山崎吉家は朝倉家の宿老で、宗滴の薫陶を受け武勇と外交で活躍。宇佐山城の戦いで森可成を討つ大功を挙げた。最期は刀禰坂で主君義景を逃すため殿を務め戦死。滅びゆく名門に殉じた忠臣として知られる。
天正元年(1573年)8月13日、近江国刀禰坂(現在の福井県敦賀市)。夕闇が迫る中、越前朝倉軍は崩壊の淵にあった。盟友・浅井長政を救うべく出陣した当主・朝倉義景であったが、織田信長が仕掛けた電撃的な奇襲により前線陣地を失い、全軍に下した退却命令は、統制を失った潰走へと変わっていた 1 。信長自らが率いる織田軍の猛烈な追撃が、逃げ惑う朝倉の兵たちを次々と飲み込んでいく。この絶望的な状況下で、一人の武将が主君・義景を逃すべく、死を覚悟して殿(しんがり)の任を引き受けた。その男こそ、朝倉家の宿老・山崎吉家(やまざき よしいえ)である。
吉家は、崩れゆく味方を必死に押しとどめ、反転して織田軍の追撃を食い止めるべく奮戦した 1 。その壮絶な戦いぶりは、一時的に織田軍の勢いを押し返すほどであったと伝わる 1 。しかし、大勢はすでに決していた。織田軍の執拗な猛攻の前に、吉家とその部隊は奮戦の末、刀禰坂の露と消えた 4 。彼の死は、単なる一武将の戦死ではなかった。それは、越前の名門・朝倉氏の軍事的中核が完全に破壊され、その滅亡が決定づけられた瞬間を象徴する出来事であった。本報告書は、この山崎吉家という、滅びゆく主家と運命を共にした忠臣の生涯を、その出自から最期の瞬間に至るまで、詳細に検証するものである。
山崎吉家の生涯を理解する上で、まず彼の一族が朝倉家の中でどのような立場にあったかを知る必要がある。山崎氏は、越前土着の国人ではなく、主君である朝倉氏に代々仕えた譜代の家臣であった 5 。
『山崎家譜』によれば、山崎氏の祖先は播磨国の名門・赤松氏の流れを汲むとされる 6 。赤松則村(円心)の子・氏範の孫にあたる人物が、山城国山崎邑に居住し、その地名を姓としたのが始まりと伝えられる 6 。その後、七世の孫である肥前守長時に至り、越前へ下って戦国大名・朝倉氏の初代当主であり、越前統一を成し遂げた名君・朝倉孝景(英林)に仕えたという 6 。この時点から、山崎氏は朝倉家の家臣団に組み込まれ、その歴史を共に歩むこととなる。
吉家の生年は不明であるが、父は山崎長吉(小次郎祖桂)とされている 8 。父・長吉もまた武勇に優れた武将であり、永正3年(1506年)の九頭竜川の戦いでは、一向一揆の将・河合藤八郎を一騎打ちで討ち取るという功績を挙げていた 3 。吉家には複数の兄弟がおり、中でも弟の吉延(七郎左衛門、吉清とも)は、兄と共に朝倉家に仕えた武将として知られる 8 。吉延は武芸だけでなく茶湯を嗜む風流人でもあった 3 。また、吉家には吉健(よしたつ)という息子がいた 8 。
吉家自身は、通称を新左衛門尉と称し、のちに長門守の官位を名乗った 8 。彼の生涯は、天正元年8月14日(西暦1573年9月10日)の刀禰坂の戦いでの死によって幕を閉じる 8 。
【表1:山崎氏略系図】
世代 |
人物名 |
備考 |
祖 |
赤松則村(円心) |
播磨国の守護大名 |
... |
... |
... |
祖 |
肥前守長時 |
朝倉孝景(英林)に仕え、越前山崎氏の祖となる |
... |
... |
... |
父 |
山崎長吉(祖桂) |
九頭竜川の戦いで武功を挙げる |
本人 |
山崎吉家(長門守) |
本報告書の主題。朝倉義景の宿老 |
弟 |
山崎吉延(七郎左衛門) |
兄と共に刀禰坂で戦死 |
弟 |
半左衛門(了清) |
|
弟 |
珠宝坊 |
|
子 |
山崎吉健 |
父と共に刀禰坂で戦死 |
甥 |
山崎長徳 |
吉延の子。のちに前田家に仕え、大名となる |
