最終更新日 2025-07-21

山村良利

山村良利は木曾谷の武将。武田信玄に重用され、主家転封後も木曾に残留。関ヶ原後、子孫が木曾代官となり、乱世を生き抜いた戦略家。

木曾谷の巨星、山村良利 ― 主家を超えた家臣の生涯と遺産

序章:木曾の山中に根を下ろした異邦の将 ― 山村氏の黎明

戦国時代の動乱期、信濃国木曾谷という山深き地に、一人の傑出した武将がその生涯を刻んだ。その名を山村三河守良利(やまむら みかわのかみ よしとし)という。主家である木曾氏の重臣として、また甲斐の武田信玄から直接その実力を認められた稀有な存在として、彼は歴史の表舞台と裏舞台で重要な役割を果たした。良利の生涯は、単なる一地方武将の伝記に留まらない。それは、主家が滅びゆく中でいかにして自らの家を存続させ、次代の支配者たる徳川の世で旧領の統治者として返り咲くかという、壮大な一族の物語の序章であった。本報告書は、山村良利の出自から晩年に至るまでの全貌を、史料に基づき徹底的に解明し、その人物像と歴史的意義を再評価するものである。

第一節:山村氏の出自と木曾谷への到来

山村氏の起源は、近江国山村郷(現在の滋賀県甲賀市周辺)に遡るとされる 1 。その姓は、宇多源氏佐々木氏、あるいは大江氏の末裔と伝えられているが、複数の史料で大江氏の末流を称する説が言及されており、こちらが有力な伝承として考えられる 1

良利の父、山村良道(やまむら よしみち)は、この山村氏の木曾谷における初代となる人物である。伝承によれば、良道は当初、室町幕府に仕官していたが、幕府の権威が地に堕ちるにつれてその職を辞し、諸国を遍歴する浪々の身となった 1 。やがて信濃国木曾谷に流れ着いた彼は、当時の木曾谷の領主であった木曾義元(きそ よしもと)に見出され、その家臣として仕えることになった 3

しかし、この山村良道の最期については、二つの全く対照的な記録が残されている。一つは、山村氏の忠義を象徴する「公式見解」としての物語である。『木曽福島町史』などによれば、永正12年(1515年)、主君・義元の居館であった須原館が何者かに襲撃された際、良道は主君を守るために奮戦し、壮絶な討死を遂げたとされる 1 。この時、嫡男である良利はわずか2歳であったという 3

一方で、同じく木曾衆の重鎮であった千村氏に伝わる『千村家所蔵記録』には、全く異なる衝撃的な内容が記されている。それによれば、良道は木曾義在(きそ よしあり、義元の後継者)の甥を闇討ちにしたため、義在の強い怒りを買い、一族もろとも誅殺されたというのである 3

これら二つの相容れない伝承の存在は、単なる記録の食い違い以上の、深い歴史的背景を物語っている。良道の忠臣としての戦死という物語は、江戸時代を通じて木曾谷の支配者として君臨した山村家自身が、自らの家系の正当性と主家への忠誠心を強調するために形成し、公式の記録として定着させた可能性が高い。それに対して、良道が誅殺されたという異説は、山村氏と協力関係にありながらも潜在的な競争相手であった千村氏が、山村氏の出自に瑕疵があったことを示唆する対抗的な言説として、その記録を留めていたと解釈できる。

仮に後者の異説が事実であったとすれば、その後の木曾義在の行動は、戦国武将の冷徹な合理性を示すものとして極めて興味深い。義在は、自らが討ち果たした男の遺児である幼い良利を、自らの手で養育し、さらには長じて後、自身の娘である月光院を嫁がせている 2 。これは、将来に禍根を残しかねない存在を、婚姻という血縁の絆によって自らの勢力圏内に完全に取り込み、懐柔・無力化しようとする高度な政治的判断であったと考えられる。このような複雑な出自と幼少期の経験は、良利自身の人間形成に決定的な影響を与えたであろう。主家に対して単純な忠誠心だけではない、常に状況を冷静に分析し、自らの家を存続させるための最善の道を探るという、現実的で戦略的な思考を育んだ原体験となった可能性は否定できない。

