山田重直は尼子氏に故郷を奪われ、毛利氏に仕え奪還。南条氏と対立し羽衣石城攻略に貢献するも、和睦で故郷を失い、失意の内に没した。
戦国時代の日本列島を席巻した群雄割拠の波は、中央の畿内のみならず、遠く山陰地方の伯耆国(現在の鳥取県中部・西部)にも容赦なく押し寄せた。この激動の時代、大国の狭間で翻弄されながらも、一族の再興と故郷の奪還に生涯を捧げた一人の武将がいた。その名を山田重直(やまだ しげなお)という。彼の生涯を理解するためには、まず彼が背負った一族の歴史と、その運命を決定づけた戦国前夜の状況から説き起こさねばならない。
山田氏は、紀姓を称する一族で、その起源は平安時代や鎌倉時代にまで遡る可能性が示唆されている 1 。『伯耆民談記』などの後世の記録によれば、承平年間(931年~938年)に長田山城入道なる人物がこの地に入部したことをもって山田氏の始まりとする伝承や、弘安6年(1283年)に紀秀員という人物が梵鐘を寄進した記録が残されている 2 。これらの記録の真偽はともかく、山田氏が古くから伯耆国久米郡山田荘(現在の鳥取県東伯郡北栄町)に根を張り、影響力を行使してきた在地領主(国人)であったことは間違いない 2 。彼らは代々、嶋村に築かれた堤城(つつみじょう)を本拠地としていた 3 。
室町時代を通じて伯耆守護であった山名氏に属していた山田氏であったが、戦国時代に入ると、中国地方の勢力図は劇的に塗り替えられる。出雲国(現在の島根県東部)を本拠とする尼子経久が急速に台頭し、その鋭鋒は伯耆国にも向けられた 2 。
大永4年(1524年)5月、尼子経久は自ら大軍を率いて伯耆へ侵攻する。この軍事行動は、後に「大永の五月崩れ」と呼ばれることになる、伯耆国人衆にとっての悪夢の始まりであった。尼子軍の圧倒的な力の前に、羽衣石城の南条氏、岩倉城の小鴨氏など、山名方に属する伯耆の諸城は次々と陥落した。そして、山田重直の父である山田石見守高直(時直とも)が守る堤城もまた、この時に尼子氏の手に落ちたのである 2 。城を追われた高直をはじめとする伯耆国人衆は、但馬国(現在の兵庫県北部)の山名氏を頼って、故郷を後に流浪の身となった 2 。
この一族にとっての悲劇的な敗北の、まさに翌年、大永5年(1525年)に山田重直は生を受けた 2 。彼は、物心つく以前から「故郷喪失者」の子という境遇を宿命づけられていた。父が失った城、一族が追われた土地、その全てを取り戻すこと ―「奪還」― こそが、山田重直の生涯を貫く根源的なテーマとなったのである。彼の後の行動原理の根底には、単なる立身出世欲を超えた、一族の悲願を背負った者の執念が常に燃え続けていた。
故郷・伯耆を追われた山田一族は、但馬国の守護・山名氏の庇護下に入った。しかし、それは安穏な生活の始まりではなく、雌伏と再起の機会をうかがう苦難の日々であった。この流浪の時代に、若き重直は武将としての能力を磨き、来るべき帰還の日に備えることになる。
但馬へ逃れた山田一族は、敵である尼子方の追及を逃れ、身を隠すためか、一時的に姓を「長田(ながた)」と改めた 2 。これは、単なる偽名ではなく、他国で再起を図るための戦略的な選択であったと考えられる。山田重直が歴史の表舞台に初めてその名を現すのも、天文15年(1544年)、20歳の時に「長田又五郎」としてであった 5 。
成長した重直は、長田又五郎、後には平三左衛門尉と名を改め、但馬山名氏の家臣として各地の合戦で頭角を現していく 1 。特に、永禄3年(1560年)の私部表合戦や、翌永禄4年(1561年)の若桜表合戦における彼の活躍は目覚ましく、その軍功によって因幡国気多郡などに所領を与えられるまでになった 2 。
この但馬での雌伏の期間は、重直にとって極めて重要な意味を持った。彼は、実戦を通じて戦の駆け引きを学び、武将としての名声を高めた。そして何より、この時期に培った人脈と経験こそが、後に中国地方の新たな覇者・毛利氏と結びつき、長年の悲願であった故郷への帰還を果たすための礎となったのである。
永禄年間に入ると、中国地方の覇権は、かつて伯耆を席巻した尼子氏から、安芸国(現在の広島県西部)の毛利元就へと移りつつあった。この時代の大きな潮流を的確に読み取った山田重直は、生涯における最大の転機を迎える。主君を山名氏から毛利氏へと乗り換え、ついに故郷・堤城を奪還するのである。
