岡本頼元 詳細調査報告書
序論
岡本頼元という人物の概要と本報告書の目的
岡本頼元は、戦国時代から江戸時代初期にかけて、房総半島に勢力を有した戦国大名・里見氏に仕えた武将である。主君・里見義頼の重臣として安房国岡本城(現在の千葉県南房総市)を拠点とし、里見水軍の一翼を担ったと伝えられている。義頼の死後、岡本城で発生した火災の責任を問われて一時追放されたが、後に許されて復帰したという経歴を持つ。本報告書は、現存する諸史料を可能な限り網羅的に調査・分析し、岡本頼元の出自、岡本一族の背景、里見家における具体的な事績、岡本城火災とそれに伴う追放・復帰の経緯、主家である里見氏の改易後の動向、そして彼の終焉に至るまでの生涯を、詳細かつ徹底的に明らかにすることを目的とする。これにより、従来知られている情報の範囲を超え、岡本頼元という一人の武将の生涯を通じて、戦国末期から近世初頭にかけての房総地域の歴史的動態の一端を浮き彫りにすることを目指す。
史料と研究状況の概観
岡本頼元に関する直接的な一次史料は、残念ながら豊富とは言えない。しかし、彼の次男・元重の義理の子にあたる夏目定房が記したとされる『夏目日記』(別名『管窺武鑑』)には、里見氏改易後の頼元の動向が断片的ながら記録されている 1 。また、頼元が建立したとされる逆修塔が南房総市府中の宝珠院に現存しており、その銘文や建立の背景は彼の晩年や信仰を知る上で貴重な手がかりとなる 2 。さらに、岡本城跡(国指定史跡)の発掘調査報告は、城の構造や火災の痕跡など、文献史料を補完する重要な情報を提供している 3 。
これらの比較的直接的な史料に加え、主家である里見氏の歴代当主の発給文書や関連記録、さらには『房総治乱記』のような軍記物語、江戸時代に編纂された各種系図や地誌なども、岡本氏や頼元の活動の背景を理解する上で参照すべきものである。近代以降の研究としては、千野原靖方氏の『戦国房総人名辞典』 5 や、滝川恒昭氏、佐藤博信氏らによる房総里見氏に関する一連の研究論文や著作が、岡本頼元を含む里見家臣団や戦国期の房総の政治状況を考察する上で重要な学術的蓄積となっている 6 。
岡本頼元のような、大名ではなくその家臣という立場にあった人物の生涯を詳細に追うことは、史料的制約から困難を伴う場合が多い。特に個人の具体的な行動や思想を直接的に示す史料は稀であり、断片的な情報を繋ぎ合わせ、当時の時代背景や主家の動向、関連する他の家臣の事例などから総合的に推論し、その活動を復元していく作業が不可欠となる。本報告書では、これらの史料的限界を認識しつつも、利用可能なあらゆる情報を駆使して、岡本頼元の実像に可能な限り迫ることを試みる。
表1:岡本頼元 関連年表
年代(西暦) |
岡本頼元・岡本氏関連 |
里見氏関連 |
主な出来事・背景 |
史料出典 |
弘治2年(1556年) |
岡本頼元、岡本随縁斎の子として誕生。 |
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5 |
元亀元年(1570年) |
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里見義弘、岡本氏より岡本城を譲り受け、弟(または子)の義頼に与え修復。 |
岡本城が里見氏の重要拠点となる。 |
18 |
元亀2年(1571年) |
頼元(16歳)、里見軍の三浦半島攻撃に従軍し戦功。義弘より感状と具足を与えられる。 |
里見義弘、三浦半島へ出兵。 |
対北条氏戦線。 |
5 |
天正6年(1578年) |
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里見義弘没。義頼と梅王丸による家督争い(天正の内乱/梅王丸騒動)勃発。 |
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21 |
天正8年(1580年)頃 |
頼元、里見義頼の家督継承に協力。 |
里見義頼、梅王丸派を制圧し実権掌握。岡本城を本城とする。 |
義頼政権の確立。 |
19 |
天正15年(1587年) |
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里見義頼没。義康が家督相続。 |
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21 |
天正16年(1588年) |
