山崎片家は六角、織田、明智、豊臣と主君を変え大名に。本能寺の変を乗り越え、子孫は無嗣改易から奇跡的に大名・華族へ。乱世を生き抜いた慧眼の武将。
戦国時代、数多の武将が星のごとく現れては消えていった。その中で、山崎片家(やまざき かたいえ)という武将の名は、織田信長や豊臣秀吉といった天下人の影に隠れ、決して広く知られているとは言えない。しかし、彼の生涯は、激動の時代を生き抜くための卓越した政治的嗅覚、時勢を的確に読む洞察力、そして文化的な素養をも兼ね備えた、稀有な「乱世の経営者」の姿を我々に示してくれる。
近江の小領主から身を起こし、六角、織田、明智、そして豊臣と、目まぐるしく変わる主君に仕えながら、その都度、的確な判断で危機を乗り越え、ついには大名の地位を掴み取った。彼の生涯は、戦国時代における国衆(在地領主)の生存戦略の典型例でありながら、その死後、子孫が辿る稀有な運命によって、一層特異な光を放っている。一度は無嗣改易の憂き目に遭いながらも、分家が別格の旗本として家名を繋ぎ、幕末維新の動乱期に再び大名へと返り咲き、ついには華族に列せられるという、まさに奇跡的な流転を遂げたのである。
本報告書は、山崎片家という一人の武将の生涯の軌跡を、出自から晩年に至るまで徹底的に追跡する。そして、彼の重大な決断の背景にあった政治情勢や人間関係を深く分析し、彼が築き上げた遺産が、いかにして子孫の三百年にわたる存続と繁栄の礎となったのか、その全貌を解き明かすことを目的とする。
まずは、彼の波乱に満ちた生涯を概観するため、以下の年表を提示する。
表1:山崎片家の生涯年表
西暦(和暦) |
年齢 |
主な出来事 |
所属 |
地位・石高 |
1547年(天文16年) |
1歳 |
近江国犬上郡山崎にて誕生。 |
- |
- |
1563年(永禄6年) |
17歳 |
観音寺騒動。主君・六角義治と不和になり、後藤賢豊の誅殺を機に離反。 |
六角氏 |
近江山崎城主 |
1568年(永禄11年) |
22歳 |
織田信長の上洛に際し、六角氏を見限り信長に帰順。「片家」と改名。 |
織田氏 |
近江山崎城主 |
1570年(元亀元年) |
24歳 |
姉川の戦いに近江衆として参陣。 |
織田氏 |
近江山崎城主 |
1581年(天正9年) |
35歳 |
第二次天正伊賀の乱に信楽口から侵攻。 |
織田氏 |
近江山崎城主 |
1582年(天正10年) |
36歳 |
本能寺の変。安土城二の丸守備。一時明智光秀に与し、後に羽柴秀吉に帰順。摂津三田2万3千石に移封。 |
明智光秀 → 羽柴秀吉 |
摂津三田城主 (23,000石) |
1585年(天正13年) |
39歳 |
紀州征伐に従軍。 |
豊臣氏 |
摂津三田城主 (23,000石) |
1590年(天正18年) |
44歳 |
小田原征伐に従軍。 |
豊臣氏 |
摂津三田城主 (23,000石) |
1591年(天正19年) |
45歳 |
3月28日、死去。 |
豊臣氏 |
摂津三田城主 (23,000石) |
山崎氏は、その出自を宇多源氏佐々木氏の支流に持つと伝わる、近江国の名門武家であった 1 。彼らの本拠地は、近江国犬上郡山崎(現在の滋賀県彦根市山崎町周辺)にあり、この地の名を姓としていた。戦国時代、彼らは南近江に勢力を誇った守護大名・六角氏に仕える国衆として、その歴史を歩み始める。
山崎片家は、当初、六角氏の当主であった六角義賢に仕えていた。その忠勤の証として、義賢から偏諱(主君が家臣に名前の一字を与えること)を賜り、「山崎賢家(やまざき かたいえ)」と名乗っていたことが記録されている 3 。これは、彼が六角家臣団の中で一定の評価と地位を得ていたことを示す重要な事実である。しかし、義賢が隠居し、その嫡男である六角義治が家督を継ぐと、片家と新当主との関係は次第に険悪なものとなっていく 3 。この不和が、やがて片家の、そして山崎家の運命を大きく転換させる伏線となるのであった。
