「申ノ歳崩れ」という伝承の原型は、天文十七年(戊申)の出来事ではなく、それより36年前の永正九年(1512年、壬申)に、豊頼が兄・豊重を殺害した事件そのものであると指摘されているのである 6

この説が示唆するのは、歴史記述が変容していくプロセスである。1512年(壬申)と1548年(戊申)は、奇しくも十二支が同じ「申」の年にあたる。一族にとって頂点に立つ当主が非業の死を遂げるという衝撃的な事件が、同じ干支の年に二度も起きた。この偶然の一致が、後世の人々の記憶の中で二つの事件を混同・融合させ、やがて一つの「申ノ歳崩れ」という物語として再構築された可能性は極めて高い。これは、民衆の記憶や後世の編纂物が、いかにして史実を「物語化」していくかを示す好例と言える。そして何よりも、豊頼による兄殺しというクーデターが、たとえ形を変えてでも後世まで語り継がれるほど、当時の因幡国に巨大な衝撃を与えた事件であったことを雄弁に物語っている。

第三章:因幡守護としての統治と、終わりなき動乱

兄・豊重を血祭りにあげ、但馬宗家の支援のもと因幡守護の座を手に入れた山名豊頼であったが、その統治は決して平穏なものではなかった。彼の権力基盤は簒奪という暴力の上に成り立っており、その正統性の欠如は、絶え間ない国内の反乱と抗争を呼び起こすことになる。

守護としての権威行使 - 永正十年安堵状の分析

家督を奪取した翌年の永正十年(1513年)、豊頼は早速、新たな因幡守護としての権威を行使する。この年5月、豊頼は「左馬助(さまのすけ)」と称し、家臣の北河与三衛門尉(きたがわ よそうえもんのじょう)に対し、因幡国高草郡布施郷の一部を所領として安堵(所有権を承認)する書状を発給している 3

この所領安堵状は、現存する数少ない豊頼の一次史料であり、歴史的に極めて重要な意味を持つ。これは単なる土地所有の確認ではない。クーデターを成功させた豊頼が、自らを支持した家臣に対して論功行賞を行い、新たな支配体制を構築しようとしたことを示す具体的な証拠である。同時に、自らが因幡国における唯一の公権力であることを内外に宣言する、強力な政治的パフォーマンスでもあった。布施郷は、守護所が置かれた布勢天神山城の膝元であり 12 、その地を家臣に与えることは、豊頼が名実ともに因幡国の支配者となったことを象徴していた。

甥・山名豊治の抵抗と「二人の守護」

しかし、豊頼の支配は盤石ではなかった。殺害された兄・豊重には、山名豊治(とよはる)という息子がいた。父を叔父に殺された豊治は、豊重に忠誠を誓っていた旧臣たちに担がれ、豊頼に対する抵抗運動の旗頭となる 5 。豊頼が所領安堵状を発給した永正十年(1513年)には、豊治がすでに反抗を企てていたことが記録されており 5 、豊頼の権威が確立する間もなく、国内は再び戦乱の様相を呈し始めた。

事態をさらに複雑にしたのは、中央の室町幕府の対応であった。永正十二年(1515年)、幕府はなんと、反乱者であるはずの山名豊治を正式な因幡守護職に任命したのである 5 。これにより、因幡国には前代未聞の異常事態が発生した。すなわち、実力で国を支配する豊頼と、幕府という最高の「権威」を後ろ盾に持つ豊治という、「二人の守護」が同時に並び立つことになったのである。

この状況は、当時の政治情勢における「正統性」を巡るパラドックスを浮き彫りにしている。豊頼は但馬宗家という地域的な強国の支援を得て、軍事力で因幡を実効支配していた。一方の豊治は、軍事的には劣勢であったものの、幕府からの公認という、本来であれば絶対的であるはずの「正統性」を手にしていた。この「実力」の豊頼と「権威」の豊治の並立は、どちらも相手を完全に屈服させることができないという泥沼の状況を生み出した。これは、足利将軍家の権威が著しく低下し、地方においては幕府の任命よりも在地での実力が優先されるという、戦国時代特有の下剋上の様相を典型的に示す事例であった。

