本報告では、戦国時代に陸奥国を拠点として活動した武将、岩城重隆(いわき しげたか、生年不明 - 永禄12年6月14日(1569年7月27日))について、現存する史料に基づき詳細に解説する 1 。岩城重隆は、陸奥国大館城主として、伊達氏の内訌である天文の乱において伊達晴宗方に与力し、また娘の久保姫を晴宗に嫁がせるなど、当時の奥州における勢力図に大きな影響を及ぼした人物である 1 。
本報告の目的は、岩城重隆の生涯、特にその出自、家族構成、政治的・軍事的活動、周辺勢力との複雑な関係、そして文化的な側面や中央との関わりなどを多角的に掘り下げ、その実像に迫ることにある。当時の奥州は、伊達氏、蘆名氏、佐竹氏、相馬氏といった有力大名が割拠し、互いに勢力拡大を目指して鎬を削る、まさに群雄割拠の時代であった。そのような中で、岩城氏という一家を率いた重隆の動向は、地域の歴史を理解する上で重要な意味を持つ。
本報告で対象とする岩城重隆は、江戸時代初期に出羽亀田藩主となった岩城重隆(寛永5年(1628年)生 - 宝永4年(1707年)没)とは全くの別人である点に留意が必要である 1 。亀田藩主の岩城重隆は、父を岩城宣隆、母を真田信繁(幸村)の五女である顕性院とする人物であり、その活躍した時代も系譜も、本報告で扱う戦国期の岩城重隆とは明確に異なる 3 。両者を混同することなく、戦国武将としての岩城重隆(1569年没)に焦点を絞って論を進める。
理解を助けるため、まず本報告で対象とする岩城重隆の基本的な情報を以下の表にまとめる。
表1:岩城重隆(1569年没)略歴表
項目 |
内容 |
主な典拠 |
氏名 |
岩城 重隆(いわき しげたか) |
|
別名 |
二郎、二郎太郎 |
1 |
生年 |
不明 |
1 |
没年 |
永禄12年6月14日(1569年7月27日) |
1 |
官位 |
従五位下・左京大夫 |
1 |
父 |
岩城 由隆(いわき よしたか) |
1 |
母 |
佐竹義舜の娘 |
1 |
正室 |
江戸但馬守の娘 |
1 |
主な子女 |
久保姫(伊達晴宗正室)、宮山玉芳(佐竹義昭正室) |
1 |
養子 |
岩城 親隆(伊達晴宗長男) |
1 |
居城 |
陸奥国 大館城(飯野平城) |
1 (ユーザー情報も参照) |
この表は、本報告を通じて論じられる岩城重隆の基本的な人物像を把握するための一助となるであろう。
岩城氏は、桓武平氏の流れを汲むとされ、平国香の子孫である則道が岩城郡に土着し、岩城次郎大夫と称したのがその始まりと伝えられている 6 。平安時代末期から鎌倉時代、南北朝時代を経て、室町時代に至るまで、陸奥国南部の浜通り地方(現在の福島県浜通り地方)を中心に勢力を有した国人領主であった。戦国時代に入ると、周辺の伊達氏、佐竹氏、相馬氏、蘆名氏といった有力大名との間で、同盟や対立を繰り返しながら、その勢力維持に努めた 7 。岩城氏の主な居城は、現在のいわき市にあった大館城(おおだてじょう)、別名飯野平城(いいのひらじょう)であった 5 。この城を拠点として、岩城氏は戦国時代の奥州における重要なプレーヤーの一角を占めていた。
岩城重隆は、岩城氏の当主であった岩城由隆(よしたか)の次男として生まれた 1 。彼には成隆(なりたか、政隆とも記される)という兄がいた。当時の岩城氏における家督相続の具体的な経緯は、史料が乏しく不明瞭な点が多いものの、由隆の死後はまず兄の成隆が家督を継いだと考えられている 1 。
重隆自身は、当初は岩城宗家から分家し、白土(しらど)姓を名乗っていたという記録がある 1 。これは、彼が嫡流ではなく、庶子としての立場にあったことを示唆している。戦国時代の武家において、次男以下の子が分家して別の姓を名乗ることは珍しくなく、重隆もそうした道を歩んでいた可能性がある。彼の家督相続が必ずしも当初から予定されていたものではなかったことは、戦国期の家督継承の流動性を示す一例と言えるだろう。