片家と主君・六角義治との間にあった亀裂を決定的なものにしたのが、永禄6年(1563年)に勃発した「観音寺騒動」である。この事件は、若き当主・義治が、父の代からの宿老であった後藤賢豊(ごとう かたとよ)を、十分な根拠も示さず突如として居城の観音寺城内で誅殺したことに端を発する、六角家のお家騒動であった 4 。
この暴挙に対し、山崎片家は誰よりも激しく反発した。彼と後藤賢豊は、単なる主君を同じくする同僚という間柄ではなかった。片家の妹が後藤賢豊の嫡男・高治に嫁いでおり、両家は固い縁戚関係で結ばれていたのである 4 。義理の縁者を無慈悲に殺害された片家の怒りは、個人的な義憤にとどまらなかった。主君・義治の独断専行と家臣を軽んじる姿勢は、六角家の将来そのものに暗い影を落とすものであった。
この誅殺は、片家だけでなく、六角家中の多くの家臣に衝撃と不信感を抱かせた。彼らは義治の器量に絶望し、次々と観音寺城を退去、それぞれの領地に戻って城に立てこもり、反旗を翻した。山崎片家もまた、この動きに同調し、居城である近江山崎城に籠城して、義治への反抗の意思を明確にした 4 。
この一連の行動は、単なる感情的な反発や政治的な日和見主義とは一線を画す。それは、姻戚という近しい関係にあった重臣が理不尽に殺されたことに対する「個人的な義憤」と、先行きが見えず、家臣の命さえ軽んじる危険な主君の下では自らの家門を守り通せないという「一族の存続をかけた冷徹なリアリズム」が複合した、必然的な決断であった。この時点で、片家はすでに六角氏という主家を見限り、新たな生き残りの道を模索し始めていたのである。この決断力と現実主義こそ、彼の生涯を貫く行動原理の原点であったと言える。
観音寺騒動によって六角氏の家臣団が分裂し、その支配体制が大きく揺らいでから5年後の永禄11年(1568年)、日本の政治情勢は大きな転換点を迎える。尾張の織田信長が、追放された室町幕府15代将軍・足利義昭を奉じて、上洛の軍勢を起したのである。
信長の上洛路を阻むように位置していたのが、南近江を支配する六角氏であった。六角義治は信長の上洛要請を拒絶し、徹底抗戦の構えを見せた。この時、山崎片家は千載一遇の好機と捉えた。旧主・六角氏の没落を確信した彼は、織田軍が近江に侵攻してくると、いち早く六角氏を完全に見限り、信長に降伏した 3 。
彼の帰順は、単に軍門に降るというだけではなかった。彼は織田軍の先鋒に加わり、つい先ごろまで主君であった六角氏の諸城を攻略するための道案内役を務めるなど、積極的に協力したのである 4 。この功績により、信長の信頼を得ることに成功する。
そして、この帰順の意思を内外に明確に示すため、彼は一つの象徴的な行動に出る。かつて六角義賢から賜った栄誉ある一字である「賢」の字をその名から捨て去り、名を「片家」と改めたのである 3 。これは、過去の主従関係との完全な決別を宣言し、新たな主君・信長への絶対的な忠誠を誓う、極めて計算された政治的パフォーマンスであった。こうして山崎片家は、近江の一国衆から、天下統一へと突き進む織田信長の家臣へと、華麗な転身を遂げたのであった。
織田信長に仕えることになった山崎片家は、同じく六角氏から離反して信長に降った他の近江の武将たちと共に「近江衆」として再編成された 6 。彼らは、信長の天下布武事業を支える重要な戦力として、各地の戦場を転戦することになる。
片家の武将としての能力は、織田軍団の中でも遺憾なく発揮された。その戦歴は、信長の主要な合戦にその名を連ねている。
これらの戦歴は、片家が単に信長に服従しただけの武将ではなく、その軍事能力を高く評価され、織田軍団の中で確固たる地位を築いていたことを明確に示している。彼は、信長の信頼に応える武功を立て続けることで、自らの価値を証明していったのである。
山崎片家は、武勇一辺倒の武将ではなかった。彼は、当時の最先端の文化であった茶の湯にも深い造詣を持ち、それを自らの政治的地位の向上に巧みに利用する、洗練された一面を併せ持っていた。
