山田有信は島津家の忠臣。二度の高城籠城戦で大友・豊臣の大軍を退け、主君義久の病に身代わりを願う。秀吉の誘いを固辞し、忠義を貫いた猛将。
戦国時代の九州を席巻した島津氏。その栄光の歴史は、島津四兄弟として知られる義久、義弘、歳久、家久ら一族の結束と武勇によって築かれた。しかし、その強大な軍団を屋台骨として支えたのは、数多の宿将たちの存在であった。中でも、山田有信(やまだ ありのぶ)は、島津家が薩摩・大隅・日向の三州を統一し、九州の覇権に手をかける激動の時代において、その危難を幾度となく救った最も信頼篤い将の一人として、その名を歴史に刻んでいる。
彼の名は、多くの場合、日向国・高城(たかじょう)における二度の壮絶な籠城戦と結びつけて語られる。圧倒的な大軍を前に、わずかな兵で城を死守し、主家の勝利に決定的な貢献を果たしたその姿は、まさに「不屈」の象徴であった。しかし、彼の真価は単なる一武将の武勇伝に留まるものではない。天下人・豊臣秀吉から破格の待遇で誘われながらも、それを固辞して主家への忠誠を貫いた逸話、そして主君の病に際し、自らの命を身代わりとして捧げたという最期は、戦国乱世における理想的な主従関係の体現者として、後世に語り継がれている。
本報告書は、この山田有信という一人の武将の生涯を、「出自」「二度の籠城戦」「人物像」「後世への影響」という四つの柱から多角的に解き明かすものである。彼の行動原理の根源を探り、その忠義と堅忍がいかにして形成され、島津家の歴史の中で発揮されたのかを詳細に検証することで、戦国という時代に生きた武士の魂の軌跡を追うことを目的とする。
山田有信の揺るぎない忠誠心は、彼個人の資質のみならず、その一族が背負ってきた歴史と、主君との間に結ばれた個人的な絆に深く根差している。彼の物語を理解するためには、まず薩摩山田氏の淵源と、有信が島津家の中核を担うに至るまでの経緯を紐解く必要がある。
薩摩における山田氏は、その出自について複数の系統が伝えられているが、有信が属する家系は、桓武平氏の流れを汲むとされる 1 。その伝によれば、平将門の乱(天慶2年、939年)で武功を挙げた鎮守府将軍・平貞盛の子、維衡(これひら)を遠祖とする 2 。貞盛から七代目の子孫にあたる武蔵三郎左衛門有国(ありくに)の孫、式部少輔有貫(ありつら)が、源頼朝による全国統治が進む文治年間(1185年~1190年)に薩摩国へ下向し、日置郡山田(現在の鹿児島県日置市周辺)の地を領したことから、地名にちなんで山田姓を名乗ったのがその始まりとされる 2 。
しかし、山田家と島津家の関係は、常に順風満帆ではなかったことを示唆する伝承も存在する。一説によれば、有信の祖先は島津家15代当主・島津貴久に一度反目し、「逆臣」の汚名を受けるという苦難を経験した。だが、後に貴久はこの処遇を後悔し、有信の父である山田有徳(ありのり)を再び召し抱え、自らの側近として重用したという 6 。この逸話が史実であるとすれば、山田家にとって島津家への奉公は、単なる主従関係を超え、「一度失った名誉を回復し、主家の恩義に報いる」という、一族の宿願とも言うべき重い意味合いを帯びていたと考えられる。この一族の歴史的背景こそ、有信の後の人生における行動原理、特にその驚くべき忠誠心の源泉を理解する上で、極めて重要な鍵となる。
天文13年(1544年)、山田有徳の子として生を受けた有信は、幼少期から島津貴久の側近くに仕え、その薫陶を受けた 3 。これは、父・有徳が貴久の側近であったという前述の伝承とも符合する。やがて貴久の子、島津家16代当主・義久が家督を継ぐと、有信は引き続き義久に仕え、その信頼を確固たるものにしていく。
彼は宮之城(現在の鹿児島県さつま町)や隈之城(現在の鹿児島県薩摩川内市)といった要地の地頭職を歴任し、行政官としての能力も発揮した 3 。同時に、武人としての資質も際立っていた。天正3年(1575年)に催された武芸の披露である「犬追物(いぬおうもの)」では射手の一人に選ばれ、その弓馬の術を披露。翌天正4年(1576年)の日向国高原城(たかはるじょう)攻めの際には、総大将である主君・義久の「太刀役」という名誉ある役目を務めている 5 。これらの事実は、有信が義久にとって、武芸に秀でた信頼すべき側近であったことを明確に示している。
