山崎家治は徳川幕府の技術官僚大名。大坂の陣で武功、大坂城再築、天草復興、丸亀城築城に貢献。幕府の安定に尽力した。
山崎家治(やまざき いえはる、1594-1648)は、江戸時代前期に活躍した大名である。彼の名は、戦国の荒波を武勇で切り抜けた猛将としてではなく、近世日本の礎を築いた卓越した技術官僚(テクノクラート)として、歴史に深く刻まれている。徳川家臣として、大坂夏の陣での武功、大坂城再築における築城技術の提供、島原の乱後の天草復興、そして讃岐丸亀城の築城という、彼の生涯を彩る一連の事績は、単なる地方大名の藩政記録に留まらない。それらは、武力による「武断政治」から法と秩序による「文治政治」へと移行する時代の要請に、彼がいかに的確に応え、徳川幕府による全国支配体制の確立に貢献したかを示す、重要な証左である。
本報告書は、山崎家治の生涯を時系列に沿って詳細に追うとともに、彼の行動一つひとつが持つ歴史的文脈と政治的意義を深く掘り下げることを目的とする。特に、彼の代名詞とも言える「築城」と「復興統治」が、単なる土木事業や地方行政ではなく、徳川幕府の権威を可視化し、その支配を盤石にするための高度な政治的行為であったことを明らかにする。これにより、戦乱の終焉と新たな秩序の構築という、日本史の大きな転換点において山崎家治が果たした、これまで必ずしも十分に光が当てられてこなかった役割を再評価し、その実像に迫るものである。
年号(西暦) |
家治の年齢 |
主な出来事 |
所領・石高 |
官位・通称 |
文禄3年(1594) |
0歳 |
父・家盛が対馬に駐屯中、側室の子として誕生 1 。 |
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左近 |
慶長19年(1614) |
21歳 |
10月、父・家盛の死去に伴い家督を相続。大坂冬の陣に徳川方として参陣 4 。 |
因幡国若桜藩 3万石 |
甲斐守 |
元和元年(1615) |
22歳 |
大坂夏の陣にて池田利隆軍に属し、首級6つの武功を挙げる 4 。 |
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元和3年(1617) |
24歳 |
大坂の陣の戦功により加増転封。成羽陣屋を築き、新田開発を行う 1 。 |
備中国成羽藩 3万5千石 |
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元和6年(1620) |
27歳 |
徳川幕府による大坂城再築工事(天下普請)に参加。石垣普請を担当 8 。 |
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寛永11年(1634) |
41歳 |
伊予松山藩主・蒲生氏の改易に伴い、松山城の在番を勤める 8 。 |
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寛永15年(1638) |
45歳 |
島原の乱後、その復興手腕を期待され加増転封。富岡城の再建に着手 1 。 |
肥後国富岡藩 4万2千石 |
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寛永18年(1641) |
48歳 |
天草での功績により加増転封。讃岐丸亀藩の初代藩主となる 1 。 |
讃岐国丸亀藩 5万3千石 |
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寛永20年(1643) |
50歳 |
幕府の許可と資金援助を得て、丸亀城の大改修に着手 11 。 |
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慶安元年(1648) |
55歳 |
3月17日、丸亀城の完成を見ることなく死去。丸亀の寿覚院に葬られる 4 。 |
