山田匡得は日向伊東氏の忠臣。主家没落後も「二君に仕えず」の忠節を貫き、豊薩合戦で智将として活躍。伊東家再興に貢献し、飫肥藩で「軍神」と称された。
日本の戦国時代、数多の武将が己の武勇と智略を競い、歴史の舞台でその名を刻んだ。その中でも、日向国(現在の宮崎県)の伊東氏に仕えた山田匡得(やまできょうとく、本名:宗昌)は、特異な輝きを放つ存在である。彼の名は、全国的な知名度こそ他の著名な武将に及ばないものの、その生涯は戦国武士の理想像ともいえる峻烈な忠義と、深い思索に裏打ちされた卓越した戦略眼に貫かれている。主家が没落し、流浪の身となってもなおその忠節を曲げず、客将として赴いた豊後の地では寡兵をもって島津の大軍を退ける奇跡的な勝利を演出し、ついには主家の再興に大きく貢献した。その功績から、後世の飫肥藩において「伊東の軍神」として神格化されるに至る 1 。
本報告書は、この山田匡得という一人の武将の生涯を、断片的な逸話の集合体としてではなく、一貫した思想と行動原理を持つ人物として立体的に再構築することを目的とする。彼の行動を理解する上で鍵となるのは、二つの柱である。一つは、「二君に仕えず」という言葉に象徴される、主家伊東氏への絶対的な 忠節 である 3 。これは、敵将である島津義弘や、客将として仕えた大友宗麟からも感嘆されるほどの強固なものであり、彼の全ての決断の根底に流れる不変の原則であった。
もう一つは、彼の法名「匡得」の由来にもなったとされる、独自の 戦略思想 である。彼は平安時代の碩学・大江匡房(おおえのまさふさ)の兵法に通じていたとされ、その名は匡房に由来するともいわれる 5 。大江匡房の兵法思想は、謀略(詭道)を是とする大陸の兵法とは一線を画し、正々堂々とした「真鋭」を重んじるものであった。この思想は、豊薩合戦における彼の戦術選択、すなわち無益な殺戮を避け、味方の損害を最小限に抑えつつ勝利を目指す「全勝」の思想に明確に表れている。
本報告は、これらの「忠節」と「智略」という二つの軸を基に、史料を丹念に読み解き、山田匡得の出自から若き日の武功、主家没落後の苦難、そして智将としての覚醒、晩年の統治者としての姿までを時系列に沿って徹底的に解明する。これにより、彼がなぜ「軍神」とまで称えられるに至ったのか、その歴史的意義と人物像の核心に迫るものである。
和暦(西暦) |
匡得の年齢(推定) |
主要な出来事 |
関連人物 |
役職・身分 |
典拠資料 |
天文11年(1542)または13年(1544) |
0歳 |
日向国都於郡にて、山田宗継の子として誕生。 |
山田宗継、伊東義祐 |
伊東氏家臣の子 |
3 |
永禄元年(1558) |
15~17歳 |
飫肥を巡る北郷氏との合戦で初陣。敵将・亀沢豊前守を討ち取る。 |
亀沢豊前守 |
伊東氏家臣 |
6 |
永禄10年(1567) |
24~26歳 |
父・宗継が飫肥攻めで戦死。家督を相続。 |
山田宗継、和田民部少輔 |
伊東氏家臣 |
3 |
永禄11年(1568) |
25~27歳 |
小越合戦にて父の仇・和田民部少輔を討ち取る。 |
和田民部少輔 |
伊東氏家臣 |
3 |
天正5年(1577) |
34~36歳 |
木崎原の戦いを経て伊東氏が没落。主君・義祐は豊後へ亡命。 |
伊東義祐、島津義久 |
伊東氏家臣 |
3 |
天正6年(1578) |
35~37歳 |
日向石城に籠城し島津軍と交戦(石城合戦)。奮戦するも捕虜となる。 |
島津義弘、島津忠長 |
伊東氏家臣 |
8 |
天正6年(1578) |
35~37歳 |
