戦国時代の越後を駆け抜けた武将、山本寺定長(さんぽんじ さだなが)。彼の名は、多くの場合、「上杉謙信の養子・景虎の後見役を務め、謙信死後の家督争いである御館の乱で景虎を推して戦うも敗れ、出奔した人物」として簡潔に語られる 1 。この概要は事実の骨格を捉えているものの、彼の生涯の複雑さや、その選択の背後にあった力学を十分に描き出してはいない。定長はなぜ、破滅の道を歩むと予見されたかもしれない景虎方への加担を選んだのか。そして、歴史の記録から忽然と姿を消した彼の「失踪」は、何を物語るのか。
本報告書は、こうした問いに答えるべく、断片的に残された史料を丹念に繋ぎ合わせ、一人の武将の生涯を立体的に再構築する試みである。山本寺定長という個人の軌跡を深く掘り下げることは、単に一人の武将の伝記をなぞるに留まらない。それは、軍神・上杉謙信という絶対的なカリスマを失った巨大軍事組織が、後継者問題という内部矛盾によっていかにして崩壊の危機に瀕したか、そしてその激動の中で武士たちが如何なる論理と情念に基づいて行動したかを解明する鍵となる。
本報告は、まず山本寺氏の出自と上杉家におけるその特異な地位を明らかにし、次いで謙信麾下での武功、そして彼の運命を決定づけた上杉景虎の傅役(ふやく)という重責について詳述する。さらに、最大の転換点である御館の乱における彼の選択と一族の分裂、そして乱後の彼の消息と、家名を継いだ一族の悲劇的な運命を追う。これらの分析を通じて、山本寺定長という武将の栄光と悲劇に満ちた生涯を浮き彫りにし、戦国という時代の非情な現実と、その中で忠義に生きた人間の宿命を考察する。
山本寺定長の行動原理を理解するためには、まず彼が属した山本寺上杉家が、上杉氏の中でいかに特別な存在であったかを知る必要がある。彼の選択は、個人の思惑以上に、その家格と立場によって強く規定されていた。
山本寺上杉家は、越後守護上杉家の庶流であり、その血統は上杉氏の根幹に連なる名門であった 3 。始祖については、上杉房朝の弟・朝定に始まるとの説があるが、資料によって記述が異なり、必ずしも明確ではない 3 。しかし、系譜的には関東管領を輩出した名門・犬懸上杉家の流れを汲むとされ、その家柄の高さは疑いようがない 3 。
定長の祖父・山本寺定種は、越後守護・上杉房能が守護代・長尾為景(上杉謙信の父)に討たれた際に殉死したと伝わる 1 。父は定景とされる 1 。この事実は、山本寺家が代々、守護上杉家と運命を共にするほどの強い結びつきを持っていたことを示している。為景の台頭期には、守護上杉方を支持して長尾氏と対立した歴史があり、この経緯は後の上杉家中の複雑な権力構造を理解する上で重要な背景となる 1 。
山本寺定長が謙信政権下で占めていた地位は、単なる「重臣」という言葉では表現しきれないほど高いものであった。その事実は、二つの重要な史料によって裏付けられている。
第一に、永禄二年(1559年)に作成されたとされる家臣の序列帳『諸国衆御太刀之次第写』において、定長は上杉景信(古志長尾家当主)、桃井義孝と並び、「直太刀之三人衆」の一人として序列第三位に記載されている 7 。これは、彼が儀礼の場で謙信に直接太刀を献上できる最高幹部であり、上杉家の政策決定の中枢にいたことの動かぬ証拠である。この地位は、単なる家柄だけでなく、謙信からの絶大な信頼がなければ得られないものであった。
第二に、天正三年(1575年)の『上杉家軍役帳』によれば、山本寺氏は上杉一門の中で第六番目の家格に位置づけられ、71人の軍役(鑓50、手明10、鉄砲2、大小旗3、馬上6)を課せられていた 1 。これは、彼の具体的な軍事動員力を示すと共に、一門内での明確な序列を物語っている。