第二節:木曾氏の庇護と婚姻による地位の確立

父・良道の死後、孤児となった良利は、木曾義在の庇護の下で養育された 3 。やがて成人した良利は、義在の娘である月光院を正室として迎える 2 。この婚姻は、山村氏の運命を決定づける極めて重要な出来事であった。これにより、山村氏は単なる外様の家臣から、主君の姻戚という一門に準ずる特別な地位を獲得したのである。この強固な血縁関係は、その後の良利が木曾家中で発言力を高め、重臣としての地位を不動のものとするための強力な基盤となった。彼の生涯にわたる活躍は、この婚姻によってその第一歩が印されたと言っても過言ではない。


表1:山村良利と関連人物・時代の略年表

年代(西暦/和暦)

山村良利の動向

山村一族(良候・良勝)の動向

木曾氏の動向

天下の動静(武田・織田・豊臣・徳川)

1514年(永正11年)

山村良道の子として生誕 2

1515年(永正12年)

父・良道が死去。良利は2歳 3

木曾義元に仕えていた父・良道が死去 1

1540年(天文9年)

木曾義昌、生誕 6

1545年(天文14年)

嫡男・良候、生誕 4

1555年(弘治元年)

木曾義康、武田信玄に臣従 7

武田信玄、第二次川中島の戦い。

1563年(永禄6年)

孫・良勝、生誕 9

1564年(永禄7年)

黒沢若宮社に三十六歌仙板絵を奉納 1

子・良候も板絵を奉納 1

木曾義昌、黒沢若宮社に板絵を奉納。

1572年(元亀3年)

武田信玄の西上作戦で飛騨調略に成功。信玄から美濃国恵那郡に知行を得る 1

子・良候と共に武功を挙げる 4

義昌、武田軍の先鋒として飛騨へ侵攻 1

武田信玄、西上作戦を開始。

1574年(天正2年)

武田勝頼から美濃国の所領を安堵される 1

武田勝頼が家督を継承。

1575年(天正3年)

長篠の戦いで武田軍が大敗。

1582年(天正10年)

主君・義昌の代理として甲斐へ赴くも脱出 10

木曾義昌、武田勝頼を裏切り織田信長に内通 7

織田信長、甲州征伐。武田氏滅亡。本能寺の変。天正壬午の乱。

1584年(天正12年)

羽柴秀吉から徳川方への牽制を賞される 1

孫・良勝、妻籠城で徳川軍を撃退 4

義昌、秀吉方に属す 6

小牧・長久手の戦い。

1590年(天正18年)

老齢を理由に木曾谷に残留 2

良候・良勝、主君に従い下総へ移る 2

義昌、下総国網戸へ転封 2

豊臣秀吉、小田原征伐。天下統一。

1595年(文禄4年)

木曾義昌、下総にて死去 6

1599年(慶長4年)

9月6日、木曾福嶋にて死去。享年86 2

1600年(慶長5年)

良候・良勝、東軍として東濃の戦いで活躍 12

木曾義利、改易。大名としての木曾氏が断絶 4

関ヶ原の戦い。

1602年(慶長7年)

良候、木曾代官に任命される。11月20日死去。享年59 4

徳川家康、江戸幕府の基盤を固める。


第一章:木曾家中の実力者 ― 武田氏との狭間で

木曾氏一門に連なることで確固たる地位を築いた山村良利は、その能力を遺憾なく発揮し、木曾家中の実力者として、また周辺大名との外交の担い手として頭角を現していく。特に、信濃に覇を唱えた武田信玄との関係は、良利の生涯を語る上で欠かすことのできない重要な要素である。

第一節:「取次役」としての外交手腕

弘治元年(1555年)、甲斐の武田信玄による信濃侵攻の圧力が木曾谷にも及ぶと、木曾義康はついに武田氏への臣従を決断する 1 。この歴史的な転換点において、良利は木曾氏と武田氏という二つの勢力の間に立ち、交渉や連絡を司る「取次役」という極めて重要な外交窓口を任された 1 。これは、彼が単なる武辺者ではなく、複雑な政治情勢を読み解き、交渉をまとめるだけの知略と胆力を備えていたことを示している。