島津義弘の勧誘を「二君に仕えず」と拒絶し、豊後に送られる。 |
島津義弘 |
捕虜 |
3 |
天正6年(1578) |
35~37歳 |
豊後栂牟礼城主・佐伯惟定に身を寄せ、出家。「匡得」と号す。 |
佐伯惟定 |
客将 |
8 |
天正14年(1586) |
43~45歳 |
豊薩合戦勃発。軍師として栂牟礼城の防衛を指揮。堅田合戦で島津軍を撃破。 |
佐伯惟定、島津家久 |
客将・軍師 |
3 |
天正15年(1587) |
44~46歳 |
九州平定後、飫肥に復帰した伊東祐兵の元へ帰参。大友宗麟の慰留を固辞。 |
伊東祐兵、大友宗麟 |
伊東氏家臣 |
3 |
慶長年間(1596-1615) |
53歳以降 |
酒谷地頭に任じられ、国境の防備と統治にあたる。「四半的」を奨励。 |
伊東祐兵 |
飫肥藩酒谷地頭 |
1 |
元和6年6月3日(1620年7月2日) |
77~79歳 |
酒谷にて死去。 |
伊東祐慶 |
飫肥藩家臣 |
8 |
山田匡得、すなわち宗昌の青年期は、日向国における伊東氏の勢力が頂点に達し、やがて宿敵・島津氏との激しい攻防の末に翳りを見せ始める、まさに激動の時代であった。この時期、彼は恵まれた出自と類稀なる武才を背景に、数々の戦場で目覚ましい武功を挙げ、その名を日向一円に轟かせていく。
山田宗昌は、天文11年(1542年) 7 、あるいは天文13年(1544年) 3 に、日向伊東氏の家臣であり、新山城主であった山田宗継の子として、伊東氏の本拠地・都於郡(現在の宮崎県西都市)に生を受けた。山田氏は、単なる伊東氏の譜代家臣というだけでなく、「都於郡四天衆」の一角を占める有力な在地国人であった 12 。これは、山田氏が伊東氏の支配体制において、地域に深く根を張った実力者として重きをなしていたことを示している。
さらに、彼の血筋は主家である伊東氏と密接に繋がっていた。宗昌の母は、当時の伊東家当主・伊東義祐の叔母にあたる人物であった 7 。この血縁関係は、宗昌と伊東家の間に、単なる主従関係を超えた強固な結びつきをもたらしたと考えられる。戦国時代において、武将の地位と影響力は、在地における実力(国人としての基盤)と、主家との個人的な繋がり(血縁)という二つの要素によって大きく左右される。宗昌は、この両方を兼ね備えていた。この恵まれた出自こそが、彼が若くして重要な戦いに起用され、また主家が没落した後も「伊東家の代表格」の一人として、敵味方から一目置かれる存在であり続けた根本的な要因であったといえよう。彼の生涯を貫く伊東家への忠誠心は、こうした血縁と、在地領主としての誇りに育まれたものであった可能性が高い。
宗昌の武将としての才能は、早くから開花する。永禄元年(1558年)、日向南部の要衝・飫肥を巡る北郷氏との合戦において、彼は初陣を飾った。この戦いで宗昌は、島津方でも名の知れた猛将・亀沢豊前守と一騎討ちを行い、組み伏せた末にこれを討ち取るという鮮烈な戦果を挙げる 8 。初陣の若武者が敵の勇将を討ち取ったという事実は、たちまち日向の諸将の間に広まり、「鬼神の如し」と恐れられたという 6 。
宗昌の武名をさらに高めたのが、父の仇討ちであった。永禄10年(1567年)、父・宗継は飫肥城攻めの最中に、北郷方の勝岡城主・和田民部少輔によって討ち取られていた 3 。その翌年、永禄11年(1568年)の小越合戦において、宗昌は再び北郷軍と対峙し、ついに父の仇である和田民部少輔を自らの手で討ち果たしたのである 3 。