朝倉氏の家臣団は、主君の一門で構成される「同名衆」、譜代の家臣である「内衆(または奉行衆)」、そして越前の在地土豪である「国衆」に大別される 11 。山崎氏は、その出自から越前に独自の権力基盤を持たない「内衆」に属していたと考えられる。
この「内衆」という立場は、吉家の行動原理を理解する上で極めて重要である。在地に根差した「国衆」が、自らの所領と一族の保全を第一に考え、時には主家を裏切ることも厭わないのに対し、山崎氏のような譜代の家臣は、その存在基盤のすべてを朝倉氏からの恩顧に依存していた。彼らの栄達は朝倉家の繁栄と直結しており、朝倉家が滅びれば自らも没落する運命にあった。
この構造的な関係性が、山崎吉家の生涯を貫く unwavering な忠誠心の源泉となった可能性は高い。事実、朝倉家滅亡の直接的な引き金となったのは、同名衆筆頭であり大野郡に強固な地盤を持つ朝倉景鏡の裏切りであった。これとは対照的に、吉家は最後まで主家のために戦い、命を捧げた。彼の忠義は、単なる個人的な心情に留まらず、朝倉家と一蓮托生という、山崎一族が置かれた立場そのものを反映していたのである。
山崎吉家が、朝倉家にとって不可欠な武将へと成長する過程において、一人の偉大な人物の影響を抜きにしては語れない。その人物とは、朝倉家随一の名将と謳われた朝倉宗滴(そうてき)である。
吉家の名が史料に初めて登場するのは、享禄4年(1531年)、本願寺内部の抗争である「享禄の錯乱」に端を発する、朝倉軍の加賀出兵の際である 1 。「山崎新左衛門尉」として、この時すでに朝倉軍の中核を担っていた宗滴の指揮下で、加賀の今湊に着陣した記録が残っている 12 。これが、吉家の武将としてのキャリアの始まりであった。
この時期、朝倉家は長年にわたり、北陸の強大な宗教勢力である加賀一向一揆と熾烈な戦いを繰り広げていた。宗滴が率いたこれらの戦いは、極めて過酷なものであった。例えば、永正3年(1506年)の九頭竜川の戦いでは、宗滴はわずか1万余の兵で、30万とも号する一向一揆の大軍を奇襲によって打ち破るという離れ業を演じている 13 。
吉家は、このような厳しい戦いの最前線で、宗滴の軍略と統率術を直接学び、実戦経験を積んでいった 4 。特に天文24年(1555年)に行われた大規模な加賀一向一揆攻めにも従軍しており 1 、宗滴の薫陶を受けながら、一廉の武将へと成長していったことは想像に難くない。名将・宗滴の下で過ごした若き日々は、吉家の軍事的な能力の基礎を築き、後の活躍に繋がる重要な期間であったと言えるだろう。
天文24年(1555年)、朝倉家の軍事を一手に担ってきた大黒柱・朝倉宗滴が陣中で病没した。この名将の死は、朝倉家にとって計り知れない打撃であり、その後の衰退を予感させる出来事であった 1 。宗滴が担っていた軍事・外交の重責は、あまりにも大きかった。この巨大な空白を埋めるべく、粉骨砕身の働きを見せたのが山崎吉家であった。
宗滴の死後、吉家は事実上、彼の後継者として朝倉家の中枢で活動を始める 9 。彼は単なる一武将に留まらず、軍事と外交の両面でその手腕を発揮し、宗滴亡き後の朝倉家を支える中心人物へと躍進していく 9 。
軍事面では、永禄10年(1567年)に起こった堀江景忠の謀反において、その能力を遺憾なく発揮した。景忠が一向一揆と内通したとの嫌疑が持ち上がると、吉家は魚住景固と共に討伐軍の大将に任じられ、これを鎮圧するという重要な役割を果たしている 1 。
外交面においても、吉家の働きはめざましかった。彼は宗滴が生前行っていた越後の上杉氏との外交交渉を引き継ぎ、朝倉家の対外関係の維持に努めた 4 。さらに、永禄11年(1568年)に亡命将軍・足利義昭が朝倉義景を頼って一乗谷を訪れた際には、その応対役の一人として名を連ねている 1 。これは、吉家が朝倉家の外交を担う重臣として、内外から認知されていたことを示している。
