戦国時代、数多の武将が覇を競ったが、その中でも武田信玄麾下の将として、山県三郎兵衛尉昌景(やまがた さぶろうびょうえのじょう まさかげ)の名は、武勇と忠誠の象徴として際立っている 1 。彼は、武田軍最強と謳われた騎馬軍団「赤備え」(あかぞなえ)を率い、その勇猛果敢な戦いぶりから「武田四天王」の一人に数えられ、武田家の軍事力を支える中心的人物であった 1 。昌景の名声は、単に後世の評価に留まらず、同時代、特に敵対者であった織田信長のような人物にも認識されていたことは特筆に値する 4 。これは、彼が戦場において与えた影響がいかに甚大であったかを物語っている。
本報告書は、現存する史料や研究に基づき、山県昌景の生涯、軍事的な業績、人物像、そして後世に与えた影響を包括的に検証し、その実像に迫ることを目的とする。彼が率いた「赤備え」は、単なる部隊の色ではなく、戦国時代の軍事における心理戦術の先駆けとも言える存在であった 3 。その鮮烈な赤色は敵に威圧感を与え、味方の士気を高揚させる効果があり、武田軍の精鋭部隊としての地位を確立しただけでなく、後の諸大名にも影響を与える軍事的な「ブランド」としての側面も持っていた。本報告では、こうした多角的な視点から昌景の歴史的意義を明らかにする。
山県昌景は、享禄2年(1529年)、甲斐国(現在の山梨県)に生まれたとされ、当初は飯富源四郎(おぶ げんしろう)と名乗った 1 。父は飯富道悦(おぶ どうえつ)とされるが、一部史料では源四郎とも記されており 1 、この点については若干の異同が見られる。ただし、父とされる飯富源四郎は永正12年(1515年)に戦死した記録があり 6 、昌景の生年と照らし合わせると、道悦が父である可能性が高い。兄には、後に武田信玄の嫡男・義信の傅役(もりやく)を務めることになる飯富兵部少輔虎昌(おぶ ひょうぶしょうゆう とらまさ)がいた 2 。昌景と虎昌の年齢差が大きいため、昌景は虎昌の甥であったとする説も存在するが 4 、一般的には兄弟関係とされている。
昌景は、武田晴信(後の信玄)の奥近習(おくきんじゅう)としてキャリアを開始した 1 。早くからその武勇は際立っており、信濃侵攻における戦功により、天文21年(1552年)には150騎を率いる侍大将に抜擢されている 1 。これは、実力主義が重んじられた戦国時代において、彼の能力がいかに高く評価されていたかを示すものである。
永禄8年(1565年)、昌景の運命を大きく左右する「義信事件」が発生する。これは、信玄の嫡男・武田義信と、その傅役であった昌景の実兄・飯富虎昌が謀反を企てたとして粛清された事件である 1 。軍記物『甲陽軍鑑』によれば、昌景は兄と義信の間に謀反の企てがあることを察知し、「いかに兄といえども御大将に弓を引く謀反の企ては許せない」と、主君信玄への忠誠を優先し、この計画を信玄に訴え出たとされる 7 。この行動は、個人的には極めて苦渋の選択であったろうが、結果として信玄の絶対的な信頼を得ることに繋がった。
この事件の結果、飯富虎昌は自害に追い込まれた 1 。一方、昌景はその忠誠を賞され、信玄の命により、断絶していた名門・山県氏の名跡を継ぐことを許され、山県昌景と改名した。さらに、兄・虎昌が率いていた精鋭部隊「赤備え」の指揮権も継承することになったのである 1 。この義信事件は、昌景にとって個人的な悲劇であると同時に、武田家臣団における彼の地位を不動のものとし、その後の華々しい活躍への道を開く決定的な転機であったと言える。武士道における主君への忠義(忠)と家族への情愛(孝・悌)との間で、前者を優先するという彼の選択は、『甲陽軍鑑』のような後世の軍記物語において、理想的な武士像として描かれる要因となった。ただし、『甲陽軍鑑』は物語的な要素や武田氏を称揚する傾向も指摘されており 8 、その記述の全てを史実と見なすことには慎重さが求められる。