その信任の厚さは、彼の昇進の速さにも表れている。永禄11年(1568年)、有信は25歳という若さで島津家の家老に就任した 3 。これは、一族の歴史的背景からくる強い忠誠心に加え、有信自身が幼少期から貴久・義久父子の側で過ごす中で育んだ個人的な敬愛と信頼関係が、主君に高く評価された結果に他ならない。こうして山田有信は、島津家が九州の覇権へと突き進む時代の中核を担う、不可欠な存在へと成長していったのである。
山田有信の名を戦国史に不滅のものとして刻みつけたのが、天正6年(1578年)の「耳川の戦い」である。この九州の勢力図を塗り替えた一大決戦において、有信は主戦場となった高城川のほとりに聳える高城の守将として、歴史的な役割を果たすこととなる。彼の指揮した籠城戦は、単なる一拠点防衛に留まらず、島津軍全体の勝利を呼び込むための決定的な布石となった。
天正5年(1577年)、島津氏は長年にわたる宿敵であった日向の伊東義祐(いとう よしすけ)を破り、その本拠地から追放することに成功した。これにより、日向国の大部分は島津氏の支配下に入った。しかし、北九州に広大な勢力圏を持つ豊後の大友氏が、追放された伊東氏を庇護したことで、日向は島津と大友、二大勢力が直接対峙する最前線へと変貌した 9 。
この新たな戦略的環境において、島津義久は旧伊東領の要衝に信頼できる重臣を配置し、国境線の防備を固める。その一環として、天正6年(1578年)2月、大友領との境界に位置する新納院高城(にいろいんたかじょう)の城主兼地頭として白羽の矢が立ったのが、山田有信であった 5 。高城は、大友氏が南下する際の進撃路を扼する極めて重要な拠点であり、この人選は、有信に対する義久の絶大な信頼を物語っている。
有信が高城城主となってからわずか数ヶ月後の天正6年(1578年)10月、事態は急変する。キリシタン大名として知られる大友宗麟が、伊東氏救援を大義名分に、3万とも6万ともいわれる大軍を率いて日向への侵攻を開始。その矛先は、まっすぐに高城へと向けられた 10 。
この時、高城を守る山田有信の手勢は、わずか300名から500名程度であったと伝えられる 5 。まさに、蟷螂の斧というべき兵力差であった。知らせを受けた島津家は、義久の弟である島津家久を急遽救援に派遣。家久は吉利忠澄(よしとし ただすみ)、鎌田政近(かまだ まさちか)らの兵を率いて高城に入城し、籠城軍は総勢約3,000名に増強されたものの、依然として大友軍に対しては圧倒的な劣勢であった 5 。
しかし、高城は天然の要害であった。城は高城川(現在の小丸川)と切原川に三方を囲まれた断崖絶壁の丘の上に築かれ、唯一陸続きとなっている西側の尾根には、V字型の深い空堀が幾重にも掘り込まれていた 9 。山田有信と島津家久は、この地形を最大限に活用した防衛戦術を展開する。
大友軍は、当時最新鋭の兵器であった「国崩し」と称されるフランキ砲(大砲)を持ち出し、城櫓を破壊するなど激しい砲撃を加えた 12 。さらに、城の生命線である水の手(水源へ通じる道)を断ち、兵糧攻めへと移行する 14 。城内は一時深刻な水不足に陥り、窮地に立たされた。だがその時、城内から奇跡的に新たな湧水が発見され、兵たちの士気は一気に高まったという 9 。有信と家久は、こうした幸運にも助けられながら、巧みな指揮で城兵を鼓舞し、一致団結して大友軍の猛攻を凌ぎ続けた 15 。
山田有信らの鉄壁の守りにより、大友軍は高城攻略に約1ヶ月もの時間を費やすことになった。この徹底抗戦は、島津義久が鹿児島から本隊を率いて出陣し、万全の態勢で決戦に臨むための貴重な時間を稼ぎ出すという、戦略的に極めて大きな意味を持っていた 10 。
そして天正6年11月12日、ついに佐土原に本陣を置いた島津本隊が動く。島津軍は得意の「釣り野伏せ」戦法を駆使して大友軍を平野部におびき出し、高城川の河原で一大決戦の火蓋が切られた。この「耳川の戦い」において、高城の籠城兵もまた、城から打って出て大友軍の側面を攻撃。これにより、大友軍は島津本隊と籠城兵によって挟撃される形となり、指揮系統は崩壊した 11 。