しかし、吉家の立場は宗滴のそれとは本質的に異なっていた。宗滴が朝倉一門(同名衆)という高い身分に裏打ちされた絶対的な権威を持っていたのに対し、吉家はあくまで譜代の家臣(内衆)であった。彼がその地位を維持し、家中の信望を得るためには、血筋ではなく、具体的な「実績」を積み重ねるしかなかった。文化的な活動を好み、軍事には比較的関心の薄い主君・義景の下で 16 、吉家は宗滴の遺した重責を一身に背負い、絶え間ない努力と成果によって自らの存在価値を証明し続けなければならなかったのである。彼の獅子奮迅の活躍は、この「継承者」としての重圧と責任感の表れであったと言えよう。
元亀元年(1570年)、織田信長と徳川家康の連合軍が越前に侵攻。浅井長政の裏切りによって信長が窮地に陥った「金ヶ崎の退き口」を経て、朝倉氏と織田氏の対立は決定的となった。同年6月の姉川の戦いで浅井・朝倉連合軍は敗北を喫するが、戦いはこれで終わらなかった。山崎吉家にとって、その武名を最も高める戦いが、この後に待っていた。
姉川の戦いの後、信長が主力を率いて摂津国の三好三人衆討伐に向かうと、浅井・朝倉連合軍はその背後を突くべく、近江国へ大軍を進めた。世に言う「志賀の陣」である。この時、浅井長政の要請に応じた吉家は、本隊に先駆けて小谷城に入り、「山崎丸」と呼ばれる砦を築いて防備を固めるなど、早くから活動していた 1 。
やがて朝倉義景率いる本隊が到着し、総勢3万とも言われる浅井・朝倉連合軍は、信長の近江における重要拠点・宇佐山城に迫った 17 。この城を守っていたのは、織田家の猛将・森可成(もり よしなり)であったが、その兵力はわずか1000余りに過ぎなかった 17 。
元亀元年9月20日、連合軍による宇佐山城への総攻撃が開始された 18 。吉家は朝倉景建らと共に先鋒部隊を率い、織田軍と激突した 1 。森可成は寡兵ながらも奮戦し、緒戦では連合軍を押し返す場面もあったが、数の上での劣勢は如何ともしがたかった。浅井軍の別働隊が側面を突き、さらに山崎吉家、阿波賀小三郎らの朝倉勢、そして浅井長政の本隊までもが攻撃に加わると、ついに森可成の部隊は崩壊した 17 。
この激戦の最中、山崎吉家が率いる部隊は、織田軍の中核を打ち破り、城主・森可成、信長の弟・織田信治、そして武将・青地茂綱らを討ち取るという、この戦いにおける最大の戦功を挙げた 1 。織田家にとって、歴戦の勇将と当主の弟を同時に失った衝撃は大きく、この勝利は吉家の武名を大いに高めるものであった。
【表2:宇佐山城の戦い 両軍主要将帥】
勢力 |
主な指揮官 |
結末 |
浅井・朝倉連合軍 |
浅井長政、朝倉義景、朝倉景鏡、 山崎吉家 、阿波賀三郎 |
勝利(戦闘において) |
織田軍 |
森可成 |
討死 |
|
織田信治(信長の弟) |
討死 |
|
青地茂綱 |
討死 |
|
各務元正(森可成の家老) |
籠城に成功 |
しかし、この輝かしい戦術的勝利は、必ずしも戦略的な成功には結びつかなかった。森可成らを討ち取ったものの、連合軍は宇佐山城を落城させることができなかったのである 17 。城兵は各務元正らの指揮の下で頑強に抵抗を続け、連合軍が城攻めに手間取っている間に、摂津から信長自身が率いる大軍が救援に駆け付けた 17 。
形勢は逆転し、浅井・朝倉連合軍は宇佐山城の攻略を断念、比叡山へと撤退を余儀なくされる 20 。結局、吉家が挙げた大きな戦功は、織田軍に決定的な打撃を与えるには至らず、戦局を覆すことはできなかった。
この宇佐山城の戦いは、朝倉家の対織田戦を象徴する出来事であったと言える。個々の戦闘では吉家のように目覚ましい活躍を見せる武将がいても、信長の迅速な戦略的判断と機動力の前に、その勝利を大局的な有利に繋げることができない。戦術的には勝利しながらも、戦略目標は達成できずに終わる。このパターンこそが、名門・朝倉氏が新興の織田氏に追い詰められていく過程そのものであった。吉家の最大の武功は、皮肉にも朝倉家の限界を浮き彫りにする一例となってしまったのである。
