最終更新日 2025-05-11

山本勘助

山本勘助:戦国時代の謎多き軍師、その実像と伝説

1. 序論:山本勘助とは何者か

伝統的イメージと謎多き存在

山本勘助(やまもとかんすけ)は、戦国時代の武将、武田信玄の軍師として、その名は広く知れ渡っている。武田二十四将や武田五名臣の一人に数えられることもあり 1 、特に井上靖の歴史小説『風林火山』をはじめとする数々の創作物を通じて、現代においても高い知名度を誇っている 2

しかしながら、その華々しいイメージとは裏腹に、山本勘助の生涯、とりわけその前半生には不明な点が多く残されている 1 。長きにわたり、その実在すらも疑問視され、「幻の軍師」とも称されてきた 3 。このような評価がなされる背景には、江戸時代に成立した軍学書『甲陽軍鑑』以外に、勘助の事績を伝える確実な一次史料が乏しかったという事情がある 3 。『甲陽軍鑑』は、武田家の軍略や武士の心得を記した書物として価値が認められる一方で、後世の創作や脚色が含まれている可能性も指摘されており、史料としての取り扱いには慎重な検討が求められてきた。

このため、山本勘助という人物は、大衆的な人気と学術的な懐疑論という、ある種の二重性の中に位置づけられてきた。小説やドラマで描かれる天才的な軍師としての姿は、多くの人々を魅了し続けてきたが、歴史学の分野では、その存在や具体的な活躍について、より厳密な検証が重ねられてきたのである。この人気の背景には、『甲陽軍鑑』が提供する劇的な物語性と、それを基盤として数多く生み出された魅力的なフィクション作品の影響が大きい。一方で、史料的裏付けの乏しさが、学術的な評価においては慎重な姿勢を促し、時にはその実在性そのものへの疑問を投げかける要因となっていた。戦国時代の歴史叙述において、後世の物語によって形成された人物像と、史料に基づいて検証可能な実像とを区別することは、しばしば困難を伴う作業であり、山本勘助はその典型的な事例と言えるだろう。

本報告の構成と目的

本報告では、このような山本勘助の伝統的なイメージと、近年の史料発見によって明らかになりつつある実像との両側面に光を当て、多角的な検証を試みる。具体的には、まず勘助の出自や武田家に仕官するまでの経緯を概観し、次に軍師としての具体的な活動内容、特に諏訪攻略、戸石城の戦い、上田原の戦いへの関与、築城術、そして甲州法度之次第への関与について検討する。さらに、その名を不朽のものとした第四次川中島の戦いにおける「啄木鳥戦法」と最期について詳述する。そして、本報告の核心部分として、長年議論の的となってきた山本勘助の実在性を巡る論争、特に『甲陽軍鑑』の記述と、市河家文書や真下家所蔵文書といった近年に発見・再評価された古文書の内容を比較検討し、歴史学的な視点から「山本菅助」という実在の可能性が高い人物像に迫る。最後に、これらの検討を踏まえ、山本勘助が後世に与えた影響や、現代に語り継がれる勘助像の形成過程を考察し、結論としてその実像と伝説の交錯点を提示する。

2. 出自と武田家仕官への道

生年と出身地の諸説

山本勘助の生年については、明応2年(1493年)とする説 2 、あるいは明応9年(1500年)とする説 1 など、複数の説が存在し、未だ確定には至っていない 1

出身地に関しても同様に諸説あり、中でも三河国(現在の愛知県東部)説 1 と駿河国(現在の静岡県中部・北東部)説 1 が有力視されている。三河説の根拠としては、『甲陽軍鑑』に三河国牛久保の出身と記されていること 11 、愛知県豊川市牛久保町に「山本勘助晴幸生誕地」の碑が存在すること 11 、そして同県豊橋市賀茂町の照山城が勘助の出生地であるとする伝承 14 などが挙げられる。一方、駿河説は、江戸時代後期に成立した地誌『甲斐国志』の記述 11 や、静岡県富士宮市山本に「山本勘助誕生地」の碑があること 13 などに基づいている。勘助の父とされる山本貞幸が今川家の家臣であったとする説 1 も、駿河説との関連が深い。

『甲斐国志』には、勘助は駿河国富士郡山本の住人、吉野貞幸の子として生まれ、後に三河国牛久保城主牧野氏の家臣であった大林勘左衛門の養子になったという、より詳細な記述が見られる 11

このように、勘助の出自に関する情報は錯綜しており、その人物像に初期から神秘的な色彩を与えている。確たる史料に乏しい前半生は、後世のさまざまな憶測や伝承が入り込む余地を残し、各地に点在する生誕記念碑 11 は、それぞれの地域がこの著名な戦国武将との繋がりを主張する表れとも言える。このような出自の曖昧さは、後に「天才軍師」として語られる人物の神秘性を高め、出自不明の傑物がその能力のみで名を成すという物語の形成を助長した可能性がある。

容姿と前半生

『甲陽軍鑑』などの伝承によれば、山本勘助の容姿は特異なものであったとされる。隻眼(片方の目が不自由)であり、片足も不自由、さらに色黒で容貌も優れなかったと伝えられている 2 。この身体的特徴が、後に今川義元への仕官を阻む一因となったとも言われている 17