重直は、衰退しつつある山名氏に見切りをつけ、西から勢力を伸ばす毛利氏に接近した 5 。これは、単なる鞍替えではなく、一族の悲願である「堤城奪還」を成し遂げるための、極めて戦略的な判断であった。彼の期待に応えるように、毛利元就は伯耆への影響力を強めていく。
そして永禄5年(1562年)、重直の人生における最初のクライマックスが訪れる。毛利氏の強力な支援を得て、父・高直が城を追われてから実に38年ぶりに、本拠地・堤城を奪回することに成功したのである 4 。翌永禄6年(1563年)には、正式に但馬山名氏から離れ、毛利氏の傘下へと加わった 5 。
毛利氏の家臣となった重直は、その忠誠を高く評価された。永禄9年(1566年)、彼は毛利元就から直々に「出雲守」の受領名を与えられる 3 。これは、彼が単なる在地領主の一人としてではなく、毛利家当主から直接認知された重要な家臣として遇されたことを意味する。
帰国後の重直は、毛利氏の戦略的配置によって、東伯耆の有力国人であり、羽衣石城を本拠とする南条氏の配下に「奉行衆」の一人として組み込まれた 3 。しかし、彼の立場は単なる「与力」や「家臣」といった単純なものではなかった。史料によれば、重直は小森久綱と共に一度はこの配置を渋った形跡があり、彼自身はあくまで毛利氏の直臣であるという強い意識を持ち続けていた 5 。
この事実は、彼の南条家における役割が、軍事的な補佐役というよりも、毛利氏の意向を伝え、織田氏など東方勢力との接触を警戒する南条氏の動向を監視する「目付(監視役)」としての性格を強く帯びていたことを示唆している。主君である毛利元就から直接官位を与えられているという事実も、彼が南条宗勝・元続親子とは別格の、毛利氏直属の存在であったことを裏付けている。この忠誠の対象が二重に存在する複雑な主従関係こそが、後に南条元続との間に生じる致命的な対立の根源となっていくのである。
西暦 (和暦) |
年齢 |
所属勢力 |
主な出来事 |
典拠 |
1524 (大永4) |
- |
山名氏 |
父・高直、尼子経久に敗れ堤城を失う(大永の五月崩れ)。 |
2 |
1525 (大永5) |
0 |
(亡命先) |
但馬国にて誕生。 |
2 |
1544 (天文15) |
20 |
但馬山名氏 |
「長田又五郎」として史料に初見。 |
5 |
1562 (永禄5) |
38 |
毛利氏 |
毛利氏の支援を得て、本拠・堤城を奪還。 |
4 |
1563 (永禄6) |
39 |
毛利氏 |
正式に但馬山名氏を離れ、毛利氏の傘下に入る。 |
5 |
1566 (永禄9) |
42 |
毛利氏 (南条氏配下) |
毛利元就より「出雲守」の受領名を与えられる。 |
3 |
1575 (天正3) |
51 |
毛利氏 (南条氏配下) |
南条元続が家督を継承。関係が悪化し始める。 |
5 |
1576 (天正4) |
52 |
毛利氏 (南条氏配下) |
吉川元春の密命により、福山一族を誅殺。 |
5 |
1579 (天正7) |
55 |
毛利氏 |
南条元続に堤城を攻められ、子・信直と共に鹿野城へ脱出。 |
3 |
1581 (天正9) |
57 |
毛利氏 |
嫡男・信直が急死。 |
7 |
1582 (天正10) |
58 |
毛利氏 |
南条氏の本拠・羽衣石城を内部工作により攻略。 |
3 |
1584 (天正12) |
60 |
毛利氏 |
「京芸和睦」により、故郷・久米郡が南条領となり、本拠地を完全に失う。 |
5 |
1592 (天正20) |
68 |
毛利氏 |
西伯耆・小鷹城にて死去。 |
5 |
故郷への帰還を果たした重直であったが、安息の時は長くは続かなかった。毛利氏と織田氏という二大勢力の対立が深まる中、彼は忠誠と謀略が渦巻く、人生最大の試練に直面することになる。表向きの主君である南条家との確執は、やがて血を流す悲劇へと発展していく。
天正3年(1575年)、南条宗勝が死去し、若き南条元続が家督を継ぐと、事態は急速に悪化する 5 。元続は、中央で覇権を握りつつあった織田信長との内通を画策し始めたのである 5 。毛利方への忠誠を第一とする重直にとって、これは到底容認できる動きではなかった。毛利方の「目付」として元続の動きを牽制する重直と、独自の活路を見出そうとする元続との意見対立は先鋭化し、重直は南条家中で急速に孤立を深めていった 5 。