その象徴的な出来事が、天正10年(1582年)4月に起こる。甲斐の武田氏を滅ぼし、天下統一を目前にした信長が、意気揚々と安土へ凱旋する途上、片家は自身の本拠地である近江山崎に特設の茶屋を設け、信長を丁重にもてなしたのである 6 。これは、主君の偉業を讃えるとともに、自らの忠誠心と文化的なセンスをアピールする絶好の機会であった。
また、彼の茶人としての評価は、当代一流の茶人であった津田宗及が主催する茶会に、度々客として招かれていたことからも窺い知ることができる 6 。これは、片家が単なる茶の湯好きではなく、高い見識を持つ文化人として、当時のトップクラスのサークルに認められていたことを意味する。
片家のこうした行動は、単なる個人的な趣味の範疇に留まるものではない。それは、信長が推し進めた「御茶湯御政道(おちゃのゆごせいどう)」と呼ばれる、茶の湯を政治統治の道具として利用する革新的な手法への、巧みな適応であった。信長は、領地や金銀に代わる恩賞として名物茶器を下賜し、茶会の開催を許可制とすることで、家臣団を巧みに統制した 7 。この信長独自の価値観の下では、茶の湯に通じていることは、武功と同じく、あるいはそれ以上に重要な家臣の資質であった 10 。
片家が信長を茶でもてなした行為は、この信長の価値観を深く理解し、それに積極的に応えようとする明確な意思表示であった。彼はこの行動を通じて、自らが単なる「武辺者」ではなく、信長の先進的な政治手法を理解できる「文化人武将」であることを証明し、織田政権内における自らの地位をより一層強固なものにしたのである。これは、時代の流れを読み、その中で自らの価値を最大化しようとする、片家の高度な政治的生存術の表れであった。
天正10年(1582年)6月2日未明、日本史を揺るがす大事件が勃発する。織田家重臣・明智光秀が京の本能寺に滞在中の主君・織田信長を急襲し、自刃に追い込んだ。「本能寺の変」である。
この歴史的瞬間に、山崎片家は織田政権の中枢、安土城の守備という極めて重要な任務に就いていた。彼の担当は二の丸であり、安土城本丸を守る蒲生賢秀(蒲生氏郷の父)と共に、信長不在の居城を預かる立場にあった 2 。一方、片家の嫡男である山崎家盛は、一族の本拠地である近江山崎城の守りを固めていた 2 。信長・信忠父子の死という、権力の空白が突如として生まれたこの状況で、安土城の守将である片家は、即座に重大な決断を迫られることになった。
信長横死の報は、瞬く間に近江にもたらされた。安土城にいた片家は、驚くべき速さで次の一手を打つ。彼は、明智光秀に与することを即座に決断したのである。その決意の証として、彼は安土城下にあった自らの邸宅に火を放ち、明智方につくことを鮮明にした上で、居城の山崎城へと退去した 11 。
彼の行動は迅速かつ徹底していた。光秀の指示を受けると、同じく光秀に与した斎藤利三らと共に北近江へ軍を進め、信長の重臣・丹羽長秀が城主であったが不在となっていた佐和山城を占拠する役割を担った 11 。
この片家の行動は、一見すると主君を裏切った光秀に与する、単純な裏切り行為のように見える。しかし、当時の近江国人衆が置かれた地政学的な状況を鑑みれば、それは最も合理的かつ生存可能性の高いと判断された「計算された政治的賭け」であったと分析できる。
第一に、光秀の拠点である坂本城は近江にあり、変の直後、彼は畿内と近江一帯を瞬く間にその勢力下に置いた。地理的に、片家をはじめとする近江の武将たちにとって、光秀は無視できない、目の前の新権力者であった 11 。事実、片家だけでなく、同じく近江に所領を持つ京極高次や、隣国若狭の武田元明といった武将たちも、次々と光秀に味方している 12 。これは、片家の行動が孤立したものではなく、地域の有力者たちの間で共有された状況判断であったことを示唆している。