若い頃から武者修行として諸国を遍歴し、剣術のみならず、兵法や築城術といった武将に必要な諸芸を熱心に学んだとされる 3 。特に剣術においては京流の達人であったという逸話も残されている 20 。しかし、その才能にもかかわらず、40歳を過ぎても特定の主君に仕えることができず、浪人として不遇の時代を過ごした 2 。天文5年(1536年)、37歳(あるいは40代前半とも)の時に駿河の大名今川義元に仕官を願い出たが、前述の容姿などが理由で受け入れられなかったとされている 1

武田信玄への仕官

長きにわたる浪人生活の後、天文12年(1543年)、勘助は44歳(50歳前後、あるいは51歳とする説もある 6 )にして、甲斐国の若き領主、武田晴信(後の信玄)に召し抱えられることとなった 1

その仕官の経緯については、いくつかの説が伝えられている。一つは、諸国を巡る中で高まっていた山本勘助の兵法家としての評判を晴信が聞きつけ、召し抱えに至ったというもの 5 。また、武田家の宿老であった板垣信方の強い推挙があったとする説もある 8

仕官時の待遇についても逸話が残る。当初は浪人としては破格ながらも比較的低い禄高を提示されたが、晴信が実際に勘助と対面し、その卓越した知見と才能に感銘を受けた結果、知行200貫という異例の高禄で召し抱えることを決断したという 5 。甲府の躑躅ヶ崎館で晴信と初めて対面した際、勘助は自身の兵法や築城に関する深い知識を披露したとされている 1

この「遅咲きの仕官」と、容姿のハンディキャップを乗り越えて才能を認められるという物語は、勘助の人物像を特徴づける重要な要素である。40代、あるいは50代という、当時としては決して若くない年齢で初めて význam な主君に仕え 1 、身体的な不利を抱えながらも 2 、その内なる能力によって武田信玄という英主に見出されるという経緯 5 は、後世の人々にとって強い魅力を持つ物語となった。このような「逆境からの成功譚」は、彼の人気を支え、『甲陽軍鑑』やその後の創作物において、その生涯がより劇的に、そして感動的に描かれる素地となったと考えられる。それはまた、外見や年齢といった表面的な要素ではなく、真の能力こそが評価されるべきであるという、ある種の理想を体現する物語として受け止められたのかもしれない。

山本勘助 出自・仕官に関する諸説比較

項目

説(主な典拠)

内容

生年

明応2年(1493年)説

2

明応9年(1500年)説

1

出身地

三河国説(『甲陽軍鑑』、豊川市・豊橋市伝承)

愛知県東部。牛久保、賀茂など具体的な地名も伝わる 11

駿河国説(『甲斐国志』、富士宮市伝承)

静岡県中部・北東部。富士郡山本など 11 。父・山本貞幸が今川家臣であったとする説と関連 1

『甲斐国志』による複合説

駿河国富士郡山本で生まれ、三河国牛久保城主牧野氏家臣大林勘左衛門の養子となる 11

容姿・特徴

『甲陽軍鑑』など

隻眼、片足不自由、色黒、醜男 2

今川家仕官失敗

諸説(天文5年/1536年頃)

37歳(または40代前半)で今川義元に仕官を願うも容姿などを理由に断られる 1

武田家仕官年

天文12年(1543年)

1

仕官時年齢

44歳説

1

50歳前後説

5

51歳説

6

仕官時待遇

『甲陽軍鑑』など

当初低い禄高だったが、晴信に才能を認められ知行200貫に増額 5

3. 武田信玄の軍師としての活動

山本勘助が武田信玄に仕えて以降、その活動は多岐にわたったとされる。軍師としての献策、築城術の活用、さらには内政に関わる法度制定への関与など、その影響力は武田家の信濃攻略と領国経営の初期段階において重要な役割を果たしたと伝えられている。しかし、これらの功績の多くは『甲陽軍鑑』に依拠しており、その史実性については慎重な検討が必要である。

諏訪攻略と諏訪御料人

勘助の重要な献策として、まず天文11年(1542年)の諏訪攻略後の対応が挙げられる。武田信玄が諏訪頼重を自害に追い込んだ後、勘助はその娘である諏訪御料人を信玄の側室として迎えるよう進言したとされる 1 。この策の狙いは、諏訪御料人に信玄の子を産ませることで武田家と諏訪家の間に血縁関係を築き、それによって信濃の名族である諏訪氏の旧臣たちを武田軍に心服させることにあった 5

この献策は、周囲の家臣たちが、仇敵の娘を側室に迎えることの危険性を訴えて反対する中で、勘助一人が強く推し進めたものとも伝えられている 3 。結果として、この縁組から後に武田勝頼が誕生し、その存在は武田家の命運を左右する大きな要因となった 5 。『甲陽軍鑑』などでは、これが勘助による最初の重要な献策として描かれている 5

戸石城の戦いにおける活躍

戸石城(砥石城)を巡る戦いでは、勘助の軍略家としての側面が強調される逸話が残されている。まず、天文15年(1546年)、武田軍が北信濃の豪族村上義清の拠点の一つである戸石城を攻めた際、武田軍は村上軍の激しい抵抗により総崩れ寸前となったが、この危機的状況を山本勘助の策によって形勢逆転させ、勝利に導いたとされる。この戦功により、勘助は知行800貫の足軽大将に昇進したという 5