岡本城にて火災発生。頼元、責任を問われ一時追放。 |
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岡本城焼失。発掘調査で焼土層確認。 |
2 |
時期不明 |
頼元、許されて復帰。足軽小頭100石を与えられる。 |
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17 |
天正18年(1590年) |
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豊臣秀吉の小田原征伐。里見義康は安房国のみ安堵(9万石)。 |
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23 |
天正19年(1591年)頃 |
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里見義康、館山城へ本拠を移す。岡本城は廃城となる。 |
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24 |
慶長8年(1603年) |
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里見義康没。忠義が家督相続。 |
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25 |
慶長11年(1606年) |
頼元(50歳)、宝珠院に逆修塔(白墓)を建立。 |
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2 |
慶長16年(1611年) |
頼元の嫡男・頼重(32歳)、乱破に襲われ殺害される。 |
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5 |
慶長19年(1614年) |
里見氏改易に伴い、頼元も主家を失う。『夏目日記』によれば倉吉へ供奉。 |
里見忠義、大久保忠隣事件に連座し改易。伯耆国倉吉へ3万石で転封。館山城破却。 |
徳川幕府による外様大名統制。 |
1 |
慶長22年(1617年)頃 |
『夏目日記』によれば、頼元、倉吉から帰国。 |
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1 |
時期不明(帰国後) |
『夏目日記』によれば、頼元、次男・元重と共に上総潤井戸藩に再仕官。異説として永井直勝に仕官したとも。 |
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1 |
元和6年(1620年) |
頼元の次男・元重(35歳)、不慮の水死を遂げる。 |
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5 |
元和8年(1622年) |
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里見忠義、倉吉にて没。里見氏(大名家として)断絶。 |
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23 |
寛永元年(1624年) |
岡本頼元(69歳)、没。 |
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17 |
第一章:岡本頼元の出自と岡本氏
岡本氏の淵源と房総への進出
岡本頼元の属した岡本氏は、その出自について複数の説が伝えられている。一つは、元々下野国(現在の栃木県)を本拠とした古河公方足利氏の家臣であったというものである 26 。古河公方は室町幕府の関東支配の拠点であり、その家臣であったとすれば、岡本氏は関東の旧来の武士団に連なる家柄であった可能性が考えられる。その後、何らかの理由で房総半島へ移住し、土着勢力としての基盤を築いたと推測される。
一方で、安房国岡本川の河口付近に「岡本」という地名が存在することから、この地名を名字の由来とした土着の豪族であった可能性も指摘されている 27 。この説に従えば、岡本氏は古くから安房に根を下ろした在地領主であり、後に外部から進出してきた里見氏の支配体制に組み込まれていったということになる。
