最終更新日 2025-07-23

岩城宣隆

岩城宣隆は佐竹義重の四男。養家改易後、兄に従い雌伏。岩城家を継ぎ亀田藩主となり、真田信繁娘を妻に藩政基礎を築き89歳で没。

岩城宣隆 ― 激動の時代を駆け抜けた生存と再興の武将

序論:激動の時代を駆け抜けた生存と再興の武将、岩城宣隆

日本の歴史が戦国の乱世から徳川幕藩体制下の近世へと大きく舵を切る激動の時代に、その生涯が時代の変転そのものを体現した一人の武将がいた。その名は岩城宣隆(いわき のぶたか)。常陸の雄・佐竹義重の四男として生まれながら、養子先の改易という挫折を味わい、兄を頼って雌伏の時を過ごした後、予期せぬ形で小藩の主となり、その礎を築き上げた人物である。

彼の生涯は、著名な戦国大名のような華々しい武功や劇的な逸話に彩られているわけではない。しかし、その軌跡を丹念に追うことで、我々は戦国大名家の次男以下が背負った宿命、関ヶ原の戦いを経て勝者と敗者が峻別された近世初期の厳然たる政治力学、そしてその中で如何にして家名を存続させ、新たな秩序の中に確固たる地位を築いていったかという、当時の武家社会が直面した普遍的な課題に対する一つの優れた解答を見出すことができる。

本報告書は、岩城宣隆の出自から、多賀谷宣家としての前半生、久保田藩士としての雌伏、亀田藩主就任の経緯、藩主としての治績、家庭生活、そして歴史的評価に至るまで、彼の生涯を多角的に解明することを目的とする。彼を単なる運に恵まれた武将としてではなく、時代の変化に巧みに対応し、一度は失った大名の地位を再びその手に掴み、一藩の「建設者」として永続の基盤を築き上げた実務家として捉え直す。その波乱に満ちた生涯を徹底的に分析することを通じて、戦国から近世へと移行する時代の武家社会の実像に迫るものである。

第一部:佐竹家四男、多賀谷宣家としての前半生 ― 栄光と挫折

岩城宣隆の人生の第一幕は、「多賀谷宣家」としてのものであった。名門佐竹家に生まれながら、有力国人の養子となり、やがて時代の大きな渦に巻き込まれて最初の大きな転落を経験する。この時期の経験は、彼の後の人生を方向づける原点となった。

1. 常陸の雄・佐竹義重の子として

宣隆は、天正12年(1584年)、常陸国(現在の茨城県)に覇を唱えた戦国大名・佐竹義重の四男として生を受けた 1 。父・義重は、その並外れた武勇から「鬼義重」「坂東太郎」の異名で敵味方から恐れられた猛将であった 2 。母は奥州の雄・伊達晴宗の娘である宝寿院であり、宣隆は当時の関東・奥羽における二大勢力の血を引く、まさに名門の出であった 4 。兄には、佐竹宗家を継承した義宣、会津の蘆名氏を継いだ義広、そして後に陸奥岩城氏を継ぐことになる貞隆らがいた 4

戦国大名家、特に男子の多い家では、次男以下を周辺の有力な国人領主や同盟大名の養子として送り込み、一族の支配力を強化・浸透させる政略が常套手段であった。佐竹義重もまた、婚姻や養子縁組を巧みに用いて勢力を拡大したことで知られており、岩城氏に対しても外祖父の立場から影響力を行使していた 2 。宣隆もこの多分にもれず、若くして下妻城主・多賀谷重経の養嗣子となる 1 。多賀谷氏は佐竹氏の支配下にある有力な国人領主であり、この養子縁組は、佐竹氏による常陸国内の支配体制を盤石にするための戦略的配置であったことは明らかである。その証左に、彼は養子入りに際して長兄であり佐竹宗家の当主である義宣から「宣」の一字を拝領し、「多賀谷宣家(たがや のぶいえ)」と名乗った 1 。これは、彼が多賀谷家に入ってもなお、佐竹宗家との間に強い主従関係と血縁の絆が存在することを示すものであった。