兄の成隆は、常陸国(現在の茨城県)の有力国人であった常陸江戸氏と結びつき、南隣する佐竹氏に対して軍事的な圧力をかけ、常陸国への勢力拡大を試みた。しかし、この試みは成功せず、成隆は時期こそ不明ながら、まもなく死去したとされている 1 。成隆の死を受けて、弟である重隆が岩城氏の家督を相続することになった。
兄・成隆の対佐竹強硬策が失敗したという事実は、重隆が当主となった後の外交政策に影響を与えた可能性がある。重隆の母は佐竹氏の出身であり 1 、彼自身も後に佐竹氏が関わる和平の仲介を行っていることから 1 、成隆の失敗を教訓とし、佐竹氏に対してはより柔軟な、あるいは協調的な外交姿勢を取った可能性が考えられる。これは、単に個人的な感情だけでなく、岩城氏の存続と勢力維持のための現実的な判断であったろう。
岩城重隆の父は岩城由隆、母は常陸国の有力大名であった佐竹義舜(さたけ よしきよ)の娘である 1 。この母方の血縁は、重隆の生涯を通じて佐竹氏との関係に大きな影響を与えた。佐竹氏は当時、関東から南奥州にかけて広大な影響力を持つ一族であり、その娘を母に持つということは、重隆にとって政治的にも外交的にも重要な意味を持っていた。それは、佐竹氏との間に潜在的な同盟関係や支援を期待できる一方で、佐竹氏の意向を無視できないという制約にもなり得た。
重隆の兄弟としては、前述の兄・成隆のほかに、「二郎」という名の兄弟、姉妹として好間(現在のいわき市好間町か)の熊野社に嫁いだ女性、窪田山城守に嫁いだ女性がいたことが記録されている 1 。また、那須氏の那須高資(なす たかすけ)の養子となった那須隆直(なす たかなお)も兄弟として名を連ねている 1 。これらの婚姻関係は、岩城氏が周辺の国人領主や有力社寺といかなる関係を構築しようとしていたかを示唆するものである。
重隆の正室は、江戸但馬守(えど たじまのかみ)の娘であった 1 。江戸氏は常陸国水戸城(現在の茨城県水戸市)などを拠点とした有力な国人領主であり 10 、この婚姻は岩城氏にとって常陸方面における重要な同盟関係を意味した。兄の成隆も江戸氏と結んでいたことから 1 、重隆の代においても江戸氏との連携を継続する戦略的意図があったと考えられる。これは、南からの脅威に備える、あるいは常陸方面への影響力を保持するための布石であった可能性が高い。
重隆には少なくとも二人の娘がいたことが確認されている。
長女は久保姫(くぼひめ、大永元年(1521年)生 - 文禄3年6月9日(1594年7月26日)没)である 11。彼女は伊達稙宗(だて たねむね)の嫡男である伊達晴宗(だて はるむね)の正室となった 1。久保姫は「奥州一の美少女」と評されるほどの評判で、その嫁ぎ先を巡っては、父である重隆が伊達氏や相馬氏と対立し、軍事的な紛争にまで発展したと伝えられている 1。最終的に、天文10年(1541年)頃に伊達晴宗の許へ嫁いだ 11。この婚姻は、後に勃発する伊達氏の内訌「天文の乱」において、重隆が晴宗方に与する決定的な要因となった。
次女は宮山玉芳(みややま たまよし、あるいは単に佐竹義昭室とも)といい、佐竹義篤(さたけ よしあつ)の子である佐竹義昭(さたけ よしあき)の正室となった 1 。佐竹義昭は、常陸佐竹氏の勢力を大きく伸張させた人物である。
重隆が長女を伊達氏の次期当主に、次女を佐竹氏の次期当主(あるいは当主)に嫁がせたという事実は、彼が当時の奥州における二大勢力である伊達氏と佐竹氏の双方と姻戚関係を結ぶことで、岩城氏の立場を安定させようとした巧みな婚姻政策を展開していたことを示している。これは、小勢力である岩城氏が、強大な隣国との間でバランスを取りながら生き残りを図るための、典型的な戦国時代の外交戦略であったと言える。ただし、このような二股的な婚姻政策は、両勢力が対立した場合には、どちらか一方の選択を迫られる危険性も孕んでいた。
岩城重隆には実子としての男子の記録が乏しく、家督は養子が継承した。その養子が岩城親隆(いわき ちかたか、生年不明 - 文禄3年7月10日(1594年8月25日)没)である 4 。親隆は、伊達晴宗と久保姫の間に生まれた長男であり、重隆にとっては外孫にあたる 2 。