このように、定長は血筋、実績、そして謙信からの信頼のいずれにおいても、上杉家中で最高位に位置する人物であった。この極めて高い地位は、彼に名誉をもたらす一方で、上杉一門の秩序と伝統を体現し、守護する責務を負わせるものでもあった。後に彼が上杉景虎の傅役に任命されたのは、この家格と信頼があったからに他ならない。そして、その重責こそが、彼を御館の乱という悲劇の渦中へと引きずり込む最大の要因となるのである。彼の運命は、その輝かしい地位そのものに、既に内包されていたと言っても過言ではない。
表1:山本寺氏 略系図
世代 |
人物名 |
続柄・備考 |
祖父 |
山本寺 定種 |
上杉房能に殉死したと伝わる 1 。 |
父 |
山本寺 定景 |
定長の父 1 。 |
当主 |
山本寺 定長 |
本報告書の主題。官位は伊予守 1 。 |
子/弟 |
山本寺 孝長(景長) |
定長の子または弟とされる 1 。御館の乱では景勝方に属し、後に家督を継ぐが魚津城で自刃 13 。 |
子/弟 |
山本寺 勝長 |
定長の子または孝長の弟とされる 1 。乱後は上杉家に帰参し、米沢藩士として家名を存続させた 12 。 |
山本寺氏の拠点であった不動山城は、越後国頸城郡、現在の新潟県糸魚川市に位置する山城であった 1 。早川の急流を天然の堀とし、四方を絶壁に囲まれたこの城は、西の越中方面に対する国境の要害であり、軍事的・政治的に極めて重要な拠点であった 9 。定長はこの堅城を拠点に、上杉家の西の守りを担っていたのである。
山本寺定長は、名門の当主として遇されていただけではなかった。彼は上杉謙信の指揮下で数々の戦場を経験し、勝利と敗北の両方を味わった実戦経験豊富な武将であった。その戦歴こそが、謙信からの信頼を確固たるものにしたのである。
父祖の代には長尾氏と対立した山本寺氏であったが、定長は長尾晴景の代にはこれに従い、その弟である長尾景虎(後の上杉謙信)が家督を継承すると、その麾下で活動を続けた 1 。謙信政権初期からの重臣として、彼は早くからその武才を発揮する。弘治元年(1555年)、武田信玄との間で繰り広げられた第二次川中島の戦いに従軍し、軍功を挙げたことが記録されている 1 。これは、彼が謙信の主要な軍事行動に当初から中核として参加していたことを示している。
謙信がその勢力圏を越中方面へ拡大しようとすると、定長はその最前線に派遣される。これは、一門の重鎮であると同時に、重要な方面の攻略を任せられるだけの軍事指揮官としての能力を高く評価されていた証左である 1 。永禄四年(1561年)には、斎藤朝信らと共に越中へ派遣された記録も残っている 15 。
しかし、彼の戦歴は栄光ばかりではなかった。元亀三年(1572年)、越中の一向一揆勢に包囲された日宮城を救援するため出陣した際、神通川の渡し場において一向一揆軍と激突し、手痛い敗北を喫した 1 。この敗戦は、彼が常に順風満帆な戦いを続けてきたわけではなく、困難な戦況の中で苦闘する現実的な指揮官であったことを物語っている。
定長の武将としての姿は、川中島での華々しい軍功と、神通川での敗北という光と影の両面から捉えるべきである。彼は単に家格によって重用された名目上の一門衆ではなく、実際に戦場の泥をすすり、勝利の栄光と敗北の屈辱を身をもって知る、生身の武将であった。こうした実戦経験の積み重ねが、単なる主従関係を超えた、謙信からの人間的な信頼を醸成し、後に景虎の傅役という、上杉家の将来を左右するほどの重責を託されるに至った重要な背景であったと考えられる。
山本寺定長の運命を決定的に方向づけたのは、元亀元年(1570年)頃に下された一つの命令であった。それは、上杉謙信の養子となった上杉景虎の傅役(ふやく)への任命である。この役職は、単なる政治的任命に留まらず、定長の後半生を貫く忠誠心の源泉となった。
