岡部親綱(おかべ ちかつな)は、戦国時代の駿河国を拠点とした今川氏の家臣であり、特に天文5年(1536年)に勃発した今川氏の家督相続を巡る内乱「花倉の乱」において、栴岳承芳(後の今川義元)を擁立し、その勝利に大きく貢献したことで知られる武将である 1 。本報告書は、この花倉の乱での活躍というご依頼者様の既知の情報を基点としつつ、岡部親綱の出自、今川氏輝の側近としての可能性、花倉の乱での具体的な功績、今川義元体制下での動向、人物像、そして一族関係に至るまで、現時点で利用可能な史料を博捜し、その生涯と実像に多角的に迫ることを目的とする。
岡部親綱に関する史料は、特定の出来事、とりわけ花倉の乱に集中している傾向があり、その生涯の全貌を詳細に解明するには限界がある。これは、戦国期の在地領主層の武将に関する記録保存が、大名家の記録や中央の大きな事件に関するものに比べて手薄であったという、当時の史料状況を反映しているものと考えられる 2 。しかしながら、親綱の行動、特に花倉の乱における活躍は、今川義元のその後の飛躍、ひいては戦国中期の東海地方の勢力図にも少なからぬ影響を与えた可能性があり、その歴史的意義は軽視できない。本報告書では、これらの点を踏まえ、客観的な記述と学術的な考察を試みるものである。
岡部親綱 関連年表
年代(西暦) |
和暦 |
岡部親綱の動向 |
今川氏・関連事項 |
生年不詳 |
|
|
|
大永5年(1525年) |
大永5年 |
(玄忠として)浄土宗の僧・存公に帰依し、邸宅に滞在させる 5 。 |
今川氏輝、家督相続(大永6年)。 |
天文2年(1533年) |
天文2年 |
(玄忠として)邸宅を寄進し、玄忠寺が建立される 5 。 |
|
天文5年(1536年) |
天文5年 |
3月、今川氏輝・彦五郎死去。花倉の乱勃発。栴岳承芳(今川義元)方に属し、6月10日に方ノ上城を攻略。続いて花倉城(葉梨城)も攻略 1 。11月3日、今川義元より二通の感状を拝受 8 。 |
3月、今川氏輝・彦五郎死去。栴岳承芳(今川義元)と玄広恵探が家督を争う(花倉の乱)。6月、義元が乱を制し家督相続。 |
天文11年(1542年) |
天文11年 |
|
子・岡部元信の史料上の初見 10 。 |
天文17年(1548年) |
天文17年 |
|
子・岡部元信、第二次小豆坂の戦いで戦功 9 。 |
永禄3年(1560年) |
永禄3年 |
|
5月19日、今川義元、桶狭間の戦いで織田信長に敗れ討死。 |
永禄5年(1562年) |
永禄5年 |
没年とされる 1 。 |
今川氏真、家督を継承するも領国の動揺続く。松平元康(徳川家康)が岡崎城で自立。 |
岡部親綱の生涯を理解する上で、彼が属した岡部一族の歴史的背景と、その中での親綱の位置づけを把握することは不可欠である。しかし、岡部氏の系譜は史料の制約から不明な点が多く、特に親綱の系統については錯綜しており、慎重な検討を要する。
岡部氏は、藤原南家を祖とする工藤氏の庶流、入江氏の末裔と伝えられている 13 。その発祥は平安時代末期に遡り、駿河権守に任じられた藤原清綱が任期後も都に帰らず駿河国益頭郡岡部郷(現在の静岡県藤枝市岡部町周辺)に土着し、その子である泰綱が地名を苗字として「岡部」を称したことに始まるとされる 13 。鎌倉時代には幕府に仕える御家人としてその名が見え、『吾妻鏡』や『平家物語』にも岡部泰綱の活躍が記されていることからも 13 、古くから駿河の地に根を張った武士団であったことがわかる。
戦国時代に入ると、岡部氏は駿河守護大名である今川氏の有力な被官として活動した 14 。今川氏の領国支配において、岡部氏のような在地領主層の協力は不可欠であり、彼らは軍事面だけでなく、地域支配においても重要な役割を担っていたと考えられる。
岡部親綱の具体的な系譜については、不明な点が多い。父は「左京進」某(実名不詳、系図が正しければ仲綱とされる)とされているが、これを裏付ける確実な史料は乏しい 12 。