久保姫が伊達晴宗に嫁ぐ際に、二人の間に生まれた子を岩城氏の養子として迎え、家督を継承させることが約束されていたと伝えられている 11 。この約束に基づき、親隆は岩城氏の養嗣子となり、重隆の死後、岩城氏第16代当主となった。この養子縁組は、岩城氏の血統こそ変わるものの、伊達氏という強力な後ろ盾を得ることで家の存続を図るという、戦国時代によく見られた戦略であった。一方で、これは岩城氏が伊達氏の強い影響下に組み込まれることを意味し、その後の岩城氏の運命を大きく左右することになる。
天文11年(1542年)、伊達氏の第14代当主・伊達稙宗とその嫡男・晴宗の間で家督や領国経営の方針を巡る対立が表面化し、奥州の諸大名・国人を巻き込む大規模な内乱「天文の乱」が勃発した 14 。この未曾有の内乱において、岩城重隆は一貫して娘婿である伊達晴宗の側に立って参戦した 1 。
重隆が晴宗方に与した最大の理由は、言うまでもなく長女・久保姫が晴宗の正室であったことである 2 。久保姫は天文の乱が勃発する前年、天文10年(1541年)頃に晴宗に嫁いでいた 11 。さらに重要なのは、この婚姻の際に、晴宗と久保姫の間に生まれた子(後の岩城親隆)を岩城氏の養子として迎え、家督を継がせるという約束が交わされていたことである 1 。この約束は、岩城氏の後継者問題と伊達氏との関係を不可分に結びつけるものであり、重隆にとって晴宗の勝利は自家の将来にも直結する死活問題であった。このため、重隆は天文の乱において晴宗方の中核的な戦力として積極的に行動した。
天文の乱において、岩城重隆は晴宗方として数々の軍事行動に参加している。
天文12年(1543年)、重隆は伊達稙宗方についた伊達郡懸田城(福島県伊達市)の城主・懸田俊宗(かけだ としむね、稙宗の義弟)を攻撃した 1。これは、晴宗方の勢力拡大と稙宗方への圧力を目的としたものであった。
天文15年(1546年)、稙宗方の二本松義氏(畠山義氏)が、晴宗方であった二本松氏庶流の本宮宗頼(もとみや むねより)が守る本宮城(福島県本宮市)を攻め落とした際、敗れて逃亡した本宮宗頼を重隆は保護している 1 。これは、晴宗方の勢力維持と、味方に対する支援の姿勢を示すものであり、重隆が単なる軍事力提供者ではなく、晴宗方連合における重要な役割を担っていたことを示唆する。彼の行動は、同盟内での信頼関係を構築し、結束を固める上で意義があったと言える。
さらに、天文16年(1547年)6月には、伊達晴宗の要請を受け、同じく晴宗方に転じていた会津の蘆名盛氏(あしな もりうじ)と共に安積口(あさかぐち、現在の福島県郡山市周辺)へ出兵した 1 。これは、稙宗方の田村氏などに対する大規模な軍事行動であったと考えられる。同年10月には、稙宗方の有力な同盟者であった相馬顕胤(そうま あきたね)を攻撃し 1 、翌天文17年(1548年)3月には、同じく稙宗方の中核であった田村隆顕(たむら たかあき)を攻撃している 1 。
これらの積極的な軍事行動と戦功により、岩城重隆は伊達晴宗から、蘆名盛氏と共にその勇戦ぶりを賞賛されたと記録されている 1 。これは、重隆が天文の乱における晴宗方の勝利に大きく貢献したことを物語っている。
天文の乱は、伊達氏内部の争いというだけでなく、奥州の主要な戦国大名がそれぞれの思惑でいずれかの陣営に加担したため、極めて複雑な様相を呈した。岩城重隆も、これらの勢力と深く関わることになった。
岩城重隆の時代、岩城氏は伊達氏、佐竹氏、相馬氏といったより強大な勢力に囲まれており、巧みな外交と婚姻政策がその存亡を左右する重要な要素であった。