良利が木曾家中でいかに重んじられていたかは、永禄7年(1564年)の出来事からも窺い知ることができる。この年、主君である木曾義昌が木曽町黒沢の若宮八幡社に三十六歌仙の板絵を奉納した際、良利は「中納言家持」、そしてその嫡男である山村良候(よしとき)は「凡河内躬恒(おおしこうちのみつね)」の板絵を、それぞれ主君と共に奉納している 1 。主君が行う重要な宗教的行事において、親子で奉納者として名を連ねることは、山村家が他の家臣とは一線を画す、特別な地位にあったことの具体的な証左と言えよう。

なお、武田氏の軍学書として名高い『甲陽軍鑑』には、信玄の娘・真竜院が木曾義昌に嫁いだ際、その付家老として「千村備前守」と共に「山村新左衛門」の名が挙げられているが、これは良利の通称(三郎左衛門尉)とは異なり、研究者の間では誤伝であると指摘されている 10 。しかし、このような誤伝が生まれること自体が、山村氏が武田・木曾両家にとって重要な存在であったという認識の広まりを物語っている。

第二節:主君を超えた信玄からの直接評価

山村良利の生涯において最も特筆すべきは、木曾氏の家臣という身分でありながら、戦国大名である武田信玄から直接その能力を評価され、主君を介さずに知行を与えられたという事実である。これは、当時の厳格な主従関係の中では極めて異例のことであり、良利個人の傑出した力量を雄弁に物語っている。

その最大の功績が、元亀3年(1572年)に信玄が断行した西上作戦における「飛騨調略」である。木曾義昌の軍勢の先鋒を任された良利は、隣国の飛騨に侵攻し、巧みな調略(謀略活動)によってこれを成功に導いた 1 。この時、良利と子息の良候は、敵将・檜田次郎左衛門を討ち取るという武功も挙げている 4

この功績に対し、信玄は良利を激賞した。「山村家文書」に残る書状によれば、信玄は良利個人に対し、美濃国恵那郡の安弘見郷(あびろみごう)において300貫文、さらに千旦林村(ちだばやしむら)と茄子川村(なすびがわむら)において300貫文、合計600貫文という広大な所領を直接与えたのである 1 。さらに天正2年(1574年)には、信玄の跡を継いだ武田勝頼からも、この美濃国の所領に関する安堵状(所有権の承認書)を受け取っており、山村氏に対する武田家の個人的な評価と信頼が、代替わりしても揺るがなかったことを示している 1

武田信玄が良利をこれほどまでに厚遇したのは、単なる論功行賞以上の、高度な統治戦略であったと考えられる。従属させた国衆(この場合は木曾氏)を効果的に支配するため、その内部に楔を打ち込むことは常套手段であった。主君である木曾義昌を介さず、その最も有能な家臣である良利に直接恩賞を与えることで、武田氏は木曾氏の内部に直接的な影響力を行使できるパイプを確保したのである。これにより、万が一義昌が武田氏に対して不穏な動きを見せた際には、良利を通じて内部から牽制し、あるいは情報を得ることが可能になる。

この状況は、木曾谷が事実上、木曾義昌による公式な統治と、武田氏が良利を通じて行う非公式な間接統治という「二重支配構造」の下にあったことを意味する。良利は、木曾氏の家臣でありながら、武田家から直接支配を受ける「代官的存在」としての側面も併せ持つことになった。

良利自身にとって、この立場はまさに諸刃の剣であった。一方では、主君を超える大名からの評価という最高の名誉と、美濃国における広大な所領という実利を得ることができる。しかし他方では、主君・義昌からの嫉妬や猜疑心を生む危険性を常にはらんでいた。彼がこの後、武田氏滅亡という激動の時代を乗り越え、一族を繁栄へと導くことができたのは、この危険な均衡の上を巧みに渡り歩く、卓越した政治感覚と類稀なる胆力を持っていたからに他ならない。

第三章:激動の時代 ― 主家の叛逆と天下の変転

天正3年(1575年)の長篠の戦いにおける大敗を境に、武田氏の威勢には翳りが見え始める。信濃の国衆たちも動揺する中、山村良利と彼が仕える木曾氏は、生き残りを賭けた重大な決断を迫られることとなる。