2. 関ヶ原の戦いと改易 ― 最初の転落

多賀谷家の養子として、将来は下妻城主としての安泰な道が約束されているかに見えた宣家の運命は、慶長5年(1600年)に勃発した「天下分け目の戦い」によって暗転する。関ヶ原の戦いにおいて、宗家の佐竹義宣が東西両軍の間で曖昧な態度に終始したことは有名であるが、養父である多賀谷重経はより明確に西軍方としての行動を取った。

史料によれば、重経は会津の上杉景勝討伐に向かう徳川家康が下野国小山に本陣を置いた際、この本陣への夜襲を計画したとされる 6 。この計画は露見し、実行には至らなかったものの、家康に対する明確な敵対行為と見なされた。結果として、関ヶ原の戦いが徳川方の勝利に終わると、多賀谷氏はその咎を問われ、領地をすべて没収される「改易」の処分を受けた 6

この養家の改易は、当時まだ17歳であった宣家自身の直接的な行動に起因するものではなかった。しかし、養子である彼は養家の運命と一蓮托生であり、自らの意思とは無関係に、次期大名という輝かしい地位から一転して、すべてを失い実家である佐竹家に身を寄せる以外にない浪人の身へと転落したのである 1 。この経験は、彼にとって人生最初の、そして最大の挫折であった。もし多賀谷家が存続していれば、彼の人生は下妻の大名として平穏に終わったかもしれない。しかし、この挫折こそが、彼を兄・義宣と共に北国・出羽秋田へと向かわせ、後に全く異なる形で大名へと返り咲くという、数奇な運命の扉を開くことになった。彼の生涯を貫く「失敗からの再起」という主題は、この関ヶ原の戦い後の改易という苦渋の経験から始まっていたのである。

第二部:久保田藩での雌伏と転機 ― 再起への道

改易という挫折を経験した宣家は、実家・佐竹氏の当主である兄・義宣を頼り、新たな人生を歩み始める。関ヶ原の戦いでの態度を咎められ、常陸水戸54万石から出羽秋田20万石へと大減封された佐竹氏に従い、北の大地で雌伏の時を過ごす。この時期は、彼が統治者としての実務能力を培う重要な期間となると同時に、予期せぬ形で人生の大きな転機が訪れる舞台ともなった。


表1:岩城宣隆 略年表

西暦(和暦)

岩城宣隆の動向

日本国内の主要な出来事

1584年(天正12年)

佐竹義重の四男として誕生。後に多賀谷重経の養子となり「多賀谷宣家」と名乗る 1

小牧・長久手の戦い

1598年(慶長3年)

-

豊臣秀吉 死去

1600年(慶長5年)

関ヶ原の戦い後、養家の多賀谷家が改易され、実家に戻る 1

関ヶ原の戦い

1602年(慶長7年)

兄・佐竹義宣の出羽秋田転封に従う 1

佐竹氏、出羽秋田へ転封

1603年(慶長8年)

-

徳川家康、征夷大将軍に就任(江戸幕府開府)

時期不詳

久保田藩重臣となり、仙北白岩城主、後に山本檜山城主(一万石)となる 1

-

1615年(元和元年)

-

大坂夏の陣、豊臣氏滅亡

1623年(元和9年)

-

岩城吉隆、出羽亀田に移封。亀田藩成立 8

1626年(寛永3年)

-

佐竹義宣の養子・義直が廃嫡される 9

1628年(寛永5年)

甥の岩城吉隆が佐竹宗家を継いだため、その跡を継ぎ出羽亀田藩二代藩主となる。「岩城宣隆」に改名 1

-

1628年(寛永5年)頃

真田信繁の娘・お田の方を妻に迎える 10

-

1628年(寛永5年)

長男・重隆が誕生 11

-

1643年(寛永20年)

山形城番を務める 1

-

1656年(明暦2年)

73歳で隠居。家督を子・重隆に譲る 1

-

1657年(明暦3年)

-

明暦の大火

1672年(寛文12年)

89歳で死去 1

-


1. 兄・義宣を支える日々 ― 檜山城代として

慶長7年(1602年)、兄・佐竹義宣は徳川家康から出羽秋田への国替えを命じられた。これは実質的な減封であり、佐竹氏にとっては存亡の危機であった 12 。宣家は、かつての養父・重経と共にこの苦難の転封に従い、兄を支える道を選んだ 1