この仇討ちの逸話には、彼の器の大きさを示す後日談が伝わっている。この戦いで、和田民部少輔の子である助六という若者も捕虜となった。しかし宗昌は、父の仇の子であるにもかかわらず、その勇敢で死を恐れぬ態度に感心し、彼を処刑せずに釈放したという 3 。この行いは、当時の武士社会においても美談として語り伝えられた。
これらの初期の武功は、宗昌が単に勇猛なだけの武将ではなかったことを示している。初陣での華々しい勝利は彼の「武勇」を、父の仇討ちは武士としての「孝」を、そして敵の子を許した逸話は「仁」の心を持つ大将の器量を示した。彼は武将としてキャリアの早い段階で、武士が尊ぶべき徳目を体現する人物として、その評価を確立していったのである。後年、彼が「軍神」とまで称えられるようになる素地は、この青年期にすでに形成されていたといえる。
宗昌が伊東家の中核として活躍していた時代、日向の情勢は大きく動揺し始めていた。長年にわたり日向に覇を唱えてきた伊東氏であったが、薩摩から勢力を拡大する島津氏との対立が先鋭化していく。
その決定的な転換点となったのが、天正5年(1577年)の「木崎原の戦い」である。この戦いで、伊東義祐は島津義久に歴史的な大敗を喫し、多くの有力な将兵を失った 3 。この敗戦は伊東氏の勢力に致命的な打撃を与え、伊東四十八城と呼ばれた支城網は次々と島津方に切り崩されていく。宗昌の運命もまた、この主家の没落という巨大な渦に否応なく巻き込まれていくこととなる。
木崎原の敗戦以降、坂道を転げ落ちるように衰退していく伊東家。その中で、山田宗昌の忠義の光は、かえって一層の輝きを放つことになる。主家が崩壊の危機に瀕する中、彼は孤高の戦いを続け、その過程で彼の名を不朽のものとする数々の逸話が生まれる。
天正5年(1577年)末、島津氏の猛攻の前に本拠地・都於郡を追われた主君・伊東義祐は、一族郎党を率いて隣国豊後の大友宗麟を頼り、亡命の途についた。多くの家臣が主君に付き従う中、山田宗昌は義祐の命により、日向の地に留まることを選んだ 3 。彼は、同じく残留した後詰の家臣団、長倉祐政らと共に、新納院高城(石城)を修築し、島津軍の侵攻に備えたのである 8 。
翌天正6年(1578年)7月、島津軍は大友氏との決戦を前に、背後の憂いを断つべく石城の攻略を開始した。島津忠長を総大将とするその軍勢は7,000余。対する伊東方の兵力は、わずか600名程であった 8 。戦力差は10倍以上という、絶望的な状況であった。しかし、宗昌ら伊東家臣団は、石城が川に囲まれた天然の要害であるという地の利を最大限に活かし、決死の防衛戦を展開する。
その奮戦は凄まじく、島津軍の副将・川上範久を討ち死にさせ、総大将の島津忠長までもが左肘を矢で射抜かれて重傷を負うなど、島津軍に500名以上の死傷者を出させて撃退に成功した 8 。この目覚ましい戦功に対し、大友家の当主・大友義統から感状が贈られている 8 。しかし、兵力と兵站に劣る籠城側に勝ち目はなかった。島津軍の度重なる猛攻の末、三日三晩にわたる死闘の果てに城はついに陥落し、宗昌は力尽きて捕虜の身となった 3 。
捕虜となった宗昌は、その武勇と戦略を高く評価した島津義弘の前に引き出された。義弘は、この類稀なる将器を持つ敵将を自らの家臣に加えたいと強く望んだ。そして、三百町という破格の知行を提示し、島津家に仕えるよう勧誘したのである 3 。
主家は滅び、自らは捕虜の身。常人であれば、この破格の申し出に靡いても何ら不思議はなかった。しかし、宗昌の返答は義弘の予想を遥かに超えるものであった。彼は毅然としてこう言い放ったと伝えられる。「生きて二君に仕えるつもりはない」。
