最終更新日 2025-06-13

岡部正綱

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岡部正綱 詳細報告書

序章:岡部正綱という武将

本報告書は、戦国時代から安土桃山時代にかけて活躍した武将、岡部正綱(おかべ まさつな)の生涯について、現存する史料に基づき詳細かつ徹底的に調査し、その実像に迫ることを目的とする。岡部正綱は、駿河の今川氏、甲斐の武田氏、そして後に天下統一を果たす徳川氏という三つの有力な戦国大名に仕えた稀有な経歴を持つ人物である。彼の生涯は、主家の興亡という激動の時代を、武将としていかに生き抜いたかを示す貴重な事例と言える。

岡部正綱は、今川家臣としてキャリアを開始し、主家滅亡後は武田信玄にその武勇を認められて仕え、駿河清水城主となった。武田家滅亡後は徳川家康に帰属し、甲斐平定に貢献するなど、それぞれの主家で重要な役割を果たした。本報告では、彼の出自から各主家での具体的な事績、家族関係、そしてその最期に至るまでを丹念に追い、戦国武将としての岡部正綱の多面的な姿を明らかにする。彼の生涯を通じて、戦国武将の処世術、忠誠と現実の間での選択、そして時代を生き抜くための武勇と知略を浮き彫りにすることを目指す。

まず、岡部正綱の生涯の概略を把握するため、以下の略年譜を示す。

【表1】岡部正綱 略年譜

年代 (西暦)

出来事

関連資料

天文11年 (1542)

岡部信綱の子として駿河国清水にて生誕。通称、次郎右衛門。

1

弘治3年頃 (c. 1557)

16歳で初陣し、首級二つを挙げたとされる(岡部元信の伝聞情報として)。

3

永禄11年 (1568)

12月、武田信玄の駿河侵攻に対し、駿府にて抵抗。

4

永禄12年 (1569)

武田軍の再度の駿河侵攻に対し、安倍元真らと籠城し防戦。臨済寺の鉄山宗純の仲介で開城し、武田信玄に仕える。清水城主となる。

5

元亀3年 (1572)

12月、三方ヶ原の戦いに武田方として従軍。

7

天正2年 (1574)

高天神城攻略に従軍。

7

天正8年 (1580)

武田水軍の一翼として北条水軍と駿河湾で戦い、勝利する。

8

天正10年 (1582)

3月、武田家滅亡。信長に降らず清水城に留まる。6月、本能寺の変後、徳川家康に仕える。甲斐平定に派遣され、穴山梅雪旧領の確保や一揆鎮圧に貢献。

1

天正10年以降

甲斐・駿河に知行を得る。

1

天正11年 (1583)

11月または12月8日、病没。享年42。

1

この年譜は、岡部正綱が目まぐるしく変化する戦国時代の情勢の中で、いかにして自らの活路を見出し、武将としての役割を果たし続けたかを示している。次章以降で、これらの出来事をより詳細に検討していく。

第一章:岡部正綱の出自と今川家臣時代

岡部正綱の武将としてのキャリアは、駿河の戦国大名今川氏の家臣として始まった。本章では、彼の生い立ち、岡部氏の背景、そして今川家臣としての活動、特に今川家の衰退期における彼の動向を詳述する。

1.1 生誕と家系

岡部正綱は、天文11年(1542年)に駿河国清水で生まれたとされる 1 。通称は次郎右衛門と伝えられている 1 。彼の父は岡部信綱(おかべ のぶつな)、または久綱(ひさつな)、美濃守信綱とも称される人物であった 1

岡部氏の出自を遡ると、その姓は藤原氏に由来するとされる。遠江守爲憲(ためのり)から六世の孫にあたる権守清綱(ごんのかみ きよつな)の代に、駿河国志太郡岡部郷(現在の静岡県藤枝市岡部町周辺)に居住したことから、岡部を氏としたと伝えられている 2 。この事実は、岡部氏が古くから駿河国に根を下ろした土着の有力な武士団であったことを示唆しており、今川氏の譜代家臣層としての背景を理解する上で重要である。江戸時代に岸和田藩主となった岡部家も、室町時代から戦国時代にかけては駿河・遠江・三河を支配した今川氏に仕えていたことが記録されている 12 。これは、正綱の代に限らず、岡部一族が今川家中で重きをなしていた可能性を示している。