山県昌景の名を不朽のものとした要因の一つが、彼が率いた「赤備え」である。これは、鎧、兜、旗指物、さらには馬具に至るまで、装備の全てを赤色で統一した騎馬部隊であった 1 。元々、この赤備えを創設したのは昌景の兄・飯富虎昌である 3 。赤色は戦場で非常に目立つため、特に家名を継げない次男以下の者たちが、自らの武功を主君にアピールし、恩賞を得るための手段として採用されたという背景がある 3 。
義信事件後、昌景はこの赤備え部隊を引き継ぎ、その名声をさらに高めた。彼の指揮下で、赤備えは武田軍最強の精鋭部隊、そして信玄の「切り込み隊長」として、敵軍に恐怖を与える存在となったのである 3 。
赤備えの威力は、単にその武勇だけに留まらなかった。統一された鮮やかな赤色は、視覚的に強烈な印象を与え、敵兵の心理を圧迫する効果があった 3 。赤が進出色・膨張色であるため、部隊が実際よりも大きく、迫ってくるように感じさせたとされる 3 。これは、戦国時代における一種の心理戦術(PSYOPS)であり、軍事的な「ブランディング」の初期の形態とも言える。その特異な外見は、敵の士気を低下させるだけでなく、武田軍内部においてはエリート部隊としての誇りを醸成し、団結力を高める役割も果たしたであろう。
赤備えの有効性は、その外見のインパクト、選りすぐられた兵士たちの高い戦闘能力、そして何よりも昌景自身の卓越した指揮能力と勇猛さが組み合わさった結果であったと考えられる。単に赤い装備を纏っただけではなく、それを率いる昌景という存在があってこそ、赤備えは伝説的な強さを発揮し得たのである。その証左に、武田の赤備えは後世の武将たちにも大きな影響を与え、徳川家康配下の井伊直政や、豊臣方として大坂の陣で活躍した真田信繁(幸村)なども、赤備えの部隊を編成している 3 。
山県昌景の軍歴は、武田信玄の勢力拡大と軌を一にしており、数々の主要な戦役で中核として活躍した。
信濃北部の覇権を巡る武田信玄と上杉謙信の間の長期にわたる抗争、いわゆる川中島の戦いにも、昌景は参加している 1 。特に永禄4年(1561年)の第四次川中島の戦いは最大の激戦となったが、この時、昌景(当時は飯富源四郎)は信玄本隊の右翼を守る重要な役割を担っていたとされる 1 。
この戦いに関連して、上杉方の猛将・鬼小島弥太郎(おにこじま やたろう)との一騎打ちの逸話が伝えられている。昌景が弥太郎と刃を交えている最中、武田義信が窮地に陥ったのを見て、昌景は「主君の御曹司の窮地を救いたいため、勝負を預けたい」と申し出たところ、弥太郎はこれを快諾したという。昌景は弥太郎を「花も実もある勇士」と称賛したとされ 5 、この逸話は、敵味方を超えた武士の気概や、昌景の勇気と機転を示すものとして語り継がれている。
昌景は、武田信玄による今川氏領国・駿河への侵攻作戦(永禄11年、1568年頃~)にも積極的に参加した 1 。この功績により、駿河における戦略的要衝である江尻城の城代に任じられている 1 。これは、信玄が昌景の攻撃能力だけでなく、防衛や統治に関する能力も高く評価していたことを示唆している。彼の軍才は単なる騎兵突撃の指揮官に留まらず、攻城戦を得意とし、短期決戦で城を攻略することにかけては定評があった 4 。その他、飛騨への出兵(1564年)や、相模の後北条氏との三増峠の戦い(1569年)など、数多くの戦役で武功を挙げている 1 。
