山崎長徳は朝倉・明智・柴田と主家滅亡を三度経験。賤ヶ岳の戦いを生き延び、前田家に仕え関ヶ原で大功。加賀藩重臣として家名を確立した。
戦国時代は、下剋上と絶え間ない権力闘争が渦巻く激動の時代であった。数多の武将が歴史の舞台に登場しては消えていく中で、その名を後世に確固として刻み込める者は一握りに過ぎない。山崎長徳(やまざき ながのり)は、織田信長や豊臣秀吉のような天下人でも、武田信玄や上杉謙信のような戦国大名でもない。しかし、彼の生涯は、この時代の厳しさと、それを生き抜くためのしたたかな生存戦略、そして武士としての矜持を見事に体現している。
長徳の武将としての経歴は、逆境の連続であった。最初に仕えた主君・朝倉義景は織田信長に滅ぼされ、次に仕えた明智光秀は本能寺の変の後、わずか11日で羽柴秀吉に討たれる。さらに身を寄せた北陸の雄・柴田勝家もまた、賤ヶ岳の戦いで秀吉に敗れ自害に至る 1 。仕える主家が三度にわたって滅亡するという、常人であれば再起不能とも思える苦難を経験しながらも、長徳はその都度生き延び、次なる道を切り拓いていった 3 。最終的に彼は、加賀百万石を誇る前田家に安住の地を見出し、関ヶ原の戦いにおける大功によって一万石を超える大身へと駆け上がり、その家名を加賀藩の重臣として明治維新に至るまで存続させる礎を築いたのである 1 。
本報告書は、この山崎長徳という一人の武将の生涯を、現存する史料に基づき徹底的に調査・分析するものである。彼の出自から、滅びゆく主君たちのもとでの戦い、そして新興勢力である前田家での立身出世、さらには晩年の逸話や子孫の繁栄に至るまで、その全貌を多角的に解き明かす。長徳の軌跡を追うことは、戦国から近世へと移行する時代のダイナミズムの中で、一人の武士がいかにして生き、家名を後世に残したのかという、歴史の深層に迫る試みとなるであろう。
山崎長徳の人物像を理解する上で、彼が属した越前山崎氏の出自を看過することはできない。同氏は、単なる越前の土着豪族ではなく、由緒ある家柄であったことが記録されている。『山崎家譜』によれば、その祖は村上源氏の名門・赤松氏の支流に遡る 7 。南北朝時代の武将として名高い赤松則村(円心)の子、氏範の孫にあたる人物が山城国山崎邑に居住し、その地名をもって山崎姓を名乗ったのが始まりとされる 4 。
その後、七世の孫である山崎長時が越前国に下り、守護代から戦国大名へと成長した朝倉氏の初代当主・朝倉孝景(英林)に仕えたことで、越前における山崎氏の歴史が始まった 7 。この赤松氏の末裔という出自は、長徳に武士としての高い矜持と自負を与えた可能性があり、彼の後の人生における粘り強い処世術や、逆境にあっても決して折れない精神性の根源をなしていたと推察される。
山崎長徳は天文21年(1552年)に生まれた 1 。彼の直接の血縁関係については、いくつかの史料で朝倉家の宿老であった山崎吉家(よしいえ)との繋がりが指摘されている。長徳の父は、この吉家の弟にあたる山崎吉延(よしのぶ)であったといわれる 2 。ただし、一部の史料ではこの関係を断定せず、「縁戚にあたるともいわれ」といった表現に留めており、確証を得るには至っていない点も留意が必要である 2 。
父とされる吉延の兄、すなわち長徳の伯父にあたる山崎吉家は、主君・朝倉義景のもとで重きをなした人物であった。彼は軍事・外交の両面で活躍し、朝倉家の屋台骨を支える宿老の一人として知られる 4 。特に、天正元年(1570年)の姉川の戦いに先立ち、浅井長政の援軍として小谷城に入った際には「山崎丸」と呼ばれる砦を築いており、その確かな軍事的手腕が窺える 11 。
長徳の青年期は、この伯父・吉家や父・吉延が重臣として仕える朝倉家の武将として始まった。しかし、彼の平穏な日々は長くは続かなかった。
天正元年(1573年)、織田信長による越前侵攻が開始される。朝倉軍は刀根坂の戦いで織田軍に大敗を喫し、義景は本拠地である一乗谷を放棄して逃亡、最終的に自刃に追い込まれた。この一連の戦いにおいて、長徳の父・山崎吉延は、兄・吉家と共に殿(しんがり)という最も危険な任務を務め、織田軍の猛追の中で討死したと記録されている 5 。