1.2 今川家への仕官と初期の活動

岡部正綱は、幼い頃から今川家に仕えたとされる。一説には、16歳の時に初陣を飾り、首級を二つ挙げる武功を立てたとされるが、この情報は岡部元信(後述)の列伝中に「岡部元信の兄、または従兄といわれている」正綱に関する記述として見られるものであり、正綱自身の直接的な記録としては慎重な取り扱いを要する 3

桶狭間の戦い(永禄3年、1560年)以前の、正綱の具体的な功績に関する直接的な史料は乏しい。しかし、彼が今川家の家臣として活動していたことは疑いなく、一族の一員として、あるいは中堅の武将として、主家の軍事行動などに参加していたと推測される 1 。この時期の活動が不明瞭である点は、同族とされる岡部元信が桶狭間の戦いにおいてその名を広く知らしめたのとは対照的であり、正綱が歴史の表舞台で明確な記録を残し始めるのは、むしろ今川家の衰退が顕著となる武田氏の駿河侵攻以降であった可能性が高い。

1.3 駿河防衛戦と今川家の没落

永禄11年(1568年)12月、甲斐の武田信玄が大軍を率いて駿河への侵攻を開始すると、今川氏真は本拠地である駿府を放棄し、遠江の掛川城へと退却した 4 。この危機的状況において、岡部正綱は駿府に留まり、侵攻してきた武田軍に対して抵抗を試みたことが記録されている。ある史料によれば、武田軍は「駿府で抵抗する岡部正綱を降伏させ」たとされる 4

翌永禄12年(1569年)、武田信玄が再び駿河に侵攻した際には、岡部正綱は兄弟や安倍元真らと共に城に籠もり、武田軍の攻撃を防いだ 5 。この時の正綱の武勇は敵将である武田信玄をも感嘆させたと伝えられている 2

史料によって降伏や抵抗の時期に若干のずれが見られる。永禄11年12月に一度降伏したものの、何らかの理由で永禄12年に再度抵抗したのか、あるいは情報源による詳細度の違いである可能性も考えられる。戦国時代の史料において、こうした細部の記述に差異が見られることは珍しくない。重要なのは、岡部正綱が今川家の急速な衰退という困難な状況下で、単に逃亡したり早々に寝返ったりするのではなく、武田軍に対して武力をもって抵抗し、その武勇を敵方に認めさせたという点である。この事実は、彼が単なる敗将としてではなく、価値ある人材として武田家に迎えられる素地を形成したと言えるだろう。

第二章:武田家臣時代

今川家の没落という大きな転換点を経て、岡部正綱は新たな主君として武田信玄に仕えることとなる。本章では、武田家臣としての正綱の動向、特にその待遇、駿河先方衆としての活動、そして武田水軍との関わりについて詳述する。

2.1 武田信玄への帰属

岡部正綱が武田信玄に仕えるに至った経緯は、彼の武将としての評価を如実に物語っている。永禄12年(1569年)の武田軍による再度の駿河侵攻において、正綱は頑強な抵抗を示したが、その武勇を高く評価した信玄は、臨済寺の僧である鉄山宗純(てつざんそうじゅん、鉄山和尚とも)を仲介として和議を申し入れた。これに応じ、正綱は城を開き、武田氏の家臣となった 2 。この降伏は、単なる力による屈服ではなく、信玄が正綱の器量を認めた上での招聘に近い形であったと考えられ、後の厚遇へと繋がった。当時の有力寺院が外交や調停において重要な役割を果たしていたことを示す一例としても、鉄山宗純の仲介は注目される。

武田家臣となった岡部正綱は、駿河国の要衝である清水城の守備を任された 1 。清水は駿河湾に面し、水軍の拠点ともなりうる戦略的に極めて重要な場所であり、ここを任されたことは、信玄の正綱に対する信頼の厚さを示している。