これらの説のいずれが正確であるか、あるいは両者が何らかの形で関連しあっているのか(例えば、古河公方家臣であった岡本氏の一族が房総の岡本郷に入り土着化したなど)については、現存史料からは断定が難しい。しかし、いずれにしても岡本氏は、里見氏が房総で勢力を拡大する以前から、この地域に一定の勢力基盤を持っていた武家であったと考えられる。戦国時代においては、旧勢力と新興勢力との間で主従関係が変化することは常であり、岡本氏もまた、関東の政治状況の変動の中で、その立ち位置を模索していたのであろう。
祖父・岡本通輔と父・岡本随縁斎安泰
岡本頼元の直接の祖先として史料に名が見えるのは、祖父とされる岡本左京亮通輔(おかまとさきょうのすけみちすけ)と、父である岡本随縁斎安泰(おかまとずいえんさいやすひろ/あんたい)である。
頼元の祖父・岡本通輔は、安房国岡本城を築城した人物と伝えられている 26 。岡本城は、後述するように東京湾に面した戦略的要衝であり、この城の築城は、岡本氏が房総沿岸部において軍事的・経済的に重要な役割を担っていたことを示唆する。通輔の具体的な事績については不明な点が多いが、岡本氏の房総における勢力基盤を確立した人物として位置づけられる。
頼元の父は岡本随縁斎(諱は安泰)である 5 。随縁斎は、父・通輔の跡を継いで岡本城主となった。しかし、彼の時代に房総半島で里見氏が急速に勢力を拡大すると、随縁斎は戦略的な判断を下す。すなわち、里見氏の当主であった里見義弘、あるいはその子(または弟)である里見義頼に岡本城を譲渡し、自身は里見氏の家臣として仕える道を選んだのである 24 。この岡本城の譲渡は、単なる服従を意味するものではなく、岡本氏が里見氏の支配体制の中で生き残りを図り、さらには重用されるための重要な布石であったと考えられる。事実、随縁斎は岡本城を明け渡した後、里見義頼の家老を務めたとされ 26 、房総水軍を率いて安西又助らと共に三浦三崎の戦いなどで北条水軍と戦ったという記録も残っている 26 。これは、岡本氏が元々有していた水軍の指揮能力や岡本城の戦略的価値を里見氏が高く評価した結果であろう。随縁斎の法名「随縁斎」は、仏門に帰依していたことを示すが、主君の要請に応じて還俗し、武将として活躍したとも伝えられている 26 。
岡本城の築城と安房における岡本氏の基盤
岡本氏の安房における基盤の中核を成したのが岡本城である。前述の通り、この城は頼元の祖父・岡本通輔によって築かれ 26 、父・随縁斎の代に里見氏へ譲渡された 24 。
岡本城は、現在の千葉県南房総市富浦町豊岡に位置し、東京湾に直接面した標高約60メートルの丘陵上に築かれた海城であった 18 。城域は東西約600メートル、南北約300メートルに及び、自然地形を巧みに利用した曲輪(くるわ)、虎口(こぐち、城の出入り口)、堀切(ほりきり、尾根を断ち切る防御施設)などが設けられていた 28 。特筆すべきは、城内に港湾施設、すなわち「舟溜り」を有していた点である 18 。これにより、岡本城は単なる防御拠点としてだけでなく、水軍の出撃基地、兵站輸送の拠点、さらには海上交易の管理拠点としても機能し得た 29 。
このような立地と機能を持つ岡本城は、房総半島南部を支配し、東京湾の制海権を巡って対岸の後北条氏(小田原北条氏)と激しく争った里見氏にとって、戦略的に極めて重要な拠点であった 19 。里見氏は、岡本城を対北条氏防衛の最前線、特に水軍活動の中核基地として活用したのである 19 。岡本氏がこの城を築き、当初拠点としていたという事実は、岡本一族が水軍の運用や海上交通に関するノウハウを有し、里見氏がその能力を高く評価していたことを物語っている。岡本随縁斎が里見水軍を率いて活躍したという記録 26 や、後にその子である頼元が「里見水軍の一翼を担う」と評される(ユーザー提供情報)背景には、この岡本城の存在と、それを拠点としてきた岡本氏の伝統があったと言えるだろう。
表2:岡本氏略系図
Mermaidによる家系図
頼元が生まれた頃の房総半島は、里見氏が安房・上総へと勢力を拡大し、小田原の北条氏との間で激しい抗争を繰り広げていた時期にあたる。父・随縁斎は、前述の通り岡本城を里見氏に譲渡し、里見義頼の家老を務めるなど 26 、里見家中において重きをなす存在であった。このような岡本家の家格と、父が築いた里見氏との信頼関係を背景として、頼元もまた、若くして里見氏に出仕し、武将としての道を歩み始めたと考えられる。家督相続の具体的な時期や経緯については史料に明記されていないが、父・随縁斎の活動時期や頼元の年齢から推測すると、天正年間(1573年~1592年)の初め頃には、岡本家の当主としての役割を担い始めていた可能性があろう。