結果、大友軍は歴史的な大敗を喫し、田北鎮周(たきた しげかね)や佐伯惟教(さいき これのり)をはじめとする多くの重臣を失い、その勢力は大きく後退することとなる 9 。山田有信が指揮した高城での粘り強い籠城戦は、この九州の歴史を塗り替える大勝利を呼び込んだ、最大の功績であったと言っても過言ではない。彼は単に城を守っただけでなく、島津軍全体の勝利をデザインする上で、不可欠な役割を果たしたのである。この戦いを通じて、山田有信は「籠城の名手」としての評価を不動のものとした。
耳川の戦いから9年後、山田有信は再び高城で、今度は九州の一大名ではなく、天下人・豊臣秀吉の大軍と対峙するという、さらに過酷な試練に直面する。この戦いにおける彼の行動は、武将としての技量だけでなく、その忠義がいかに純粋で強固なものであったかを天下に示す機会となった。
耳川の戦いで大友氏を破った島津氏は、その後も破竹の勢いで九州各地を席巻。九州統一は目前かと思われた。しかし、その急激な勢力拡大は、中央で天下統一を進める豊臣秀吉の警戒を招くこととなる。天正15年(1587年)、秀吉は島津氏の「惣無事令(そうぶじれい)」違反を口実に、自ら20万を超える大軍を率いて九州征伐を開始した。
秀吉軍は二手に分かれ、弟の豊臣秀長が率いる日向方面軍約8万が南下し、その進路上に位置する高城を包囲した 7 。城を守るのは、またしても山田有信。そして、彼が率いる兵力は、一説にはわずか300余名であったという 5 。9年前と同じ城で、しかし相手は桁違いの大軍という、絶望的な状況が再現されたのである。有信は動じることなく、再び城に籠もり、徹底抗戦の構えを見せた。
豊臣軍の圧倒的な物量の前に、島津方は各地で敗北を重ねる。島津義久・義弘らが率いる本隊は、豊臣軍を根白坂(ねじろざか)で迎え撃つも、夜襲は失敗に終わり、壊滅的な敗北を喫した(根白坂の戦い)。この敗戦により、島津軍の組織的な抵抗は事実上終焉を迎える。
もはや勝敗は決した。しかし、山田有信は降伏しなかった。主家が敗れ、味方の援軍も期待できない状況下で、彼は豊臣軍からの降伏勧告をことごとくはねつけ、籠城を続けたのである 5 。彼の抵抗は、戦略的な意味を失った後も続いた。それは、武将としての意地であり、何よりも主君・島津義久への忠義を尽くさんとする一心からの行動であった。
最終的に、有信が城を明け渡したのは、すでに秀吉に降伏していた主君・義久自らが説得に訪れた後のことであった。主君からの直接の命令を受け、彼はついに矛を収める。その際、忠誠の証として、嫡男の有栄(ありなが)を人質として豊臣方に差し出している 5 。
山田有信の二度にわたる籠城戦で見せた武勇と、主君への絶対的な忠節は、敵将である豊臣秀吉をも深く感嘆させた。秀吉は有信の器量を高く評価し、島津家から引き抜き、天草(現在の熊本県)に四万石余の所領を与えて直参大名に取り立てるという、破格の申し出を行った 2 。
戦国乱世において、より良い待遇を求めて主君を乗り換えることは決して珍しいことではなかった。実力主義が席巻するこの時代、秀吉からの誘いは、一個人の武将として、また山田家という一族にとって、これ以上ない栄達の機会であった。事実、同じ島津家の重臣であった伊集院忠棟(いじゅういん ただむね)は、秀吉の意向を受けて島津家から半ば独立した立場となり、これが後の島津家中の内乱「庄内の乱」の遠因となっている 2 。伊集院氏の選択は、天下人の権威を背景に自家の安泰と発展を図るという、当時の合理的な生存戦略の一つであった。
しかし、山田有信の選択は、この時代の合理主義とは全く異なるものであった。彼は、秀吉からの破格の申し出をきっぱりと固辞し、一家臣として島津家に留まる道を選んだのである。一説には、天下人の顔を立てるため、儀礼上形式的に一度は拝領し、その場で即座に返上したとも伝えられている 16 。この行動は、有信にとって、個人的な栄達や領地の拡大という「実利」よりも、長年仕えてきた島津家への「恩義」と、武士としての「忠節」という「理念」が、はるかに重要であったことを示している。伊集院氏との対比によって、有信の忠義は、旧来の価値観に固執した頑固さではなく、新しい時代の潮流の中で、あえて自らが信じる武士の道を貫いた、主体的な意思決定として際立っている。彼の忠義は、天下人・秀吉の前で示されたことで、普遍的な価値を持つ「武士の鑑」として昇華されたのである。