第一節:武田氏滅亡の序曲 ― 良利、甲斐を脱す

天正10年(1582年)、武田氏の衰退を好機と見た主君・木曾義昌は、天下布武を掲げる織田信長への内通を決意する 7 。これは、武田信玄の娘婿であり、勝頼の義兄弟という一門衆の立場を捨てての叛逆であった。

義昌の叛意を察知した武田勝頼は、真偽を確かめるべく義昌に甲府への出頭を命じるが、義昌は病と称してこれを拒否した 10 。主君が絶体絶命の危機に陥る中、この難局を打開すべく白羽の矢が立ったのが山村良利であった。彼は主君の代理として、死を覚悟で甲斐国へ赴いた。

案の定、勝頼は良利を事実上の人質として甲斐に留め置き、木曾氏の動きを封じようとした。しかし、良利は軟禁状態にあっても決して屈しなかった。彼は冷静に状況を分析し、脱出の機会を窺い続けた。そしてついに、監視の隙を突いて甲斐を脱出し、木曾谷へと決死の逃避行を敢行、見事に成功させたのである 10 。この良利の脱出は、もはや交渉の余地がないことを木曾・武田双方に示す決定的な出来事となり、木曾氏の武田からの離反を確定させ、織田信長による甲州征伐の直接的な引き金の一つとなった。

第二節:本能寺後の動乱と木曾氏の選択

武田氏滅亡後、木曾義昌はその功を信長に賞され、木曾本領の安堵に加え、新たに安曇・筑摩の二郡を与えられ、その拠点として深志城(後の松本城)を任された 7 。木曾氏は束の間の栄華を謳歌するかに見えた。

しかし、そのわずか数ヶ月後、本能寺の変で信長が横死すると、信濃国は再び主を失い、力と謀略が渦巻く混乱状態に陥った。これが世に言う「天正壬午の乱」である。木曾氏は、北から越後の上杉景勝、東から関東の北条氏直、そして南から徳川家康という、巨大勢力に三方を囲まれる絶望的な状況に置かれた。この存亡の危機にあたり、義昌は巧みな外交戦略を展開し、最終的に徳川家康に属することで所領の存続を図った 7

ところが、天正12年(1584年)に徳川家康と羽柴(豊臣)秀吉が激突した小牧・長久手の戦いが勃発すると、義昌は再び大きな賭けに出る。彼は家康を裏切り、天下の覇権を握りつつあった秀吉方へと寝返ったのである 6

この時、山村一族は木曾氏の戦略の最前線で重要な役割を果たした。良利自身は、秀吉方として徳川勢を牽制する働きが評価され、秀吉から直接賞賛されている 1 。さらに、良利の孫にあたる山村良勝(よしかつ)は、木曾谷の南の玄関口である妻籠城の守将として、徳川方の菅沼定利や保科正直らが率いる大軍の猛攻を、寡兵をもって見事に撃退するという大功を立てた 4 。この一連の戦いにおける山村一族の活躍は、彼らが単なる家臣ではなく、木曾氏の軍事・外交戦略を支える不可欠な存在であったことを明確に示している。

第四章:静かなる大計 ― 木曾残留と一族の未来

天下の趨勢が豊臣秀吉の勝利で固まりつつある中、山村良利は、一見すると単なる老後の選択に見える、しかし実際には一族の未来を左右する極めて重大な決断を下す。

第一節:主家の転封と良利の決断

天正18年(1590年)、秀吉による小田原征伐が終わり、天下統一が完成すると、戦後処理として徳川家康は関東への移封を命じられた。これに伴い、家康の与力大名であった木曾義昌もまた、長年治めた木曾谷を離れ、遠く下総国網戸(あじと、現在の千葉県旭市網戸)へ一万石で転封されることになった 2

この時、良利の嫡男である山村良候と、その子で良利の孫にあたる山村良勝は、家臣としての務めを果たすべく、主君・義昌に従って慣れない関東の地へと赴いた 2 。しかし、当主である良利は、時に76歳という「老齢」を理由にこれを辞退し、ただ一人、故郷である木曾谷に留まるという道を選んだのである 1