時に長徳、22歳。彼は主家の滅亡と肉親の戦死という、武士にとって最も過酷な経験を同時に味わうことになった 1 。多くの朝倉旧臣たちと同様、彼は主を失い、浪々の身となった。父や伯父が主家と運命を共にする中で、彼は生き延びる道を選んだ。これは単なる臆病さではなく、赤松氏の血を引く山崎家の家名を、自らの手で再興するという強い意志の表れであったとも解釈できる。滅びの美学に殉じるのではなく、現実的な生存戦略を優先するリアリズムこそが、彼の波乱に満ちた生涯を貫く行動原理の根幹を形成したのである。
この浪人期間を経て、長徳が次に仕官の道を見出したのは、織田家中で飛ぶ鳥を落とす勢いであった明智光秀のもとであった。長徳が数多いる織田家臣の中から光秀を頼った背景には、単なる偶然以上のものが窺える。光秀自身もかつて美濃を追われた後、越前に10年ほど滞在し、朝倉義景に仕官、あるいは客将として身を寄せていた時期がある 12 。この越前滞在中に、光秀が吉家のような朝倉家重臣や、若き日の長徳を含む他の家臣たちと何らかの人間関係を構築していた可能性は極めて高い 4 。朝倉家滅亡という共通の経験を持つ旧臣として、この「越前時代の縁」という見えないネットワークが、長徳の再仕官を導いた重要な要因となったことは十分に考えられる。
主家を失った山崎長徳は、織田信長の家臣団の中で急速に台頭していた明智光秀に仕官する 1 。この時、知行として700石を与えられたとされ、これは浪人からの再仕官としては決して低い待遇ではない 5 。光秀が長徳の出自や、朝倉家臣としての経験、そして武士としての能力を一定以上評価していたことの証左と言えよう。
当時の明智家臣団は、斎藤利三や明智秀満といった譜代の重臣を中核としつつも、光秀の勢力拡大に伴い、様々な出自を持つ武士たちが集う先進的な軍団を形成していた 15 。長徳もその一員として、織田軍団の最前線に身を置き、新たな主君のもとで再起を図ることになった。
天正十年(1582年)六月二日、日本の歴史を揺るがす大事件「本能寺の変」が勃発する。山崎長徳も明智軍の一員としてこのクーデターに従軍した 1 。彼の役割は、信長が宿泊する本能寺への直接攻撃ではなく、信長の嫡男・織田信忠が滞在していた二条新御所(二条殿)の攻略部隊への参加であった 1 。
この二条御所での戦闘において、長徳は彼の武名を一躍高めることになる、特筆すべき武功を挙げる。山鹿素行が著した『武家事紀』によれば、二条御所に籠城した信忠配下の武将たちの中に、赤座永兼(あかざ ながかね)という勇士がいた。永兼は奮戦し明智勢を苦しめたが、長徳は彼と直接対峙し、激戦の末に深手を負わせながらもこれを討ち取ったのである 18 。
この功績は、主君・明智光秀から絶賛された。光秀は長徳に対し、「二条の戦い、足下の功第一なり」と激賞し、恩賞として故郷である越前一国を与えることまで約束したという 18 。この「越前一国」という約束が、戦闘直後の高揚した状況下で功績を最大級に称えるための言辞であった可能性は高い。しかし、重要なのは、長徳がクーデターの中核的な戦闘において「功第一」と名指しで賞賛されるほどの働きを見せたという事実そのものである。この武名は、明智家臣団内での彼の地位を確立させると同時に、後の再仕官活動において極めて有効な「実績」として機能したと考えられる。
一方で、当時の武士の視点からこの事件を捉え直すことも重要である。後世の我々はこれを「謀反」と認識しているが、末端の兵士まで事前にその意図が共有されていなかったとする説が有力である 17 。長徳自身も、後に「自分の知らないところで話が進んでいた」と回想したかのような記述が残っており、彼にとっては信長を討つという大義よりも、主君・光秀の命令を忠実に、かつ全力で遂行することが武士としての本分であった 17 。彼の認識は「謀反への加担」というより、あくまで「主命による合戦」であったのかもしれない。
「三日天下」という言葉の語源となったように、光秀の栄華は長くは続かなかった。本能寺の変の報せを受けるや、驚異的な速さで中国大返しを敢行した羽柴秀吉の軍勢が京に迫る。天正十年六月十三日、光秀と秀吉の雌雄を決する「山崎の戦い」の火蓋が切られた 1 。