項目 |
第一次高城籠城戦(対大友軍) |
第二次高城籠城戦(対豊臣軍) |
年代 |
天正6年(1578年) |
天正15年(1587年) |
攻城軍大将 |
田原紹忍 |
豊臣秀長 |
攻城軍兵力(諸説) |
30,000~60,000 |
約80,000 |
守城側主将 |
山田有信、島津家久 |
山田有信 |
守城側兵力(諸説) |
当初300~500、増援後 約3,000 |
約300 |
背景となる合戦 |
耳川の戦い |
根白坂の戦い |
結果 |
籠城に成功し、島津本隊の勝利に貢献 |
主君・義久の降伏命令により開城 |
合戦の記録は山田有信の武将としての側面を雄弁に物語るが、彼の人間性や、主君、家族との間に結ばれた深い絆を理解するためには、断片的に伝わる逸話に目を向ける必要がある。これらのエピソードは、彼の「忠義」が単なる観念ではなく、血の通った感情に裏打ちされたものであったことを示している。
有信の生涯を締めくくる逸話ほど、彼の主君への想いを象徴的に示すものはない。慶長14年(1609年)、九州征伐後に隠居していた主君・島津義久が、国分(現在の鹿児島県霧島市)の舞鶴城で重い病に倒れた。この報せを聞いた有信は、深く心を痛め、神仏に対して「自らの命と引き換えに、主君の病が癒えるように」と一心に祈願したという 6 。
すると、その願いが天に通じたかのように、有信自身が病に倒れ、同年6月14日にこの世を去った。享年66 5 。まるで義久の病をその身に引き受けたかのような最期であった。一説には、祈願の際に「主君の病を治してくださるならば、この命を差し出す」と誓い、自害したとさえ伝えられている 6 。
主君の身代わりとなったかのような有信の死を、義久は深く悼んだ。自ら葬儀に赴いて焼香し、一説ではその棺を自らの手で担いだとまで言われている 7 。この行動は、二人の関係が単なる主従のそれを超え、深い敬愛と信頼で結ばれた、人間的な絆であったことを何よりも雄弁に物語っている。
有信は、ただ忠実なだけの武将ではなかった。その豪胆さを示す逸話も残されている。第一次高城籠城戦の死闘の最中、国元から嫡男・有栄(ありなが)が無事に誕生したという報せが届いた。死と隣り合わせの極限状況にありながら、有信はこの報を聞くと「もはや思い残すことはない」と呵々大笑したという 2 。この逸話は、死を恐れぬ武人としての胆力と、家の跡継ぎを得た安堵が同居した、彼の人間的な一面を垣間見せる。
また、島津四兄弟との深い関わりを示すエピソードもある。天正13年(1585年)の筑前・岩屋城攻めの際、敵兵の投石が頭部に当たり、有信は気絶してしまった。その場に居合わせた島津義弘が駆け寄り、必死の蘇生術を施したことで、有信は一命を取り留めたという 5 。主君である義久だけでなく、その弟たちとも戦場で生死を共にし、強い信頼関係を築いていたことが窺える。
山田有信の物語は、彼個人の一代で完結するものではない。その忠義の精神は、嫡男・有栄によって見事に受け継がれ、次代の島津家を支える力となった。この父子の物語は、二世代にわたる壮大な忠義の叙事詩として捉えることができる。
慶長5年(1600年)に勃発した関ヶ原の戦いにおいて、有信自身はすでに老境にあり、薩摩にあって参陣はしていない 18 。しかし、彼の嫡男・有栄は島津義弘に従い、遠く美濃国の決戦の地へと赴いた 19 。西軍が総崩れとなり、島津隊が敵中に孤立するという絶望的な状況下で敢行された、世に名高い「島津の退き口」。この壮絶な撤退戦において、有栄は父譲りの武勇を発揮し、義弘を護衛して敵中を突破。無事に薩摩まで主君を帰還させるという大功を立てたのである 6 。
