最終更新日 2025-07-22

山川氏重

『戦国期関東の動乱を生き抜いた国人領主、山川氏重の実像 ― 自立と従属の狭間における生存戦略』

序章:山川氏重という武将 ― 研究の視座と対象の明確化

本報告書は、日本の戦国時代、下総国(現在の茨城県西部)を拠点とした国人領主、山川氏重(やまかわ うじしげ)の生涯と、その一族の動向について、現存する史料と近年の研究成果に基づき、多角的かつ徹底的に分析・再構築することを目的とする。ご依頼者が事前に示された「北条家につき、後に上杉家に与力した」という動向は、一見すると単なる日和見的な変節と捉えられがちである。しかし、本報告書は、氏重の行動が、戦国期関東の複雑な政治・軍事力学の中で、自家の存続と自立性を維持するために下された、極めて高度な戦略的判断であったことを論証する。

研究史において、山川氏重は関東の戦国史を彩る中心的な人物として扱われることは稀である。しかし、彼の動向は、相模の後北条氏による関東支配の進展と、それに抵抗する越後の上杉謙信および関東諸将の連合という、当時の関東における最も重要な政治・軍事力学を、一国衆の視点から体現する、極めて示唆に富んだ事例である。氏重の生涯を追うことは、巨大勢力の狭間で国衆がいかにして生き残りを図ったかという、戦国時代の普遍的なテーマを解き明かす鍵となる。

本報告に着手するにあたり、まず最も重要な前提として、対象人物の特定と混同の排除を明確にしておきたい。本報告書が対象とするのは、 下総国結城郡 を本拠とした 戦国時代の武将「山川氏重」である。しばしば、幕末の会津藩で家老を務め、明治期にその子弟(山川浩、健次郎、大山捨松ら)が各界で活躍したことで知られる会津の山川家 と混同されることがあるが、両者は時代も家系も全く異なる別個の存在である 1 。会津山川家は、その祖である山川重英が18世紀末から19世紀にかけて活躍した人物であり 2 、本報告書の対象である戦国期の山川氏とは直接的な系譜上の繋がりはない。この峻別は、氏重の実像を正確に理解するための第一歩である。

山川氏重の研究は、単なる一武将の伝記に留まるものではない。それは、中世的な自立性を保持した「国衆(くにしゅう)」と呼ばれる地域領主が、戦国大名の新たな支配体制にいかにして組み込まれていったのか、そして中央の織豊政権による天下統一事業が関東という地域社会にどのような影響を及ぼしたのか、さらには一族が最終的に近世大名の家臣団へと変貌を遂げる社会構造のダイナミックな変遷を、ミクロな視点から解き明かすための貴重なケーススタディを提供するものである。

第一部:下総の雄、山川氏の出自と基盤

第一章:結城氏一門としての系譜 ― 名門の庶流という立場

山川氏重の行動原理を理解するためには、まず彼が属した山川氏の出自と、関東の国衆社会におけるその独特な地位を把握する必要がある。山川氏は、鎌倉時代以来、下野国(現在の栃木県)を中心に勢力を誇った名門・小山氏の血を引く、下総の結城氏から分かれた庶流であった 5 。具体的には、結城氏の始祖である結城朝光(小山政光の三男)の子、重光が下総国結城郡山川荘の地頭職に任ぜられ、その地名を姓としたことに始まる 6 。この出自は、山川氏に関東の武家社会における高い家格と、周辺国衆に対する一定の発言権を与えた。

山川氏は、多賀谷氏、水谷氏、岩上氏といった結城氏一門の有力国衆と共に「結城四天王」の一角に数えられている 6 。しかし、この呼称が示唆するような単なる主従関係ではなかった点が重要である。彼らの実態は、結城宗家に仕える家臣というよりも、むしろ「同盟者に近い」独立性の高い存在であった 5 。山川氏は独自の支配領域と家臣団を有し、宗家である結城氏とは、対等に近いパートナーシップを築いていたのである。