岡部氏の系図は、戦国時代から江戸時代初期にかけての度重なる主家の興亡(今川氏、武田氏など)や、それに伴う一族の離散、古文書の散逸によって、正確な再現が極めて困難な状況にある 3 。特に、江戸時代に岸和田藩主家として存続した岡部長盛の系統以前の文書は乏しく、一部には後世の編纂による作為や偽文書の可能性も指摘されている 13 。
このような状況下で、岡部親綱の系統と、同じく今川氏や武田氏に仕えた岡部正綱(父は岡部久綱とされる)の系統、さらには岸和田藩主岡部家の系統との関係は複雑であり、諸説が入り乱れている 10 。例えば、岡部元信(親綱の子)を正綱の弟とする系図も存在するが、元信の活動年代や父とされる人物が異なることから、単純な兄弟関係とは考えにくい 10 。こうした系図の混乱は、単に史料が失われただけでなく、後世の岡部氏各家が自らの家系の権威付けのために、著名な武将や藩祖との血縁関係を強調しようと系図を編纂・改変した可能性も考慮に入れる必要がある。特に、主家が何度も変わり一族が離散した場合、各家が保持する情報も断片的になり、それらを繋ぎ合わせる際に解釈や意図が入り込む余地が大きくなるため、現存する系図類は史実をそのまま反映しているとは限らない。
江戸時代まで武家として存続した岡部氏の主要な系統は「岡部五家」と称されるが、これらの家々に伝わる文書の中には、「左京進」(親綱またはその父か)や「五郎兵衛」(岡部元信の通称)といった名が見えるものがあり、親綱・元信父子が岡部氏の中で一定の重要な位置を占めていたことが推測される 13 。また、岡部氏の嫡流は本来、大和守・和泉守を名乗る父子の系統であり、武田信玄の駿河侵攻の際に武田方についた次郎兵衛(大和守の子、和泉守の弟)や、後に武田氏のもとで岡部氏惣領とされた岡部元信との関係も複雑である 10 。
主家の滅亡は、岡部氏のような被官一族の離散と史料散逸を招き、結果としてその歴史的実像の解明を著しく困難にしている。これは、戦国期から近世初期にかけて多くの武家が経験した状況であり、岡部親綱に関する情報が断片的なのも、この大きな歴史的変動の渦中にあったためと考えられる。
岡部氏関連略系図(親綱周辺)
Mermaidによる関係図
岡部親綱は、今川氏9代当主・今川氏輝の側近であったとされている 1 。氏輝の治世は、父・氏親の築いた基盤の上に、さらなる領国経営の強化が図られた時期であったが、大永6年(1526年)に氏親が没し、氏輝が家督を相続したものの、若年であったことや病弱であったとも伝えられ、母である寿桂尼が後見役として政務を補佐した期間も長かった 21 。
親綱が氏輝の「側近」として具体的にどのような活動に従事していたのかを示す一次史料は、現在のところ乏しい。しかし、もし彼が氏輝の身近に仕える立場にあったとすれば、今川家の内情や政局の動向、そして後継者問題に関する情報を得やすい位置にいたと考えられる。天文5年(1536年)3月17日、氏輝が24歳の若さで急死し、さらに同日に弟の彦五郎までもが死去するという異常事態が発生する 23 。この主君の突然の死と後継者不在という混乱の中で、親綱が早々に栴岳承芳(後の今川義元)方への与力を決断した背景には、氏輝の側近として得ていた情報や、承芳の資質、そして彼を支持する太原雪斎ら重臣たちの動きを見極めた結果があったのかもしれない。戦国時代の主君の急死は、しばしば家督争いを引き起こし、家臣団の分裂を招くが、親綱が義元方についたことは、彼の政治的判断力や、今川家内での人脈、あるいは氏輝生前の何らかの意向を汲んだ可能性を示唆しているとも考えられる。
天文5年(1536年)、今川氏輝とその弟・彦五郎の相次ぐ急死は、今川家に深刻な家督相続問題を引き起こした。この「花倉の乱」と呼ばれる内乱において、岡部親綱は今川義元の勝利に決定的な貢献を果たし、その功績は義元から高く評価されることとなる。
氏輝・彦五郎には嫡子がいなかったため、家督相続権は彼らの兄弟へと移った 23 。候補者として、氏輝の異母兄で駿河国花倉の遍照光寺(花倉城とも)にいた玄広恵探(花蔵殿)と、同じく出家していた同母弟で駿河国富士郡瀬古の善得寺にいた栴岳承芳(後の今川義元)が対立することとなった 1 。