しかし、より著名なのは天文19年(1550年)の戸石城攻め、いわゆる「戸石崩れ」におけるエピソードである。この戦いで武田信玄は、村上義清が守る戸石城の堅固な守りに阻まれ、重臣の横田高松らが討死するなど、かつてない大敗北を喫した 2 。武田軍が絶体絶命の窮地に陥ったこの時、山本勘助が「破軍建返し(はぐんたてかえし)」と呼ばれる奇策を献じ、両角虎定(もろずみとらさだ)の率いるわずか50騎の兵を借り受けて本陣に見せかけた偽の陣を形成し、これを巧みに移動させることで村上軍を混乱させ、武田本軍の態勢立て直しに成功したと伝えられている 1

ただし、この戸石崩れに関する『甲陽軍鑑』の記述については、史実では武田軍の大敗であったにもかかわらず、勘助の活躍によって最終的に勝利したかのように描かれているという指摘があり、史料批判の対象となっている 3 。これは、『甲陽軍鑑』が特定の人物や出来事を顕彰する意図を持って編纂された可能性を示唆しており、勘助の功績を語る上で注意が必要な点である。

上田原の戦いへの関与

天文16年(1547年)に起こった上田原の戦いにおいても、山本勘助の献策によって武田信玄が勝利を得たと『甲陽軍鑑』などは記している 1 。しかし、この戦いは史実においては武田軍が村上義清に敗北を喫し、板垣信方や甘利虎泰といった宿将を失った重要な敗戦であったことが確認されている 18 。ここでもまた、『甲陽軍鑑』が史実を改変し、勘助の活躍を挿入している可能性が高い 3

一方で、この敗戦から教訓を得たとする説も存在する。敗れたものの、勘助は敵将村上義清が用いた兵種別に部隊を編成する画期的な戦術を詳細に観察・記録して持ち帰り、これを武田軍にも採用させた結果、その後の武田軍の陣形運用に大きな影響を与えたというものである 3 。また、勘助の武田家仕官に尽力したとされる板垣信方がこの戦いで討死していることは、勘助にとっても大きな出来事であったろう 24

築城術と海津城

山本勘助は、軍略のみならず、高い築城技術を持っていたとされ、その能力は武田信玄に高く評価されていたと伝えられる 1 。武田二十四将、武田五名臣の一人に数えられる所以の一つとも言えよう。

その代表的な業績として、天文22年(1553年)、越後の上杉謙信の侵攻に備えるため、信玄の命により北信濃の戦略的要衝である川中島に海津城(後の松代城)を築城したことが挙げられる 1 。この城は、対上杉戦における武田方の最前線拠点として、その後の川中島の戦いで重要な役割を果たした。

海津城以外にも、勘助は信濃攻略の過程で複数の城の築城や改修に関与したとされる。具体的には、高遠城 27 、小諸城 27 、そして前述の戸石城 27 などが挙げられる。これらの城は、それぞれの地域の地理的特性を活かした堅固なものであったとされ、勘助の築城家としての才能を物語っている。後世には、「山本勘助入道道鬼流兵法」という独自の築城術を確立したとまで言われるようになった 10

甲州法度之次第への関与

武田家の領国経営の根幹をなす分国法「甲州法度之次第」(正式名称は「甲州法度之次第」または「信玄家法」)の制定にも、山本勘助が関与したという説がある。この法度は天文16年(1547年)頃に制定されたとされ、武田氏の統治体制を確立する上で極めて重要な法令であった 1

勘助の関与については、彼が長期間にわたり駿河国に滞在した経験があり、その際に今川家の分国法である「今川仮名目録」に触れ、これを参考にして甲州法度を編纂したという見方がある 5 。具体的には、軍事・行政・司法に関する規定をまとめた上巻(信玄家法)と、家臣の倫理規範や武道、兵法、礼儀作法などを規定した下巻(甲州法度之次第)の二部構成にしたのが勘助であったという説である。特に、武家社会における紛争解決の原則として知られる「喧嘩両成敗」の条項は、この甲州法度にも含まれており、勘助の思想が反映されたものとも言われる 1

しかしながら、甲州法度之次第の制定に山本勘助が具体的にどのように、どの程度関与したのかを直接的に証明する一次史料は乏しいのが現状である 10 。彼の法制への関与は、『甲陽軍鑑』など後世の記述に依るところが大きい。

その他の活動と評価

山本勘助は、特定の戦術や築城術に留まらず、広範な知識と洞察力を持っていた人物として描かれることが多い。諸国の情勢に精通しており、遠く西国の毛利元就や大内義隆といった大名たちの動向についても熟知していたとされる。さらに、今川義元が桶狭間の戦いで討死することを予見していたという逸話も残っており 3 、信玄にとって「Wikipediaのような存在」であったと評する向きもある 3

また、『甲陽軍鑑』においては、勘助が呪術や占術、特に合戦の日時や吉凶を占う「日取り」にも長けていたと記されている 3 。戦国時代において、戦の勝敗を天運に委ねる思想や、神仏の加護を祈ることは極めて重要であり、勘助がそうした祈祷師的な役割も担っていたとすれば、それは彼の軍師としての立場を補強するものであったかもしれない。