新天地・秋田において、義宣は旧領主の残党や土着国人衆による一揆など、多くの不安要素に直面した。領国経営を早急に安定させるためには、広大な領内の要衝に絶対的に信頼できる一門の者を配置することが不可欠であった 13 。この義宣の藩政構想の中で、宣家は重要な役割を担うことになる。彼は久保田藩の重臣として取り立てられ、初めは仙北白岩城、後には能代山本地方の中心地である檜山城を与えられ、一万石の知行を領する城代となった 1

檜山は、かつてこの地方に勢力を誇った安東氏の本拠地であり、軍事的・経済的に極めて重要な拠点であった 14 。宣家は、久保田藩の「所預(ところあずかり)」としてこの地を治め、兄・義宣の領国支配を支える北の楔としての役割を果たした 14 。檜山には現在も多賀谷氏の居館跡や家臣屋敷跡が残り、彼がこの地で一定の領域と家臣団を抱える半独立的な領主として統治を行っていたことを物語っている 15 。この檜山城代としての経験は、彼に統治者としての実務能力と見識を涵養させる貴重な機会となった。それは、後に彼自身が一つの藩を運営する上での、かけがえのない素地となったのである。

2. 岩城家相続と亀田藩主への道 ― 運命の転換

宣家が檜山城代として兄を支えていた頃、彼の運命を再び大きく変える出来事が、佐竹宗家と、かつて兄の貞隆が継いだ岩城家で立て続けに起こっていた。

まず、岩城家は関ヶ原の戦いでの西軍寄りの態度を咎められて一度改易されたが、当主であった岩城貞隆(宣家の兄)が、その後の大坂の陣で徳川方として戦功を挙げたことにより、信濃国中村(現在の長野県下高井郡)に一万石を与えられ、大名としての家名再興を許されていた 10 。貞隆の死後、その長男である岩城吉隆が家督を継ぎ、元和8年(1622年)には最上氏の改易に伴い、出羽国由利郡に一万石を加増の上で移封された。こうして、久保田藩の南に隣接する形で、二万石の出羽亀田藩が成立し、吉隆がその初代藩主となったのである 8

一方で、本藩である久保田藩では、藩主・佐竹義宣に実子がおらず、家督相続が大きな課題となっていた。当初、義宣は弟の佐竹義直を養子に迎えて後継者としていたが、寛永3年(1626年)、義直が将軍臨席の場で居眠りをしたなどと些細な理由で義宣の勘気を被り、廃嫡されるという事件が発生した 2

後継者を失った義宣が白羽の矢を立てたのが、亀田藩主となっていた甥の岩城吉隆であった。血縁も近く、すでに大名として実績もある吉隆は、後継者として申し分のない人物であった。義宣の願いは幕府にも聞き入れられ、吉隆は佐竹宗家の養嗣子となり、名を「佐竹義隆」と改めて、後に久保田藩二代藩主となることが決まった 2

この一連の動きは、佐竹宗家の安泰を確保するものであったが、同時に一つの問題を生じさせた。それは、吉隆が去った後の亀田藩二万石の跡を誰が継ぐのか、という問題である。ここで義宣が選んだのが、檜山城代を務めていた実弟の宣家であった。寛永5年(1628年)、宣家は甥である吉隆の跡を継ぐ形で亀田藩の家督を相続し、名を「岩城宣隆」と改め、45歳にして再び大名の座に就いたのである 1

この藩主就任は、宣隆個人の能力や功績が直接評価された結果というよりも、佐竹宗家の家督問題という巨大な政治力学の副産物であった。義宣の狙いは明白であった。甥を後継者に据えることで宗家の未来を安泰にし、その甥が治めていた亀田藩を、最も信頼できる実弟に継がせることで、岩城家を事実上、佐竹家の支配下に置く。これにより、久保田藩の南の守りを固めると同時に、意のままに動かせる衛星藩として掌握しようとしたのである。