里見義弘への奉公と初期の武功
岡本頼元の武将としての初期の活躍を伝える具体的な記録として、元亀2年(1571年)の出来事が挙げられる。この年、里見氏の当主・里見義弘は、対立する北条氏の勢力圏である三浦半島へ軍勢を派遣した。この時、16歳であった岡本頼元もこの軍事行動に従軍し、戦場で功績を挙げたとされる。その結果、主君・義弘から直接、感状(戦功を賞賛する公式な文書)と御召料具足(主君が着用した鎧、あるいはそれに準ずる名誉ある武具)を賜ったと記録されている 5 。
16歳という若さで、主君から感状と名誉ある品を授与されるほどの武功を立てたという事実は、いくつかの重要な点を示唆している。まず、頼元自身が単に名門の子弟というだけでなく、武勇に優れた若者であった可能性が高い。また、三浦半島への攻撃は、東京湾を挟んで対峙する北条氏の喉元を突く作戦であり、必然的に水軍の活動が不可欠であった。岡本城を拠点とし、父・随縁斎も水軍を率いた経験を持つ岡本家の一員として 26 、頼元もまた水上での戦闘や兵員輸送などにおいて重要な役割を果たしたと推測される。この若年での顕著な戦功は、単に個人的な武勇を示すだけでなく、岡本家が里見氏の水軍戦略において依然として重要な存在であることを改めて里見首脳部に印象づけたであろう。そして、この功績が、後の里見義頼の時代における頼元の重用へと繋がる一つの布石となった可能性も十分に考えられる。この時期の経験が、頼元の武将としての自信を育み、その後のキャリアを方向づける上で大きな意味を持ったことは想像に難くない。
第三章:里見義頼の時代と頼元の役割
里見義頼の家督継承と岡本城の役割
里見義弘が天正6年(1578年)に没すると 21 、里見家内部では家督を巡る深刻な対立が生じた。義弘の晩年の嫡子である梅王丸を推す勢力と、義弘の弟(あるいは庶子ともされる)で、既に安房の支配を任されていた里見義頼を支持する勢力との間での争いである。この内紛は「天正の内乱」あるいは「梅王丸騒動」とも呼ばれ、安房と上総の家臣団を二分する激しいものであった 22 。
この重要な局面において、岡本頼元は里見義頼の家督継承を支持し、その実現に協力したと伝えられている 5 。この選択は、頼元自身の政治的判断を示すと同時に、義頼との間に既に一定の信頼関係が構築されていたことを示唆する。結果として、義頼は梅王丸派を制圧し、里見氏の実権を掌握することに成功した 22 。
家督を継いだ里見義頼は、安房国岡本城を自らの本城として、安房・上総両国にまたがる領国支配を展開した 18 。岡本城は、前述の通り、東京湾に面した水軍の拠点であり、義頼政権にとって軍事・経済の両面で中核となる城郭であった。主君が家臣の旧来の拠点、あるいは父祖から譲り受けた城を「本城」として使用するという事実は、その家臣に対する信頼が非常に厚いことを物語る。岡本城を拠点としていた岡本一族、そしてその当主であった頼元は、義頼政権の成立に大きく貢献し、その中枢に近い位置にいたと考えられる。
義頼政権下における頼元の活動
ユーザーから提供された情報によれば、岡本頼元は「義頼の重臣として仕え、安房岡本城を拠点に里見水軍の一翼を担う」とされている。この記述は、義頼政権下における頼元の役割を的確に示していると言えよう。
具体的な活動に関する詳細な一次史料は乏しいものの、いくつかの状況証拠からその活躍ぶりを推測することができる。まず、岡本城が里見水軍の重要な基地であったことは繰り返し指摘されている通りである 19 。また、頼元の父・随縁斎も房総水軍を率いて北条水軍と戦った実績がある 26 。これらの事実を踏まえれば、頼元も父祖の跡を継ぎ、里見水軍の中核的な指揮官の一人として活動したことはほぼ間違いないと考えられる。
当時の里見氏にとって最大の脅威は、相模国の後北条氏であった。両氏は東京湾の制海権や房総半島の支配を巡って、数十年にわたり激しい抗争を続けていた 31 。頼元が率いたであろう里見水軍の任務は、北条水軍の侵攻に対する防衛、江戸湾内の海上交通路の確保と敵対勢力の妨害、さらには三浦半島など北条氏領への攻撃支援など、多岐にわたったと推測される。岡本城という地の利を活かし、頼元は義頼政権の軍事力を海上において支える重要な役割を担っていたのである。
