岡左内、諱を定俊(おか さないとしさだとし)は、戦国時代から江戸時代初期にかけて、蒲生氏、上杉氏、そして再び蒲生氏という複数の主君に仕えた特異な経歴を持つ武将である 1 。彼は、その武勇のみならず、卓越した財務感覚、そして当時としては珍しいキリシタンとしての篤い信仰心によって知られている。さらに、金銭にまつわる数々の奇行は、後世の文学作品にも取り上げられるほど強烈な印象を残した。
本報告は、岡左内定俊の生涯について、現存する史料に基づき、あらゆる側面から徹底的に調査し、その多面的な人物像を明らかにすることを目的とする。利用者が既に把握している「蒲生・上杉家臣であったこと」「金銭にまつわる奇行」「関ヶ原の戦いにおける主家への献金」といった情報を出発点としつつ、それを大幅に超える詳細な情報と分析を提供する。彼の出自から晩年に至るまでの足跡、仕えた各家での役割、信仰生活、そして彼を特徴づける逸話の数々を丹念に追うことで、岡左内という一人の武将が、激動の時代にいかに生き、どのような影響を残したのかを深く考察する。
岡左内に関する史料を読み解く上で注意すべき点の一つに、その名前の表記の揺れがある。一般的に「岡左内(おか さない)」を通称とし、諱は「定俊(さだとし)」であったとされる 1 。また、後年には「岡越後守(おかえちごのかみ)」とも称した記録が見られる 1 。
特に注目されるのは、上杉家に仕官していた時期の関連文書において、「岡野左内(おかの さない)」という表記が多く用いられている点である 1 。『上杉将士書上』などがその代表例であり 1 、『会津御在城分限帳』にも「岡野左内」として記載されている 3 。その他にも、「岡野定政(おかの さだまさ)」や「岡野定俊(おかの さだとし)」といった表記も散見されることから 1 、彼自身の名乗りというよりは、上杉家側での記録上の慣習や、あるいは何らかの理由による呼称の変化があった可能性が考えられる。
一方で、慶長2年(1597年)、蒲生氏郷の没後に蒲生家が出した村の境界争いに関する裁定書には、奉行人の一人として「岡左内」という署名が現存している 1 。この事実は、少なくとも蒲生家臣時代においては、「岡左内」が彼自身の正式な名乗り、あるいは公的な場で使用した呼称であったことを強く示唆している。
このような名前の表記の揺れは、単なる記録の不統一というだけでなく、武士が主家を変える際や、功績によって新たな名乗りを得ることがあった当時の慣習を反映しているとも考えられる。特に「岡」と「岡野」という姓の違いは、仕える家の違いと連動している可能性があり、武士のアイデンティティや帰属意識の一端を垣間見せる。以下の表に、岡左内の主要な呼称を整理する。
表1:岡左内 呼称一覧
呼称 (Appellation) |
読み (Reading) |
主な使用時期・家 (Primary Period/Clan of Use) |
典拠 (Source) |
岡 左内 |
おか さない |
通称、蒲生家時代 |
1 |
岡 定俊 |
おか さだとし |
諱 |
1 |
岡 源八 |
おか げんぱち |
若年期(戸木城の戦い) |
1 |
岡 越後守 |
おか えちごのかみ |
蒲生秀行再仕官後、猪苗代城代時代 |
1 |
岡野 左内 |
おかの さない |
上杉家臣時代 |
1 |
岡野 定政 |
おかの さだまさ |
上杉家関連文書 |
1 |
岡野 定俊 |
おかの さだとし |
上杉家関連文書 |
1 |
この呼称の多様性は、彼の生涯における主家の変遷や、それぞれの時代における彼の立場を反映している可能性があり、人物像を多角的に理解する上での一つの手がかりとなる。
岡左内定俊は、永禄10年(1567年)に生まれたとされる 1 。彼の父は岡和泉守盛俊(おかいずみのかみもりとし)といい、若狭国太良庄城(現在の福井県小浜市に比定される)の城主であったと伝えられている 1 。