事実、一部の史料では宣隆を正式な藩主ではなく、次代の重隆が成長するまでの「番代(つなぎの当主)」として扱っているものもある 18 。これは、本来ならば叔父が甥の跡を継ぐという、儒教的秩序では忌避される相続形式であったため、彼の就任がいかに異例であったかを示唆している。そして、成立当初の亀田藩は、検地や財政決算に至るまで兄・義宣が全面的に掌握・指揮しており、独立した藩というよりは「秋田藩の属領」に近い状態であった 18 。宣隆の初期の役割は、この佐竹宗家による実質的支配を円滑に進めるための、現地における代理人・監督者であった。しかし、この予期せぬ幸運は、彼にとって人生最大の好機となり、彼の後半生は一藩の建設者としての道を歩むこととなる。

第三部:出羽亀田藩二万石の藩主として ― 建設者の時代

亀田藩主となった岩城宣隆は、当初こそ兄・義宣の強い影響下にあったが、次第に一藩の統治者として自立した歩みを見せ始める。藩政の基礎を固め、本藩との間に生じる緊張関係に向き合い、そして家庭では真田家から迎えた妻と共に次代を育てる。彼の治世は、亀田藩が独自のアイデンティティを形成していく上で、決定的に重要な「建設の時代」であった。


表2:岩城宣隆関連 略系図

コード スニペット

graph TD
subgraph 佐竹家
A[佐竹義重] --> B(佐竹義宣<br>長男・久保田藩初代);
A --> C(岩城貞隆<br>三男);
A --> D(岩城宣隆<br>四男・多賀谷宣家);
A --> E(佐竹義直<br>五男・義宣の養子→廃嫡);
end

subgraph 多賀谷家
F[多賀谷重経] -- 養子 --> D;
end

subgraph 岩城家・亀田藩
C --> G(岩城吉隆<br>亀田藩初代);
G -- 宗家相続 --> B;
B -- 養子 --> G;
G -.-> D;
subgraph 凡例
direction LR
Z1(血縁) --> Z2(養子縁組);
Z3(家督相続) -.-> Z4( );
end
D -- 家督相続 --> H(岩城重隆<br>亀田藩三代);
end

subgraph 真田家
I[真田信繁(幸村)] --> J(お田の方<br>顕性院);
end

J -- 婚姻 --> D;
J -- 母 --> H;

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1. 藩政の礎を築く ― 統治者としての実像

亀田藩主となった宣隆は、兄の代理人という立場に安住することはなかった。彼は速やかに、一藩の主として藩政の基礎固めに着手する。その最も重要な政策が「検地」の実施であった 1 。検地は、領内の田畑を測量し、その生産力(石高)を正確に把握する作業であり、近世的な年貢徴収体制を確立し、藩財政の根幹を定める上で不可欠であった。これは、亀田藩が自らの領地を直接的に把握し、独自の財政基盤を確立しようとする意志の表れであり、久保田藩からの経済的・政治的自立に向けた、静かだが重要な第一歩であったと評価できる。

また、宣隆は対外的な大名としての責務も滞りなく果たしている。寛永20年(1643年)、隣接する山形藩の藩主・保科正之が陸奥国会津藩へ転封となった際には、幕府の命令を受け、近隣の戸沢政盛(新庄藩主)や六郷政勝(本荘藩主)と共に、藩主不在となった山形城の城番(一時的な城の管理役)を務めた 1 。これは、彼が単なる名目上の藩主ではなく、幕藩体制の一翼を担う大名として、幕府から公役を任されるだけの信頼と能力を持っていたことを示している。

彼の家臣団は、岩城家が本来抱えていた旧臣、宣隆が多賀谷家から引き連れてきた者、そして久保田藩主である兄・義宣から付けられた者など、多様な出自の者たちで構成されていたと推測される 1 。このような複雑な構成の家臣団をまとめ、藩政を運営していく手腕は、檜山城代としての統治経験に裏打ちされたものであっただろう。彼の治世は、息子の三代藩主・重隆の代に行われた新田開発や城下町整備といった、より積極的な藩政展開の確固たる基盤を築いた 11 。宣隆の地道な統治は、次代の飛躍への布石として、高く評価されるべきである。

2. 本藩・久保田藩との相克 ― 「雄物川一件」の深層

亀田藩の経営が安定していくにつれ、その成立の経緯に起因する本藩・久保田藩との構造的な問題が顕在化してくる。その象徴が、後に「雄物川一件」あるいは「大正寺一件」と呼ばれる紛争である。