また、「重臣」という評価は、単に軍事面での貢献だけでなく、義頼の政務においても一定の発言力を持っていた可能性を示唆する。岡本城が義頼の本城であった期間、頼元はその城代、あるいはそれに近い立場として、城の管理運営や周辺地域の統治にも関与していたであろう。
里見義頼は、天正15年(1587年)に没した 21 。頼元にとって、自らを重用し、その本拠地を政権の中核に据えた主君の死は、大きな転機となったはずである。
第四章:岡本城火災、追放と復帰
天正16年(1588年)岡本城火災
里見義頼の死から間もない天正16年(1588年)、岡本頼元の運命を大きく左右する事件が発生する。義頼政権の本城であった岡本城において、大規模な火災が発生したのである 2 。この火災は、岡本城の主要な建造物や機能に深刻な損害を与えたと推測される。
火災の具体的な原因については、現存する文献史料からは明らかにされていない 33 。しかし、近年の岡本城跡の発掘調査によって、この時期の火災の痕跡と考えられる焼土層が検出されている。この焼土層からは16世紀後半に位置づけられるかわらけ(素焼きの土器)なども伴って出土しており、文献史料の記述を考古学的に裏付ける重要な証拠となっている 3 。
戦国時代の城郭における火災は、不慮の失火の可能性もあれば、合戦や攻城戦に伴う放火、あるいは内部の対立や調略による意図的な放火といった人為的な要因も常に考慮に入れなければならない。特に、主君であった里見義頼が亡くなった直後という時期は、新たな当主・里見義康(義頼の子)がまだ若年であった可能性もあり、里見家中が必ずしも安定していたとは限らない。火災が単なる事故であったのか、あるいは何らかの政治的・軍事的背景があったのかは不明であるが、いずれにしても岡本城の機能に甚大な影響を与えたことは間違いない。
火災の責任と頼元の追放
この岡本城火災の責任は、城の管理を任されていたと考えられる岡本頼元が問われることとなった。結果として、頼元は一時的に追放処分を受けたと記録されている 2 。当時の武家社会において、城郭、特に主君の本城クラスの重要拠点を焼失させた責任は極めて重い。城代、あるいはそれに準ずる立場にあった頼元が管理不行き届きの責任を負うのは、当時の慣習からすれば当然の措置であったと言える。
追放の具体的な期間や、追放先がどこであったかについては、残念ながら史料に明記されていない。この追放処分は、頼元の武将としてのキャリアにおいて最大の危機であったと言えるだろう。しかし、注目すべきは、処分が死罪や永年の蟄居ではなく、「一時追放」であったという点である。これは、頼元が完全に主家の信頼を失ったわけではなく、あくまで結果責任を問われた形であり、彼のこれまでの功績や能力が考慮された結果、将来的な復帰の可能性が残されていたことを示唆しているのかもしれない。あるいは、有能な人材を完全に失うことを里見家側が避けたかったという事情も考えられる。
復帰の経緯と時期
岡本頼元は、追放後しばらくして許され、里見家に復帰した。復帰後の処遇は、足軽小頭(あしがるこがしら)として100石の知行を与えられたとされている 5 。
復帰の正確な時期や具体的な経緯については不明な点が多い。しかし、追放が「一時」であったこと、そして後に詳述するが、頼元が慶長11年(1606年)に自身の逆修塔を建立している事実から 2 、それより以前には既に里見家に帰参し、何らかの活動を行っていたと考えるのが自然である。
復帰後の「足軽小頭100石」という役職と禄高は、かつて岡本城主、あるいは里見義頼の重臣として広大な岡本城とその周辺を統括し、水軍の一翼を担っていた頃の立場と比較すると、大幅な降格であった可能性が高い。岡本城の火災という事件は、頼元個人のキャリアに深刻な打撃を与えただけでなく、岡本家の里見家中における地位や影響力にも大きな変化をもたらしたと考えられる。それでもなお家臣団への復帰が許された背景には、頼元自身のこれまでの功績や人脈、あるいは新当主・里見義康の温情や、当時の里見家中の人材不足といった事情など、様々な要因が複合的に作用したのかもしれない。この一連の苦難の経験は、頼元のその後の人生観や信仰心に少なからぬ影響を与え、後の逆修塔建立の一因となった可能性も否定できない。
第五章:里見氏改易後の岡本頼元
里見氏の改易とその背景