当時、上杉謙信は関東の雄・北条氏康と激しく対立していたが、武田信玄という共通の敵を前に、両者は和睦し同盟を締結する(越相同盟)。その同盟の証として、氏康の七男(一説には八男)である北条三郎が人質として越後に送られた 17 。謙信はこの聡明な若者を実の子のように寵愛し、自らの初名である「景虎」の名を与え、養子とした。これが上杉景虎である。
異郷の地・越後で、しかも敵対していた大名の家に養子として入った景虎の立場は、極めて繊細で孤独なものであった。この若き養子の教育と後見を託されたのが、山本寺定長であった 1 。傅役(史料によっては守役、後見役とも記される)の役割は、単に養子の身辺の世話をすることではない。養子先の家風や武家の作法、武芸、そして政治的な立ち居振る舞いまでを教え導く、師であり保護者でもある。特に、将来上杉家を担うかもしれない景虎の傅役は、家中の誰からも異論の出ない高い家格と、主君からの深い信頼がなければ務まらない重職であった。定長がこの役に選ばれたのは、彼が上杉一門の筆頭格であり、謙信が最も信頼を置く武将の一人であったからに他ならない。
定長が景虎の傅役を務めた期間は、天正六年(1578年)の御館の乱勃発までのおよそ8年間に及ぶ。この長い歳月は、当初は政治的な任命であった主従の関係を、より深く、人間的な絆へと昇華させるのに十分な時間であった。
定長は、多感な青年期を越後で過ごす景虎にとって、最も身近で信頼できる大人であったはずである。彼は景虎に越後の武士としての生き方を教え、時には厳しく、時には温かく見守ったであろう。一方、景虎もまた、傅役である定長を越後における「父」のように慕い、全幅の信頼を寄せていたと想像に難くない。
この約8年間に育まれた師弟として、また親子のような深い情誼こそが、御館の乱において定長が景虎を支持した、最も根源的な動機であったと結論付けられる。彼の行動は、どちらが家督を継ぐのが有利かといった冷徹な政治計算によるものではない。それは、自らが手塩にかけて育て上げた若君を、その窮地において見捨てることはできないという、人間的な情と、傅役としての責務感から発せられた「忠義」の発露であった。この視点なくして、彼のその後の悲劇的な選択を正しく理解することはできないであろう。
天正六年(1578年)3月13日、上杉謙信は後継者を明確に指名しないまま、春日山城で急逝した 19 。この絶対的指導者の突然の死は、上杉家に内紛の嵐を呼び起こし、山本寺定長を運命の岐路へと立たせることになった。
謙信には二人の養子がいた。一人は謙信の姉の子である上杉景勝、もう一人が北条家から来た上杉景虎である。謙信の死の直後、景勝方は「謙信公の遺言である」と称して、電光石火の速さで春日山城の本丸(実城)と金蔵・兵器蔵を占拠した 19 。これにより、景勝は家督相続争いにおいて決定的な優位に立つ。一方、城内の二の曲輪に居住していた景虎は完全に後手に回り、御館(前関東管領・上杉憲政の居館)へ立て籠もり、景勝に対抗する姿勢を示した 19 。こうして、越後を二分する大乱「御館の乱」の火蓋が切られたのである。
傅役として長年景虎に仕えてきた定長にとって、景虎方に与することは、もはや選択の余地のない、当然の帰結であった 8 。彼の加担は、景虎方にとって大きな意味を持った。上杉一門の筆頭格であり、謙信政権の最高幹部であった定長が味方につくことは、景虎の正当性を内外に示す上で極めて重要な象徴となったのである。景虎方には、前関東管領の上杉憲政をはじめ、古志長尾家の上杉景信、重臣の北条高広など、多くの有力武将が集ったが、その中でも定長は中核をなす存在であった 8 。