この独立性の高さと一門内での重要性を示す顕著な例が、一族の「血の供給源」としての役割である。宗家である結城氏や、さらにその本家筋にあたる小山氏で後継者が不在となった際には、山川氏から養子を送り込み、その家名を存続させるという極めて重要な役割を担った記録が複数存在する 5 。これは、山川氏が単なる分家ではなく、結城一門という広域的な武家連合の中で、その存続に不可欠な血統を保持する、格別の存在として認識されていたことの証左に他ならない。

この「名門の庶流」でありながら「独立した同盟者」という二重の性格こそが、山川氏の、そして後の山川氏重の外交戦略を理解する上での鍵となる。彼らは、結城一門という安全保障の枠組みに属することで安定を得つつも、完全な従属関係にはなかったため、自家の利益を最優先する外交的裁量を保持していた。戦国期の関東の国衆は、単一の主君に絶対的な忠誠を誓うのではなく、古河公方、関東管領、そして新興勢力である後北条氏といった複数の権力との関係性を天秤にかけ、自家の存続と勢力拡大を図るのが常であった。したがって、後に山川氏重が主家・結城氏と異なる外交路線をとったことは、突発的な裏切りや気まぐれではなく、この伝統的な国衆の行動様式に根差した、合理的な戦略的判断であったと理解することができる。

第二章:山川氏の所領と経済基盤 ― 川と沼が育んだ力

山川氏の独立性を支えたのは、その出自だけではない。彼らが本拠とした土地の地理的・経済的条件が、その力の源泉となっていた。山川氏の所領は、下総国山川荘、現在の茨城県結城市山川地区を中心とする一帯であった 10 。この地域は、広大な関東平野のほぼ中央に位置し、利根川水系の複雑な河川網と、往時は「山川沼」と呼ばれた広大な低湿地に囲まれた、交通と防衛の両面における要衝であった 11

山川氏の経済基盤は、第一に豊かな沖積平野における米作を中心とした農業生産力にあった 14 。しかし、それ以上に重要だったと推測されるのが、水運の掌握による交易利権である。彼らの本拠地は、利根川や鬼怒川といった、当時の物流の大動脈であった河川交通の結節点に位置していた。戦国時代、年貢米や各地の特産品を江戸湾周辺の消費地へ運ぶ手段として、河川交通は極めて重要な役割を果たしていた 16 。史料には、山川氏の城に「海船数多被入」(多くの船が出入りした)と記されており 12 、彼らの本拠が単なる内陸の拠点ではなく、広域水上交通網に接続された一大物流ハブであったことを示唆している。山川氏は、この物流ルートを掌握し、通過する船から通行税(関銭)を徴収したり、物資の集積地として市場(河岸)を形成したりすることで、農業生産力に加えて独自の強固な経済力を蓄えていたと考えられる。

この経済力と軍事力の発展は、彼らの城郭の変遷からも見て取れる。鎌倉時代以来の初期の居館は「山川氏館」(現在の東持寺境内)であり、これは方形の比較的単純な構造を持つ、典型的な中世武士の館であった 12 。しかし、戦国時代の緊張が高まる永禄年間(1560年代)、山川氏重は新たな拠点として「山川綾戸城」を築城する 10 。この城は、山川沼の低湿地を天然の堀として利用した、より防御力と拠点性を高めた本格的な戦国期の城郭であった 10 。この大規模な拠点移動は、後北条氏との対立が激化するという時代の要請に応じたものであり、氏重の優れた軍事的・政治的指導力を示すものであると同時に、水運の要衝をより強固に支配下に置き、経済的生命線を確保・強化するという戦略的意図があったと分析できる。氏重の独立志向の強さと、主家と異なる外交を展開できた背景には、この水運交易によって得られる独自の経済力が大きく寄与していたのである。