久保田藩にとって、領内を流れる雄物川は、内陸部の穀倉地帯で収穫された年貢米や鉱物資源を、河口の土崎湊へと輸送するための経済的大動脈であった 23 。ところがこの雄物川は、ごくわずかな区間ではあるが、両岸とも亀田藩の領地である新波村・向野村(現在の大仙市西仙北地域や秋田市雄和地域)を通過していた 8 。近世の慣習では、川の両岸を同一の領主が支配する場合、その川の通航権を掌握し、通航する船から税(運上)を徴収する権利が認められていた。この権利に基づき、亀田藩は久保田藩の船に対しても課税しようとしたため、両藩の間に激しい対立が生じたのである 18

この問題の直接の火種は、宣隆の治世下、あるいは初代藩主・吉隆の治世下において、久保田藩と亀田藩の間で土地の交換が行われ、その結果として亀田藩が雄物川両岸を領有することになった点にあると伝わっている 24 。この一件は単なる税金争いではない。二万石の小藩である亀田藩にとって、通航税は藩の財政を潤す貴重な自主財源となる。課税の試みは、財政的に本藩に依存する状態から脱却し、経済的な自立性を確保しようとする亀田藩の強い意志の表れであった。

ここに、江戸時代の幕藩体制における「宗家」と「分家(あるいはそれに準ずる家)」の間に潜在する、構造的な緊張関係が見て取れる。久保田藩は、亀田藩を「弟の藩」として、いわば格下の存在と見なし、藩政に介入し続けることでその影響力を保持しようとした 18 。対する亀田藩は、独立した大名としての矜持と権利を主張しようとする。宣隆の藩主就任時に確立された「佐竹宗家の強い影響下にある亀田藩」という体制が、時を経て、藩の自立を求める動きへと転化し、衝突に至ったのである。宣隆自身がこの対立を主導したという記録はないが、彼の治世にその火種が蒔かれ、後の世代で燃え上がることになる両藩の相克の歴史は、この頃から始まっていたと言える。

3. 家庭生活と文化的遺産 ― 真田の血脈と信仰

宣隆の藩主としての生涯において、政治や経済だけでなく、文化的・人間的な側面で特筆すべきは、その家庭生活、特に妻・お田の方(おでんのかた)の存在である。宣隆は、大坂の陣で徳川家康を最後まで苦しめ、悲劇的な最期を遂げた武将・真田信繁(幸村)の五女であるお田の方(法名:顕性院)を妻に迎えた 10 。彼女は豊臣秀次の孫にもあたる高貴な血筋であり、この婚姻は、徳川の世において「敗者」となった武家同士が、血脈と記憶を繋いでいこうとする意志の表れであったとも解釈できる。この縁組には、同じく関ヶ原で苦渋を味わった兄・義宣の同情や計らいがあったとも伝えられている 25

お田の方は、父・信繁や兄・大助をはじめ、大坂の陣で滅亡した豊臣方と真田一族の菩提を弔うため、寛永6年(1629年)、夫の領地である亀田の地に妙慶寺を建立した 26 。宣隆は、幕府の目を憚りながらも妻のこの願いを許し、その建立を支援した。これは、武士としての情義や妻への深い愛情を示した行動であり、彼の人間性を垣間見せる逸話である。妙慶寺には、今なお真田家の家紋である「六文銭」が掲げられ、お田の方が嫁ぐ際に持参したと伝わる甲冑や金蒔絵の衣桁など、真田家ゆかりの貴重な品々が宝物として大切に守り伝えられている 22

妙慶寺の存在は、亀田藩に「佐竹」「岩城」という歴史に加え、「真田」という全国的に著名な武家の物語を組み込み、その歴史に独自の文化的彩りを与えることになった。これは単なる宗教施設に留まらず、亀田藩のアイデンティティを形成する重要な文化的資産となったのである。

そして、この宣隆とお田の方の間に、後に亀田藩三代藩主となる岩城重隆が誕生する 11 。重隆は、新田開発を積極的に進めるなど藩政に大きな功績を残し、後世「名君」として領民から敬愛された 11 。文武両道であったと伝わる母・お田の方 22 と共に、優れた後継者を育て上げたことは、宣隆の藩主としての最大の治績の一つであったと言っても過言ではないだろう。