若狭国は、日本海に面し、京都にも比較的近いことから、戦略的にも経済的にも重要な地域であったが、同時に多くの勢力がその支配を巡って争った地でもある。岡氏が太良庄城を領していたとされる時期は、朝倉氏や武田氏などの有力大名が影響力を行使し、中央では織田信長の勢力が伸長しつつあった時代にあたる。地方の小領主であった岡和泉守盛俊がどのような勢力に属し、どのような役割を果たしていたかの詳細は不明な点が多いが、左内が城主の子として生まれたことは、彼が幼少期から武士としての教育や気風に触れて育ったことを意味する。
しかし、元亀4年(1573年)に織田信長が越前朝倉氏を滅ぼし、若狭国も信長の勢力下に入ると、若狭の支配体制は大きく変化した。この過程で岡氏が太良庄城を失った可能性は高く、それが左内が後に若狭を離れ、新たな仕官先を求める動機の一つになったと考えられる。地方の小規模な武士団の出身であるという事実は、彼が戦国乱世の厳しい現実の中で、自らの才覚と武勇を頼りに立身出世を目指さなければならなかった背景を物語っている。このような環境が、後の彼の現実的な判断力や、時に奇抜ともいえる行動様式を形成する一因となったのかもしれない。
元亀4年(1573年)、織田信長による若狭制圧後、若狭国の領主となったのは丹羽長秀であった。岡左内は、この新たな領主である丹羽氏には仕えず、若狭の地を離れて蒲生氏に仕官したと考えられている 1 。この時、兄とされる岡重政(岡半兵衛とも、後に蒲生秀行の仕置となる)も共に蒲生氏に仕えたとの記述もある 2 。蒲生氏は当時、近江日野を本拠とし、織田信長の有力武将の一人であった蒲生賢秀、そしてその子である蒲生氏郷が頭角を現しつつあった。
左内が蒲生氏に仕官して間もない頃の具体的な活躍は史料に乏しいが、彼の武勇が初めて明確に記録されるのは、天正12年(1584年)のことである。『武徳編年集成』によれば、この年、主君・蒲生氏郷は伊勢国において、織田信雄の配下であった木造具政が籠城する戸木城(へきじょう)を攻撃した 1 。この戸木城攻めは秋から半年に及ぶ包囲戦となったが、この戦いの中で、当時18歳であった岡源八(後の左内)が、敵将の一人である畑作兵衛重正(はたさく ひょうえ しげまさ)を見事討ち取るという功績を挙げたとされる 1 。
18歳という若さで敵将を討ち取ったというこの武功は、左内にとって大きな意味を持った。戦国時代において、敵将の首級を挙げることは、個人の武勇を証明する最も直接的な方法であり、出世への大きな足がかりとなる。この戸木城での働きは、蒲生氏郷の目に留まり、彼の将来性を期待させるに十分なものであったろう。この初陣における顕著な功績が、その後の彼の蒲生家中における地位向上、そして氏郷からの信頼獲得へと繋がっていったと考えられる。若くして示した武勇と決断力は、岡左内という武将のキャリアの出発点において、その非凡さを示すものであった。
天正18年(1590年)、豊臣秀吉による小田原征伐後、大規模な全国の大名配置換えが行われた。この時、蒲生氏郷はそれまでの伊勢松坂12万石から、奥州会津92万石(一説には73万石とも)という破格の大領を与えられ、大大名として東北の地に赴くこととなった。この氏郷の会津移封に伴い、岡左内も主君に従い会津へと移った。そして、会津においては1万石の知行を与えられるなど、蒲生家中の重臣の一人として確固たる地位を築いていたことが窺える 1 。
蒲生氏郷は、武勇に優れるだけでなく、領国経営や文化面においても高い能力を発揮した人物として知られる。彼は会津において、黒川城を大改修して鶴ヶ城と改名し、城下町の整備や産業振興にも力を注いだ 6 。また、家臣統治においては、譜代の家臣を重用しつつも、能力主義的な登用も行い、家臣とのコミュニケーションを重視したとされる。例えば、月に一度家臣を集めて会議を開き、身分に関わらず自由な発言を許したり、自ら風呂を沸かしたり料理を振る舞ったりすることもあったという 6 。
このような氏郷の家臣団掌握術の中で、岡左内がどのように評価され、どのような役割を担っていたかの具体的な記録は多くない。しかし、1万石という知行は、当時の蒲生家中においても高禄であり、彼が氏郷から一定の信頼と評価を得ていたことを示している。戸木城での武功以来、数々の戦陣で功を重ね、氏郷の覇業を支える重要な武将の一人として活躍していたと考えられる。氏郷の先進的な領国経営や家臣団統制の方針は、左内の後の行動や思考にも影響を与えた可能性がある。