長徳もこの決戦に参陣する。『太閤記』に記された明智軍の編成によれば、彼は阿閉貞征(あつじ さだゆき)や溝尾茂朝(みぞお しげとも)らと共に「近江衆」三千の部隊に所属していた 19 。しかし、兵力で勝る秀吉軍の猛攻の前に明智軍は奮戦虚しく敗北。主君・光秀は敗走中に落武者狩りに遭い、その短い天下に幕を閉じた。
長徳は、仕官からわずかな期間で二度目の主家の滅亡を経験することとなった。しかし、彼はこの激戦と敗走の混乱を生き延び、再び浪々の身として次なる道を模索することになる 1 。
山崎の戦いで主君・光秀を失った長徳は、故郷である越前国へと逃げ戻った 17 。当時の越前は、本能寺の変後の清洲会議を経て、織田家筆頭宿老としての地位を確立した柴田勝家が治めていた 3 。長徳は、この北陸の雄である勝家に仕えることで、三度目の仕官を果たす 1 。これは、彼の出身地が越前であったという地縁に加え、本能寺の変における「功第一」の武勇伝が、勝家の耳にも届いていた可能性を示唆している。
勝家のもとでの長徳の立場は、直臣ではなく、勝家の重臣である佐久間安政の配下、すなわち与力であった 3 。佐久間安政は、勇将として知られた佐久間盛政の弟であり、勝家の娘婿ともされる有力武将である 3 。長徳が巨大な柴田家の中で直接埋もれるのではなく、その中核をなす有力家臣の配下となったことは、彼の計算高い生存戦略の一環と見ることができる。大組織の末端にいるよりも、実力派の部将のもとで働く方が、自らの武功を直接アピールしやすく、主君との個人的な信頼関係も築きやすい。
長徳は安政の部隊において「旗奉行」という重要な役職を任されている 5 。旗奉行は、部隊の象徴である軍旗を預かる役目であり、武勇と忠誠心に優れた者でなければ務まらない。このことからも、彼が柴田軍の中でも確かな信頼を得ていたことが窺える。
天正十一年(1583年)、織田家の主導権を巡り、ついに羽柴秀吉と柴田勝家が激突する。「賤ヶ岳の戦い」である。長徳は、主君・佐久間安政の隊の一員としてこの決戦に臨んだ 1 。
緒戦において、安政の兄・盛政が率いる部隊は秀吉方の大岩山砦を守る中川清秀を討ち取るなど、戦いを有利に進めた 20 。長徳もこの戦いの中で奮戦し、特に柴田軍が劣勢に転じた後の退却戦では、殿軍の一部を務めるなどの働きをしたと伝わっている 22 。
しかし、秀吉本体の迅速な反撃と、戦線の重要な位置を占めていた前田利家の突然の戦線離脱により、柴田軍は総崩れとなる。勝家は居城である北ノ庄城へと敗走し、妻のお市の方と共に自害。ここに、長徳はわずか1年足らずで三度目の主家の滅亡に直面することとなった 1 。
朝倉家の滅亡、山崎の敗走、そして賤ヶ岳の総崩れ。長徳は立て続けに三度の大規模な敗戦を経験し、そのすべてを生き延びている。これは単なる幸運とは言えない。これらの過酷な経験を通じて、彼は敗軍の中でいかに生き残るかという術、戦況を冷静に見極める判断力、そして次に時流を掴むであろう権力者を見定める政治的嗅覚を、実践の中で磨き上げていったに違いない。この「負け戦の専門家」とも言える稀有な経験こそが、彼の最大の資産となり、後の前田家における大成功へと繋がる重要な基盤を形成したのである。
賤ヶ岳の戦いで柴田勝家が滅亡した後、越前は勝者の羽柴秀吉の支配下に入り、その盟友であった前田利家が統治を任された。長徳は、この新たな支配者である前田利家、そしてその嫡男・利長に仕える道を選ぶ 1 。これは、賤ヶ岳の戦いにおける利家の戦略的な戦線離脱を目の当たりにし、次代の覇権が秀吉とそれに連なる前田家にあると見抜いた、時流を読む鋭い判断の結果であった。
前田家に仕えてからの長徳は、ようやく安定した主家のもとで、その武才を存分に発揮する機会を得る。天正13年(1585年)の富山の役(佐々成政征伐)では鳥越峠攻めで功を挙げ 2 、その後も九州征伐や小田原征伐といった豊臣政権下の主要な合戦にことごとく従軍し、着実に戦功を積み重ねていった 5 。これにより、彼の知行は7千石にまで加増され、前田家中で確固たる地位を築き始めた 3 。