この言葉は、彼の揺るぎない忠誠心の表明であった。主君・伊東義祐が存命である限り、たとえどのような好条件を提示されようとも、他の主に仕えることは断じてないという決意の表れである。宗昌のこの態度に、敵将である島津義弘は深く感服した。武士の鑑ともいうべきその忠義を汚すことはできないと考えた義弘は、宗昌を処刑することなく、丁重に大友領へと送り返したのである 3 。
この「二君に仕えず」の逸話は、山田宗昌のキャリアにおいて決定的な意味を持つ。この出来事を通じて、彼の「忠義」という無形の価値は、敵である島津家中にも広く知れ渡る、確固たる評判へと昇華した。この評判こそが、主家を失った浪人である彼が、後に大友家臣・佐伯惟定から客将として絶大な信頼を寄せられる基盤となった。彼の忠誠心は、もはや単なる個人的な信条ではなく、彼の武将としての価値を保証する、最強の「ブランド」となったのである。
無事に大友領へ帰還した宗昌であったが、石城での激戦で負った重傷は深く、すぐには戦線に復帰できなかった 3 。その結果、同年11月に行われた大友・島津両軍の雌雄を決する「耳川の戦い」には参加することができなかった。この戦いで大友軍は歴史的な惨敗を喫し、伊東家再興の望みは潰える。責任を問われた伊東義祐は、豊後からも追われるようにして伊予国(現在の愛媛県)へと亡命した。
この混乱の中、宗昌は主君の一行とはぐれてしまい、豊後に取り残される形となった 3 。彼は豊後南部の有力国人であり、栂牟礼城(とがむれじょう)の城主であった佐伯惟定(さえきこれさだ)のもとに身を寄せ、雌伏の時を過ごすこととなる 8 。この時期、宗昌は世の無常を感じたのか、出家して入道となり、名を「匡得(きょうとく)」と改めた 8 。
この「匡得」という法名は、単なる出家の号ではなく、彼の兵法思想の表明であった可能性が極めて高い。複数の史料が、彼が平安時代の学者であり兵法家でもあった大江匡房の兵法を学んでいたことを理由に、この名を号したと記している 5 。大江匡房が著したとされる日本最古の兵法書『闘戦経』は、敵を欺く「詭道」を基本とする中国の『孫子』とは対照的に、正々堂々とした「真鋭(真実と鋭さ)」を武士の戦い方の本質と説く 13 。後の堅田合戦で見せる彼の戦術思想は、まさにこの『闘戦経』の哲学と軌を一にする。したがって、「匡得」への改名は、彼が自らの武将としてのアイデンティティを、経験則だけでなく、確立された兵法哲学の上に置くことを宣言した、重要な転機であったと解釈できる。彼はこの時から、単なる勇将・宗昌ではなく、智将・匡得として新たな道を歩み始めるのである。
山田匡得の武将としての真価が最も発揮されたのが、天正14年(1586年)に勃発した豊薩合戦における栂牟礼城の防衛戦、特に「堅田合戦」であった。この戦いで彼は、客将という立場でありながら軍師として全権を委ねられ、その卓越した戦略と戦術眼によって、戦国史に残る見事な勝利を演出する。
天正14年(1586年)、九州統一を目指す島津氏は、島津家久を総大将とする大軍を豊後へと侵攻させた。これが豊薩合戦の始まりである。島津軍の勢いは凄まじく、国境の朝日嶽城主・柴田紹安が寝返るなど、豊後の諸将は次々と降伏、あるいは城を捨てて逃亡した 16 。大友宗麟が籠る臼杵城も包囲され、豊後国はまさに滅亡の危機に瀕していた。