主家が去った後の木曾谷は、豊臣秀吉の直轄地(太閤蔵入地)となり、その支配は尾張犬山城主であった石川貞清(いしかわ さだきよ)が代官として任された 4 。興味深いことに、後に木曾に戻った良候も、この石川貞清の配下で福島・王滝・岩郷を管轄する下代官を務めており、山村家が主家不在となった木曾の地で、新たな支配体制下においても行政の実務に関与し、その影響力を維持し続けていたことがわかる 4

良利のこの「残留」という決断は、表向きは高齢を理由とした隠居であったが、その裏には極めて高度な戦略的意図が隠されていたと見るべきであろう。76歳という年齢は、長旅を伴う移住を断るには十分すぎるほどの正当な理由である。しかし、彼のこれまでの経歴、特にその冷静な情勢分析能力と戦略的思考を鑑みれば、単なる個人的な理由だけでこの重大な決断を下したとは考えにくい。

この行動は、山村家全体の存続と将来の発展を見据えた、一種の「分割投資」戦略と解釈することができる。嫡男と嫡孫という後継者たちを主君に従わせることで、家臣としての「忠義」の体面を保ち、主家との関係を維持する。その一方で、自らは木曾の地に留まることで、一族の「根」を故郷に深く張り続け、地元の国人や民衆との繋がりを保持した。

当時の天下の情勢は、秀吉の支配が確立したとはいえ、未だ流動的であった。秀吉の死後、再び大乱が起こる可能性は誰もが予期していた。主家である木曾氏が、慣れない土地で没落する危険性も十分に考えられた。その時、木曾谷の地理や人脈に精通し、隠然たる影響力を持つ山村家が故郷に存在することは、一族にとっての強力な生命線となりうる。

結果として、この良利の決断は驚くべき先見の明であったことが、わずか10年後に証明される。慶長5年(1600年)、木曾義昌の子・義利が不行状を理由に徳川家康によって改易されると、大名としての木曾氏は滅亡する 4 。その直後に勃発した関ヶ原の戦いにおいて、家康は中山道の要衝である木曾谷を掌握するため、現地の事情に精通した協力者を必要とした。その時、木曾の地に深く根を張り、かつての家臣団(木曾衆)に強い影響力を持つ山村一族は、家康にとって最も魅力的で、そして不可欠な存在となっていたのである。良利の「隠居」という名の戦略的残留がなければ、山村氏がこれほどスムーズに新たな時代の支配者として歴史の表舞台に返り咲くことは、極めて困難だったであろう。

第二節:静かなる終焉と遺産

慶長4年(1599年)9月6日、山村良利は木曾福嶋の地で、その波乱に満ちた86年の生涯を静かに閉じた 1 。彼の法名は「栴梁院殿伯林宗英大居士」 2 。その墓所は、現在も長野県木曽町福島にある長福寺にあり、彼が生きた時代の激しさを今に伝えている 2

なお、木曾氏および江戸時代の代官山村家の菩提寺は、同じく木曽福島にある興禅寺であるが、良利個人の墓所が長福寺にある点は、彼が築いた独自の地位を象徴しているようにも思われ、興味深い 20 。彼は、一族が木曾谷の新たな支配者として君臨する未来を見ることなく世を去ったが、その盤石な礎を築き上げたのは、まさしくこの山村良利その人であった。

第五章:良利の遺産 ― 関ヶ原の戦いと木曾代官家の誕生

山村良利がこの世を去った翌年の慶長5年(1600年)、天下の趨勢を決する関ヶ原の戦いが勃発する。この戦いは、山村家にとって、良利が遺した布石を結実させ、一地方豪族の家臣から木曾谷の支配者へと飛躍する最大の好機となった。

第一節:天下分け目の戦いと木曾衆の活躍

徳川家康率いる東軍と石田三成率いる西軍の対立が深まる中、木曾谷とそれに連なる東美濃地域は、徳川秀忠が率いる東軍本隊が江戸から西上する際に通過する中山道を抑えるための、極めて重要な戦略的要地となった 13