第二部:山川氏重の時代 ― 激動の関東と外交戦略

第三章:二大勢力の狭間で ― 北条氏と上杉氏

山川氏重が当主として活動した永禄年間(1558年~1570年)の関東は、まさに激動の時代であった。相模国小田原城を本拠とする北条氏康・氏政親子が、その勢力を武蔵国から北関東へと急速に拡大し、古河公方と関東管領が支えてきた伝統的な関東の支配秩序を根底から揺るがしていた 23 。後北条氏は『小田原衆所領役帳』に代表されるような先進的な検地を実施し、国衆の所領と軍役を直接的に把握・管理する中央集権的な支配体制の構築を目指した 26 。これは、所領に対する高度な自治権を伝統的に保持してきた関東の国衆たちにとって、自らの権益を侵食される深刻な脅威であった。

この北条氏の膨張に対し、敢然と立ち向かったのが、越後の「龍」長尾景虎、後の上杉謙信である。謙信は、北条氏に追放された関東管領・上杉憲政を奉じ、その権威を大義名分として、数度にわたり大軍を率いて関東へ出兵した 29 。これにより、関東の諸将は、新興の実力者である北条氏に従うか、伝統的権威を掲げる上杉氏に味方するかの二者択一を迫られることになった。

この未曾有の動乱期において、山川氏の主家である結城氏の当主・結城晴朝は、当初、強大な北条氏と直接対決するリスクを避けるため、北条氏に従属する立場をとっていた 5 。これは、多くの国衆がとった現実的な選択であった。

しかし、山川氏重は主家とは全く異なる道を選んだ。現存する複数の史料は、氏重が主家の親北条路線とは明確に一線を画し、 一貫して上杉謙信に与し、反北条の旗幟を鮮明にしていた ことを示している 5 。この主家との外交路線の相違こそ、山川氏が結城氏の完全な家臣ではなく、独自の判断で行動する自立した国衆であったことの何よりの証左である。氏重のこの選択は、単なる反骨精神や日和見主義によるものではない。それは、北条氏による新たな直接支配の波に抗い、関東管領という古き秩序の下で国衆としての伝統的な権利と自立性を守ろうとする、極めて政治的な意図に基づいた高度な戦略であった。常陸の佐竹氏や下野の宇都宮氏といった他の反北条連合の諸将とも共通する動機であり、氏重は自家の未来を、新しい実力支配ではなく、伝統的権威の側に賭けたのである。最終的に、主家の結城氏も反北条陣営に参加し、山川氏と行動を共にすることになるが 5 、氏重の決断はそれに先んじた、先見性のあるものであった。


表1:永禄年間(1560年代)における山川氏重をめぐる主要勢力の関係変遷図

年代 (西暦)

主な出来事

後北条氏の立場

上杉謙信の立場

主家・結城晴朝の立場

山川氏重の立場

永禄3年 (1560)

謙信、第一次関東出兵を開始

関東支配の拡大

関東管領を奉じ、北条氏討伐

親北条

親上杉

永禄4年 (1561)

謙信、小田原城を包囲

籠城による防衛

関東諸将を率いて包囲

親北条を維持しつつも動揺

上杉軍の一員として参陣

永禄8年頃 (1565)

山川氏重、山川綾戸城を築城

北関東への圧力を強化

関東への継続的な出兵

徐々に反北条へ傾斜

反北条の拠点として防備を強化

天正5年 (1577)

小川台合戦

結城・佐竹領へ侵攻

(越後在国)

反北条

反北条連合軍の中核として奮戦


第四章:上杉謙信との連携 ― 一通の書状が示すもの

山川氏重と上杉謙信の強固な関係を証明する、決定的な一次史料が存在する。それは、茨城県古河市に伝来した「山川家文書」の中に含まれる、上杉謙信から「山川讃岐守(さぬきのかみ)」に宛てた一通の書状(手紙)である 32 。当時、山川氏の当主が名乗った受領名から、この「讃岐守」は氏重その人を指すものと比定されている 32

この書状の内容は、両者の関係の深さを雄弁に物語っている。謙信は氏重に対し、「一日も早くそちらへ援軍を送りたいのだが、武田信玄が信濃方面に侵攻してきたため、身動きがとれない」と、援軍が遅れる具体的な軍事的理由を率直に説明している 32 。そして、「決してそちらを見捨てたわけではないので、しばらくの間、何とか持ちこたえてほしい」と、氏重の奮戦に強い期待を寄せ、激励の言葉を送っている 32