文禄4年(1595年)、蒲生氏郷は京都で病のため急逝した。享年40歳という若さであった。氏郷の死は、蒲生家にとって大きな打撃であり、その後の混乱の引き金となった。氏郷の跡を継いだのは、嫡男の蒲生秀行であったが、当時まだ13歳という若年であった 7 。
幼君を戴いた蒲生家では、間もなく家中の主導権を巡る対立や、領国統治を巡る意見の相違が表面化し、深刻な御家騒動(蒲生騒動)へと発展する。この騒動には、蒲生郷安、蒲生郷可といった重臣間の派閥争いに加え、豊臣政権内部の有力者、特に石田三成らが蒲生家の広大な領地と勢力を削ぐことを目論み、騒動を裏で操ったとする説も有力である 7 。この混乱は数年に及び、蒲生家の統制は大きく揺らいだ。
その結果、慶長3年(1598年)、豊臣秀吉の裁定により、蒲生秀行は会津92万石から下野国宇都宮18万石へと大幅に減転封されることとなった 1 。これは、蒲生家にとって事実上の大大名からの転落であり、家臣団にも大きな動揺が走った。
この主家の危機に際して、岡左内の動向が注目される。彼は、蒲生秀行の宇都宮への移封には従わず、会津に留まるという選択をした 2 。この決断の背景には、いくつかの要因が考えられる。一つには、大幅な減封に伴い、家臣の多くがリストラされるか知行を削減される状況下で、自らの将来を悲観した可能性。また、蒲生家中の深刻な内紛に嫌気がさし、将来性の見えない主家に見切りをつけたという見方もできる。あるいは、既に会津の地で一定の基盤を築いていた左内にとって、慣れない宇都宮へ移るよりも、会津に残り新たな活躍の場を求める方が現実的と判断したのかもしれない。いずれにせよ、この時点での左内の決断は、主家への盲目的な忠誠よりも、自らの武士としてのキャリアや生活を重視する、戦国武将らしい現実的な側面を示していると言えるだろう。この選択が、彼の次の活躍の舞台である上杉家への仕官へと繋がっていく。
慶長3年(1598年)、蒲生氏が宇都宮へ移封された後、会津の新たな領主として越後から入部したのは、豊臣政権下で五大老の一人であった上杉景勝であった。景勝は会津120万石という広大な領地を与えられ、東北の雄としての地位を確立した。この新たな支配者の下で、岡左内は再び仕官の道を見出すことになる。
会津に留まっていた左内は、上杉景勝に仕えることとなり、その家老である直江兼続から4200石の知行を与えられた 1 。当時の上杉家の分限帳である『会津御在城分限帳』には、「岡野左内 4,200石 蒲生氏旧臣」という記載が見られる 3 。この4200石という知行は、上杉家臣団の中でも決して低いものではなく、蒲生家旧臣でありながら、その能力を高く評価されて迎え入れられたことを示している。
直江兼続は、上杉家の執政として、また自身も優れた武将・政治家として知られる人物である。彼が広大な会津領の統治を円滑に進めるためには、現地の事情に明るく、かつ有能な人材を登用することが不可欠であった。左内は、蒲生氏郷の下で1万石の知行を得ていた実績があり、会津の地理や情勢にも通じていたはずである。兼続が左内の武勇や、あるいはその利殖の才といった能力を見抜き、新たな家臣団に加えたことは想像に難くない。旧蒲生家臣から新領主上杉家への仕官は、左内の能力が特定の主家だけでなく、広く武士社会で通用するものであったことを物語っている。
上杉景勝が会津に入部したことは、隣接する伊達政宗との間に新たな緊張関係を生じさせた。豊臣秀吉の死後、徳川家康が台頭し、天下の形勢が大きく動こうとする中で、上杉氏と伊達氏はそれぞれ独自の戦略的判断に基づき行動を開始する。
慶長5年(1600年)、関ヶ原の戦いが勃発する直前、徳川家康は上杉景勝の謀反の疑いを口実に会津征伐軍を起こした。これに対し、上杉軍は領内各所で防備を固め、徳川方についた諸将との間で戦闘が開始された。この一連の戦いの中で、会津領の南方を守る上で重要な拠点であった白石城を巡り、上杉軍と伊達軍が激突した。岡左内は、この方面での戦闘、特に松川(福島市松川町付近)周辺で行われたとされる松川合戦において、伊達政宗の軍勢を打ち破るという目覚ましい戦功を挙げたと伝えられている 1 。