内戦の激化

「二人の守護」の並立により、因幡国内の混乱は頂点に達した。豊治派は、父・豊重が殺害された布勢天神山城への攻撃を執拗に繰り返した 5 。史料によれば、豊頼が前述の安堵状を発給したわずか1か月後の永正十年(1513年)6月には、因幡八上郡の名刹・大安興寺が戦火によって焼失している 13 。これは、豊頼派と豊治派の抗争が、守護所の周辺だけでなく、因幡国全域に拡大していたことを生々しく伝えている。豊頼は守護の座を奪い取ったものの、その治世は常に反対派との武力抗争に明け暮れる、極めて不安定なものであり、因幡の民は終わりなき動乱に苦しむこととなった。

第四章:史料からの退場と、因幡山名氏の行く末

血塗られたクーデターによって因幡守護の座に就き、甥との果てしない内戦に明け暮れた山名豊頼。しかし、彼の活動を伝える記録は永正十年(1513年)を境に途絶え、その後の生涯は深い謎に包まれている。だが、彼が因幡山名氏の歴史に刻んだ深い亀裂は、次世代に引き継がれ、最終的に一族を滅亡へと導くことになる。

豊頼の活動の終焉と謎に包まれた晩年

山名豊頼の確実な活動が史料上で確認できるのは、永正十年(1513年)5月の所領安堵状が最後である。その後の彼の動向、いつ、どこで、どのようにして亡くなったのかを示す記録は一切存在しない。

一方、彼と激しく対立した甥の山名豊治は、大永年間(1521-1528年)には守護として活動していたことが確認されている 10 。しかし、その豊治も、大永七年(1527年)5月に将軍・足利義晴を通じて、豊頼の後ろ盾であった但馬山名氏との和睦を試みたのを最後に、史料から姿を消す 9 。この和睦の試みが、但馬方の圧力による事実上の降伏であった可能性も指摘されており、豊治もまた志半ばで命を落としたか、政治の舞台から追われたものと考えられる。

そして、享禄五年(1532年)、因幡国の太守として歴史の表舞台に登場するのは、他ならぬ山名豊頼の子、誠通であった 10 。豊治が史料から消え、誠通が登場するまでの数年間に、因幡国の権力が豊治派から豊頼派へと再び移行したことは明らかである。しかし、その過程で父である豊頼がどのような役割を果たしたのか、あるいはすでにこの世を去っていたのか、史料が沈黙している以上、推測の域を出ない。

子・山名誠通への継承と、新たな対立の構図

父・豊頼の跡を継いだ山名誠通は、当初、但馬宗家の当主・山名誠豊から偏諱(名前の一字を授かること)を受けて「誠通」と名乗っており 10 、父の代と同様に但馬宗家に従属する姿勢を見せていた。しかし、但馬宗家の当主が、より強硬な山名祐豊(すけとよ)に代替わりすると、両者の関係は急速に悪化する。

誠通は、父・豊頼が但馬宗家の力を借りて権力を手に入れたのとは対照的に、但馬からの自立を模索し始める。そのために彼が頼ったのが、西から勢力を伸ばしてきた出雲の尼子氏であった 10 。誠通は尼子晴久から偏諱を受けて「久通」と改名するに至り 14 、但馬宗家との対決姿勢を鮮明にする。

この誠通の行動は、悲劇的な結末を招くことになる。父・豊頼が引き起こした兄殺しとそれに続く長期の内戦は、因幡山名氏の国力を著しく消耗させていた。その結果、息子の誠通は自立した国力で強大な但馬宗家に対抗することができず、尼子氏という新たな外部勢力に依存せざるを得なかったのである。これは、豊頼が但馬宗家の力を利用して兄を討った構図の再現に他ならない。父の成功体験を模倣したかのようなこの「外部勢力への依存」という戦略は、因幡山名氏が自らの力で立つことを放棄し、大国の思惑に翻弄される存在へと転落していく負の連鎖であった。

誠通の尼子氏への接近は、当然ながら但馬の山名祐豊を激怒させた。天文十七年(1548年)、祐豊は因幡への大軍を派遣。誠通は居城の天神山城に籠城するも衆寡敵せず、敗死した 2 。これにより、山名豊頼から続いた因幡山名氏の嫡流は、事実上断絶したのである。豊頼が永正九年に蒔いた「内紛の種」と「外部勢力への依存」という体質は、36年の時を経て、皮肉にも自らの息子の代で家を滅ぼすという最悪の結果となって結実したのだった。

終章:総括 - 歴史における山名豊頼の評価

山名豊頼は、戦国時代の歴史の教科書にその名が大きく記されるような人物ではない。しかし、彼の生涯は、室町時代から戦国時代へと移行する時代の大きなうねりの中で、地方の権力がどのように変質し、そこで生きる人々がどのような選択を迫られたのかを、生々しく我々に示してくれる。