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山崎家治の生涯を理解するためには、まず彼が相続した山崎家の政治的立ち位置と、その背景を形成した父・山崎家盛の類稀なる処世術に目を向ける必要がある。山崎家の出自は近江国に遡り、祖父・片家の代に織田信長、次いで豊臣秀吉に仕え、摂津国三田に2万3千石を領する大名へと成長した 1 。この織豊政権下で築かれた基盤が、家治の父・家盛の時代に大きな試練と飛躍の機会を迎えることとなる。
山崎家が徳川の世で確固たる地位を築くことができた直接的な要因は、慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いにおける家盛の絶妙な政治的立ち回りにある。徳川家康が上杉征伐のため東下した隙を突き、石田三成らが挙兵すると、家盛は表向き西軍に与し、大垣城で三成と面会して味方することを約束した 15 。しかしその一方で、彼は三成挙兵の報をいち早く家康に伝えるという内通工作を行っていた 1 。
さらに決定的に重要だったのは、西軍が大坂の諸大名の妻子を人質に取ろうとした際の行動である。家盛の正室・天球院は、徳川四天王の一人である池田恒興の娘であり、姫路城主・池田輝政の妹であった 1 。輝政の正室は家康の次女・督姫であり、彼女は人質となることを拒んで家盛の屋敷に逃げ込んだ 1 。家盛は、輝政の屋敷が捜索されることを危惧して督姫を一度屋敷に戻した上で、豊臣方の長束正家と交渉し、「督姫は重病である」として大坂城への入城を延期させることに成功したのである 1 。
この一連の行動は、家康の娘の身柄を保護するという、徳川方にとって計り知れない功績となった。結果として、西軍に属しながらも、戦後、家盛は義兄・池田輝政の強力なとりなしもあって改易を免れるどころか、因幡国若桜3万石へと加増転封されるという破格の待遇を受けた 1 。多くの西軍大名が没落する中、山崎家が生き残っただけでなく、より大きな領地を得たという事実は、家盛の高度な情報戦と政治交渉能力の賜物であった。しかし、この「温情措置」は、裏を返せば徳川家に対する絶対的な忠誠を誓うという、目に見えない「政治的負債」を山崎家に課したとも解釈できる。家督を継いだ家治の生涯にわたる幕府への忠勤は、この父が残した負債を返済し、巧みな外交によって得た家の安泰を、実直な奉公によって確固たるものにするための連続的なプロセスであったと見ることができる。
山崎家治は、文禄3年(1594年)、父・家盛が文禄の役で対馬に駐屯している最中に誕生した 1 。彼の母は正室の天球院ではなく、側室であった 2 。戦国から江戸初期にかけて、家督相続において嫡庶の別は依然として重要な意味を持っていた。兄・家勝(定勝)が西軍に与して隠棲したという説も存在し 13 、家治が家督を継いだ経緯は単純ではなかった可能性が示唆される。
このような出自は、彼が自らの地位の正統性を、生まれながらの権利として安住するのではなく、実力と主君(徳川家)への比類なき貢献によって、生涯をかけて証明し続けなければならないという強烈な動機になった可能性がある。彼の武功、そして後に開花する築城や統治における卓越した能力は、個人的な野心のみならず、自らの立場を盤石にするための、弛まぬ努力の結晶であったと言えよう。
彼の婚姻関係もまた、山崎家の政治的立場を象徴している。正室には、父の代から続く池田家との強固な関係を継承・強化するため、鳥取藩初代藩主・池田長吉の養女(実際には長吉の弟・長政の娘)を迎えた 2 。これは、徳川家と深い姻戚関係にある池田一門との連携を保ち、幕藩体制下での政治的安定を確保するための重要な戦略であった。
父・家盛が築いた徳川家との政治的信頼関係を、確固たるものへと昇華させたのは、家治自身の武功であった。慶長19年(1614年)10月、父の死に伴い21歳で家督を相続した家治にとって、その直後に勃発した大坂の陣は、徳川家への忠誠を試される最初の、そして最大の試金石となった 4 。
冬の陣において、家治は徳川方として兵200を率いて大坂・中之島に布陣した 4 。この戦いで弟の久家を失うという犠牲を払いながらも、徳川方としての責務を果たした 5 。翌年の元和元年(1615年)に起きた夏の陣では、姻戚関係にある備前岡山藩主・池田利隆の軍に属して奮戦する 4 。この戦いで彼は、敵の首を6つ挙げるという具体的な武功を立てた 4 。