志賀の陣の後も、織田信長の圧力は増す一方であった。天正元年(1573年)、信長は浅井氏の居城・小谷城に総攻撃をかける。盟友の危機に際し、朝倉義景は家中の反対を押し切って、2万の軍勢を率いて最後の近江出兵を敢行した 1 。しかし、この出陣は当初から不穏な空気に満ちていた。長引く戦に兵の士気は低く、家中の意思統一もなされていなかったのである 2 。
8月12日、織田軍は暴風雨に乗じて朝倉軍の前線拠点である大嶽砦を奇襲し、これを陥落させた 21 。この報に接した義景は、戦況の不利を悟り、全軍に越前への撤退を命じた 2 。この決断が、朝倉軍の運命を決定づけた。
もともと戦意の低かった朝倉軍は、退却命令をきっかけに統制を完全に失い、潰走状態に陥った 2 。信長はこの好機を逃さず、自ら先頭に立って追撃を開始。朝倉軍は刀禰坂の隘路で追いつかれ、一方的な殲滅戦が展開された 21 。
この地獄絵図の中で、主君・義景を無事に逃すという、絶望的な任務を託されたのが山崎吉家であった 1 。彼は殿軍の指揮を執ると、死を覚悟した兵たちを率いて織田軍の前に立ちはだかった。その奮戦は凄まじく、一時は織田軍を押し戻すほどの気迫を見せたが、衆寡敵せず、やがて力尽きた 1 。吉家は、この刀禰坂で壮絶な戦死を遂げたのである。
この戦いにおける朝倉軍の損害は壊滅的であった。『信長公記』には、3000人以上が討ち取られたと記されており、誇張はあるにせよ、その被害の甚大さを物語っている 2 。そして、この敗戦が致命的であったのは、単なる兵の損失に留まらなかった点にある。
【表3:刀禰坂の戦いにおける朝倉軍の主な戦死者】
人物名 |
役職・関係 |
山崎吉家 |
朝倉家宿老、殿軍指揮官 |
山崎吉延 |
吉家の弟 |
山崎吉健 |
吉家の息子 |
朝倉景行 |
朝倉一門、北庄城主 |
朝倉道景 |
朝倉一門 |
斎藤龍興 |
元美濃国主、客将 |
河合吉統 |
朝倉家臣 |
この戦死者のリストが示すように、刀禰坂の戦いは朝倉家の軍事的中核そのものを破壊した。譜代の宿老である山崎吉家とその一族、朝倉一門の有力武将たち、さらには客将として軍を支えていた斎藤龍興までもが一度に命を落としたのである 2 。
この「指導層の蒸発」こそが、朝倉家滅亡の直接的な原因であった。吉家の死は、朝倉家の組織的な崩壊を象徴する出来事だったのである。彼の英雄的な犠牲も、主君の指導力欠如、家中の不和、兵の士気低下といった、朝倉家が内包していた構造的な問題を覆すことはできなかった。忠臣の奮戦も虚しく、越前に帰還した義景にはもはや抵抗する力は残されていなかった。数日後、信頼していたはずの朝倉景鏡に裏切られ、義景は自刃。ここに、100年以上続いた名門・朝倉氏は滅亡した。山崎吉家の最期は、まさに滅びゆく主家への殉死であった。
山崎吉家は、戦国時代の武将として、どのような人物であったのか。彼の生涯を振り返ると、いくつかの側面が浮かび上がってくる。
第一に、彼は武勇と軍略に優れた指揮官であった。名将・宗滴の下で実戦経験を積み 4 、宇佐山城の戦いでは織田家の名だたる武将を討ち取る大功を挙げた 1 。そして最期には、絶望的な状況下で殿軍を指揮し、壮絶な戦いぶりを見せた 1 。これらの事実は、彼が当代屈指の武将であったことを示している。
第二に、彼は軍事だけでなく、外交にも通じた有能な政治家であった。宗滴の死後、上杉氏との交渉役を引き継ぎ 4 、足利義昭の応対にも携わるなど 1 、朝倉家の外交政策において中心的な役割を担っていた。武辺一辺倒ではなく、政務能力も兼ね備えていたことが窺える。