「下剋上」の体現者として

豊頼の生涯は、何よりもまず、兄を殺害してでも権力を求める、戦国時代の非情な「下剋上」の論理を赤裸々に体現したものであった。彼は、血縁や家督相続の順序といった旧来の権威や秩序よりも、自らの策略とそれを支える軍事力という「実力」を優先する、新しい時代の価値観を体現した人物であったと言える。その行動は、倫理的には非難されるべきものであっても、弱肉強食の時代を生き抜くための一つの生存戦略であった。

地域権力の変質を象徴する人物として

彼の行動はまた、守護大名という存在が、幕府の権威に依存した公的な存在から、自らの武力と策略によってのみ領国の存亡を図る私的な「戦国大名」へと変質していく、過渡期の姿を鮮明に映し出している。但馬宗家という上位権力を巧みに利用して権力を掌握したものの、その支配は常に正統性の欠如という弱点を抱え、反対派の抵抗に遭い続けた。結果として、彼は因幡国に安定ではなく、更なる混乱と分裂をもたらし、自らの家を破滅へと導く遠因を作った。彼の生涯は、戦国大名化への道が決して輝かしいものばかりではなかったことを示している。

断片的な史料から再構築される人物像

山名豊頼は、歴史の表舞台で華々しく活躍した英雄でも、大国を動かした策略家でもない。彼の姿は、断片的な史料の中にしか見出すことができない。しかし、彼のような歴史の狭間に生きた人物の生涯を、関連史料を丹念に比較・検討し、その行動の背景にある力学を読み解くことによって、私たちは戦国という時代の本質をより深く理解することができる。中央の権威が揺らぎ、地方で繰り広げられた生々しい権力闘争、血縁すら反故にされる非情な現実、そして一つの選択が数十年後の破滅につながっていく歴史の皮肉。山名豊頼という一人の武将の生涯は、歴史の大きな物語の陰に隠された、無数の地域的葛藤の重要性と、そこに生きた人間の業の深さを、静かに、しかし雄弁に我々に語りかけてくれるのである。

引用文献

  1. 山名氏 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B1%B1%E5%90%8D%E6%B0%8F
  2. 戦国因幡の政治的拠点 - 紀行歴史遊学 - TypePad https://gyokuzan.typepad.jp/blog/2019/10/%E5%B1%B1%E5%90%8D.html
  3. 山名豊頼 - 信長の野望・創造 戦国立志伝 攻略wiki https://souzou2016.wiki.fc2.com/m/wiki/%E5%B1%B1%E5%90%8D%E8%B1%8A%E9%A0%BC
  4. 『信長の野望蒼天録』武将総覧 - 火間虫入道 http://hima.que.ne.jp/souten/data/soutendata.cgi?keys19=%96%BC%90%BA;target=662;max=1990;print=20;p=30
  5. 武家家伝_因幡山名氏 - harimaya.com http://www2.harimaya.com/sengoku/html/yamana_inab.html
  6. 山名豊重 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B1%B1%E5%90%8D%E8%B1%8A%E9%87%8D
  7. 山名豊頼(やまなとよより)『信長の野望・創造PK』武将データ http://hima.que.ne.jp/souzou/souzouPK_data_d.cgi?equal1=7906
  8. 山名豊時とは? わかりやすく解説 - Weblio辞書 https://www.weblio.jp/content/%E5%B1%B1%E5%90%8D%E8%B1%8A%E6%99%82
  9. 山名豐賴Yamana Toyoyori - 信長のWiki https://www.nobuwiki.org/character/sanin/yamana-toyoyori
  10. 山名誠通 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B1%B1%E5%90%8D%E8%AA%A0%E9%80%9A
  11. 天神山城(鳥取市) - 鳥取県:歴史・観光・見所 https://www.toritabi.net/tottori/tensiro.html
  12. 因幡の守護所について/とりネット/鳥取県公式サイト https://www.pref.tottori.lg.jp/item/1238915.htm
  13. 山名豊頼 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B1%B1%E5%90%8D%E8%B1%8A%E9%A0%BC
  14. 山名誠通Yamana Nobumichi - 信長のWiki https://www.nobuwiki.org/character/sanin/yamana-nobumichi
  15. 山名誠通 - 信長の野望・創造 戦国立志伝 攻略wiki https://souzou2016.wiki.fc2.com/m/wiki/%E5%B1%B1%E5%90%8D%E8%AA%A0%E9%80%9A