さらに、信玄は正綱の帰属を大いに喜び、破格の待遇で迎えたとされる。一説には、今川氏に仕えていた時代の所領の十倍にあたる三千貫の地を与え、さらに府中(駿府)での籠城戦を共にした旧臣五十余名をそのまま正綱に付属させ、侍大将に任じたと伝えられている 2 。この厚遇は、信玄がいかに正綱個人の能力と、旧今川家臣団に対する彼の影響力を高く評価していたかを物語っている。武田氏にとって駿河は新たに獲得した領土であり、その安定統治のためには、岡部氏のような在地勢力の有力者を取り込むことが戦略的に重要であった。正綱の登用は、他の旧今川家臣に対して武田氏への帰順を促す効果も期待されたであろうし、清水城という要衝を任せたことも、軍事的な信頼と同時に、駿河支配の象徴的な意味合いも含まれていた可能性がある。

2.2 駿河先方衆としての活躍

武田家に仕えた岡部正綱は、駿河先方衆(するがさきかたしゅう)の一員として、軍事面での活躍も期待された。彼が率いた兵力は50騎であったと記録されている 7 。この兵力は、武田家中の他の有力武将、例えば同じ駿河先方衆の朝比奈信置が150騎、譜代家老の山県昌景が300騎を率いていたことと比較すると小規模ではある 7 。しかし、外様でありながら先方衆という重要な軍事的位置づけを与えられた点に意義がある。なお、同族とされる岡部元信が武田家臣となった際に率いた兵力は10騎であり 7 、これと比較すれば正綱の動員力は一定の規模を有していたと言える。

駿河先方衆として、岡部正綱は武田軍の主要な合戦に参加した。元亀3年(1572年)12月に行われた三方ヶ原の戦いでは、徳川家康軍と激突した武田軍の一翼を担い従軍したとされる 7 。また、天正2年(1574年)には、遠江における重要拠点であった高天神城の攻略戦にも参加したと伝えられており 7 、その活動範囲が駿河に留まらなかったことを示している。これらの参戦は、彼が武田軍の軍事行動において信頼され、実戦部隊の指揮官として機能していたことの証左である。

2.3 武田水軍との関わり

清水城主であった岡部正綱は、陸戦だけでなく、武田氏の水軍力の整備・運用にも深く関与していたと考えられる。天正8年(1580年)、武田勝頼が沼津から伊豆半島へ侵攻した際、正綱は武田水軍の一翼を指揮し、駿河湾において有力な北条水軍と海戦を交えたという記録がある 8

この海戦において、興味深い逸話が伝えられている。戦況が武田方に不利となり、陸戦への転換を指示する命令が総大将の勝頼から伝えられた。しかし、正綱は「舟を捨てては海賊(水軍の武士)の名がすたる」と述べ、その命令に従わず勇戦し、最終的に敵を打ち破ったというのである 8 。この逸話が史実であるとすれば、正綱が単なる城主や陸戦指揮官に留まらず、水軍の専門家としても武田家中で一定の評価と権限を持ち、時には総大将の命令に対し、現場の状況と水軍の特性を優先する判断を下す自律性も持ち合わせていた可能性を示唆する。また、戦国武将の現場判断の重要性を示す事例とも言えるだろう。ただし、この逸話の出典や他の史料との整合性については、さらなる検証が望まれる。

2.4 武田家の衰退と滅亡

武田信玄の死後、その後を継いだ武田勝頼の代になっても、岡部正綱は引き続き武田家に仕えた。しかし、長篠の戦いでの大敗以降、武田家の勢力は急速に衰退していく。

天正10年(1582年)3月、織田信長・徳川家康連合軍による本格的な甲州征伐が開始されると、武田家は組織的な抵抗もままならず、瞬く間に滅亡に至った。この主家滅亡という危機的状況において、岡部正綱は織田信長に降伏することなく、自身の居城である清水城に留まっていたと記録されている 2 。この行動は、彼が即座に新たな支配勢力に降るのではなく、一定の距離を保ちながら、混乱する情勢を見極めようとしたたかさを示していると言えるかもしれない。

第三章:徳川家臣時代と晩年

武田家の滅亡という大きな転換期を経て、岡部正綱は三度目の主君として徳川家康に仕えることになる。本章では、徳川家臣としての正綱の活動、特に天正壬午の乱における甲斐平定への貢献、そしてその最期について詳述する。