このような状況下で、栂牟礼城主・佐伯惟定は島津への徹底抗戦を決意する。惟定は、自らのもとに身を寄せていた客将・山田匡得の非凡な才覚を深く信頼しており、この国難に際して彼を軍師として迎え、合戦における一切の指揮権を委ねたのである 3 。主家を失った浪人である匡得が、他家の存亡をかけた戦いの総指揮官に任命されるというのは、異例の抜擢であった。これは、彼の武名と、「二君に仕えず」の逸話に代表される忠義の評判が、いかに高く評価されていたかを物語っている。
軍師となった匡得は、早速その冷徹かつ合理的な戦略思考を発揮する。
まず、島津家久が派遣した降伏勧告の使僧・玄西堂ら一行二十名に対し、匡得は惟定に彼らの斬殺を進言した 3 。これは一見、残虐な行為に見えるが、その裏には計算された三つの狙いがあった。第一に、島津に対して一切の交渉の余地はないという、断固たる抗戦の意志を明確に示すこと。第二に、周辺諸城の相次ぐ降伏に動揺していたであろう城内の兵士たちの士気を引き締め、覚悟を固めさせること。そして第三に、主家である大友氏に対し、佐伯家の揺るぎない忠誠心を示すことであった。これは、戦端を開くにあたっての極めて効果的な心理戦であった。
次に、城内から持ち上がった籠城策に対し、匡得は明確に反対した。「籠城とは援軍を期待して行うものである。今の大友家にその余力はない。いかに堅固な栂牟礼城といえど、これほどの大軍が籠れば兵糧も水もすぐに尽きてしまう」と、現状を冷静に分析し、籠城の無意味さを説いた 20 。そして、城から打って出て、地の利を活かした野戦で敵を迎え撃つ積極策を主張した。
さらに、軍議において味方の将・泥谷志摩守が、敵を栢江の入り江に追い込んで殲滅する作戦を提案した際、匡得はこれを「血気の勇」として退けた 20 。彼は次のように説いたという。「敵を袋小路に追い込めば、彼らは背水の陣となり、必死の抵抗によって味方の損害もまた大きくなる。兵法における『全勝』とは、敵を殺し尽くすことではなく、味方を損なうことなく敵を追い払うことである」。この思想は、無用な殺戮を避け、自軍の消耗を最小限に抑えることを最優先するものであり、まさに彼が信奉した『闘戦経』の哲学、すなわち「真鋭」を重んじ、いたずらに力を誇示しないという思想の実践そのものであった。
これら一連の戦略構想は、彼が単なる経験則に頼る武将ではなく、確立された兵法哲学に基づき、一貫した論理で戦略を構築する真の「智将」であったことを雄弁に物語っている。
部隊 |
指揮官 |
兵力 |
担当戦域・役割 |
作戦目的 |
典拠資料 |
一番隊 |
佐伯正惟、高畑伊予守ら |
600名 |
堅田方面(中山峠)の正面 |
八幡山に進出し、島津軍主力を引きつけ、正面から圧迫する。 |
20 |
二番隊 |
佐伯惟澄、高畑新右衛門ら |
600名 |
堅田方面の増援 |
一番隊の戦闘が激化した段階で加勢し、敵の戦線を突破する。 |
20 |
三番隊 |
佐伯統幸(惟定の実弟)、長田天楽ら |
600名 |
普坂峠への伏兵 |
敗走する島津軍の退路を遮断し、鉄砲隊による追撃で混乱を増幅させる。 |
20 |
遊撃隊 |
山田匡得ら |
35名 |
側面・機動部隊 |
戦局全体を俯瞰し、最も効果的な時点で側面の奇襲を敢行し、敵の指揮系統を麻痺させる。 |
3 |
その他 |
長田右近、角末土佐ら |
各350名程度 |
野津、因尾、切畑方面 |
他の侵攻ルートを警戒・牽制し、主戦場への敵増援を防ぐ。 |
20 |
天正14年11月3日、島津家久は土持親信、新名親秀らを先鋒とする2,000余の軍勢を、堅田方面から栂牟礼城へと進軍させた 3 。これに対し、佐伯・山田連合軍は、上記配置表の通り、総兵力1,800でこれを迎え撃った。