両者の亀裂を決定的にしたのが、天正4年(1576年)に起きた「福山一族誅殺事件」である。元尼子家臣であった福山次郎左衛門は、南条元続と織田方とを結ぶ仲介役として暗躍していた 5 。この動きを危険視した毛利方の将・吉川元春は、南条家中の楔である重直に対し、福山一族の誅殺を密命した 5 。
主君からの密命を受けた重直は、この汚れ役を引き受ける。彼は福山一族を羽衣石城下の自らの居館に招き寄せると、これを謀殺した 5 。これは、彼の毛利氏への揺るぎない忠誠心を示すための、もはや後戻りのできない行動であった。この謀略は、南条家中の親織田派を牽制し、動揺させるという吉川元春の狙い通りに進んだかに見えた。しかし、その代償はあまりにも大きかった。この一件により、南条元続の重直に対する不信と憎悪は決定的なものとなり、両者の関係は修復不可能なまでに破壊されたのである 6 。
福山事件の後も、重直は南条氏を毛利方に引き留めようと奔走を続けたが、一度生じた亀裂は埋まらなかった 6 。そして天正7年(1579年)9月、ついに織田方への離反を公然と決意した南条元続は、家中の目の上の瘤であった重直の殺害を決意。800騎ともいわれる兵を率いて、重直の居城・堤城を急襲した 3 。
不意を突かれた重直は、子息の山田信直と共に、間一髪のところで城を脱出。毛利方の拠点である因幡国鹿野城へと命からがら逃げ延びた 3 。38年の歳月を経て奪還した故郷・堤城を、彼は再び失うことになった。今度の敵は、かつて共に戦ったはずの、表向きの主君であった。
南条氏と完全に決別した重直は、その活動の場を合戦の最前線へと移す。吉川元春の直属の将として、彼は反南条闘争の旗頭となり、かつての主君とその本拠地・羽衣石城を相手に、壮絶な戦いを繰り広げた。この時期の彼の戦いぶりは、彼の真骨頂ともいえる、地域に深く根差したゲリラ戦術の冴えを見せている。
鹿野城に拠点を移した重直は、毛利方の対南条戦線において不可欠な存在となった。毛利本家の当主・毛利輝元からも「彼者(重直)の事は方角別して馳走入魂の者に候間、我らにおいて少しも忘却存ぜず候(重直のことは、この方面で格別に骨を折ってくれている忠義の者なので、我々もその功績を決して忘れることはない)」と最大級の賛辞を送られるほど、その働きは高く評価されていた 3 。
重直の強みは、大軍を率いての会戦ではなく、東伯耆という自らの庭を知り尽くした地理感覚と、そこに張り巡らされた人的ネットワークを駆使した非対称戦にあった。彼は、外部勢力である南条氏や、その背後にいる羽柴秀吉軍には決して真似のできない、地の利を最大限に活かした戦術を展開した。
その戦い方は多岐にわたる。土地勘のある「案内者」を使い、神出鬼没の機動を見せる。地元の地侍や武装農民を「野伏(のぶし)」として組織し、自軍の戦力とする。敵の補給路や連絡線を断つための待ち伏せや、夜陰に乗じた奇襲攻撃を繰り返す。さらには、敵兵の寝返りを誘う調略も積極的に行った 3 。
具体的な戦果も数多く記録されている。天正8年(1580年)には、南条氏の重臣・泉養軒長清の館を夜襲し、人質となっていた自らの娘の救出に成功 3 。また、十万寺山に軍勢を派遣して南条方の兵を討ち取ったり 9 、長瀬表(現在の湯梨浜町)で南条軍が行っていた稲の刈り取り(苅田)を妨害し、敵兵を討ち取ったりするなど 3 、小規模ながらも執拗な攻撃で、着実に南条氏の支配体制を内側から蝕んでいった。これは、自らのリソース(地域知識と人脈)を最大化し、敵の弱点(地理への不案内と内部の結束の脆さ)を的確に突く、戦国時代における優れたゲリラ指揮官の姿そのものであった。
重直の執念深い切り崩し工作は、天正10年(1582年)、ついに最大の戦果となって結実する。彼の調略に応じた南条氏の家臣団(羽衣石衆)が城内で反乱を起こし、南条氏の本拠・羽衣石城は内部から崩壊、ついに落城したのである 3 。この勝利に重直が果たした役割は、決定的なものであった。
しかし、この公的な成功の裏で、彼は私的な悲劇に見舞われていた。この激しい戦いの最中であった天正9年(1581年)正月、彼の後継者であり、共に堤城を脱出した嫡男・信直が急死してしまったのである 7 。戦の勝利という栄光の陰には、後継者を失うという深い苦悩が隠されていた。