第四部:晩年と歴史的評価

藩政の基礎を固め、家庭を築き、次代への道を拓いた宣隆は、やがて長い生涯の終着点を迎える。彼の人生を総括することは、戦国から近世への移行期を生きた一人の武将の評価に留まらず、時代の変化そのものを考察することに繋がる。

1. 隠居と安らかな最期

明暦2年(1656年)7月25日、宣隆は73歳にして家督を嫡男の重隆に譲り、隠居の身となった 1 。この時、重隆は29歳であり、藩主としての務めを十分に果たせる年齢に達していた。しばしば家督相続が紛争の火種となったこの時代において、宣隆から重隆への継承が平穏無事に行われたことは、彼の治世下で藩の統治体制が安定し、円滑な権力移譲が可能な状態にあったことを示している。

隠居後、宣隆は16年間の穏やかな余生を過ごし、寛文12年(1672年)、ついにその長い生涯に幕を下ろした。享年89 1 。天正の世に生まれ、織豊政権の成立と崩壊、関ヶ原の戦い、そして徳川幕藩体制の確立と安定期まで、まさに時代の大きな転換点のすべてを見届けた彼の長寿は、その波乱に満ちた人生を象徴しているかのようである。

2. 岩城宣隆という武将の再評価

岩城宣隆の生涯を振り返ると、彼は父・義重や兄・義宣のような、歴史の表舞台で采配を振るい、時代を動かすタイプの武将ではなかったことがわかる。彼の人生は、むしろ時代の激流に翻弄され、耐え忍び、与えられた機会を確実に掴むことで家を再興し、新たな藩の礎を築き上げた、「生存と建設」の物語であった。

  • 出自と挫折: 佐竹義重の四男という名門に生まれながら 1 、養子先の改易によって全てを失うという大きな挫折を経験した 1
  • 雌伏と貢献: 兄・義宣の下で久保田藩の重臣として雌伏の時を過ごし、新領地の安定に貢献することで、統治者としての実務能力を磨いた 1
  • 再起と建設: 佐竹宗家の家督問題という政治力学の中で、幸運にも亀田藩主となる機会を得ると 2 、検地の実施や幕府からの公役遂行を通じて、藩政の基礎を着実に固めた 1
  • 自立と人間性: 本藩との間に潜在する緊張関係の火種を抱えつつも、藩の自立への道を拓き 24 、家庭では真田信繁の娘を妻として迎え、その信仰と記憶の継承を支える人間味あふれる側面も見せた 11
  • 継承: そして何よりも、名君と評される息子・重隆を育て上げ、自らが創始した亀田岩城家の永続的な基盤を確立した 22

これらの事実を総合すると、岩城宣隆は、戦国的な価値観(武勇や領土拡大)から、近世的な価値観(安定した統治と家名の存続)への移行期を象徴する人物として再評価されるべきである。彼の最大の功績は、自らが戦場で武名を轟かせることではなく、政治の荒波の中で滅びることなく生き残り、一度は失った家を「岩城家」として再興し、その家が明治維新まで続く盤石な藩を創始した点にある。彼は、派手さはないが、堅実な建設者であった。

結論

岩城宣隆の89年の生涯は、戦国大名の四男という出自から始まり、養子、改易、兄への臣従、そして予期せぬ形での藩主就任と、まさに波乱万丈であった。しかし、彼は単に運が良かっただけの武将ではない。改易という挫折を乗り越え、兄の下で統治の術を学び、巡ってきた好機を逃さず、与えられた環境の中で着実に藩政の基礎を固めた、有能かつ堅実な実務家であり、建設者であった。

彼の人生は、個人の武勇や才覚だけではどうにもならない時代の大きな変化の中で、武家が如何にして政治の力学を読み解き、家名を存続させ、新たな秩序の中に自らの場所を確保していくかという、江戸初期の多くの大名が直面した課題に対する、一つの優れた解答例を示している。

宣隆が遺した出羽亀田藩二万石と、そこに根付く真田家由来の文化は、彼の波乱に満ちた生涯が結実した、今日にまで伝わる貴重な歴史的遺産である。彼は、歴史の表舞台で輝く英雄ではなかったかもしれないが、激動の時代を生き抜き、次代へと確かな礎を築き渡した、真の「生存者」として記憶されるべき人物である。