合戦は匡得の描いた筋書き通りに進んだ。まず、佐伯正惟率いる一番隊が八幡山に布陣して島津軍と激突。戦闘が膠着状態に陥ったところへ、佐伯惟澄の二番隊が側面から加勢すると、島津軍の先鋒は持ちこたえられずに敗走を始めた 20 。
敗走する島津軍の退路上には、匡得が配置した三番隊の鉄砲隊が待ち伏せていた。普坂峠に差し掛かった島津兵は、一斉射撃の猛火を浴びて大混乱に陥る 20 。そこへ、匡得自身が率いるわずか35名の遊撃隊が側面から奇襲をかけ、敵陣を切り裂いた 3 。指揮系統を寸断された島津軍は完全に崩壊し、大越川沿いに潰走した。
匡得は、日が暮れ始めたことと、自らの「全勝」思想に基づき、深追いを命じることはなかった。味方の損害を最小限に抑えつつ、敵を戦場から駆逐するという目的を完璧に達成したのである 20 。この堅田合戦の勝利は、島津軍の豊後侵攻計画に大きな狂いを生じさせた。岡城の志賀親次らと共に、島津軍の背後を脅かす存在として抵抗を続けたことで、豊臣秀吉の中央軍が九州に到着するまでの貴重な時間を稼ぐという、戦略的に極めて重要な役割を果たしたのである 16 。
豊薩合戦での輝かしい武功により、山田匡得の名は九州全土に響き渡った。しかし、彼の眼差しは常に故郷日向と、流浪の主君・伊東氏に向けられていた。豊臣秀吉による九州平定は、彼の長年の望みであった主家再興への道を拓くこととなる。
天正15年(1587年)、豊臣秀吉の圧倒的な軍事力の前に島津氏は降伏し、九州は平定された。この戦後処理において、伊東義祐の子・祐兵(すけたか)は、秀吉への奉公が認められ、旧領である日向飫肥の地を安堵されることとなった 3 。
主家再興の報せを聞いた匡得は、ただちに客将として仕えていた佐伯家を辞し、主君・祐兵のもとへと馳せ参じた。この時、彼の功績を高く評価していた豊後の領主・大友宗麟は、匡得を引き留めようと試みる。宗麟は、150町の知行加増という破格の条件に加え、自らが秘蔵していた「色色威腹巻(いろいろおどしの はらまき)」という鎧まで贈って、自らの家臣になるよう説得した 4 。
しかし、匡得の決意は揺るがなかった。彼はこの丁重な申し出を固辞し、「伊東家は累代の主君であり、飫肥に安堵された以上、直ちに帰参するのが家臣としての道である」と述べ、祐兵の元へと去っていった 4 。この逸話は、かつて島津義弘の前で見せた「二君に仕えず」の精神を、再び行動で示したものであり、彼の忠節がいかに純粋で一貫したものであったかを物語っている。なお、この時大友宗麟から贈られたとされる鎧は、現在、日南市の飫肥城歴史資料館に所蔵され、彼の忠義を今に伝えている 2 。
飫肥に帰参した匡得は、伊東家の中核として藩政の安定に尽力する。特に、彼に与えられた役割は、その武名と智略を最も必要とするものであった。彼は、薩摩・島津領との藩境に位置する軍事上の最重要拠点、酒谷(さかたに)の地頭に任命されたのである 1 。これは、長年の宿敵である島津に対する抑えとして、藩内で最も信頼できる武将が配置されたことを意味していた。
酒谷の地頭となった匡得は、単に国境を武力で固めるだけではなかった。彼は、戦場での智略を、平時の統治と安全保障に応用する。その代表的な政策が、「四半的(しはんまと)」と呼ばれる独特の弓術競技の奨励であった 2 。これは、四間半(約8.2m)の距離から四尺半(約1.36m)の弓で的を射るというもので、匡得は藩境の地でこの競技を盛んに行わせた。