この松川合戦に関する具体的な戦況や左内の活躍の詳細は、史料によって記述に濃淡があるものの、『武辺咄聞書』には、この戦いで左内が南蛮渡来の特異な甲冑を身に着けていたという興味深い逸話が記されている 1 。それによれば、左内は「角栄螺(さかえぼら)の甲」と「鳩胸鴟口(はとむねとびのくち)の具足」と呼ばれる西洋甲冑(いわゆる南蛮胴)を着用して奮戦したという。このような異国風の武具を実戦で使用したことは、彼の異文化への関心の高さや、あるいは実用性を重視する合理的な精神を示しているのかもしれない。いずれにせよ、伊達軍という強敵を相手に勝利を収めたことは、上杉家における彼の評価をさらに高めたであろう。
慶長5年(1600年)、徳川家康による会津征伐の軍勢が東から迫り、上杉家はまさに存亡の危機に立たされていた。関ヶ原の戦いの直接的な原因の一つともなったこの対立において、上杉家は領内総動員で防衛体制を敷き、戦備を整える必要に迫られた。しかし、越後から会津へ移封されて間もない上杉家にとって、急な大戦の準備は財政的に大きな負担となり、戦費の調達は喫緊の課題であった 9 。
このような状況下で、岡左内は驚くべき行動に出る。彼は、日頃から利殖に長け、蓄財に励んでいたことで知られていたが、この国家存亡の危機に際して、「こういう時にこそ惜しみなく使わねばならない」と述べ、自らが蓄えた私財の全てを主君・上杉景勝に献上したのである 1 。さらに、戦費の調達に苦しむ同僚の武将たちにも、気前よく金銭を貸し与えたと伝えられている。
この左内の行動は、彼の金銭に対する哲学と、主家への忠誠心を示すものとして極めて重要である。彼の蓄財は、単なる個人的な吝嗇や奇行ではなく、来るべき有事に備えるという、武士としての実利的な判断に基づいていた可能性が高い。主家が滅びれば、個人の財産など意味をなさないという現実的な認識と、この難局を乗り越えるためには私財を投げ打つことも厭わないという強い意志が感じられる。この献金は、上杉家の戦備充実に少なからず貢献したと考えられ、彼の評価を決定的なものにしたであろう。それはまた、彼の有名な「金の上で寝る」という奇行が、単なる守銭奴の行動ではなく、いざという時のための「戦略的備蓄」であったという側面を浮き彫りにする。
関ヶ原の戦いは、徳川家康率いる東軍の勝利に終わり、西軍に与した上杉景勝は戦後処理において厳しい処分を受けることとなった。会津120万石という広大な領地は没収され、出羽国米沢30万石へと大幅に減封されたのである 9 。これは、上杉家にとって存続こそ許されたものの、その勢力を大きく削がれる屈辱的な結果であった。
この大減封に伴い、上杉家臣団もまた大きな困難に直面した。知行は大幅に削減され、多くの家臣が生活に困窮することが予想された。特に、先の会津征伐に備えるために多くの武将が借財を抱えており、その返済は絶望的な状況であった。
このような中で、岡左内は再び周囲を驚かせる行動をとる。彼は、戦費調達のために同僚たちが彼から借り受けていた金銭の借用証文を全て集めさせ、それを焼き捨ててしまったのである 1 。これにより、多くの同僚武将たちが借金の重圧から解放された。この左内の義侠心あふれる行為は、上杉家家老の直江兼続からも高く評価され、「その人物を惜しまれた」と伝えられている 1 。
この逸話は、左内が単に金銭に執着する人物ではなく、武士としての情誼や仲間意識を重んじる一面を持っていたことを示している。大減封という苦境の中で、同僚たちの窮状を救ったこの行為は、彼の評価をさらに高め、後世に語り継がれる美談となった。それはまた、彼の蓄財が決して私利私欲のためだけではなかったことを改めて証明するものであり、彼の複雑な人間性を理解する上で重要なエピソードである。この後、左内は米沢へ移る上杉家には同行せず、再び会津の地で新たな道を模索することになるが、この借金帳消しの行為は、上杉家とその家臣たちへのある種の「置き土産」であったのかもしれない。
関ヶ原の戦いの結果、会津の領主は上杉景勝から、戦功のあった蒲生秀行へと変わった。秀行はかつて会津92万石を領した蒲生氏郷の子であり、宇都宮18万石に減封されていたが、この戦いで東軍に与した功績により、旧領の一部である会津60万石に復帰することを許されたのである 8 。