3.1 徳川家康への帰属

天正10年(1582年)3月の武田家滅亡後、岡部正綱はしばらくの間、清水城に留まっていた。しかし、同年6月に本能寺の変が発生し、織田信長が横死すると、旧武田領国を巡る情勢は一変する。この混乱の中、正綱は徳川家康に帰属することを選択した。史料によれば、彼はかつて今川氏に仕えていた時代に家康と旧知の間柄であったとされ、その縁もあって家康に清水城を開城し、一旦は浪人の身となった後、正式に徳川家臣となったと記されている 1 。この「今川時代に相知の仲」という記述 2 は、彼の徳川家への仕官が単なる武力によるものではなく、過去の個人的な繋がりも影響した可能性を示唆しており、興味深い点である。

3.2 天正壬午の乱と甲斐平定への貢献

本能寺の変後、織田氏の支配力が後退した甲斐・信濃の旧武田領を巡っては、徳川家康、相模の北条氏直、越後の上杉景勝らが激しい争奪戦を繰り広げた。これは「天正壬午の乱」と呼ばれる。家康は、この機に乗じて甲斐国の確保を目指し、その実行にあたって武田旧臣で徳川方についた岡部正綱を甲斐へ派遣した 9

甲斐国における正綱の具体的な役割は多岐にわたった。まず、武田氏の親族衆でありながら織田方に寝返り、本能寺の変後に横死した穴山梅雪(信君)の旧領を押さえる任務にあたった 14 。また、家康から菅沼城の普請を命じられるなど 14 、軍事拠点の整備にも関与した。

さらに重要な役割として、甲斐国内で発生した旧武田家家臣や土豪、地侍らによる一揆の鎮圧にもあたった 9 。武田家滅亡後の混乱した甲斐において、在地勢力の動向は領国支配の安定に直結する。家康は、正綱が旧武田家臣であった立場やその人脈、そして駿河・甲斐の地理や情勢に精通していることを高く評価し、最前線での平定作業と旧臣統括という困難な任務を託したと考えられる。実際に、正綱は武田旧臣の束ね役の一人として、穂坂常陸介や有泉大学助といった旧臣たちに指示を与える立場にあったことが記録されており 10 、彼が単なる武将としてだけでなく、旧武田家臣団との橋渡し役、まとめ役としての機能も期待されていたことがうかがえる。岡部正綱のような元武田重臣の協力は、家康による甲斐統治の迅速な安定化と、強力な武田武士団の徳川軍への編入を円滑に進める上で不可欠であり、彼の貢献は、後の徳川家の覇権確立に間接的ながらも寄与したと言えるだろう。

3.3 甲斐・駿河における知行

甲斐平定における岡部正綱の活躍は徳川家康に認められ、彼は甲斐国および駿河国に知行を与えられた 1 。具体的な石高や所領の場所についての詳細な記録は現時点では確認できないものの、その功績に見合う相応の所領を与えられたことは間違いない。旧武田領やその近辺に所領を得たことは、彼のこれまでの経歴や専門性を考慮した配置であったと言えるだろう。

3.4 最期

徳川家臣として新たなキャリアを歩み始めた岡部正綱であったが、その活動期間は長くはなかった。天正11年(1583年)、彼は病により死去した 10 。没日は史料により11月とも12月8日とも伝えられるが 1 、いずれにしても天正11年のことであり、享年は42歳であった 1 。戦国時代の武将としては戦死ではなく病死であったことは、彼が徳川家中で一定の安定した地位を築きつつあった可能性を示唆するが、その若さでの死は惜しまれるものであった。

第四章:岡部正綱の評価と岡部氏のその後

岡部正綱の生涯は、戦国乱世を生き抜いた一武将の姿を鮮やかに映し出している。本章では、彼の人物像と歴史的評価を試みるとともに、彼の子孫である岡部氏がその後どのように展開していったのかを概観する。

4.1 岡部正綱の人物像と歴史的評価

岡部正綱の生涯を特徴づけるのは、まず今川、武田、徳川という三代の主君に仕え、そのいずれにおいても一定の評価を得て重用されたという事実である。これは、単に武勇に優れていただけでなく、目まぐるしく変化する時勢を読む洞察力、新たな主君や環境に適応する柔軟性、そして必要に応じて交渉を行う能力にも長けていたことを示している。