元亀3年(1572年)末から翌年初頭にかけて行われた三方ヶ原の戦いは、昌景の武名を最高潮に高めた戦いであった。これは、武田信玄が徳川家康、そしてその背後にいる織田信長を打倒すべく開始した西方遠征の一環であった。
昌景は秋山虎繁(信友)と共に別働隊を率い、信濃から三河に侵攻し、柿本城、武節城、長篠城といった徳川方の諸城を次々と攻略した 1 。その後、信玄本隊に合流し、遠江の二俣城攻略にも加わった 11 。
そして元亀3年12月22日(1573年1月25日)、三方ヶ原において徳川家康・織田信長連合軍と武田軍が激突した際、昌景は武田軍の先鋒として徳川軍に猛攻を加えた 1 。その凄まじい突撃は徳川軍の陣形を瞬く間に粉砕し、家康は生涯最大の敗北とも言われる壊走を喫した 1 。家康が昌景の追撃に恐怖し、「おそろしや!ヤマガター!」と叫んだという逸話も残るほどである 1 。ただし、この戦いにおいて昌景自身も徳川方の勇将・本多忠勝の奮戦に苦戦し、武田勝頼の援護を受けたという記録もあり 1 、一方的な勝利ではなかった側面も窺える。
元亀4年(1573年)に信玄が病没すると、昌景はその子・武田勝頼に仕え、引き続き武田家の中核を担った 1 。天正2年(1574年)には、高天神城の攻略や明知城の戦いに参加し、明知城では織田信長の軍勢を撃退したとも伝えられている 1 。
昌景の軍歴は、信玄の戦略的才能が頂点に達した時期から、勝頼のより積極的、あるいは慎重さに欠けるとも評される指導体制への過渡期に及んでいる。勝頼の下でも重用され続けたことは、昌景の適応能力と、時代が変わっても変わらず高く評価された彼の軍事的スキルを示している。
山県昌景 – 主要な戦闘と戦役
西暦 |
年齢(推定) |
戦役・戦闘名 |
昌景の役割・主な行動・意義 |
主要典拠 |
1552年 |
24歳 |
信濃諸戦 |
戦功により侍大将(150騎)に任ぜられる。 |
1 |
1561年 |
33歳 |
第四次川中島の戦い |
信玄本陣の右翼を指揮。鬼小島弥太郎との逸話。 |
1 |
1564年 |
36歳 |
飛騨出兵 |
江馬時盛を支援。 |
1 |
1565年 |
37歳 |
義信事件 |
兄の謀反疑惑を報告。山県姓と赤備えを継承。 |
1 |
1568年 |
40歳 |
第一次駿河侵攻 |
武田軍の駿河拡大に参加。 |
1 |
1569年 |
41歳 |
第二次駿河侵攻、小田原城攻め、三増峠の戦い |
多方面で活動。三増峠では奇襲を成功させる。 |
1 |
1571年 |
43歳 |
遠江・三河侵攻 |
山家三方衆らを従属させる。大野田城を攻略。 |
1 |
1572-1573年 |
44-45歳 |
信玄西方作戦(三方ヶ原の戦い含む) |
別働隊を率いて三河へ侵攻、諸城を攻略。三方ヶ原では先鋒として徳川家康を敗走させる。 |
1 |
1574年 |
46歳 |
明知城の戦い、第一次高天神城の戦い |
勝頼に仕え、明知城では織田信長軍を退ける。 |
1 |
1575年 |
47歳 |
長篠の戦い |
無謀な攻撃に反対するも、勇猛に突撃を繰り返し戦死。 |
1 |
昌景の輝かしい戦歴は、武田家の軍事的名声を高める上で極めて大きな貢献をしたが、同時に彼自身を敵にとって最重要警戒対象の一人へと押し上げた。戦場における彼の存在は、味方にとっては頼もしい支柱であり、敵にとっては恐怖の対象であったことは想像に難くない。
天正3年(1575年)、武田勝頼は徳川方の長篠城を包囲したが、これに対し織田信長・徳川家康連合軍が大規模な救援部隊を派遣した 14 。設楽原に対峙した両軍の間で、武田家の軍議では、数に勝り、準備万端の織田・徳川連合軍との決戦を避けるべきか否かで意見が分かれた。山県昌景は、馬場信春、内藤昌豊ら他の宿将たちと共に、慎重論を唱え、あるいは撤退を進言したと伝えられている 15 。しかし、勝頼は決戦を選択した。