岡本頼元の主家である里見氏は、関ヶ原の戦いでは東軍に与して所領を安堵され、一時は安房国・鹿島郡合わせて12万石を領する大名となっていた 23 。しかし、慶長19年(1614年)、9代当主・里見忠義(義康の子)の代に、突如として徳川幕府から改易を命じられる。表向きの理由は、幕府の重鎮であった大久保忠隣の失脚事件に連座したというものであった 1 。これにより、里見氏は安房館山藩の所領を没収され、伯耆国倉吉(現在の鳥取県倉吉市)へ3万石で転封(事実上の減封・左遷)となったのである 21 。この措置は、江戸幕府が全国支配を確立していく過程で、豊臣恩顧の大名や潜在的な敵対勢力と見なされた外様大名を取り潰し、あるいは弱体化させていく政策の一環であったとも解釈されている 21 。
この主家の改易という激変は、岡本頼元をはじめとする多くの里見家臣たちにとって、生活基盤を根底から揺るがす大事件であった。彼らは主君に従って倉吉へ移住するか、あるいは禄を失い浪人となるか、新たな仕官先を探すかという厳しい選択を迫られることになった。
『夏目日記』に見る頼元の動向
里見氏改易後の岡本頼元の動向について、貴重な情報を提供しているのが、夏目定房が記したとされる『夏目日記』(あるいは『管窺武鑑』とも呼ばれる)である 1 。夏目定房は、頼元の次男・岡本元重の妻の再婚相手の子、すなわち元重にとっては義理の子にあたる人物であり、岡本家とは浅からぬ縁があった。
この『夏目日記』によれば、「里見家没落後、元重の父頼元は倉吉へ供をしたが、三年後に国へ帰され、その後、元重とともに上総潤井戸藩に再仕官した」と記されている 1 。この記述が事実であるとすれば、岡本頼元は慶長19年(1614年)、当時58歳という高齢にもかかわらず、主君・里見忠義に従って伯耆国倉吉まで赴いたことになる。これは、主君に対する忠義の厚さを示す行動と言えるだろう。しかし、その3年後、すなわち慶長22年(1617年)頃に、何らかの理由で「国へ帰され」、すなわち安房へ戻ったという。そしてその後、息子の元重と共に上総国潤井戸藩(現在の千葉県市原市潤井戸周辺)に再仕官したとされている。
「国へ帰され」た具体的な理由については『夏目日記』には記されていない。高齢であった頼元の健康問題か、あるいは倉吉での里見家の財政が困窮し、多くの家臣を養いきれなくなったため、一部の家臣を帰国させたという可能性も考えられる。いずれにせよ、故郷を離れての生活は困難を伴ったであろうし、その後の再仕官も容易ではなかったはずである。
永井直勝への仕官
一方で、Wikipediaなどの比較的新しい情報源においては、岡本頼元は里見氏改易後、永井直勝(ながいなおかつ)に仕えたと記載されている 5 。永井直勝は、徳川家康に古くから仕えた譜代の武将であり、江戸幕府成立後は小見川藩(下総国、現在の千葉県香取市小見川)1万石の藩主となり、その後、古河藩(下総国、現在の茨城県古河市)7万石の藩主などを歴任した人物である。
この「永井直勝への仕官」という情報と、『夏目日記』に記された「上総潤井戸藩への再仕官」という記述との間には、一見して矛盾があるように見える。永井直勝が上総潤井戸藩主であったという記録は確認されておらず、慶長年間から元和年間にかけての潤井戸藩は、本多氏(本多正重など)が支配していた時期がある。
この情報の齟齬をどのように解釈すべきかについては、いくつかの可能性が考えられる。
第一に、どちらかの情報が誤りである可能性。
第二に、仕官の時期が異なる可能性。例えば、一時的に潤井戸藩の本多氏に仕えた後、何らかの縁で永井直勝に改めて仕官した、あるいはその逆のケースも考えられる。
第三に、『夏目日記』の「上総潤井戸藩」という記述が、必ずしも藩主を指すのではなく、永井氏の知行地や勢力範囲内にあった何らかの集落や、永井氏と関連の深い人物への仕官を意味している可能性も排除できない。
第四に、「永井直勝に仕えた」という情報が、必ずしも直臣としてではなく、永井家の家臣団に属する別の人物に仕えたことを広義に捉えている可能性もある。
現時点での史料からは、この矛盾を完全に解消することは難しい。岡本頼元の晩年の仕官先については、今後のさらなる史料の発見や研究が待たれるところである。この点については、後述の表3で改めて比較検討を行う。
子息たちの悲劇
岡本頼元の晩年は、主家の改易という苦難に加え、二人の息子の相次ぐ非業の死という悲劇にも見舞われた。
嫡男であった岡本頼重は、慶長16年(1611年)、32歳という若さで乱破(らっぱ、当時の盗賊や間諜の類を指すか)に襲われて殺害されたと記録されている 5 。これは里見氏が改易される3年前の出来事であり、まだ世情が不安定で、武士が常に命の危険に晒されていた戦国の余燼がくすぶる時代の出来事を象徴している。