彼の武勇については、今川家臣時代の初陣の伝聞 3 、駿河防衛戦における武田信玄からの高い評価 2 、そして武田水軍の一翼を担った際の逸話 8 など、複数の記録や伝承がその高さを物語っている。特に、敵将であった信玄にその武勇を認められたことは、彼の武将としての力量を客観的に示すものと言えよう。

また、彼の行動には、主家に対する忠誠心と、現実的な状況判断との間でバランスを取ろうとする姿勢が見て取れる。例えば、今川家滅亡時には最後まで抵抗を試み、武田家滅亡時にも即座に織田信長に降伏するのではなく、清水城に留まって情勢を見極めようとした 2 。しかし最終的には、より有力な勢力である武田氏や徳川氏に仕えるという現実的な判断を下している。これは、単に強い者に従うという日和見主義とは異なり、自らの価値を最大限に生かし、家と家臣団を守り、次代に繋げるための積極的な「生き残り」の戦略であったと評価できる。

さらに、徳川家臣となってからは、旧武田家臣のまとめ役として、甲斐国の安定化と新体制への移行を円滑に進める上で重要な役割を果たした 10 。これは、彼が有していた旧臣としての影響力と、家康からの信頼の厚さを示すものである。多くの武将が志半ばで滅亡していった戦国時代において、岡部正綱がその能力を発揮し続け、結果として家名を後世に伝える道筋をつけたことは特筆すべき点である。

4.2 子・岡部長盛と岡部家の系譜

岡部正綱の生涯における選択と行動は、彼個人の一代に留まらず、その子孫である岡部家の運命にも大きな影響を与えた。彼の嫡子である岡部長盛(おかべ ながもり)は、父が築いた基盤の上に、自らの武功を積み重ねることで、岡部家を近世大名へと発展させた。

岡部長盛は、永禄11年(1568年)に生まれた 15 。父・正綱が武田氏に属した際、長盛はわずか2歳で母と共に人質として武田氏の本拠地である甲斐国へ送られたという過酷な幼少期を経験している 2 。天正10年(1582年)3月、武田勝頼が天目山で自刃し武田家が滅亡する直前、長盛は家臣の手によって武田の人質から救出され、辛うじて清水城へと帰還することができた 2

父・正綱の死後、天正12年(1584年)に家督を相続した長盛は 15 、徳川家康に仕え、小牧・長久手の戦い、小田原征伐、関ヶ原の戦い、そして大坂冬の陣・夏の陣といった徳川家の主要な戦役にことごとく従軍し、武功を重ねた 15 。これらの功績により、長盛は最終的に美濃国大垣藩5万石の藩主に取り立てられた 15 。さらに、家康の養女(松平康元女・洞仙院)を継室に迎えており 16 、これは徳川家との結びつきを一層強固なものとし、大名としての岡部家の地位を盤石にするための政略結婚の一環であったと考えられる。

岡部長盛以降の岡部氏(正綱流)は、岸和田藩などへの転封を経て、和泉国岸和田藩主として定着し、幕末維新期まで大名家として存続した 12 。これは、父・岡部正綱が激動の戦国時代を生き抜き、徳川家中に確固たる地位を築いたことの直接的な成果であり、彼の生涯の選択が実を結んだ証左と言えるだろう。

補遺:岡部元信との関係について

岡部正綱について調査する際、しばしば比較対象として、あるいは混同される人物として岡部元信(おかべ もとのぶ)の名が挙げられる。両者は同時期に岡部姓を名乗り、今川氏、そして武田氏に仕えたという共通点を持つためであるが、その出自や経歴、最期は大きく異なる。本補遺では、岡部元信の略歴と主要な事績を概観し、正綱との系譜上の関係について諸説を検討する。

岡部元信の略歴と主要な事績

岡部元信は、通称を五郎兵衛といい、その父は岡部親綱(おかべ ちかつな)である 11 。今川家臣としては、特に永禄3年(1560年)の桶狭間の戦いにおける活躍が名高い。主君・今川義元が織田信長に討たれた後も、元信は最前線の鳴海城に籠城し抵抗を続けた。最終的に、義元の首級と引き換えに城兵の助命を条件として開城し、その忠義と武勇は敵将である信長からも賞賛されたと伝えられている 11