慶長五年(1600年)、豊臣秀吉の死後に天下分け目の関ヶ原の戦いが勃発すると、長徳の生涯における最大の転機が訪れる。前田利長は徳川家康率いる東軍に与し、北陸において西軍方の勢力と対峙した。この北陸での前哨戦こそ、長徳がその名を不朽のものとする舞台であった。
利長はまず、西軍に与した加賀大聖寺城主・山口宗永の討伐へと向かう。この大聖寺城攻略戦において、山崎長徳は前田軍の主力部隊の一翼を担い、中心的な役割を果たした 1 。『加賀藩史料』などの記録によれば、この戦いで長徳が率いる部隊は獅子奮迅の働きを見せ、城主・山口宗永とその子・修弘を討ち取るという決定的な大功を挙げた 2 。この功績は、北陸における東軍の優位を決定づける上で極めて重要な意味を持った。
この大聖寺城での勝利は、単なる長徳個人の武運の結果ではない。それは、朝倉家での籠城戦の悲劇、山崎・賤ヶ岳での敗走といった過去の失敗経験から学んだ教訓の集大成であった。いかにして城を攻め、いかにして敵将を追い詰めるか。長徳は実戦で培った戦術を自らが率いる部隊に徹底させ、その能力を最大限に引き出す有能な指揮官であったことが窺える。その証拠に、元和年間に編纂された『山崎家士軍功書』には、この大聖寺城攻めにおける長徳配下の家臣たちの生々しい武功が詳細に記録されている 24 。
家臣名 |
具体的な武功 |
典拠 |
服部太郎右衛門尉 |
本丸へ進み太刀傷を負いながら首一つを獲得。 |
『山崎家士軍功書』 24 |
木村三郎右衛門 |
鉄砲で負傷しつつも、山崎家中で一番に首を獲得。 |
『山崎家士軍功書』 24 |
中西伝兵衛 |
金ヶ丸へ先乗りし、小丸で首一つを獲得。 |
『山崎家士軍功書』 24 |
三田村四郎兵衛 |
小丸の塀へ先乗りし、首一つを獲得。 |
『山崎家士軍功書』 24 |
向七兵衛 |
金ヶ丸から小丸へ乗り入り、広間で一番に首一つを獲得。 |
『山崎家士軍功書』 24 |
岡部左兵衛(の親) |
組み討ちにて首一つを獲得。 |
『山崎家士軍功書』 24 |
この大功により、戦後、長徳は主君・利長から破格の恩賞を受ける。その知行は一挙に一万四千石 1 (あるいは一万五千石とも伝わる 5 )に加増された。これはもはや一介の武将ではなく、小大名に匹敵する禄高であり、長徳が名実ともに前田家中の重鎮となったことを示している。
大聖寺城での大功を以て、長徳の加賀藩における地位は不動のものとなった。彼は越中国の要衝である放生津城の城代に任じられ、その守りを一任される 6 。さらに、加賀藩独自の家臣団制度において、藩主直属の軍団長ともいえる「人持組頭(ひともちぐみがしら)」に列せられ、新たに「山崎庄兵衛家」を創始した 2 。
人持組頭は、一万石以上の知行を有し、藩の政策決定にも関与する最高位の家臣団であり、俗に「加賀八家」と呼ばれる世襲家老家に次ぐ極めて高い家格であった 28 。長徳の成功は、単に石高が増えたことだけでは測れない。この「人持組頭」という藩の公式なヒエラルキーの頂点に組み込まれたことこそが、決定的に重要なのである。それは、彼の功績が一代限りの武勇伝として終わるのではなく、「山崎庄兵衛家」という永続的な家として制度的に保障されたことを意味する。流動的で実力主義が支配した戦国乱世を生き抜き、固定化された近世大名家臣団の頂点に自らの家を確固として位置づけるという、まさに時代の移行を象徴するような大成功を、山崎長徳は成し遂げたのであった。
関ヶ原の戦いを経て、加賀藩の重臣として不動の地位を築いた山崎長徳は、慶長16年(1611年)、60歳を前にして隠居し、「閑斎(かんさい)」と号した 5 。この頃、前田利長から病(腫物)の再発を気遣う書状が送られており、長年の戦働きによる心身の疲労が蓄積していたことが窺える 31 。
しかし、彼の武人としての魂は未だ燃え尽きてはいなかった。慶長19年(1614年)に豊臣家と徳川家の最終決戦である大坂の役が勃発すると、長徳は60歳を超える老齢にもかかわらず、再び甲冑を身にまとい、冬・夏の両陣に参陣した 1 。これは、戦場に生きることを本分とする「戦国武将」としての最後の矜持を示す行動であった。