織田・徳川連合軍は、連吾川沿いに三重の馬防柵を築き、その背後に大量の鉄砲隊を配置するという、当時としては画期的な陣城戦術を展開した 14 。武田軍の左翼(徳川軍と対峙)に布陣した昌景は、突撃を命じられた 14 。前日までの雨でぬかるんだ戦場は騎馬の機動力を削ぎ、堅固な馬防柵と鉄砲の一斉射撃は、武田自慢の騎馬突撃を阻んだ 14 。このような絶望的な状況下でも、昌景は赤備えを率いて果敢に突撃を繰り返した 14 。
昌景は、徳川軍本陣目指して幾度も(一説には9度)突撃を敢行したが 15 、ついに織田・徳川連合軍の鉄砲隊の前に力尽き、銃弾に倒れた 1 。その最期は壮絶で、全身に数発の銃弾を受けながらも落馬せず、采配を口に咥えたまま絶命したとも、あるいは瀕死の状態で自軍にたどり着き、後事を託して首を刎ねさせたとも伝えられる 15 。その首は家臣によって甲府へ持ち帰られ、胴体は長篠の地に埋葬された 15 。
昌景をはじめ、馬場信春、内藤昌豊、真田信綱・昌輝兄弟、土屋昌次といった武田軍の主だった将たちがこの戦いで討死し、武田軍は壊滅的な敗北を喫した 14 。昌景の死は、単なる一個人の損失に留まらず、武田家の軍事力を支えてきた経験豊富な指導者層の壊滅を意味し、その後の武田氏衰退の大きな要因の一つとなった。長篠の戦いは、戦国時代の戦術における転換点としてしばしば言及されるが、昌景の死は、伝統的な騎馬突撃戦術が、組織化された鉄砲隊と防御陣地の前に限界を露呈した悲劇的な象徴とも言える。
勝頼が、昌景ら宿将の進言を退けて決戦に踏み切ったという事実は、信玄時代とは異なる武田家の意思決定プロセスや、勝頼自身の指導者としての資質について考察する上で重要な論点となる。この決断が、武田家にとって致命的な結果を招いたことは歴史が示す通りである。
山県昌景は、身長が130cmから140cm程度と、当時としても際立って小柄な人物であったと伝えられている 1 。痩身で、兎唇(としん、いわゆる「みつ口」)があり、容貌も整っていたわけではなかった(不器量)とされる 4 。
しかし、その小さな体躯とは裏腹に、戦場における存在感は圧倒的であった。「立てば耳の際に雷が落ちたる如くなり」と評されるほどの威厳と気迫を持ち 4 、敵からは「信玄の小男出たり」と恐れられたという 4 。この外見と内面のギャップは、昌景の人物像をより印象深いものにしている。戦国という実力主義の時代において、彼の武勇と統率力がいかに傑出していたかを物語るエピソードである。
これらの資質は、戦国時代の優れた指揮官に求められた多面的な能力を反映しており、昌景が単なる勇将ではなく、知勇兼備の将であったことを示している。
武田信玄からは「股肱の大将」(自分の手足のように信頼する忠義な家臣)と評され、絶大な信頼を得ていた 4 。敵将であった織田信長も、長篠の戦いの後、討ち取った武田方の将士の首実検の際に、山県昌景の名を筆頭に挙げたとされ、その武名が敵方にも広く知れ渡っていたことを示している 4 。
後世に描かれた「武田二十四将図」においても、昌景は信玄に近い中心的な人物として描かれることが多く、その活躍が高く評価されていたことがわかる 2 。また、彼が率いた赤備えは、後に井伊直政や真田信繁(幸村)といった名将たちによって模倣されており、その戦術と部隊の強さが後世にまで大きな影響を与えたことの証左と言える 3 。
山県昌景には複数の養子がいたと記録されている 7 。