羽衣石城を攻略し、反南条闘争に勝利を収めた重直。しかし、彼の人生の皮肉は、ここからが本番であった。戦には勝利したものの、政治という巨大な奔流の中で、彼は生涯を懸けて求めた故郷を、今度は味方の手によって永遠に失うことになる。彼の晩年は、戦国武将の忠義と功績が、必ずしも報われるわけではないという非情な現実を我々に突きつける。
羽衣石城攻略という大功を立てたにもかかわらず、戦後に重直が得た恩賞は、故郷・久米郡内のわずか28石の土地のみであったという 5 。この背景には、毛利氏が対織田(羽柴)戦線で多くの国人衆を味方につけるため、戦功の見返りを事前に約束する「先行給付」を濫発した結果、最終的な論功行賞の際に配分すべき土地が枯渇していたという、毛利氏側の台所事情があった 6 。
さらに決定的な悲劇が、重直を襲う。彼の運命は、もはや伯耆一国での戦果によって決まるものではなくなっていた。天正12年(1584年)、毛利氏と羽柴秀吉との間で和睦(いわゆる「京芸和睦」)が成立する 5 。この最高レベルの政治交渉の場で、伯耆国の国境線が確定された。その結果、重直が生まれ、奪還し、そして戦った故郷・久米郡は、敵であった南条氏の所領(つまり秀吉方)として確定してしまったのである。
これは、重直の立場がいかに脆弱であったかを物語っている。彼は毛利家の中では、吉川氏という分家の、さらにその下の地域担当者に過ぎなかった。彼の命を懸けた局地的な戦いの成果は、毛利本家の存亡をかけた対秀吉交渉という全体戦略の前では、あまりにも軽く扱われた。彼は、自らの主家である毛利氏の政治判断によって、生涯の目的であった「故郷の確保」を永遠に断たれたのである。これは、大勢力の狭間で翻弄される「中間管理職」的な立場にあった戦国国人領主が直面した、最大の悲劇であった。
故郷を完全に失った重直は、毛利領とされた西伯耆の会見郡小鷹城へ移ることを余儀なくされた 7 。家督は既に息子(山田次郎五郎)に譲っており、60歳を超えた老将は、深い失意のうちに隠居生活を送ったと推察される 5 。
天正20年3月14日(1592年4月15日)、山田重直は移封先の小鷹城にて、波乱に満ちた68年の生涯を閉じた 5 。
重直の死後、山田氏の子孫は、彼が忠誠を誓った吉川氏に従って周防国岩国(現在の山口県岩国市)へ移り、江戸時代を通じて岩国藩士として家名を保った 3 。そして、彼らが家に伝えた『山田氏覚書』や100点を超える古文書群は、現在、岩国の徴古館に所蔵されている 3 。これらの史料は、山田重直個人の生涯のみならず、伯耆国ひいては山陰地方全体の戦国史を研究する上で、他に代えがたい極めて貴重な一級史料となっている。皮肉にも、彼の波乱に満ちた人生そのものが、後世の我々に歴史の真実を伝える貴重な窓を残したのである。
山田重直の生涯を振り返るとき、我々はいくつかの側面から彼の歴史的評価を試みることができる。
第一に、彼は尼子、山名、毛利、南条、そして織田(羽柴)という大勢力の動向に翻弄されながらも、決して流されるだけではなく、一族の存続と故郷の回復という明確な目的意識を持って主体的に行動し続けた、戦国時代の国人領主の典型的な姿を体現している。彼の人生は、地方の小領主が置かれた過酷な生存競争の現実を象徴している。
第二に、彼は軍事指揮官として、特にゲリラ戦の分野で卓越した能力を持っていた。大軍を率いて華々しい会戦を指揮するタイプの将軍ではなかったが、地域社会に深く根差した情報網と人脈を駆使し、地の利を活かした非対称戦を効果的に遂行する、極めて有能な戦術家であった。彼の戦い方は、戦国時代の多様な戦闘形態の一端を示す好例である。
そして最後に、彼は忠義と悲劇の体現者であった。主家である毛利氏への忠誠を貫き、福山一族誅殺という汚れ役さえ厭わなかった。しかし、その忠誠は、彼が最も望んだ形では報われなかった。最終的に、その主家の政治的判断によって最大の犠牲を強いられた彼の生涯は、戦国乱世の非情さと、個人の武勇や努力では抗うことのできない歴史の大きなうねりを我々に教えてくれる。山田重直の物語は、単なる成功譚や敗北譚では片付けられない、忠誠、謀略、栄光、そして悲哀が複雑に絡み合った、人間味あふれる歴史ドラマとして記憶されるべきであろう。