引用文献

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  3. 佐竹義重 (十八代当主) - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BD%90%E7%AB%B9%E7%BE%A9%E9%87%8D_(%E5%8D%81%E5%85%AB%E4%BB%A3%E5%BD%93%E4%B8%BB)
  4. 佐竹義重の家臣 - 歴史の目的をめぐって https://rekimoku.xsrv.jp/2-zinbutu-11-satake-yoshishige-kashin.html
  5. 佐竹義重 - 名刀幻想辞典 https://meitou.info/index.php/%E4%BD%90%E7%AB%B9%E7%BE%A9%E9%87%8D
  6. 多賀谷氏 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%9A%E8%B3%80%E8%B0%B7%E6%B0%8F
  7. 武家家伝_多賀谷氏 - harimaya.com http://www2.harimaya.com/sengoku/html/tagaya_k.html
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  9. 岩城貞隆 | 信長のWiki https://www.nobuwiki.org/tag/%E5%B2%A9%E5%9F%8E%E8%B2%9E%E9%9A%86
  10. 【ローカル武将研究】 秋田を統治していた岩城氏、六郷氏、打越氏とは? 「由利本荘市 入部400年!」 - 草の実堂 https://kusanomido.com/study/history/japan/72826/
  11. 岩城重隆 (亀田藩主) - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B2%A9%E5%9F%8E%E9%87%8D%E9%9A%86_(%E4%BA%80%E7%94%B0%E8%97%A9%E4%B8%BB)
  12. 秋田藩(あきたはん)とは? 意味や使い方 - コトバンク https://kotobank.jp/word/%E7%A7%8B%E7%94%B0%E8%97%A9-24569
  13. 久保田藩 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B9%85%E4%BF%9D%E7%94%B0%E8%97%A9
  14. 檜山城跡 - 能代市 https://www.city.noshiro.lg.jp/res/kanko/views/shiseki/967
  15. 多賀谷居館跡 | 秋田のがんばる集落応援サイト あきた元気ムラ https://common3.pref.akita.lg.jp/genkimura/archive/contents-197/
  16. 能代市檜山 | 秋田のがんばる集落応援サイト あきた元気ムラ https://common3.pref.akita.lg.jp/genkimura/genre/yamamoto/hiyama/
  17. 亀田藩(かめだはん)とは? 意味や使い方 - コトバンク https://kotobank.jp/word/%E4%BA%80%E7%94%B0%E8%97%A9-46833
  18. 亀田藩 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BA%80%E7%94%B0%E8%97%A9
  19. 出羽 亀田陣屋-城郭放浪記 https://www.hb.pei.jp/shiro/dewa/kameda-jinya/
  20. 亀田の歴史(抜粋) - 映音システム https://vas-2.sakura.ne.jp/R02-2-rekisi-bassui.htm
  21. 成立期亀田藩と本多正純の大沢郷について - 秋田大学学術情報 ... https://air.repo.nii.ac.jp/record/2000483/files/akishi68(3).pdf
  22. 亀田藩、400年の歴史に触れる - 世界日報DIGITAL https://www.worldtimes.co.jp/japan/20230715-172759/
  23. 亀田の歴史 https://vas-2.sakura.ne.jp/R02-kameda_rekisi.htm
  24. 雄物川一件 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%9B%84%E7%89%A9%E5%B7%9D%E4%B8%80%E4%BB%B6
  25. 真田幸村の娘「お田の方」が嫁いだのは、伊達政宗の縁によるものかどうか? | レファレンス協同データベース https://crd.ndl.go.jp/reference/entry/index.php?id=1000226509&page=ref_view
  26. 妙慶寺 - 由利本荘市観光協会 https://yurihonjo-kanko.jp/yrdb/myokeiji/
  27. 秋田や福井に真田家ゆかりの寺院がある理由 - 歴史人 https://www.rekishijin.com/14614
  28. 妙慶寺|由利本荘市公式ウェブサイト https://www.city.yurihonjo.lg.jp/shisetsu/1002012/1002039/1003956.html
  29. 妙慶寺 | 子供とお出かけ情報「いこーよ」 https://iko-yo.net/facilities/59346