その後、元信も武田信玄に仕え、遠江国の戦略拠点である高天神城の城主を任された 7 。しかし、天正9年(1581年)、徳川家康軍による第二次高天神城の戦いにおいて、兵糧が尽きるまで徹底抗戦を続けたものの、ついに城兵と共に討って出て玉砕した 11 。その壮絶な最期は、武士の鑑として語り継がれている。

岡部正綱との系譜上の関係に関する諸説と考察

岡部正綱と岡部元信の系譜上の関係については、いくつかの説が存在する。古くは、正綱の弟 11 、あるいは兄か従兄 3 とされることもあった。

しかし、近年の研究では、両者は直接の兄弟関係にはなく、同族ではあるが別系統の人物であるとする見方が有力となっている。その根拠として、まず岡部元信の史料上の初見が天文11年(1542年)であり、これは岡部正綱の生年と同じである点が挙げられる 11 。また、最も決定的なのは、それぞれの父の名が、正綱の父が岡部信綱(久綱)であるのに対し 1 、元信の父は岡部親綱と明確に異なっていることである 11 。これらの事実から、両者を直接の兄弟と考えるには無理があり、同族ではあるものの、それぞれ別の家系に属していたと考えるのが妥当である。ある史料では、岡部元信を岡部正綱の「親戚」にあたる左京進家の人物として記述しているものもある 7

岡部正綱と岡部元信は、その活躍した時期や仕えた主家(今川氏、武田氏)に共通点があるため混同されやすいが、両者の生涯と功績を明確に区別して理解することが、それぞれの武将を正しく評価する上で不可欠である。特に、岡部元信が「忠勇義烈」の武将として悲劇的な最期と共に語られることが多いのに対し、岡部正綱は困難な状況を乗り越えて家名を後世に繋いだ、より実利的で戦略的な側面を持つ武将であったと言える。

両者の違いを明確にするため、以下の比較表を示す。

【表2】岡部正綱と岡部元信の比較

項目

岡部正綱 (Okabe Masatsuna)

岡部元信 (Okabe Motonobu)

生年

天文11年 (1542) 1

不明 (初見 天文11年 (1542)) 11

没年

天正11年 (1583) 1

天正9年 (1581) 11

岡部信綱 (久綱) 1

岡部親綱 11

通称

次郎右衛門 1

五郎兵衛 11

主な所属大名

今川氏 → 武田氏 → 徳川氏 1

今川氏 → 武田氏 11

主要な功績・役職

清水城主、甲斐平定に貢献 1

鳴海城開城 (桶狭間の戦い後)、高天神城主 7

最期

病死 10

高天神城にて戦死 11

正綱との関係性

正綱とは同族だが別系統 7

この表からも明らかなように、岡部正綱と岡部元信は、それぞれ異なる道を歩んだ武将であった。

結論:岡部正綱の生涯の総括

岡部正綱の生涯は、今川家の衰亡、武田家の興隆と滅亡、そして徳川家の台頭という、日本の戦国時代における最も激動的な時期と重なっている。彼はこの変化の激しい時代を、卓越した武勇、冷静な知略、そして現実を見据えた判断力をもって生き抜き、結果として家名を後世に繋ぐことに成功した武将であった。

彼の経歴は、特定の主君への絶対的な忠誠という一面的な武士道のみが戦国武将の姿ではなかったことを示している。むしろ、変化する状況に柔軟に対応し、自らの能力を最大限に発揮することで、家と家臣を守り抜き、次代への道を切り開こうとした、戦国武将の多様な生き様の一典型を提示していると言えるだろう。今川家臣としての抵抗、武田家臣としての要衝の守備と軍功、そして徳川家臣としての新領土平定への貢献は、いずれも彼がその時々の主君から高い評価と信頼を得ていたことを物語っている。

岡部正綱個人の武功や政治的手腕もさることながら、その最大の功績は、子・岡部長盛が近世大名として立身する礎を築いた点にある。これは、彼が単に戦場での勇猛さだけでなく、先を見通す戦略眼と、家を存続させるための現実的な処世術を兼ね備えていたことの証左である。岡部正綱の生涯は、戦国乱世という過酷な環境下で、一人の武将がいかにして自らの価値を示し、家名を未来へと繋いでいったかを示す、興味深い歴史的事例として評価されるべきである。

引用文献

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