この蒲生家の会津復帰に伴い、岡左内は再び蒲生家に仕えることとなった 1 。彼が上杉家に仕える前に所属していたのは蒲生家であり、特に氏郷の時代には1万石の知行を得る重臣であった。秀行が会津に戻るにあたり、父・氏郷の時代を知る有能な家臣を求めるのは自然な流れであり、会津の地理や人情に明るく、武勇にも優れた左内は格好の人材であった。
慶長14年(1609年)頃、左内は蒲生秀行から1万石の知行を与えられ、会津領内の戦略的要衝である猪苗代城の城代に任じられた 1 。この時、彼は岡越後守と称したとされる 1 。猪苗代城は会津若松の北東に位置し、会津盆地と中通り地方を結ぶ交通の要衝であり、また猪苗代湖を擁する景勝地でもある。このような重要拠点の城代に1万石という高禄で任じられたことは、秀行が左内を高く評価し、その能力に大きな期待を寄せていたことを示している。かつての主家への復帰は、左内にとっても会津の地で再びその手腕を発揮する機会となった。
岡左内の人物像を語る上で欠かせない要素の一つが、彼の篤いキリシタン信仰である。彼がいつ、どのような経緯でキリスト教に入信したかの詳細は不明だが、蒲生氏郷自身もキリシタン大名(洗礼名レオン)であり 6 、その影響を受けた可能性は考えられる。あるいは、上杉家臣時代、あるいはそれ以前から信仰を持っていたのかもしれない。
いずれにせよ、猪苗代城代となった岡左内(越後守)は、その領内において熱心なキリシタンとして活動したことが記録されている 1 。彼は単に個人的な信仰に留まらず、私財を投じて猪苗代の地に教会や神学校(セミナリオ、小神学校)を建設し、宣教師を招いて積極的に布教活動を支援した 1 。その熱意は非常に強く、一説には猪苗代の領民のほとんどが彼の感化によってキリシタン信仰に導かれたとも伝えられているほどである 4 。
猪苗代湖畔には、現在も「天司宮(てんしぐう)」と呼ばれる場所があり、樹齢1000年とも推定されるケヤキの大木の根元に祠が祀られている。この天司宮こそ、岡左内が建てた教会の跡地であるとの伝承が地元には残っている 11 。また、彼は磐梯山の麓の見禰山(みねやま)にも宣教所を建て、宣教師を招いたという話もある 11 。
これらの活動は、岡左内の信仰の深さを示すと同時に、彼が領主として自らの領民の精神的な支えとなるものを積極的に提供しようとした姿勢を反映している。17世紀初頭の猪苗代において、一時的にではあれキリスト教文化が花開いた背景には、城主岡左内の強力な庇護があったことは間違いない。しかし、この篤い信仰は、やがて彼の晩年に大きな影を落とすことになる。
慶長17年(1612年)に蒲生秀行が30歳の若さで亡くなると 8 、その子である蒲生忠郷が跡を継いだが、まだ幼少であった。この頃から、江戸幕府によるキリスト教への禁圧は全国的に強化され、元和年間(1615年-1624年)に入ると、その弾圧はますます厳しいものとなっていった。
岡左内が城代を務める猪苗代においても、キリシタン弾圧の波は容赦なく押し寄せた。元和8年(1622年)頃、弾圧が本格化すると、左内の甥にあたる岡清長(おか きよなが、左衛門佐)が、岡家の家門存続のためとして、伯父である左内とその子に対して棄教を強く迫ったとされている 1 。岡清長自身もかつてはキリシタンであったが、時勢を読んで棄教し、その後はむしろ積極的にキリシタン弾圧を行う側に回った人物である 12 。
この棄教強要の直後、岡左内とその子には悲劇的な結末が訪れる。イエズス会の宣教師ジョアン・マテウス・アダミが作成した1622年の年次報告書によれば、同年8月(西暦)、まず左内の一子が亡くなり、そのわずか数日後に左内自身も事故によって死亡したと記録されている 1 。戸木城の戦いで18歳であったとすれば、この時、左内は56歳であったと計算される 1 。
父子が相次いで、しかも棄教直後に不審な死を遂げたことは、その真相について様々な憶測を呼んでいる 1 。公式には「事故死」とされているものの、地元猪苗代の伝承では、棄教を拒んだか、あるいは棄教後も信仰を捨てきれなかった左内が、甥の清長によって殺害され、猪苗代城に近いイケ沢という場所に葬られたとも伝えられている 11 。この時期は、二代将軍徳川秀忠が主導する「元和の大殉教」に象徴されるように、全国でキリシタンに対する苛烈な弾圧が行われていた時代であり、左内の死もその渦中での悲劇であった可能性は否定できない。