この時、主家であった木曾氏が改易され、下総で浪人の身となっていた良利の子・山村良候(この頃には出家して道祐と号していた)と、孫の良勝は、好機を逃さなかった。彼らは家康に召し出され、東軍に馳せ参じる 12 。家康は、木曾谷の地理と人脈に精通した彼らに、旧領の奪還を命じたのである。

良勝らは、同じく旧木曾家臣であった千村氏、馬場氏らと共に「木曾衆」を組織し、東軍の先鋒として木曾谷へと進軍した 24 。当時、木曾谷は西軍に属する石川貞清の支配下にあったが、良勝らは貞清配下の旧木曾家臣(山村次郎右衛門、原図書助、三尾将監長次ら)の内応を取り付けることに成功し、ほとんど抵抗を受けることなく木曾谷全域を制圧した 13 。さらに勢いに乗った木曾衆は、東濃地域へ進撃し、西軍方の遠山友政が守る苗木城、田丸主水が守る岩村城を次々と攻略するという大功を立てた 4 。この「東濃の戦い」における勝利は、秀忠軍が中山道を安全に進軍するための道を確保するという、戦略的に極めて大きな意味を持っていた。

この時、父である良候は、西軍方の石川貞清によって人質として尾張犬山城に留め置かれていた。しかし、良勝ら木曾衆が蜂起したとの報を聞くと、決死の覚悟で城を脱出し、中津川の十曲峠で進軍してきた息子・良勝と劇的な再会を果たしたという逸話も残っている 4

第二節:家臣から支配者へ ― 山村代官家の成立

関ヶ原での東軍の勝利後、徳川家康は東濃の戦いにおける木曾衆の功績を高く評価した。そして、その筆頭であった山村良候を、木曾谷一円を統治する「木曾代官」に任命したのである 4

この時、家康は当初、木曾谷そのものを知行地として山村氏をはじめとする木曾衆に与えようとしたと伝えられる。しかし、良候はこれを固辞し、「木曾谷は中山道が貫き、良質な木材を産出する天下の要衝です。このような重要な土地を我々が私領とすべきではありません」と上申したという 4 。この私心のない廉直な姿勢は家康を深く感動させ、山村氏への信頼をより一層強固なものにした。

その結果、山村氏は木曾谷の統治を代行する「代官職」と、中山道の要である「福島関所」の関守の任を世襲で務めることとなり、知行地は別途、美濃国内に合わせて5,700石を与えられた 4

その後、元和元年(1615年)に木曾谷が尾張藩の所領となると、山村氏は尾張藩の重臣(附家老)であると同時に、幕府直轄の福島関所を預かる幕臣という、両属の特殊な地位を確立する 12 。この特権的な地位は、明治維新に至るまでの約270年間にわたって揺らぐことなく、山村家は名実ともに木曾谷の支配者として君臨し続けた 28

この歴史的帰結は、関ヶ原の戦いにおける良候・良勝父子の功績が直接の原因であることは間違いない。しかし、その功績を可能にした土壌は、まさしく父祖・山村良利が生涯をかけて築き上げたものであった。すなわち、武田氏との直接的な関係構築によって得た美濃国における人脈と影響力、木曾谷に留まるという戦略的決断によって維持した地域社会との強固な繋がり、そして何よりも、彼が育て上げた有能な後継者たちの存在である。良利は、主家である木曾氏が歴史の波に呑まれて消えていく中で、自らの家という船を巧みに操り、新たな時代の支配者である徳川氏にとって不可欠な存在へと押し上げることに、見事に成功したのである。

終章:山村良利という人物像の再評価

山村良利の生涯を俯瞰するとき、我々は彼を単なる「木曾家の忠臣」あるいは「武田家に重用された武将」といった一面的な評価から解き放ち、より多角的で立体的な人物像として捉え直す必要がある。

彼は、主君への忠誠を尽くす「家臣」の顔を持ちながら、時には主君の意向を超えて、武田信玄という大勢力と直接渡り合う「外交官」の顔を見せた。戦場にあっては軍を率いて武功を挙げる勇猛な「武将」であり、同時に、一族の百年先を見据えて布石を打つ冷徹な「戦略家」でもあった。彼の行動原理の根底には、常に自らの家、すなわち山村氏をいかにしてこの乱世で存続させ、発展させるかという強烈な意志が一貫して流れていた。