この書状が持つ歴史的意義は計り知れない。第一に、これは強固な軍事同盟関係の証明である。天下に名だたる謙信が、下総の一国衆に過ぎない山川氏に対して、自軍の最高機密とも言える戦略的な状況(対武田戦線との二正面作戦の苦悩)を包み隠さず打ち明けている。これは、両者が単なる主従や一時的な協力関係ではなく、極めて信頼性の高いパートナーであったことを示している。

第二に、山川氏の戦略的重要性が浮き彫りになる。謙信にとって、親北条勢力が多数を占める地域で、氏重が反北条の旗を掲げ抵抗を続けることは、北条氏の背後を脅かし、その勢力拡大を牽制する上で極めて重要な「楔(くさび)」の役割を果たしていた。援軍が遅れることを詫びてまで氏重の奮戦を促しているのは、彼の存在が謙信の関東戦略全体にとって不可欠であったからに他ならない。

この書状は、単なる連絡文書ではなく、戦国期の高度な「情報戦」と「心理戦」の一端を示す貴重な史料である。援軍の遅延は、最前線で戦う将兵の士気を著しく低下させ、最悪の場合、敵方への寝返りを誘発しかねない。謙信は、具体的な理由を伝えることで「見捨てたのではない、戦略的な理由があるのだ」と説得し、氏重の離反を防ぎ、結束を維持しようとした。これは、書状というメディアを巧みに用いた、高度な心理的マネジメントである。関東管領である謙信から直接このような書状を受け取ることは、氏重の家中および周辺国衆に対する権威を大いに高めたであろう。この一通の書状は、氏重が、同時代の武将たちからいかに重要視されていたかを物語る、彼の器量と価値の証明なのである。

第五章:北関東国人衆との合従連衡

山川氏重は、孤立無援で強大な北条氏と対峙したわけではない。彼の巧みな外交手腕は、北関東の有力大名と連携し、広域な反北条連合を形成する点にも発揮された。特に、常陸の佐竹氏や下野の宇都宮氏とは緊密な協力関係を築き、北条氏の侵攻に対して共同で防衛にあたった 8 。その最も顕著な例が、天正5年(1577年)の戦いである。この時、北条氏が大軍を率いて侵攻してきたのに対し、主家の結城氏と共に、宇都宮氏、佐竹氏、那須氏らと連合軍を組織し、これを撃退することに成功している 31 。山川氏は、この反北条連合の重要な一翼を担っていた。

氏重の戦略をより深く理解するためには、同時代の他の関東国衆の生き残り戦略と比較することが有効である。

例えば、下野の佐野氏では、当主の弟である佐野房綱(天徳寺宝衍)が早くから出家し、外交僧として活動した 35。彼は関東の枠を超えて諸国を巡り、織田信長や豊臣秀吉といった中央の天下人と直接パイプを築くことで、佐野家の政治的価値を高め、乱世を乗り切ろうとした 36。

また、同じく下野の皆川氏の当主・皆川広照は、その巧みな処世術で知られる 38。彼は、上杉、北条、織田、徳川と、その時々の関東における最強勢力に素早く追従し、主君を乗り換えることで、小勢力ながらも最終的に近世大名として生き残ることに成功した 39。

これらの事例と比較すると、山川氏重の「親上杉・反北条」という、比較的ブレの少ない一貫した外交路線が際立つ。皆川氏のような日和見的な戦略とは異なり、氏重の戦略は、一度味方すると決めた上杉氏との同盟関係を重視し、リスクを冒してでも反北条の姿勢を貫くものであった。この選択の背景には、いくつかの合理的な理由が考えられる。第一に、佐竹・宇都宮といった反北条勢力と地理的に隣接しており、連携しやすかったこと。第二に、北条氏の直接支配下に入れば、山川氏の力の源泉であった水運交易の利権が脅かされる可能性があったこと。そして第三に、結城一門としての名誉と、国衆としての自立性を守りたいという強い政治的意志があったことである。