豊臣家が滅亡するこの最後の大戦は、全ての旧豊臣系大名にとって、徳川への忠誠を試される最終試験であった。家治がここで、徳川家にとって最も信頼の置ける部隊の一つである池田軍に属し、かつ具体的な武功を上げたという事実は、山崎家がもはや疑いの余地なく徳川の武将であることを天下に証明するものであった。これにより、父・家盛が築いた「政治的信頼」の上に、家治自身の「軍事的信頼」が上乗せされ、山崎家は譜代大名に準ずるほどの厚い信任を得るに至った。この二つの信頼の獲得こそが、後の天下普請や天草統治といった幕府の重要任務に抜擢される揺るぎない基盤となったのである。
大坂の陣での戦功は、すぐさま幕府の評価に結びついた。元和3年(1617年)、家治は5,000石の加増を受け、備中国成羽3万5千石の領主として転封された 1 。これは、彼のキャリアにおける最初の大きな飛躍であった。
成羽において、家治は戦国時代の山城であった鶴首城を廃し、その麓に新たに成羽陣屋を築いて藩庁とした 7 。これは、戦乱の時代が終わり、平時の統治へと世の中が移行していることを象徴する行動である。さらに彼は、浅口郡における西阿知新田・北面新田の開発といった干拓事業に力を注ぎ、領内経営においても非凡な才能を発揮した 1 。
元和偃武(げんなえんぶ)以降、幕府が大名に求める能力は、戦場での勇猛さから、領国を豊かにし、民を安定させる統治能力へと明確にシフトしていた。家治が武功を立てた直後に、藩庁の整備や新田開発といった内政事業に精力的に取り組んだことは、彼がこの時代の要請を的確に理解し、自らを単なる武人ではなく、有能な行政官としても幕府にアピールしようとした意図の表れである。この成羽での統治経験は、彼の能力を多角的に証明し、後の天草や丸亀でのより大規模な開発・統治事業の礎となった。
藩名 |
在任期間 |
石高 |
転封の理由・背景 |
主な藩政・事績 |
因幡若桜藩 |
慶長19年~元和3年 (1614-1617) |
3万石 |
父・家盛の跡を継ぎ家督相続。 |
大坂冬の陣・夏の陣に徳川方として参陣し、武功を挙げる 4 。 |
備中成羽藩 |
元和3年~寛永15年 (1617-1638) |
3万5千石 |
大坂の陣での戦功による加増転封 5 。 |
鶴首城を廃し成羽陣屋を建設。西阿知新田などの新田開発を推進 3 。 |
肥後富岡藩 |
寛永15年~寛永18年 (1638-1641) |
4万2千石 |
島原の乱後の天草復興任務。幕府からの信任による加増転封 4 。 |
富岡城の大規模な改修・要塞化。城下町の整備 22 。 |
讃岐丸亀藩 |
寛永18年~慶安元年 (1641-1648) |
5万3千石 |
天草復興の功績と西国監視の戦略的配置。生駒氏改易後の西讃岐統治 1 。 |
丸亀城の大改修。日本一の高さを誇る石垣の築造と城下町の整備 12 。 |
山崎家治のキャリアにおいて、彼の専門技術が国家レベルで認識される契機となったのが、徳川幕府による大坂城の再築工事への参加であった。この事業は、単なる城の建設ではなく、新しい時代の到来を天下に知らしめるための、極めて政治的な意味合いを持つ巨大プロジェクトであった。
江戸幕府が初期に行った「天下普請」は、江戸城、名古屋城、そして大坂城といった巨大城郭の築城や大規模な河川工事を、全国の諸大名、特に豊臣恩顧の外様大名に分担させることで、その財力を削ぎ、幕府への忠誠を試すという高度な政治戦略であった 25 。
中でも、元和6年(1620年)から3期にわたって行われた大坂城の再築は、その象徴的な事業であった。豊臣氏の栄華の記憶が残る大坂城を物理的に解体・埋め立て、その上に全く新しい、より壮大で堅固な徳川の城を建設する行為そのものが、豊臣の時代の終焉と徳川による恒久支配の始まりを宣言する、強烈な政治的パフォーマンスだったのである 27 。徳川の世になり、城の機能は「籠城するための軍事拠点」から、領民と他大名に支配者の権威を見せつける「統治の象徴」へと大きく変化していた 30 。大坂城再築は、この「権威の象徴」としての城郭の最たる例であった。