特に大坂夏の陣では、血気にはやる若き主君・前田利常が高所に陣取って敵の矢玉に身を晒した際、長徳は冷静に進み出て、「主将がもし病に冒されれば、我が軍の不利はこれより甚だしきはございません」と諫言し、利常を安全な場所へと移動させたという逸話が残っている 32 。この行動は、功名心に逸るのではなく、組織全体の利益を考える「近世大名の家老」としての分別と忠義を兼ね備えていたことを示す。彼の晩年の姿には、戦国武将としての矜持と、近世の老臣としての理性が見事に共存していたのである。
長徳は、その生涯を通じて槍術に優れた名手として知られていた 2 。その武勇と豪胆さ、そして人間味を伝える逸話が今日に伝わっている。
ある夜、長徳が養っていたものの素行不良により勘当した親族の男が、恨みを抱いて不意に斬りかかってきた。その時、長徳は客を見送るために片手に手燭(てしょく)を持っていたにもかかわらず、顔に傷を負いながらも、もう一方の素手で相手を組み伏せ、斬り捨てたという。後日、その傷が癒えて登城した際、主君・利常に傷跡を見せ、「おかげで、しおらしい顔になりました」と冗談を言ってのけたと伝えられている 5 。このエピソードは、彼の不測の事態にも動じない冷静さと卓越した武技、そして主君の前で死線を越えた傷をユーモアに変える豪胆な人柄を生き生きと描いている。
長徳の先見性は、戦場での武功だけに留まらなかった。彼は、婚姻政策によって加賀藩内における山崎家の地位を盤石なものとした。娘の一人は、加賀八家筆頭である奥村家の当主・奥村栄明に嫁ぎ、その間に生まれた奥村栄政は長徳の孫にあたる 34 。また、別の娘は主君・前田利長の養女となった上で、同じく重臣である青山吉次の養子・長正に嫁いでいる 35 。これらの閨閥戦略により、彼は自らが興した「山崎庄兵衛家」を藩内の権力ネットワークに深く組み込み、その安泰を図った。武力で家を興し、政略で家を守るという、近世大名家臣としての成熟した思考がここにも見て取れる。
こうした長徳の努力の結果、山崎庄兵衛家は5500石の知行を持つ人持組の家として、幕末・明治維新に至るまで加賀藩の重臣として存続した 28 。彼の功績と生涯は、藩の公式記録である『加賀藩史料』に「家譜」として収録され 25 、金沢市立玉川図書館近世史料館には、利長から送られた書状などを含む「山崎庄兵衛家文書」が現代にまで伝えられている 38 。
元和6年(1620年)11月11日、長徳は69年の波乱に満ちた生涯を閉じた 5 。戦国最後の決戦を見届け、自らの家を大藩の重臣として確立させた彼の死は、一つの時代の終わりを告げるものであった。
山崎長徳の生涯は、主家の滅亡という絶望的な逆境を三度も経験しながら、その度に不屈の精神で立ち上がり、自らの武勇と経験、そして時流を読む鋭い政治的嗅覚を武器に再起を果たした、驚異的な生存と立身の物語であった。朝倉家の滅亡で全てを失った一人の若武者が、最終的に加賀百万石の重臣という安定した地位と一万石を超える知行をその手に掴んだ軌跡は、戦国時代における成功譚の中でも極めて稀有な事例と言える。
歴史の表舞台において、長徳は明智光秀や柴田勝家といった主役たちの陰に隠れがちな存在である。しかし、彼の生涯を深く掘り下げることで、戦国乱世の流動性、実力主義、そして近世幕藩体制へと移行していく時代のダイナミズムを、一人の人間の生き様を通して鮮やかに感じ取ることができる。彼は、名もなき多くの武士たちが、いかにしてこの激動の時代を生き抜き、あるいは淘汰されていったのかを考察する上で、極めて示唆に富む歴史の証人なのである。
結論として、山崎長徳は単なる「運の良い武将」では断じてない。彼は、敗戦の苦汁から戦訓を学び取る分析力を持ち、次に覇権を握る主君を見極める先見性を備え、部下の能力を最大限に引き出す有能な指揮官であり、そして晩年には藩の重鎮として主君を諫める分別をもわきまえた、多面的な能力を持つ優れた武将であった。その生涯は、戦国という時代の過酷さと、それを乗り越えた人間の強靭さ、そして家名を後世に残さんとする執念を見事に描き出している。彼の生き様は、乱世における「生存」そのものが一つの偉大な武功であったことを、我々に力強く物語っている。