また、次男の岡本元重は、父・頼元と共に新たな仕官先(『夏目日記』によれば上総潤井戸藩、異説では永井直勝のもと)で再起を図っていたが、元和6年(1620年)に35歳で不慮の水死を遂げたとされる 5 。ようやく安定した生活を得たかもしれない矢先のこの悲劇は、頼元にとって計り知れない心痛であったろう。
これら二人の息子の相次ぐ死は、岡本家の将来に暗い影を落としただけでなく、頼元自身の精神にも大きな影響を与えたと考えられる。特に、晩年に建立した逆修塔には、こうした個人的な悲しみや人生の無常観が込められていた可能性も否定できない。戦国末期から江戸初期にかけての武士の人生は、主家の盛衰だけでなく、個人の運命もまた、常に不確実な要素に左右される過酷なものであった。
表3:岡本頼元の晩年に関する史料比較
項目 |
『夏目日記』の記述 1 |
他の史料の記述 5 |
考察・整合性の検討 |
里見氏改易後の行動 |
主君・里見忠義に従い伯耆国倉吉へ供奉。 |
(倉吉供奉に関する直接記述なし) |
『夏目日記』は岡本家と縁の深い人物の記録であり、倉吉行きは事実の可能性が高い。頼元の忠誠心を示す。 |
倉吉からの帰国 |
倉吉へ行ってから3年後(慶長22年/1617年頃)に「国へ帰され」たとある。 |
(具体的な記述なし) |
高齢や里見家の財政事情などが理由として考えられる。 |
再仕官先 |
次男・元重と共に「上総潤井戸藩」に再仕官。 |
「永井直勝」に仕えた。 |
矛盾点: 永井直勝は潤井戸藩主ではない。当時の潤井戸藩は本多氏などが領有。 可能性1: 『夏目日記』の「潤井戸藩」が特定の藩主ではなく地域を指し、その地域に知行を持つ永井氏関連の人物、あるいは永井直勝自身が一時的に関与した何らかの組織に仕えた可能性。 可能性2: 時期が異なる。潤井戸藩(本多氏など)に仕えた後、永井直勝に仕えた(またはその逆)。 可能性3: いずれかの情報に誤伝や混同がある。 補足: 永井直勝は譜代大名であり、里見家旧臣を召し抱えることはあり得る。しかし、具体的な経緯は不明。 |
子・元重の動向 |
父・頼元と共に上総潤井戸藩に再仕官。 |
父・頼元と共に永井直勝に仕えた。元和6年(1620年)に35歳で水死。 |
仕官先は上記と同様の矛盾があるが、親子で行動を共にしていた点は共通。元重の早すぎる死は頼元の晩年の悲運を象徴する。 |
この表は、現存する主要な情報源間の異同を整理したものであり、今後の研究によって新たな解釈や事実が明らかになる可能性があります。
第六章:岡本頼元の終焉と後世
寛永元年(1624年)の死没
岡本頼元は、寛永元年(1624年)にその生涯を閉じたと記録されている 5 。弘治2年(1556年)生まれであるため、享年は69歳であった。戦国時代から江戸時代初期という激動の時代を生き抜き、主家の興隆、自身の栄達と失脚、そして主家の没落と再仕官という波乱に満ちた人生であった。
頼元が最期を迎えた場所や具体的な状況については、残念ながら詳細を伝える史料は見当たらない。もし『夏目日記』の記述や永井直勝への仕官説が正しければ、上総国、あるいは永井氏の所領のいずれかで亡くなった可能性が考えられるが、確証はない。
宝珠院の逆修塔(白墓)
岡本頼元の晩年と思想を今に伝える最も重要な遺物の一つが、千葉県南房総市府中(旧安房郡三芳村)にある新義真言宗の寺院・宝珠院に現存する逆修塔(ぎゃくしゅうとう)である。この塔は、その色合いから「白墓(しらはか)」とも呼ばれ、岡本左京亮頼元が生前に自身の冥福を祈って建立したものと伝えられている 2 。
塔の建立年は慶長11年(1606年)7月15日とされており、この時、頼元は50歳であった。建立の主体は、妙法山蓮華寺(現在の鴨川市花房にあったとされる寺か)の別当であった経蔵坊であり、頼元の「逆修善根(ぎゃくしゅうぜんこん)」、すなわち生前にあらかじめ自身の死後の功徳を積むために建てられたものである 2 。
宝珠院の記録によれば、この逆修塔建立の背景として、頼元が天正16年(1588年)から天正17年(1589年)頃にかけて岡本城で発生した火災の責任を問われ、出仕を停止させられた(追放された)経験があることが記されている 2 。この記述は、頼元が人生の大きな苦難を経験した後に、自らの信仰心を深め、来世への準備としてこのような塔を建立した動機を示唆している。