岡左内の死後、甥の岡清長が猪苗代城代の地位を継いだとされる 1 。清長はその後も猪苗代を中心に大規模なキリシタン弾圧を続けた 12 。岡左内の最期は、彼の篤い信仰と、それを許容しない時代の大きな力との間で引き裂かれた、一人のキリシタン武将の苦悩と悲劇を象徴している。
岡左内を語る上で最も有名な逸話は、彼の金銭に対する独特の執着と、それにまつわる奇行であろう。「利殖に巧み」であったと評される彼は 1 、部屋中に金銭を敷き詰め、その上で裸になって昼寝をすることを無上の楽しみとしていたと、多くの記録に残されている 1 。この強烈なイメージは、江戸時代後期の読本作家である上田秋成の代表作『雨月物語』の中の一篇「貧福論(ひんぷくろん)」にも取り上げられるほどであった 1 。
「貧福論」では、岡左内の枕元に黄金の精霊が翁の姿で現れ、金銭を卑しいものとする世間の風潮を嘆き、金銭の重要性やそれを使う主人との関係について語るという内容になっている 16 。作中、翁は上杉謙信、武田信玄、織田信長といった名将たちを「富貴」という観点から論じ、豊臣秀吉の天下も長くは続かないだろうと予言する場面もある 16 。この物語は、岡左内という人物が、当時からいかに金銭と結びつけて語られていたかを示す好例である。
しかし、彼の金銭への執着は、単なる守銭奴(吝嗇家)のそれとは一線を画すものであった。彼は「貧しくては武功も全クしがたきをおもふなるべし」(貧乏では武士としての働きも十分にできないだろう)と考えており 14 、武士がその本分である武功を立てるためには、経済的な裏付けが必要であるという明確な持論を持っていた。この考えは、彼が上杉家に仕えていた際、関ヶ原合戦前の戦費調達に苦しむ主家に対して、惜しげもなく私財を献上した行動にも表れている 1 。
また、ある時、自分の馬屋で働く中間(ちゅうげん、雑役夫)が黄金一枚を大切に蓄えていることを聞き知った左内は、その者を呼び出し、その倹約ぶりを「奇特なる旨褒美して」、さらに黄金十両を与えたという逸話も残っている 14 。これは、金銭の大切さを理解し、それを堅実に蓄える者を評価し、さらにそれを奨励しようとする彼の姿勢を示している。これらの逸話から、岡左内の金銭哲学は、単なる蓄財趣味ではなく、武士としての活動基盤を確保し、さらには他者の努力を認めて報いるという、実利的かつ人間的な側面を持っていたことが窺える。彼の「金の上で寝る」という行為も、単なる奇行というよりは、自らが築き上げた富を実感し、それを武士としての力の一部と捉える、彼なりの表現方法だったのかもしれない。
岡左内の武将としての側面は、その数々の武勇伝によっても語られている。既に述べたように、18歳で参戦した戸木城の戦いでは敵将・畑作兵衛重正を討ち取り 1 、上杉家臣時代には松川合戦で伊達軍を破るなど 1 、若い頃からその武勇は際立っていた。
特に勇壮な逸話として伝えられるのが、伊達政宗との一騎打ちである。『常山紀談』などの後世の編纂物によれば、ある戦場で岡左内(岡野左内とも)は伊達政宗と一騎打ちに及び、その際に着用していた猩々緋(しょうじょうひ)の皮で作られた陣羽織に、政宗の太刀によって二太刀の傷をつけられたという 14 。戦後和睦が成立した後、政宗がその時の相手が誰であったかを尋ねて左内であることを知り、その勇気を大いに称賛して、件の陣羽織を左内に下賜したとされている 14 。この逸話は、岡左内の豪胆さと武勇を示すものとしてしばしば引用されるが、同時代史料による裏付けは乏しく、後世の創作や脚色が含まれている可能性も考慮する必要がある。しかし、このような話が生まれること自体が、彼が武勇に優れた武将として認識されていた証左とも言えるだろう。