父・良道の死を巡る二つの伝承が示唆するように、彼の出自には複雑な影がつきまとっていた。その逆境を乗り越え、主家の姻戚となることで地歩を固めた。武田氏の支配下では、主君を介さず直接評価されるという危険な綱渡りを演じきり、実利と影響力を手にした。そして、主家が故郷を去るという最大の岐路において、老齢を理由に木曾の地に留まるという決断を下し、一族が未来で飛躍するための最後の、そして最大の布石を打った。

主家である木曾氏が歴史の舞台から姿を消し、その家臣であった山村氏が旧領を治めるという歴史の皮肉は、決して偶然の産物ではない。それは、山村良利という一人の男が、その86年の長き生涯を通じて、時代の変化を鋭敏に読み、幾多の危険な賭けに勝ち続け、着実に築き上げた強固な基盤の上に咲いた花であった。彼の生涯は、戦国時代から近世へと移行する大転換期において、一地方武士がいかにして自らの家を存続させ、さらには新たな支配者へと変貌を遂げたかを示す、見事な歴史のケーススタディである。それは、単なる武勇や愚直な忠義だけでは生き残れない乱世を渡り抜くための、知恵と戦略、そして決断力の縮図であり、後世に生きる我々に多くの示唆を与えてくれる。

引用文献

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  2. 山村良利 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B1%B1%E6%9D%91%E8%89%AF%E5%88%A9
  3. 山村良道とは? わかりやすく解説 - Weblio辞書 https://www.weblio.jp/content/%E5%B1%B1%E6%9D%91%E8%89%AF%E9%81%93
  4. 山村良候とは? わかりやすく解説 - Weblio辞書 https://www.weblio.jp/content/%E5%B1%B1%E6%9D%91%E8%89%AF%E5%80%99
  5. 山村良候 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B1%B1%E6%9D%91%E8%89%AF%E5%80%99
  6. 木曾義昌(きそ よしまさ)とは? 意味や使い方 - コトバンク https://kotobank.jp/word/%E6%9C%A8%E6%9B%BE%E7%BE%A9%E6%98%8C-1069219
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  8. 木曾義昌(きそ よしまさ) 拙者の履歴書 Vol.172~主君二人を生き抜く~|デジタル城下町 - note https://note.com/digitaljokers/n/n65bf5a58799b
  9. 山村良勝 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B1%B1%E6%9D%91%E8%89%AF%E5%8B%9D
  10. 山村良利 - Wikiwand https://www.wikiwand.com/ja/articles/%E5%B1%B1%E6%9D%91%E8%89%AF%E5%88%A9
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  12. 【山村氏】 - ADEAC https://adeac.jp/nakatsugawa-city/text-list/d100040/ht010340
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  16. 極楽寺探訪 藪原宿街歩き - 信州まちあるき https://www.walkigram.net/kisoji/fukushima/index.html
  17. 出生から真田氏の自立とは何? わかりやすく解説 Weblio辞書 https://www.weblio.jp/content/%E5%87%BA%E7%94%9F%E3%81%8B%E3%82%89%E7%9C%9F%E7%94%B0%E6%B0%8F%E3%81%AE%E8%87%AA%E7%AB%8B
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  19. 【秀吉と木曽山】 - ADEAC https://adeac.jp/nakatsugawa-city/text-list/d100040/ht011460
  20. 興禅寺~木曽福島にある木曽義仲の廟所~ - 中世歴史めぐり https://www.yoritomo-japan.com/sinano/yosinaka-kozenji.html
  21. 興禅寺 | 信州Style https://shinshu-style.com/spot/visiting/nn497/
  22. 関ヶ原の戦いに隠された地形の秘密:歴史を変えた地理的要因を徹底解剖 - note https://note.com/lucky_iguana8304/n/n79babeea03f9
  23. 凡城であることに価値がある加納城、大人の城歩きを楽しみたい人にすすめる「もう一つの岐阜城」 https://jbpress.ismedia.jp/articles/-/89068
  24. 木曾衆 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9C%A8%E6%9B%BE%E8%A1%86
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