主君である武田信玄は、勘助の隻眼を指して「万人の目は星の如く輝き、勘助の隻眼は月の如く(暗がりをも照らし、真実を見抜く)」と評したという有名な逸話も伝えられており 20 、信玄が勘助の特異な才能を高く評価していたことを示唆している。

これらの多岐にわたる活動や逸話は、山本勘助という人物が、単なる一軍略家ではなく、武田信玄の知恵袋として、また時には精神的な支柱としても機能していた可能性を示している。しかし、ここでもまた、『甲陽軍鑑』における記述が中心であり、その史実性については慎重な吟味が必要である。例えば、華々しい軍略家としての側面と、築城や法度編纂といったより実務的な貢献が混在しており、どちらが勘助の実像に近いのか、あるいは両立し得たのかは、依然として議論の対象となっている。近年の「山本菅助」文書の発見は、使者としての活動や特定の軍事作戦への関与といった、より具体的な役割を示唆しており、伝説的な軍師像とは異なる側面を浮かび上がらせている。この「軍師」像と「実務家」像の間の緊張関係こそが、山本勘助研究の面白さであり、難しさでもあると言えよう。

4. 第四次川中島の戦いと勘助の最期

山本勘助の名を戦国史に不滅のものとしたのは、永禄4年(1561年)9月に起こった第四次川中島の戦いにおける壮絶な最期と、そこで用いられたとされる「啄木鳥戦法(きつつきせんぽう)」であろう。この戦いは、武田信玄と上杉謙信という当代きっての英雄同士が激突した、戦国時代屈指の大規模合戦として知られている。

啄木鳥戦法の立案と展開

第四次川中島の戦いにおいて、上杉謙信率いる軍勢が武田方の海津城と対峙する妻女山(さいじょさん)に布陣すると、膠着状態を打破すべく、山本勘助が武田信玄に献策したのが「啄木鳥戦法」であったとされる 1

この作戦の骨子は、武田軍の兵力を二手に分け、一方の別働隊(高坂昌信、馬場信春らが率いたとされる)が夜陰に乗じて妻女山の背後に回り込み、夜明けと共に上杉軍を奇襲するというものであった。そして、奇襲に驚いた上杉軍が山を下りて八幡原(はちまんぱら)方面へ退却してきたところを、予め八幡原に布陣していた武田軍本隊と挟撃し、殲滅するという計画であった 2 。この戦法は、啄木鳥が嘴で木の幹を叩き、驚いて穴から出てきた虫を捕食する様に擬えられたことから、その名が付いたと説明される 2 。『甲陽軍鑑』の記述によれば、この啄木鳥戦法は、勘助が馬場信春ら重臣と十分に協議した上で決定されたものともされる 15

戦法の失敗と武田軍の危機

しかし、この緻密に練られたはずの作戦は、敵将・上杉謙信の慧眼によって完全に見破られてしまう 1 。謙信は、海津城から立ち上る炊煙の量の変化などから武田方の動きを察知したとも言われ、武田軍の別働隊が妻女山に到着した時には、そこは既にもぬけの殻であった 5

謙信は、武田軍の意図を逆手に取り、夜間に全軍を率いて密かに妻女山を下り、武田軍本隊が待ち受ける八幡原に逆に布陣したのである。夜明けの濃霧が晴れた時、武田信玄と山本勘助の眼前に現れたのは、いるはずのない上杉軍の大部隊であった。手薄な本隊で予期せぬ奇襲を受ける形となった武田軍は、上杉軍の猛攻の前に一時苦戦を強いられ、信玄の実弟である副将・武田信繁や、宿老の諸角虎定(もろずみとらさだ)をはじめとする多くの有力武将が討死するという甚大な損害を被った 3

勘助の奮戦と討死

自らが献策した作戦の失敗が、主君と武田軍全体を未曾有の危機に陥れたことを悟った山本勘助は、その責任を一身に感じ、状況を打開すべく行動したと伝えられる。彼は、残された手勢を率いて勇猛果敢に上杉軍の只中に突入し、獅子奮迅の働きを見せたが、衆寡敵せず、壮絶な討死を遂げたとされる 1 。その享年は69歳であったとも言われている 3

一説には、上杉軍の坂木磯八(さかきいそはち)という武者によって首を討ち取られたとも 1 、あるいは全身に60ヶ所以上もの傷を負って力尽きたとも描写される 8

戦後、勘助の家臣たちがその遺体を探し求め、首と胴体が別々になっていたものを発見し、後に千曲川のほとりの胴合橋(どうあいばし)の袂に埋葬したという伝説も残されている 31 。この壮絶な最期は、勘助の悲劇的な英雄像を決定づけるものであった。また、当て推量や勘に頼ることを意味する「ヤマカン」という言葉の語源の一つが山本勘助であるという説も、この川中島の戦いにおける作戦の成否に関連して語られることがある 1 。この戦法が大胆な賭けであったと見なされたことが、そうした俗説を生んだのかもしれない。

異説と評価

山本勘助の最期を飾るこの啄木鳥戦法と討死の物語は、非常に劇的であるが故に、その史実性についてはいくつかの疑問点も提示されている。まず、啄木鳥戦法という名称自体が、『甲陽軍鑑』の本文中には見られず、後世になって付けられたものである可能性が高い 6 。また、作戦そのものが後世の創作であるという見解も存在する 18