第三に、彼は文化的な素養も持つ人物であった。史料には彼が「歌人としても知られている」との記述があり 8 、弟の吉延が茶湯を嗜んだことと合わせると 6 、朝倉氏の本拠地・一乗谷が育んだ高度な文化に親しんでいたことがわかる。一乗谷は「北陸の小京都」と称されるほど文化が爛熟しており 16 、吉家もその中で生きた教養人であった。
しかし、山崎吉家という人物を最も特徴づけるのは、その揺るぎない「忠誠心」であろう。裏切りが日常茶飯事であった戦国の世にあって、彼の生涯には主家を裏切ったという記録は一切見られない。主君・義景の指導力に陰りが見え、前波吉継のような重臣の離反が相次ぐ中でも 15 、吉家は最後まで朝倉家の中核として戦い続けた。その生き様は、滅亡という運命に殉じた忠臣の鑑として、際立った存在感を放っている。
現代の歴史小説、例えば赤神諒氏の『酔象の流儀 朝倉盛衰記』などでは、吉家は有能でありながらも、凡庸な主君に仕え、滅びゆく運命に抗い続けた悲劇の英雄として描かれることが多い 15 。これは、彼の生涯が持つドラマ性を的確に捉えた評価と言えるだろう。彼は、朝倉宗滴亡き後の朝倉家を、その両肩で支え続けた最後の柱であり、その柱が折れた時、朝倉家という館もまた崩れ落ちたのである。
山崎吉家は、弟の吉延、息子の吉健と共に刀禰坂で戦死し、彼の直系はここに途絶えた 6 。滅びゆく主君に殉じたその生涯は、悲劇的な忠誠の物語として完結した。しかし、山崎一族の血脈が完全に絶たれたわけではなかった。吉家の弟・吉延の子、すなわち吉家の甥にあたる山崎長徳(ながのり)が、その後の激動の時代を生き抜いていたのである 3 。
長徳の人生は、叔父・吉家のそれとは全く対照的なものであった。朝倉家滅亡後、彼はまず明智光秀に仕えた 22 。天正10年(1582年)には本能寺の変、山崎の戦いに光秀方として参加している。光秀が敗死すると、今度は越前を支配した柴田勝家に仕え、賤ヶ岳の戦いに参戦した 22 。そして勝家が滅びると、加賀の前田利家・利長親子に仕官し、ようやく安住の地を得るのである 22 。
彼の人生は、まさに流転と適応の連続であった。仕えた主君が次々と滅んでいく中で、長徳は驚くべき生命力で生き残り、新たな道を切り拓いていった。前田家に仕えてから、彼の才能は大きく開花する。慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いでは、東軍についた前田軍の主力として、西軍方の大聖寺城主・山口宗永親子を討ち取るという大功を挙げた 22 。この功績により、戦後、主君・前田利長から1万4000石という破格の所領を与えられた 22 。これは、明智光秀に仕えていた頃の700石とは比べ物にならない高禄であり、彼が前田家でいかに高く評価されたかを物語っている 23 。
その後、山崎家は加賀藩の重臣「人持組頭」として確固たる地位を築き、明治維新まで続くことになる 22 。
ここに、二つの対照的な生き方が浮かび上がる。一人は、一つの主家に忠誠を尽くし、その滅亡と運命を共にした山崎吉家。彼の生き方は、武士の理想の一つである「殉死」の美学を体現している。もう一人は、主家の滅亡を乗り越え、次々と新たな主君に仕えることで生き抜き、最終的に一族を再興させた山崎長徳。彼の生き方は、激動の時代を生き抜くための「適応」と「再生」の物語である。
吉家の悲劇的な忠義が武士の「滅びの美学」を象徴するとすれば、長徳のしたたかな処世術は、戦国乱世から泰平の江戸時代へと移行する時代の変化そのものを映し出している。どちらの生き方が優れているという問題ではない。ただ、滅びゆく名門に殉じた忠臣の物語の裏側で、その血を継ぐ者が新たな時代を生き抜き、一族の未来を切り拓いたという事実は、山崎氏の歴史に深い奥行きを与えている。忠臣・山崎吉家の物語は、彼の死で終わるのではなく、甥・長徳の再生によって、戦国という時代の複雑さと多様性を示す、より豊かな歴史として我々の前に立ち現れるのである。