岩城重隆の外交政策の中で最も顕著なのは、伊達氏との関係である。長女・久保姫を伊達晴宗の正室として嫁がせ、さらにその間に生まれた長男・親隆(重隆の外孫)を自らの養子として岩城家の後継者としたことは、両家を極めて強固な姻戚関係で結びつけるものであった 2 。天文の乱において、重隆が一貫して晴宗を支持し、軍事的に貢献したことは、この強固な同盟関係の現れである。この関係は、岩城氏にとって伊達氏という強力な後ろ盾を得ることを意味したが、同時に伊達氏の意向に大きく左右される立場にも置かれることになった。
常陸国の佐竹氏との関係は、伊達氏との関係とは異なり、より複雑な様相を呈していた。重隆の母は佐竹義舜の娘であり、さらに重隆の次女・宮山玉芳は佐竹義篤の子である佐竹義昭の正室となっていた 1 。これにより、岩城氏と佐竹氏は二重の姻戚関係にあったことになる。
この血縁関係を背景に、重隆は佐竹氏との間で協調的な外交を展開することもあった。天文16年(1547年)には、佐竹義昭と常陸江戸氏の江戸忠通との間の和平を執り成した記録がある 1 。これは、重隆が佐竹氏に対して一定の影響力を行使できる立場にあったこと、あるいは両者の間に立つ調停役として信頼されていたことを示唆している。彼の母方および娘の嫁ぎ先という双方の血縁関係が、このような外交的役割を可能にしたと考えられる。複雑な姻戚関係を巧みに利用し、地域の安定に寄与しようとした重隆の外交手腕の一端がうかがえる。
一方で、ユーザーの初期情報には「佐竹義篤としばしば争った」という記述がある。佐竹義篤は重隆の義理の兄弟(母の兄弟)であり、かつ娘の舅にあたる人物である。提供された史料の中では、重隆自身が義篤と直接的に軍事衝突を繰り返したという明確な記録は見当たらない。ただし、重隆の兄・成隆が佐竹氏に軍事的圧力をかけようとして失敗した経緯があり 1 、岩城氏と佐竹氏の間には緊張関係が存在した時期もあったことは確かである。重隆の代における佐竹義篤との具体的な抗争の有無やその詳細については、本調査で参照した史料からは確認が難しく、今後の研究課題となる可能性がある。
しかしながら、重隆の死に際して、佐竹義昭の子である佐竹義重(つまり重隆の次女の義理の甥、あるいは立場によっては孫婿に近い関係)が「岩城重隆遠行(死去の婉曲表現)につき」という書状を送っている事実が確認されており 15 、両家の間には最後まで一定の公式な関係が維持されていたことがわかる。
相馬氏との関係は、伊達氏や佐竹氏とは対照的に、一貫して対立的であった。前述の通り、久保姫の縁談を巡って軍事紛争寸前に至ったこと 1 、天文の乱においては敵対陣営として直接的な軍事衝突を繰り返したこと 1 、そして天文17年(1548年)には重隆が相馬領へ侵攻したこと 7 など、両氏の間には根深い対立が存在した。これは、地理的に隣接し、領土や勢力圏を巡って競合する関係にあったことが大きな要因と考えられる。
岩城重隆は、その生涯を通じて陸奥国大館城(現在の福島県いわき市)の城主であった 1 。この大館城は、飯野平城とも呼ばれている 5 。飯野平城は、重隆の先祖にあたる岩城常隆が文明15年(1483年)に飯野村に築城したとされ、以来、岩城氏の政治・経済の中心地として機能してきた 5 。重隆の時代においても、この城が岩城氏の本拠地であったことは間違いない。
提供された情報からは、大館城の具体的な構造、例えば天守閣の有無や堀の配置、曲輪の数などに関する詳細までは判明しないが、平市街の西に位置し、比高約70メートルの丘陵を利用した山城であったとされている 9 。このような立地は、防御に適し、領内を見渡せる戦略的な拠点であったことをうかがわせる。
岩城重隆は、戦国大名として、その領国内の土地や人民に対する一円的な支配(一元的な支配)を目指し、家臣団を組織して領土の維持と、機会があればその拡大を図ったと考えられる 16 。彼の行った周辺大名との婚姻政策、同盟の締結、そして時には軍事衝突といった外交・軍事活動は、まさに戦国時代の領主が自らの領国を経営し、激動の時代を生き抜くための典型的な方策であった。