山崎家治は、この国家的なプロジェクトにおいて、その中核をなす石垣普請の一部を担当した 6 。現在も大坂城に残る壮大な石垣には、普請を担当した大名のものを示す刻印が数多く見られるが、その中には山崎家の家紋の刻印も確認されている 8 。これは、彼がこの歴史的事業に直接関与した動かぬ証拠である。彼の仕事は単なる石工の監督ではなく、徳川幕府の政治思想を「石垣」という形で具現化する、重要な役割を担っていた。彼の卓越した築城技術は、幕府のイデオロギーを物理的に構築するための、不可欠な資源だったのである。
この普請事業への参加は、家治と山崎家にとって大きな意味を持った。第一に、彼の技術力が幕府中枢に公認されたことである。そして第二に、この普請で出た廃石を再利用して造成された中之島に、山崎家の大坂屋敷を構えることができた点である 8 。これにより、山崎家は西日本の経済・情報の中心地である大坂に恒常的な拠点を確保した。元豊臣系でありながら、今や徳川に絶対の忠誠を誓う山崎家が、西国支配の拠点である大坂城の普請に参加し、市中に屋敷を持つことは、他の西国大名に対する牽制となり、幕府のために西国の動向を監視する役割を暗に期待される立場になったことを示唆している。
また、家治はこうした築城奉行だけでなく、寛永11年(1634年)には伊予松山藩主・蒲生忠知が跡継ぎなく死去し改易となった際、松山城の受け取りと在番(城の管理・警護役)を勤めている 8 。これもまた、幕府の重要任務を滞りなく遂行できる、信頼された大名であったことの証左である。
大坂城普請でその技術力と忠誠心を示した山崎家治に、彼のキャリアの中で最も困難かつ重要な任務が与えられる。寛永14年(1637年)に勃発し、幕府を震撼させた島原の乱。その鎮圧後、焦土と化した肥後国天草の復興という重責であった。
寛永15年(1638年)、乱が鎮圧されると、幕府は直ちに戦後処理に着手した。乱の総大将であった老中・松平信綱をはじめとする幕閣は、家治のこれまでの忠勤と、成羽藩などで見せた統治能力を高く評価していた 6 。その結果、家治は1万石の加増を受け、合計4万2千石で肥後国富岡(天草)藩主として転封されることとなった 1 。
当時の天草は、乱によって人口が激減し、田畑の2割から3割が耕作者のいない荒れ地と化すなど、筆舌に尽くしがたいほど荒廃していた 4 。このような困難な土地への異動は、一見すると左遷のようにも映るかもしれない。しかし、島原の乱は徳川幕府の支配体制を揺るがしかねない国家的な大事件であり、その戦後処理は幕政の最重要課題であった。このような重大任務を任されること自体が、幕府中枢からの絶大な信頼の証であり、加増を伴っていることからも、これが懲罰ではなく、彼の能力を最大限に活用しようとする幕府の意図による栄転であったことは明らかである。
家治の天草統治は、寛永18年(1641年)までのわずか3年間であった 4 。この短い期間で彼が最も注力したのは、乱の際に一揆軍の攻撃を受けた富岡城の大規模な改修と、城下町の再整備であった 22 。彼は得意の築城技術を駆使し、城の縄張りを見直し、城の防御力を高めるために百間土手を築いて入江を仕切り、淡水池(袋池)を造成するなどの大規模な土木工事を行った 23 。また、乱の悲惨な記憶を払拭するかのように、旧領主・寺沢氏時代の石垣の外側に新たな石垣を築くといったことも行われている 23 。
一方で、家治の転封後、天草は幕府直轄領(天領)となり、初代代官として鈴木重成が赴任した 35 。重成は、年貢の基礎となる石高が過大であることが乱の一因と考え、実態に合わせた石高半減を幕府に粘り強く訴え(後世、自刃をもってこれを実現させたと伝えられる)、移民の誘致、医療制度の整備、寺社の再興といった民政に重点を置いた復興策を断行し、今日に至るまで「名代官」として天草の人々に崇敬されている 36 。
この二人の統治方針の違いから、家治の統治を「城普請に偏重し、民政を顧みなかった中途半端なもの」と評価する見方もある 35 。しかし、これは幕府の計画の全体像を見誤った解釈である可能性が高い。島原の乱という未曾有の危機に対し、幕府、特に「知恵伊豆」と称された松平信綱が、周到な二段階の復興計画を立てていたと考える方が合理的である。