さらに、勘助の最期についても、川中島で戦死したという確証は必ずしも強いものではないとする説もある 18 。興味深いことに、『甲陽軍鑑』の川中島の戦いにおける戦死者リストには、山本勘助の名は「軍師」としてではなく、「旗本足軽頭」として記録されているという指摘もある 3 。これは、一般に流布している「軍師山本勘助」のイメージとは異なる側面を示唆している。

このように、啄木鳥戦法は山本勘助の物語における最大のクライマックスであると同時に、その史実性を巡る論争の中心でもある。このエピソードの劇的な性質が、勘助の伝説化を一層推し進めたことは間違いない。戦いに敗れ、その責任を自らの命で償うという姿は、武士道的な価値観、特に責任感や潔さといった徳目を色濃く反映しており、後世における勘助評価、とりわけ江戸時代以降の武士道が理想化される中で、その英雄像を形成する一因となった可能性が高い。彼の死に様は、単なる戦術家としてではなく、武士としての生き様を示すものとして語り継がれてきたのである。

5. 山本勘助存在説の虚実:『甲陽軍鑑』から古文書発見へ

山本勘助という人物の実在性、そしてその具体的な活動内容を巡る議論は、長らく歴史学における興味深いテーマの一つであった。その議論の中心には、常に軍学書『甲陽軍鑑』の史料的評価と、近年相次いで発見・再評価された一次史料群との比較検討が存在する。

『甲陽軍鑑』における勘助像とその史料的課題

山本勘助の名が歴史上に登場する主要な典拠は、長らく武田家の軍学書として知られる『甲陽軍鑑』であった 3 。この書物は、江戸時代前期に武田家旧臣の子孫である小幡景憲らによって編纂されたとされ 23 、武田信玄・勝頼二代に仕えた高坂昌信(春日虎綱)の口述記録を基にしたものと伝えられている。しかし、その成立過程や内容には、後世の加筆や編纂者の意図による創作、脚色が多く含まれている可能性が早くから指摘されてきた 22

その結果、『甲陽軍鑑』自体の史料的価値、特に戦国時代の事実を正確に伝える記録としての信頼性については、多くの疑問が呈されてきた。そして、その影響は山本勘助の評価にも及び、明治時代以降、東京帝国大学教授であった田中義成氏らによって、『甲陽軍鑑』にのみ華々しく登場する山本勘助は架空の人物であるという説が提唱され、一時は学界の定説とまで見なされる状況であった 5 。実際に、『甲陽軍鑑』における勘助の活躍譚には、他の信頼性の高い史料と照らし合わせると矛盾する点(例えば、上田原の戦いや戸石崩れの戦いにおける勝敗の結果など 3 )や、明らかに勘助の功績を過大に描いていると思われる箇所が散見される 3

「山本菅助」文書の発見とその衝撃

このような状況に大きな転換期が訪れたのは、昭和44年(1969年)のことである。当時放送中であったNHK大河ドラマ『天と地と』がきっかけとなり、北海道在住の視聴者が所蔵していた「市河家文書」の中に、武田信玄の花押(サイン)が入った書状が存在し、そこに「山本菅助(やまもとすげすけ)」という名が記されていることが明らかにされたのである 3 。この市河家文書中の該当箇所は、信玄が信濃国境の有力国衆である市河氏(市河藤若)に対し、詳細については使者として派遣する山本菅助に口上させる旨を伝えたものであり 15 、これは「山本菅助」なる人物が、信玄の正式な使者を務めるほどの地位にあったことを示すものであった 36

さらに時代は下り、平成20年(2008年)には、群馬県安中市の旧家である真下家から「真下家所蔵文書」が発見され、大きな注目を集めた。この文書群の中には、武田信玄(当時は晴信)が「山本菅助」に宛てて発給した書状が複数含まれていたのである 3 。これらの真下家文書には、例えば天文17年(1548年)に信濃国伊那郡における山本菅助の軍功を賞して恩賞(黒駒の関銭100貫文)を与える内容の判物 15 や、具体的な軍事作戦の検討と、武田家の宿老である小山田氏の見舞いを指示する内容の書状 15 などが含まれていた。

これらに加えて、静岡県沼津市の山本家(沼津山本家)に伝来した「沼津山本家文書」からも、山本菅助およびその一族に関連する史料が確認されている 3 。興味深いことに、これらの沼津山本家文書によれば、「山本菅助」の子孫たちは、初代の「菅助」を『甲陽軍鑑』に登場する山本勘助と同一人物であると認識し、その家系を伝えていたことが示唆されている 11

これらの一次史料の発見は、長らく「架空の人物」とされてきた山本勘助の実在性を巡る議論に決定的な影響を与えた。まさに、歴史研究における一次史料の発見が、長年の定説を覆し、歴史像を再構築する力を持つことを示す象徴的な出来事であったと言える。

「勘助」と「菅助」は同一人物か

市河家文書、真下家所蔵文書、沼津山本家文書などの発見により、「山本菅助」という名の武田家臣が実在し、武田信玄(晴信)に仕えていたことは、歴史学的にほぼ確実な事実となった 3