また、彼の豪胆さや職務への責任感を示す逸話として、次のような話も伝えられている。ある時、左内が例によって金銭を部屋一面に敷き詰めて寝ていたところへ、配下の士卒間で争いが起きたとの急報がもたらされた。すると左内は、敷き詰めた金銭のことなど全く意に介さず、そのままの状態で部屋を飛び出し、貞宗の太刀を帯び、鹿毛の馬に鞭打って現場へ急行した。そして、一日二夜にわたり、様々な手段を尽くして両者を諭し、仲裁に成功してようやく帰宅した。その間、彼は金銭のことなど微塵も思い出さなかったという 14 。この話を聞いた人々は、彼の金銭への執着と、いざという時の職務への没頭ぶりのギャップに、より一層驚いたと伝えられている。これは、彼が状況に応じて優先順位を的確に判断し、武士としての本分を忘れない人物であったことを示している。
岡左内の行動は、金銭にまつわるもの以外にも、しばしば常人の理解を超える奇抜さを持っていたと伝えられている。「すべて所行他の案外に出る人といふべし」(全ての行いが他人の予想を超える人物と言うべきだ)と評されるように 14 、彼の言動は常に周囲の注目を集めた。
その一つに、軍陣における能楽の催しがある。左内は、戦陣に臨む際には必ず能役者を招き入れ、陣中で盛大に乱舞(能や狂言)をさせたという。しかし、平時においては決してそのような遊興に耽ることはなかった。不思議に思った人がその理由を尋ねると、左内は次のように答えたと伝えられている。「平時は誰もが能楽などを好むので、役者たちも多忙でなかなか捕まらない。しかし、軍陣のこととなれば、諸将は皆、にわかに慌ただしく出陣の準備に追われるため、このような遊びを顧みる暇などない。自分は常に(いつ出陣命令が出ても良いように)用意を整えているので、かえって暇がある。乱舞する役者たちもまた、他の諸将が忙しい軍中では暇を持て余しているだろう。だから、この機会に彼らに演じさせて、自分もそれを見るのだ」と 14 。
この返答は、一見奇矯な行動の裏にある、彼なりの合理的な思考と、物事を常識にとらわれずに独自の視点から捉える柔軟な発想を示している。戦場という極限状態において、あえて遊興を催すことで将兵の士気を高めようとしたのか、あるいは単に彼自身の独特の精神の安定法であったのかは定かでない。しかし、このような常人には思いもよらない行動が、岡左内という人物の型破りな魅力を形成していたことは確かである。彼の奇行とされる行動の多くは、表面的には理解しがたいものであっても、その背後には彼なりの論理や哲学が存在していたのかもしれない。
岡左内定俊が再び仕えた蒲生家は、彼の死後も存続したが、寛永4年(1627年)に蒲生忠郷(秀行の子)が若くして嗣子なく死去すると、弟の忠知が跡を継いで伊予松山藩24万石に移封された。しかし、その忠知も寛永11年(1634年)に嗣子なく没したため、蒲生家は最終的に改易となり、大名としての家系は断絶した 1 。
主家が改易となると、その家臣たちは浪人となるか、新たな仕官先を探すことを余儀なくされる。岡左内(定俊)の子孫たちもまた、そのような道を辿ったと考えられる。具体的な系譜や動向については不明な点が多いものの、彼の子孫は、九州の黒田家や津軽家などに仕官し、武士としての家名を後世に伝えたとされている 1 。
津軽家への仕官については、興味深い背景が考えられる。津軽藩には、江戸時代初期に兵学者として著名であった山鹿素行の門人がおり、その縁で素行の子が津軽家に召し抱えられたという記録がある 19 。平戸藩と共に、津軽藩には山鹿流の兵学や思想が伝えられたとされるが、岡左内の子孫が津軽家に仕えたのも、このような学問的な繋がりや、あるいは元蒲生家臣という縁故によるものであった可能性が考えられる。
また、黒田家との関連については、津軽家の支藩である黒石津軽家の初代藩主・津軽親足が、実は上総国久留里藩主であった黒田直亨(くろだ なおゆき)の四男であったという事実がある 20 。このことから、岡左内の子孫が黒田本藩、あるいはその縁戚関係を通じて津軽家に仕官したという経路も推測される。
戦国時代から江戸時代初期にかけて活躍した武将の子孫が、主家の盛衰に伴い、様々な藩に仕官していく例は数多く見られる。岡左内という個性的な武将の血筋が、黒田家や津軽家といった他の大名家の下で受け継がれていったことは、彼の遺した武名や人脈が、彼の死後も一定の影響力を持ち続けたことを示唆しているのかもしれない。