特筆すべきは、江戸時代中期の儒学者であり、尊王論者としても知られる山県大弐(やまがた だいに)が、昌景の養子・山県太郎右衛門から四代目の子孫であるという点である 7 。これにより、昌景の血筋(養子を通じてではあるが)は、戦国時代の武勇伝から、数世紀後の日本の思想・政治史における重要な人物へと繋がることになる。これは、昌景の遺産が単に軍事的なものに留まらず、思わぬ形で後世に影響を与えた一例と言える。
また、山梨県の川浦温泉にある旅館「山県館」は、山県昌景の子孫によって経営されていると伝えられており 20 、現代においてもその名跡が地域に息づいていることを示している。
これらの史跡は、山県昌景という人物と長篠の戦いという歴史的事件を、具体的な場所に結びつけ、後世の人々がその記憶を辿るための重要な手がかりとなっている。
山県昌景の、主君に忠実で勇猛果敢な戦国武将としてのイメージは、現代においても歴史小説、ゲーム、その他の大衆文化を通じて広く親しまれている(例えば、ゲーム内でのキャラクターとしての描写を示唆する資料もある 22 )。彼が指揮した「赤備え」は、戦国時代を代表する最も象徴的な軍事ユニットの一つとして記憶され、武田軍の強さと精強さの代名詞であり続けている 3 。
これらの史料を比較検討することは、戦国時代の歴史を再構築する上での課題を示している。物語豊かで魅力的な記述を含む軍記物語と、断片的ではあるがより客観的である可能性のある一次文書(書状や公式記録など)との間で、歴史家は慎重な評価を下さなければならない。昌景の物語もまた、このような歴史編纂の過程を経て形成されてきたものである。
平山優氏、柴辻俊六氏、黒田基樹氏、丸島和洋氏といった現代の歴史家たちが、山県昌景や武田氏に関する研究を進めている 5 。『新編 武田信玄のすべて』や『武田家臣団人名辞典』といった学術的な著作も刊行されており 5 、武田氏研究会のような組織による継続的な研究活動も行われている 23 。これらの研究は、史料の批判的検討を通じて、昌景の実像に迫ろうとする努力の現れである。
『甲陽軍鑑』のような物語が、その潜在的な不正確さにもかかわらず、昌景や他の武田家臣の一般的なイメージを強く形成してきたことは否定できない。その鮮やかな物語や人物描写は、しばしば地味な史実よりも強い影響力を持ち続けている。
飯富源四郎として生を受け、主君への揺るぎない忠誠心と比類なき武勇によって、武田家最高の将の一人へと駆け上がった山県昌景。彼が率いた赤備えは戦場を席巻し、三方ヶ原の戦いのような主要な合戦で決定的な役割を果たした。その生涯は、戦国武将の理想とされる武勇と忠誠を体現したものであった。
山県昌景は、武田信玄の軍事機構におけるまさに屋台骨であり、勝頼の代においても重鎮として武田家を支えた。しかし、彼の死は、長篠の戦いにおける武田家の破滅的な敗北と、その後の衰退を象徴する出来事となった。彼の存在は、武田家の栄光と悲劇の両面に深く関わっている。
山県昌景は、騎馬戦術の達人として、また武士道の鑑として、後世に語り継がれる存在である。「赤備え」は、戦国時代を代表する軍事の象徴として、その名を不滅のものとした。彼の物語は、個人の能力と行動が歴史に大きな影響を与えうる一方で、時代の大きな流れ、技術の進歩、そして指導者の決断といった外部要因にも左右されるという、歴史の複雑な力学を我々に示している。
山県昌景の生涯は、武田氏の、特にその後期における悲劇的な英雄性を体現しているとも言える。卓越した能力と勇気を持ちながらも、変化する戦術の潮流や指導部の戦略的判断の前に、その力が及ばなかった。彼の物語は、戦国時代という激動の時代を生きた一人の武将の軌跡を通じて、我々に多くの教訓と深い感銘を与え続けている。