問題は、この「山本菅助」が、『甲陽軍鑑』で華々しく描かれる「山本勘助」と同一人物であるかどうかという点である。この点に関しては、研究者の間でも完全な意見の一致を見ているわけではないが、多くの研究者は両者を同一人物、あるいは「菅助」が「勘助」のモデルとなった実在の人物であると見なす説を支持するようになっている 5 。その根拠の一つとして、真下家所蔵文書中の書状に見られる山本菅助の法号「道鬼(どうき)」が、『甲陽軍鑑』で語られる山本勘助の法号と一致する点が挙げられる 8

ただし、これらの古文書から浮かび上がる「山本菅助」の具体的な活動内容(使者としての役割、特定の地域での軍事活動、それに対する恩賞など)は、『甲陽軍鑑』が描くような、あらゆる軍略に通じ、戦の勝敗を左右する万能の軍師「山本勘助」像とは、やや趣を異にする。発見された史料が示す「山本菅助」は、より現実的で、特定の任務を遂行する有能な武将であった可能性が高い。この「菅助」の実像と「勘助」の伝説との間には、依然として埋めなければならない間隙が存在する。伝説化の過程で、実在の人物である「菅助」の功績が、後世に拡大解釈されたり、他の武将の逸話が吸収されたりして、英雄的な「勘助」像が形成されていったのではないかという推測も成り立つ 10

現代における研究と評価

近年の歴史研究においては、『甲陽軍鑑』の記述を全面的に否定するのではなく、史料批判の手法を徹底した上で、利用できる部分と後世の創作・脚色と見られる部分とを慎重に区別しようとするアプローチが主流となっている 7

山本菅助(勘助)の実像については、従来の「軍師」というイメージよりも、信濃方面における調略活動や外交交渉(使者)、特定の軍事作戦の立案やその実行部隊の指揮などに関与した、実務能力に長けた武将であったという評価が有力になりつつある 15 。山梨県立博物館などが中心となり、これらの新出史料の詳細な分析を通じて、山本菅助(勘助)とその一族の実像解明に向けた研究が精力的に進められている 44

山本勘助(菅助)関連主要史料比較

史料名

年代(成立時期)

勘助/菅助に関する主な記述内容

史料的評価/意義

甲陽軍鑑

江戸時代前期(元和年間~)

武田信玄の軍師として数々の献策、築城、諏訪御料人縁組の推進、川中島の啄木鳥戦法と討死など、広範な活躍が詳細に描かれる 3

長らく勘助の唯一の典拠。物語性が強く、史実との乖離や脚色も多いが、武田家の軍学や思想を知る上で価値あり。勘助像形成に決定的影響 7

市河家文書

戦国時代(弘治3年/1557年付の書状など)

武田信玄が市河氏に宛てた書状中に「猶可有山本菅助口上候」とあり、菅助が信玄の使者として重要な伝達役を担ったことを示す 41

昭和44年(1969年)の発見。「山本菅助」の実在を初めて一次史料で確認させ、勘助非実在説を覆す契機となった画期的史料 5

真下家所蔵文書

戦国時代(天文17年/1548年付の判物など)

山本菅助宛の武田晴信(信玄)判物・書状。伊那郡での軍功に対する恩賞(黒駒関銭100貫)、軍事作戦の検討指示、宿老小山田氏への見舞い指示など、菅助の具体的な活動と信玄からの信頼を示す 15

平成20年(2008年)発見。菅助の具体的な活動内容、武田家中での立場を明らかにし、実像研究を大きく進展させた重要史料群 3

沼津山本家文書

戦国時代~江戸時代

初代「山本菅助」を『甲陽軍鑑』の勘助と同一視する家伝や、菅助の子孫が甲州流軍学者として活動した記録などを含む 11 。真下家文書の一部と関連 15

菅助一族の歴史や、後世における勘助像の受容を示す史料。真下家文書と合わせて研究することで、より詳細な実像に迫れる可能性がある 44

6. 後世への影響と語り継がれる勘助像

山本勘助の物語は、その謎多き生涯と劇的なエピソードにより、後世の人々を強く惹きつけ、文学、映像作品、さらには伝説や俗説に至るまで、様々な形で語り継がれてきた。これらの受容の歴史は、勘助のパブリックイメージを形成し、現代に至るその知名度を支える大きな要因となっている。

文学・映像作品における勘助

山本勘助の名を不動のものとした最大の功労者の一つは、作家・井上靖による歴史小説『風林火山』であろう 2 。この作品は、勘助を主人公に据え、その知略、武田信玄への忠誠、そして諏訪御料人への秘めた想いなどを描き出し、多くの読者を魅了した。この小説を原作とする映画やテレビドラマも繰り返し制作され、勘助のイメージ形成に決定的な影響を与えた。

井上作品以外にも、新田次郎の『武田信玄』 11 など、数多くの歴史小説が山本勘助を重要な登場人物として描いてきた。映像作品においても、映画では三船敏郎 37 、テレビドラマでは里見浩太朗 37 、西田敏行 36 、そして2007年のNHK大河ドラマ『風林火山』で主演した内野聖陽 36 など、日本を代表する俳優たちが勘助役を演じ、それぞれに個性的な勘助像を提示してきた。