すなわち、 第一段階 は、反乱の再発を絶対に防ぐための軍事的インフラの再構築と物理的支配の確立。これには築城の名手であり、幕府への忠誠心も証明済みの家治が最適任者であった。彼の任務は、富岡城を西国監視の拠点として難攻不落の要塞に改修することに特化していた。そして、その任務が完了した時点で、彼は速やかに次の任地(丸亀)へと移された。
続く 第二段階 は、軍事的な安定を前提とした、人心の収攬と経済の再建というソフト面の復興である。これには、大名による統治よりも、幕府が直接管理する天領とし、民政に長けた専門官僚である鈴木重成を代官として送り込む方が効果的であった。家治と鈴木は、それぞれ異なる専門性を持つスペシャリストとして、幕府の壮大な復興プロジェクトをリレー形式で実行したと見るべきである。家治の天草統治は、計画された短期の特殊任務であり、それを完遂した功績によって、彼はさらなる栄達の道を歩むことになったのである。
天草での困難な任務を完遂した山崎家治は、その功績を認められ、彼のキャリアの頂点となる讃岐国丸亀へと移る。ここで彼は、その築城技術のすべてを注ぎ込み、後世「石の城」と称えられる不朽の傑作を築き上げることになる。
寛永18年(1641年)、家治は讃岐国西半分の領主として、石高を5万3千石に加増され、丸亀藩の初代藩主となった 1 。この転封は、お家騒動(生駒騒動)によって改易された生駒氏に代わり、西讃岐の統治を安定させるとともに、瀬戸内海の海上交通の要衝を押さえ、西国大名を監視するという幕府の重要な戦略的意図に基づいていた 11 。
家治のキャリアパス(若桜→成羽→大坂→天草→丸亀)を俯瞰すると、幕府が信頼できる専門家を育成し、その能力に応じて戦略的に配置転換していく、近世的な官僚システムの人事政策が見て取れる。若桜・成羽での実績作り、大坂城普請での中央での評価確立、天草での危機管理能力の証明を経て、最終的に西国監視という恒久的な戦略拠点の構築を任された丸亀への転封は、彼の生涯をかけた幕府への忠勤の集大成であった。
家治は、一国一城令によって一度は廃城となっていた丸亀城跡を新たな居城と定めた。そして、幕府から銀300貫の資金援助と、当年の参勤交代を免除されるという破格の待遇を得て、寛永20年(1643年)から城の大規模な改修に着手した 11 。
彼の指揮のもとで築かれた丸亀城の石垣は、まさに圧巻の一言に尽きる。内堀から本丸まで4層にわたって積み上げられた石垣の総高は約60メートルに及び、日本一の高さを誇る 24 。その最大の特徴は、「扇の勾配(おうぎのこうばい)」と呼ばれる優美な曲線である。裾野は緩やかな勾配で始まり、上部に行くにしたがって垂直に近くなるこの形状は、敵の侵入を困難にする防御機能と、見る者を圧倒する美しさを兼ね備えている 24 。石垣の隅角部には、長方形の石の長辺と短辺を交互に積み上げて強度を高める「算木積(さんぎづみ)」という、当時の最高水準の技術が用いられた 24 。
家治は、大坂城や富岡城の普請で培った経験を活かし、石材の加工度合いによって「野面積(のづらづみ)」「打込接(うちこみはぎ)」「切込接(きりこみはぎ)」といった多様な技法を適材適所に使い分け、堅固かつ壮麗な「石の城」を現出させた 24 。
この丸亀城は、山崎家治の技術的遺産の集大成であると同時に、徳川の「平和(パクス・トクガワーナ)」を象徴するモニュメントであった。大規模な内乱が終息したこの時代、城郭は軍事拠点として以上に、大名の統治権と、その権威の源泉である幕府の力を可視化する政治的意味合いを強く持っていた 30 。丸亀城の圧倒的な高さは「権力」を、そして精緻で優美な曲線は「洗練された統治」を象徴し、武力だけに頼らない、法と秩序による安定した支配という徳川の統治理念を体現していた。
家治は城の改修と並行して城下町の整備にも着手し、現在の丸亀市の都市としての基礎を築いた 4 。しかし、慶安元年(1648年)、この壮大な城の完成を見届けることなく、55年の生涯を閉じた 8 。彼の夢であった城の完成は、子の俊家、そして次代の領主である京極氏に引き継がれ、万治3年(1660年)にようやくその全容を現すことになる 8 。