この父子の忠義は、その性質において興味深い対比を見せる。父・有信の忠義は、いわば「静」の忠義、「守り」の忠義であった。彼の主戦場は常に「城」という不動の場所であり、そこで敵の大軍を食い止め、主家と領地を守り抜いた。一方、息子・有栄の忠義は、「動」の忠義、「攻め」の忠義であった。彼の舞台は、関ヶ原から薩摩へと至る流動的な空間であり、絶え間ない追撃を切り抜け、主君の命を守り抜いた。
有信が守り抜いた島津家を、今度はその息子が身を挺して守る。この構造は、山田家の忠誠が、時代や状況の変化に適応しながらも、その本質を変えることなく次代へと確かに継承されたことを示している。有栄はその後も島津家に仕え、家老となり、寛永14年(1637年)の島原の乱にも出陣。91歳という長寿を保ち、晩年は質素な暮らしを守りながら若者たちを諭したとされ、父・有信が貫いた武士の精神を、その生涯を通じて体現し続けた 6 。山田有信の生涯を評価する上で、この「継承」の視点は不可欠であり、彼の人物像にさらなる深みを与えている。
二度の籠城戦と主君への絶対的忠誠によってその名を知られた山田有信は、戦乱の時代が終わりゆく中で、島津家の重鎮としてその晩年を過ごした。彼の死後も、その功績と生き様は語り継がれ、歴史の中で確固たる評価を確立している。
豊臣秀吉による九州平定後、有信は天正17年(1588年)に改めて島津家の家老に任じられた 17 。豊臣政権下、そして関ヶ原の戦いを経て江戸幕府が開かれるという激動の時代において、有信は一貫して主君・義久を支え続けた 13 。具体的な治績に関する詳細な記録は多く残されていないものの、秀吉からの誘いを断ってまで島津家に留まった彼の存在そのものが、様々な政治的圧力に晒された島津家にとって、精神的な重石となっていたことは想像に難くない。彼の存在は、島津家中の結束を保ち、新たな時代に対応していく上での揺るぎない支柱であった。
慶長14年(1609年)、主君の身代わりとなるかのように、有信はその66年の生涯を閉じた 5 。亡骸は、主君・義久が隠居地の国分に開基した龍昌寺(りゅうしょうじ)に手厚く葬られた 5 。主君が開いた寺に、最も忠実な家臣が眠る。これは、二人の深い絆を象徴するものであった。
しかし、時代は下り、明治時代になると政府の神仏分離・廃仏毀釈の政策の嵐が薩摩藩領内にも吹き荒れる。多くの寺院が破壊される中、龍昌寺もまた廃寺の運命を辿り、その跡地には現在、鹿児島県立国分中央高等学校などが建っている 16 。これにより、有信の墓も失われてしまった。ただ、幸いなことに、鹿児島県霧島市の向花(むけ)山崎墓地内に、有信の分骨がなされたものとみられる六地蔵供養塔が現存しており、今日でもその忠臣ぶりを偲ぶことができる 16 。
なお、父の遺志を継いだ嫡男・有栄の墓は、彼が地頭を務めた鹿児島県出水市の丘陵にあり、薩州島津家の墓所の一角で今もその場所が確認されている 19 。
山田有信は、歴史の中で「忠臣の鑑」「籠城の名手」として、一貫して高く評価されている。その評価は、主に二つの側面に集約される。
第一に、その卓越した防衛指揮能力である。大友、豊臣という二つの強大な勢力に対し、二度にわたって高城に籠城し、圧倒的な兵力差を覆して城を守り抜いた手腕は、戦国時代の武将の中でも特筆に値する 13 。彼は、地形の利用、兵の士気維持、兵站管理といった籠城戦に必要なあらゆる要素を兼ね備えた、防衛戦のスペシャリストであった。
第二に、その純粋で揺るぎない忠誠心である。天下人・秀吉からの破格の誘いを断り、生涯を島津家臣として貫き、最期は主君の身代わりとなることを願って死んだその生き様は、封建的主従関係の理想形として、多くの人々の心を打った 2 。
総括すれば、山田有信の生涯は、戦国乱世における武士の生き様の一つの理想を提示している。それは、自らの武勇と知略のすべてを主家のために捧げ、私利私欲に走ることなく、信義を命がけで貫き通すという姿である。その姿は、しばしば薩摩武士の精神として語られる「薩摩隼人」の原型とも重なる。彼の物語は、単なる一地方武将の伝記を超え、日本人が古来より尊んできた「忠義」という価値観の深淵を覗かせるものとして、今なお我々に多くの示唆を与え続けている。