これらの創作作品群は、共通して、勘助の持つドラマチックな要素、すなわち、隻眼で足が不自由という異形の姿、不遇の前半生と遅咲きの仕官、天才的な軍略家としての才能、武田信玄への絶対的な忠誠、由布姫(諏訪御料人)への思慕、そして第四次川中島の戦いにおける啄木鳥戦法の失敗と壮絶な討死といったエピソードを繰り返し取り上げ、これらが山本勘助の典型的なパブリックイメージとして広く社会に定着する上で大きな役割を果たした 11 。歴史上の人物が、大衆文化という媒体を通じてどのように増幅され、再生産されていくかを示す好例であり、勘助の持つ物語性が創作の格好の題材となった一方で、創作物がその人物の特定のイメージを強固なものにしたという、相互作用的な関係が見て取れる。

伝説と語源

山本勘助にまつわる伝説や逸話も数多く存在する。その中でも特に有名なのが、「ヤマカン」という言葉の語源が山本勘助であるとする説である 1 。これは、当てずっぽうや勘に頼ることを意味する俗語であるが、一説には、山本勘助が川中島の戦いで献策した啄木鳥戦法が、結果的に上杉謙信に見破られて裏目に出たことや、その戦略が時に大胆な賭けや直感に基づいていたと見なされたことから、彼の名と結びつけて語られるようになったとされる。この語源説の真偽は定かではないが、勘助のミステリアスで型破りな軍師像を補強する逸話として興味深い。

その他にも、若い頃に猪に襲われて片目を失ったという武勇伝めいた逸話 10 や、高野山での修行中に弘法大師の霊から守り本尊である摩利支天像を授かったという伝説 6 なども伝えられており、これらは勘助の人物像に超人的な、あるいは神秘的な色彩を加えている。

史跡と墓所

山本勘助ゆかりの地とされる史跡や墓所も、日本各地に点在し、彼の記憶を今に伝えている。

最も有名な関連史跡は、長野県長野市松代にある海津城(後の松代城)であろう 2 。この城は、勘助が武田信玄の命により、対上杉氏の拠点として築城したと伝えられている。

また、第四次川中島の戦いの舞台となった川中島古戦場史跡公園(長野市)には、勘助を祀る「勘助宮」 53 、勘助の首と胴体をつなぎ合わせて埋葬したとされる伝説が残る「胴合橋」 31 、そして戦死者の供養塚である「首塚」 32 など、勘助や川中島の戦いに関連する数多くの碑や史跡が残されている。

山本勘助の墓とされる場所も複数存在する。

  • 信州柴阿弥陀堂境内(長野県長野市松代町) :元々は千曲川のほとりの勘助塚にあったが、川の氾濫による荒廃を避けるため、江戸時代に松代藩家老らによって信玄ゆかりのこの地に移され、墓碑が建立された 25
  • 長谷寺(愛知県豊川市牛久保町) :勘助の故郷とされる地の一つで、武田信玄に仕官する際に託した遺髪が埋められたと伝えられる五輪の墓があり、勘助が守護神としていた摩利支天像も共に安置されている 2
  • 長興寺(東京都) :ここにも勘助の墓とされるものがある 55
  • 山本勘助屋敷墓(無逢塔)(山梨県甲府市) :勘助の法名「道鬼」が入った戒名「天徳院武山道鬼居士」が刻まれた墓碑がある 57

これらの史跡や墓所の存在は、山本勘助という人物が、史実の枠を超えて、各地で記憶され、語り継がれてきた証左と言えるだろう。

現代における評価の変遷

山本勘助に対する評価は、時代と共に変遷を遂げてきた。江戸時代には、『甲陽軍鑑』が広く読まれたことを背景に、その特異な容貌や劇的な生涯、そして天才的な軍略などが人々の関心を集め、伝説的な軍師として高い人気を博した。歌舞伎や浄瑠璃の題材となり、また、数多くの浮世絵にもその姿が描かれた 2

しかし、明治時代に入り、西洋的な実証主義に基づく近代歴史学が導入されると、『甲陽軍鑑』の史料的価値に対する疑念が高まり、それに伴い山本勘助の実在性も否定される傾向が強まった 36 。一時は、勘助は『甲陽軍鑑』の作者が創作した架空の人物であるという見解が学界の主流を占めた。

この状況が再び変化したのは、昭和44年(1969年)の市河家文書の発見以降である。この文書に「山本菅助」の名が見出されたことは、大きな衝撃をもって受け止められ、勘助実在説が再浮上するきっかけとなった。さらに平成に入ってからの真下家所蔵文書などの発見は、この「山本菅助」なる人物が武田信玄に仕えた実在の家臣であったことをより確かなものとし、現在では、山本勘助(菅助)は実在の人物であったという認識が広く共有されるに至っている 6

ただし、その具体的な役割や功績、そして『甲陽軍鑑』に描かれるような華々しい軍師としての活躍がどこまで史実を反映しているのかについては、依然として研究途上であり、多くの謎が残されている 3 。この解明されきらない部分こそが、山本勘助という人物の尽きない魅力を形成しているとも言えるだろう。

7. 結論:山本勘助の実像と伝説

山本勘助を巡る探求は、戦国時代の歴史研究における史料批判の重要性、一次史料の発見がもたらす歴史像の転換、そして史実と伝説がいかに複雑に絡み合い、一人の人物像を形成していくかを示す、極めて興味深い事例である。