しかしながら、重隆個人が行った具体的な領国経営策、例えば検地の実施、楽市楽座のような経済政策、あるいは治水事業といった内政に関する記録は、提供された史料の中には具体的に見当たらない。これは、当時の地方領主に関する記録が、しばしば対外的な軍事・外交活動に偏りがちであること、あるいは岩城氏に関する内政史料が散逸している可能性を示唆する。ただし、戦国大名一般の傾向として、国力を充実させ軍事力を強化する「富国強兵」策が意識されていたことは想像に難くなく 17 、重隆もまた、限られた資源の中で領国経営に腐心したであろう。彼の活動記録が軍事・外交に集中しているのは、それが当時の岩城氏にとって最も喫緊の課題であったことの裏返しとも言える。
ユーザーの初期情報には、岩城重隆が「和歌をよくした」という記述があった。戦国時代の武将の中には、武勇だけでなく、和歌や連歌などの文化的素養を持つ者も少なくなかった 18 。
しかしながら、本調査で参照した研究史料( 18 など)を詳細に検討した結果、本報告の対象である岩城重隆(1569年没)が特に和歌に長けていたことを直接的かつ具体的に示す記述や、彼が詠んだとされる作品例は見当たらなかった。これらの史料は、他の武将(例えば伊達政宗や直江兼続など)の和歌や文化的逸話、あるいは和歌一般に関するものであり、岩城重隆(1569年没)個人に結びつくものではなかった。
したがって、重隆が和歌を嗜んだという点については、本調査の範囲内で利用可能な史料からは確認できなかった。この情報は、他の史料群や、岩城氏に関する後世の伝承、あるいは同名の別人物に関する情報に由来するものである可能性が考えられる。
岩城重隆は、天文10年(1541年)に上洛し、朝廷から従五位下・左京大夫(さきょうのだいぶ)の官位に叙位・任官されたという記録がある 1 。この時期、室町幕府の権威は失墜しつつあったが、朝廷の権威は依然として地方の武将たちにとって無視できないものであった。
戦国大名が上洛して官位を得ることは、いくつかの意味を持っていた。第一に、自らの支配の正当性を高め、箔をつけるという目的があった。中央の権威から公認されることで、領国内の家臣や民衆、さらには周辺の他の大名に対して、自らの地位を誇示することができたのである 16 。第二に、官位は外交儀礼上の序列にも影響を与えるため、他の大名との交渉を有利に進めるための一助ともなり得た。重隆が上洛し官位を得たのは、まさにこうした戦国武将特有の行動様式に則ったものであり、彼が中央の権威を意識し、それを自らの領国経営や対外関係に利用しようとしていたことを示している。この行動は、彼が単なる一地方の武力勢力に留まらず、より広範な政治的視野を持っていた可能性を示唆する。
岩城重隆は、永禄12年6月14日(西暦1569年7月27日)に死去した 1 。その死因に関する具体的な記録は、提供された史料の中には見られない。戦国時代の武将の死因としては、病死、戦死、暗殺など様々であるが、重隆の場合、この時期に大規模な合戦に参加した記録が直ちには見当たらないため、病死であった可能性も考えられるが、断定はできない。
彼の法名は明徹(みょうてつ)、戒名は月山明徹庵主(げつざんみょうてつあんじゅ)または月窓明円(げっそうめいえん)と伝えられている 1 。
岩城重隆の死に関連して興味深い史料が存在する。それは、茨城県立歴史館が所蔵する「佐竹義重書状写〔岩城重隆遠行につき〕」という文書である 15 。この書状は、年記こそ不明なものの、6月23日付で、佐竹義重から赤坂宮内太輔(あかさか くないたいふ、佐竹氏の家臣か)に宛てて出されたものである。
岩城重隆の没年が永禄12年(1569年)6月14日であることを考慮すると、この書状の日付である6月23日は、重隆の死のわずか9日後ということになる。古文書において「遠行(えんこう)」という言葉は、文字通り「遠方への旅立ち」を意味する場合もあるが、特に高貴な人物や目上の人物の「死去」を婉曲的に表現する言葉としても用いられることがあった。