承芳は、母が今川氏親の正室である寿桂尼であるという血筋の正当性に加え、幼少期からの教育係であった太原雪斎(九英承菊)や、相模の後北条氏からの支援も得ていた 6 。一方、恵探は今川家の有力家臣であった福島(くしま)上総介正成らの支持を得て、承芳に対抗した 24 。
この乱における寿桂尼の動向については、かつて恵探側に今川家の重要書類(注進状)を持ち込んだため、恵探に与したのではないかという説もあった。しかし、近年の研究では、寿桂尼はむしろ実子である承芳(義元)の家督相続を支持し、恵探側に対しては合戦回避のための調停案を示したか、あるいは恵探側を油断させるための偽装工作を行ったとする見方が有力となっている 8 。この寿桂尼の行動の解釈は、後述する岡部親綱の功績を理解する上で重要な鍵となる。
このような緊迫した状況下で、岡部親綱は栴岳承芳(義元)方に味方し、その軍事行動において中心的な役割を担った 1 。
天文5年(1536年)5月に駿府で両軍が衝突した後、義元方は攻勢を強める。同年6月10日、岡部親綱は玄広恵探方が拠点の一つとしていた方ノ上城(現在の静岡県焼津市策牛・方ノ上)を攻撃し、これを陥落させた 1 。方ノ上城は、恵探の本拠地である花倉城(葉梨城とも。現在の静岡県藤枝市葉梨)の支城としての機能を有しており、狼煙を使って花倉城と連絡を取り合っていたとも伝えられている 25 。
方ノ上城の陥落後、義元方は勢いに乗って恵探が籠る花倉城(葉梨城)を一斉に攻め立てた。岡部親綱はこの花倉城攻略にも参加し、その落城に大きく貢献した 1 。支えきれなくなった恵探は花倉城を脱出し、瀬戸谷(現在の藤枝市瀬戸ノ谷)の普門寺(普門庵)で自刃し、花倉の乱は義元方の勝利で終結した 6 。
花倉の乱終結から約半年後の天文5年(1536年)11月3日、今川義元は岡部親綱に対し、その多大な功績を称賛する二通の文書を与えた 8 。これらの文書は、親綱の働きがいかに義元の家督相続にとって重要であったかを示す一級史料である。
一通目(A文書と呼ばれる)は、義元の右筆(書記)によって書かれた公的な性格を持つ感状であり、知行宛行状(恩賞として土地を与えることを記した文書)を兼ねたものであった 8 。この文書では、親綱が「当構えならびに方上城・葉梨城に於いて、別して粉骨を抽んじ畢んぬ」(駿府の今川館及び方ノ上城・葉梨城において、格別の働きをした)と記され、その功績を「はなはだ神妙感悦の至りなり」と賞賛し、恩賞として三箇所の所領が与えられたことが記されている 9 。
そして、もう一通(B文書と呼ばれる)は、義元自身の自筆による私信的な性格の強い書状である 8 。この文書は、A文書とは異なり、義元の親綱に対するより直接的で強い感謝の念が表出している。そこでは、親綱が「所々において他に異なることなく走り廻り、粉骨抽きんじ」(様々な場所で他の者にも増して奔走し、身を粉にして尽くした)ことに加え、特筆すべき功績として「あまつさえ、住吉を花蔵へ取らるるのところ、親綱取り返し付けおわんぬ」(その上、住吉(寿桂尼か)が花倉方へ重要文書(住書/注書)を持ち去られたところを、親綱が取り返してくれた)と記されている 8 。この「住書/注書」の奪還という功績に対し、義元は「義元子孫末代に対し、親綱の忠節比類なきものなり」と、他に例を見ないほどの最大級の賛辞を送っている 8 。
このB文書に記された「住書/注書」の奪還という功績は、単なる軍事的な勝利以上に、義元の政権基盤確立にとって死活的に重要であった可能性が高い。この文書の内容が具体的に何であったかは不明だが、もし今川家の財政、家臣団、外交機密、あるいは氏輝の遺言など、政権運営の根幹に関わる情報であったとすれば、それが敵対勢力である恵探方に渡ることは、義元の正統性を揺るがし、その後の統治に大きな支障をきたす可能性があった。親綱がこれを奪還したことは、武勇だけでなく、機密情報に関わる働きもできる、義元にとって極めて信頼性の高い人物であったことを示唆している。義元が私的な書状で、これほどまでの賛辞を送ったのは、この功績の重要性を何よりも物語っていると言えよう。