史料から浮かび上がる「山本菅助」

近年の市河家文書、真下家所蔵文書、沼津山本家文書といった古文書の研究によって、「山本菅助」という名の武田家臣が実在し、武田信玄(晴信)に仕えていたことは、もはや疑いようのない事実として受け入れられている。これらの史料から浮かび上がる山本菅助の姿は、以下のようである。

  • 信濃方面での活動 : 特に信濃国伊那郡における軍事活動で功績を挙げ、信玄から恩賞として黒駒の関銭を与えられている 15 。これは、彼が武田家の信濃経略において、実務的な役割を担っていたことを示唆する。
  • 使者・交渉役 : 信濃国境の有力国衆である市河氏への使者を務めたり 41 、武田家宿老の小山田氏への見舞いと軍事作戦の協議を信玄から直接命じられたりしている 39 。これは、彼が単なる一兵卒ではなく、信玄から一定の信頼を得て、外交交渉や家中の連絡調整といった高度な任務を任される立場にあったことを物語る。
  • 軍事作戦への関与 : 信玄から直接「揺(ゆらぎ)」、すなわち軍事作戦の検討を指示されており 43 、戦略・戦術レベルでの貢献があった可能性が高い。

これらの活動は、彼が武田家中において、特定の地域や任務において専門性を発揮する、有能かつ信頼された実務官僚、あるいは中堅指揮官であったことを示している。

『甲陽軍鑑』が創り上げた「山本勘助」像

一方で、私たちが一般に「山本勘助」として思い描くイメージの多くは、江戸時代に成立した軍学書『甲陽軍鑑』によって形作られたものである。この書物に描かれる勘助は、以下のような特徴を持つ。

  • 万能の軍師 : 諏訪攻略における諏訪御料人の縁組進言 5 、戸石城での起死回生の策 5 、そして川中島の戦いにおける啄木鳥戦法の立案 5 など、武田軍の重要な局面で常に決定的な献策を行う天才的軍略家として描かれる。
  • 築城の名手 : 海津城をはじめとする数々の城の設計・築城を手がけたとされる 25
  • 異形の英雄 : 隻眼で片足が不自由という身体的ハンディキャップを抱えながらも、その知略で主君に尽くすという、物語性の高い人物として造形されている 2
  • 劇的な最期 : 川中島の戦いで自らの策の失敗の責任を取り、壮絶な討死を遂げるという、悲劇的英雄としての側面が強調される 3

『甲陽軍鑑』は、実在した「山本菅助」という人物をモデルにしつつも、その功績を大幅に拡大解釈したり、他の武将の逸話を吸収したり、あるいは全くの創作を加えたりすることで、このような英雄的な「山本勘助」像を創り上げた可能性が高い。その背景には、武田家の武勇伝を後世に伝えたいという意図や、軍学の教本としての教訓的な要素、さらには読者の興味を引くための物語的要請があったと考えられる。

実像と伝説の交錯

山本勘助(菅助)の実像は、長らく『甲陽軍鑑』が描く伝説のベールに覆い隠されてきた。しかし、近年の史料研究の進展は、そのベールを少しずつ剥がし、より現実に近い姿を私たちの前に提示しつつある。「山本菅助」文書から見えてくるのは、地道な諜報活動、特定の戦線での戦功、そして主君の信頼を得て重要な使者の任をこなす、戦国時代によく見られる有能な家臣の姿である。

しかし、それは決して『甲陽軍鑑』の記述が全て虚構であるという意味ではない。『甲陽軍鑑』が描く勘助の知略や人間的魅力には、実在の菅助の何らかの側面が反映されていた可能性も否定できない。そして何よりも、この「謎多き」部分こそが、山本勘助という人物の尽きない魅力を形成している。完全に解明されない過去は、後世の人々の想像力を刺激し、新たな物語を生み出す源泉となる。史実の「山本菅助」と伝説の「山本勘助」とが複雑に絡み合い、分かち難く結びついていることこそが、彼が戦国武将の中でも特異な存在として、現代に至るまで多くの人々を引きつけてやまない理由であろう 3

歴史学における意義と今後の展望

山本勘助を巡る研究史は、歴史学という学問のあり方そのものについて、多くの示唆を与えてくれる。それは、史料に対する厳密な批判的検討の重要性、一つの史料(『甲陽軍鑑』)に過度に依拠することの危険性、そして新たな一次史料の発見が既存の歴史像を劇的に転換させうるというダイナミズムを示している。また、一度形成された伝説や大衆的イメージが、学術的な知見とどのように相互作用し、時にはそれに対抗しうる力を持つのかという、歴史認識の複雑な様相をも映し出している。

今後も、未発見の史料の出現や、既存史料の新たな解釈、関連分野(考古学、民俗学など)からのアプローチなどによって、山本勘助(菅助)のより詳細な実像が解明されていくことが期待される。その過程は、単に一人の戦国武将の生涯を明らかにするに留まらず、戦国時代の社会や武士のあり方、そして歴史がどのように語り継がれていくのかという、より大きな問いへの理解を深めることにも繋がるであろう。山本勘助の物語は、未だ終わりを迎えていないのである。

引用文献

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  59. 週刊 日本の100人のバックナンバー (2ページ目 30件表示) | 雑誌/定期 https://www.fujisan.co.jp/product/1281692980/b/list/?page=2&limit=30