慶長11年(1606年)という時期は、関ヶ原の戦いが終わり、徳川幕府による新たな秩序が形成されつつあったものの、まだ戦国の気風が色濃く残る時代であった。頼元が50歳という人生の節目にこの逆修塔を建てたことは、岡本城火災とそれに伴う追放という個人的な苦難の記憶、戦国武将として数々の修羅場を経験してきたことによる人生の無常観、そして篤い信仰心に基づいた来世への願いなどが複合的に作用した結果と考えられる。当時、武士の間では生前に自らの供養塔を建てる「逆修」の風習が広まっていたことも、この建立の背景として考慮すべきであろう。この白墓は、岡本頼元という一人の武将が、激動の時代の中で何を思い、何を願ったのかを静かに物語る貴重な歴史遺産である。
子孫と岡本家のその後
岡本頼元の二人の息子、嫡男・頼重と次男・元重が、それぞれ若くして非業の死を遂げたことは既に述べた通りである 5 。頼重は慶長16年(1611年)に32歳で乱破に殺害され、元重は元和6年(1620年)に35歳で水死した。
これらの悲劇の後、岡本家の家系が具体的にどのように続いていったのかについては、現時点の資料からは判然としない。頼元の直系男子が途絶えた可能性も考えられる。『夏目日記』を記した夏目定房の母は、岡本元重の妻であったとされているため 1 、元重には少なくとも一人の娘がいたことが推測される。しかし、岡本姓を名乗り家を継いだ男子がいたかどうかは不明である。
戦国時代から江戸時代初期にかけては、主家の改易、当主や後継者の早逝、あるいは戦乱による断絶など、様々な要因で武家がその家名を存続させることが困難な時代であった。岡本頼元の子息たちの運命は、そうした武家の存続の厳しさの一端を示していると言えるだろう。岡本一族としては、頼元の父・随縁斎の兄弟や他の傍系が存続していた可能性もあるが、頼元の直系に関する情報は乏しい。
結論
岡本頼元の生涯の総括
岡本頼元は、弘治2年(1556年)の生誕から寛永元年(1624年)の死没に至るまで、戦国時代の終焉と江戸時代の幕開けという、日本史における大きな転換期を生きた武将であった。房総の戦国大名・里見氏の家臣として、父祖伝来の安房岡本城を拠点に活動し、特に主君・里見義頼の時代にはその重臣として水軍を率いるなど、軍事・政治の両面で重要な役割を果たした。しかし、その生涯は順風満帆なものではなく、岡本城火災という不運な事件によりその責任を問われて一時追放されるなど、波乱に富んだものであった。
主家である里見氏が慶長19年(1614年)に改易されるという大きな悲運に見舞われた後も、頼元は新たな仕官先を求めて苦労を重ね、武士としての生涯を全うした。その具体的な動向については史料によって異同が見られるものの、倉吉への供奉やその後の再仕官の試みは、激動の時代を生き抜こうとする武士の姿を映し出している。晩年に故郷に近い地に建立した逆修塔は、彼の深い信仰心と、波乱に満ちた人生から得た無常観を静かに物語る、貴重な歴史的遺産である。二人の息子の相次ぐ非業の死は、彼の晩年にさらなる悲しみをもたらしたが、それらも含めて彼の人生の軌跡として記憶されるべきであろう。
歴史的評価と今後の課題
岡本頼元は、歴史の表舞台で華々しい活躍を見せた大名や英雄ではない。しかし、彼は里見氏という一地方勢力の興亡を間近で経験し、その盛衰を自身の人生をもって体現した家臣の一人として、戦国末期から江戸初期にかけての武士の生き様、そして地方社会の現実を伝える上で非常に興味深い存在である。彼の生涯を丹念に追うことは、著名な合戦や政治的事件だけでなく、それらを支え、あるいはそれに翻弄された無数の人々の営みを理解する上で重要な示唆を与えてくれる。
史料的な制約から、岡本頼元の生涯には未だ不明な点が多く残されている。特に、岡本城火災の詳細な経緯、追放から復帰に至るまでの具体的な動向、そして里見氏改易後の確実な仕官先や活動内容については、今後の研究によって明らかにされるべき課題である。岡本城跡の発掘調査のさらなる進展や、未発見の古文書、地方の旧家に伝わる記録などが発見されれば、岡本頼元という人物、そして彼が生きた時代の房総地域史の解明に新たな光が当てられることが期待される。
岡本頼元のような人物の生涯を研究することは、戦国時代という時代を、大名や中央政権の視点からだけでなく、地方の武士や民衆の視点からも複眼的に捉え直す試みであり、歴史理解をより深く、豊かなものにする上で意義深い作業と言えるだろう。彼の人生は、忠誠、武勇、家名の維持、不運との対峙、信仰による救済、そして時代の大きな変化への適応といった、戦国武士が直面した普遍的なテーマを内包しており、現代に生きる我々にも多くのことを問いかけてくる。
参考文献