第二に、情報が錯綜する中での合理的な判断であった。当時、中国地方で毛利氏と対峙していた羽柴秀吉や、北陸で上杉氏と対峙していた柴田勝家といった織田家の宿老たちが、いつ、どのような形で畿内に戻れるのかは全くの未知数であった。絶対的な権力者であった信長と、その後継者である信忠が同時に消滅した混乱の中で、中央(畿内)を完全に制圧した光秀が次の天下人になるというシナリオは、その時点では十分に現実的であった。片家の決断は、入手可能な限られた情報に基づいた、一族の存続を第一に考えた上での、最も現実的な選択だったのである。
明智光秀の天下は、わずか十数日で終わりを告げる。備中高松城を水攻めにしていた羽柴秀吉が、信長横死の報を知るや、すぐさま毛利氏と和睦。驚異的な速度で軍を返し、京へと進軍したのである。世に言う「中国大返し」である 11 。
秀吉の神速の進軍により、光秀は十分な態勢を整えることができなかった 15 。そして天正10年6月13日、両軍は京の南西、山崎の地で激突する。兵力で劣る光秀軍は秀吉軍に敗れ、光秀自身も敗走中に落武者狩りに遭い、その生涯を閉じた 11 。
この情勢の急変に対し、山崎片家は再び驚くべき速さで動いた。光秀の敗北が確実となると、彼は間髪をいれず、新たな勝利者である秀吉に帰順したのである 2 。
秀吉は、この片家の行動を咎めなかった。それどころか、一度は敵対したにもかかわらず、彼の罪を許し、近江犬上郡山崎の旧領を安堵するという、極めて寛大な処置をとった 2 。この背景には、秀吉の徹底した現実主義があった。秀吉の当面の最優先課題は、光秀の残党を掃討し、清洲会議に代表される織田家の後継者争いを有利に進めることであった。そのためには、旧織田家臣を敵に回して粛清するのではなく、可能な限り味方として取り込み、自らの勢力を早急に固める必要があった。
片家は、織田政権下で武功を重ねた有能な武将であり、近江における影響力も大きい。彼を罰するデメリットよりも、味方として活用するメリットの方が遥かに大きいと秀吉は判断したのである。また、片家が見せた「素早い鞍替え」は、裏を返せば「時勢を読む能力」と「決断力」の証明でもあった。秀吉は、このような現実的で有能な人材をこそ評価し、自らの政権で活用しようと考えた。この寛大な処置は、他の旧臣たちに対する一つのメッセージとなり、秀吉への帰順を促す効果さえあっただろう。こうして片家は、本能寺の変という最大の危機を、二度の迅速な転身によって乗り越え、新たな天下人・豊臣秀吉の家臣として生き残ることに成功したのである。
本能寺の変後の混乱を巧みに乗り切った山崎片家は、豊臣秀吉の下で、その能力を高く評価されることとなる。その証として、天正10年(1582年)の冬、彼は大きな栄転を遂げた。長年本拠地としてきた近江山崎城から、摂津国三田城(現在の兵庫県三田市)へと移封され、二万三千石を領する大名に取り立てられたのである 16 。
この移封は、単なる加増以上の意味を持っていた。摂津三田は、秀吉の本拠地である大坂城や、朝廷のある京にも近い、畿内の要衝である。このような戦略的に重要な地を任されたという事実は、秀吉が片家の能力と忠誠心を深く信頼していたことを物語っている。本能寺の変の際に一時的に明智方についたという経歴がありながら、これほどの大抜擢を受けたことは、片家の政治的手腕と、秀吉の現実的な人材登用がいかに徹底していたかを示す好例と言えるだろう。
新たな領主となった山崎片家は、武将としてだけでなく、領国経営者としての手腕も発揮する。三田の地において、片家とその跡を継いだ嫡男・家盛の時代に、三田城及び城下町が本格的に整備されたと伝えられている 19 。
近年の三田城跡の発掘調査では、山崎家の家紋である「檜扇に四つ目結(ひおうぎによつめゆい)」が刻まれた瓦が出土しており 19 、彼らがこの地で確かに統治を行った物理的な証拠となっている。これは、彼らが単に軍事的な拠点として城を構えただけでなく、城下町の整備を通じて経済を活性化させ、安定した領国経営を目指していたことを示唆している。戦国時代の武力闘争を生き抜いた片家は、豊臣政権下の大名として、新たな時代に求められる行政官としての役割にも見事に応えていったのである 20 。