これら二通の感状、特に義元自筆の書状は、親綱の軍功だけでなく、義元の家督相続における機密性の高い貢献がいかに高く評価されたかを示すものであり、戦国大名が家臣の功績をどのように評価し、報いたか、また公的な文書と私的な文書をどのように使い分けていたかを示す貴重な事例となっている。親綱の花倉の乱での「大手柄」 8 は、義元からの絶大な信頼と破格の評価に繋がり、その後の今川家中における親綱及び岡部一族、特に息子の元信の地位向上に直接的な影響を与えたと考えられる 10 。
花倉の乱における輝かしい功績により、岡部親綱は今川義元の信頼篤い重臣の一人として、その後の義元体制下においても重要な役割を担ったと考えられる 10 。しかしながら、その具体的な活動を示す史料は、花倉の乱に関するものに比べて格段に少ないのが現状である。
義元は家督相続後、天文6年(1537年)には甲斐の武田信虎の娘(定恵院)を正室に迎え、武田氏と同盟を結んだ(甲駿同盟)。これは結果的に、旧来の盟友であり花倉の乱でも義元を支援した後北条氏との関係を悪化させ、同年に北条軍が駿河国富士郡吉原へ侵攻する「第一次河東一乱」を引き起こした 24 。このような義元体制初期の緊迫した状況下で、花倉の乱で武功を挙げた親綱がどのような軍事的・政治的役割を果たしたのか、具体的な記録は確認されていない。
今川家の家臣団は、瀬名氏や各和氏といった一門衆を筆頭に、朝比奈氏、蒲原氏、関口氏、三浦氏といった宿老級の家臣、そして庵原氏、岡部氏、葛山氏、由比氏といった有力な国人領主たちによって構成されていた 24 。岡部氏は「有力者の一族」 30 あるいは「重臣」 29 として認識されており、花倉の乱での功績を持つ親綱は、その中でも重きをなしていたと推測される。
息子の岡部元信は、天文11年(1542年)に史料上に初見され 10 、天文17年(1548年)の第二次小豆坂の戦いや天文18年(1549年)の安祥城攻めなどで戦功を挙げ、今川家の遠江・三河方面への勢力拡大に大きく貢献していく 9 。元信がこのように今川軍の中核として活躍し始める時期に、父である親綱がどのような立場にあったのか、例えば軍事指揮権を保持していたのか、あるいは既に隠居して元信を後見していたのかなど、その動向については詳らかではない。
花倉の乱での絶大な功績にもかかわらず、その後の親綱の具体的な活動に関する記録が乏しい背景には、いくつかの可能性が考えられる。一つには、彼が軍事の最前線よりも、義元の側近として駿府における内政や領国経営の安定化に寄与していた可能性である。もう一つは、戦国時代の武将が比較的早期に家督を子に譲って隠居する事例も少なくないことから 31 、親綱も功績を背景に元信に家を継がせ、後見的な立場に回っていた可能性である。
また、より根本的な理由として、今川氏に関する史料そのものが、永禄3年(1560年)の桶狭間の戦いにおける義元の討死以降の混乱や、永禄11年(1568年)からの武田信玄による駿河侵攻 33 などによって多く失われたことが挙げられる 3 。特に、親綱のような義元体制初期の功臣に関する記録は、その後の政情不安の中で散逸しやすかったのかもしれない。親綱の没年が永禄5年(1562年)とされることから 1 、彼の活動期間の多くは義元の治世と重なるため、記録の乏しさは彼個人の重要性が低かったというよりは、彼が生きた時代の史料全体の保存状況に起因する可能性が高いと考えられる。
岡部親綱の具体的な人物像を詳細に描き出すことは、現存する史料の制約から困難な面もあるが、断片的な情報からいくつかの側面をうかがい知ることができる。
親綱は通称を「左京進(さきょうのしん)」と称したことが複数の史料で確認できる 1 。これは朝廷の官職名に由来するものであり、岡部氏一族の中で「左京進」を名乗る人物が他にもいた可能性も史料からは示唆されている 13 。