生涯をかけて幕府に忠勤を尽くし、山崎家を5万3千石の大名にまで押し上げた山崎家治。彼の死後、その家名は皮肉な運命を辿ることになる。
慶安元年(1648年)3月17日、家治は丸亀で死去し、市内の寿覚院に葬られた 4 。家督は長男の山崎俊家が継承し、父の遺志を継いで丸亀城の普請を続けた 13 。しかし、俊家は父の死からわずか3年後の慶安4年(1651年)に35歳で早世。その跡を継いだ俊家の子・治頼も、万治元年(1658年)にわずか8歳で夭逝してしまった 1 。
これにより、丸亀藩主としての山崎宗家は、世継ぎがいないことを理由に「無嗣断絶」とされ、幕府によって改易(領地没収)された 3 。家治が心血を注いで築き上げた大名家としての地位は、彼の死後わずか10年にして、あまりにもあっけなく失われたのである。
この出来事は、江戸幕府の安定期における大名家統制策の典型的な事例と言える。幕府は「末期養子の禁」などの厳格なルールを適用し、跡継ぎのいない大名家を容赦なく改易することで、その権威と法の支配を徹底した。
しかし、幕府は山崎家の完全な断絶を望んだわけではなかった。家治には、長男・俊家とは別に、継室・智光院との間に生まれた次男・豊治がいた 8 。豊治は兄から領地の一部を分知されていたが、宗家の改易後、幕府の特別な計らいによって名跡を継ぐことを許された 13 。
豊治は、かつて父・家治が治めた備中国成羽に5千石の領地を与えられ、大名ではなく将軍直属の家臣である「交代寄合」という格式の高い旗本として、山崎家の家名を存続させることになった 1 。これは、家治が生涯をかけて幕府に尽くした功績に対する温情措置であった。5万石の大名の地位は没収して幕府の権威を示しつつ、5千石の旗本として家名を残させることで功臣への配慮も示す。この「アメとムチ」の巧みな使い分けは、大名たちを統制する幕府の統治術の一環であった。この成羽山崎氏は明治維新まで続き、維新後には石高の再評価(高直し)によって大名に復帰し、男爵家となっている 20 。
この歴史の皮肉な展開は、一つの事実を浮き彫りにする。家治が血筋によって残そうとした大名家としての遺産は、子の早逝という偶然によって儚く消えた。一方で、彼が公儀(幕府)のために、その技術の粋を集めて築いた丸亀城の石垣という物理的な遺産は、その後も領主を変えながら生き続け、400年近くを経た現代においても、その威容を誇り続けている 44 。家治の真の遺産は、大名家の当主としてではなく、徳川の世の基盤を築いた偉大な「建設者」として、石垣の中にこそ永遠に刻まれているのである。
山崎家治の生涯は、戦国の武勇がもてはやされた時代から、統治能力と専門技術が国家を支える時代へと移行する、日本史の大きな転換点を鮮やかに映し出している。彼は単なる一地方大名ではなく、徳川幕府という巨大な中央政権の安定化と権威確立に、その類稀なる技術力をもって貢献した、近世日本の「テクノクラート大名」の先駆けであった。
彼のキャリアは、大坂の陣における「武」の功績に始まり、大坂城普請、天草復興、そして讃岐丸亀城築城という「治」の功績で頂点に達した。この軌跡は、徳川の平和(パクス・トクガワーナ)が、単なる軍事力による抑圧ではなく、インフラ整備、危機管理、そして権威の象徴化といった、高度な統治技術によって支えられていたことを示している。家治は、その最も困難で重要な部分を担う、幕府にとって不可欠な専門家であった。
彼が築いた石垣は、単なる防御施設や建築物ではない。大坂城では徳川の覇権を、富岡城では国家の危機管理能力を、そして丸亀城では恒久平和の威光を、それぞれ物理的に具現化した「石の史書」である。彼の頻繁な転封は、左遷や気まぐれな人事ではなく、幕府が彼の能力を的確に評価し、国家の重要課題を解決するために戦略的に配置した、近世的官僚システムの合理的な運用の現れであった。
最終的に、大名としての山崎宗家は三代で途絶えた。しかし、彼が後世に残したものは、血筋による家の存続という私的な領域を遥かに超えている。己の技術と忠誠のすべてを公儀に捧げ、徳川260年の平和な世の礎を文字通り築き上げた人物として、山崎家治は、日本史における隠れた重要人物として、今こそ再評価されるべきである。