戦国期関東の国衆の生き残り戦略は一枚岩ではなかった。中央政権に接近するタイプ(佐野氏)、時流に応じて乗り換えるタイプ(皆川氏)、そして特定の反主流派連合に軸足を置くタイプ(山川氏)など、多様なモデルが存在した。氏重が選択した道は、常に北条氏からの軍事的圧力に晒されるという高いリスクを伴うものであったが、成功すれば自家の独立性を高く維持できるという大きなリターンが期待できるものであった。彼の外交は、単なる成り行きではなく、地政学的・経済的・政治的な計算に基づいた、一貫性のある戦略であったと高く評価することができる。

第三部:天下統一の奔流と山川氏のその後

第六章:豊臣政権下での選択 ― 小田原征伐

上杉謙信の死後、関東の情勢は新たな段階に入る。天正18年(1590年)、天下統一の総仕上げとして豊臣秀吉が20万を超える大軍を率いて関東に侵攻し、小田原征伐が開始された 41 。この時、山川氏の家督は氏重から子の晴重、さらに孫の朝信(とも信、朝貞とも)へと継承されていた 31

関東の諸将は、秀吉に従うか、北条氏と運命を共にするかの最終的な選択を迫られた。山川氏の主家である結城晴朝は、秀吉方に与することを決断 34 。山川氏もこれに従い、豊臣軍の一員として小田原攻めに参陣した 8 。結城・山川軍は、北条方に与していた同族の小山氏が守る小山城などを攻略するという具体的な軍功を挙げている 8

秀吉は、自身への服属を求めた「惣無事令」を無視した北条氏を滅ぼす一方で、それに従った者、特に北条氏と敵対していた者には恩賞を与えた。戦後、山川朝信は秀吉からその軍功を認められ、2万石の所領を安堵された 42 。これにより、山川氏は結城氏の同盟者という立場から、秀吉政権下で公認された独立した大名へと飛躍を遂げたのである。

この事実は、極めて重要な意味を持つ。それは、山川氏重の代から長年にわたり貫いてきた「親上杉・反北条」という一貫した外交戦略が、最終的に豊臣政権という新しい天下人によって「正当」と認められ、報われた瞬間であったからだ。小田原征伐において、北条方についた多くの関東国衆が改易や減封の憂き目に遭ったのとは対照的である 41 。氏重が上杉謙信との同盟に賭け、北条氏からの絶え間ない圧力に耐え抜いた苦難の道は、結果として一族に最大の利益をもたらした。彼の先見の明が、孫の代で見事に結実したと言えるだろう。

第七章:近世大名の家臣へ ― 越前への移封

小田原征伐後、山川氏を取り巻く環境は再び大きく動く。跡継ぎのいなかった主家の結城晴朝が、豊臣秀吉の養子となっていた徳川家康の次男・秀康を養子に迎えたのである 34 。これにより、名門結城氏は事実上、徳川一門に組み込まれ、その後の運命を徳川家と共にする。

慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いでは、山川朝信は主君・結城秀康に従い東軍に属し、会津の上杉景勝の南下を阻止する役割を果たした 42 。しかし、戦いが終結した翌年の慶長6年(1601年)、朝信は西軍の上杉氏と内通していたという嫌疑をかけられ、2万石の大名としての地位を剥奪され、改易処分となってしまう 42 。この事件は、戦国国衆としての古い体質、すなわち複数の勢力と独自に外交チャンネルを持つという慣習が、徳川の新しい中央集権的な支配体制下ではもはや「裏切り」として許されなくなったことを象徴する出来事であった。

一族は断絶の危機に瀕したが、ここで再びその強運を発揮する。改易された朝信の子・朝貞(幼名・菊松)は、主君・結城秀康に特別に許され、その命脈を繋いだのである 33 。秀康は関ヶ原の戦功により、下総結城10万石から越前北ノ庄67万石へと大加増・転封となった。山川朝貞もこの越前への「結城引越し」に随行し、父の汚名を雪ぐこととなる 33