また、親綱は出家して「玄忠(げんちゅう)」と号した 1 。戦国武将が出家することは珍しくなく、その背景には厚い信仰心のみならず、政治的・社会的な理由や、一種のステータスとしての意味合いも含まれていたと考えられる。
岡部親綱(玄忠)の信仰心を示す逸話として、玄忠寺との関わりが伝えられている。浄土宗の僧である存公(そんこう)上人が大永5年(1525年)に岡部玄忠の邸宅に滞在した際、玄忠は存公の法話に深く帰依し、先祖追善のために自らの邸宅を寄進した。そして天文2年(1533年)、存公はこの地に不断念仏の道場を建立し、これを「玄忠寺」と称したとされる 5 。この玄忠寺は、現在の静岡県藤枝市岡部町、あるいは静岡市葵区大鋸町にその法灯を伝えているとされるが 5 、岡部氏の本拠地である岡部との関連が深いと考えられる。
寺号が親綱の法名である「玄忠」に由来することからも、彼の信仰心の篤さや、地域における宗教的なパトロンとしての一面がうかがえる。これは、親綱が単なる武人としてだけでなく、岡部郷における領主として、精神的な支柱となる宗教施設の設立に関与することで、領民の教化や自身の権威付けを図った可能性を示唆している。
岡部親綱は、戦国時代を代表する勇将の一人である岡部元信(通称:五郎兵衛、受領名:丹波守)の父であったことが、多くの史料で一致して示されている 10 。
岡部元信は、永禄3年(1560年)の桶狭間の戦いにおいて、主君・今川義元が織田信長に討たれた後も尾張鳴海城を守り続け、義元の首級と引き換えに城を明け渡したという逸話で知られる忠義の将である 10 。その後、今川氏の没落後は武田信玄に仕え、遠江高天神城の城代として徳川家康軍と激戦を繰り広げ、壮絶な討死を遂げたことでも名高い 10 。
親綱が花倉の乱で築いた今川義元との信頼関係や、岡部家としての確固たる地位は、息子の元信が今川家中で活躍するための重要な基盤となったと考えられる。父の功績と評判は、子のキャリアに有利に働くことが戦国社会では一般的であり、「親綱の子」であるという出自は、元信が今川家臣団の中でその武才を発揮する上で有利な条件であった可能性が高い。親綱の教育や薫陶が、元信の武将としての成長や、主家に対する忠誠心にどのような影響を与えたのか、具体的な記録はないものの、想像を巡らせることは可能であろう。岡部親綱・元信父子の活躍は、戦国時代における「家」の存続と繁栄の一つのあり方を示しており、親の功績が子の代に繋がり、子がさらにそれを発展させるというパターンは、多くの武家に見られるものである。
岡部親綱の没年については、永禄5年(1562年)とする説が有力である 1 。この没年が正しければ、今川氏にとって最大の転換期の一つである桶狭間の戦い(永禄3年/1560年)で主君・今川義元が討死し、今川領国が大きく動揺した時期に亡くなったことになる。
しかし、親綱の晩年の具体的な活動や死因については、史料が極めて乏しく、不明な点が多い。永禄5年という時期の今川氏は、義元の死による求心力の低下、三河における松平元康(後の徳川家康)の自立、そして甲斐の武田信玄や相模の北条氏康との外交関係の変化など、まさに激動の渦中にあった。このような状況下で、かつて義元の家督相続を支えた功臣である親綱がどのような役割を果たしていたのか、あるいは既に家督を元信に譲り一線を退いていたのかは、詳らかではない。
永禄5年(1562年)という没年は、今川氏の勢力にかげりが見え始めた時期であり、親綱のような義元を支えた旧臣の死は、今川氏真政権にとってさらなる人材の喪失を意味した可能性がある。ただし、親綱がこの時期まで政治的・軍事的にどの程度の影響力を持っていたかは不明であるため、これはあくまで可能性としての指摘に留まる。
また、親綱の墓所についても明確な記録は残されていない。岡部氏の菩提寺とされる祝融山萬松院(現在の静岡県藤枝市岡部町子持坂)には、岡部久綱や岡部正綱の墓が存在するが、親綱の墓の存在は確認されていない 14 。前述の玄忠寺との深い関わりから、そちらに墓所が存在する可能性も考えられるが、現在のところ確証はない。