しかし、この定長の決断は、山本寺家に悲劇的な分裂をもたらす。定長の弟(一説には子)である山本寺孝長(景長)は、兄とは袂を分かち、景勝方に加わったのである 8 。これは、単なる兄弟間の意見の相違と見るべきではない。戦国の世において、一族が敵味方に分かれることは、どちらが勝利しても家名を存続させるための、苦渋に満ちた生存戦略であったとしばしば指摘される 21 。兄・定長は傅役としての「忠義」を貫き、弟・孝長は次代の覇者と目される景勝に付くという「現実」を選択することで、山本寺家全体として生き残りを図った可能性が高い。
乱は越後全土を巻き込む激しい内戦へと発展した。定長の本拠・不動山城も景勝方の攻撃に晒され、激しい攻防が繰り広げられた 9 。しかし、春日山城という中枢を抑え、家中の多数派工作にも成功した景勝方の優位は揺るがなかった。景虎の実家である北条氏からの援軍も遅れ、景虎方は次第に追い詰められていく。
天正七年(1579年)、景虎は御館で、あるいは鮫ヶ尾城へ逃れる途中で自刃し、景虎方は完全に壊滅した。この敗北により、山本寺定長もまたすべてを失った。彼は本拠である不動山城を捨て、歴史の表舞台から姿を消す。「失踪」したと、記録は簡潔に伝えている 1 。傅役としての忠義を貫いた結果、彼に残されたのは、敗軍の将という烙印と、行方知れずの逃亡者という運命だけであった。
御館の乱の終結と共に、山本寺定長の名は信頼できる史料からほぼ完全に姿を消す。彼の「忠義」は彼自身を歴史の闇に葬り去ったが、皮肉にも、彼とは異なる形で「忠義」を示した弟(または子)たちによって、山本寺家の物語はさらに悲劇的かつ複雑な様相を呈しながらも、後世へと続いていく。
御館の乱で敗れた後、定長が「居城を捨てて失踪した」というのが、諸史料が一致して伝えるところである 1 。育て上げた景虎の実家である相模の後北条氏を頼って落ち延びたのではないか、という推測は自然ではあるが、それを裏付ける史料は現存しない 24 。彼のその後の足取りは完全に不明であり、歴史の記録は、敗軍の将の末路に沈黙している。
考えられる可能性はいくつかある。一つは、落ち延びる途中で追討軍に討たれたか、あるいは病や傷がもとで落命したという可能性。もう一つは、武士の身分を捨て、僧侶や浪人としてどこかで静かに余生を送ったという可能性である。いずれにせよ、確かなことは、彼が二度と歴史の表舞台に現れることはなかったという事実だけである。彼の存在は、御館の乱の勝者である上杉景勝の時代の幕開けと共に、意図的にか偶然にか、歴史の記録から「抹消」されたに等しい。
兄・定長とは対照的に、景勝方として乱を生き延びた弟の山本寺孝長(景長)は、兄に代わって山本寺家の家督を継ぎ、不動山城主となった 1 。彼は景勝の忠実な家臣として、新たな上杉家の中核を担うことを期待された。
しかし、彼の運命もまた、過酷であった。天正十年(1582年)、織田信長の北陸方面軍を率いる柴田勝家が、破竹の勢いで越後へと迫る。孝長は主君・景勝の命を受け、吉江宗信らと共に越中の最前線である魚津城に籠城し、織田の大軍を迎え撃つことになった 12 。御館の乱で疲弊した上杉家に、魚津城へ大規模な援軍を送る余力はなかった。孝長らは孤立無援の中、絶望的な籠城戦を強いられる。景勝からは降伏を許可する旨の通達もあったとされるが、彼らは最後まで城を枕に討死する道を選んだ 12 。
そして同年6月3日、魚津城はついに落城。山本寺孝長は、城に残った十二人の将兵と共に壮絶な自刃を遂げた 13 。彼の死は、主君への忠義を尽くした壮烈な最期として、後世に語り継がれることになる。
ここに、歴史の非情な皮肉が存在する。彼らが自刃した前日の6月2日、遠く離れた京の本能寺では、織田信長が明智光秀に討たれていたのである(本能寺の変)。もし、あと一日か二日、魚津城が持ちこたえていれば、織田軍は混乱して撤退し、孝長たちは命を落とすことはなかったかもしれない 13 。定長の「忠義」が彼を歴史の闇に葬った一方、孝長の「忠義」は、彼に悲劇的ながらも名誉ある死をもたらしたのである。