豊臣政権下で大名となった片家は、秀吉が推し進める天下統一事業においても、中心的な役割を担い続けた。彼は秀吉の主要な軍事行動に一貫して従軍し、その忠誠を行動で示した。
これらの戦役への参加は、彼が豊臣軍団の有力な一員として、天下統一の最終段階まで貢献し続けたことを示している。
北条氏を滅ぼした小田原征伐によって、秀吉の天下統一事業は完成する。その歴史的な瞬間を見届けた翌年の天正19年(1591年)3月28日、山崎片家は三田の地でその生涯を閉じた 5 。享年45。近江の一国衆から身を起こし、幾多の動乱を乗り越えて大名へと駆け上がった彼の人生は、奇しくも豊臣政権が最も安定した時期に、その幕を下ろすこととなった。
父・片家の死後、その跡を継いだのは嫡男の山崎家盛(いえもり)であった。彼は父の遺領である摂津三田二万三千石の城主となり、山崎家の新たな当主となった 17 。家盛の時代、山崎家は父・片家が築いた基盤の上に、さらなる安定と発展を遂げることになる。
その鍵となったのが、巧みな婚姻政策であった。家盛は、織田家重臣・池田恒興の娘であり、後に姫路城主として絶大な権勢を誇る池田輝政の妹にあたる天球院を正室に迎えた 24 。池田輝政は徳川家康の娘婿でもあったため、この婚姻は山崎家を、豊臣政権内で力を持つ池田家だけでなく、次代の天下を窺う徳川家とも間接的に結びつける、極めて重要な意味を持つものであった。
この深謀遠慮ともいえる布石は、慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いで見事にその真価を発揮する。天下分け目のこの大戦において、家盛は驚くべき二股外交を展開した。
一つには、表向き西軍に与し、大坂で石田三成と面会して味方することを約束。実際に西軍の一員として田辺城攻めなどに参加した 2。
しかしその一方で、石田三成の挙兵という重大な情報を、いち早く下野国小山にいた徳川家康のもとへ知らせるという、東軍への内通工作も行っていたのである 25。
この家盛の行動は、父・片家が本能寺の変という激動の中で見せた生存戦略を、より高度かつ計画的に発展させたものであった。片家の転身が、状況が急変した後に素早く勝ち馬に乗るという、ある種受動的な対応であったのに対し、家盛の戦略は、戦が始まる前から婚姻政策によって徳川方とのパイプを築くという能動的なリスクヘッジと、情報戦を駆使して両陣営に恩を売り、どちらが勝利しても家が存続できる道を探るという、より洗練されたものであった。これは、片家の生き様が、息子にとって生きた手本、すなわち「山崎家の存続術」というべき無形の家訓として機能していたことを示唆している。片家が遺した最大の財産は、石高や家臣団だけでなく、この乱世を乗り切るための「航海術」そのものであったのかもしれない。
結果として、家盛の戦略は完璧に成功した。西軍に属しながらも、戦後、徳川家康からその内通の功を認められ、改易されることなく所領を安堵されたのである。
関ヶ原の戦いを巧みに乗り切った山崎家は、江戸時代に入るとさらなる飛躍を遂げる。家盛の子・家治の代には、関ヶ原や大坂の陣での功績が認められ、備中国成羽3万5千石、さらには讃岐国丸亀5万3千石へと加増転封を重ね、大名として最盛期を迎えた 17 。
しかし、栄光は長くは続かなかった。家治から3代後の当主・山崎治頼の代で世継ぎがなく、無嗣改易となってしまう。これにより、大名としての山崎本家は断絶の憂き目に遭った 1 。戦国時代から続いた多くの大名家がそうであったように、山崎家の歴史もここで終わるかに見えた。
だが、山崎家はここで途絶えなかった。本家が改易される以前に、家治の次男(一説には叔父)であった山崎豊治が、先見の明からか5千石の領地を分知されており、この分家が治頼の名跡を継ぐことが幕府から特別に許されたのである 1 。
豊治の家系は、備中国成羽(現在の岡山県高梁市)を所領とする5千石の旗本となった。しかし、彼らは単なる旗本ではなかった。大名ではないものの、大名と同様に参勤交代を義務付けられた「交代寄合」という、別格の家格を与えられたのである 1 。これは、山崎家が徳川幕府から、片家以来の功績を持つ由緒ある家柄として、特別な敬意を払われていたことの証左であった。