この佐竹義重の書状における「岩城重隆遠行につき」という文言は、その日付の近さから考えて、重隆の死去を指している可能性が極めて高い。つまり、この書状は、岩城重隆の死に関する通知、あるいはそれに伴う弔問、後継者問題、領国の情勢など、何らかの事後処理について佐竹氏内部で連絡を取り合った際のものであると考えられる。佐竹義重は、重隆の次女・宮山玉芳が嫁いだ佐竹義昭の子であり、重隆とは姻戚関係にあった。この書状の存在は、岩城氏と佐竹氏の間で、当主の死という重大事態に際しても、密な連絡が取り交わされていたことを示しており、両家の関係の深さを物語るものと言える。
岩城重隆は、戦国時代の陸奥国にあって、岩城氏という国人領主の家を率い、激動の時代を巧みに生き抜いた武将であった。彼の生涯は、婚姻政策、外交、そして時には直接的な軍事力の行使という、戦国武将に典型的な手段を駆使して、自家の存続と勢力維持を図った軌跡として総括できる。
特筆すべきは、伊達氏との間に結ばれた強固な同盟関係である。長女・久保姫を伊達晴宗に嫁がせ、その子・親隆を養子に迎えたことは、天文の乱における重隆の立場を明確にし、南奥州の勢力図に少なからぬ影響を与えた。この選択は、岩城氏の短期的な安全保障に貢献した一方で、長期的には伊達氏の強い影響下に組み込まれる結果をもたらした。
また、佐竹氏とは、母方の血縁と娘の嫁ぎ先という二重の姻戚関係を持ち、時には両者の和平の仲介役を務めるなど、多面的な外交手腕を発揮した。これは、強大な隣国との間で巧みにバランスを取りながら、自家の立場を確保しようとした彼の現実的な判断力を示すものである。
彼の死後、養子である岩城親隆(伊達晴宗の子)が家督を継承したことは、岩城氏の歴史における一つの転換点であった。これにより、岩城氏は名実ともに伊達氏の影響を強く受ける体制へと移行し、その後の運命は伊達氏の動向と深く結びつくことになった。
本報告で参照した史料からは、重隆の具体的な領国経営の内容や、ユーザー情報にあった和歌などの文化的な側面については、残念ながら詳らかにすることができなかった部分もある。しかし、天文の乱という奥州全体を揺るがした大事件における彼の役割や、周辺勢力との複雑な関係性は、戦国時代中期の南奥州における一国人領主の実像を理解する上で、岩城重隆が極めて重要な研究対象であることを示している。彼の生涯は、小勢力が大勢力の間でいかにして生き残りを図ったかという、戦国時代の普遍的なテーマを体現していると言えるだろう。
表2:岩城重隆関連年表
和暦 |
西暦 |
主要事項 |
関連史料 |
大永元年 |
1521年 |
長女・久保姫 誕生。 |
11 |
天文10年 |
1541年 |
岩城重隆、上洛し従五位下・左京大夫に叙任さる。この頃、久保姫が伊達晴宗に嫁す(推定)。 |
1 |
天文11年 |
1542年 |
伊達氏の内訌「天文の乱」勃発。重隆、伊達晴宗方に属す。 |
1 |
天文12年 |
1543年 |
重隆、稙宗方の懸田俊宗を攻撃。 |
1 |
天文15年 |
1546年 |
重隆、稙宗方に敗れた本宮宗頼を保護。 |
1 |
天文16年 |
1547年 |
6月、重隆、晴宗の要請で蘆名盛氏と共に安積口に出兵。同年、佐竹義昭と江戸忠通の和平を仲介。10月、稙宗方の相馬顕胤を攻撃。 |
1 |
天文17年 |
1548年 |
3月、重隆、稙宗方の田村隆顕を攻撃。同年、白河結城氏を背景に相馬領へ侵攻。 |
1 |
時期不明 |
時期不明 |
伊達晴宗と久保姫の長男・親隆(後の岩城親隆)が重隆の養子となる(天文の乱終結(1548年)以降、重隆の晩年までの間か)。 |
1 |
永禄12年 |
1569年 |
6月14日、岩城重隆 死去。法名:明徹。戒名:月山明徹庵主/月窓明円。 |
1 |
永禄12年 |
1569年 |
6月23日、佐竹義重が家臣の赤坂宮内太輔に対し、岩城重隆の「遠行」(死去)に関する書状を送る。 |
15 |
本報告書の作成にあたり参照した史料IDは以下の通りである。
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