孝長の死後、その遺児は出家して林泉寺の僧侶となった 12 。しかし、山本寺家の血脈はここで途絶えなかった。定長の子、あるいは孝長の弟とされるもう一人の人物、山本寺勝長がいたからである 12 。彼は乱後、上杉家に帰参を許され、主君・景勝の会津、そして米沢への移封に従った。そして、300石から500石取りの米沢藩士として、山本寺上杉家の家名を明治の世まで伝える役割を果たしたのである 3 。一度は敗者側に立った一族が、最終的には勝者の家臣団に組み込まれることで存続するという結末は、戦国時代の武家の生き残りの複雑さを象徴している。
山本寺定長の生涯は、戦国武将として誰もが夢見る天下統一や立身出世の物語とは対極にある。それは、自らが信じる「忠義」に殉じ、歴史の敗者として記録の狭間に消えていった一人の武士の物語である。
彼の人生を振り返ると、そこにはいくつかの明確な局面が見て取れる。まず、上杉一門の筆頭格として、謙信政権の中枢を担った栄光の時代。次に、謙信の信頼厚い実戦指揮官として、越後のために戦った武将としての一面。そして、彼の運命を決定づけた、養子・景虎の傅役としての責務と、そこから生まれた深い情誼。この最後の局面こそが、彼を必然的に御館の乱における景虎方への加担へと導き、破滅の道へと歩ませた。
彼の選択と末路は、一個人の悲劇に留まらない。それは、上杉謙信という絶対的なカリスマを失った巨大組織が、後継者という内部の問題を解決できず、いかに脆く崩れ去るかを示す生々しい実例である。定長の視点から御館の乱を追うことは、上杉家の歴史における最大の転換点を、権力闘争の力学だけでなく、個人の情念や忠誠心といった人間的な側面から鮮やかに理解させてくれる。
山本寺定長は、歴史の勝者ではない。彼の名は、華々しい戦功と共に語られることは少ない。しかし、彼の生涯は、自らの立場と責務、そして育て上げた若君への情愛に殉じた武士の「生き様」とは何かを、我々に静かに問いかける。勝者によって紡がれる歴史の記録からこぼれ落ち、失踪という謎に包まれた彼の存在を丹念に追う作業は、戦国という時代の複雑さと非情さ、そしてその中で確かに生きた人間の息遣いを、より深く感じさせてくれる貴重な機会なのである。
表2:山本寺定長 関連年表
西暦 |
和暦 |
年齢 |
出来事 |
出典 |
1519年 |
永正16年 |
1歳 |
3月14日、生まれる。 |
1 |
1555年 |
弘治元年 |
37歳 |
第二次川中島の戦いに従軍し、軍功を挙げる。 |
1 |
1559年 |
永禄2年 |
41歳 |
『諸国衆御太刀之次第写』において、上杉家中の序列三位「直太刀之三人衆」の一人とされる。 |
7 |
1561年 |
永禄4年 |
43歳 |
斎藤朝信らと共に越中へ派遣される。 |
15 |
1570年頃 |
元亀元年頃 |
52歳頃 |
上杉景虎(北条三郎)が謙信の養子となり、その傅役(守役)に任命される。 |
1 |
1572年 |
元亀3年 |
54歳 |
越中日宮城救援のため出陣するも、神通川渡し場の戦いで一向一揆に敗れる。 |
1 |
1575年 |
天正3年 |
57歳 |
『上杉家軍役帳』において、上杉一門第六位の家格とされ、71人の軍役を負担。 |
1 |
1578年 |
天正6年 |
60歳 |
3月、上杉謙信が急死。勃発した御館の乱では、傅役として上杉景虎方に付く。弟(子)の孝長は景勝方に付く。 |
1 |
1579年 |
天正7年 |
61歳 |
御館の乱で景虎方が敗北。定長は居城の不動山城を捨てて失踪し、以降の消息は不明となる。 |
1 |
1582年 |
天正10年 |
(没後) |
6月3日、家督を継いだ山本寺孝長(景長)が、織田軍との魚津城の戦いで自刃する。 |
12 |