なお、親綱の没年「永禄5年」の出典の信頼性については、より詳細な検討が必要である。一部の史料、例えば『甲斐國志』の記述の信憑性については疑問が呈されており 43 、親綱の没年に関する情報がこれに依存しているのであれば、慎重な扱いが求められる。戦国武将の生没年には異説が多いことは珍しくなく、親綱に関しても、もし確実な没年が不明であれば、その旨を明記し、有力な説をいくつか紹介する形をとるべきであろう。
岡部親綱に関する研究は、その史料的制約から、未だ多くの課題を抱えている。彼の生涯や人物像の全貌を明らかにするためには、今後のさらなる史料の発見と分析が不可欠である。
岡部親綱に関する研究は、現時点では花倉の乱における活躍が中心とならざるを得ない。これは、彼に関する史料がこの特定の出来事に集中しているためであり、それ以外の時期の活動や人物像については、依然として不明な点が多い 8 。特に、今川氏輝の側近としての具体的な動向、花倉の乱後の今川義元体制下での詳細な役割、そして晩年の様子などは、今後の研究によって明らかにされるべき課題である。
また、岡部氏全体の系譜が錯綜しており、その中での親綱の正確な位置づけが困難であることも、親綱個人の研究を進める上での大きな障害となっている 11 。
岡部親綱研究の進展のためには、以下のようなアプローチが考えられる。
岡部親綱の研究は、戦国期における「国衆(くにしゅう)」あるいは有力家臣層の研究の一環として位置づけられる。彼のような人物の生涯を丹念に追うことは、大名中心の歴史観だけでは見えてこない、戦国社会の重層的な構造や地域社会の実態を明らかにする上で重要である。戦国大名の権力は、岡部氏のような国衆・在地領主層の支持と協力によって成り立っていた部分が大きく 30 、親綱が花倉の乱で果たした役割は、まさに国衆の動向が大名の運命を左右する一例と言える。
史料の断片性を乗り越え、岡部親綱の全体像を再構築するためには、個別史料の丁寧な読解に加え、同時代の他の国衆の事例との比較研究や、今川氏の領国経営・家臣団編成に関するマクロな研究成果との突き合わせが不可欠となるだろう。例えば、親綱が受けた恩賞の規模や種類を、他の今川家臣の事例と比較することで、その評価の度合いを相対的に把握できる可能性がある。
岡部親綱は、戦国時代の駿河国において、今川氏の歴史に深く関わった武将である。特に天文5年(1536年)の花倉の乱においては、栴岳承芳(後の今川義元)の家督相続を軍事的・戦略的に支援し、その勝利に決定的な貢献を果たした。義元から送られた二通の感状、とりわけ自筆の書状は、親綱の功績がいかに高く評価されていたかを物語るものであり、彼の存在なくして義元のその後の飛躍はなかったかもしれない。
一方で、その輝かしい功績とは裏腹に、親綱の生涯の多くは史料の霧に包まれている。通称を「左京進」、法名を「玄忠」と称し、浄土宗に帰依して玄忠寺の建立に関わるなど、信仰心も持ち合わせていた側面がうかがえるものの、今川氏輝の側近としての具体的な活動や、花倉の乱後の義元体制下での詳細な役割、そして晩年の様子については、未だ解明されていない点が多い。
しかし、不明な点が多いからといって、その歴史的重要性が薄れるわけではない。岡部親綱は、戦国時代を代表する勇将の一人である岡部元信の父として、その武勇と忠義の精神を育んだ可能性があり、戦国乱世を生き抜き、近世大名として存続した岡部氏の歴史を語る上で、欠かすことのできない人物の一人であると言えよう。
本報告書は、岡部親綱という一人の戦国武将の生涯を、現存する限られた史料から多角的に考察する試みであった。彼の功績と人物像の一端でも明らかにすることができたとすれば幸いである。今後のさらなる史料の発見と研究の進展によって、岡部親綱の実像がより鮮明になる日が来ることを期待して、本報告書の筆を擱くこととしたい。