岡左内定俊は、戦国時代から江戸時代初期という激動の時代を、その類稀なる才覚と強烈な個性で駆け抜けた武将であった。彼の生涯は、武勇、財務、信仰、そして奇行という、多岐にわたる側面から捉えることができる。
表2:岡左内 主要経歴
時期 (Period) |
主君 (Lord) |
主な出来事・役職 (Key Event/Position) |
知行 (Fief) |
典拠 (Source) |
永禄10年 (1567) |
- |
生誕 |
- |
1 |
天正12年 (1584) |
蒲生氏郷 |
戸木城の戦いで武功(畑作兵衛重正を討取る) |
- |
1 |
天正18年 (1590) 以降 |
蒲生氏郷 |
会津移封に従い、重臣となる |
1万石 |
1 |
慶長3年 (1598) |
上杉景勝 |
蒲生家減封に伴い、上杉家に仕官(直江兼続より) |
4,200石 |
1 |
慶長5年 (1600) |
上杉景勝 |
松川合戦で伊達軍に勝利、会津征伐に際し私財を献上 |
4,200石 |
1 |
慶長5年 (1600) 以降 |
(上杉家米沢移封には従わず) |
上杉家減封の際、同僚の借財証文を破棄 |
- |
1 |
慶長14年 (1609) 頃 |
蒲生秀行 |
蒲生家会津復帰に伴い再仕官、猪苗代城代となる(岡越後守と称す) |
1万石 |
1 |
元和8年 (1622) |
蒲生忠郷 |
キリシタン弾圧下、棄教を迫られた後、子と共に不審死(享年56) |
1万石 |
1 |
表3:岡左内と関連人物
人物 (Figure) |
読み (Reading) |
左内との関係 (Relationship to Sanai) |
主要な関わり・影響 (Key Interaction/Influence) |
典拠 (Source) |
蒲生 氏郷 |
がもう うじさと |
主君(初代) |
左内を見出し重用。会津92万石時代の主。キリシタン大名。 |
1 |
直江 兼続 |
なおえ かねつぐ |
主君の家老(上杉家) |
左内を4200石で召し抱える。左内の献金や義侠心を評価。 |
1 |
蒲生 秀行 |
がもう ひでゆき |
主君(再仕官先) |
会津60万石復帰後、左内を猪苗代城代1万石で任用。 |
1 |
岡 清長 |
おか きよなが |
甥 |
キリシタン弾圧下で左内に棄教を迫る。左内の死後、猪苗代城代を継ぐ。 |
1 |
岡 重政 |
おか しげまさ |
兄(または近親者) |
共に蒲生氏に仕官したとされる。蒲生秀行の仕置。 |
2 |
伊達 政宗 |
だて まさむね |
敵将(逸話として) |
松川合戦で対峙。一騎打ちの逸話が伝わる。 |
1 |
岡左内定俊は、蒲生氏郷、上杉景勝、そして蒲生秀行という、いずれも戦国時代を代表する有力大名に仕え、それぞれの家で重用された。この事実は、彼が単なる一介の武士ではなく、高い実務能力と武勇を兼ね備え、いかなる状況下でもその価値を認めさせるだけの器量を持っていたことを物語っている。特に、主家が危機に瀕した際には、私財を投げ打って貢献し、また同僚の窮状を救うなど、その行動は単なる利己主義とは程遠いものであった。
彼の蓄財に関する奇行は、『雨月物語』を通じて広く知られることとなり、ある種の「変人」としてのイメージを後世に強く植え付けた。しかし、その金銭哲学は「武士の武功は経済力に支えられる」という現実的な認識に裏打ちされており、彼の行動は一貫した論理に基づいていたようにも見える。
また、熱心なキリシタンとしての彼の生き様と、その信仰ゆえに迎えた可能性のある悲劇的な最期は、当時の日本におけるキリスト教の受容と弾圧という、大きな歴史的テーマと深く結びついている。猪苗代の地で領民と共に信仰共同体を築こうとした彼の試みは、時代の大きなうねりの中で潰え去ったが、その信仰への真摯な姿勢は記憶されるべきである。
岡左内は、武士としての実務能力、人間的な奇矯さ、そして時代に翻弄された信仰者という、複数の顔を持つ複雑で魅力的な歴史上の人物である。彼の生涯は、戦国乱世の多様な価値観と、そこに生きた人々の逞しさ、そして悲哀を我々に伝えてくれる。その多面的な実像は、今後もさらなる研究によって明らかにされていくことが期待される。