この政策には、極めて高度な三つの目的が内包されていた。第一に、藩士や領民の武芸を鍛錬し、常に戦への備えを怠らないという 軍事訓練 としての側面。第二に、領民に娯楽を提供し、その結束と藩への忠誠心を高めるという 民政・文化振興 としての側面。そして第三に、藩境で武芸が盛んに行われていることを見せつけ、島津藩に対して「飫肥藩は常に備えあり」という無言の圧力をかける 対外的な示威行動 としての側面である 2 。
この「四半的」の奨励は、匡得の役割が、戦場で敵を打ち破る「武将」から、藩の長期的な平和と安定を構想する「統治者」「政策立案者」へと昇華したことを明確に示している。彼の智略は、もはや戦場だけのものではなかったのである。
戦乱の世を駆け抜け、主家の再興という大願を果たした山田匡得。その晩年は、国境の守護者として穏やかながらも重要な役割を担い、飫肥藩の礎を固めることに捧げられた。そして彼の死後、その功績と人格は伝説となり、やがて信仰の対象へと昇華していく。
元和6年(1620年)6月3日、山田匡得は地頭として務めていた酒谷の地で、その79年の生涯を閉じた 8 。戦国という激動の時代を生き抜き、主家の安泰を見届けた後の大往生であった。彼の墓は、現在も宮崎県日南市酒谷の、酒谷神社の西麓に静かに佇んでおり、地域の重要な史跡として大切に守られている 7 。その墓所は、彼が生涯をかけて守り抜いた日向の地を見守るかのように、そこにある。
匡得の死後、その生涯にわたる忠節と、数々の輝かしい武功は、飫肥藩士や領民の間で語り継がれていった。特に、絶望的な状況から主家を支え、ついには再興の立役者となった彼の功績は、飫肥藩280年の歴史の礎を築いたものとして、絶大な尊敬を集めるようになる。
やがてその評価は、単なる尊敬を超えて神格化へと至る。彼は「伊東の軍神」と称えられ、藩の守護神として信仰の対象となったのである 1 。日南市内には、彼を祭神とする「匡得神社」も建立され 1 、その威徳は後世まで長く伝えられた。一人の武将が「神」となる。これは、彼の存在が、伊東氏による統治の正当性と永続性を象徴する、不可欠な神話として藩の歴史に組み込まれたことを意味している。
本報告を通じて明らかになった山田匡得の人物像は、単なる勇猛な武将という一面的なものではない。彼は、以下の三つの要素を高い次元で兼ね備えた、戦国時代においても稀有な武士であったと結論付けられる。
第一に、 絶対的な忠節の人 であったこと。「二君に仕えず」を生涯貫き、主家が最も困難な状況にある時にこそ、その真価を発揮した。その純粋な忠義は、敵将すら感服させるほどの力を持ち、彼の行動全ての基盤となっていた。
第二に、 日本古来の兵法思想に根差した智将 であったこと。彼は大江匡房の兵法『闘戦経』に影響を受け、いたずらな殺戮や謀略をよしとせず、味方の損害を最小限に抑える「全勝」を目指す、理知的で哲学的な戦略眼を持っていた。栂牟礼城での戦いは、その思想が見事に結実した、彼の最高傑作であった。
第三に、 平時における優れた統治者 であったこと。晩年に見せた「四半的」の奨励策は、軍事、民政、外交という複数の目的を同時に達成する、極めて洗練された政策であった。これは、彼の智略が戦場のみならず、共同体の平和と安定を築くためにも発揮されたことを示している。
山田匡得の生涯は、戦国乱世における武士の理想像の一つを提示している。同時にそれは、大友、島津という二大勢力の狭間で翻弄されながらも、自らの忠義を羅針盤とし、卓越した智恵を武器として、見事に自らの道と主家の未来を切り拓いた一人の人間の、力強く、そして気高い記録なのである。彼の物語は、日向・飫肥の地に深く刻まれ、今なお色褪せることのない光を放ち続けている。