驚くべきは、その後の処遇である。越前において、山川朝貞は1万7000石という、一譜代家臣としては破格の知行を与えられ、福井藩の筆頭家老格の重臣に列せられた 33 。父の失態にもかかわらず、これほどの厚遇をもって迎えられたのは、秀康が山川氏のこれまでの功績と、結城一門としての由緒を高く評価していたことの証左である。これにより、山川氏は下総の独立した国人領主から、近世大名の高禄家臣へと、その社会的地位を完全に変えた。氏重が築き、守り抜いた一族の命脈は、形を変えながらも見事に近世へと引き継がれたのである。この一連の出来事は、山川氏が「戦国」から「近世」へと移行する際の、最後の産みの苦しみであった。彼らは、独立性を完全に放棄し、巨大な藩という官僚機構の重臣となることで、新たな時代を生き抜いたのであった。


表2:戦国期下総山川氏 主要人物と活動年表

西暦

元号

当主 (主な人物)

主な出来事

1565年頃

永禄8年頃

山川氏重

北条氏の脅威に対抗するため、山川綾戸城を築城 11

1560-70年代

永禄・元亀年間

山川氏重

上杉謙信の関東出兵に呼応し、一貫して上杉方として北条氏と戦う 5

(不詳)

(不詳)

山川氏重

上杉謙信より、援軍の遅延を詫びる書状を受け取る。強固な同盟関係を示す 32

1577年

天正5年

山川氏重

佐竹・宇都宮氏らと反北条連合を結成し、北条軍を撃退する 31

1590年

天正18年

山川晴重・朝信

豊臣秀吉の小田原征伐に、主家・結城晴朝と共に参陣。小山城などを攻略 8

1590年

天正18年

山川朝信

戦功により、豊臣政権から2万石の所領を安堵され、独立大名となる 42

1600年

慶長5年

山川朝信

関ヶ原の戦いで東軍(結城秀康)に属す 42

1601年

慶長6年

山川朝信

上杉景勝との内通を疑われ、改易。大名の地位を失う 42

1601年

慶長6年

山川朝貞

父の改易後、結城秀康の越前転封に随行を許される 33

1601年以降

慶長6年以降

山川朝貞

越前福井藩において1万7000石を与えられ、筆頭家老格の重臣となる 33


結論:山川氏重の歴史的評価

山川氏重は、戦国期関東の覇権をめぐる後北条氏と上杉氏という二大勢力の激しい角逐の狭間で、主家の意向に必ずしも従うことなく、自家の存続と発展のために独自の外交・軍事戦略を巧みに展開した、極めて有能な国人領主であったと結論付けられる。

彼の行動は、旧来の権威である関東管領・上杉謙信を巧みに利用しつつ、新興の実力者である北条氏の支配体制強化の圧力に対抗するという、当時の関東国衆が取り得た最も先鋭的な生き残り戦略を体現している。特に、地理的・経済的基盤を背景に、天下に名高い上杉謙信と強固な軍事同盟関係を築き上げ、広域な反北条連合の重要な一角を担ったその外交手腕は、高く評価されるべきである。彼の選択は、単なる変節ではなく、自立性を維持するための、一貫した論理に基づくものであった。

そして、氏重が築いた政治的・経済的基盤と、巧みな外交によって培われた一族のレジリエンス(回復力・しなやかさ)は、その後の豊臣・徳川政権への移行という、日本史の大きな転換期において決定的な意味を持った。彼が貫いた反北条の姿勢は、豊臣秀吉による戦後処理において一族に2万石の大名という栄誉をもたらし、その後の改易という最大の危機に際しても、主君・結城秀康との間に築かれた信頼関係が、越前福井藩の筆頭家老格という安定した地位を確保する礎となった。

山川氏重は、歴史の表舞台で華々しく活躍した英雄ではないかもしれない。しかし彼は、中世から近世へと移行する激動の時代を、一族を巧みに率いて乗り切り、その命脈を未来へと繋いだ、再評価されるべき優れた指導者であった。彼の生涯は、巨大な権力構造の変容の中で、地域の小領主がいかにして自らのアイデンティティと実利を追求し得たかを示す、貴重な歴史的教訓に満ちている。

引用文献

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