交代寄合として高い格式を保ちながら江戸時代二百数十年間を生き抜いた山崎家は、幕末維新という再びの動乱期に、信じられないような奇跡を成し遂げる。
明治元年(1868年)、新政府によって全国的に行われた石高の再評価(高直し)において、山崎家が江戸時代を通じて行ってきた新田開発などの領国経営の実績が高く評価された。その結果、公式な石高が1万2千7百石余と認定され、1万石以上の大名(諸侯)の条件を満たすことになったのである。これにより、旗本山崎家は「成羽藩」を立藩し、奇跡的な大名への返り咲きを果たした 27 。
この「成羽藩主」としての期間は、明治2年(1869年)の版籍奉還、明治4年(1871年)の廃藩置県によって短期間で終わる。しかし、山崎家の栄光はまだ続いた。明治17年(1884年)、華族令が施行されると、当主の山崎治祇は男爵位を授けられ、山崎家は華族の一員となったのである 1 。
この一族の驚くべき変遷を以下に示す。
表2:山崎氏の変遷(片家以降)
代(片家より) |
当主 |
時代 |
地位 |
所領 |
石高 |
初代 |
山崎片家 |
安土桃山時代 |
豊臣大名 |
摂津三田 |
23,000石 |
2代 |
山崎家盛 |
江戸初期 |
徳川大名 |
因幡若桜 |
30,000石 |
3代 |
山崎家治 |
江戸前期 |
徳川大名 |
讃岐丸亀 |
53,000石 |
5代 |
山崎治頼 |
江戸前期 |
讃岐丸亀藩主 |
讃岐丸亀 |
(無嗣改易) |
分家初代 |
山崎豊治 |
江戸中期 |
交代寄合旗本 |
備中成羽 |
5,000石 |
幕末/明治 |
山崎治正 |
明治維新 |
成羽藩主→華族 |
備中成羽 |
12,746石→男爵 |
戦国時代に勃興した数多の大名家が江戸時代を通じて消滅していく中で、山崎家は本家の断絶という最大の危機を乗り越え、交代寄合として存続し、ついには幕末維新の動乱期に大名へと復活を遂げ、華族にまで至った。この事実は、山崎片家が築き上げた「家の格」と、その子孫たちが受け継いできた「政治的資産」がいかに強固なものであったかを雄弁に物語っている。片家の真の功績は、一代の栄達に留まらず、300年にわたって変転する社会に適応し、血脈を未来へと繋いだ「永続的な家門の礎」を築いた点にある。明治の男爵・山崎家は、戦国武将・山崎片家の生涯にわたる苦闘と決断の、究極的な到達点であったと言えよう。
山崎片家の生涯を総括する時、我々は彼が単なる武勇に優れた武将ではなく、時代の変化を鋭敏に読み、仕えるべき主君を冷静に評価し、時には非情とも思える決断を下すことで、自らと一族の未来を切り拓いた、卓越した政治家であり経営者であったとの結論に至る。
彼の生き様は、下剋上が常であった戦国時代から、中央集権的な豊臣政権、そして安定した徳川幕府へと移行する巨大な時代の転換点を、一人の国衆がいかにして乗り越えていったかを示す、極めて貴重なケーススタディである。観音寺騒動での離反、信長への帰順、本能寺の変における二度の転身、そして秀吉の下での飛躍。その一つ一つが、家門存続という至上命題を達成するための、計算され尽くした選択であった。
そして、彼が遺した最大の功績は、摂津三田二万三千石の大名になったという一代の栄華以上に、その後の幾多の危機を子孫が乗り越え、ついには明治の世まで家名を繋ぐことを可能にした、強靭な「家の礎」を築き上げたことにある。嫡男・家盛が見せた関ヶ原での絶妙な立ち回りは、父から受け継いだ生存戦略の発展形であり、その後の山崎家が辿った稀有な歴史は、片家が築いた基盤の強固さを証明している。
山崎片家の物語は、我々に問いかける。戦乱の世における真の「勝利」とは何か。そして、目先の成功よりも価値ある「存続」という偉業は、いかにして成し遂げられるのか。彼の生涯は、その問いに対する一つの鮮やかな答えを、三百年の時を超えて示しているのである。